Paolo Veronese (1528–1588) : Cristo e il centurione di Cafarnao
主よ,わたしは〈あなたが わたしのうちへ 入ってくださるに〉値しません;ですが,ただ ことばで「癒されよ」と 言ってください;そうすれば,わが魂は癒されるでしょう.
典礼暦上の今年度(2022年11月27日 から 2023年12月02日まで)の 待降節 第 1 主日から 用いられ始めた 新たなミサ式文に,皆さんも なんとか慣れてきただろう と思います.
しかし,そのなかで新たに用いられるようになった表現に 不満がないわけではありません.最大の不満は「また あなたとともに」です.しかし,その点について論ずるのは あとまわしにして,ここでは,先に,聖体拝領直前に会衆が言うこの文言:「主よ,わたしは あなたをお迎えするに ふさわしい者では ありません.おことばをいただくだけで 救われます」について 検討してみましょう.
周知のように,その文言は,Mt
8,05-17(イェスが 百人隊長のしもべを癒す エピソード)において 百人隊長が イェスに対して発する 懇願のことばに もとづいて,考案されています.
あらためて Mt 8,08 の ギリシャ語原文を 見てみましょう:
καὶ ἀποκριθεὶς ὁ ἑκατόνταρχος ἔφη,Κύριε, οὐκ εἰμὶ ἱκανὸς ἵνα μου ὑπὸ τὴν στέγην εἰσέλθῃς, ἀλλὰ μόνον εἰπὲ λόγῳ, καὶ ἰαθήσεται ὁ παῖς μου.そして,百人隊長は 答えて 言った:主よ,わたしは〈あなたが わが屋根のしたへ 入ってくださるに〉値しません;しかして,ただ ことばで 言ってください;そうすれば,わがしもべは癒されるでしょう.
ラテン語のミサ式文では,会衆はこう言うことになっています:
Domine, non sum dignus ut intrares sub tectum meum, sed tantum dic verbo, et sanabitur anima mea.主よ,わたしは〈あなたが わが屋根のしたへ 入ってくださるに〉値しません;しかして,ただ ことばで 言ってください;そうすれば,わが魂は癒されるでしょう.
両者を比べてみると,異なるのは この点だけです:福音書の「わがしもべ」が 式文では「わが魂」に置き換えられている.
いづれにせよ,肝腎なのは このことです:主が わが屋根のしたへ — つまり,わたしの「うち」(家)へ —「入る」こと;なぜなら,ミサにおいて,主は,実際,御聖体として わたしたちの「うち」(からだのなか)へ 入ってくださるからです.
ところが,新しいミサ式文では,「迎える」という語が使われています.この「迎える」は,主が 御聖体として わたしたちのなかへ「入る」ということを 十分に 言い表しているでしょうか? わたしには そうは思えません.
また,新しい式文の「おことばをいただくだけで」は,原文では「ただ ことばで[「あなたは癒された」あるいは「あなたは癒されよ」と]言ってください」です.それは 懇願です;しかも,「主のことば」(ὁ Λόγος τοῦ Κυρίου,
Verbum Domini) に対する強い信頼にもとづく懇願です.そのことが「おことばをいただくだけで」では表現されていません.
しかも,我々が「いただく」のは「おことば」ではなく,御聖体です.新しい式文を考案するときに,どうして ここで「いただく」という語(原文では用いられていない語)を用いたのか,理解に苦しみます.
最後に,ラテン語の式文では「そうすれば,わが魂は癒されるでしょう」と言うところで,日本語では「(わたしは)救われます」とだけ言います.なぜ「わが魂」を省いたのでしょうか? そして,なぜ「癒される」を わざわざ「救われる」に置き換えたのでしょうか? 説明不可能です.
しかし,日本語の式文は 今後 何十年か 改訂されることはないでしょう…
また,この機会に,Mt 5,08 の 英語,ドイツ語,フランス語,イタリア語の 翻訳を 見て,このことに気づきました —
たとえば Martin Luther は こう訳しています :
Herr, ich bin nicht wert, daß du unter mein Dach gehest ; sondern sprich nur ein Wort, so wird mein Knecht gesund.
そこにおいて注目されるのは „sprich ein Wort“ です.つまり,ein Wort[ひとつのことば]は 動詞 sprechen[話す,語る,言う]の 直接目的語(ドイツ語では 名詞や冠詞には格変化があり,ここでは ein Wort は 対格に 置かれています)となっています.そして,英語訳でも フランス語訳でも イタリア語訳でも,その点については 同じです.日本語に訳せば「ことばを言う」となります.
しかし,それでは,ギリシャ語およびラテン語における 与格 λόγῳ
または 奪格
verbo の「ことばによって,ことばで」という意味が 再現されていません.百人隊長は,「ことばを たったひとことでよいので 言ってください」と言ったのではなく,こう言ったのです:「主よ,ただ ことばで[「彼は癒された」または「彼は癒されよ」と]言ってください」.
Martin Luther は,おそらく,厳密さをとても好む人物であったでしょう.なのに,なぜ 彼は その点に関して ちょっと杜撰だったのでしょうか? 不思議です.
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