2020年2月27日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (13)

Salvador Dali (1904-1989), Ballerine - Tête de mort (1939)

Salvador Dali (1904-1989), In Voluptate Mors[悦のなかには 死が](1951)
photographie par Philippe Halsman


Mike Mekash, Kissing Skull

L'érotique est la défense contre le thanatique
性的なものは 死的なものに対する防御である


2019-2020 年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (13)


2020年02月21日の講義:
欲望のグラフ と 幻想の彼方 (1)
 



存在 の歴史の 源初論的位相
[ la phase archéologique ] において,穴が口を開いていました.それは,そこから「無からの創造」[ creatio ex nihilo ] が成起するところの源初論的な「深淵」(תְּהוֹם [ tehom ], ἄβυσσος) の穴です.

穴が開いているというからには,それは,存在事象の空間に口を開いた穴であるのか?そうではありません.そこから「無からの創造」が成起するところの穴ですから,その穴は存在事象が存在し始める以前に 開いていました.その穴を そのものとして表象することは,今 我々がそのなかに存在しているところの spacetime に条件づけられている我々の想像力には,不可能です.

次いで,その穴が 形而上学的な「存在」— その最初のものは,Platon の ἰδέα — によって塞がれることを以て,存在 の歴史の 形而上学的位相 [ la phase métaphysique ] が始まります.そのとき,初めて,存在との差異における存在事象も可能になります.

我々が源初論的孔穴を「抹消された存在」Sein や「抹消された主体」$ によって指し標すのは,その穴は 形而上学的位相においては 形而上学的な(存在論的な)存在 や 形而上学的な(実体としての)主体 によって塞がれているがゆえに,その穴を穴として再び見出すためには,穴塞ぎとなっているものを抹消する必要があるからです.

穴塞ぎとなっているものを抹消すれば,それが塞いできた穴を再び見出すことができるだろう  そのことに Heidegger が気づき得たのは,形而上学は Nietzsche において「満了」[ Vollendung ] を迎えたからです.

「形而上学の満了」と Heidegger が呼ぶものは,このことに存しています:すなわち,イデア的なものによる穴塞ぎが 18 世紀の終りから 19 世紀の始めにかけてのころ(すなわち,フランス革命の前後の時期)に無効になったことによって,形而上学の本質は 源初論的な穴(否定存在論的孔穴)を イデア的なものによって 閉塞することに 存する ということが明らかとなる.

であればこそ,Heidegger は,穴塞ぎとして機能してきた 形而上学的(存在論的)存在 [ Sein ] を抹消することによって 源初論的孔穴を指し標すことを 思いつくことができたのです.Lacan は,Heidegger の Sein にならって,「抹消された主体」[ le sujet barré ] の学素 $ を考案しました.


形而上学の満了を以て 存在 の歴史の形而上学的位相は終り,我々は 今,存在 の歴史の終末論的位相 [ la phase eschatologique ] を生きています.そこにおいては,否定存在論的孔穴のイデア的な閉塞は無効になり,否定存在論的孔穴は穴として現れ出でてこようとしますが,しかし,それにともなう不安(無の不安,死の不安,罪の不安)を防御するために,新たに穴を塞ぎ得ると信ぜられる 支配者徴示素 S1 が措定され(すなわち Paranoia),あるいは,穴を隠し得る 剰余悦 a が増殖します(すなわち Perversion[性倒錯]).そのような paranoisch な「穴塞ぎ」と pervers な「穴隠し」に存する抵抗が,我々の時代の精神病理を条件づけています.

では,その「治療」は何に存するのか?それは,穴塞ぎと穴隠しをやめて,現れ出でてこようとする否定存在論的孔穴を そのものとして認め,引き受け,迎え入れること — 穴を前にしての不安(無の不安,死の不安,罪の不安)に耐えつつ — に存します.精神分析は,その試みにほかなりません.

そして,不安を耐えぬいたとき,逆転が成起します — キリスト教において「死から永遠の命への復活」と呼ばれている逆転が.

そして,その逆転は,「罪の赦し」という逆転でもあります.つまり,罪(この場合,特に,原罪:何ら違反行為をしていなくても,我々は有罪である — 原罪は,キリスト教の教義のなかでも最も不条理なもののひとつと見なされています)を認めることができず,自身を正当化している限りは,罪は赦されることはありません.有罪性の不安に耐えて,「わたしは罪人です」と認めるとき,初めて,罪の赦し — 罪からの解放 — が成起します.

また,「無からの創造」としての芸術的創造も,否定存在論的孔穴を前にしての「無の不安」を耐えぬくことによって,初めて可能になります.

幻想は,現れ出でてこようとする否定存在論的孔穴を隠す試みのひとつです.幻想は,Ein Kind wird geschlagen[子どもが叩かれる]において典型的にそうであるように,性的 [ érotique ] なものである(性的な興奮を惹起し,自慰的満足を誘発する).そして,否定存在論的孔穴は,死[ thanatique ] なものである(その穴は,死の不安を惹起する).érotique なものとしての幻想 ( $a ) は,死的なものとしての否定存在論的孔穴を覆い隠す.したがって,我々は,こう公式化することができます : l'érotique est la défense contre le thanatique[性的なものは,死的なものに対する防御である].


先ほども述べたように,幻想 $ ◊ a ) は,Ein Kind wird geschlagen[子どもが叩かれる]において典型的にそうであるように,性的 [ érotique ] な興奮を惹起し,自慰的満足を誘発します.つまり,幻想には,超自我の命令 :「悦せよ!」が包含されています.その命令によって,自慰行為が誘発されます.

しかし,我々は,超自我を「人格化」する必要は,必ずしもありません.幻想を 剰余悦 [ plus-de-jouir ] と捉えるなら,つまり,幻想を,異状の構造としての大学の言説の構造における剰余悦 a — 客体 a — と捉えるなら,超自我の「悦せよ!」という命令の正体は,実は,剰余悦 a の「自己増価」にほかなりません.それは,Marx が「資本家の絶対的な富裕化本能」[ der absolute Bereicherungstrieb des Kapitalisten ] と呼んだものの正体が 剰余価値の生産による 資本の「自己増価」[ Selbstverwertung ] であるのと同様です — そもそも,資本家とは「人格化され,意志と意識を付与された資本」[ personifiziertes, mit Willen und Bewußtsein begabtes Kapital ] のことである,と Marx は言っています.

では,なぜ 剰余価値 と 剰余悦 は,際限無く増殖して行かざるを得ないのか?それは,存在 の歴史の終末論的位相においては,真理の座(四つの言説の構造における左下の座)に位置する支配者徴示素 S1 が,実は,単なる仮象にすぎない  Platon の ἰδέα のように 不生不滅,恒常不変のものではあり得ない — ということを隠蔽し続けるためです.剰余価値も剰余悦も,もし際限無く増殖して行かなければ,消費されることによって,あっという間に なくなってしまいます.

さて,先週,autopunition[自己処罰]に関する質問がありました.

lacanien にとって autopunition と言えば,Lacan の 1932年の学位論文 De la psychose paranoïaque dans ses rapports avec la personnalité[人格との関係におけるパラノイア精神病について]における症例 Aimée です.彼女の精神病理を,Lacan は,paranoïa d'autopunition[自罰パラノイア]と呼びました.なぜなら,彼女が殺害しようとした女優は,彼女の自我理想の投射であったからです.その事態の構造は,やはり,異状の構造としての大学の言説の構造です.攻撃対象となった女優は,他者の座に位置する客体 a です.Aimée の行為は,その客体 a を破壊し,棄却することに存しています.

Ein Kind wird geschlagen[子どもが叩かれる]の幻想に戻ると,そこおいて,叩かれる子どもは,一見,その幻想を Freud に語る患者自身ではないように見えます.しかし,Freud は,実は,子どもが叩かれるのは折檻のためであり,折檻のために叩かれる子どもは患者自身の代理であることを見てとります.なぜなら,叩かれ幻想 [ Schlagephantasie ] は 罪意識を伴っているからです.

その意味において,叩かれ幻想は,一種の自己処罰幻想であり,その幻想にともなう悦は masochistisch な悦です.

Freud は,叩かれ幻想の由来を,Ödipuskomplex に求めます.そこにおいては,父との近親相姦的関係(すなわち,性器体制)が成立していた — 勿論,実際に娘が父と性交を行っていたわけではなく,あくまで性器的な関係の幻想があっただけですが.その性器的な関係から,しかし,子どもは,退行せざるを得ない — 近親相姦の禁止によって(我々は こう言います:性関係は無いがゆえに).それによって,子どもは,性器的な関係から,肛門的な関係へ退行し,性器的な悦は,肛門的な悦へ変形されます.

Freud が肛門的な悦を sadomasochistisch な悦と呼ぶとき,それは,より正確に言うと,何に存するのか?肛門という穴との連関における客体 a は,糞便です.それは,穴を塞ぎます(より正確に言えば,肛門的な客体 a — それは,夢などのなかでは,しばしば,「汚い」もの や「おぞましい」ものの姿を取ります — は,穴を隠します).そして,そのような客体 a は,排出や除去や破壊の対象となります — 穴の開放のために.つまり,sadomasochistisch な悦は,単に,糞便的な客体 a(糞便的な剰余悦)による穴塞ぎ(穴隠し)に存するのではなく,むしろ,そのような客体 a の破壊的な分離に存します.そのような破壊的な分離は,大学の言説(否定存在論的孔穴は 客体 a によって 隠されている)から 分析家の言説(否定存在論的孔穴は,客体 a の分離によって 現出してくる)への構造転換において,成起します.

叩かれ幻想における「叩く」こと (Schlagen) は,叩かれる者の身体としての客体 a を破壊的に分離し,否定存在論的孔穴を現出させます.幻想のなかでは,それは,叩かれる者の「失神」[ évanouissement ] として描かれます.この évanouissement という語を,Lacan は,「主体の消失」[ l'évanouissement du sujet ] という表現において用いています.それは,つまり,抹消された主体 $ が穴として現出してくることです.

Freud は,叩かれ幻想にともなう罪意識の由来について問うています.そして,それを kritisches Gewissen[批判的な良心]に求めています.Ein Kind wird geschlagen の論文は 1919年に書かれていますから,その時点では Freud は Über-Ich[超自我]という用語をまだ発案していませんが,我々としては,この kritisches GewissenÜber-Ich を見て取ることができます.

しかし,より根本的には,罪意識は何に由来しているか — 子どもは,実際には 近親相姦の罪を犯したわけではないのに?子どもは,実際には 近親相姦の罪を犯したわけではない — なぜなら「性関係は無い」から.

欲望の弁証法は,「性関係は無い」の穴 — つまり,否定存在論的孔穴 — に直面するよう,運命づけられています.その穴は,先ほども述べたように,無の穴であり,死の穴であり,罪(特に「原罪」)の穴です.否定存在論的孔穴を前にしての不安は,無の不安であり,死の不安であり,罪の不安です.

無と死と罪と — それら三つを並べるのは,キリスト教神学において「無からの創造」と「死から永遠の命への復活」と「罪の赦し」(特に,原罪の赦し)とが論ぜられるからです.それらは,いづれも,否定存在論的孔穴の否認をやめ,穴をそのものとして引き受けるときに 初めて 成起してくる神秘的な逆転を表わしています.

子どもは近親相姦の罪を犯したわけではないのに,叩かれ幻想は有罪性を伴う — つまり,その有罪性は,原罪の有罪性です.いかなる違反をも犯していないのに,有罪である — それが,極めて不条理な「原罪」[ peccatum originale ] です.そして,原罪は,否定存在論的孔穴に由来します.

欲望の弁証法は,死的な「性関係は無い」の穴に直面するよう,運命づけられています.性的な幻想 $ ◊ a ) は,その穴を覆い隠すために形成されます.

精神分析においては,我々は,幻想の彼方へ向かうことになります.欲望のグラフにおいて 幻想 $ ◊ a ) の彼方に位置づけられているのが,本能 ( $ ◊ D )le signifiant du manque dans l'Autre[他のなかの欠如の徴示素]S(Ⱥ) です.次回は,それらについて論じましょう.

2020年2月18日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (12)

la construction par Lacan du graphe du désir présentée dans Subversion du sujet et dialectique du désir dans l'inconscient freudien (1960)



2019-2020 年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール


フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (12)


2020年02月14日の講義:
幻想の学素 ( $a ) と 欲望のグラフ (3)

欲望のグラフは 二段構えになっており,その下段は 大学の言説の構造に対応しています.


そこにおいては,源初論的欲望としての主体 $ の穴は,書かれないことをやめないものの座(生産の座)へ源初排斥されており,否定存在論的孔穴は,Ichideal[自我理想]I(A) — 四つの言説における le signifiant maître[支配者徴示素]S1 に相当 — によって,閉塞されています.それは,存在 の歴史における形而上学的位相の構造です.欲望のグラフの下段だけを見るなら,そこにおいては,否定存在論的孔穴がイデア的なものによって塞がれた構造が,安定しています.

我々ひとりひとりの「発達」においても,思春期が始まるより前の時期(Freud のリビード発達論における潜伏期)までは,否定存在論的孔穴が自我理想によって塞がれた構造が ある程度 安定していることが望ましい.さもなくば,小児期においては,いわゆる 発達障害 や 自閉症 の問題が生じてきますし,また,思春期以降,いわゆる人格障害の問題が生じてきます(心理学や精神医学において「人格」と呼ばれているものは,大学の言説の構造における支配者徴示素 S1 に還元されます).ただし,自我理想による否定存在論的孔穴の閉塞の安定性は,完全なものではありえず,あくまで「多かれ少なかれ」です.「正常な人格」は あり得ません.

ともあれ,次いで,存在 の歴史の終末論的位相 — それは,個人の発達の歴史においては,思春期以降の時期に相当します — においては,それまでの イデア的な支配者徴示素 S1 ないし 自我理想 I(A) による否定存在論的孔穴の閉塞は 無効になり(ニヒリズム [ nihilisme, Nihilismus ] は,そのことに存します),否定存在論的孔穴は 穴として 現出してこようとします.そして,そのことは,同時に,それに対する抵抗と防御を惹起します — つまり,paranoisch な支配者徴示素 S1 が改めて穴塞ぎとして措定され(それは「能動的ニヒリズム」[ der aktive Nihilismus ] と呼ばれます),また,性倒錯的な剰余悦 a が 穴を覆い隠すものとして 増殖してくることによって,形而上学的位相の構造としての大学の言説の構造が 異状 (aliénation) の構造として 維持されようとします.

存在 の歴史の 形而上学的位相 と 終末論的位相 との間の切れ目を,Foucault は,la coupure épistémologique[認識論的な切れ目,科学論的な切れ目]と呼びました.Foucault の言う「古典主義時代」[ l'âge classique ] は 形而上学的位相の最後の時期を成し,現代(フランス革命以降,ないし,19世紀以降)は 終末論的位相と重なり合っています.

個人の発達史においては,その切れ目は,思春期の開始を画します.

形而上学的位相から終末論的位相への移行は,否定存在論的孔穴を塞ぐ機能における支配者徴示素 S1 の変質を条件づけます.Freud の用語で言うなら,終末論的位相において,支配者徴示素 S1 は,イデア的(静的)なものであることをやめ,今や,際限の無い「悦せよ!」(Jouis !) の命令を発する超自我 (das Über-Ich) になります.

形而上学的位相においては,支配者徴示素 S1 は,Platon の ἰδέα がそうであるように,不生不滅であり,恒常不変なものと見なされていました.それとともに,世界秩序(宇宙秩序)は,変化することなく,安定的に保たれ得るもの,と見なされていました.自然科学の分野においても,古典物理学(ニュートン物理学)においては,絶対時間と絶対空間における static universe[静的宇宙]が a priori に前提されていました.

それに対して,相対性理論と量子力学から成る現代物理学においては,宇宙は,もはや,不生不滅でも恒常不変でもなく,而して, 13.8 × 109 年[138 億年]前に誕生し,際限無く拡大しつつあり,最後は,物質密度が限り無くゼロに近い終末状態へ行き着く,と考えられています.現代物理学においてS1 に相当する Theory of Everything (TOE) の問題は未解決ですが,我々は,TOE は不可能である と推測してもよいでしょう — 終末論的位相においては,S1 は「書かれないことをやめない」もの(不可能)ですから.

哲学の分野においては,Heidegger は,形而上学的位相の終焉の証言を,Nietzsche (1844-1900) において 読み取ります.

Nietzsche は,受動的ニヒリズム(イデア的な最高価値が価値を失った事態)を克服するために,最も極端な能動的ニヒリズムとししての古典的ニヒリズム (der klassische Nihilismus) を企て,そこにおいて,従来 形而上学の本質を成してきた Platonismus を反転させて,« dem Werden den Charakter des Seins aufzuprägen »[生成に存在の性格を刻印すること]を,試みます

Platonismus の反転にともなって,支配者徴示素 S1 は Wille zur Macht[力への意志]となります.力への意志は,常に 際限無く より多い,より大きい,より強い Mehr-Macht[剰余力]を欲してやまないことにおいてのみ,自身を 力への意志として 保持し得ます.つまり,「これでもう十分」と言って満足することは,いくら疲弊しても,滅亡するまで許されません.言い換えれば,力への意志の行き着く先は,決して満足し得ないままに,消耗しきって,滅亡することでしかありません(今,資本主義社会は,まさにその道をたどっています).

力への意志を体現する者を,Nietzsche は「超人」(der Übermensch) と名づけます.Nietzsche の言う「超人」は,Freud の言う「超自我」と まさに同じものであり,前者は後者の先駆けであることを,今,我々は,Heidegger による Nietzsche 読解のおかげで,見て取ることができます(実際,Freud は,そのことを予感し,敢えて Nietzsche を読もうとはしなかったそうです — 自身の着想の「独創性」が損なわれないようにするために).

際限無く 常に より多く,より大きく,より強く「悦せよ!」と命令する超自我(力への意志)は,まさに悪魔的です.我々は,異状 [ aliénation ] の構造としての大学の言説の構造に住まうことにおいて,言うなれば「悪魔との契約」に拘束されており,悪魔的な「他の欲望」に支配されています.

その場合,Lacan の言う「他の欲望」は,「悦せよ」と命令する超自我の欲望のことであり,すなわち,四つの言説の構造の「真理の座」に 否定存在論的孔穴を塞ぐものとして措定されている 支配者徴示素 S1 の欲望のことに ほかなりません.

精神分析の終結は 欲望の昇華 [ la sublimation du désir ] に存する,と 我々は公式化しています.その場合,欲望の昇華とは,このことです:悪魔的な「他の欲望」— すなわち,超自我 S1 の「悦せよ」の命令 — を,成就不可能なものとして閉出し,それによって,悪魔の支配から解放され,そして,源初排斥されていた源初論的な欲望 $ の穴を,満たすことも隠すことも不可能な穴として,現出させ,それを,我々自身の Dasein[現場存在]として,我々自身の Dasein において,生きる,ということです.

ところで,悪魔との契約(le pact avec le diable, deal with the devil) は,中世に成立した伝説です.先週 見たように,Jacques Cazotte の Le diable amoureux[愛する悪魔]と Goethe の Faust は,ともに,悪魔との契約の主題にもとづく物語です.

物語の冒頭において,主人公は,悪魔と契約を結びます:悪魔は,召使い(奉仕者)として,主人公に仕え,主人公の欲望を満たしてやる;そして,十分な満足が達成されたとき,その報酬として,悪魔は,主人公の魂を手に入れ,今度は,主人公が奴隷として悪魔に仕える(あるいは,主人公は地獄で永久に苦しみ続ける).

もっとも,Cazotte の物語においては,主人公が満足を表明して,悪魔が恐ろしい素性を彼に思い出させたとき,主人公は,恐怖のあまり 失神します.そして,彼が意識を回復したとき,彼は地獄にはおらず,彼のまわりの世界は何ごともなかったかのように存続しています.つまり,「はたして,あれは すべて 単なる悪夢だったのか?」という疑問を以て,物語は幕切れになります.他方,Faust においては,彼が満足を表明して死ぬと,彼の魂は Mephistopheles の手中に落ちることなく,das Ewig-Weibliche[永遠なる女性的なもの]によって天上へ救済されます(神に感謝!).いずれの場合も,主人公は地獄に落ちてはいません.



ともあれ,Cazotte の物語の冒頭で,主人公に呼び出された悪魔が主人公に措定する問いが,単刀直入な「欲望の問い」です : "Che vuoi ?"[何を おまえは 欲するのか?].



欲望のグラフにおいて,その問いは,欲望 $ のところから発する逆 U 字型の曲線の頂点のところに置かれています.

何を おまえは 欲するのか?より敷衍して言えば:おまえは,源初論な — 破壊不可能な  欲望 $ の穴(否定存在論的孔穴)を満たすものとして,何を欲するのか?おまえにとって,源初論的な欲望 $ の穴を満たし得るものは,何か?

それに対して,我々は 何と答え得るか?とりあえずは,欲しいものを いくらでも列挙することができるかもしれません:ごちそう,うまい酒,権力,名誉,財産,性欲を満たす相手,等々.実際,Le diable amoureux においても Faust においても,主人公たちは,それらの存在事象による悦を 幻想的に 経験して行きます.

しかし,欲望の穴(否定存在論的孔穴)を塞ぎ得るものは,実は,何もありません.如何なる存在事象を以てしても,欲望の穴を塞ぐことはできません.

そのとき,"Che vuoi ?" は,際限なく反復される問いとなります:まだ満たされないのか?では 何なのか?では,さらに,もっと,何を欲するのか?つまり,その際限の無さにおいて,"Che vuoi ?" は,超自我の際限無き「悦せよ」の命令と同じものです.

Alvare(Cazotte の物語の主人公)も,Faust も,際限のない超自我の命令に 消耗しきって,最後に こう答えることになります(実際には そうではないにもかかわらず): 満たされた.

すると,そのとき,thanatique[死的]なものとしての否定存在論的孔穴が口を開き,主人公を呑み込もうとします.

そのような結末から遡って 物語を読み返してみるなら,物語において悦の経験として展開されてきたものは,最終的な死の穴の手前に — その最終的な死の穴を覆い隠すために — 置かれていた imaginaire な何か にほかなりません.そして,それこそが,幻想 $ ◊ a ) "Che vuoi ?" の問いに対して とりあえずの答えとして措定されるものとしての幻想 $ ◊ a )  にほかなりません.

幻想 $ ◊ a ) は,死的 [ thanatique ] なものとしての否定存在論的孔穴を覆い隠すものです.四つの言説においては,その機能を担うのは,大学の言説において「他者の座」に置かれた objet a[客体 a]にほかなりません.

剰余悦 [ plus-de-jouir ] としての objet a は,資本主義経済における剰余価値 [ Mehrwert, plus-value ] と同様,資本家の「絶対的な富裕化本能」[ der absolute Bereicherungstrieb ] にかかわらず,自身を増価してゆく (sich verwerten) することをやめません  資本家とは,擬人化された資本にほかなりませんから.

érotique なものとしての幻想 $ ◊ a ) は,死的なものとしての否定存在論的孔穴を覆い隠すものであれば,我々は,こう公式化することができます : l'érotique est la défense contre le thanatique[性的なものは,死的なものに対する防御である].

「死的」(thanatique) な 否定存在論的孔穴 に「性的」(érotique, sexuel) な意義を与えるのが,la métaphore paternelle[父のメタフォール]です:


家父長ファロス [ le phallus patriarcal ] Φ としての 父の名 S1 は,否定存在論的孔穴を塞ぎ得るものとして自身を措定することによって,否定存在論的孔穴に「ファロスの欠如の穴」( − φ ) という 性的な意義を与えます.

しかし,その性的な意義は仮象的なものにすぎません.その真理においては,否定存在論的孔穴は あくまで 死的なものです.

精神分析の経験の終結において,否定存在論的孔穴を死的なものとして敢然と引き受けるとき,死から永遠の命への復活へと逆転が成起します.

2020年2月11日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (11)

L'illustration de la scène de « Che vuoi ? » dans l'édition de 1871 du Diable amoureux de Jacques Cazotte (1719-1792), le texte de laquelle a été établi par Gérard de Nerval

Jacques Cazotte の『愛する悪魔』[わたしを愛した悪魔](Gérard de Nerval により編纂された 1871 年版)の « Che vuoi ? »[何を おまえは 欲するか?]の場面の挿絵


« Je prononce l’évocation d’une voix claire et soutenue et, en grossissant le son, j’appelle, à trois reprises et à très-courts intervalles, Béelzébuth.

« Un frisson courait dans toutes mes veines, et mes cheveux se hérissaient sur ma tête.

« À peine avais-je fini, une fenêtre s’ouvre à deux battants vis-à-vis de moi, au haut de la voûte : un torrent de lumière plus éblouissante que celle du jour fond par cette ouverture ; une tête de chameau horrible, autant par sa grosseur que par sa forme, se présente à la fenêtre ; surtout elle avait des oreilles démesurées. L’odieux fantôme ouvre la gueule, et, d’un ton assorti au reste de l’apparition, me répond : Che vuoi ? »

「わたしは,悪魔を呼び出す語を発する — よくとおる おごそかな 声で.そして,次第に声を大きくしながら,わたしは,三度,とても短い間をおいて,呼ぶ : Béelzébuth.

「わたしの血管すべてのなかに戦慄が走り,わたしの頭髪は逆立った.

「わたしがそう言い終わるやいなや,わたしの向かいの壁の 高い天井近くにある 両開きの窓が開く:その開口をとおって,太陽光よりまぶしい光の奔流が,流れ込んでくる;恐ろしいラクダの頭 — その大きさによっても その形によっても 恐ろしい ラクダの頭 — が窓に現れる;特に,それは,並外れて大きな耳を有している.醜悪な幻は,口を開き,その姿に似合った調子で,わたしに応える : Che vuoi ?[何を おまえは 欲するか?]」.


L'illustration par Michel Jamar (1911-1997) pour l'édition de 1968 du Diable amoureux. La scène de culmination où Biondetta révèle au héros sa nature de diable.

『愛する悪魔』の 1968 年版のために Michel Jamar により制作された版画挿絵.主人公に対して Biondetta が悪魔の素性を明かす場面


— Ô ma chère Biondetta ! lui dis-je, quoiqu’en faisant un peu d’efforts sur moi-même, tu me suffis : tu remplis tous les voeux de mon coeur...

— Non, non, répliqua-t-elle vivement, Biondetta ne doit pas te suffire : ce n’est pas là mon nom : tu me l’avais donné : il me flattait ; je le portais avec plaisir : mais il faut que tu saches qui je suis... Je suis le diable, mon cher Alvare, je suis le diable...

En prononçant ce mot avec une douceur enchanteresse, elle fermait, plus qu’exactement, le passage aux réponses que j’aurais voulu lui faire. Dès que je pus rompre le silence : 

— Cesse, lui dis-je, ma chère Biondetta, ou qui que tu sois, de prononcer ce nom fatal et de me rappeler une erreur abjurée depuis longtemps.

— Non, mon cher Alvare, non, ce n’était point une erreur ; j’ai dû te le faire croire, cher petit homme. Il fallait bien te tromper pour te rendre enfin raisonnable. Votre espèce échappe à la vérité : ce n’est qu’en vous aveuglant qu’on peut vous rendre heureux. Ah ! tu le seras beaucoup si tu veux l’être ! je prétends te combler. Tu conviens déjà que je ne suis pas aussi dégoûtant que l’on me fait voir. 

Ce badinage achevait de me déconcerter. Je m’y refusais, et l’ivresse de mes sens aidait à ma distraction volontaire.


— Mais, réponds-moi donc, me disait-elle.

— Eh ! que voulez-vous que je réponde ?...

— Ingrat, place la main sur ce coeur qui t’adore ; que le tien s’anime, s’il est possible, de la plus légère des émotions qui sont si sensibles dans le mien. Laisse couler dans tes veines un peu de cette flamme délicieuse par qui les miennes sont embrasées ; adoucis si tu le peux le son de cette voix si propre à inspirer l’amour, et dont tu ne te sers que trop pour effrayer mon âme timide ; dis-moi, enfin, s’il t’est possible, mais aussi tendrement que je l’éprouve pour toi : Mon cher Béelzébuth, je t’adore...

— おお,わが愛しい Biondetta ! と わたしは彼女に言った —[まったく自然にというわけではなく]若干の努力を要しつつ ではあるが — あなたは,わたしを満足させてくれている:あなたは,わたしの心の願望を すべて 満たしてくれている...

— いいえ,と 彼女は 勢いよく答えた.Biondetta があなたを満足させているはずはありません:それは,わたしの名ではありません:あなたがくれた名です.それは,わたしを美しく見せてくれた;わたしは,喜んで その名を身にまとった:しかし,今や,あなたは,わたしが誰であるかを 知らねばなりません... わたしは悪魔です,わが愛しい Alvare よ,わたしは悪魔です...

うっとりさせる甘美さを以て その語を発することによって,彼女は,わたしが返答しようとする道を このうえなく完全に塞いでしまった.ようやく 沈黙を破って,わたしは言った:

— わが愛しい Biondetta よ — あるいは,あなたが誰であれ —,その致死的な名を発するのは やめてくれ,そして,かなり前に撤回された誤りを思い出させるのは やめてくれ.

彼女は,すぐさま答えた:

— いいえ,わが愛しい Alvare よ,それは 誤りでは まったくありません;わたしは,あなたに そう信じ込ませねばならなかっただけです,親愛なる かわいい人よ.あなたをだまさねばならなかったのです — あなたに分別を取り戻させるために.あなたたち人間は,真理から逃げてしまう:あなたたちを幸福にし得るためには,あなたたちを盲目にするしかない.ああ,あなたは,幸福になりたいのなら,そうなれるでしょう!わたしは,あなたを満たしてあげましょう.あなたは 既に認めています:わたしは,人々がわたしをそう見せているほどには,嫌悪感をもよおさせるものではない,と.

彼女のおしゃべりは,わたしを完全に動転させた.わたしは,もう聞いていられなかった.わたしの感覚の酩酊は,わたしが意図的に気を逸らすことを助けた.

— さあ,答えなさい,と 彼女は わたしに 言った.

— 何?あなたは わたしに どう答えて欲しいのか?

— つれない人よ,あなたを愛するこの心[心臓]のうえに,手を置きなさい;もしできるなら,わたしの心のなかに かくもはっきりと感じ取られる情動のうち 最も軽いものにさえ あなたの心がときめいて欲しい.わたしの血管を燃えあがらせる この甘美な炎を ほんの少しでも あなたの血管のなかに流れさせなさい;もしできるなら,愛を吹き込むのにかくも適したあなたの声 — それを,あなたは,わたしの臆病な魂を怯えさせるために あまりに使いすぎる — の音を 優しいものにしなさい;もしできるなら,いよいよ,わたしにこう言いなさい — わたしがあなたを優しく愛しているのと同じくらいに優しく:わが愛しい Béelzébuth, わたしは あなたを 愛している,と...


2019-2020 年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール


フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (11)


2020年02月07日の講義:
幻想の学素
( $a ) と 欲望のグラフ について (2)



Subversion du sujet et dialectique du désir dans l'inconscient freudien[フロィト的無意識における 主体のくつがえし と 欲望の弁証法](1960) において提示されている図  如何に「欲望のグラフ」が構築されて行くかを示している

le graphe du désir[欲望のグラフ]


精神分析においてかかわる主体 $ は,否定存在論的孔穴そのものです.


Freud は無意識を発見した,と言われますが,より正確に言えば,彼は,我々の本有の核 [ der Kern unseres Wesens ] に 無意識的な欲望 [ der unbewußte Wunsch ] を発見しました.しかも,その欲望は,単に「無意識的」(意識され得ない)であるだけではなく,「破壊不可能な欲望」[ der unzerstörbare Wunsch ] と特徴づけられています.

Freud が「破壊不可能な 無意識的 欲望」として 我々の本有の核に発見したもの,それは,否定存在論的孔穴  存在 の穴;源初論的には 主体 $ の穴 — にほかなりません.

Lacan は,Hegel が『精神の現象学』において展開した弁証法的過程にならって,精神分析の経験を「欲望の弁証法」[ la dialectique du désir ] の過程として形式化します.その弁証法的な過程において問われるのは,この動きです:欲望としての主体 $ の源初論的な穴は,書かれないことをやめないもの(不可能)の座(四つの言説における 生産の座)へ 源初排斥 [ Urverdrängung, archi-refoulement ] され,そこから出発して,満足を目ざして進むが,aliénation[異状]と そこにおける欲望満足の不可能に陥り,そこから,最終的に,欲望の昇華 [ sublimation ] に至る — 愛の狡知 [ la ruse de l'amour ] に密かに導かれて.

欲望の弁証法の過程を,Lacan は,1969-1970 年の Séminaire XVII『精神分析の裏』において提示される「四つの言説」の図式を以て形式化することになります — それ以降も,特に彼の一連の Séminaire の最後のふたつ,Séminaire XXIV (1976-1977) と Séminaire XXV (1977-1978) とにおいて,Lacan は,ボロメオ結びを構成する縄輪一本一本をひとつの torus[円環面]に置き換えることによって,三つ以上の torus から成るボロメオ結びを考案し,torus に切れ目を入れて,曲面を反転させることによって,分析の終結に至る構造変化を形式化しようと試みます — が,ともあれ,1957-1958 年の Séminaire V『無意識の成形』において提示される「欲望のグラフ」は,欲望の弁証法の過程の図式化の最初の試みです.


欲望のグラフを構成する基本単位は,この graphe 1 に図示されているものです.この図において,S → S' は 徴示素の連鎖 (la chaîne signifiante) を表わし,他方,Δ $ は,主体 $ の源初論的孔穴の原初排斥を表わしています.ギリシャ文字の Δ (delta) は,源初論的孔穴としての欲望 (désir) を表わしている,と見なすことができます.主体 $ の穴の原初排斥は,主体 $ が言語の構造に住まうことに必然的に伴うものである,と考えることができます.


次の graphe 2 は,完成された「欲望のグラフ」の下段に相当します.そこにおいては,原初排斥された〈欲望としての〉主体 $ と言語の構造との連関 — 主体 $ は 徴示素によって 代理される — が図化されています.

大文字の Ale lieu du trésor du signifiant[徴示素の宝庫の場所](Ecrits, p.806) である,と Lacan は定義しています.

学素 s(A)ssignifié[被徴示]です.s(A) は「他 A のなかで被徴示であるもの」,「他のなかで,徴示素によって 被徴示の価値を得るもの」である,と Lacan は 1958年03月26日の講義のなかで定義しています.ただし,「他 A のなかで」と Lacan は強調しており,他 A は徴示素の宝庫ですから,s(A) も ひとつの徴示素です — つまり,ある徴示素に対して「その被徴示の価値」を取る徴示素,それが s(A) です.

さらに,Lacan は,s(A) のことを insigne[徽章,勲章]とも呼んでいます.それが主体の同一化の徴示素となるとき,それは,Freud が「自我理想」(das Ichideal, l'idéal du moi) と呼んだものになります.欲望のグラフにおいて,左下に位置づけられている I(A) が,自我理想の学素です.


I(A) は,四つの言説のなかで用いられている学素で言うと,大学の言説の構造において「真理の座」に位置づけられている支配者徴示素 S1 です.つまり,否定存在論的孔穴を塞ぐものとして措定された徴示素です.それは,Freud の第 2 トピックにおける Über-Ich[超自我]であり,また,あらかじめ与えられている la signifiance maîtresse[支配者意義]として機能しもします.また,Freud が 超自我 を das Es(すなわち,不可能の座に原初排斥された主体 $)の代理と規定しているように,徴示素 S1 としての I(A) は 主体 $ の ひとつの代理 です. 

ところで,1960年の『主体のくつがえし』において,Lacan は,le graphe 2 を説明しつつ,こう言っています : 大文字の A は「徴示素の宝庫の場所であるが,コード[メッセージを暗号化し,かつ,暗号化されたメッセージを解読することを可能にするものとしてのコード]の場所というわけではない.そも,ひとつの記号と何ものかとの一対一対応が A の場所に保存されているわけではなく,而して,徴示素は,徴示素の共時的かつ可算的[無限ではない]な集合 — そこにおいては,ひとつの徴示素は,ほかの徴示素ひとつひとつに対する対置の原理によってのみ,徴示素として成り立つ — によってのみ,定立される」(Ecrits, p.806).

Staferla 版 の Séminaire V において提示されている図

ところが,完成された欲望のグラフにおいて「徴示素の宝庫としての他 A の場所」と呼ばれている座に関するこの説明は,実は,欲望のグラフが初めて提示された Séminaire V の始めの部分における説明と くいちがっています:そこにおいては,A の場所に相当する座は,まさしく「コード」の場所と規定されています.それに対して,s(A) の座に相当する座は「メッセージ」の場所と規定されています.

この「メッセージ」は,無意識からのメッセージのことです.精神分析の面接において,分析者(患者)は,自由連想にまかせて 語ります.そこに,何らかの「無意識の成形」[ les formations de l'inconscient ](夢,言い損ない,し損ない,症状,等々)が ふと 姿を現します.そこにおいては,何かが何ごとかを語っています (ça parle et ça dit quelque chose). しかし,そのメッセージは いわば暗号化されており,我々はそれを即座に読み取ることはできません.そして,我々がそれを読み取ることができない限り,そこにおいて 何かは語ることをやめません(すなわち,症状の存続).暗号化されたメッセージの解読のためには,その暗号化を可能にしたコードに準拠する必要があります.メッセージは,したがって,解読されるために,コードの場所へ差し向けられ,そして,我々は,コードの場所からメッセージの場所へ立ち戻って,メッセージを読み直すことになります.

留意すべきことに,Lacan は,A を「徴示素の宝庫」[ le trésor du signifiant ] と定義しています.この 若干 詩的な表現は,Freud が用いた der Schatz der Erinnerungsspuren[記憶痕跡の宝庫]という表現に由来しています(つまり,Lacan は,Freud の言う「記憶痕跡」を「徴示素」と読みかえています).そして,Freud の der Schatz der Erinnerungsspuren という表現は,ドイツ語の Wortschatz という一般名詞に由来しています.それは,字義どおりに訳せば「単語の宝庫」ですが,一般名詞としては「語彙」です.語彙は,辞書として具象化されるような 単語の集合です.しかし,そこには,解読のためのコードは含まれていません.たとえば ある外国語で書かれたテクストを読解するためには,我々は,語彙に相当する辞書だけでなく,その言語の文法や,特有の言いまわしや,その言語が用いられる国や地域の文化,習慣,事物,人間などについても知らねばなりません.それらの総体が,解読のためのコードとなります.コードは,ですから,語彙には還元され得ません.

ということは,Lacan が 徴示素の宝庫としての 他 A の場所に コードをも位置づけるとき,Lacan は ふたつの相異なるものを同じ場所に置いている,ということです.徴示素の宝庫としての 他 A の場所,それは,母としての他 A です.それに対して,コードは,母に対する他である父です — 1960年の『主体のくつがえし』においては,それは,l'Autre de l'Autre[他の他]と呼ばれており,そして,il n'y a pas d'Autre de l'Autre[他の他は 無い](Ecrits, p.813) という命題によって,その現存は否定されています. つまり,母としての他 A の場所には欠如の穴が口を開いており,その穴を閉塞し得る父 — le phallus patriarchal Φ家父長ファロス Φ— は,本当は現存しません.家父長ファロス Φ があたかも現存するかのようにふるまっているとすれば,それは,単なる仮象としてであり,そして,それは 単なるペテンでしかありません (cf. ibid.). 

Lacan が 他 A の場所に関して,それは 徴示素の宝庫の場所であるが,コードの場所ではない,と言うとき,彼は,母としての 他 A の場所における 家父長ファロス Φ欠如 「他の他は 無い」— を強調しています.言い換えると:無意識の成形に担われているメッセージを一義的に解読することを可能にするようなコードは,無い.

では,精神分析においてかかわる「解釈」とは 如何なるものなのか?それは,一義的な意義を読み取ることではありません.あらかじめ一義的に定められた意義は,la signifiance maîtresse[支配者意義]としての 支配者徴示素 S1 にすぎません — 精神分析の経験においては,真理の座に措定された S1 を閉出することによって,初めて,大学の言説から分析家の言説への構造転換が生じ得ます.

無意識の成形において何かが語るとき,そこにおいてかかわっている「意義」は,真理の座に措定された S1 ではなく,而して,不可能の座(生産の座)に閉出された 主体 $ です.


精神分析における解釈は,主体 $ を「書かれないことをやめない」ものの座(右下の生産の座)から「書かれることをやめない」ものの座(右上の他者の座)へ現出させることに存します.その意味において,精神分析的解釈は 現象学的解釈です.

ともあれ,二階建ての「欲望のグラフ」の下段においては,排斥された欲望としての主体 $ は,自我理想 I(A) への同一化に至るだけです.それは,異状 [ aliénation ] の構造としての大学の言説の構造です.欲望 $ にとって,その構造は,満足不可能の構造です.


したがって,欲望 $ にとって,異状の構造の彼方へ向けて,この欲望の問いが措定されます : Che vuoi ?[何を おまえは 欲するのか?]そして,その問いへの答えとして,幻想 ( $a ) が措定されます.

イタリア語で Che vuoi ? と述べられた 欲望の問いを,Lacan は,Jacques Cazotte (1719-1792) の 1772 年の小説 Le diable amoureux[愛する悪魔]から取っています.なぜ Lacan がそうしたのかは不明です.多分,その小説は,幻想小説の古典として 一般的に有名だったのかもしれません.あるいは,特に surréaliste たちの間で評価されていたのかもしれません.

その小説の一部は,挿絵とともに 上に紹介しました.話の冒頭で,若い貴族である主人公 Alvare は,興味本位に 悪魔を呼び出します.悪魔は,醜悪なラクダの頭の姿で現れ,彼に Che vuoi ? と問います.悪魔は,若い女性 Biondetta の姿をとって,Alvare に仕え,彼の欲望を満たして行きます.Biondetta は,Alvare を愛している,と言い,Alvare も Biondetta と結婚することにします.そして,彼が彼女に「わが欲望は すべて満たされた」と告げたとき,彼女は悪魔の素性を想起させます.彼は恐怖に襲われ,気を失います.彼が意識を回復したとき,悪魔の姿はなく,すべては悪夢であったかのように,物語は幕切れとなります.

主人公が悪魔と契約し,悪魔は主人公に使えて,彼の欲望を満たし,主人公が満足の意を表明したとき,悪魔は彼の魂を手に入れる — この筋書きを,Goethe (1749-1832) の戯曲 Faust(第 I 部 1808 年,第 II 部 1832年)も共有しています.Goethe は,16 世紀に成立した Faust 伝説にもとづいて 戯曲を作りました.悪魔との契約を motif とする物語は,より古く,中世に既に見出されます.

Goethe の Faust の Mephistopheles との契約の場面を読んでみましょう:

FAUST:
Werd‘ ich beruhigt je mich auf ein Faulbett legen,
So sei es gleich um mich getan!
Kannst du mich schmeichelnd je belügen,
Daß ich mir selbst gefallen mag,
Kannst du mich mit Genuß betrügen-
Das sei für mich der letzte Tag!
Die Wette biet ich!

MEPHISTOPHELES: Topp!

FAUST:                                  Und Schlag auf Schlag!
Werd‘ ich zum Augenblicke sagen:
Verweile doch! du bist so schön!
Dann magst du mich in Fesseln schlagen,
Dann will ich gern zugrunde gehn!
Dann mag die Totenglocke schallen,
Dann bist du deines Dienstes frei,
Die Uhr mag stehn, der Zeiger fallen,
Es sei die Zeit für mich vorbei!


Faust :
いつか わたしが 心やすらかに 安楽椅子に 身を横たえるなら,
そのとき すぐさま わたしは おしまいになるがいい!
いつか おまえが わたしを おもねりと嘘で だますことができるなら,
— わたしが いい気になるように —,
おまえが わたしを 悦で だますことができるなら,
それが わたしにとって 最後の日となるがいい!
わたしは 賭けを申し出よう!

Mephistopheles :                     よし!

Faust :                                                  これで 手を打った!
わたしが 瞬間に向かって こう言うなら:
さあ,とどまれ!おまえ[瞬間]は かくも美しい!
そのとき おまえ [ Mephistopheles ] は,わたしを鎖につなぐがいい,
そのとき わたしは 喜んで 破滅しよう!
そのとき 死者の鐘[弔鐘]は 鳴り響くがいい,
そのとき おまえは[わたしへの]奉仕から解放される,
時計は とまるがいい,針は 落ちるがいい,
わたしにとって 時間は 終り去る.

次いで,最後,Faust が満足を表明して,こと切れる場面:

FAUST:
(...)
Zum Augenblicke dürft‘ ich sagen:
Verweile doch, du bist so schön!
Es kann die Spur von meinen Erdetagen
Nicht in Äonen untergehn. —
Im Vorgefühl von solchem hohen Glück
Genieß‘ ich jetzt den höchsten Augenblick. 

瞬間に向かって わたしは こう言うことができる:
さあ,とどまれ!おまえ[瞬間]は かくも美しい!
わたしの地上の日々の痕跡は
永久に 滅びることはあり得ない.—
かくも高き幸福の予感のうちに
わたしは 今 至高なる瞬間を悦する.

こう言って,Faust は倒れます.Mephistopheles は,彼の魂を手に入れようとします.しかし,das Ewig-Weibliche[永遠なる 女性的なもの]が Faust の魂を天へ救いあげます.

Faust が冒頭で述べているように,欲望の満足は錯覚にすぎません.そして,欲望が完全に満たされたと思う瞬間,我々は,死の穴へ呑み込まれます — 死的 [ thanatique ] なものとしての否定存在論的孔穴の開口へ.

幻想 $ ◊ a ) は,死的な否定存在論的孔穴を覆い隠すヴェールである,ということができます.