藤田博史氏の2月3日晩から4日未明にかけての Facebook 上での発言:
(藤田博史氏はまず,Lacan を英訳で引用する.)
「人は分析をあまりにも遠くまで推し進めるべきではない.患者が幸せに生活していると思えば,それで十分である.」(ジャック・ラカン,1976年)
“One should not push an analysis too far. When the patient thinks he
is happy to live, it is enough.”
(Lacan, Conférences
aux USA, Scilicet, 1976)
「これが分析の極意です.
前期,中期のラカン思想しか知らない人にはまったく意外でしょうが,これが晩年のラカンが到達した最終地点なんです.そして,わたし自身が現在臨床で実践している分析もまた同様の理念に依っています.
行き過ぎた分析は「死」を引き寄せ,「死」に直面し,不幸な結果を引き起こします.
あるいは「分析のための分析」というアディクションを引き起こし,自分は「存在」や「真理」について追求しているのだ,という錯覚を引き起こします.わたしはこれをあえてファルス享楽の追求と言いましょう.
その結果「人生のための分析」ではなく「分析のための人生」という,本末転倒の事態を引き起こします.一生を分析に捧げて,不幸なまま終わる人が少なからずいます.
そうではなく,とても単純なことですが,長年の臨床のなかで見えてくること,それは分析は不幸になるためではなく,幸せになるためにあるのだ,という単純な事実なのです.
前期,中期のラカン思想を過大評価しないように注意してください.寧ろ,晩年のラカンが到達したこのシンプルな地平こそ,現実にスキゾフレニアや,デプレッションや,摂食障害などを治癒させ得る治療理念なんです.」
09 September 2014 の東京ラカン塾精神分析
Tweeting Seminar より抜粋:
もうひとつメッセージをいただいています.Lacan
が1975年11月24日に Yale
University で行った講演のなかから Zizek が次のような引用をしているそうです:
One should not push an analysis too far. When
the patient thinks he is happy to live, it is enough.
原文はこうです : Une analyse n'a pas à être poussée trop
loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez. (Scilicet 6/7, p.15)
英文を訳してみましょう:「分析を突きつめすぎてはならない.患者が自分は生きていて幸福だと思えば,それで十分だ」.
原文を訳してみましょう:「分析は突きつめすぎるには及ばない.分析者が自分は生きていて幸福だと思えば,それで十分だ」.
引用箇所を構成するふたつの文のうち最初のものの英訳は不適切であることがわかります.
文脈を考えてみましょう.直前に Lacan は何を言っているか?精神分析を終わりまで突きつめて行くとき,精神病の発症の危険性に対して十分に注意していなくてはならない,と Lacan は警告を発しています.「我々は非常に慎重であらねばならない」と彼は言っています.
USA での講演は,James Joyce についての Séminaire XXIII Le
sinthome の一回目と二回目の合間に行われました.その séminaire において,Lacan
はこう論じます: Joyce は,彼の娘が精神病者であったことから推測されるように,潜在的に精神病者である.彼の文学的創造は精神病症状と等価であり,それは彼の存在そのものである.そのような存在様態に至ることは,或る意味で,神経症者が到達し得る精神分析の終わりを凌駕している.
1953年に Lacan は,「精神病者は無意識の殉教者である」,つまり,精神病者は無意識について証言する証人である,と言っています.殉教者は列聖され,聖人になります.
sinthome は symptôme 「症状」の古い正書法ですが,その発音は saint homme と同じであり,要するに「聖人」です.Joyce le sinthome と言うことは,Joyce は聖人であり,無意識の殉教者である,と言うことです.
聖人であること,聖人の存在論的構造において実存すること,それこそが精神分析が目ざすべき地点ですが,しかし,その際,精神病の発症の危険性には十分に注意せねばならない,という臨床的な忠告を Lacan は与えているのです.
10 September 2014
の東京ラカン塾精神分析 Tweeting Seminar より:
Zizek の著作 Less Than Nothing は,千ページを越える大著です.彼はしゃべるときは機関銃のような勢いでしゃべりますから,書くときも同じ調子で言葉を吐き出しまくるのでしょう.
わたしが1986-88年に Paris にいたとき,Zizek もそうでした.彼とは,Jacques-Alain Miller の講義や
séminaire でよく会いました.もっとも,直接会話したのはごく僅かでしたが.彼はとても sympathique です.直接会って彼を嫌いになる人はいないでしょう.
彼のあの強烈な顔立ちと猛烈な話し方は,彼に演技力と表現力を与えています.聞く者は,彼に魅せられてしまいます.それは,いってみれば,彼の武器です.それによって彼は,聞く者をゆさぶり,常識をくつがえしてしまいます.
Heidegger の講義は,ちょうど同じような効果を聴講者に与えました.Heidegger の外見は Zizek ほどの強烈さを持ってはいませんが,彼の話は聴衆をくつがえす効果を持っていたそうです.
精神分析家が精神分析において分析者に与えるくつがえしの効果を,哲人は彼の言説によって実現し得ます.おそらくそれは,Socrates 以来,真の哲人の特性でしょう.わたしにはとてもまねできないことです.
さて,昨日言及した Zizek の Lacan 引用は,Less Than Nothing の最終章,結論:「倫理的なものの政治的宙吊り」で為されています.結論の章だけ London 大学の社会人向けの部門の site から
download できることを教えていただきました.Zizek はそこで教えています.
結論の章だけでも全部はとても読めないので,Lacan
への言及のあるところだけつまみ読みしました.
或る箇所で Zizek は Freud のふたつの症例,Hans 少年とネズミ男とを混同しています.それは大したことではありません.
より重大なのは,Zizek は Lacan のテクストをみづから読み込んでおらず,もっぱら Jacques-Alain Miller の解説に頼っている,ということです.しかも,Less
Than Nothing において Zizek は,lacanien でも何でもない或る大学人の著作 Le réel insensé :
Introduction à la pensée de Jacques-Alain Miller を引用してさえいます.直接 Lacan を読む手間を省くために二重の仲立ちに頼っているのです.
これはいただけません.Zizek に会うことがあれば,ひとこと文句を言いましょう.
いや,その必要もないかもしれません.先日
Zizek は剽窃の疑いをかけられ,弁明しなくてはなりませんでした.なぜそんなことが起きたのかというと,忙しい Zizek は自分で或る本を読む時間が無くて,友人にその本の要約を依頼しました.その友人は,或る雑誌に出ていたその本の書評をほとんどまるまる書き写しました.Zizek は,そのことを知らないまま,彼の文章を,彼の了解のもとに,自分の著作にそのまま書き写しました.その結果,雑誌書評を剽窃したと非難されることになりました.手間を惜しんだので,そんなはめに陥ったのです.
Less Than Nothing においても,Zizek
は自分で Lacan を読む手間を省いている.これでは本当の Lacan を読み取ることはできません.
ともあれ,しかし,Zizek の本に書かれてあることを読んで,わたしは,既にうすうす感づいていた Jacques-Alain Miller の Lacan 読解のひとつの問題点を,より明確に把握することができました.
それは,Jacques-Alain Miller は Lacan が言及している「聖人」の意義を全く捉えていない,ということです.
Jacques-Alain
Miller によれば,Joyce に関する Séminaire の時期の Lacan が用いた「症状」 — それを Lacan は sinthome とも symptôme とも書きますが —,症状は,精神分析の過程において解釈不可能なものとして残った残渣である.
この説は,わたしも Jacques-Alain
Miller の講義や講演で何度も聞いています.Lacan 自身,reste, 残りもの,残渣という表現を用いています.
しかし,では何故 Lacan はわざわざ Joyce を取り上げたのか?芸術作品を創造する者としての Joyce を?
Lacan は,芸術的創造を論ずるとき,「無からの創造」 creatio ex nihilo という神学的概念を持ち出します.強調されるべきは,この ex nihilo です.これは,復活に関する決まり文句:「死者のうちからの復活」 resurrectio ex mortuis を想起させます.創造は無から,復活は死から.
Joyce が作家であり,かつ,sinthome, つまり聖人である,ということは,無からの創造と死からの復活が同じ構造のものであることを踏まえて,初めて理解され得ます.
されば,sinthome としての症状は,単なる残渣ではありません.
「分析は,終わりまで突き詰められる必要は無く,分析不可能なものをカスとして残しておいて良い.それが Lacan が
sinthome と呼んだものだ」という理解は間違っています.
分析の終わりは,Lacan が séparation 分離と呼ぶ死の場処,無の場処に至るまで突き詰められねばなりません.そしてそのとき初めて,無からの創造,死からの復活としての sinthome が成起するのです.
晩年の Lacan はそれ以前の Lacan の radicalité を失った,という Zizek の説 — その説は,Nicolas Fleury を介した Jacques-Alain Miller の説なわけですが —,その説は間違っています.
Lacan の思考は,1932年の超自我精神病から晩年のボロメオ結びまで一貫しています.Lacan が最後は日和ったという意味のことを Jacques-Alain Miller が言っているとすれば,もうろくしたのは Miller の方でしょう.
Zizek の文章をつまみ読みして改めて思いましたが,Jacques-Alain Miller の jouissance の概念の理解も間違っています.彼は jouissance = réel と常々言っていますが,違います.
jouissance は,plus-de-jouir としての le petit a です.つまり,仮象のものです.
そう理解すれば,Lacan が Schreber について用いた jouissance imaginaire という表現も矛盾無く理解できます.
先日も言ったように,症状の構造は悦の構造です.そこにおいては,剰余悦 a が抹消された存在の真理を代理しています.
Zizek は Lacan が「真理をすべて知る必要はない」と言ったことを Lacan の日和見として引用していますが,見当違いです.これは,Télévision の「我れは真理を言う.ただし,すべてではない」の文脈において読むべきです.
Alenka Zupancic の言葉に関するわたしの批判について御質問をいただいています.彼女の思考は心理学的です.つまり,自我主体を中心にものごとを考えています.
精神分析においては,他 A を中心に考えねばなりません.より正確に言えば,欠如としての他 Ⱥ を中心に考えねばなりません.言い換えれば,抹消された存在の深淵を中心にします.
我々が死の本能をわがものとするのではありません.
確かに Lacan は 1950年代に
subjectivation de la mort 「死を主体化する」という表現を使っています.
しかし,それは Heidegger も同様でした.Heidegger は『存在と時間』における思考から Ereignis 「自有」の思考へと転回しました.
我々が死を主体化するのではなく,抹消された存在が我々を自有する (ereignen) するのです.それが決定的な違いです.
存在が我々に向けてくる請求に気づき,それに応じ,それに従順となること,それが自有です.
以上のことからこう言えよう:藤田博史氏は Lacan を原文において文脈にそって読むことを怠り,Zizek
同様,恣意的な解釈に陥っている.そして,藤田博史氏は,Lacan が教える精神分析の真の意義を理解し得ないがゆえに,psychotherapy を行っているにすぎないことをみづから認めている.
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