2017年9月4日

Radiophonie 読解 (3) 主体の分裂

主体の分裂


« Seul le discours qui se définit du tour que lui donne l’analyste, manifeste le sujet comme autre, soit lui remet la clef de sa division »[四つの言説のうちで,分析家が言説に与える回転によって規定される言説のみが,主体を他 a として明示する すなわち,主体にその分裂の鍵を手渡す](Autres écrits, p.411).

「分析家が言説に与える回転によって規定される言説」は,分析家の言説のことです:


分析家の言説において,主体は autre として現れている つまり,左上の代理者の座に位置する a は,主体の否定存在論的構造を代表しています.そして,a は「主体の分裂の鍵」である.どういうことでしょうか?

「主体の分裂」は,Lacan の教えの最重要概念のひとつです.主体は,主体ならざる他と主体自身とへ分裂している.その事態は,aliénation[異状]と呼ばれます.Hegel においては,Entäußerung または Entfremdung. 伝統的には「疎外」と訳されてきました.

« L’aliénation réside dans la division du sujet »[異状は,主体の分裂に存する](Écrits, p.841). そして,主体の分裂は « division entre le savoir et la vérité »[知と真理との間の分裂](ibid., p.856) である.

この「知と真理との間の分裂」という表現は,『精神の現象学』の Vorrede の一節から採られたものです.そこにおいて Hegel は,精神の現象学の過程の終結を「精神が自身の Dasein を自身の Wesen と等しくした」ことを以て規定し,そして,そのとき « die Trennnung des Wissens und der Wahrheit ist überwunden »[知と真理との分離は克服されている]と述べています.

ただし,その場合の「真理」は,解脱実存的な主体の 存在 のことであって,四つの言説の構造における左下の座としての真理のことではありません.

かくして,異状の構造は,このように図示され得ます:


そして,異状の構造は大学の言説の構造であることが,わかります:


Galileo Galilei 以来,我々は「科学の時代」にいます.Lacan の表現で言うなら,我々は科学の言説 [ le discours de la science ] のなかに住んでいます.そして,その意味における科学の言説の構造を特徴づけるのが,「知と真理との間の分裂」ないし「知と真理との分離」です.そのような分裂が最終的に克服されることを神は欲している,という神学的な想定が,『精神の現象学』の dialektisch な動きを支えています.それに対して,Lacan は,知と真理との間の分裂としての主体の分裂が「克服」されることになる,とは想定しません.むしろ,主体の分裂がそのものとして S(Ⱥ) により支えられるようになることに,精神分析の終結は存します.

ともあれ,科学の言説の構造は,近現代の世界の存在論的構造を成しています.精神分析の外において,一般的に世界の存在論的構造が思念されるとき,それは,基本的に言って,科学の言説の構造であり,言い換えると,aliénation の構造としての大学の言説の構造です.

ただし,Foucault l’âge classique と呼ぶ17-18世紀には,Newton 力学(いわゆる古典力学)の支配があまねく行きわたっていました.知 S2 が客体 a の裂け目を塞ぐことができないという事態は,原則的にはあり得ませんでした.それに対して,19-20世紀には,まずは電磁気の理論が Newton 力学の限界を顕わにします.つまり,電磁気が,客体 a の裂け目として立ち現れてきます.そして,それは量子力学と相対性理論の展開を促します.しかし,その裂け目の口は,いまだに開いたままです 量子力学と相対性理論との究極的な統一としての Theory of Everything の公式化の不能性という穴として.

ともあれ,大学の言説としての科学の言説においては,a は,主体の分裂を惹起する切れ目のエッジ S(Ⱥ) に相当しています.a が「主体の分裂の鍵」であるとすれば,それは,a S(Ⱥ) に相当する限りにおいてです.


大学の言説において右上の座に位置する a は,反復強迫の症状の徴示素 書かれることをやめないもの,すなわち,必然的 (nécessaire) なもの です.精神分析において症状と呼ばれるに値するのは,反復強迫的なもの 書かれることをやめないもの です.それは,S(Ⱥ) の座において固執的に反復されます.


Lacan réel[実在]と言うとき,ふたつのものを区別する必要があります.ひとつは,impossible[不可能:書かれないことをやめないもの]としての実在,もうひとつは,nécessaire[必然:書かれることをやめないもの]としての実在です.

« le réel, c’est l’impossible »[実在は,不可能在である]は,1968-69年の Séminaire XVI 以来,Lacan がしばしば我々に示す定義です.それに対して,必然在としての実在の定義は,やっと1977-78年の Séminaire XXV において明示されます : « le réel ne cesse pas de s’écrire »[実在は,書かれることをやめない].

それは,Lacan の教えにおける実在の定義の変更を示唆するものではありません.Lacan は,彼の教えの当初から,不可能在(ないし ex-sistence)としての実在と,必然在としての実在と,ふたつの実在の概念を常に用い続けてきました.

それらを区別しないままに Lacan のテクストを読むと,我々はしばしば混乱に陥ることになります.注意が必要です.

Radiophonie 読解 (2) 言語存在の否定存在論的構造

言語存在の否定存在論的構造


Freud Saussure 言語学を先取りしていた 例えば,1957年のテクスト『精神分析とその教え』のなかで,Lacan はこう言っています (Écrits, pp.446-447) :

無意識の諸法則をそれらの詳細において述べることによって,Freud は,Ferdinand de Saussure が現代言語学の道筋を切り開くべく数年後に明らかにすることになる諸法則を,先立って公式化したのにほかならない .

また,1958年のテクスト『ファロスの意義』においても (ibid., p.688) :

Freud は彼以後に誕生した現代言語学を参照し得なかったが,しかし,我々はこう主張する Freud の発見が鮮やかに浮かび上がってくるのは,まさに,それが,其こにおいて言語学の君臨が認められることになろうとは予期され得なかったところの領域から出発して言語学の諸公式を先取りしたとしか言いようのないものであるがゆえにである.

Lacan がそう主張するのは,単に,当時人文科学(あるいは,人間科学 : les sciences humaines)の最先端と見なされていた言語学の諸概念を精神分析理論へ導入すること,あるいは,言語学への準拠によって精神分析理論を構造主義的に洗練することを正当化するためでしょうか?そう考えるとすれば,それは的はずれです.

なぜ Lacan は,Freud が神経症治療のために創始した精神分析について論ずるために,脳科学や心理学や社会学ではなく,言語学に注目するのか?それだけではありません 曲面や結び目のトポロジー,形式論理学,神学,哲学,文学,そして,より根本的には Heidegger の思考.

それは,Lacan の教えの目的が,精神分析を純粋に すなわち,非経験論的に 基礎づけることに存するからです.

当然,経験科学の分野に属するものは,準拠としては除外されます.確かに言語学はひとつの経験科学ですが,しかし,Lacan が言語学から得たのは,言語学の個々の具体的な成果ではなく,Saussure S/s のように経験的なものを記号的に形式化 (formalisation symbolique) する可能性です.実際,Lacan は,精神分析の経験的な次元の形式化の端緒に,学素 S/s を措定します.

さらに,より本質的なことはこれです : Lacan にとって,signifiant / signifié を以て形式化される構造は,単純に言語学的なものではない なぜなら,その構造における signifié の座は「主体の座」(Écrits, p.516) であり,すなわち,S/s の構造は主体の存在にかかわる存在論的なものであるからです.

しかも,主体が位置づけられるべきその座は,la place excentrique[中心解脱的な座,中心に対して解脱的である座](Écrits, p.11) であり,Heidegger の用語で言うなら,ex-sistence[解脱実存]の座 (ibid.) です.何に対して解脱的であるか?存在事象そのもの全体 [ das Seiende als solches im Ganzen ] に対して.すなわち,主体の座は,Heidegger die ontologische Differenz[存在論的差異]と呼ぶ存在論的切れ目 [ la coupure ontologique ] によって存在事象から分離されていると同時に存在事象と結合されている存在の解脱実存的な在処 [ la localité ex-sistente de l’être ] です.


以上のように,ひとつの経験科学である言語学においては,当然ながら,S/s の構造における signifié の座に位置する référent は,ひとつの存在事象であるのに対して,Lacan の教えにおいては,まったくそうではありません.


1970年ころ,「構造主義」の流行の時代,Saussure Lévi-Strauss Lacan もそのレッテルでひとくくりにされていました.しかし,前二者は経験科学の領域の研究者でした.彼らが問うた構造は,あくまで,存在事象の次元のなかのものでした.それに対して,Lacan が問うた構造は,存在事象的ではなく,存在論的なものです.

そして,既に触れたように,Lacan が精神分析の純粋基礎として Heidegger から学び取った存在論は,哲学史上伝統的な実体論的存在論ではなく,我々が否定存在論と呼ぶところのものです.

否定存在論においては,存在は,実体的な ὑποκείμενον でも ὄντως ὄν でもなく,而して,存在事象そのもの全体の場処に対して ek-sistent[解脱実存的]である在処 [ localité, Ortschaft ] として topologique に思考されます.

その際,もっとも根源的であるのは,Heidegger が存在論的差異と呼んだ存在論的切れ目です.Lacan は,問い I に対する答えの最初の部分で,その切れ目のことを強調しています (Autres écrits, p.403) :

言語学は,Saussure および Cercle de Prague とともに,徴示素 [ signifiant ] と被徴示 [ signifié ] との間に措定された棒線である切れ目によって設立される.その切れ目によって,[徴示素と被徴示との間の]差異が生じ,それによって徴示素は絶対的に定立される.

次のページで Lacan は,その切れ目を「創立的な切れ目」(la coupure inaugurale) とも呼んでいます.

そこにおいて inaugural は,「言語学を創立した」切れ目ということですが,しかし,単にそれだけではありません.その切れ目は,単に言語学的切れ目としてでなく,而して,存在論的切れ目として,言語存在の否定存在論的構造そのものにとって創立的であり,創始的であり,最も本源的なものです.

Lacan は,その源初的な差異によって「徴示素は絶対的に定立される」と言っています.この「絶対的」は,強い表現です.それは,S(Ⱥ) の絶対性を示唆しています.

切れ目ないし差異が最も根源的であり,源初的である 言い換えれば,a priori である ことを示唆する表現が,Radiophonie のなかにも幾つか散見されます.例えば:

Que ce sujet soit d’origine marqué de division[主体は,源初的に,分裂のしるしを受けている](p.405) ; 

D’avant toute date, Moins-Un désigne le lieu de l’Autre[あらゆる時代に先立って,( 1 ) が他の場処を差し徴してしる](p.409) ; 

Il doit nous suffire de poser que l’inconscient est[我々としては,無意識は在ると措定すれば十分なはずである](p.432).

主体の分裂は,存在論的切れ目による他の場処と主体の存在の在処との分裂に存します.それが「源初的」(d’origine) であることを Lacan は強調しています.

Moins-Un, すなわち ( 1 ) は,先に引用した Écrits, p.819 の一節で用いられていた表現です.それは,S(Ⱥ) を差し徴しています.« d’avant toute date »[あらゆる時代に先立って]は,S(Ⱥ) の存在論的切れ目が構造論的に a priori なものであることを言っています.

「無意識」のラカン的な定義は,まさに「切れ目」です :

主体 デカルト的主体 は,無意識に先立つと仮定されたものである.他は,ことばが真理において肯われることにより要請される次元である.無意識は,両者の間の現勢的な切れ目である (Écrits, p.839).


Lacan « en acte »[現勢的]と言っています.つまり,« en puissance »[潜勢的]ではない.もう既に,切れ目はつけられており,その口は開いており,その効果はあからさまに発揮されています.そのことを認め,そのことを何よりも先に出発点に措定する それが必要なことであり,それで十分です.

問い II に対する答えの冒頭で,Lacan は構造の概念についてこう言っています (Autres écrits, p.408) :

La structure s’attrape du point où le symbolique prend corps[構造は,其こにおいて徴在が身体を得るところの地点から捉えられる].

le corps du symbolique[徴在の身体](p.409) とは,いったい何でしょうか?それは,徴在の支えとしての S(Ⱥ) のことです.

Lacan Séminaire XIV La logique du fantasme において,他の場処を身体と定義しています.身体は consistance[定存]であり,定存は l’imaginaire[影在]です.他の場処は,命題「ひとつの徴示素は,もうひとつのほかの徴示素に対して,主体を代表する」に言う「ひとつの徴示素」です.言い換えると,「ひとつの定存」です.「もうひとつのほかの徴示素」は,既に見たように,S(Ⱥ) です.それは,「ひとつの定存」に対して「もうひとつのほかの定存」です.それが,徴在の穴を支える定存的身体としての S(Ⱥ) です.それは,既に見たように,存在論的構造の要であり,まさに「そこから構造が捉えられるところの地点」です.


Radiophonie 読解 (1) 否定存在論とそのトポロジー

Lacan の1970年のテクス Radiophonie 1973年のテクスト Télévision ,一方はラジオ放送のために,他方はテレビ放送のために,執筆されました.ともに問答形式を取っています.Lacan は,質問者の問いに答えます.ただし,即興的にではなく,問いも答えもあらかじめ書として準備されています.

両テクストを見比べると,それぞれの文脈の相違が見て取れます.Radiophonie では,当時 intelligentsia のなかで流行していた「構造主義」の観点から,精神分析と科学ないし学知との連関について問われています.それに対して,19685月から5年半後の時点に位置する Télévision では,jouissance[悦]の不可能性の観点から,精神分析の倫理について問われています.

さて,Radiophonie における七つの問いを列挙しましょう:

問い I : あなたは Écrits のなかでこう断定しています : Freud は,そうとは理解せぬままに,Saussure の研究と Cercle de Prague の研究とを先取りしている.その点について説明していただけますか?

問い II : 言語学と精神分析と民族学は「構造」の概念を共有していますが,その概念から出発して,精神分析と民族学と言語学とをいつの日にか統合するひとつの共通の場の言表を想像し得ないでしょうか?

問い III : 言語学の面においては Jakobson が,精神分析の面においてはあなたが,métaphore métonymie に特権を与えています.それこそが,精神分析と言語学との間の可能な連節のひとつではないでしょうか?

問い IV : あなたは,こう言います – 無意識の発見は第二のコペルニクス的転回へ行き着く,と.何において無意識はあらゆる認識論をくつがえす鍵概念なのでしょうか?

問い V : 無意識の発見による第二のコペルニクス的転回の影響は,如何なるものでしょうか
a) 科学の面において;
b) 哲学の面において;
c) 特に,マルクス主義の面において,さらには,共産主義の面において?

問い VI : 何において知と真理とは相容れないのでしょうか?

問い VII : 統治する,教育する,精神分析する それら三つは,遂行不可能な企てである.しかるに,精神分析家は,あらゆる言説に対して永続的に異議をとなえることにこだわらねばならない 特に,精神分析家の言説に対して.精神分析家は,知 特に,精神分析の知 にこだわるが,定義からして,精神分析家はそれに対して異議をとなえる.この矛盾を,あなたは如何に解決しますか,しませんか?「不可能」の位置づけは?不可能こそが実在なのでしょうか?


概観してみると,最初の問いから第四の問いに至るまで,Lacan はもっぱら,言語存在 [ parlêtre ] としての人間の否定存在論的構造について論じていることに,気づきます.


否定存在論とそのトポロジー


否定存在論 [ l’ontologie apophatique ] は,Heidegger の生前に発表された諸著作から Lacan が抽出してきた Heidegger の思考の粋です.それによって Lacan は,精神分析を純粋に 非経験論的に 基礎づけようと試みます.精神分析の純粋基礎としての否定存在論は,Lacan の教え全体の中心的な主題です.

先に,否定存在論について概説しておきましょう.

哲学史上,伝統的には,存在論は « ἐπιστήμη ἣ θεωρεῖ τὸ ὂν ᾗ ὂν καὶ τὰ τούτῳ ὑπάρχοντα καθ᾽ αὑτό »[存在事象としての存在事象,ならびに,存在事象としての存在事象にそれ自体により備わっているものを,観念する学](Aristoteles, Metaphysica IV) と定義されます.

τὸ ὂν ᾗ ὂν, ens qua ens, 存在事象としての存在事象,あるいは,存在事象そのもの [ dans Seiende als solches ] それが,伝統的な存在論においてかかわる存在です.それは,最も未規定的な ὑποκείμενον であり,あるいは,最も根本的な ὄντως ὄν です.いずれにせよ,そこにおいて,存在は存在事象的な実体 [ substance ] です.

そのような伝統的な存在論は,ですから,métaphysique substantialiste[実体論的形而上学]と呼ばれます.それは,現象の下に存有する物自体を捉えようとします.ついでながら,その対立概念は,批判的形而上学 [ métaphysique critique ] です.それは,認識において経験に先立つものは何かを問います.

哲学史上伝統的な実体論的存在論とは異なり,否定存在論においては,存在はひとつの存在事象的実体ではありません.そのことを端的に表しているのが,Heidegger のこの表記です:


それを Heidegger は,1941-1942年に執筆しながらも生前には発表しなかったテクスト Das Ereignis のなかで既に用いていますが,生前に発表したテクストのなかでは,1955年の Zur Seinsfrage[存在の問いのために]において初めて披露しています.

そこにおいて Heidegger はこう言っています : Sein[存在]という語の「バツ印による抹消は,まずは単純にこのことを防止する すなわち,『存在』は,まずはそれ自体で存立しており,その次にやっとときおり人間のところへやって来る相対事象だ,と表象することを」.つまり,存在を実体化させないためのひとつの工夫です.

我々としては,いちいちバツ印で抹消するのは技術的に面倒ですから,より簡単にこう表記します : Sein, être, 存在

この抹消された存在 Sein の表記から,Lacan は「抹消された主体」の学素 $ を考案したのだろう,とわたしは推定しています.直接的な証拠は何もありませんが,Lacan が学素 $ を初めて用いたのは1958年のことですから,少なくとも時間的順序の上で不可能ではありません.

ついでに言っておくと,Sein としての主体を形式化する学素 $ は,同時に,Hegel が「自己意識は欲望である」と言っているように,欲望の学素でもあります.

否定存在論において問われる存在 Sein は,存在事象的な実体ではありません.しかし,単に「存在は,存在事象ではないとすれば,単なる無である」と思念するだけでは,形而上学的な行き詰まりに陥るだけです.

そうならないために Heidegger はどうしたか?物理学から手がかりを得たのかどうかは不明ですが,彼は,存在を「場」として考えました.「空間」と言ってもよいでしょう.

実際,Heidegger は「時遊空間」[ Zeit-Spiel-Raum ] という表現を使っています.日常のドイツ語で Zeitraum は「ある長さを持つものとして表象される時間」です.物理学で言う「時空」ないし「時空間」は,Raumzeit 英語では spacetime です.Spielraum は,何らかの機械装置のふたつの可動部分の間の隙間としての「遊び」です.この「隙間」が,切れ目ないし穴としての存在の Zeit-Spiel-Raum を示唆しています.

存在を場として考えるとすれば,それはひとつの topologie を要請します.そこで Lacan は,数学的トポロジーで「投射平面」[ projective plane ] と呼ばれる閉曲面を持ち出します.

投射平面は,相互に異質なふたつの曲面から成ります:ひとつの円板(または,それに位相同型的 [ homeomorphic ] な曲面:例えば,穴の開いた球)とひとつの Möbius strip と.両者のエッジを同一化することにより投射平面が得られます.


投射平面は,三次元ユークリッド空間へ埋め込む [ embed ] ことはできません.はめ込み [ immersion ] のしかたは複数あります.そのうちのひとつが cross-cap です.


cross-cap は,部分的に細いペンチでつままれた球またはタマゴのような形をしています.つままれた部分を表す線分のところで面の交叉 (crossing) が起きているように見えますが,それは,はめ込みの artefact にすぎません.言うなれば「偽交線」です.

Möbius strip がそうであるように,投射平面には表裏ないし内外の区別がありません (surface unilatère, one-sided surface). cross-cap の偽交線のところで,曲面の「表」ないし「外側」は「裏」ないし「内側」へ連続的に移行します.つまり,法線ヴェクトルの向きが逆転します (non-orientable).


cross-cap という奇妙な名は,交線を有する帽子のようなその形状に由来します.

我々としては,次のように提示された cross-cap を説明のために利用します:


 球状でありながら球ではないその形のゆえに,Lacan cross-cap asphère とも呼んでいます.« a- » は否定の接頭辞ですが,客 a « a » でもあります.


この図では,投射平面を構成するふたつの曲面は水色(円板状曲面:円板と位相同型的)と赤(メビウス曲面 : Möbius strip と位相同型的)とに色分けして表示されています.両者を分離する切れ目のエッジは,緑色の輪で表されています.切れ目のエッジによって囲まれる穴は,黄色で色づけされています.

直観的に把握することはできませんが,赤色の曲面は,三次元ユークリッド空間内に埋め込まれると,Möbius strip になります.その場合,緑色のエッジは,Lacan huit intérieur[内巻きの8]と呼ぶ曲線を描くことになります:


しかし,より正確に言うと,cross-cap において三次元ユークリッド空間内に描かれているのは,円板に位相同型的な曲面(水色)だけです.


赤いメビウス曲面は,言うなれば,緑色の切れ目の線の「なか」に あるいは,その「背後」に 隠されてしまっており,そのものとして描かれ得ません.つまり,メビウス曲面は,三次元ユークリッド空間に対して 
ek-sistent[解脱実存的]であり,そして,そこにおいてそれとして表象されることが不可能であることにおいて Lacan の定義によれば réel[実在的]です.

かくして,我々は,否定存在論における存在論的構造と投射平面の topologie との間に次のような対応を措定することができます:


否定存在論における存在論的構造は,Heidegger の用語で言うなら,存在事象と,存在と,両者の間の存在論的差異 [ die ontologische Differenz ] とから成っています.それら三項のうち最も重要なもの 文字どおり「要」であるもの は,存在論的差異です.存在論的差異の切れ目が存在事象と存在とを分離しつつ結合していることに,存在論的構造は存します.

Lacan が好んで用いた coupure[切れ目],division[分裂,裂け目],fente[割れ目,裂け目],faille[断層,亀裂]などのにもとづいて,我々は,Heidegger の言う「存在論的差異」を「存在論的切れ目」ないし「存在論的裂け目」と呼ぶこともできるでしょう.

投射平面を構成するふたつの曲面のうち,円板状曲面(水色)は,存在事象そのもの全体に対応します.三次元ユークリッド空間に対して ek-sistent であるメビウス曲面(赤)は,存在の解脱実存的在処に対応します.両者の間の切れ目のエッジ(緑)は,存在事象と存在とを分離しつつ結合する存在論的差異です.そのエッジによって囲まれる穴(黄)は,Heidegger の言う Lichtung[朗場]です.

以上のような存在論的構造を Lacan の教えのなかに導入するために,我々はまず『主体のくつがえし』の次の一節 (Écrits, p.819) を読みましょう:

我々としては,何を記S(Ⱥ) まずは徴示素であることによって 連節するかから出発しよう.我々による徴示素の定義(それ以外の定義は無い)は,こうである:ひとつの徴示素とは,もうひとつのほかの徴示素に対して主体を代表するものである.徴示素 S(Ⱥ) は,したがって,其れに対してそれ以外の徴示素すべてが主体を代表するところの徴示素となる.すなわち,もし仮に徴示素 S(Ⱥ) が無ければ,それ以外の徴示素は何も代表しないだろう ひとつの徴示素が何かを代表するのはもうひとつのほかの徴示素に対してのみであるから.ところで,徴示素の集合は,それがひとつの集合として存在する限りにおいて,そのこと自体によって完全であるから,徴示S(Ⱥ) は,徴示素の集合のなかに算入されることはできず,而して,徴示素の集合の円によって描かれる線であるにほかならない.あるいは,そのことは,徴示素の集合のなかに ( − 1 ) が内在的であることによって記号化可能である.

以上のことは,このように図化され得ます:


上の引用の冒頭で Lacan « nous partirons de ce que le sigle S(Ⱥ) articule » と言っています動詞 articuler を「連節する」と訳しましたがこの articuler 構造の構成要素をひとつの全体としての構造へ繋ぎ合わせることですですからstructurer構造化すると言い換えることもできます

学素 S(Ⱥ) が表しているものは,構造化の可能性の条件であり,構造の要です.S(Ⱥ) の機能が無ければ,構造は成り立ち得ない S(Ⱥ) は,そのような最重要のものです.

S(Ⱥ) は,存在論的差異の切れ目 存在論的切れ目 に相当します.Lacan はそれを le logique pur[純粋ロゴス]とも呼んでいます.

ひとつの徴示素によってもうひとつのほかの徴示素 S(Ⱥ) に対して代表される主体は,存在の解脱実存的な在処を表すメビウス曲面(赤)に対応します.

水色の円板状曲面は,徴示素の集合としての他の場処に対応します.

さらに,Saussure の学素 signifiant / signifié との対応も明らかになります:


Saussure により形式化された signifiant / signifié の構造は,Lacan の教えにおいては単に言語学的なものではありません.1957年の書 L’instance de la lettre dans l’inconscient において既に,Lacan は,signifié の座は「主体の座」(Écrits, p.516) であることを強調しています.

そもそも,Lacan の言語学への関心を動機づけたのは,単純に言語学が人間科学の最先端であったからでも,Lévi-Strauss に発する structuralisme の流行のゆえでもなく,而して,Heidegger 1946年のこの命題にもとづいてです:「言語は,存在の家である」.

言語は,主体の存在が住まう家であり,その家の構造 S/s において,主体の存在 $ の座は signifié の座である.それが Lacan の基本的な着想です.

Radiophonie (Autres écrits, p.426) における命題 : « l’inconscient s’articule de ce qui de l’être vient au dire »[無意識は,存在から(存在のうちで,存在について)言へ来たるものによって構造化される]も,「言語は存在の家である」および「無意識は,ひとつの言語として構造化されている」と等価的です.Lacan の用語 « le dire » は,Heidegger の用語 « das Sagen » に由来しているはずです.そして後者は,否定存在論的構造そのものを指しています.

さて,学素 S/s において,signifiant signifié との間の線分は,単純な区分線ではなく,而して,言語の構造の可能性の条件である根本的な切れ目です.その切れ目がつけられてこそ,言語は可能になります.それは,存在論的切れ目としての S(Ⱥ) に対応しています.

四つの言説の構造との対応は,次のようになります:


そこにおいて,抹消された phallus φ は,不可能な phallus, すなわち,書かれぬことをやめぬファロス [ le phallus qui ne cesse pas de ne pas s’écrire ] の学素です.その不可能性において,この抹消された phallus と抹消された存在 Sein とは,トポロジックには,ともに,解脱実存的な在処 [ la localité ex-sistente ] を成しています.あるいは,むしろ,解脱実存的な在処は,否定存在論の観点からは Sein と表記され,不可能な悦の倫理学の観点からは学素 φ を以て形式化される,と言う方がより適切でしょう.この不可能な phallus のゆえに,Lacan は「性関係は無い」と公式化します.

さらに,四つ輪のボロメオ結びとの対応関係も提示しておきましょう:



四つの輪の色は,それぞれ,cross-cap の各要素の色と対応させてあります.

以上の対応を,以下の表にまとめておきましょう:

Les correspondances entre la topologie apophatico-ontologique,
les quatre discours et le noeud borroméen à quatre
否定存在論的トポロジーと四つ言説とボロメオ結びとの間の対応
  

以上のように Lacan が否定存在論的構造をトポロジックにさまざまに展開して見せたのは,我々のためにそれを文字どおり「触知」可能にするためです.

否定存在論は,何か目新しい特別な「世界観」ではありません.人間が言語に住まう限りにおいて,すなわち,人間存在が本有的に言語存在である限りにおいて,否定存在論こそが最も根本的なものです.Heidegger Geschichte des Seyns[存在の史実]と呼ぶ過程は,その全体において,否定存在論的構造のなかで展開されます.

そして,以下にも説明するように,Heidegger Platon ἰδέα にその出発点を見る形而上学は,その全体において,Lacan aliénation[異状]と呼ぶ構造のなかに位置づけられます.確かに,Foucault が「古典主義時代」と呼ぶ17-18世紀においては,否定存在論的構造にとって決定的な存在論的切れ目(裂け目)は,ほぼ完全に覆い隠されていました.しかし,それに続く現代 すなわち,19世紀から現在に至るまで においては,存在論的切れ目(裂け目)はさまざまな形で姿を現しています.Freud による無意識の発見も,Saussure による言語の構造の形式化も,Heidegger による存在の意味の問いも,さらには,我々にとってなじみ深い19世紀以降の芸術諸作品も,存在論的裂け目の現動化の効果であると言えます.

我々は,現に,否定存在論的構造のなかに住まい,そこにおいて生きています.しかし,誰もがそのことにはっきりと気づいているわけではありません.特に,存在論的切れ目 S(Ⱥ) と存在の解脱実存的在処 φ とについて主題的に問おうとする者は,今までのところ,Heidegger または Lacan からそのことを学んだ者に限られています.

Lacan は,精神分析を生物学化することも心理学化することも,精神分析において本当にかかわっていることを覆い隠してしまうことになる,と早くから気づいていました.精神分析の基礎を,生物学(脳科学)にも心理学にも社会学にも求めないとすれば,どこに求めるか?そう問うなかで Lacan は,まず1930年代に Hegel の『精神の現象学』に出会い,次いで1940年代に Heidegger の『存在と時間』に出会います.

そこから Lacan は,精神分析の純粋基礎にかかわる重要なことを学びます 精神分析の経験は,主体に関する知と真理との分離 [ Trennung des Wissens und der Wahrheit ] にもとづく dialektisch な現象学的過程に存する;精神分析においてかかわる真理は,主体の存在の真理であり,無意識的な欲望とは主体の存在の真理にほかならない;精神分析は,主体の存在の真理の実践的な現象学に存する;精神分析の目標は,「主体の存在の真理が自身を示現しようとするがままに自身を示現してくる」ことを引き受け,その真理に従順であるよう実存様態が変化することを受け入れることに存する.

精神分析がそのようなものであり得るための純粋基礎を,Lacan は,我々が否定存在論と名づける存在論的構造に求めました.冒頭にも既に述べたように,彼の教え全体が精神分析の純粋基礎としての否定存在論を主題として展開されています.

以上のことを確認したところでRadiophonie テクストの読解に取りかかりましょう.

2017年8月3日

An additional question about the paternal function in Lacan's sexuation formulae

Our friend who had posed me a question about Lacan's formulae of sexuation posed me another question : why is the paternal function ($x) ØΦ(x) situated on the place of $, not on the place of S1 ?




As far as the male sexuation formulae are concerned, the exact place of the paternal function ($x) ØΦ(x) is indifferent because it is only supposed that there ex-sists an x such as ØΦ(x). What is true is Ø($x) ØΦ(x) : there doesn't ex-sist any x which has the impossible phallus of the impossible sexual relation, as it is formulated in the female sexuation formulae.





When Lacan says in his Séminaire XVII L'envers de la psychanalyse that the Father is castrated and dead since origin, that Father is the empty locality as such of the 
ex-sistence (coloured red).





So you can say, if you like, that in the male sexuation formulae the ex-sistent Father is S1 in the discourse of university where S1 can be considered as the empty hole of the inexistent Urvater killed by his sons.

What matters is that the sons (i.e. all the men) are believing in the ex-sistence of the dead Father who would castrate them so that they can not be free from castration anxiety.