Sébastien Bourdon (1616–1671) : Le buisson ardent
ヨハネ福音書 8,25 における〈ユダヤ人たちの問い :「あなたは誰なのか?」に対する〉イェスの 答え
今週 火曜日(3月28日)の 福音朗読
(Jn 8,21-30) には,イェスの難解な言葉が
見出される — ただし,翻訳を読んでいるだけでは そのことに気づき得ない;その難解さがそのものとして見出されるのは,ギリシャ語原文においてである.実際,そのことは,詳しい訳注が付されている英訳聖書や仏訳聖書においては,指摘されている.
問題の箇所は,25節の後半である.その直前,24節において,イェスは,ユダヤ人たち(つまり,ファリサイ人たち)の問いに答えつつ,こう言う:
それゆえ,わたしは あなたたちに こう言った:「あなたたちは あなたたちの罪のうちに 死ぬだろう」;なぜなら このゆえに:もし あなたたちが「我れは存在する」ということ (ὅτι ἐγώ εἰμι) を 信じないならば,あなたたちは あなたたちの罪のうちに 死ぬだろう.
それを受けて,25節の前半において:
そこで,彼ら[ユダヤ人たち]は,彼[イェス]に,言った :「あなたは誰なのか?」
その問いに対して,25節の後半において:
まず,その文を文法的に解説すると,最初の
τὴν ἀρχήν は,ἡ ἀρχή[源初]の対格である.ἀρχή という語は,旧約聖書のギリシャ語訳 Septuaginta
の 創世記の冒頭 および ヨハネ福音書の冒頭において,用いられている — ἐν ἀρχῇ[源初において]という表現において.周知のように,対格は,最もしばしば,他動詞の直接目的語として用いられ,また,対格を取る前置詞とともに用いらる;だが,イェスの答えにおける τὴν ἀρχὴν は,そのいづれでもなく,しかして,それに続く ὅ τι καὶ λαλῶ
ὑμῖν に対して同格的に置かれた表現として,副詞的に機能する:すなわち,「源初的に」または「源初において」(つまり,ἐν ἀρχῇ と 同義)または「源初以来」.
次いで,ὅ τι という語は,関係代名詞 ὅστις(英語に訳せば : whoever…[…である者は 誰でも],one who…[…であるところの者は])の 中性 単数
主格または対格 である(つまり,whatever…[…であるものは 何でも],that
which…[…であるところのものは]).
第三に,καί という語は,接続詞であり,ふたつの主要な意味を有している:ひとつは,英語で言えば and[...と,および,そして];もうひとつは,英語で言えば also または too[...も].また,さらに,場合によっては,even[...さえも]と訳すこともある.
第四に,λαλῶ ὑμῖν は「わたしは
あなたたちに 言う」である.
最後に,文末の記号 ; は,古代ギリシャ語の文においては
疑問符である.
さて,このイェスの答え τὴν ἀρχὴν ὅ τι καὶ λαλῶ ὑμῖν; は,どう翻訳され得るであろうか?
既成の翻訳を 幾つか
見てみよう.
新共同訳 および 聖書協会共同訳:
それは 初めから 話しているではないか.
Nova Vulgata :
In principio: id quod et loquor vobis!源初において : id quod…, そして,わたしは あなたたちに[そう]言っている!(id quod は ギリシャ語 ὅ τι の 逐語訳である;その説明については,以下を参照).
Ignatius Bible (RSV-SCE) :
Even what I have told you from the beginning.まさに,わたしが 始めから あなたたちに 告げているところの ものである.
また,Ignatius Bible は 注で こう訳すこともできる と指摘している:
Why do I talk to you at all?いったい なぜ わたしは あなたたちに 語るのか?
Revised New Jerusalem Bible :
What I have told you from the onset.わたしが 始めから あなたたちに 告げているところの ものである.
Traduction œcuménique de la Bible (TOB) :
Ce que je ne cesse de vous dire depuis le commencement.始まり以来 わたしが あなたたちに 言い続けているところのものである.
また,TOB は,脚注で,可能な翻訳を さらに五つ 挙げている:
En somme, de quoi vous parlé-je ?要するに,わたしは あなたたちに向かって 何について語ろうか?Faut-il seulement que je vous parle ?わたしはあなたたちに語る必要さえあるのだろうか?D’abord ce que je vous dis.まず,[わたしは]わたしがあなたたちに言っているものである.Absolument ce que je vous ai dit.絶対的に,[わたしは]わたしがあなたたちに言ったものである.Dès le commencement, ce que je vous dis.始まり以来,[わたしは]わたしがあなたたちに言っているものである.
Traduction liturgique de la Bible :
Je n’ai pas cessé de vous le dire.それを わたしは あなたたちに 言い続けている.
さて,では,どうして かくも多様な翻訳が為され得るのか? その理由は,勿論,解釈困難なギリシャ語原文 τὴν ἀρχὴν ὅ τι καὶ λαλῶ ὑμῖν; を 如何に読解するか
に存している.そして,その文の解釈の困難さは,そこに含まれる ふたつの要素に 存している:ひとつは
καί という接続詞;もうひとつは,その文が疑問文である ということ.
καί
という接続詞については,先ほども述べたように,三とおりの訳しかたが考えられる : and[...と,および,そして]; also または too[...も];
even[...さえも].しかし,問題の文のなかの καί をどう解釈しても,その語は この文全体のなかで 座りがよくない — ὅ τι καὶ λαλῶ ὑμῖν を
中性関係代名詞
ὅ τι に導かれたひとつの節と取る限り(実際,上に列挙した訳文は すべて
そのことを前提している;だが,それがゆえに,それらのうち大多数は καί を無視している).
次いで,その文が疑問文であること — その疑問が いわゆる rhetorical question[修辞的疑問]であることは 明白である;なぜなら,その文は,ユダヤ人たちの〈イェスに対する〉問い :「あなたは誰なのか?」に対する〈イェスの〉答えを成しているから;ひとつの問いに対する答えが 断定的な平叙文ではなく 疑問文である ということは,それは 通常の疑問ではなく 修辞的疑問である ということを,示唆している.
そして,ここにおいては,その含意は これである:あなたたちは わたしが誰であるかを わたしに問うが,その答えを あなたたちは とうに知っていなければならなかったはずだ.
しかし,上に列挙した訳文の大多数は,原文の疑問を再現していない — 疑問文にすると,イェスの答えの断定的な調子を弱めてしまうので.
では,我々は,イェスの答え ὅ τι καὶ λαλῶ ὑμῖν; を,ほかに どう訳することができるであろうか?
上に列挙した訳例は いづれも このことを
明示していないが,我々は,こう前提することができる:イェスは,ユダヤ人の〈彼に対する〉問い :「あなたは誰なのか?」に対して答えるとき,出エジプト記 3,13-14 に
準拠している — なぜなら,その直前に — Jn 8,24
において — イェスは,出エジプト記における 神の〈モーセに対する〉答え :「わたしは『我れは存在する』である」(Ehyeh Asher Ehyeh [ אֶֽהְיֶה אֲשֶׁר אֶֽהְיֶה ] ) に由来する 神の名
Ehyeh ( אֶֽהְיֶה )[我れは存在する]に言及しているから.
出エジプト記 3 章において,神は,燃える柴から
モーセを呼ぶ — 彼を 救済の預言者として
イスラエルの民のところへ遣わすために.そのときの モーセと神との対話:
13 そして,モーセは 神に 言った:
見てください,わたしが イスラエルの息子たちのところに来て,そして,彼らに こう言います:
あなたたちの父たちの神が わたしを あなたたちのところに遣わした.
すると,彼らは わたしに 言うでしょう:
彼の名は何か?
わたしは 彼らに 何と言いましょうか?
14 すると,神は モーセに 言った:
Ehyeh Asher Ehyeh ( אֶֽהְיֶה אֲשֶׁר אֶֽהְיֶה )[わたしは「我れは存在する」である].
そして,神は 言った:
このように あなたは イスラエルの息子たちに 言いなさい:
Ehyeh[我れは存在する]が わたしを あなたたちのところに 遣わした.
かくして,ヨハネ福音書 8,25 における 問い — ユダヤ人たちの〈イェスに対する〉問い :「あなたは誰なのか?」— は,出エジプト記 3,13 における 問い — イスラエルの民の〈モーセに対する〉問い :「彼の名は何か?」— に対応するのであれば,イェスの〈ユダヤ人たちに対する〉答え
: τὴν ἀρχὴν ὅ τι καὶ λαλῶ ὑμῖν; は,神の〈モーセに対する〉答え : Ehyeh Asher Ehyeh ( אֶֽהְיֶה אֲשֶׁר אֶֽהְיֶה )[わたしは『我れは存在する』である]に対応しているはずである.
とすれば,我々は こう解釈することが できるだろう:まず,τὴν ἀρχὴν[源初的に,源初において,源初以来]は,「天地の創造の源初において」であり,また,「神がモーセに神の名を明かした源初において」でもある.
次いで,我々は こう解釈することが できるだろう:中性関係代名詞 ὅ τι は,その直前の
24節における 従属節
ὅτι ἐγώ εἰμι[我れは存在する ということ]の 代理である
— というのも,関係代名詞 ὅ τι と 接続詞 ὅτι は 完全に同音であるから;つまり,この
ὅ τι は 神の名としての Ehyeh[我れは存在する]を 表わしている.
そして,最後に,我々は こう解釈することが できるだろう : καὶ λαλῶ ὑμῖν; は,ὅ τι によって導かれる関係詞節のなかに位置づけられる要素ではなく,しかして,それに後続する付加疑問である.つまり :「そして,わたしはあなたたちにそう言っているではないか?」
というわけで,我々は,イェスの答え —「あなたは誰なのか?」と問うユダヤ人たちの問いに対する 彼の答え — τὴν ἀρχὴν ὅ τι καὶ λαλῶ ὑμῖν; を,こう訳すことが できるだろう:
源初的に[源初において,源初以来],わたしは,あれ — あの Ehyeh[我れは存在する]— である;そして,わたしはあなたたちにそう言っているではないか?
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