2023年7月24日

主よ,わたしは〈あなたが わたしのうちへ 入ってくださるに〉値しません;ですが,ただ ことばで「癒されよ」と 言ってください;そうすれば,わが魂は癒されるでしょう.

Paolo Veronese (1528–1588) : Cristo e il centurione di Cafarnao

主よ,わたしは〈あなたが わたしのうちへ 入ってくださるに〉値しません;ですが,ただ ことばで「癒されよ」と 言ってください;そうすれば,わが魂は癒されるでしょう.



典礼暦上の今年度(20221127 から 20231202日まで)の 待降節 1 主日から 用いられ始めた 新たなミサ式文に,皆さんも なんとか慣れてきただろう と思います.

しかし,そのなかで新たに用いられるようになった表現に 不満がないわけではありません.最大の不満は「また あなたとともに」です.しかし,その点について論ずるのは あとまわしにして,ここでは,先に,聖体拝領直前に会衆が言うこの文言:「主よ,わたしは あなたをお迎えするに ふさわしい者では ありません.おことばをいただくだけで 救われます」について 検討してみましょう.

周知のように,その文言は,Mt 8,05-17(イェスが 百人隊長のしもべを癒す エピソード)において 百人隊長が イェスに対して発する 懇願のことばに もとづいて,考案されています.

あらためて Mt 8,08 ギリシャ語原文を 見てみましょう:

καὶ ἀποκριθεὶς ὁ ἑκατόνταρχος ἔφη,

Κύριε, οὐκ εἰμὶ ἱκανὸς ἵνα μου ὑπὸ τὴν στέγην εἰσέλθῃς, ἀλλὰ μόνον εἰπὲ λόγῳ, καὶ ἰαθήσεται ὁ παῖς μου.

そして,百人隊長は 答えて 言った:

主よ,わたしは〈あなたが わが屋根のしたへ 入ってくださるに〉値しません;しかして,ただ ことばで 言ってください;そうすれば,わがしもべは癒されるでしょう.

ラテン語のミサ式文では,会衆はこう言うことになっています:

Domine, non sum dignus ut intrares sub tectum meum, sed tantum dic verbo, et sanabitur anima mea.

主よ,わたしは〈あなたが わが屋根のしたへ 入ってくださるに〉値しません;しかして,ただ ことばで 言ってください;そうすれば,わが魂は癒されるでしょう.

両者を比べてみると,異なるのは この点だけです:福音書の「わがしもべ」が 式文では「わが魂」に置き換えられている.

いづれにせよ,肝腎なのは このことです:主が わが屋根のしたへ つまり,わたしの「うち」(家)へ 「入る」こと;なぜなら,ミサにおいて,主は,実際,御聖体として わたしたちの「うち」(からだのなか)へ 入ってくださるからです.

ところが,新しいミサ式文では,「迎える」という語が使われています.この「迎える」は,主が 御聖体として わたしたちのなかへ「入る」ということを 十分に 言い表しているでしょうか? わたしには そうは思えません.

また,新しい式文の「おことばをいただくだけで」は,原文では「ただ ことばで[「あなたは癒された」あるいは「あなたは癒されよ」と]言ってください」です.それは 懇願です;しかも,「主のことば」(ὁ Λόγος τοῦ Κυρίου, Verbum Domini) に対する強い信頼にもとづく懇願です.そのことが「おことばをいただくだけで」では表現されていません.

しかも,我々が「いただく」のは「おことば」ではなく,御聖体です.新しい式文を考案するときに,どうして ここで「いただく」という語(原文では用いられていない語)を用いたのか,理解に苦しみます.

最後に,ラテン語の式文では「そうすれば,わが魂は癒されるでしょう」と言うところで,日本語では「(わたしは)救われます」とだけ言います.なぜ「わが魂」を省いたのでしょうか? そして,なぜ「癒される」を わざわざ「救われる」に置き換えたのでしょうか? 説明不可能です.

しかし,日本語の式文は 今後 何十年か 改訂されることはないでしょう

また,この機会に,Mt 5,08 英語,ドイツ語,フランス語,イタリア語の 翻訳を 見て,このことに気づきました

たとえば Martin Luther こう訳しています : 

Herr, ich bin nicht wert, daß du unter mein Dach gehest ; sondern sprich nur ein Wort, so wird mein Knecht gesund. 

そこにおいて注目されるのは „sprich ein Wort“ です.つまり,ein Wort[ひとつのことば]は 動詞 sprechen[話す,語る,言う]の 直接目的語(ドイツ語では 名詞や冠詞には格変化があり,ここでは ein Wort 対格に 置かれています)となっています.そして,英語訳でも フランス語訳でも イタリア語訳でも,その点については 同じです.日本語に訳せば「ことばを言う」となります.

しかし,それでは,ギリシャ語およびラテン語における 与格 λόγῳ または 奪格 verbo の「ことばによって,ことばで」という意味が 再現されていません.百人隊長は,「ことばを たったひとことでよいので 言ってください」と言ったのではなく,こう言ったのです:「主よ,ただ ことばで[「彼は癒された」または「彼は癒されよ」と]言ってください」.

Martin Luther は,おそらく,厳密さをとても好む人物であったでしょう.なのに,なぜ 彼は その点に関して ちょっと杜撰だったのでしょうか? 不思議です.

2023年3月30日

ヨハネ福音書 8,25 における〈ユダヤ人たちの問い :「あなたは誰なのか?」に対する〉イェスの 答え

Sébastien Bourdon (1616–1671) : Le buisson ardent

ヨハネ福音書 8,25 における〈ユダヤ人たちの問い :「あなたは誰なのか?」に対する〉イェスの 答え




今週 火曜日(328日)の 福音朗読 (Jn 8,21-30) には,イェスの難解な言葉が 見出される ただし,翻訳を読んでいるだけでは そのことに気づき得ない;その難解さがそのものとして見出されるのは,ギリシャ語原文においてである.実際,そのことは,詳しい訳注が付されている英訳聖書や仏訳聖書においては,指摘されている.

問題の箇所は,25節の後半である.その直前,24節において,イェスは,ユダヤ人たち(つまり,ファリサイ人たち)の問いに答えつつ,こう言う:

それゆえ,わたしは あなたたちに こう言った:「あなたたちは あなたたちの罪のうちに 死ぬだろう」;なぜなら このゆえに:もし あなたたちが「我れは存在する」ということ (τι ἐγώ εἰμι) を 信じないならば,あなたたちは あなたたちの罪のうちに 死ぬだろう.

それを受けて,25節の前半において:

そこで,彼ら[ユダヤ人たち]は,彼[イェス]に,言った :「あなたは誰なのか?」

その問いに対して,25節の後半において:

イェスは 彼らに 言った : τὴν ἀρχὴν ὅ τι καὶ λαλῶ ὑμῖν;


まず,その文を文法的に解説すると,最初の τὴν ἀρχν は,ἡ ἀρχή[源初]の対格である.ἀρχή という語は,旧約聖書のギリシャ語訳 Septuaginta の 創世記の冒頭 および ヨハネ福音書の冒頭において,用いられている ἐν ἀρχῇ[源初において]という表現において.周知のように,対格は,最もしばしば,他動詞の直接目的語として用いられ,また,対格を取る前置詞とともに用いられる;だが,イェスの答えにおける τὴν ἀρχὴν は,そのいづれでもなく,しかして,それに続く ὅ τι καὶ λαλῶ ὑμῖν に対して同格的に置かれた表現として,副詞的に機能する:すなわち,「源初的に」または「源初において」(つまり,ἐν ἀρχῇ と 同義)または「源初以来」.

次いで,ὅ τι という語は,関係代名詞 στις(英語に訳せば : whoever…である者は 誰でも],one who…であるところの者は])の 中性 単数 主格または対格 である(つまり,whatever…であるものは 何でも],that which…であるところのものは]).

第三に,καという語は,接続詞であり,ふたつの主要な意味を有している:ひとつは,英語で言えば and...と,および,そして];もうひとつは,英語で言えば also または too...も].また,さらに,場合によっては,even...さえも]と訳すこともある.

第四に,λαλῶ ὑμῖν は「わたしは あなたたちに 言う」である.

最後に,文末の記号 ; は,古代ギリシャ語の文においては 疑問符である.

さて,このイェスの答え τὴν ἀρχὴν ὅ τι καὶ λαλῶ ὑμῖν; は,どう翻訳され得るであろうか? 既成の翻訳を 幾つか 見てみよう.

新共同訳 および 聖書協会共同訳:
それは 初めから 話しているではないか.

Nova Vulgata :
In principio: id quod et loquor vobis!
源初において : id quod…, そして,わたしは あなたたちに[そう]言っている!id quod ギリシャ語 ὅ τι 逐語訳である;その説明については,以下を参照).

Ignatius Bible (RSV-SCE) :
Even what I have told you from the beginning.
まさに,わたしが 始めから あなたたちに 告げているところの ものである.

また,Ignatius Bible は 注で こう訳すこともできる と指摘している:

Why do I talk to you at all?
いったい なぜ わたしは あなたたちに 語るのか?

Revised New Jerusalem Bible :
What I have told you from the onset.
わたしが 始めから あなたたちに 告げているところの ものである.

Traduction œcuménique de la Bible (TOB) :
Ce que je ne cesse de vous dire depuis le commencement.
始まり以来 わたしが あなたたちに 言い続けているところのものである.

また,TOB は,脚注で,可能な翻訳を さらに五つ 挙げている:

En somme, de quoi vous parlé-je ?
要するに,わたしは あなたたちに向かって 何について語ろうか?

Faut-il seulement que je vous parle ?
わたしはあなたたちに語る必要さえあるのだろうか?

D’abord ce que je vous dis.
まず,[わたしは]わたしがあなたたちに言っているものである.

Absolument ce que je vous ai dit.
絶対的に,[わたしは]わたしがあなたたちに言ったものである.

Dès le commencement, ce que je vous dis.
始まり以来,[わたしは]わたしがあなたたちに言っているものである.

Traduction liturgique de la Bible :
Je n’ai pas cessé de vous le dire.
それを わたしは あなたたちに 言い続けている.


さて,では,どうして かくも多様な翻訳が為され得るのか? その理由は,勿論,解釈困難なギリシャ語原文 τὴν ἀρχὴν ὅ τι καὶ λαλῶ ὑμῖν; を 如何に読解するか に存している.そして,その文の解釈の困難さは,そこに含まれる ふたつの要素に 存している:ひとつは καί という接続詞;もうひとつは,その文が疑問文である ということ.

καί という接続詞については,先ほども述べたように,三とおりの訳しかたが考えられる : and...と,および,そして]; also または too...も]; even...さえも].しかし,問題の文のなかの καί をどう解釈しても,その語は この文全体のなかで 座りがよくない ὅ τι καὶ λαλῶ ὑμῖν を 中性関係代名詞 ὅ τι に導かれたひとつの節と取る限り(実際,上に列挙した訳文は すべて そのことを前提している;だが,それがゆえに,それらのうち大多数は καί を無視している).

次いで,その文が疑問文であること その疑問が いわゆる rhetorical question[修辞的疑問]であることは 明白である;なぜなら,その文は,ユダヤ人たちの〈イェスに対する〉問い :「あなたは誰なのか?」に対する〈イェスの〉答えを成しているから;ひとつの問いに対する答えが 断定的な平叙文ではなく 疑問文である ということは,それは 通常の疑問ではなく 修辞的疑問である ということを,示唆している.

そして,ここにおいては,その含意は これである:あなたたちは わたしが誰であるかを わたしに問うが,その答えを あなたたちは とうに知っていなければならなかったはずだ.

しかし,上に列挙した訳文の大多数は,原文の疑問を再現していない 疑問文にすると,イェスの答えの断定的な調子を弱めてしまうので.

では,我々は,イェスの答え ὅ τι καὶ λαλῶ ὑμῖν; を,ほかに どう訳することができるであろうか?

上に列挙した訳例は いづれも このことを 明示していないが,我々は,こう前提することができる:イェスは,ユダヤ人の〈彼に対する〉問い :「あなたは誰なのか?」に対して答えるとき,出エジプト記 3,13-14 に 準拠している なぜなら,その直前に Jn 8,24 において イェスは,出エジプト記における 神の〈モーセに対する〉答え :「わたしは『我れは存在する』である」(Ehyeh Asher Ehyeh [ אֶֽהְיֶה אֲשֶׁר אֶֽהְיֶה ] ) に由来する 神の名 Ehyeh ( אֶֽהְיֶה )[我れは存在する]に言及しているから.

出エジプト記 3 章において,神は,燃える柴から モーセを呼ぶ 彼を 救済の預言者として イスラエルの民のところへ遣わすために.そのときの モーセと神との対話:

13 そして,モーセは 神に 言った:

見てください,わたしが イスラエルの息子たちのところに来て,そして,彼らに こう言います:

あなたたちの父たちの神が わたしを あなたたちのところに遣わした.

すると,彼らは わたしに 言うでしょう:

彼の名は何か?

わたしは 彼らに 何と言いましょうか?

14 すると,神は モーセに 言った:

Ehyeh Asher Ehyeh ( אֶֽהְיֶה אֲשֶׁר אֶֽהְיֶה )[わたしは「我れは存在する」である].

そして,神は 言った:

このように あなたは イスラエルの息子たちに 言いなさい:

Ehyeh[我れは存在する]が わたしを あなたたちのところに 遣わした.


かくして,ヨハネ福音書 8,25 における 問い ユダヤ人たちの〈イェスに対する〉問い :「あなたは誰なのか?」 は,出エジプト記 3,13 における 問い イスラエルの民の〈モーセに対する〉問い :「彼の名は何か?」 に対応するのであれば,イェスの〈ユダヤ人たちに対する〉答え : τὴν ἀρχὴν ὅ τι καὶ λαλῶ ὑμῖν; は,神の〈モーセに対する〉答え : Ehyeh Asher Ehyeh ( אֶֽהְיֶה אֲשֶׁר אֶֽהְיֶה )[わたしは『我れは存在する』である]に対応しているはずである.

とすれば,我々は こう解釈することが できるだろう:まず,τὴν ἀρχὴν[源初的に,源初において,源初以来]は,「天地の創造の源初において」であり,また,「神がモーセに神の名を明かした源初において」でもある.

次いで,我々は こう解釈することが できるだろう:中性関係代名詞 ὅ τι ,その直前の 24節における 従属節 ὅτι ἐγώ εἰμι[我れは存在する ということ]の 代理である というのも,関係代名詞 ὅ τι と 接続詞 ὅτι は 完全に同音であるから;つまり,この ὅ τι は 神の名としての Ehyeh[我れは存在する]を 表わしている.

そして,最後に,我々は こう解釈することが できるだろう : καὶ λαλῶ ὑμῖν; は,ὅ τι によって導かれる関係詞節のなかに位置づけられる要素ではなく,しかして,それに後続する付加疑問である.つまり :「そして,わたしはあなたたちにそう言っているではないか?」

というわけで,我々は,イェスの答え 「あなたは誰なのか?」と問うユダヤ人たちの問いに対する 彼の答え τὴν ἀρχὴν τι καὶ λαλῶ ὑμῖν; を,こう訳すことが できるだろう:

源初的に[源初において,源初以来],わたしは,あれ あの Ehyeh[我れは存在する] である;そして,わたしはあなたたちにそう言っているではないか?

2022年10月31日

2022-2023年度は 東京ラカン塾のセミネールを 行いません



2022-2023年度,わたしは,東京ラカン塾のセミネールを 行いません.その理由は,執筆に集中するためです(精神分析の臨床は 継続します).

現在,わたしは,『ハィデガーとラカン』(執筆は 2019年,出版は 2020年01月)より後に得られた成果を一冊の本にまとめる作業に 取り組んでいます.その本は『ラカンの教え I — 晩年:ボロメオ結びの時期』と題される予定です.

2020-2021年度以来,わたしは,ラカンの歩みを 反時系列的に たどり直してきました — 否定存在論的孔穴の周りを 終始 回り続けた ラカンは,最晩年においてこそ,その穴に 最も 肉薄し得たはずだ,という仮定のもとに.そして,その方法論は適切であった と わたしは思っています;なぜなら,最晩年のラカンの教えから出発することによって,今や,我々は,ラカンの教えの全体像を把握することができたからです.

今は,その成果を 本にまとめることが 先決です — セミネール XX Encore から出発して,それ以前のセミネールへ遡ってゆく たどり直しの作業を 続けることよりも.

皆さんの御理解を お願いします.そして,執筆が順調に進むよう,わたしのために お祈りください.

もし執筆が順調に進めば,年度途中でセミネールを再開するかもしれません.そのときには,改めて通知します.

2022年10月31日

小笠原 晋也

2022年10月30日

ふたつの「あわれむ」— ἐλεέω と ἱλάσκομαι — について

James Tissot (1836-1902) : The Pharisee and the Publican (Le pharisien et le publicain)

ふたつの「あわれむ」 ἐλεέω ἱλάσκομαι について


20221023日(C 年,年間 30 主日)の ミサ説教のなかで,幸田 和生 司教さまが,この待降節 1 主日(1127日)から使われるようになる 新たなミサ式文のなかの文言について論じています 特に,「主よ,あわれみたまえ」(Κύριε, ἐλέησον) が「主よ,いつくしみを」になることについて.それは,1009日の「パパさまとともに読む聖書」でも話題にしたことです.幸田 司教さまも,やはり,このことを強調している と思われます:信仰において,神のまえで 身を低めて,神のあわれみを請う 態度が わたしたちには 必要である.

しかし,幸田 司教さまの その説教は,「あわれむ」について,わたしが今まで気づいていなかったことをも 教えてくださいました.それは,このことです:その日の福音「ファリサイ人と徴税人の譬え」(Lc 18,09-14) のなかで 徴税人が言う「神よ,罪人なる我れを あわれみたまえ」(聖書協会共同訳:「神様,罪人の私を憐れんでください」)[ θεός, ἱλάσθητί μοι τῷ ἁμαρτωλῷ ] における「あわれむ」は ἱλάσκομαι (hilaskomai) である.

それに対して,1009日(年間 28 主日)の 福音「イェスは 10 人の レプラ患者を 癒す」(Lc 17,11-19) のなかで,彼らが イェスに向かって「イェス様,先生,私たちを憐れんでください」[ Ἰησοῦ ἐπιστάτα, ἐλέησον ἡμᾶς ] と叫ぶとき,その「あわれむ」は,「主よ,あわれみたまえ」におけるのと同じく,ἐλεέω (eleeo) です.

邦訳では 同じ「あわれむ」ですが,ギリシャ語原文では 異なる語が用いられています.それぞれの語は,Liddell & Scott では こう説明されています: 

ἐλεέω : have pity onに対して あわれみの気持ちを持つ],show mercy to...に対して あわれみを 示す].
 

ἱλάσκομαι :

1) appease[(怒っている神を)なだめる,鎮める],conciliate[(怒っている人間を)なだめる,慰撫する,懐柔する],expiate[(罪を)贖う,償う];

2) to be merciful, gracious[あわれみ深い,なさけ深い,恵み豊かな].

 

それぞれの語の ヘブライ語との関連を見てみると,Septuaginta において ἐλεέω と訳されている ヘブライ語の動詞は,最も しばしば,חָנַן (hanan) です.その意味は「に対して 好意的である,恵み豊かである」および「あわれむ」です.

また,動詞 ἐλεέω の 語源である 名詞 λεος (eleos)[あわれみ]は,Septuaginta において,名詞 חֶסֶד (hesed) の訳語として 用いられています;そのヘブライ語の意味は「好意,善意,親切,あわれみ,いつくしみ」であり,特に,そこには「契約にもとづく〈神と人間との間の,あるいは,神の人間に対する〉誠実な愛,あるいは,愛の誠実さ」が 含意されています.

他方,Septuaginta において ἱλάσκομαι と訳されている ヘブライ語の動詞は,ふたつ あります: 

1) כָּפַר (kapar) :[罪を]覆う(断罪せず,赦す);贖う;[被害者を,あるいは,人間が犯した罪に怒っている神を]なだめる,慰める,鎮める. 

2) סָלַח (salah) :[罪を,罪人を]赦す.

 

以上から,このことに気づくことができます:日本語では ともに「あわれむ」と訳されていても, 

ἐλεέω は,確かに「あわれむ,あわれみ深い,なさけ深い,恵み豊かである,いつくしみ深い,愛する」である;しかし,他方, 

ἱλάσκομαι は,単に「あわれみ深い」だけでなく,「罪を赦す」をも含意している.

 

そして,実際,Lc 18,13 において,徴税人は,「神よ,罪人なる我れを あわれみたまえ」と言って,祈っています.もし ギリシャ語 Ὁ θεός, ἱλάσθητί μοι τῷ ἁμαρτωλῷ を ヘブライ語に逆翻訳して,そこから あらためて翻訳するなら,こうなるでしょう:「神よ,罪人なる我れを 赦したまえ」.

ですから,それは,まさに,和解の秘跡を授けていただく際に唱えるに 最もふさわしい 祈りです.

2022年9月22日

To answer some questions posed by a participant of the seminar of Tokyo Lacanian School

Konrad von Kirchberg als Minnesänger in der Manessischen Handschrift

To answer some questions posed by a participant of the seminar of Tokyo Lacanian School


I will answer here those questions posed by a participant of my seminar:

1. What is the Es in Freud’s second topic?

2. What is sublimation in Lacan’s teaching?

3. What is the difference and/or the relation between those three terms: das Ding, la Chose and object a?


1. Answer to the first question: What is the Es in Freud’s second topic?

The English translation of the three instances composing Freud’s second topic – das Ich, das Über-Ich and das Es – is, as you know, the ego, the super-ego and the id, and the current Japanese translation is 自我,超自我 and エス.

You see that while Freud uses his own language, that is, German, in English they don’t use English words but Latin ones, and in Japanese they use Chinese words for das Ich and das Über-Ich, and for das Es they gave up translating and contented themselves with writing approximately the German pronunciation of the word Es with Katakana. In French they say le moi, le surmoi and le ça.

The word Es in German is the singular neuter third person pronoun, and like the word it in English, it is also used with impersonal verbs such as regnen (rain): es regnet (it rains).

Freud borrowed the expression das Es from Georg Groddeck (1866-1934) who says in his Buch vom Es (Book of the Es):

Ich bin der Ansicht, daß der Mensch vom Unbekannten belebt wird. In ihm ist ein Es, irgendein Wunderbares, das alles, was er tut und was mit ihm geschieht, regelt. Der Satz: »Ich lebe« ist nur bedingt richtig, er drückt ein kleines Teilphänomen von der Grundwahrheit aus: »Der Mensch wird vom Es gelebt«. Mit diesem Es werden sich meine Briefe beschäftigen. Sind Sie damit einverstanden?

Und nun noch eins. Wir kennen von diesem Es nur das, was innerhalb unseres Bewußtseins liegt. Weitaus das meiste ist unbetretbares Gebiet. Aber wir können die Grenzen unseres Bewußtseins durch Forschung und Arbeit erweitern und wir können tief in das Unbewußte eindringen, wenn wir uns entschließen, nicht mehr wissen zu wollen, sondern zu phantasieren. Wohlan, mein schöner Doktor Faust, der Mantel ist zum Flug bereit. Ins Unbewußte…


I hold the view that man is animated by the Unknown. There is within him an Es, something wondrous that directs what he himself does and what happens to him. The proposition “I live” is only conditionally correct, it expresses only a small and superficial part of the fundamental truth: “Man is lived by the Es”. With this Es, my letters will be concerned. Are you agreed?

Yet one thing more. Of the Es, we know only so much as lies within our consciousness. Beyond that, the greater part of its territory is untrod. But by search and effort we can extend the limits of our consciousness, and press far into the realm of the unconscious, if we can bring ourselves no more to desire knowledge, but only to fantasy. Come then, my pretty Dr. Faust, the mantle is spread for the flight. Forth into the unconscious…


Thus, the word Es means basically something in human being that is unknown and indefinable for us and that is nevertheless more fundamental, truer and realer than our self-awareness.

You could rightly substitute “something” (etwas) for “Es”. And because the Japanese language doesn’t have pronouns such as Indo-European languages have,「何か」(something) would be an appropriate Japanese translation of Es.

For example, Lacan says: « dans l’inconscient, ça parle » (Écrits, p.437). In Bruce Fink’s translation, “in the unconscious, it speaks”. In German we could say: „im Unbewussten spricht Es“. And in Japanese:「無意識において,何かが語る」.

We can situate the structure of Freud’s second topic in the structure of alienation and in that of the discourse of university as shown in the following schemas:



Le discours de l'université

That is, the Es is the subject $ in the locality of what doesn’t cease not to be written (the locality of the impossible or of the ex-sistence: the place of production); the Über-Ich in the place of what obturates the apophatico-ontological hole (the place of truth) ; the Ich in the place of consistency (the place of agent).

In function of the Es that speaks in the unconscious, the object a on the edge of the apophatico-ontological hole (the place of other) is the voice.

As regards the relations between the three instances of the second topic, Freud says in Das Ich und das Es that the Über-Ich is „Vertreter des Es“ (representative of the Es) against the Ich. This structure is formalisable in Lacan’s mathematico-topological schema of alienation (the discourse of university) as follows:

The Über-Ich S1 represents the Es $ against the Ich S2.


This structure of representation is more evident in the following schematisation of Urverdrängung of the subject $ (Es) by the master-signifier S1 (Über-Ich).


This process of Urverdrängung corresponds to the structural transformation from the discourse of master to the discourse of university.


Thus, we can see that Lacan’s formula « un signifiant S1 représente le sujet $ pour un autre signifiant S2 » (a signifier represents the subject for another signifier) formalises exactly Freud’s statement concerning the relation of Ich, Über-Ich and Es.


2. Answer to the second question: What is sublimation in Lacan’s teaching?

Sublimation of desire is one of central themes in Lacan’s teaching concerning the end of analysis. This fact is evident especially in his Seminar VII Ethics of Psychoanalysis, but not so after his Seminar XVII. Nevertheless, we can see also there Lacan think of sublimation in hidden ways, for example when he talks of feminine jouissance and mystic jouissance in his Seminar XX Encore or of saints in Television, that is, those forms of jouissance which are not phallic (jouissance phallique) nor pregenital (plus-de-jouir), and also when he talks of love as is defined in this way: “love is sublimation of desire” (cf. Seminar X Angst).

In that context, he always sees the model of love as sublimation of desire in amour courtois, that form of love where the satisfaction of sexual desire in carnal relationships is absolutely forbidden so that the man who loves a Lady can do nothing but think and sing of her in his poetic creations, that is, in sublimational ways. And in this form of sublimation, that is, in artistic creation, there is a certain kind of jouissance which we can call sublimational jouissance.

Lacan talks of amour courtois not only in his Seminar VII but also in his Seminar XX Encore. And you can find the word amour in the enigmatic title of his Seminar XXIV L’insu que sait de l’une-bévue s’aile à mourre. Those fragments of lalangue say “l’insuccès de l’Unbewusst, c’est l’amour”, that is, “unsuccess of the unconscious is love”. By the way, Seminar XXIV is the only one among all Seminars of Lacan that contains the word amour in its title, even if in a cryptic way.

Why must there be sublimational jouissance at the end of analysis? Because as far as desire continues slipping unsatisfied in metonymic way, analysis cannot arrive at its end. But the satisfaction of desire (that is, jouissance) cannot be pregenital jouissance (what Lacan calls plus-de-jouir) because that form of jouissance is nothing but neurotic fixation on pregenital objects, nor be phallic jouissance because there is no sexual relationship.

Lacan’s proposition “there is no sexual relationship” means this: there is no phallus such as supposed by Freud when he formulates that development of sexual drive must arrive at the mature stage called genital organization where pregenital drives (partial drives) are integrated into the genital drive under the primacy of phallus so that the sexual drives can serve for reproduction.

You might think that it would be self-evident to suppose that sexual drives mature to be able to serve for reproduction. But no, that is a teleological (metaphysical) supposition susceptible to critique. 

In fact, Lacan formulates already in his Rapport de Rome (Écrits, p.263) a critique against Freud’s teleology in this expression: “mythology of maturation of drives”. That is to say: the phallus under primacy of which the development of sexual drives must attain maturity is mythological. And what real does this mythological phallus hide? The real that there is no sexual relationship, that is, the said phallus is impossible (doesn’t cease not to be written).

Thus, the third form of jouissance which is not phallic nor pregenital is necessary if analytic process can attain its end. And this end consists in sublimational jouissance, that is, love as sublimation of desire.

In his Seminar XX Encore, Lacan presents feminine jouissance as a jouissance beyond phallic jouissance (and, of course, beyond pregenital plus-de-jouir), but we must insert there a footnote: feminine jouissance per se is not the sublimational jouissance required for the end of analysis, but is a somatisational form of non-phallic and non-pregenital jouissance. 

On the contrary the sublimational jouissance is not somatisational but existential. 

If Lacan talks of feminine jouissance, it is for the purpose of considering what might be the sublimational jouissance on the basis of feminine jouissance which Lacan makes use of as a concrete model of the unknown jouissance of sublimation.

Now I would say that the sublimational jouissance consists in the emergence of the open hole of the subject $ in the structure of the discourse of analyst. And this emergence occurs in the process of structural transformation from the discourse of university (structure of alienation) to the discourse of analyst (structure of separation), where the subject $, hidden in the place of what doesn't cease not to be written in the discourse of university, emerges now in the form of the edge of the apophatico-ontological hole in the discourse of analyst. 



In the discours of analyste, the subject $ which forms the edge of the apophatico-ontological hole, is imaginary in the sense that it has now its own consistency as the edge, is real in the sense that now it doesn't cease to be written, and is symbolic in the sense that it forms now a hole. The sublimational jouissance consists in this realisation of the subject $ as consistent and real hole. 

And now the subject $, separated from the object a and the knowledge S2, represents the Name of God S1 which is foreclosed in the place of what doesn't cease not to be written. This structure $/S1 is the structure of being saint.


3. Answer to the third question: What is the difference and/or the relation between those three terms: das Ding, la Chose and object a?

When Lacan talks of das Ding in his Seminar VII, he does so as if only in reference to Freud’s text Entwurf einer Psychologie (Project of a Psychology), but I think it is very certain that he also thinks of Kant’s Ding an sich and of Heidegger’s text Das Ding.

Anyway, in his Entwurf Freud considers Ding evidently in Kantian way because he says for example that “the perceptual complexes [ Wahrnehmungskomplexe ] are dissected into an unassimilable component (das Ding) and one known to the ego from its own experience (attribute, activity)”.

Heidegger’s conference Das Ding is collected with Logos and some other texts in his book Vorträge und Aufsätze (1954). Because Lacan himself translated Logos in French in 1955, it is very certain that he read Das Ding too immediately after the publication of the book.

What Heidegger calls there Ding is the same thing as Heraclitus’ Logos, that is, the locality of Ἀ-Λήθεια (I will here explain no more because that would be too long).

Anyway, what is concerned in the third question is this proposition Lacan presents in the session of the 20th January 1960 in his Seminar Ethics of Psychoanalysis:


La sublimation élève un objet à la dignité de la Chose.

Sublimation elevates an object to the dignity of Thing.


There Lacan says Chose for translation of Ding.

Now, what does this proposition mean? 


It means, I think, the structural transformation from the discourse of university to the discourse of analyst, where the subject $, emerging from the place of what doesn't cease not to be written (the right lower place, the place of production) to the place of what doesn't cease to be written (the right upper place, the place of other), replaces the object a which is now separated from the subject $ and displaced to the left upper place (the place of agent).

What Lacan calls in that proposition Chose (Ding) is the subject $

In the structure of the discourse of university, the subject $ is hidden in the place of what doesn't cease not to be written (the impossible) just as the Ding an sich is hidden as something impossible to perceive or cognize (because, according to Kant, what we can perceive or cognize is only phenomenon or representation of Ding, not Ding an sich selbst). 

And in the structural transformation from the discourse of university to the discourse of analyst the subject $ emerges from hiddenness (Verborgenheit: λήθη) to unhiddenness (Unverborgenheit: ἀλήθεια) just as Heidegger's Ding is the locality of Ἀ-Λήθεια.

The difficulty you meet when you read Lacan is mostly attributable to this: what matters in Lacan's teaching is not a static structure but a structural transformation which allows the emergence of the hole of the subject $ from the place of what doesn't cease not to be written (the impossible) to the place of what doesn't cease to be written (the necessary). 

Heidegger thinks of this apophatico-ontological emergence when he says phenomenology. And that is the meaning of his proposition: "Ontology is possible only as phenomenology". N.B.: the "ontology" which matters in Heidegger's thinking is always "apophatic ontology", not the traditional (that is, metaphysical) ontology, because he always focuses his question on Seyn (Being), not on the metaphysical (substantial) Being.

And this phenomenology is necessarily dialectical because what comes into question is the process of desalienation (liberation from alienation). The subject $ is alienated in the structure of the discourse of university in the sense that it is subjected and represented at the same time by the master signifier S1 and the object a. And it emerges desalienated in the structure of the discourse of analyst, where the term "desalienated" means this: the subject $ discards the object a and it is now the subject $ that represents the impossible name of God S1.