2023年7月24日

רוּחַ (πνεῦμα, spiritus) — いつまでも「霊」のままで よいのですか?

Estella Canziani (1887-1964) : Pentecost

רוּחַ (πνεῦμα, spiritus) — いつまでも「霊」のままで よいのですか?



§ 1. 聖書のなかで「霊」が単独で用いられると…


このエッセーは,ミサの開始の際の交唱:


℟. Et cum spiritu tuo.

の 答唱の言葉が 現行のミサ式文において「また あなたとともに」と訳されてしまったことに対する 違和感にもとづいて,書かれました.

さて,昨日(2023年07月23日,年間 第 16 主日,A 年)の ミサに与った方々は,「聖書と典礼」の 第 2 朗読 (Rm 8,26-27) において「霊」という語に 奇妙な引用符のようなものが付されてあるのに 気がついたでしょう:

皆さん,
26 〝霊〟は 弱いわたしたちを 助けてくださいます.わたしたちは どう祈るべきかを 知りませんが,〝霊〟自らが 言葉に表せないうめきをもって 執り成してくださるからです.
27 人の心を見抜く方は,〝霊〟の思いが何であるかを 知っておられます.〝霊〟は,神の御心に従って,聖なる者たちのために 執り成してくださるからです.

「聖書と典礼」に掲載されている 聖書の文面は,あいかわらず 新共同訳 (1987) に もとづいています.より新しい 聖書協会共同訳 (2018) では,その記号は除去されています:

26 霊も また 同じように,弱い私たちを助けてくださいます.私たちは どう祈るべきかを知りませんが,霊 自らが 言葉に表せない呻きをもって 執り成してくださるからです.
27 人の心を見極める方は,霊の思いが何であるかを 知っておられます.霊は,神の御心に従って 聖なる者のために 執り成してくださるからです.

ギリシャ語原文*を確認しましょう:

26 Ὡσαύτως δὲ καὶ τὸ πνεῦμα συναντιλαμβάνεται τῇ ἀσθενείᾳ ἡμῶν· τὸ γὰρ τί προσευξώμεθα καθὸ δεῖ οὐκ οἴδαμεν, ἀλλὰ αὐτὸ τὸ πνεῦμα ὑπερεντυγχάνει στεναγμοῖς ἀλαλήτοις·
27 ὁ δὲ ἐραυνῶν τὰς καρδίας οἶδεν τί τὸ φρόνημα τοῦ πνεύματος, ὅτι κατὰ θεὸν ἐντυγχάνει ὑπὲρ ἁγίων.

「霊」と訳されている語は πνεῦμα です.τὸ ἅγιον πνεῦμα または τὸ πνεῦμα τὸ ἅγιον は「聖霊」です.ですから,確かに,πνεῦμα という語が単独で用いられていれば,それを,「聖霊」から「聖」を除去して,「霊」と訳すのは ある意味で 当然です.

ところが,新共同訳の訳者たちは,聖書協会共同訳の訳者たちとは異なり,「聖」なしに「霊」とだけ言うことを ためらいました.なぜか? 我々にも 容易に想像できます :「霊」という漢字は,それ単独で 日本語の文章のなかで用いられれば,容易に「幽霊」,「霊園」,「御霊前」,「英霊」などの表現を喚起するからです — つまり,「死者の霊魂」です.

最近 たまたま見かけた この記事のなかでは,堀江 宗正 氏(東京大学 大学院 人文社会系研究科 教授)は「霊という文字の 暗いイメージ」と 言っています.なぜ暗いのか? 当然,今しがた言ったように,それは「死」ないし「死者」を 容易に連想させるからです.

それゆえ,新共同訳の訳者たちは「霊」に あの奇妙な引用符のような記号を付しました — この「霊」は,死者の霊魂のことではなく,聖霊の「霊」のことなのだ ということを 読む者に 示唆するために.しかし,聖書協会共同訳の訳者たちは,その奇妙な記号を 目障りなものとして 除去したのでしょう — いまさら 聖書で言う「霊」が「死者の霊魂」のことであると誤解する者は いないだろう と思って…

しかし,そうでしょうか? それは,聖書協会共同訳の訳者たちの視線が もっぱらクリスチャンたちのサークルのなかへ向けられていることを 示しているだけではないでしょうか? つまり,「君たち,言わなくても わかるよね…」という 仲間うちの馴れあいです.

ところが,実際には,「霊」という漢字は,邦訳聖書のなかで,たとえば「けがれた霊」(ἀκάθαρτον πνεῦμα) あるいは「悪霊」(δαίμων, δαιμόνιον) という表現のなかで使われてもいます(それらの場合に「霊」と言うことに 違和感はありません).また,単独で用いられている「霊」(πνεῦμα) が「悪霊」ないし「不浄な霊」である場合もあります (e.g. Lc 9,39).

わたしたちは,「聖霊」という表現には,それにあまりに慣れすぎてしまっているので,違和感を持ちませんが,「霊」を「聖霊」を指すために 単独で用いることに対しては 違和感を持ちます.その理由は,上に述べたとおりです.


§ 2. « Et cum spiritu tuo » が「また あなたとともに」になってしまった…


冒頭で触れたように,昨年 11月27日(典礼暦上の今年度の初日,待降節 第 1 主日)から用いられ始めた ミサ式文においては,ミサ開始直後の交唱の答唱を構成する « Et cum spiritu tuo » という言葉の邦訳から spiritus(「聖霊」の「霊」)に相当する語が まったく抜け落ちています(由々しき事態です!) そして,その理由は,上に述べたように,「霊」の字を単独で用いることに対する 違和感です — それが「死」や「死者」を連想させるがゆえに.

ラテン語の式文を 見てみましょう:

℣. Gratia Domini nostri Jesu Christi, et caritas Dei, et communicatio Sancti Spiritus sit cum omnibus vobis.

℟. Et cum spiritu tuo.

℣. 我らの主 イェス キリストの 恵み,および 神の愛,および Sanctus Spiritus の 交わりが,あなたたちすべてとともに あるように.

℟. および,あなたの spiritus とともに[あるように].

現行の式文では,司式者の「主 イェス キリストの 恵み,神の愛,聖霊の交わりが 皆さんとともに」に対して,会衆は こう応じます:「また あなたとともに」.そして,皆さん 覚えていらっしゃるように,以前は「また 司祭とともに」と 言っていました.

しかし,現行の式文も 以前の式文も,翻訳の忠実さの観点から見れば,ごまかしでしかありません.「また 司祭とともに」も「また あなたとともに」も,「また あなたの霊とともに」と言うことを避けるための ごまかしです.

なぜ「また あなたの霊とともに」と言いたくないのか? それは,再三 指摘しているように,「あなたの霊」という表現が これらのようなものを連想させるからです :「あなたの幽霊」,「あなたの死霊」,「あなたの生霊」,「死者である あなたの 霊魂」,「あなたの背後霊」等々 — まるで オカルトです!

しかし,だからといって,spiritus を — キリスト教において 本質的に重要な この単語を — 省略してしまったり ごまかしてしまったりして よいのでしょうか?


§ 3. רוּחַ (πνεῦμα, spiritus) とは 何か?


では,その単語を 省略することも ごまかすこともなく 邦訳し得るためには,どうすればよいか? その語の訳し方を改めるしかありません — Sanctus Spiritus を「聖霊」と訳すことも含めて.

そして,そのためには,聖書において πνεῦμα (spiritus) は 本質的に言って 何であるのかを 問い直す必要があります.

それは 何か? それは「神の息吹」です.創世記の冒頭 (Gn 1,01-02) を あらためて 見てみましょう:

בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ

וְהָאָרֶץ הָיְתָה תֹהוּ וָבֹהוּ וְחֹשֶׁךְ עַל־פְּנֵי תְהוֹם וְרוּחַ אֱלֹהִים מְרַחֶפֶת עַל־פְּנֵי הַמָּֽיִם

1 はじめに,神は 創造した — 天と 地とを.

2 そのとき,地は[まだ]空無であった;そして,闇が 深淵の面に あった;そして,神の רוּחַ (ruach) が 水の面を 覆っていた.

この「神の ruach(ルアーハ)」こそが「神の息吹」です.それは,Septuaginta では πνεῦμα θεοῦ と訳されており,Vulgata では Spiritus Dei と訳されています.それは,「さあ,これから 無からの創造 (creatio ex nihilo) が 始まるぞ」という わくわくさせる場面に 登場してくるのですから,このうえなく 生き生きとしたもの — 存在の原理,生命的なものの原理 — です.

ところが,新共同訳も 聖書協会共同訳も,それを「神の霊」と訳してしまっています — このうえなく「死に死に」とした「霊」を以て!

いったい,もう少しましな邦訳をした人はいなかったのだろうか?と思って,調べてみると,ありました ! Federico Barbaro 神父 SDB (1913-1996) は こう訳しています:「水のうえに 神の息吹が 舞っていた」.

さらに,Barbaro 神父は,訳注において,詩篇 33,06 を 引用しています: 

בִּדְבַר יְהוָה שָׁמַיִם נַעֲשׂו
וּבְרוּחַ פִּיו כָּל־צְבָאָֽם
 
YHWH の dabar[ことば]によって 天は 造られた;
そして,彼の口の ruach[息吹]によって 天の軍すべては[造られた].

ちなみに,新共同訳および聖書協会共同訳は,この ruach を どう訳しているでしょうか? 新共同訳は「主の口の息吹」,聖書協会共同訳は「主の口の息」!  おいおい !「霊」じゃないのかよ ??!! 責任者を出せ !...

というわけで,πνεῦμα (spiritus) を「息吹」と訳してみましょう.すると,ミサの開始における 司式者と 会衆との 交唱は,こうなります:

℣. 我らの主 イェス キリストの 恵み,神の愛,聖なる息吹の 交わりが,あなたたち皆とともに あるように.

℟. また,あなたの息吹とともに.

悪くないですね!

「あなたの息吹」は,司式者が神から受けた聖なる息吹の分け前です.そして,司式者だけでなく,わたしたちも,聖なる息吹を 神からいただいています;それによってこそ わたしたちは 皆 生きています — 聖書 (Gn 2,07) に こう書かれてあるように: 
 
וַיִּיצֶר יְהוָה אֱלֹהִים אֶת־הָֽאָדָם עָפָר מִן־הָאֲדָמָה וַיִּפַּח בְּאַפָּיו 
נִשְׁמַת חַיִּים וַֽיְהִי הָֽאָדָם לְנֶפֶשׁ חַיָּֽה

そして,YHWH は,人間 ( אָדָם : adam ) を 土 ( אֲדָמָה : adamah ) の 塵で 造った;そして,彼[人間]の 鼻へ いのちの息 ( נִשְׁמַת חַיִּים : nishemath hayyim ) を 吹き込んだ;かくして,人間は 生きている生命 ( נֶפֶשׁ חַיָּֽה : nephesh hayah ) になった.

この「人間」(adam) と「土」(adamah) との 言葉遊びのことは,皆さんも どこかで 聞いたことがあるでしょう.

נְשָׁמָה (neshamah) は רוּחַ (ruach) の 同義語です.

חַיִּים (hayyim) は,ギリシャ語では ζωή と訳される「いのち」,すなわち,「神のいのち」としての「永遠のいのち」のことです.

そして,נֶפֶשׁ חַיָּֽה (nephesh hayah) という表現は,聖書の ほかのところでは,単純に「生きもの」という意味でも使われていますが,ここでは より深い意味を読み込んでもよいでしょう:神によって神の息吹を吹き込まれたわたしたちは,単純に 地上的ないのち(nephesh : この語は,ギリシャ語では ψυχή と訳され,「地上的な いのち,動物的な いのち」のことを言います)を生きているだけでなく,神のいのち ( חַיִּים : hayyim ) — 永遠のいのち — をも 生きているのだ — 我々が現に生きている存在において.つまり,我々は 皆 an sich に(自然的に,そのものにおいて)永遠のいのちを 生きています;そして,そのとき,我々に必要なのは,このことです:信仰において,永遠のいのちを an und für sich に(自然的 かつ 自覚的に)生きることができるようになること.

かくして,רוּחַ (πνεῦμα, spiritus) が 何であるかが,より明確になりました:それは,それによって 神が わたしたちに いのちを与えてくれるところの 神の「息吹」です.

ただ,この訳語の問題点は,πνευματικός (spiritualis) という形容詞を訳する際に「息吹」を利用することができない ということです.しかたがないので,形容詞は「精神的」と訳しましょう — Hegel の Phänomenologie des Geistes は 伝統的に「精神の現象学」と訳されていますから(ドイツ語の Geist は רוּחַ , πνεῦμα, spiritus を翻訳するために用いられる語です).

そして,それによって,わたしたちは,「精神」という語に キリスト教的な意義を 改めて吹き込むこともできます.というのも,Hegel の その著作が『精神の現象学』と訳されたことによって,その著作とキリスト教神学との本質的なつながりが キリスト教を知らない者たちにとっては まったく隠されてしまっているからです.わたし自身,学生時代に邦訳で読んだときには,なぜ Hegel が その書の終わりに近いところで 宗教を論じているのか,理解できませんでした — 彼がかつて神学生であったことは 知っていましたが.その書とキリスト教との本質的なつながりに気づいたのは,わたしが洗礼を受けたあとに それをドイツ語原文で読んだときでした.


§ 4.「聖霊」という訳語は いつごろ 誰によって 如何にして 作られたか?


最後に,「聖霊」という訳語が いつごろ 誰によって 如何にして 造られたのかを,見てみましょう —『聖書の日本語 — 翻訳の歴史』**(鈴木範久 著,岩波書店,2006年)に準拠して.

16世紀末に作成された教理解説書『どちりな きりしたん』においては,たとえば,“In nomine Patris et Filii et Spiritus Sancti — Amen” は「イン ノミネ パアチリス エツ ヒイリイ エツ スピリツス サンチ — アメン」と そのまま カタカナで表記されています(当時は ミサは ラテン語で行われていましたから,当然といえば当然ですが).また,スペイン語の Espíritu Santo または ポルトガル語の Espírito Santo の語音にもとづく「スピリツ サント」という表記も 見出されます.要するに,その語は翻訳されていません.また,同じく 16世紀末に Manoel Barreto SJ (1564-1620) によって 部分的に邦訳された福音書(ローマ字表記)においても,spiritus という語は 邦訳されずに「スピリト」のままです.たとえば,Mt 5,03 の 彼による邦訳は こうです(ローマ字表記を 漢字-仮名-片仮名まじりで 書き直すと):

スピリトの貧者は 天の国を持つによって ベアトなり.

江戸時代末期から明治時代初期にかけて作成された聖書邦訳に関しては,鈴木範久氏は こう指摘しています :「聖書の日本語訳の歴史は,中国語訳の歴史に さかのぼる.(…)[17世紀から19世紀にかけて作成された]一連の中国語訳が日本語訳聖書に与えた影響は いちじるしい」.

まず,中国各地で宣教した Jean Basset 神父 MEP (1662-1707) は,Spiritus Sanctus を「聖神」または「聖風」と訳しました(この「聖神」という訳語は,日本の正教会において,いまでも Spiritus Sanctus の意味において 用いられています).

しかし,その後,Spiritus (πνεῦμα) をどう訳すかは,Deus (θεός) をどう訳すかとの連関において,揺れ動いてゆきます.

中国における本格的なキリスト教宣教を初めておこなった Matteo Ricci (1552-1610) は,Deus を「天主」と訳しました.その後,「上帝」という訳語も作られます.それらの場合は,問題なく Spiritus を「神」と訳すことができます.そして,実際,イギリス人の プロテスタント宣教師 Walter H. Medhurst (1796-1857) は,「神」は πνεῦμα の 最も適切な中国語訳である,と主張しました.その考えは,我々が 今 spirit, esprit, Geist を「精神」と訳し得ること および 今の日本の正教会で「聖神」という訳語が用いられ続けていることを見ても,妥当なものでしょう.

それに対して,同じく 19 世紀に USA から中国にやってきた プロテスタント宣教師たち — たとえば,Elijah C. Bridgman (1801-1861) や Michael S. Culbertson (1819-1862) — は,θεός を「神」と翻訳するよう 主張します.そして,その場合は,πνεῦμα は「霊」と翻訳されることになります.かくして,彼らが 1859年に出版した 中国語聖書において,θεός は「神」,ἅγιον πνεῦμα は「聖霊」と訳されます.そして,それらの訳語が 日本に輸入されることになります.

つまり,「聖霊」という訳語は,「聖神」という最も適切な訳語を使うことができなかったがゆえに やむをえず考案された代用品であったのだ,と言うことができるでしょう — しかも,アメリカ人のプロテスタント宣教師によって,19世紀なかばころに,中国における宣教のために.


§ 5.「霊」という訳語は キリスト教の理解を妨げる


Ignacio de Loyola の Ejercicios espirituales の〈川中 仁 神父 SJ(現 上智大学 神学部長)による〉新訳が まもなく出版されます.それは,たいへん喜ばしいことです.しかし,邦訳の表題は あいかわらず『霊操』です.

わたしは,Missions étrangères de Paris[パリ外国宣教会]の 司祭から洗礼を受けたので,数年前までは イェズス会士たちとは あまり縁がありませんでした.かつて,「霊操」という単語を初めて見たとき,わたしは,それを「霊の操(みさお)」と読んだので,貞潔に関する語だろうと思ったことを,思い出します.今でも「霊操」という訳語には なじめません.わたしは,Ignacio の その著作を フランス語訳で読んだので,フランス語の exercices spirituels または 英語の spiritual exercises の方が しっくり きます.

いっそのこと「スピリチュアル エクササイズ」とカタカナ書きすれば よいのではないか とも 思います.あえて 漢語で訳すなら「精神鍛錬」でしょうか… あまりに時代錯誤的...

わたしは こう思います : רוּחַ (πνεῦμα, spiritus) を「霊」と訳すことは,日本におけるキリスト教の理解と広まりに対して 障害にしかなっていないのではないか? なぜなら,その語は,רוּחַ (πνεῦμα, spiritus) が我々に与えてくれる いのちと 喜びを まったく表現し得ないからです.そして,そもそも,「聖霊」は,日本における宣教のために考案された訳語ではなかったのです.

Spiritus を どう邦訳するかを そろそろ見直してみてもよいのではないでしょうか ? — 特に,もし あなたが ミサのなかで「また あなたとともに」と言うことを よしとしたくないのであれば…

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* 上に述べたように,わたしは πνεῦμα を「息吹」と訳すことを 好みます.それにしたがって 訳すなら — および,耳障り-目障りな 過剰な敬語を用いずに 訳すなら —:

26 また,同様に,[神の]息吹は,我々の無力に対して 助けになってくれる;なぜなら このゆえに:我々は,何を しかるべきように 祈ればよいのかを 知らないが,しかして,息吹は みづから 言葉にならない呻きを以て[我々のために]執りなしてくれる.
27 そして,[我々の]心を探る方[神]は,息吹の意図が何であるのかを 知っている — なぜなら このゆえに:息吹は 神にしたがって 聖なる者たちのために 執りなしてくれる.

** 鈴木 範久 氏は『聖書の日本語』の 第 1 章の 最初の文において「イエズス会に属する ポルトガル人宣教師 ザビエル」と 書いているので,読む者は 彼のカトリックに関する知識の確かさを疑わざるをえません(Francisco Javier は スペイン人 または バスク人と呼ばれるべきです)が,同書の内容そのものは 興味深いものであり,参考になりました.

主よ,わたしは〈あなたが わたしのうちへ 入ってくださるに〉値しません;ですが,ただ ことばで「癒されよ」と 言ってください;そうすれば,わが魂は癒されるでしょう.

Paolo Veronese (1528–1588) : Cristo e il centurione di Cafarnao

主よ,わたしは〈あなたが わたしのうちへ 入ってくださるに〉値しません;ですが,ただ ことばで「癒されよ」と 言ってください;そうすれば,わが魂は癒されるでしょう.



典礼暦上の今年度(2022年11月27日 から 2023年12月02日まで)の 待降節 第 1 主日から 用いられ始めた 新たなミサ式文に,皆さんも なんとか慣れてきただろう と思います.

しかし,そのなかで新たに用いられるようになった表現に 不満がないわけではありません.最大の不満は「また あなたとともに」です.しかし,その点について論ずるのは あとまわしにして,ここでは,先に,聖体拝領直前に会衆が言うこの文言:「主よ,わたしは あなたをお迎えするに ふさわしい者では ありません.おことばをいただくだけで 救われます」について 検討してみましょう.

周知のように,その文言は,Mt 8,05-17(イェスが 百人隊長のしもべを癒す エピソード)において 百人隊長が イェスに対して発する 懇願のことばに もとづいて,考案されています.

あらためて Mt 8,08 の ギリシャ語原文を 見てみましょう:

καὶ ἀποκριθεὶς ὁ ἑκατόνταρχος ἔφη,

Κύριε, οὐκ εἰμὶ ἱκανὸς ἵνα μου ὑπὸ τὴν στέγην εἰσέλθῃς, ἀλλὰ μόνον εἰπὲ λόγῳ, καὶ ἰαθήσεται ὁ παῖς μου.

そして,百人隊長は 答えて 言った:

主よ,わたしは〈あなたが わが屋根のしたへ 入ってくださるに〉値しません;しかして,ただ ことばで 言ってください;そうすれば,わがしもべは癒されるでしょう.

ラテン語のミサ式文では,会衆はこう言うことになっています:

Domine, non sum dignus ut intrares sub tectum meum, sed tantum dic verbo, et sanabitur anima mea.

主よ,わたしは〈あなたが わが屋根のしたへ 入ってくださるに〉値しません;しかして,ただ ことばで 言ってください;そうすれば,わが魂は癒されるでしょう.

両者を比べてみると,異なるのは この点だけです:福音書の「わがしもべ」が 式文では「わが魂」に置き換えられている.

いづれにせよ,肝腎なのは このことです:主が わが屋根のしたへ — つまり,わたしの「うち」(家)へ —「入る」こと;なぜなら,ミサにおいて,主は,実際,御聖体として わたしたちの「うち」(からだのなか)へ 入ってくださるからです.

ところが,新しいミサ式文では,「迎える」という語が使われています.この「迎える」は,主が 御聖体として わたしたちのなかへ「入る」ということを 十分に 言い表しているでしょうか? わたしには そうは思えません.

また,新しい式文の「おことばをいただくだけで」は,原文では「ただ ことばで[「あなたは癒された」あるいは「あなたは癒されよ」と]言ってください」です.それは 懇願です;しかも,「主のことば」(ὁ Λόγος τοῦ Κυρίου, Verbum Domini) に対する強い信頼にもとづく懇願です.そのことが「おことばをいただくだけで」では表現されていません.

しかも,我々が「いただく」のは「おことば」ではなく,御聖体です.新しい式文を考案するときに,どうして ここで「いただく」という語(原文では用いられていない語)を用いたのか,理解に苦しみます.

最後に,ラテン語の式文では「そうすれば,わが魂は癒されるでしょう」と言うところで,日本語では「(わたしは)救われます」とだけ言います.なぜ「わが魂」を省いたのでしょうか? そして,なぜ「癒される」を わざわざ「救われる」に置き換えたのでしょうか? 説明不可能です.

しかし,日本語の式文は 今後 何十年か 改訂されることはないでしょう…

また,この機会に,Mt 5,08 の 英語,ドイツ語,フランス語,イタリア語の 翻訳を 見て,このことに気づきました —

たとえば Martin Luther は こう訳しています : 

Herr, ich bin nicht wert, daß du unter mein Dach gehest ; sondern sprich nur ein Wort, so wird mein Knecht gesund. 

そこにおいて注目されるのは „sprich ein Wort“ です.つまり,ein Wort[ひとつのことば]は 動詞 sprechen[話す,語る,言う]の 直接目的語(ドイツ語では 名詞や冠詞には格変化があり,ここでは ein Wort は 対格に 置かれています)となっています.そして,英語訳でも フランス語訳でも イタリア語訳でも,その点については 同じです.日本語に訳せば「ことばを言う」となります.

しかし,それでは,ギリシャ語およびラテン語における 与格 λόγῳ または 奪格 verbo の「ことばによって,ことばで」という意味が 再現されていません.百人隊長は,「ことばを たったひとことでよいので 言ってください」と言ったのではなく,こう言ったのです:「主よ,ただ ことばで[「彼は癒された」または「彼は癒されよ」と]言ってください」.

Martin Luther は,おそらく,厳密さをとても好む人物であったでしょう.なのに,なぜ 彼は その点に関して ちょっと杜撰だったのでしょうか? 不思議です.