10 November 2014 :
律法によらねば,わたしは罪を識らなかった; 罪さえも!罪さえも役に立つ.
今日は,罪に関する省察の材料としてふたつの引用を皆さんに提示するだけにしておきます.ひとつは,聖パウロのローマ書簡 7,7-12 です.もうひとつは,Paul Claudel の『サテンの靴』から.
聖パウロ,ローマ書簡 7,7-12 :
では,どういうことか?律法は罪であるか?とんでもない!だが,律法によらねば,わたしは罪を識らなかった.そも,律法が「欲望するなかれ」と言わなかったなら,わたしは欲望を識らなかったであろう.だが,機会を得て,罪は,命令によって,わたしのうちに欲望すべてを作り出した.そも,律法が無ければ,罪は死んでいる.かつて,律法無しに,わたしは生きていた.しかし,命令がやってきて,罪は生き返り,わたしは死んだ.命へ至るはずの命令が,わたしにとっては,死へ至るものとなった.そも,罪は,機会を得て,命令によってわたしを誘惑し,それによってわたしを殺した.さように,律法は聖なるものであり,命令は聖なる,義なる,善なるものである.
Paul Claudel
(1868-1955) は劇作家で,カトリックでした.本職は外交官で,1921-27年,駐日フランス大使を務めました.
引用は『サテンの靴』第三日,第八場から:
Doña Prouhèze :
男は,女の腕のなかで,神を忘れます.
守護天使:
「神と共に在る」ことは,「忘れる」ことであるか?「神と共に」以外のところでか,神による創造の神秘と結合されて在るのは?辱めと死の門を通って,暫しの間,再びエデンの敷居をまたいで.
Doña Prouhèze :
結婚の秘跡を受けない愛は,罪ではありませんか?
守護天使:
罪さえも!罪さえも役に立つ.
Doña Prouhèze :
では,彼[主人公 Rodrigue]がわたしを愛するのは良いことでしたか?
守護天使:
おまえが彼に欲望を教えたのは,良いことであった.
Doña Prouhèze :
まぼろしを欲することを?常に彼から逃れる影を欲することを?
守護天使:
欲望は,存在するものの欲望であり,まぼろしは存在しないものだ.まぼろしを通しての欲望は,存在しないものを通して存在するものを欲することだ.
11 November 2014 : 創造は,無からの創造である; 真理は fiction の構造において真現する; Fetisch
と sinthome ; φ は,物であり,かつ,欲望である限りにおいて,存在論と倫理学との連結の役を果たす.
村上春樹氏を差しおいて今年の Nobel 文学賞を受賞した Patrick Modiano の小説が届きました.La place de l'étoile と Les boulevards de ceinture です.
étoile という語は,何故か小文字で書かれています.
Les
boulevards de ceinture 『環状道路』の題辞に
Rimbaud が引用されています.『地獄におけるひとつの季節』の『悪しき血』のなかの言葉です:
フランス史のいかなる時点においても,わたしの前例があったなら!否,皆無だ.
18歳の Rimbaud の言葉です.いかにも,創造は,無からの創造です.
Modiano は全く読んだことがないので,楽しみです.しかし,同じ Nobel 賞作家でも,Elfriede
Jelinek ほどの驚きがあるかどうかはわかりません.
文学の話しのついでに,昨日引用したふたりの Paul のうち Paul Claudel に先に触れておくなら,Lacan は彼の Coûfontaine 三部作を Séminaire VIII のなかで取り上げています.
Le
soulier de satin は渡辺守章氏の訳で岩波文庫から『繻子の靴』として出版されています.これも或る意味で,福音書と同様,死と復活の物語です.長編の戯曲ですが,あきることがありません.
「真理は fiction の構造において真現する」 « la vérité s'avère dans une structure de fiction » と Lacan は言っています.四つの言説の構造においては,仮象が真理を代表しています.
Lacan の学素
a / (− φ) にならって a / φ を考案し,それを症状の構造の学素と定義しました.RSI のボロメオ結びにおいても,三つの輪の交わりに
a が位置づけられています.
しかし,去勢の否認の機能である Fetisch としての a / φ と,無からの創造ならびに死からの復活としての
a / φ とは,必要に応じて区別する方が,混乱を避けるためには良いようです.特に必要があれば,後者は Σ / φ と書きます.
二階堂奥歯氏にとってのぬいぐるみの機能について,彼女はそれを世界守護者と呼んでいたとの御指摘をいただきました.言い換えれば,父の名ではないか?しかし,彼女にとって,あらゆる存在事象は仮象にすぎませんでした.彼女は世界守護者を呼び求めましたが,この世ではかなえられませんでした.
ひとくちに芸術作品と言っても,それらのうちに,単に去勢の否認に役立っているにすぎない Fetisch と,死からの復活,無からの創造としての sinthome とを,常に判然と識別し得るか否か?この問いは今後も考え続けてみましょう.
Séminaire VII 『精神分析の倫理』 p.101
において Lacan は,昨日引用した聖パウロの一節の「罪」に「物」 la Chose を代入しています.
律法によらねば物を識らなかっただろう.律法によらねば欲望を識らなかっただろう.
そこにおいて,律法は signifiant a であり,物および欲望は φ です.
ローマ講演の終わりの方で Lacan は「語は物の殺害である」と言っています.物は,抹消された限りでの物,つまり
φ です.
古代ギリシャにおいて無からの創造の観念があったか否かは,Hesiodos が用いた Chaos の語をどう解釈するかによります.Chaos の原義は「裂口,開口」であり,つまり,穴です.はたしてそれは無そのものであるか?確かに解釈は分かれます.
12 November 2014 : Gérard Haddad, 『ラカンがわたしを養子にした日』; Fetisch は創造の尊厳を失った被造物である;
trait unaire, 一元特徴,自我理想,signifiant a ; 仮象
a は,存在 φ がまとう仮面である; 「なぜわたしはわたしなのか?」が aporia になるのは男にとってだけだ.なぜなら,女にとっては「わたしは他者である」が自明であるから.
たまたま Mallarmé の引用を見かけました.Mallarmé は言語についての覚え書きのなかで Descartes の『方法序説』に関してこう言っています:
あらゆる方法は fiction であり,証明に役立つ.言語は fiction の道具であると彼 (Descartes) には思われた:
彼は,言語の方法に従うだろう.(その方法を規定すること) 言語は,言語自体を映す.つまるところ,彼 (Descartes) には,fiction は人間精神のふるまいそのものであると思われる
— fiction こそが,あらゆる方法を動員する.そして,人間は意志へ還元される.
Descartes の Discours de la méthode をゆっくり読んでいる時間はありませんでしたが,そのテクスト内を検索した限りでは,Descartes 自身は fiction という語は使っていないようでした.
ともあれ,Descartes が言語と fiction との本質的な関連について思考しているのだとすれば,興味深いことです.Lacan が Discours de la méthode そのものに言及しているのは見かけたことがありませんが.
Gérard Haddad という分析家が Lacan との分析の思い出を本にしています.『ラカンがわたしを養子にした日』という題です.
Haddad は Tunisia 出身のいわゆる
séfarade, アラブ系ユダヤ人です.ヨーロッパ系ユダヤ人は ashkénaze. ピアニスト,指揮者の Vladimir Ashkenazy の姓はその名称に由来しています.
興味深いのは,Haddad は,分析以前にはマルクス・レーニン主義者として全く信仰を持っていなかったのに,分析の最中から彼の祖先の宗教に関心を持ち始め,とうとうユダヤ教について本を書くまでになった,ということです.
Haddad は,分析をとおして,神の声,存在 φ の声を聴くに至った,というわけです.分析以前には,彼は,その声に耳を塞いでいたのですが,分析の経験のなかで,彼はその声に耳を傾ける勇気を持つに至ったのです.
或る方から,あらゆる a はかつては Σ であったのではないか,との御指摘をいただきました.確かに,あらゆるものは神により無から創造されたのですから,その意味で sinthome です.
果たして,Fetisch は創造の尊厳を失った被造物であるか?
御質問をいただいています:
a に関して,Lacan が trait unaire と呼んだものとのその関連は如何?
Lacan は trait unaire について『主体のくつがえし』のなかでこう言っています (Écrits, p.808) :
「一元特徴 [ trait unaire ] は,主体を,最初の同一化〈其れは,自我理想を形成する〉へ異状化
[ aliéner ] する.そのことを記号 I(A) は記している.」
学素 I(A) は欲望のグラフのなかで用いられています.Freud の言う Ich-Ideal 自我理想の学素です.i(a) が影象的「理想自我」 ideales
Ich であるのに対して,I(A) は徴象的「自我理想」です.自我理想を形成するのが一元特徴への同一化です.
一元特徴への同一化は異状 aliénation を生ぜしめます : a / φ .
つまり,Freud の「自我理想」を規定するために Lacan が用いた trait unaire は,同一化の signifiant としての
a の別名です.
Freud が同一化と呼ぶものは
a への同一化であり,その限りで,異状 aliénation を定立します.
主体 φ の同一化としては,a は自我です.
と同時に,欲望との関係においては,a は「欲望の客体」ないし「欲望の原因である客体」と呼ばれます.
a は自我でもあり,客体でもある.それが narcissisme の構造です.
Lacan の教えのなかで主題化される時間的順序としては,a はまずは schéma L における自我・他者 a - a' として登場し,次いで欲望のグラフのなかで幻想の学素 ($◊a) に用いられます.
客体 a という名称は,「幻想 ($◊a) のなかの客体」に由来します.
自我としても客体としても,a は存在 φ を代理する仮象です.
そのことに関連して,仮面舞踏会 mascarade という表現を思い出してもよいでしょう.UK の女性分析家 Joan Riviere (1883-1962) が1929年の論文 Womanliness as a masquerade 「仮面舞踏会としての女性性」において用いた表現 mascarade に Lacan は注目しています.
仮象 a は,存在 φ がまとう仮面です.
或る方が興味深い指摘をしてくださいました:「なぜわたしはわたしなのか?」が aporia になるのは男にとってだけだ.なぜなら,女にとっては「わたしは他者である」が自明であるから.
13 November 2014 : 我れは他である; Je
est l'Ⱥutre ; 男が「なぜわたしはわたしなのか?」と問うのは,Φ との同一化が不安定になったときである;
女が仮面 a を脱ぐとき,それによって顕わになる存在の真理の穴は,Medusa のまなざしの恐ろしさか,聖女の美しさか.
1871年5月15日付の書簡において16歳の Arthur Rimbaud は言いました:
Je est un autre. Si
le cuivre s'éveille clairon, il n'y a rien de sa faute. Cela m'est évident :
j'assiste à l'éclosion de ma pensée : je la regarde, je l'écoute.
我れは他である.銅が目覚めてラッパになるとしても,銅の過ちは何も無い.それは,わたしには自明だ:わたしは我が思考の開花に立ち会う:わたしはそれをまなざし,それを聴く.
より正確には,Je est un autre の前に接続詞 car が置かれています.car は文の始まりの語なので,大文字で書かれていますが,それに続く
je も大文字で書かれています : Car Je est un autre.
この文の異様さは,日本語に翻訳してしまうと隠されてしまいます.通常は文頭以外では小文字で書かれる一人称代名詞 je が大文字で書かれ,しかも,動詞 être の活用形は一人称単数のそれではなく,三人称単数のそれになっています.この Je は,明らかに,後の部分の je とは異なります.
引用した Rimbaud の言葉は,分析家の言説の構造を表しています.彼が Je と呼んでいるのは,左下の座に位置づけられる主体の存在の真理です.
ですから,より Lacan 的に表記するなら:
Je est l'Ⱥutre.
Je は,他 A のなかの欠如,他 A の場処に穴をうがつ存在の真理の深淵
φ です.そして,存在の真理は,「我が思考の開花」として己れを示現します: a / φ .
a の立ち現れに立ち会い,それをまなざし,それを聴く「わたし」は,右上の座に位置する
$ です.
自分自身の存在の真理が言語の構造において示現されてくる.そのとき,存在の真理の声に耳を傾け,それを読み取る.Rimbaud にとって,詩作の経験とはそのようなものです.
16歳の少年がそのような分析家の言説の構造を把握し,公式化しているとは,なんとも驚くべきことです.
Rimbaud の Je est un autre に対して,仮面舞踏会としての女性性との関連における「わたしは他者である」は,影象的な自我が仮面であることを言っています.そして,女性はそのことを多かれ少なかれ自覚しています.
Simone de Beauvoir は彼女の最も有名な著書:『第二の性』 Le deuxième sexe においてこう言っています:
on ne naît pas
femme : on le devient.
我々[女]は,女として生まれるのではなく,女に成るのだ.
男も先天的に男であるのではなく,後天的に男に成るのであり,そう成るよう強いられるのですが,それは,sexuation 性別の signifiant としての
Φ への同一化によってです.
男において,徴示素 Φ との強固な同一化は,鏡像的な自我・他者の transitivisme に取って代わります.
逆に言えば,男が「なぜわたしはわたしなのか?」と問う問いは,Φ との同一化が揺らいだとき,あるいは,それが始めから不安定であるときに生じてくるものでしょう.
男の性の signifiant Φ に対して,女性の性そのものの signifiant はありません.女性の性は,否定神学においては神について「... ではない」としか語らないように,否定形でしか表言できません:すべての
x について Φ(x) であるわけではない.
« x
は女である » は,« x は
Φ(x) ではない » という否定によってしか差し徴され得ません.
固有の signifiant の欠如の穴に,さまざまな仮象
a が便宜的に,人為的に代入されます.とりわけ,男の欲望の客体と成り得るように.そのような同一化は,男の
Φ との同一化より遙かに容易に解体され得ます.
それゆえ,女性は,女性としての自我が人為的,便宜的な仮面であることを比較的容易に自覚し得ます.
そして,その仮面を脱ぎ捨てることも.それによって顕わになる存在の真理の穴は,Medusa の恐ろしいまなざしになるかもしれませんし,聖女の美しさになるかもしれません.
15 November 2014 : 一神教と一なる YHWH
; Un ≡ φ ; y a d'l'Un ; 三人の囚人と論理学的時間.
一神教について御質問をいただいています.一神教は,旧約聖書申命記 6,4 の言葉によって定義されます:
Sh'ma Yisra'el YHWH Eloheinu YHWH Eḥad.
ヘブライ文字で書いても何と読むかわからないので,ラテン・アルファベットで表記しておきます.日本語に訳すと:
「聴け,イスラエル!我れらの神 YHWH は,一なる YHWH である」.
この文言は,ユダヤ教の最も基本的な信仰箇条を成すと見なされています.
YHWH Eḥad.
Eḥad は一,英語なら one, フランス語なら un です.YHWH は一である.つまり,一は神の名,父の名です.ここで,YHWH は,存在 φ のことです.つまり,ex-sistence 解脱実存です.
一,Un について,この等価性を措定することができます:
Un ≡ φ
一,Un について,Lacan は Séminaire XIX ...ou pire でこの命題を提示します:
Y a d'l'Un.
Y a d'l'Un は,il y a de l'Un という文を日常会話における発音のしかたで発音した音をそのまま表記したものです.代名詞 il が省略されてしまい,また,de の母音が飲み込まれてしまいます.
il y a は存在を差し徴す表現です.英語の there is, ドイツ語の es gibt に相当します.
Y a d'l'Un は,日本語では「一が有る」と訳すしかありませんが,それでは重要な点が抜け落ちてしまいます.それは,de と定冠詞から成る部分冠詞の意義です.
部分冠詞は,非可算名詞に関してその何らかの量を差し徴します.たとえば英語で would you like some coffee ? と言うときの some に相当します.フランス語では voulez-vous du café ? du は de と le の縮合です.
では,φ としての一,Un に部分冠詞が付されるのは,如何なることか?
存在の真理の現象学的構造 a / φ に即して考えてみましょう.ちょうど昨日の東京ラカン塾精神分析セミネールで読解した
Encore p.47 の一節で Lacan はこう言っています:
l'inadéquat du
rapport de l'Un à l'autre.
一と autre (つまり,petit a) との関係の非十全適合.
signifiant a は Un に対して十全適合的ではない.そも,signifiant a は Un を代表する仮象にすぎません.
« y a d'l'Un » の部分冠詞は,signifiant
の実在に対するこの非十全適合性を差し徴しています.
一,Un は,ひとつ,ふたつと数える際の単位ではなく,「すべて」のことです.「すべて」である Un という signifiant を以て存在事象そのもの全体を差し徴すと考えるなら,部分冠詞は必要なく,l'Un est ないし il est l'Un と言ってもよいでしょう.
しかし,Lacan が考えている Un は,存在事象ではなく,而して,存在
φ です.
signifiant Un を「すべて」として措定するとき,必ずそれに対して解脱的である何か,それに対して ex-sister する何かが存有します.「すべて」であるはずの Un は,実は「すべて」ではなく,ex-sistence を考慮に入れるなら,部分にすぎないのです.
かくして,« y a d'l'Un » の部分冠詞は,間接的に ex-sistence を指しているのだ,と読解することができます.
先週と昨日の東京ラカン塾精神分析セミネールにおいて,Lacan が『論理学的時間』で提示した三人の囚人の譬え話について考えてみました.基本的に仏教徒である日本人によりわかりやすいかもしれない version を思いついたので,最後に紹介してみます:
お釈迦様が地獄で苦しむ三人の亡者を見てあわれに思い,そのうち一人を極楽へ救済してやることにしました.お釈迦様は彼らに言いました.ここに5枚の円板があり,3枚は白色,2枚は黒色である.いずれか一枚を君たちの額に貼る.ほかの者の円板の色を見ることはできるが,自分自身のものは見えない.君たち三人を一緒に一部屋に入れる.自分の円板が何色かを最も速く論理学的に正しく推論して正しく結論した者ひとりだけを極楽へ救済する.勿論,互いに相談したり議論してはならない.
これが,三人の囚人の話の仏教版です.いずれにせよ,最終的にかかわっているのは,芥川龍之介の『蜘蛛の糸』におけるように,救済です.さあ,どうなるでしょうか?答えは
Ecrits に示されていますが,御自分でも考えてみてください.
16 November 2014 : Sartre vs Lacan, 出口無し vs パス; 死は人類の運命について最後の言葉を言うものではない,なぜなら,人間は永遠の命へ定められているから; Gestell und Todestrieb, 総召集体制と死の本能;
死からの復活は神話ではない.
昨日書いた仏教版「三人の囚人」の話から,ふと Sartre の戯曲 Huis clos 『出口無し』のなかの台詞 l'enfer, c'est les autres 「地獄とは他者である」が頭に浮かんできました.
Sartre の戯曲においても,登場人物は三人です.執筆されたのは1943年,初上演は1944年5月.Lacan の『論理学的時間』が執筆されたのは1945年3月ですから,Lacan が Sartre の『出口無し』を知っていた可能性は十分に考えられます.
『出口無し』では,男ひとりと女ふたりがひとつの部屋にいます.表題どおり,そこから出られる可能性はありません.三人は,互いにまなざしあい,影象的関繋
a - a' のなかに閉じ込められています.「地獄とは他者である」は,そのような影象的関繋のことです.
『出口無し』では殺し合いは起きませんが,Sartre がそれを執筆していた当時,現実には第二次世界大戦で殺し合いが続いていました.
Freud は第一次世界大戦に関連して,破壊本能,死の本能の脅威を嘆いていました.
果たして,死は人類の歴史の最後の言葉であるのか?
否!2週間前,カトリックでは死者の日である11月2日,Francesco 教皇は言っています:死は人類の運命について最後の言葉を言うものではない,なぜなら,人間は永遠の命へ定められているから.
Lacan が『論理学的時間』を書いたのは Sartre の『出口無し』への答えとしてであるか否かは不明です.しかし,影象的関繋の出口無し,行き詰まりの状況に対する出口を Lacan が指し示していることは確かです.
しかも,影象的関繋の行き詰まりに対して,Lacan は,論理学を以て,つまり徴象によって,出口が開かれることを示します.Sartre の出口無し状況のなかに,精神分析は穴をうがち,通り道をつけることができます.その通り道を Lacan は passe と名づけることになります.
つまり,1945年の『論理学的時間』は,1967年の『Ecole の分析家に関する提案』における passe 「パス」を予描しているのだ,と見なすことができるでしょう.
今,たとえ第三次世界大戦は起きていなくても,たとえ日本が世界のあちこちでおきている局所的戦争の当事者ではなくとも,すべてを破壊しつくす戦時状況は,資本の言説と科学の言説として,容赦無く進行しています.Heidegger はそれを Gestell 「総召集体制」と呼んでいます.
総召集体制は,Freud が死の本能と呼んだものの現在化です.
地獄とは現実のことだというようなことを言う人がいますが,総召集体制こそが地獄的現実の本質です.
しかし,破壊と死は人間の運命の最後の言葉ではありません.
日本でキリスト教が受け入れられないことの理由のひとつはイェスの磔刑像だ,と言われることがあります.プロテスタントの教会にはイェスの磔刑像は無いそうですが,カトリックの教会には必ず顕示されています.
イェスは人類のすべての罪を担って,処刑されました.十字架にかけられているイェスは,むきだしの罪そのもの,むきだしの死そのものです.つまり,φ です.
しかし,そこに復活の神秘が成起します.
それは単なる神話でしょうか?否,精神分析は,復活が単なる神話でないことを証ししています.
17 November
2014 : 罪の赦し,死からの復活,無からの創造;
喪と欝; 復活と躁; 精神分析の終わりは朗らかである;
より聖人であるほどに,よりよく笑う.
罪の赦し,死からの復活,無からの創造,これら三つのことは,同じひとつの構造へ帰着します.つまり,sinthome の構造 : Σ / φ です.
「罪の赦し」にだけ「から」
ex という前置詞がありませんが,しかし「罪の赦し」は罪から義への転換であり,原罪からの解放です.
分離 séparation においては,死の本能にしたがって,主体は喪失において己れを実現する,と Lacan は言っています (cf. Ecrits, p.843).
つまり,分離までしか考慮に入れないのであれば,精神分析の行き着く先は死でしかないことになります.
Freud が精神分析を創始したのは科学の言説との相関においてであった,という意味のことを Lacan はどこかで言っています.では,精神分析は Heidegger が Gestell 総召集体制と呼んだものの一部を成しているのか?否,そうではありません.
Gestell 総召集体制は,死の本能の作用そのものとして,死に至ります.そこで終わりです.
それに対して,精神分析においては,Francesco 教皇が先日言ったように,死・罪・無が最後の言葉を保有しているのではありません.死・罪・無から復活,赦免,創造が成起します.
ですから,Lacan は,精神分析の終わりは躁欝的である,という意味のことを
Etourdit において言っています.順序としては,欝,次いで躁です.
Freud は『喪とメランコリア』という1917年の論文において,躁欝について論じています.メランコリアは,欝のことです.Freud はこう論じています:
喪は,愛の対象の喪失にともなって起こる事態であり,そこにおいては何が失われたのかは明白であるのに対して,病的な欝においては,何が失われたのかは不明である.さらに,欝に続いて躁が起きるとき,何らかの意味で喪失は代償されているはずである.
欝は,Dasein 現場存在の構造 a / φ の解体において a が失われることによって生じます.φ は,そのものとしては死です.欝において自殺が起こり得るのは,それがゆえです.
そして,欝が「少しでも精神病へ行けば」躁的興奮が起こる,と Lacan は言っています (Autres écrits, p.526). すなわち,躁と精神病との共通点は,死からの復活,無からの創造,罪からの赦免です.
躁的興奮と精神病的興奮との違いは,創造される sinthome の多様性に存することになります.
精神病における創造は幻覚妄想症状です.
躁においては,Heiter そのものが創造されます.
Heiter は,Hölderlin について論ずる際に
Heidegger が用いる語です.今のドイツ語においては heiter は形容詞としてしか用いられません.「晴れた,朗らかな」という意味です.しかし古くは Heiter は名詞としても用いられました.「晴朗」です.Heiter は,つまり,Lichtung「朗場」の別名です.
罪からの赦免,死からの復活,無からの創造に存する精神分析の終わりは,朗らかです.ですから,Lacan は,より聖人であるほどに,よりよく笑う,と言っています.それは,精神分析の「福音」です.たとえ Freud は新大陸にペストをもたらすつもりであったとはいえ.
18 November 2014 : 東京ラカン塾は,ラカン派精神分析を本当に経験し学び得る日本唯一の場所である;
ラカン派でない精神分析は,精神分析ではなく,ただの therapy である; 変動時間面接の本質的な意義をふまえないままに漫然と時計に支配された面接を行う者は,ラカン派精神分析家ではない;
精神分析の基礎は,存在の真理の現象学的構造に存する.
「東京ラカン塾は,ラカン派精神分析を本当に経験し学び得る日本唯一の場所だ」と東京ラカン塾のホームページに書きました.
「ラカン派精神分析」という表現は,ある意味で「馬から落ちて落馬」と同様に余分な言い回しです.精神分析はすべて,ラカン的です.あるいは,ラカン的でない精神分析は,精神分析ではなく,ただの therapy です.
精神分析の本質は,精神分析家の本有に存します.「精神分析家である」とは,「精神分析されて在る」です.
精神分析された者は,日本に何人いるでしょうか?正確にはわかりません.
わたしが知る限りで,わたしより前にフランスでラカン派精神分析を受けていたと言える者は,向井雅明氏だけです.
わたしが1986年に Paris VIII 精神分析学部留学を始めた当初,向井氏には大変お世話になりました.感謝しています.Jacques-Alain Miller 以外に誰の講義がおもしろいかとか,Lipsy という本屋(今はもうなくなってしまいました)に行けば Lacan の séminaires の海賊版が手に入るとか,便利なことをいろいろ向井氏に教えてもらいました.
わたしの後,幾人かの日本人が Paris で分析を受けました.正確な人数は知りませんが,しかし,10人もいないと思います.そのうち今,日本で精神分析の臨床を行っている者は,さらに少ないはずです.そして,彼らが行っている精神分析が本当にラカン派精神分析と呼べるかどうか,疑問です.
というのも,彼らのうち幾人かは精神分析における時間の重要性を無視しているからです.つまり,いわゆる短時間面接,より適切には,変動時間面接の本質的な意義をふまえないまま,漫然と時計に支配された面接を彼らは行っているのです.それではラカン派精神分析とは言えません.
Lacan は,国際精神分析協会
IPA からの追放という損害を覚悟して,変動時間面接を続けました.時計に支配されない面接が精神分析にとってどれほど本質的であるかは,その事実だけからでもわかります.
1945年の『論理学的時間』において
Lacan は instant du regard 「まなざしの瞬間」,temps pour comprendre 「了解するための時間」,moment de conclure 「結論するとき」という表現を以て精神分析における時間の問題を論じます.
精神分析の面接各回に,まなざしの瞬間,了解するための時間,結論するときの三つの契機が含まれています.そこにおいてかかわっているものは,当然,主体の存在の真理
φ です.それは,穴として現象してきます.
まなざしの瞬間において,存在の真理の穴の気配に気づきます.ついで,その穴が主体の存在の真理であることを「了解する」,つまり,それを穴として認めます.そして,それが真理の穴であることを démontrer 明示するために,結論する,つまり,面接をしめくくります.
それら三つの時間的契機は,当然ながら,時計で計測される時間として予定されるものではありません.
「出たとこ勝負」という土居健郎先生の表現を以前紹介しました.土居先生の方が,ラカン派分析家を自称しつつ変動時間面接を否定する者たちより,はるかにラカン的であったと言えます.
「Freud は精神分析を受けていなかったのに,どうして精神分析をすることができたのか?」という御質問をいただきました.
それは,ひとつには,精神分析においてかかわる存在の真理の現象学的構造は普遍的な構造であるからです.
精神分析は,存在の真理の現象学的構造に基づいています.その構造は,実存の構造として,精神分析以外のさまざまな状況,たとえば精神病理学的事態,あるいは宗教的実践などにおいてもかかわっています.
精神分析においては,実存構造を一旦解体することによって神経症症状を解消し,そこから新たに構造を立て直します.
Freud がヒステリーの臨床において精神分析を創始したのは偶然ではありません.ヒステリーにおいては実存構造の解体と再構築が比較的容易に起こるからです.そこから出発して Freud は,構造の解体と再構築を治療的に利用してゆきます.
しかし,存在の真理の現象学的構造の解体・再構築という事態が有する本当の意義を把握するには,Lacan を待たなくてはなりませんでした.Lacan が Heidegger の存在論に準拠して精神分析を基礎づけることが必要でした.
19 November 2014 : Jacques-Alain Miller の過誤; Heidegger
や Lacan を英訳や邦訳で読んでわかったつもりになっている者は,とんでもない勘違いをしているだけである;
読解不可能性の穴を穴として保持しつづけ,絶えずその穴の周りを回り続ける覚悟がなければ,偉大なテクストを読むことはできない;
目覚めと復活と自有; 精神分析はニヒリズムの超克の実践的な道である.
Jacques-Alain Miller による Lacan の Séminaire のテクスト編纂に問題があることは,1991年に第八巻『転移』が出版されたときに明瞭に指摘されました.しかし,Miller は何の改善もしていません.
同じ年に第17巻『精神分析の裏』が出ています.Miller は第17巻の巻末に Notice と題された短文を付し,そこで Dr Patrick Valas への謝辞を述べています.
先ほど Valas 氏から受け取った mail によると,彼は Miller に頼まれて,第17巻の原稿の誤りを幾つか訂正しました.そして,やはり Miller の依頼により,Valas 氏は Lacan の Séminaire のテクスト編纂のための作業グループを立ち上げました(あるいは,立ち上げようとしました).しかし,結局 Miller は他の者から指摘された問題点に基づいて訂正や改良を行うことはしようとしませんでした.
Encore は1975年に,つまり Lacan の生前に出版されています.しかし,Miller のテクストには誤りがあります.Lacan は事前に Miller の原稿の間違いを訂正する暇が無かったのでしょう.あるいは,それをし始めると全部書き直したくなって,やめたのでしょう
Miller 版の Séminaire を読む際には,細心の注意が必要です.勿論,邦訳を読んでいたのでは,Miller の誤りに気づくことはできません.
以前にも言いましたが,Lacan や Heidegger は日本語では読めません.フランス語,ドイツ語の原文で読むべきですLacan を読むためにフランス語を,Heidegger を読むためにドイツ語を習得することは,それだけ価値のあることです.
邦訳で読んでわかったつもりになったとするなら,それはとんでもない勘違いでしかありません.
Lacan や Heidegger に限らず,偉大な哲人や詩人(小説家を含む)のテクストには,読解不可能なものが必ず含まれています.その不可能性こそが,彼らの思考の偉大さを証しています.
邦訳は,その不可能性の穴を埋め立ててしまいます.邦訳のなかにその痕跡を見つけるのは困難です.
読解不可能性の穴を穴として保持しつづけ,絶えずその穴の周りを回り続ける覚悟がなければ,偉大なテクストを読むことはできません.日本語に限らず,英語訳で Lacan や Heidegger を読むことも論外です.
さて,存在の真理の現象学的構造
a / φ は普遍的なものであると昨日指摘しました.
ちょうど仏教に関する御指摘をいただいたところです.それによると,西行,円空,一茶らは出家するとともに,和歌,仏像,俳句の創作,創造をも行っています.
Buddha という名称の原義は「目覚めた者」です.「目覚め」は Bodhi です.漢語では「覚」と訳されています.
この仏教的な「目覚め」は,キリスト教に言う「死からの復活」とまさに同じです.そもそも「復活」のギリシャ語原語は「立ち上がる,目覚める」の意味を持っています.
ブッダもキリストも,まずこの世に対して死にます.キリストは文字どおり処刑されました.ブッダについては,先日,スジャータの逸話を紹介しました.ブッダは苦行によって文字どおり死にかけていました.
イェスは,マグダラのマリアの愛によって復活しました.ブッダは,スジャータの粥を口にして復活しました.
彼らの復活に女性が本質的な役割を果たしているのは,興味深いことです.
ともあれ,Freud が精神分析を創始するはるか前に,ブッダとイェスは,精神分析の終わりにおいて成起する自有 Ereignis の実例を我々に示してくれています.それは,存在の真理の現象学的構造が普遍的であるからこそ起こり得ることです.
では,精神分析はそこに何を付け加えたのか?
精神分析は,存在の真理の現象学的構造をそれとして明示しました.Freud においてはまだ暗示的でしたが,Lacan は Heidegger の助けを借りて,精神分析においてかかわる実存の存在論的構造をそれとして明示しました.
そして,Lacan は精神分析を存在の真理の現象学的構造に準拠して基礎づけ直しました.それによって,精神分析は現代におけるニヒリズムの超克の実践的な道の役割を意図的に担い得るようになりました.
20 November 2014 : 偉大な哲人や詩人の作品は,存在事象ではなく,存在そのものに関する思考を表言しているがゆえに,しばしば翻訳不可能である;
偉大な哲人や詩人の作品の翻訳書の出版は,読者が翻訳のみを読んでわかったつもりになることがあるがゆえに,有害である;
ブッダとイェスは存在の真理の証人であり,精神分析は解脱と復活を今の時代にも可能にするひとつの道である.
偉大な哲人や詩人の書は邦訳でなく原語で読まねばならないと昨日改めて強調しました.しかし,だからと言って,Lacan や Heidegger を邦訳する作業や日本語で解説する作業が無意味だというわけではありません.たとえば,理解の手助けのために自分で Lacan や Heidegger の文の一部を翻訳してみることは,学習のためには有意義です.
それに対して,出版のための翻訳作業には疑問を呈さざるを得ません.
たとえば科学論文やマニュアルなど,具体的な存在事象に関する文書は翻訳しても失われるものはさしてありません.もっとも,IT などに関する文書は訳してもカタカナ語だらけですから,英語で読む方が早いでしょう.
それに対して,存在事象ではなく,存在そのもの,φ そのものがかかわる思考を表言している文書は,しばしば翻訳不可能です.偉大な哲人や詩人の作品はそのような文書です.
我々が存在 φ を思考する場合,勿論,無から出発することも可能ですが,よりしばしば,手元にある偉大な哲人や詩人の作品を手掛かりにして思考します.つまり,その原文を原語で読み,我々日本語を母語とする者の場合,日本語でそれについて解説を試みます.それは有意義です.
その際,わたしがよくやっているように,まず原文を示し,それについて自分なりに可能な訳文を付す,というふうにするのが望ましいと思います.読者は翻訳を検証することができますし,また,みづから原文を参照することもできます.
偉大な哲人や詩人の作品の翻訳書の出版が有害であるのは,読者が翻訳だけ読んでわかったつもりになることがあるからです.
自分の学習のための翻訳してみることや,みづから存在そのものを思考するために日本語で解説を試みることは,意義のあることです.
さて,精神分析は,ブッダやイェスにおいて実現された解脱と復活を,今の時代に,我々のような凡人にも可能にするひとつの道です.「唯一の」とは言いません.
ともあれ,精神分析は,ブッダやイェスの解脱や復活において何が成起しているのかを,存在の真理の現象学的構造に基づいて解明しました.
Heidegger や Lacan が直接仏教に言及することは少ないですが,彼らにとって神学は常に準拠となっています.
存在の真理の現象学的構造 a / φ は,日常態においては aliénation 異状の状態にあります.つまり,a は主体の存在の真理そのものではなく,それとは異なる仮象です.精神分析はそれを Ich, moi, 自我と呼び,Heidegger は das Man, 世人と呼びます
解脱や復活が成起するためには,主体の存在の真理が仮象としての
a に代表されている異状の構造は解体されねばなりません.
そのためにブッダやイェスは荒れ野で苦行をつみました.それは,世に対して死ぬためです.
仏教において出家すること,カトリックにおいて修道者となることは,その本来の意義においては,世に対して死ぬことです.
仏教においては,世に対して死ぬことを,涅槃,入滅,寂滅などの特別な用語で呼んでいます.
しかし,仏教においてもカトリックにおいても,死にとどまるわけではありません.一旦世に対して死ぬが,そこから目覚め,復活します.
仏教において目覚めの可能性が如何に保証されているのかは知りませんが,カトリックにおいては,信仰において神の愛が復活を保証してくれます.
ブッダは目覚めた者であり,イェス・キリストは死者たちのうちから復活した者です.そして,彼らは,存在の真理の証人となります.
Lacan が「聖人」と呼んでいるのは,そのような存在の真理の証人のことであり,sinthome と呼んでいるのは存在の真理の証言のことです.
Freud は,精神分析を創始したとき,精神分析が目覚めや復活の可能性を秘めていることに気づいてはいませんでした.初めてそれに気づいて,そのことを明言したのは Lacan です.そして,そのときから初めて,語の本当の意味での精神分析は始まったと言えます.
22 November 2014 : Pierre Rey と Gérard
Haddad, 『ラカンのところで過ごしたひとつの季節』と『ラカンがわたしを養子にした日』;
Élisabeth Roudinesco の自己欺瞞;
その名に値する精神分析の創立者は Freud ではなく Lacan である; 認知機能としての意識と精神分析的な無意識とは全く別問題である.
今わたしが読んでいる Gérard Haddad (1940 - ) の
Le jour où Lacan m'a
adopté 「ラカンがわたしを養子にした日」は,大変おもしろい本です.Haddad は,1969年から1981年の Lacan の死去まで,12年間,Lacan と分析をしていました.『ラカンがわたしを養子にした日』は,その経験の誠実な,飾り気のない証言です.
Haddad のもの以外にも,Lacan との分析の証言としては,わたしが昔翻訳した Pierre Rey の『ラカンのところで過ごしたひとつの季節』,Jean-Guy Godin の
Jacques Lacan, 5 rue de
Lille などがあります.
Godin の本は,逸話に満ちてはいますが,大しておもしろくありません.
Rey の証言は,Haddad と同様,とても誠実で,今でも一読の価値はあります.フランス語原書は絶版になってはいません.
Haddad や Rey が,己れの分析の経験の証言という形で Lacan について個人的な誠実な証言をしているのに対して,Elisabeth Roudinesco が精神分析と Lacan について書くものは,客観的な歴史記述という体裁をとりながらも,個人的な不誠実さに満ちています.
Haddad は「Roudinesco は Lacan を陳腐化している」と批判しています.Roudinesco が Lacan に大変媚びへつらっているのをたびたび目撃した,と Haddad は語っています.
最近出版された Freud の伝記も含めて,Roudinesco が精神分析と Lacan について書くものには,精神分析家 (Freud, Lacan) と精神分析とをおとしめようという彼女の意図が読み取れます.
つまり,Roudinesco は,精神分析と Lacan とに夢中になっていた自分の若き日々を無かったことにしたいのです.「若気の至り」をフランス語では folie de jeunesse 「若さの愚行」と言いますが,Roudinesco はその記憶を払い去りたいのです.
Roudinesco のそのような記憶の排斥の試みは,Sartre の表現で言えば,mauvaise
foi, 不誠実,自己欺瞞以外の何ものでもありません.Pierre Rey や Gérard Haddad の誠実さの正反対です.
Pierre Rey も Gérard Haddad も自分が陥っていた窮状について,つまり,folie de jeunesse について誠実に証言しています.そして,それに対して Lacan との分析が何をもたらしてくれたかも.
folie de jeunesse という表現は,聖パウロが用いている folie de la croix, 十字架の愚かさという表現を思い起こさせます.
イェスが自分は神の子であると主張して冒涜の罪に問われ,十字架上で処刑されたことは,世人から見れば愚行でしかありません.世人の観点からは,イェスは適当に言いつくろって処刑を免れることがいくらでもできたはずです.
しかし,聖パウロはひるみません.十字架上で処刑されたイェスの愚かさをこそ我々は告げ知らせるのだ,と彼は言います.なぜなら,イェスの死から永遠の命への復活が成起するからです.
聖パウロがアテネで永遠の命への復活について語ろうとしたとき,人々の大部分は耳を貸そうとはしませんでした.バカげた,荒唐無稽な作り話としか思えなかったからです.しかし,パウロは,イェスの死と復活について証言することをやめませんでした.
Rey や Haddad がしているのも,聖パウロがしたのと同様のことです.ふたりとも Lacan と精神分析を10年以上続けました.世人には愚行にしか見えません.しかし,その経験を通して如何なる実存的変容が起きたかを,彼らは誠実に証言しています.
ものものしく分厚い本を書く Roudinesco より,Rey や Haddad の証言の方が我々にとってどれほど貴重であり,信頼をおけることか.Roudinesco を読んで時間を無駄にしようとしている人がいるとすれば,忠告しておきます.
さて,精神分析と呼ばれるものを創始したのは Freud ですが,精神分析を存在論的に基礎づけ,精神分析が有する実存的可能性を明らかにしたのは Lacan です.その意味では,Lacan こそが本当の精神分析の創始者です.その名に値する精神分析は Lacan から始まります.
Freud は無意識を発見したと言われますが,精神分析的意味における無意識が,従来の哲学等において意識と呼ばれるものとは何の関係も無いことを明示したのも Lacan です.
「意識」も一義的ではありません.
いわゆる他我問題との関連において論ぜられる意識は,imaginaire な関繋
a - a' に還元されます.新カント学派の認識論や,いわゆる認知機能 cognitive function を問題にする科学領域における意識は,そのようなものです.
それに対して,Hegel が意識 Bewußtsein と言うとき,問われているのは,Wissen 知と Sein 存在との連関の問題です.それは,imaginaire な関繋ではなく,symbolique 徴象と réel 実在との関連の問題です.つまり,認識論とは別次元のことです.
「無意識は他 A の言説である」,「無意識はひとつの言語として構造化されている」という Lacan の命題は,認知機能としての意識と精神分析的な無意識とは全く別問題だ,ということを十分に示しています.
23 November 2014 : スノビズムとニヒリズム; 誠実と善言; 欺瞞と否認; 日本人の精神分析不必要性.
11月最終週に入りました.来週30日日曜日から待降節 Avent が始まります.
待降節とは,降誕祭の準備期間です.その間に四つの日曜日があるように期間が定められています.
日本で長く小教区司祭をしている或るアイルランド人神父様は,11月になるといつも皮肉をこめて言っていました:日本人は本当に用意周到だよ.待降節が始まるはるか前からクリスマスの準備に余念が無い.
全然別の文脈でですが,昔,日本人について皮肉を言った有名人がいます : Alexandre Kojève (1902-1968). 彼が1933-39年に Paris で行った『精神の現象学』についての講義で Lacan は Hegel を学びました.
Kojève の話にもとづいて
Raymond Queneau は Introduction à la lecture
de Hegel 「ヘーゲル読解への導入」という講義録を1947年に出版しました.1968年の第二版に Kojève は,1959年の訪日の印象を付記しています.
「歴史の終わり」は Kojève が言い出したことですが,彼は,歴史終結後の時代を,まずは American way of life に見出しました.つまり,大量生産・大量消費において物質的な満足が実現され,階級闘争が消滅した社会です.
ところが彼は,日本に,別の形の歴史終結後社会を見出しました.Kojève は日本社会を snobisme à l'état pur 「純粋状態におけるスノビズム」と規定しています:「現在,日本人はすべて,例外無く,完全に形式化された価値との関係において生きている状態にある」.
そこにおいて「完全に形式化された価値」とは,「『歴史的』という意味における『人間的』な内容すべてを完全に空ぜられた価値」という意味だ,と Kojève は説明しています.
さらに Kojève は「日本と西洋世界との相互作用は,ロシアを含む西洋の日本化へ行き着くだろう」と予想しています.何という慧眼!
バブル崩壊後の経済停滞やコスプレに関することはさておき,Kojève が「純粋状態にスノビズム」と呼んだものは,完成されたニヒリズムにほかなりません.
アイルランド人神父様が嘆いていたように,救世主の誕生の意義は全く空ぜられたクリスマスを喜々として祝う日本人は,その象徴です.
そして,そのような意義の空疎化は,今や全世界的なものです.
Kojève は Heidegger を読んでいました.Kojève
は Heidegger に準拠して,ニヒリズムの完成と満了 Vollendung を予期していたのでしょう.
昨日わたしが用いた「誠実」と「欺瞞」に関して御意見をいただきました.
bonne foi 誠実と mauvaise foi 欺瞞(Sartre の文脈では特に「自己欺瞞」)とは,存在の真理の現象学的構造に基づいて明確に区別されます.
辞書にも説明されているように,誠実 bonne foi とは「義務に忠実である」ことです.
精神分析においてかかわる義務を Lacan は éthique du Bien-dire 「善言の倫理」と呼んでいます.bien-dire とは,存在の真理に忠実な dire 言です.
つまり,存在の真理
φ を sinthome の構造 Σ / φ においてそのものとして守護するような言,それが bien-dire 善言です.
善言において存在の真理を忠実に証言する者は,誠実です.
それに対して,存在の真理を否認し,覆い隠す者は,欺瞞的です.
そして,存在の真理は主体自身の存在の真理ですから,mauvaise foi は「自己欺瞞」です.
誠実と欺瞞は,存在事象の次元のなかで相対的に規定されるものではなく,存在の真理との関係において定義されます.
存在事象の次元をのみ見て,存在の真理を忘却するところに,ニヒリズムが生じます.
話を Kojève に戻すと,Lacan が『日本人読者への通告』の冒頭で言及しているスノビズムとは,先ほど見た Kojève の言うスノビズムです.
Lacan (Autres
écrits, p.497) はこう言っています:
「日本語がその言説において支える大変洗練された社会的つながり,それを Kojève はスノビズムという語によって差し徴している.」
Kojève の言うスノビズムから Lacan が「日本人は精神分析を必要としない」を如何に導いているか,それを明日以降たどっていってみましょう.
24 November 2014 : 精神分析はひとつの理論ではない; 精神分析が理論でないのは,性関係は無いからである; 精神分析は,理論ではなく,而して,存在の真理の証言である; 哲学においても,神学においても,精神分析においても,存在の言葉を聴くことがかかわっている.
精神分析はひとつの理論でしょうか?ちがいます.
かつて Jacques-Alain Miller たちが来日して京都で学会を開いたとき,日本側主催者はその会合の表題に「ラカン理論」云々という表現を用いていました.それを見て,やれやれと思いました.
Lacan は,自分のしていることは enseignement だ,と言っていました.enseigner は「教える」です.enseignement は「教え」です.L'enseignement de Jacques Lacan. ラカンの教え.
フランスの lacanien たちが当たり前に用いているこの「ラカンの教え」という表現は,日本では結構抵抗感を引き起こすようです.なにか宗教的,道徳的な教訓のようなものを連想させてしまうからでしょう.しかし,だからといって「ラカン理論」はもっといけません.
古代はともかく,現代において,つまり科学の時代において,理論とは何でしょうか?さまざまな科学の分野においてさまざまな理論が提唱されています.その完成度もさまざまです.もっとも完成されているのは,物理学における諸理論でしょう.古典力学,相対性理論,量子力学,等々.
ひとつの理論は,ある適用範囲内で有効です.古典力学は日常的に見出される時空間でのみ有効です.宇宙のような巨視的な時空間では相対性理論,素粒子の微視的な時空間では量子力学が有効です.そして,宇宙の始まりを考えるときは,相対性理論と量子力学との統一理論が必要になってきます.
ともあれ,物理学におけるひとつの理論は,現実において観察される物理学的諸現象を総合し,いくつかの数式へ抽象化することだけに存するのではありません.当然ながら,その逆の方向で,数式から出発して,計算にもとづいて,現実のなかに或る出来事をもたらすこともできます.
たとえば,リンゴの落下から Newton が作り上げたと伝説に言われる万有引力の方程式に基づいて,今度は,人工衛星が地球の周りを回るようにすることができます.
つまり,理論には,le réel から le symbolique へ向かう記号化,数学化と,le symbolique から le réel へ向かう実験化,実用化とが含まれます.有効な理論は,真理を記述する数式を持つだけでなく,その数式に基づいて現実に変化を引きおこし得ます.
理論が「実在から徴象へ」と「徴象から実在へ」の両方向の関数から成るとするなら,はたして精神分析はひとつの理論でしょうか?「ラカン理論」と呼べるようなものがあるのでしょうか?答えは否です.
なぜ精神分析はひとつの理論ではないのか?それは,「性関係は無い」からです.
性本能は Freud が精神分析の基礎概念のひとつと見なしたものです.もし仮に精神分析がひとつの科学理論であるなら,精神分析は性本能がそこにおいてかかわるところの性関係についてひとつの記号化された,形式化された命題を有するはずです.そして,性関係に関する命題にもとづいて,現実の性行動の領域に何らかの変化をもたらし得るはずです.つまり,完全な,十全な性的悦 jouissance の実現をもたらし得るはずです.
Sexology を標榜する人々はそれが可能だと主張するかもしれません.Freud は否と言いました.
性本能の十全な満足は不可能です.不可能な悦の代理物として,症状が生じます.そのような症状を Freud が精神分析によって除去しようとしたとき,何が起きたか?抵抗が起こります.症状が逆説的に悪化することもあります.いずれにせよ,完全な性的悦は実現されません.
以上のことから Lacan は,精神分析の根本的な公理を公式化しました
: il n'y a pas de rapport sexuel. 性関係は無い.
我々の学素では φ と表記されます.
詳しくは,東京ラカン塾の web site に上梓されている『ハイデガーとラカン』の第一章を参照してください.
「性関係は無い」とは,精神分析の「理論」には根本的な穴がある,ということです.いくら性的なものの観点から患者を観察しても,性本能の満足に必要不可欠なものは決して記号化・形式化され得ません.したがって,いくら理論ぶっても,理論に基づいて現実を変えることはできません.
精神分析は,科学理論も哲学理論でもありません.
では何なのか?証言です.精神分析は,「性関係は無い」の穴にかかわる証言です.
Freud の著作を読むとすれば,そのような観点から読むべきです.そして Lacan も.
「性関係は無い」の真理は,存在の真理です.これについても詳しくは『ハイデガーとラカン』第一章を参照してください.
Heidegger は体系的な著作を残さなかった,と嘆く,あるいは批判する人々がいます.この場合,「体系」は「理論」と同義です.「体系」は,ある領域の全体をカバーするような「理論」です.しかし,そのような嘆き,ないし批判は,全く見当違いです.
Heidegger がしたことも証言です.彼は,存在の真理を証言しているのです.彼はそれをしばしば,存在の真理について先哲が為した証言を読解することをとおして実行しています.Heidegger は Parmenides に前ソクラテス的な存在論の理論を探しはしません.Herakleitos に原初的な Dialektik の理論を求めはしません.Heidegger が Parmenides や Herakleitos を読むのは,存在の真理の証言としてにほかなりません.
存在は何を我々人間に語りかけているのか?存在の言葉を聴き取ろうとすることが,肝腎なことです.
存在の言葉に耳を傾けること.存在の真理を証言すること.哲学においても,神学においても,精神分析においても,まさに同じことがかかわっています.それは「理論」ではありません.
25 November 2014 : Stop DSM ; DSM は,まず病気を売り,ついで薬を売るために作られている; フランス語無しに Lacan
を学ぶことはできない; 日本人の精神分析不必要性と純粋状態におけるスノビズム.
DSM-IV の責任者は語る: DSM は精神疾患を作り出し,精神医療の情況を歪める.
DSM-IV の責任者であった Allen Frances は言う : The DSM
is made « to sell the ills and then sell the pills » [DSM は,まず病気を売り,ついで薬を売るために作られている].
御質問をいただいています:「日本語でラカンを勉強することができる本はどれか?」
残念ながら,成書のなかには皆無です.わたしが昔書いた『ジャックラカンの書』を含めて,お勧めできる本は何もありません.
Lacan の教えを本気で勉強するつもりがあるなら,まず,日本語だけで済まそうという考えを捨ててください.そして,フランス語を学びながら Lacan の原文を読む努力をしてください.
たくさんある Lacan のテクストのうちどれを最初に読めばよいかという御質問に対する答えは,「初期のもの,つまり1940年代以前のものは避ける方が良い」です.なぜなら,それらは後の Lacan から振り返って初めて読めるものだからです.
Ecrits に収録されている書のなかでは,1957年の講演 La psychanalyse et son
enseignement が比較的読みやすいです.
Séminaire のなかでは,伝統的に,第11巻が初心者向けと言われています.なぜなら,Séminaire XI 『精神分析の四つの基本概念』は,Lacan が従来彼の教えを知らなかった聴衆のことを考慮に入れて語ったものだからです.しかし,だからといってわかりやすいわけではありません.
いずれにせよ,Lacan の教え全体を視野に入れるためには,1969-1970年の Séminaire XVII で提起された「四つの言説」の構造を知らねばなりません.それは,Autres écrits に収録されている Radiophonie と同時期です.
ともあれ,可能であれば,東京ラカン塾の精神分析セミネールに参加してください.それが難しければ,東京ラカン塾の
web site に上梓されてあるわたしの『ハイデガーとラカン』をお読みください.まだ第二章までしか邦訳していませんが,それでも既成の日本語の本よりはましです.
さて,Lacan の「日本人の精神分析可能性」ないし「日本人の精神分析必要性」の議論を読解するためには,Kojève を参照せねばなりません.そして,Kojève が「特殊日本的な,純粋状態におけるスノビズム」と呼ぶところのものは何かを考えねばなりません.
我々の友人,福田肇氏の Facebook の記事を見ていて,ふと思いつきました.三島由紀夫の『金閣寺」こそ「純粋状態におけるスノビズム」を理解する手助けになるかもしれない.特に,主人公の友人と,金閣寺の住職に注目してください.
『金閣寺』をまだ読んでいない方は,是非お読みください.
26 November 2014 : Superflat arts とスノビズム; 死の覚悟におけるアンティゴネーの美; 侵犯と分離.
Kojève の言う「純粋状態におけるスノビズム」を考えるために,三島の『金閣寺』に加えて,Jeff Koons, 村上隆,松井冬子の三氏の作品も見てみてください:
もうひとり Katharina Fritsch を加えましょう:
Lacan は1962年の書 Kant avec Sade において,美の機能をこう定義しています:
根本的な恐怖への到達を禁止する極限的な障壁.
fonction de la
beauté : barrière extrême à interdire l'accès à une horreur fondamentale.
そして,そのような美の例として,Sophokles の悲劇のヒロイン,死を覚悟した Antigone の名を挙げています.
アンティゴネーは,神の律法に忠実に,彼女の兄の亡骸を葬るために,死を覚悟して,テーバイの支配者の命令に背きます.彼女は,死を覚悟した実存そのものです.
根本的な恐怖は,死の恐怖です.存在
φ の深淵を前にしての恐怖です.
そのような根本的恐怖への到達を禁止する極限的障壁は,純粋徴示素 S(Ⱥ) に限りなく近い a です.
Lacan が Antigone について詳しく論じたのは,1959-60年の『精神分析の倫理』の Séminaire においてでした.
そこでは,禁を侵すことに Lacan は注目しています.transgression 侵犯は,a を破壊して φ へ至ることです.
つまり,1964年に séparation 分離と呼ぶことになるものを,1959-60年の時点では Lacan は transgression 侵犯と呼んでいたのです.
構造 a / φ の破壊として,それは,死の本能の機能です.
死へ至る動きを一瞬,つかのま,辛抱し,支えるとき,美は出現します.
したがって,美は本質的にはかないものです.美しいものは破壊の運命を免れないものです.永遠の美は,形容矛盾です.
それゆえ,三島由紀夫は『金閣寺』において,美とその破壊を主題にしています.そして最後に,復活も.
三島由紀夫は洗礼を受けたキリスト教徒ではありませんでしたが,彼は,死からの復活と永遠の命を信じていたのではないかと思います.彼の小説においてはしばしば,破壊,破局の後,復活の瞬間が成起します.『金閣寺』でもそうです.「生きようと私は思った」と最後に主人公は言っています.
それに対して,Kojève の言う「純粋状態のスノビズム」においては,諸価値は全く形式化されており,Geist(精神,霊気)の現象の過程としての歴史を生きる人間存在の意味は全く失われています.
Facebook に紹介した Jeff Koons や村上隆の作品に,まさに,純粋状態のスノビズムの例を見ることができるでしょう.
Jeff Koons の Balloon Dog という作品は約60億円で落札され,彼は現在生きている芸術家のなかでは最も高額な芸術家だそうです.
Jeff Koons の Balloon Dog は Google で検索すれば簡単に見つかるでしょう.村上隆と共通するものがあるのは一目瞭然です.彼らの作品に高値がつけられるのを見れば,Kojève は,純粋状態のスノビズムここに極まれり,と言うでしょう.
Balloon Dog は,言い換えれば,Bubble Dog です.バブルは,それ自体としては無価値なものに市場が高価値を措定することによって生じます.
27 November 2014 :
Superflat arts と純粋状態におけるスノビズム; 精神分析の不必要性; 禅公案とイェスの言葉の謎.
Alain Badiou 著
À la recherche du réel perdu
2015年2月4日出版予定
Alain Badiou の新著:『失われた実在を探し求めて』は,Proust の『失われた時間を探し求めて』を踏まえています.
その表題は,曾有・現在・将来の ekstatische Einheit 解脱的統一としての時間は ex-sistence としての le réel 実在と等価であることを,示唆しています.実際に
Badiou はどのような議論を展開するでしょうか?
さて,昨日名を挙げた村上隆氏と松井冬子氏はともに,東京芸大日本画科で学びました.日本画を西洋絵画との比較において特徴づけるのは,その flatness, 厚みの無さです.村上氏の言う Superflat は漫画だけでなく日本画にも由来しているはずです.
古代ギリシャ・ローマ,ならびに近代の西洋美術においては,実在を忠実に描くことがかかわっています.その場合,実在は,物質的・物理的な実在のみならず,感覚的・情動的実在性,心的実在性をも含みます.物質的実在性からの逸脱が生ずるのは,心的実在性に忠実であろうとするためです.
それに対して,日本美術においては伝統的に,imaginaire 影象は réel 実在からの或る種の独立性を保っています.日本美術においては,image は実在に忠実ではなく,而して,影象独自の形式美・様式美の表現です.そこに実存的意味を読み取ることはできません.
松井冬子氏がいくら九相図様に死を喚起しても,いくら不安惹起的な image を巧みに描いても,彼女の作品は,その flat な形式美を以て,存在論的穴を塞いでしまうだけです.文字どおり「きれいごと」に終わっています.彼女の作品はその flatness において村上隆氏と同類です.
村上隆氏,松井冬子氏,Jeff Koons, Katharina Fritsch らの flat ないし superflat な作品を賞讃し,高く価値づけることこそ,今の世界の芸術界における「純粋状態におけるスノビズム」です.もはや特殊日本的なことではありません.
村上隆氏や Jeff Koons らの作品も,James Joyce の
Finnegans Wake も,およそ取っかかりの無いつるんとした表層において,存在論的穴を完全に塞いでしまい,désabonné à l'inconscient, 無意識との縁を切っています.
もしそれら芸術作品を symptôme snob と呼ぶなら,聖人としての sinthome とそれらは,構造論的には同じ
Σ / φ ではあっても,Σ の Nichtigkeit 非性,無性において異なると言うべきでしょう.
聖人においては Σ は限りなく純粋徴示素 S(Ⱥ) に近いものです.穴として,存在
φ の深淵のできるだけ忠実な証言です.そして,そのことにおいて聖人は,もはや精神分析を必要とはしません.
さて,『金閣寺』には注目すべき二つの禅公案が引用されています.ひとつは,臨済の言葉です:
仏に逢うては仏を殺し,祖に逢うては祖を殺し,羅漢に逢うては羅漢を殺し,父母に逢うては父母を殺し,親眷に逢うては親眷を殺し,始めて解脱を得ん。
もうひとつは「南泉斬猫」と名づけられている公案です:
東西の両堂猫児を争う.南泉提起して云く:道ひ(言ひ)得ば即ち切らず.衆無對(無答).南泉猫児を斬って両断と為す.南泉,趙州に問ふ.趙州,便草鞋を頭上に於いて戴いて出づ.南泉云く:もしなんじ在らば猫児を救い得ん.
「羅漢」は勿論,Lacan のことではなく,仏教の修道者です.しかし,そこに Lacan を読んでも,Freud を読んでも良いでしょう.要するに,存在事象を殺し,破壊することがかかわっているのです.
イェスもこんなことを言っています:
わたしが地上に平和をもたらすために来たと思ってはならない.わたしが来たのは,平和ではなく,剣をもたらすためである.(…)自分の家の者らが敵となる
(Mt 10, 34-36).
続けてイェスは言います:
わたしよりも自分の父や母を愛する者は,わたしにはふさわしくない.わたしよりも自分の息子や娘を愛する者は,わたしにふさわしくない.自分の十字架を担って,わたしの後に従わない者は,わたしにふさわしくない
(Mt 10, 37-38).
南泉斬猫の公案については,興味深いことに三島は,「あの猫は美しかったのだぜ,君,たとえようもなく美しかったのだ」と柏木に言わせています.
禅公案もイェスの言葉も,謎かけです.それらの謎について思考してみてください.
29 November 2014 : 天と地は過ぎ去るが,わたしの言葉は過ぎ去らない;存続するものを詩人は創設する;
復活無しの死は無い; 存在の真理の現象学的構造においては無矛盾立は妥当しない; 自我理想を殺すべし.
明日30日は,待降節第一主日です.新年の始まりです.
23日日曜日の御ミサで,関口教会と本郷教会の主任司祭を兼任なさっている山本量太郎神父様は,一年の終わりを成す週にちなんで,終末論の話をなさいました.
新約聖書のなかで終末論を大きく扱っているのはヨハネ黙示録ですが,福音書も la grande tribulation 「大きな苦難」という表現のもとに終末の image を描き出しています.
世の終わりのとき,神の御国の到来をひかえて,あらゆる存在事象は滅び去ります.しかし,滅亡だけで終わるわけではありません.イェスは言います:「天と地は過ぎ去る.しかし,わたしの言葉は過ぎ去らない」(Mt 24,35).
イェスの言葉とは,御ことばとしてのイェス御自身のことです.
また,第二 Vatican 公会議で採択された憲章 Gaudium et Spes 「喜びと望み」においては,こう言われています:「罪により歪められたこの世の形象は過ぎ去る.しかし,愛と愛の業(わざ)とは残る」(39,1).
終末論や世の終りの話しなど,自分には関係無い,と思わないでください.終末論においてかかわっているのは,あなた自身の死の問題なのです.終末論の問題は,まったく実存的な問題です.
終末論において,世の終りの時は,同時に,救済の時です.死の時は,同時に,復活の時です.
イェスは福音を説きました.福音, εὐαγγέλιον, evangelium は「良い知らせ」です.
キリスト教教義の本質を成すその良い知らせとは,要するに何なのか?それはこのことです:復活無しの死は無い.
復活無しの死は無い.つまり,死は,同時に,復活であり,永遠の命なのです.
この命題は,Aristoteles 的な無矛盾律の観点からは,まったくの矛盾命題です.言い換えれば,ありえない命題,不可能な命題です.
しかし,Lacan の定義によれば: 実在とは不可能在である.
存在の真理の現象学的構造は,そこにおいて Aristoteles 的な無矛盾律がつまづくところのものです.
それは,Heidegger の用語では,Sein / Sein と表記されます.Lacan 的学素では a / φ です.
無は存在であり,死は命であり,貧しさは豊かさであり,悲しみは喜びです.
そして,死をとおしてこそ,復活は成起します.
一昨日,三島由紀夫の『金閣寺』のなかで言及されている禅公案をふたつ紹介しました.
臨済は言いました:仏に逢うては仏を殺し,祖に逢うては祖を殺し,羅漢に逢うては羅漢を殺し,父母に逢うては父母を殺し,親眷に逢うては親眷を殺し,始めて解脱を得ん.
仏,祖先,羅漢,父母,親族などの表現によって差し徴されているのは,要するに,Freud が Ichideal 自我理想と呼んだものです.言い換えると,同一化の徴示素です.つまり,症状の構造
a / φ における signifiant a です.
仏,先祖,羅漢,父母,親族などの自我理想を殺すことは,自分自身を殺すこと,死を引き受けることです.つまり,涅槃・入滅に至ることです.そうして初めて解脱が得られる.
ということは,仏教に言う解脱とは,確かに,キリスト教に言う復活なのです.死をとおして初めて解脱・復活が成起します.
一年の終りの日の最後に,もう一度,イェスの言葉を提示しましょう:「天と地は過ぎ去る.しかし,わたしの言葉は過ぎ去らない」.
そして,Hölderlin の言葉も : Was bleibet aber stiften die Dichter. だが,存続するものを詩人は創設する.
神の愛の恵みとして,過ぎ去らないもの,存有するものは,言語の構造
a / φ です.それは,解脱と復活の可能性の条件です.
30 November 2014 : 自有,即ち,存在の到来を待ち望むことが転移の原動力である; 注意深く,かつ,冷醒に待つ; 空間に裂口を切り裂く芸術作品.
Wien のイエズス会教会の聖堂の中で空中浮遊する高さ 8 m, 幅 5 m の岩.この作品は,Steinbrener Dempf & Huber という芸術家集団によるもので,「辺獄に存在すること」と題されている.素材はプラスチック,重さ 700 kg. 径 2 mm の鋼線 3 本で吊されている.René Magritte の中空に浮く岩にインスピレーションを受けた.製作者によると,この岩は,信仰とその神秘とを象徴している.
11月30日は待降節第一主日でした.「待降節」は,フランス語では Avent, ドイツ語では Advent. ともにラテン語 adventus「到来」に由来する語です.
待降節の意義は,主イェス・キリストの誕生を待ち望むことに存します.しかし,それは単に約二千年前に救い主イェスが生まれたことを記念するためではありません.我々が期待するのは,世の終わりにキリストが再び到来すること,終末論的再臨です.
終末論的再臨の期待が精神分析や Lacan と何の関わりがあるのか?大いに関係があります.なぜなら Lacan はこう言っているからです:「分析家の欲望との関係における存在の到来の期待,それが転移を定立するものの原動力である」(Ecrits, p.844).
l'attente de l'avènement de l'être, 存在の到来を待ち望むこと.しかも,他 A の欲望との関連において.
「存在」を παρουσία と読みかえ,「他 A の欲望」を「神の意志」と読みかえるなら,それは全く神学的命題になります.
παρουσία
(parousia) は,神学ではキリストの終末論的再臨ですが,ギリシャ語におけるその本来の意味は présence, 「現に存在すること」です.
精神分析においても,精神分析の経験の終わりに存在が到来することが待ち望まれています.
そのような存在の到来を Heidegger は Ereignis 自有と呼びました.
「待つ」と言っても,ただ単に漫然と待っていれば良いわけではありません.聖パウロの第一テサロニケ書簡のなかの表現を用いるなら : vigilant et sobre, 注意深く,かつ,冷醒に.
vigilant という形容詞の原義は「目が覚めている」です.そして,sobre は「酔っていない,醒めている」です.vigilant et sobre は,眠気や酔いによって注意深さを損われることなく,いつ成起するかわからない主イェスの終末論的再臨を待つことです.
精神分析においても全く同様です.いつ成起するかわからない存在の到来の瞬間,自有発起の瞬間を,常に注意深く待ち受け,その瞬間を解釈において示現せねばなりません.
名誉教皇 Benedikt XVI は彼の名著『ナザレのイェス』のなかで adventlicher Mensch という表現を使っています.adventlich は Advent から派生させた形容詞です.直訳すれば「待降節的人間」.神の終末論的到来を注意深く待ち望む人間です.
精神分析においても,我々は adventlich である,と言うことができます.分析の終わりにおける自有の発起を注意深く待ち望むこと.それが精神分析の過程の原動力です.
昨晩 le Nouvel Observateur 誌でたまたま見かけた写真を Facebook に投稿しました.
Wien のイエズス会教会の聖堂のなかに宙吊りにされた巨大な岩.ただしプラスチック製ですが.作者は Steinbrener Dempf & Huber という芸術家集団です.聖堂のなかに突如 black hole が出現したかのような無気味さが感ぜられます.岩を模した塊であるにもかかわらず,異空間の裂口が開いたかのようです.
Jeff Koons の Balloon Dog の flatness と比較してみてください.
今,芸術の可能な様態のひとつは,まさに南泉斬猫の如しにです.
その公案には直接表現されていませんが,三島由紀夫は,その猫が非常に美しい猫であることを強調します.それは,伝統的芸術における美の象徴です.
南泉は,ほかの僧らに向かって「言い得るなら,この猫を斬らずにおこう」と提案します.
この場合,「言う」とは,Lacan が Bien-dire と呼んだもの,Heidegger が Sage と呼んだものにほかなりません.つまり,存在
φ を守護する言です.
言語の構造 a / φ において,存在
φ を ek-sistieren 解脱実存させ得るような言, dire, Sagen, それが Bien-dire であり,Sage です.
南泉は,ほかの僧らに,bien-dire せよ,と命じます.しかし,その場にはそれができるような者はいません.そこで南泉は,存在事象としての美を切り捨て,分離し,棄却し,むきだしの
φ を死そのものとして提示します.
趙州は,南泉の bien-dire の命令に対して何も言えなかった僧たちとは異なり,草鞋を頭上に載せることを以て応答します.その汚い,すり切れた草鞋は,Lacan が déchet, 屑,芥と呼ぶ客体 a の具象的一例にほかなりません.つまり,伝統的な美とは正反対のものです.
Jeff Koons らの作品は,いかにも薄っぺらい美です.それに対して,イエズス会教会の聖堂に宙吊りにされた岩塊は,それ自体としては何ら美しいものではありません.しかし,それは,死の恐ろしい深淵を予感させる無気味さを有しています.
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