2015年2月4日

藤田博史氏に対する小笠原晋也による批判,精神分析 Tweeting Seminar より.

26 January 2015

まず,藤田博史氏の123日晩から24日未明にかけての Facebook 上での発言の要旨を紹介します:

Lacan Séminaire XI を読んでも,わたしには得るものはさしてありませんでした.単なる Freud の言い換えにすぎません.今となっては古すぎます.
いまだに Lacan から得るものがあると思い込んでいる人々に警告せざるを得ません.Lacan の言っていることを無批判に受け容れることはとても危険です.
Lacan を翻訳するとき,訳語はどうでもよいのです.Lacan の用語の定義にこだわり,教条的になってくると危険です.
réalité [現実]と réel [実在]は,ともにラテン語の res に由来するが,Lacan において両者は峻別される,という話は,ほとんど腐敗したラカン派の常套句です.
精神分析を生業とする者であれば,Freud をドイツ語で読むことは絶対に必要です.
わたしは,学生時代に指導者にドイツ語を徹底的に鍛えられたおかげで,33歳までに Freud はほぼすべてドイツ語で読みました.拙著『精神病の構造』で引用した Freud はすべて Gesammelte Werke から直接訳出したものです.
Lacan に関しては,フランスで手に入るものはほとんどすべて目を通しています.
その上で言えることは,今となっては古めかしい構造主義に根ざした Lacan の思考方法そのものがダメです.
構造主義は,いうなれば,驚くほど単純な算術で構成されており,スカスカのザルのようなもので,そこからは大事なものがポロポロこぼれ落ちてしまう.
むしろここで必要なのは,複素関数の積分のような次元です(例えばフーリエ変換).
Lacan の後期思想の特徴であるトポロジーも,4次元以上で解けてしまいます.
さらに言えば,主体という発想そのものが,かなり疑わしいフィクションにすぎません.
主体は,基本的な二次元情報が時空化(多次元化)される時に生じる効果であり,そのような効果によって生じる幻影のひとつなのです.
ラカンがどうしてもうダメなのか,近いうちにまたフジタゼミで詳細にお話ししたいと思います.」


さらに,21世紀のルソー主義者,藤田博史氏は Facebook 上で熱く語り続けます.藤田博史氏の 25日晩から26日未明にかけての Facebook 上の発言を紹介しましょう.投稿者 A 氏の言葉に対する藤田博史氏の回答です:


投稿者 A 氏:「治療行為やそれが基づく理論がどういう思想の枠組みでなされているのかを検討の遡上に載せること,もっといえば,目の前の苦しむ人を助けるという倫理がどのような内実であるのかを検討の遡上に載せる思索も必要ではないでしょうか? たとえば,そういうことを Foucault がしましたね.」
藤田博史氏:A さん,残念ながら,理屈は不意に訪れる危機的状況に対して無力です.例えば,駅のプラットフォームから誰かが線路上に落ちたのを見て,咄嗟に飛び降りて助ける.あるいは,船から落水した人を瞬時に飛び込んで救出する.これがわたしのいう倫理です.さらにいうなら,救出と引き換えに自らの命を失うこともあります.これも理屈が介在しない究極の倫理,つまり献身です.
ついでに言っておくと,わたしは Foucault をまったく評価しません.単なるキモいオヤジ(オネエ?)です(笑).(…) 
近いうちにフジタゼミで初期から晩年に至るまでのラカン思想の変遷と内容について総括的なお話をしましょう.タイトルは「予備知識がなくても二時間でラカンのすべてがわかる」です(笑).ラカンって所詮その程度です(笑).眉間にシワを寄せて難しいことを論ずる必要はまったくありません.(…) 
「二時間」は一時間にしようと思ったのですが,少し詳細に説明しようと考えて二時間にしました.ラカンの思想内容は実はラカン固有の思考法を知ると「なあんだ」という種明かし的な筋道がわかると言うことです.... 
いずれにせよ,ラカンを過大評価しないことが大切です.
それから以前も言いましたが,第七回セミネール『精神分析の倫理』全体をラカン自身は否定していますよね.あまりレフェランスとして出さない方が良いですよ.(…) 
『アンコール』の翻訳は既に一通り終わっています.訳者の感想を述べておくと「ラカン・マジック」とでもいうべき知的催眠の罠が,ある時は形式,ある時は内容として,随所に蒔かれており,それに読者は酔ってしまうのだろうと思います.(…) 
わたしが提唱している「ホログラフィック精神分析」の革新性が理解される頃にはわたしはこの世にいないのかもしれない...(苦笑).(…) 
[分析家が]いわゆる教育分析を受けているかいないかという古くて新しい問題は,その分析家が分析家としての機能を保持しているかどうかのメルクマールにはなりません. 
わたし自身も教育分析をまったく受けたことがないわけではありませんが,教育分析をする人がお粗末な場合が殆どです.サンブラン [ semblant : 仮象 ] だとばれてしまうのです(苦笑). 
それよりも,以前からわたしが主張している「大自然こそが偉大な分析家」というテーゼの意味を理解していただけることを願っています. 
一つ重要なことを付け加えておきます.それは,ラカンの精神分析を忠実に実行すると,クライエントの自殺を誘発する可能性があるということです. 
長期にわたって精神分析を受けている著名な方を何人か知っていますが,わたしには「精神分析の罠に引っかかって人生を無駄にしている」ようにしか見えません. 
むしろ精神分析はクライエントをダメにしているようにすら見えます.これをひと言でいうと「精神分析はクライエントを別の仕方で去勢する」となるでしょう. 
その証拠として,長期にわたって分析を受けている人の殆どが男性です.男性に偏っているのです. 
ここに,精神分析が仕掛けている罠の秘密が隠されています.精神分析に入れ込んでしまう心理は,一神教的なファナティズムと無縁ではありません.知らないうちに連綿と続いているヤハウェの亡霊に支配されているのです. 
そうではなく,人生はもっと朗らか,多世界的,多神教的なものだと知るべきでしょう.何よりもまず,大自然がそれを教えてくれています.(…) 
自分の分析家が誰だったか言いたがる人はそれだけでダメです.恋愛の暴露自慢話に似ています.わたしは30代の頃にとある人に教育分析を数回受けましたが,誰だったかは口が裂けても絶対に言いません(笑).(…) 
わたしの場合,早々と分析家に失望してしまったので...」.

まず予備的にひとつ指摘しておくなら,藤田博史氏は差別主義者と homophobe の本性を露呈しています:「わたしは Michel Foucault をまったく評価しません.単なるキモいオヤジ(オネエ?)です(笑).」

ここで,マタイ福音書 12,31-32 からイェスの言葉を引用しましょう:

「あらゆる罪,あらゆる冒涜は赦される.しかし,霊気[聖霊]に対する冒涜は赦されない.或る者が人の子に逆らう言葉を発しても,それは赦される.しかし,聖なる霊気[聖霊]に逆らう言葉を発するなら,それは,この世においても来るべき世においても赦されない.」

愛の神を説くイェスの言葉としては,驚くべきものです.或る神父様が説教のなかで,神の恵みを拒否してはならないということだ,と解説したことがありましたが,納得はできません.すぐさま了解しようとしないで,謎は謎として,神秘は神秘として,こころのなかであたため続けておきましょう.

Lacan の言葉にもいまだにまったくわからないことが多々あります.たとえば Télévision のなかのこの文 : canaille には精神分析は拒否されねばならない.なぜなら精神分析によって canaille はけだものになるから (Autres écrits, p.543)

canaille とは,倫理的に言って非常に蔑まれるべき者のことです.下司(げす)と訳すこともできるでしょう.

しかし,悪の根源は抹消された 存在 φ そのものですから,我々は皆,原罪を負う罪人なのです.むしろ自分の罪を認め,自分を悪と認めることは,罪の赦しのために必要不可欠なことです.

canaille の対極に位置づけられる Lacan の概念は,Bien-dire[善言]でしょう.「善言」とは,存在 を解脱実存として守護すべく,存在 に自有されて,存在 の宿として実存を生きることです.

そのような実存様態を Lacan は聖人になぞらえました.

ですから,canaille の反対概念は聖人である,と言ってもよいでしょう.

今一度 canaille の語義を辞書で確認すると,vulgaire, avec une pointe de perversité とあります:若干倒錯ぎみの下品な者.

とすると,canaille は分析によってけだものになる,と Lacan が言うとき,この「けだもの」は倒錯者のことを差し徴しているのかもしれません.どのような倒錯者かははっきりわかりませんが,例えば,自己中心的な sadique を思い浮かべてもよいかもしれません.

それまで可能的にすぎなかった性倒錯的構造が精神分析を経験することによって顕在化し,確固たるものとなってしまう.これは考えられることです.しかし,精神分析に導入するための予備面接の段階で如何にしてそのことが予想されるのかは,今のところ明確にはわかりません.

また,精神分析の周辺には,妄想形成の可能性を有する者が引き寄せられます.そのような者は,精神分析から出発して,奇妙な独自の理論的体系を作り上げる傾向があります.たとえば Wilhelm Reich (1897-1957) の名を思い出せばよいでしょう.(中略)

藤田博史先生の精神分析に関する発言はこのところかなり穏当を欠いたものになってきています.もはや見過ごすことはできなくなってきました.先ほど述べたことのなかで若干の示唆はしましたが,もう少し具体的に指摘しましょう.

まず,Lacan Séminaire VII 『精神分析の倫理』全体をみづから否定している,という藤田博史先生の意見は,Séminaire XX Encore の冒頭での Lacan の発言の完全な読み間違いに基づいています.

そこにおいて Lacan « il m’est arrivé de ne pas publier l’Éthique de la psychanalyse » と言っています.直訳すると,「精神分析の倫理を出版しないことが,わたしに起こった」.いつ?

Jacques-Alain Miller によると,Lacan は一時期みづから『精神分析の倫理』の Séminaire のテクスト編纂を試みていました.

もし Lacan がその作業を断念したのだとすれば,その理由は複数考えられます.例えば,その後の思考の展開を『精神分析の倫理』のなかにもりこみたくなってしまうから.

1972年の時点から見れば,10年以上前に行ったセミネールで言ったことは不十分に見えて当然です.特に,1959-60年の時点では Lacan transgression[違反]という概念を重視していました.これは,構造


において a から φ への越境の動きを強調することです.つまり,a から出発しています.このことは,Heidegger が『存在と時間』において Dasein から出発していることと同等です.

しかし,その後 Heidegger が Dasein からではなく,存在 (Seyn) そのものから出発すべく方向転換したのと同等に,Lacan も a からではなく,φ そのものから出発します.このことは,Lacan の教えにおいて重心が symbolique から réel へ移ったことにうかがえます.


ですから,10年以上前に行ったセミネールのテクストを自分で編纂しようとすると大幅に手を入れたくなってしまう誘惑が Lacan にとってあまりに強かったのかもしれません.ですから,Lacan はその作業を Jacques-Alain Miller に任せました.


Jacques-Alain Miller は,『精神分析の倫理』を出版するなと Lacan から要請されたことは一度も無いはずです.彼がそんなことを言っているのを聞いたことも読んだこともありません.


27 January 2015


藤田博史氏は,Lacan に関して事実に反することを発言し続けています.


藤田博史氏は 1月27日,Facebook 上でこう言いました:

L’Éthique de la psychanalyse は Lacan の強い意思により,生前に出版される事はありませんでした.部分修正などではなく出版しないという決断であることが重要なのです.つまりすべてをお蔵入りにさせたのです.しかし Miller がその意思に反して出版してしまった.それが我々の手元にある Miller 版の L’Éthique です.

このような藤田博史氏の発言に対して,我々は,Lacan の Séminaire XX Encore, p.50, 1973年02月13日の講義から引用しましょう:



[精神分析の倫理のセミネールにおいて]倫理についてわたしが言ったことの速記録にもとづいて書かれたもの,タイプされたものは,当時,わたしを国際精神分析協会の注目の的にしようとしていた者たち[Lacan を排除したいと思っていた分析家たち]にとっておおいに利用価値のあるものになるとわたしには思われた.結果は周知のとおりである.彼らは,ともあれ,精神分析が有する倫理的なことがらについてのわたしの考察は沈没してしまわぬよう望んでいた.わたしはぽしゃり,『精神分析の倫理』は水面に浮かんだまま — そうなればしめたもんだ,と彼らは思っていた.取らぬ狸の皮算用の一例である.[なぜなら]その『精神分析の倫理』の出版をわたしは阻止したから.わたしはそれを拒否した.わたしを欲しない人々を説得しようとは思わないがゆえに. 
説得 [ convaincre ] してはいけない.精神分析の特質,それは,説き伏せ [ vaincre ] ないことである — 相手がバカ [ con ] であろうとなかろうと. 
ともあれ,それ[精神分析の倫理のセミネール]は,つまるところ,非常に出来の良いセミネールである. 
先ほど言及した皮算用には加わっていなかったある者 [ Mustapha Safouan ] が,当時,何の下心も無く,心をこめてテクストを作ってくれた.[精神分析の倫理のセミネールを]一冊の書にしてくれたのだ.[ただし]それは彼の著書である.勿論,彼は,それを自分のものにしようとは夢にも思わなかった.もしわたしが欲したなら,彼はそれをそのまま出しただろう.[だが]わたしは欲しなかった. 
それ[精神分析の倫理のセミネール]は,多分,今日,すべてのセミネールのなかで,わたしがみづから書き直して,ひとつの書にしたい思っている唯一のものである.とにかく,何か一篇書かねばならない.そのセミネールを選ばない理由は無い.

以上から明らかなように,Lacan は『精神分析の倫理』の出来を自分でも肯定的に評価しており,みづからテクスト編纂して出版するつもりでした.そのことを初めて表明したのは1969年 2月26日のセミネールにおいてです.そして,先ほど引用したように,Encore のセミネールで1973年 2月13日,『精神分析の倫理』を自分で本にするつもりだと Lacan は言っています.


Encore の冒頭をもう一度読み直してみましょう : « Il m'est arrivé de ne pas publier l’Éthique de la psychanalyse. En ce temps-là, c' était chez moi une forme de la politesse... »


ふたつめの文の時制,半過去は,いつのことをさしているのか?


En ce temps-là[当時は]は,Encore p.50 で述べられていることがらが起きた時点,つまり,Lacan が IPA [国際精神分析協会]から追放される暫く前のことをさしています.


先ほど引用した箇所,Encore p.50 で述べられていることによると,おそらく1962-63年ころ,Lacan は,精神分析の倫理に関する考察が IPA 派に利用されないよう,搾取されないよう,その出版を拒みました.


さらに,Lacan の唯一のエジプト人弟子 Mustapha Safouan が作成したテクストの出版も許可しませんでした.これはおそらく1960年代なかばころのことでしょう.


その代わりに,1968-69年ころ,『精神分析の倫理』をみづから本にして出版しようと思い始めました.その考えは1973年02月の時点でも維持されています.


ですから,Encore の冒頭,1972年11月の時点でも Lacan は Séminaire VII を出版するつもりであったと推定されます.


したがって,Encore の冒頭の文は,「精神分析の倫理を出版しないことにした」ではなく,「精神分析の倫理を出版する機会が過去にあったが,そのときはそうしなかった」と読むべきです.


そう読めば,それに続く言葉:「当時,わたしにおいて,それは一種の礼儀正しさだった」が意味において無理なくつながります.


かくして,藤田博史先生の Encore の当該箇所の読みは全く正しくないことが証明されました.


藤田博史先生が述べていることとは全く逆に,Lacan は『精神分析の倫理』で言ったことをみづから評価しており,積極的に本にして出版するつもりだったのです.


藤田博史先生は「第七回セミネール『精神分析の倫理』全体をラカン自身は否定しています」と言っていますが,それは完全な誤読です.


藤田博史先生は Freud も Lacan もほとんどすべて原語で読んだと自慢していますが,このような誤読をしていたのではしょうがありません.


藤田博史先生は「ラカンを読んでも得るものはありませんでした」と言っていますが,それは,彼が Lacan の文章を正確に読解することができていなかったからにほかなりません.


当然,藤田博史先生が翻訳出版する『アンコール』の翻訳の質もマユツバものです.フランス人に手伝ってもらったそうですが,フランス人なら Lacan を読めるというのであれば,フランスで誰も Lacan の読解にあんなに苦労はせずに済んでいたことでしょう.


藤田博史先生は,「ラカンがどうしてもうダメなのか近いうちにまたゼミで詳細にお話ししたいと思います」と言う前に,どうして自分のラカン読解がダメであったのかをよく反省すべきです.


28 January 2015


Séminaire XX Encore の冒頭部分についてより詳しく解説してみましょう.


1963年に国際精神分析協会 IPA からの Lacan の追放が決定される前,1959-60年に行われた Séminaire VII『精神分析の倫理』の出版ないし公表の動きがありました.それは Lacan 自身によるものではなく,Lacan を排除しようとする分析家たちの側からのものでした.


彼らはふたつの意図を有していました.ひとつは,『精神分析の倫理』のテクストを公表することによって Lacan の所説の「異端性」を IPA に対して証明すること.もうひとつは,逆に,『精神分析の倫理』における Lacan の所説を自分たちのために利用すること.


以上のことは,Encore, p.50 で Lacan 自身が指摘しています.


そのような悪意を持った者たちに対応するため,Lacan は『精神分析の倫理』のテクストの出版ないし公表を拒絶し,阻止しました.


その時点を正確に特定するのは困難ですが,いずれにせよ,1961から63年までの期間です.


Encore の最初の文は,したがって,こう訳せるでしょう :「かつて,わたしは,『精神分析の倫理』の出版・公表を拒否したことがあった.」


ふたつめの文で Lacan はこう言っています:「当時,わたしとしては,それは一種の礼儀正しさであった.」


それは,Lacan を利用しようとした分析家たちへの皮肉です.


après vous, je vous en prie[どうぞお先に]という礼儀正しさの言葉によって Lacan の謂わんとするところは,こうです: 精神分析の倫理についてわたしが教えたことを,あなたたちに利用させるわけには行かない.精神分析の倫理についてあなたたちが何か言い得ることを持っているなら,どうぞお先に言ってください.


「お先にどうぞ」は,1961-63年当時,Lacan を排除しようとしつつも彼の教えだけは利用しようとしたフランスの精神分析家たちへ向けられた皮肉です.


« après vous, je vous en prie » に続く言葉 « je vous en pire » で Lacan は prie を pire と言い換えています.


前年度の Séminaire XIX ...ou pire の表題に含まれている pire です.pire は「より悪く」.定冠詞の付いた le pire は「最悪」.1973年の Télévision の末尾にもこの語は登場します : du père au pire[父から悪へ].


je vous en pire は,je vous en prie[どうぞ]という定型表現の最後の語を anagramme で置き換えたものです.そこに pire[より悪く,最悪]という語を聴き取ることができるように.


悪とは何か?


善悪二元論で考えてはいけません.善悪の彼方 (Jenseits von Gut und Böse) を考えねばなりません.書かれたものとしての律法・法律によって規定される善と悪との対立を越えたところを考えねばなりません.


善悪の彼方,それは存在です.ただし,通常の意味における存在ではなく,φ としての 存在 です.


du père au pire[父から悪へ].


この場合,父は,律法を与えるものとしての父です.父の名 le Nom-du-Père と言い換えてもよいでしょう.


それに対して,悪は,存在,すなわち,ex-sistence としての実在 (le réel) のことです.


父から悪へ.その場合,父の名は,仮象的な徴示素としての父の名です.


仮象を罷免して,実在そのものへ至るべし.それが,精神分析の倫理です.


仮象的な律法を廃して,実在そのものとして自有発起すべし.


自有 (Ereignis) においてこそ,自由 (Freiheit) はその本有において実現されます.


仮象的律法が支配者の座に位置する異状 (aliénation) から,仮象の罷免により,自有 (Ereignis) へ至るべし.それが,精神分析の倫理です.


「父から悪へ」は,「異状から自有へ」と等価です.


そして,罪悪の赦しによる最高善,死からの復活による永遠の命は,自有において達成されます.悪と死へ至ることによって初めて,自有において,善と命が発起します.


ちなみに,藤田博史先生は,「ラカンの精神分析を忠実に実行すると,クライエントの自殺を誘発する可能性がある」と言っています.確かに,もし藤田博史先生が「ラカンの精神分析を忠実に実行」すれば,そうなるかもしれません.なぜなら,藤田博史先生は,罪の赦しと死からの復活の展望を持っていないからです.


罪の赦しと死からの復活の展望を持たぬままに,分離において悪と死そのものへ至らせれば,当然,自殺が起きます.みづから教育分析を経験していない者が分析家の言説の構造を利用して分析家として機能すれば,そのようなことが起こり得ます.


「わたしは30代の頃にとある人に教育分析を数回受けました」と藤田博史先生は言っていますが,その程度の分析経験では教育分析とは言えません.


彼が精神分析家を名のるのは勝手ですが,彼がみづから認めるとおり,彼が「ラカンの精神分析を忠実に実行すればクライエントの自殺を誘発」しかねません.


ですから,やはり藤田博史先生自身が認めているように,藤田博史先生には,Jean-Jacques Rousseau のように「自然へ帰れ」がふさわしいのです.それであれば,自殺を誘発してしまうことはありません.


そして,藤田博史先生が「ホログラフィック精神分析」と名づける精神分析ならざるなにごとか(Wilhelm Reich の Orgone 論に類似のもの)を熱く語っているだけであれば,自殺を誘発することはありません.


こころからそう願っています.


29 January 2015


「あらゆる罪,あらゆる冒涜は赦される.しかし,霊気[聖霊]に対する冒涜は赦されない.或る者が人の子に逆らう言葉を発しても,それは赦される.しかし,聖なる霊気[聖霊]に逆らう言葉を発するなら,それは,この世においても来るべき世においても赦されない.」 (マタイ福音書 12,31-32).


通常「聖霊」と訳される語は Sanctus Spiritus, Saint Esprit です.Spiritus は「霊」ではなく「気」,「精気」です.とりあえず「霊気」としましょう.


藤田博史先生の批判をもう少し続けましょう.彼はこう言いました:「長期にわたり精神分析を受けている人々は,わたしには,精神分析の罠に引っかかって人生を無駄にしているようにしか見えません.」


Lacan との精神分析の経験の証言を著書として出版した Pierre Rey も Gérard Haddad も,10年以上にわたり Lacan と分析をしていました.そして彼らは,その経験が如何に実存的に有意義であったかを証言しています.


Lacan の教えに基づく精神分析は,主体の 存在 の真理をめぐって展開されます.長年の努力の末についに 存在 の深淵に達したとき,死からの復活が成起します.そのような精神分析の経験は,語の真の意味において spirituel なもの,霊気的なものです.


藤田博史先生は,そのような精神分析の spiritualité を全く把握することができていません.彼には,人間の生の最も本自的なものを求める spirituel な試みは「人生の無駄」にしか見えないのです.


精神分析の spiritualité を揶揄する藤田博史先生は「Spiritus に逆らう言葉を発している」にほかなりません.「それは,この世においても来るべき世においても赦されない」ことである,とイェスは言っています.ただし,こう付け加えるべきでしょう: 心から悔いない限り.


藤田博史先生が Spiritus に対して犯した過誤に気づき,こころから悔い改めることができるよう,彼のために祈りましょう.


藤田博史先生はさらに,「精神分析に入れ込んでしまう心理は,一神教的なファナティズムと無縁ではありません.知らないうちに連綿と続いているヤハウェの亡霊に支配されているのです」と言っています.


つまり彼は,Lacan の言う Un (一,いち)について何も理解していないのです.


Lacan の言う Un (一,いち)は,「一神教」と言うときにかかわる「一」です.


そして,Séminaire XX Encore を翻訳しようとするなら,Lacan の言う Un (一,いち)が何であるのかを把握していなければなりません.


精神分析においてかかわるのは,主体の 存在 の真理です.


その真理とは,Heidegger の表現においては,「本源的な 存在 は己れを隠し,己れを離退している」ということです.Lacan はそれを「実在とは不可能在である」という命題で表現しました.


一神教と言うときの「一」は,YHWH の名そのものです.一とは,書かれないことをやめない不可能な名としての YHWH そのものです.そして,それは,己れを隠すことをやめない主体の 存在 の真理そのものです.


そのような意味での一(いち)をめぐってかかわっているのは,fanatisme ではなく,主体の 存在 の真理を求める最も真摯な spiritualité であり,最も spirituel な真摯さです.


つまり,分析を数回でやめてしまった藤田博史先生にまさに欠けているものです.


Lacan はどこかで「真摯 (sérieux) であることは,sériel であることだ」と言っています.sériel であるとは,série を成すことです.いつ終わるのかが始めから定められているわけではない精神分析の経験を構成する面接の継起を生きることです.


分析を数回でやめてしまった藤田博史先生に欠けているのは,そのような意味での真摯さです.


藤田博史先生は,「自分の分析家が誰だったか言いたがる人はそれだけでダメです」と言っていますが,それは,みづからそうすることはできないからにほかなりません.つまり,精神分析家としての正当性は自分には無い,と彼はみづから告白しているわけです.


藤田博史先生が精神分析家を自称しながらも精神分析の真理を見ることが如何にできていないかを指摘することは,ひとまずここまでにしておきましょう.


単なる哲学者や社会学者ならいざ知らず,彼のような立場の人が精神分析を公然と誹謗中傷するなら,それなりの反論を受けるであろうことは,彼もあらかじめわかっていたはずです.


小笠原晋也

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