『精神分析の四つの基礎概念』第四章:
徴示素の網について
第四章では Lacan の話題があちらこちらへ跳ぶので,聴衆ないし読者にとっては彼の話に付いて行くのが困難ですが,我々にとって
Ariadne の糸となるのは常に,精神分析がかかわる領野の根本的な構造,主体の存在の真理の現象学的構造です:
第四章においても Lacan は,主体の存在の真理を代表する徴示素
a を,切れめ coupure, または,裂けめ fente として提示しています.したがって, 主体の存在の真理の現象学的構造をこう書き換えておきましょう:
この主体の存在論的構造は,静的なもの,固定化されたものではなく,而して,開きと閉じの拍動
[ pulsation, battement ], ないし,ゆらぎ [ vacillation, fluctuation ]
を伴っています.すなわち,存在欠如 manque à être としての主体は,口を開いた切れめないし裂けめをとおして瞬間的にうかがわれることがあっても,裂けめはすぐさま再び閉じられてしまい,主体は消え去っていまいます.
この主体の消失を言い表すために,Lacan は動詞 évanouir または disparaître を用いています.
夢解釈における Freud のデカルト的懐疑は,精神分析の面接において物語られる夢の顕在内容を了解しないことに存します.つまり,了解され得るものとしての夢の顕在内容は,棄却されます.それによって生ずる空き地,切れめそのものとしての徴示素の座,Heidegger の用語で言うなら Lichtung [朗場]をとおして,真理の座に
Traumgedanke : 「夢思考」があるという確実さが得られます.
Freud が夢思考と呼んだものは,分析家の言説において真理の座に仮定される知
S2 にほかなりません.
前回見たように,デカルト的主体は
hysterica の言説において能動者の座に位置する
$ です.そして,性別の論理式の女の側を為す式を hysterica の言説の構造へ代入することにより,女の言説 [ le discours de La Femme ] の学素が得られます:
左上の能動者の座に位置する Ø("x) F(x)
は,("x) F(x)
により規定される集合,すなわち,男の集合 { x | F(x)
} の外部を成す穴を示唆しています.
その穴こそ,hysterica の désir insatisfait, 満たされない欲望,欲望不満足であり,かつ,Lichtung, 朗場としてのデカルト的主体です.
学素 $ は,欲望不満足の学素であり,かつ,朗場の学素です.
hysterica の言説は,能動者の座に欲望不満足の穴を開ける限りにおいて,精神分析の可能性の条件を成します.同様に,デカルト的主体の言説は,能動者の座に朗場を空ける限りにおいて,近現代的意味における科学の可能性の条件を成します.
左下の真理の座に位置する Ø($x) ØF(x) は,女の言説においては真理の座に位置する仮象は何も無いことを示唆しています.
男の側においては,つまり,強迫神経症者の言説としての大学の言説においては,真理の座には仮象としての父の名が位置しています : ($x) ØF(x).
それに対して,女の言説においては,真理の座は,文字どおり,空座です.それは,抹消された存在 Sein の処有,Ortschaft des Seins です.
仮に,穴を形式化する学素を sinthome
の Σ とするなら,この等価性が措定されます:
つまり,女の言説,le
discours de La Femme は,精神分析の可能性の条件として,精神分析の原点,精神分析の源初を成すと同時に,精神分析の終わりである死からの復活としての sinthome をも成します.原点と終点,源初と終結は,本同的である,と言えます.
« L’avenir de l’homme est la femme »[男の未来は女である]と Aragon は Le Fou d’Elsa のなかで詩っています.つまり,精神分析の終結としての sinthome の構造は女の実存構造と同じなのです.
Hysterica の場合も,存在の真理の座に残存する仮象 a をすべて能動者の座へ呼び出して,つまり,まずは分析家の言説へ移って,そしてそこにおいて a を分離することによって,sinthome の構造としての女の構造へ至ることになります.
p.45 で Lacan は Freud の前ソクラテス的金言 : « Wo Es war, soll Ich werden », 「何かの在りしところに我れが成るべし」に注釈を加えつつ,こう言います:
« le Ich est,
sous la plume de Freud, – quand on sait, bien entendu, reconnaître sa place –,
le lieu complet, total du réseau des signifiants. »
「我れ das Ich は,Freud の筆のもとでは,— 勿論,我々がその座を認めることができるなら
—,徴示素の網の完全な,総体的な場処である.」
そこで Lacan が用いている「総体的」という語から,Heidegger の言う das Seiende als solches im Ganzen : 「存在事象そのもの全体」が想起されるでしょう.それは,存在 Sein とは区別されるべき存在 Sein です.つまり,Freud の Ich は Sein と等価であると見なされ得ます.
Heidegger
は
« Es gibt Sein » [何かが存在を与える]と公式化しました.Es は Sein のことです.したがって,存在の真理の現象学的構造
にしたがって,こう形式化され得ます:
この werden は sich ereignen と等価です.何かの在りしところに,Ereignis [自有]が発起すべし.それが,精神分析の倫理です.
réseau は「網」,英語では net ないし network ですが,réseau des signifiants という表現は,Lacan のもうひとつ別の表現 : chaîne signifiante を思い起こさせます.一方で,徴示素の網,他方で,徴示素の鎖ないし連鎖.両者はともに a を指しているはずですが,力点の置き方は異なるように見えます.
網には穴が開いています.網で何らかの客体を捕獲することはできますが,穴を通り抜けてしまうので取り逃されてしまうもの,捕獲不可能なものがあります.つまり,一方に仮象 a, 他方に実在 φ .
それに対して,1955-56年に書かれて Écrits の冒頭に収録された書:『“盗まれた手紙”についてのセミネール』では,matérialité du
signifiant [徴示素連鎖の物質性] (Écrits, p.24) が強調されています.
同じ箇所
(Écrits, p.24) において
Lacan は « le signifiant matérialise l’instance de
la mort »[徴示素は,死の機関を物質化する]と言っています.このことは,学素
により形式化され得ます.実在 φ は,抹消された存在として,死でもあります.
Écrits, p.11 では,反復は insistance de la chaîne signifiante [徴示素連鎖の固執]に関連づけられています.つまり,その物質性における徴示素の存続が反復の原理である,と考えられています.症状の持続はそこに起因します.
それに対して,1964年の Séminaire XI においては,反復は実在と関連づけられています:
Le réel est ce
qui revient toujours à la même place – à cette place où le sujet en tant qu’il cogite, où la res cogitans, ne le rencontre pas (Séminaire
XI, p.49).
実在は,同じ座へ常に回帰するものである.[その際,]実在が常に回帰してくるところの同じ座は,思考するものとしての主体 — res cogitans — が実在に出会わないところの座である.
一方に,res cogitans [思考するもの]としての主体,すなわち,徴示素 a. 他方に,主体の存在の真理としての実在 φ. 実在 φ が常に回帰してくる座と,徴示素 a の座とは,両者が互いに出会わないように分裂しています.主体の存在の真理の現象学的構造の学素において上の座と下の座とを分け隔てる横線は,その分裂を差し徴しています:
1955-56年の時点では,力点は徴象に置かれています.それに対して,1964年には力点は実在に置かれています.この Lacan の視点の変化を画するのが,1959-60年の Séminaire
VII 『精神分析の倫理』です.