幾つか御質問をいただいていますのでお答えして行きましょう.
まず最初の御質問: なぜあなたはラカンを研究する学者たちによるコンセンサスを得ていないラカン用語訳語を使うのか?
この御質問には当惑してしまいます.いったい,「ラカンを研究する」とはどういうことですか?日本に「ラカンを研究する学者」はいるのですか?学者とは大学人のことですか?
「ラカンを研究する学者」という表現で思い浮かぶのは『エクリ』の邦訳者たちです.つまり,みづから精神分析を経験する内的必然性を全く持たないまま Lacan を邦訳した大学人たちです.
Lacan は『エクリ』の前書きで,彼らは「純粋状態におけるスノビズム」にある,と言いました.つまり『エクリ』邦訳者たちは,彼らにとっては精神分析が有する真摯な人間的意義は全く空虚であるがままに,翻訳のためだけに Lacan を翻訳したのです.
そのような純粋スノッブである彼らの翻訳作業の成果がどのようなものであり得るか,Lacan は予測していました.ですから彼は日本の読者に,この前書きを読んだらすぐに『エクリ』を閉じなさい,と通告したのです.
Lacan にそのようなことを言われてもなお『エクリ』を出版した人々にはまったく恐れいるほかありません.
『エクリ』のおかげでいまだに日本では Lacan は支離滅裂だと思っている人々がいます.支離滅裂なのは Lacan ではなく,邦訳者たちです.
もし今,精神分析そのものに真摯な関心を持たないままに,例えば論文を生産するために「ラカンを研究する学者」が日本にいるなら,Lacan が勧めているとおり,さっさと Lacan の本を閉じるのがよいでしょう.しかも,そのような人々が読んでいるのは,Lacan の原文ではなく,邦訳か英訳か,あるいは
Zizek などが英語で引用している断片でしょう.そんなものを読んでも無駄です.
Lacan は精神分析の実践を基礎づけるために教えました.精神分析の実践を抜きにして Lacan のテクストをいくら読んでも,その意義を読み取ることはできません.
「ラカンを研究する学者」が日本にいるとしても,Lacan の読みに関してそのような人々との「コンセンサス」は必要ありませんし,そもそも無駄なことです.
次の御質問 : objet a は semblant である,というのは
Lacan が言っていることではない.あなたの勝手な解釈ではないか?
この御質問を下さった方は,Séminaire XX Encore を御自分でお読みになったとおっしゃっています.もしそうであるなら,Encore の第 VIII 章をもう一度よくお読みなさい.冒頭にこの図が掲げられている章です:
まずこの図で,三角形の底辺に当たるところに何と書かれてありますか?
semblant, その下に
a と書かれてあります.
そして,第 VIII 章のなかで Lacan は三回,a のことを semblant d’être : 「存在の仮象」と呼んでいます.
この学素は,Lacan の教えの最も根本的な学素として考案されたものです.主体の存在の真理
φ を a が代表・代理する,という構造をこの学素は形式化しています.
a は,image であったり,signifiant であったりしますが,いずれにせよ,真理そのものではない何かです.それを Lacan は semblant, 仮象と呼びました.
そして,a が代表しているのは主体の存在の真理ですから,Lacan は a を存在の仮象と呼んでいるのです.
あなたは,Encore の第 VIII 章に三回出てくる semblant d’être という表現にまったく気がつかなかったのですか?それでは残念ながら
Encore を読んだとはとても言えませんね.
三つめの御質問 : jouissance と objet a は全く別概念ではないか?
plus-de-jouir を持ち出してきて両者を接合させようなどというのは,あなたの我流の誤った解釈ではないか?
この御質問者には,Lacan による plus-de-jouir の定義を参照するようお勧めします.Séminaire XVI, XVII, Radiophonie
などのテクストに提示されています.
Lacan は原文ですべて読んだ?では,もう一度,否,何度でも,よく読み直してください.
Lacan が plus-de-jouir を新たに提唱したのは,まさに jouissance と
a との関連を明確にするためにほかなりません.
この図を見てください.Séminaire XVII, p.105 に提示されているものです.図の前後の文も一緒に示しておきましょう.おわかりのように,支配者の言説の各項が,記号ではなく,通常の文字で表記された用語で書かれています.左上が支配者徴示素,左下が主体,右上が知,そして右下が悦です.
記号で表記された支配者の言説と見比べれば,右下の座に位置する
a が jouissance, 悦という用語で置き換えられているのがおわかりでしょう.
Lacan が jouissance, 悦の概念を導入したのは,Freud の Lust の概念を思考するためです.
Freud は Lust をこう定義しています : eine Triebbefriedigung ist immer lustvoll. 本能満足は常に Lust に満ちている.
そのような Lust の概念のなかに Lacan は,ひとつには plaisir 快,もうひとつには,快の彼方としての jouissace 悦を区別します.それは,Freud が快原則の彼方と呼んだ死の本能の概念をよりよく把握するためです.
悦 jouissance という用語は1950年代のテクストにも見うけられますが,まず押さえておくべきは,1960年の『主体のくつがえし』のなかのふたつの命題です:
La jouissance est interdite à qui parle comme tel. (Écrits, p.821).
悦は,語る者そのものには禁止されている.
Φ (grand
phi), [ c’est ] le phallus symbolique impossible à négativer, signifiant de la
jouissance. (Écrits, p.823).
Φ (ギリシャ語の大文字の phi),それは,負化不可能な徴象的ファロスであり,悦の徴示素である.
次に,1969-70年の
Séminaire XVII, p.85 のこの命題:
la fonction du
plus-de-jouir est apportée en suppléance de l’interdit de la jouissance
phallique.
剰余悦の機能は,ファロス悦の禁止の代補においてもたらされる.
1960年には単純に「悦」と呼ばれているもの,そして,1969-70年には「ファロス悦」と呼ばれているものは,いったい何でしょうか?
注目すべきは「禁止」という語です.それは,「性関係は無い」の言い換えです.
「性関係は無い」は,我々の学素
φ により形式化されます.
かくして,1960年の公式: “Φ は悦の徴示素である” は,この構造を言い表していると読解されます:
そして,1969-70年の「剰余悦はファロス悦の禁止の代補として機能する」は,この構造を言い表している,と読解されます:
Lacan は Séminaire XVI, XVII において
a に plus-de-jouir, 剰余悦という新たな定義を与えます.なぜなら,a は症状の徴示素であり,そして,症状においては代理満足がかかわっているからです.不可能な性関係の悦の代補・代理,それが剰余悦です.
一方に,症状を始めとする無意識の成形において実現されている悦があり,他方に,不可能な性関係の悦があります.両者を明確に区別するために,Lacan は前者を plus-de-jouir, 剰余悦と呼ぶことにしました.そして,無意識の成形の徴示素
a を剰余悦と定義しなおしたのです.
もしあなたが「ラカンを研究する学者」であるか,またはそうなろうとしているなら,まず,精神分析を経験する内的必然性を持っているか否かを自問してください.それが無いなら,さっさと Lacan の本を閉じるのがよいでしょう.
Lacan のテクストを翻訳する前に,まず,Lacan が何を問うているのかをよく考えてください.
Lacan が数十年にわたって問い続けているのは,精神分析においてかかわる主体の存在の真理に関する問いです.
もしあなたが,精神分析においてかかわる主体の存在の真理の問いをみづからの問いとして真摯に問う内的必然性を持っていないなら,つまり,みづから精神分析を経験しようという内的必然性を持っていないなら,Lacan を読解することはできません.いわんや,Lacan の翻訳の準備に要する膨大な努力はあなたにはとてもできないでしょう.
そのようなあなたが Lacan を翻訳しても,『エクリ』の二の舞になるだけです.邦訳『エクリ』が与えたのと同じ有害な影響を日本語読者に与えることになるだけです.
次の御質問: あなたは Lacan の学素 Ⱥ を S(Ⱥ) という形ではなく,Ⱥ 単独で用いているが,それは
Lacan が言っていることではなく,あなたの勝手な解釈ではないか.
御質問者は,Lacan を原文ですべて読んだと自慢する前に,彼の最も有名なテクストのひとつ,『主体のくつがえし』をよく読み直してみてください.Ecrits, p.823 にこう書かれてあるのが目に入っていないようですから.
le désir institue
la dominance, à la place privilégiée de la jouissance, de l’objet a du fantasme qu’il substitue à l’Ⱥ.
欲望は,悦の特権的な座に,幻想の客体
a の優位を設定し,客体 a を Ⱥ の代理とする.
Lacan のこの言葉にしたがって,我々は,他 A のなかの欠如 Ⱥ を a が代理するという構造の学素を考案することができます.それは全く Lacan に則した学素です.
そして,他 A のなかの欠如 Ⱥ は,ファロスの欠如
φ と等価です:
したがって,この等価性も成り立ちます:
御質問者に足りないのは真摯さです.Lacan を読むなら,もっと真摯にお読みなさい.
「精神分析はフィクションであり,フロイトが仕掛けたジョークだ」というあなたの言葉は,生死のかかる状況を単なるお笑いぐさにする「クソコラ」と同質のものです.
つまり,純粋状態におけるスノビズムです.
あなたが「軽快なフットワーク」と言うとき,その言葉は,あなたにとっては人間の実存の意義がすべて空ぜられているというニヒリズムを証しするものにほかなりません.
存在の深淵を見つめる真摯さが無いなら,Lacan を読むのをやめ,大自然のなかでお好きなようにすごしなさい.それによってあなたはニヒリズムをやりすごした気になるでしょう.あなたにはそれで十分です.
我々,精神分析と Lacan に真摯にとりくむ者たちは,精神分析を,Heidegger が形而上学の満了と規定する現代のニヒリズムを超克するひとつの途として実践して行きます.それは,今を生きる者にとって最も重大な,真剣に取り組むべき課題です.
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