01 December 2014 : 存在の真理の現象学的構造は「不二」の構造である; 罪ないし悪を主体自身の存在の真理と認めるところにのみ,義ないし善は成起し得る;
問いは,認識論的にではなく,存在論的に措定されねばならない.
幾つか御質問をいただきました.まず,悪について.
無と存在,死と命,罪と義などの根本的対立のひとつとして,悪と善の対立があります.
無,死,罪は,存在
φ です.悪もそうです.
しかし,存在
φ は同時に,存在 a でもあります : a / φ .
永遠の命への復活は,死をとおして成起します.
義,即ち,罪の赦しは,罪を認める reconnaissance ことをとおして実現されます.
Es gibt Sein 「何かが存在を与える」と Heidegger が言うとき,存在は,存在 φ, 即ち,無から創造されます.
禅に「不二」という意義深い表現があります.ふたつならず.
「無と有」をはじめとする根本的な対立は,しかしながら,二項対立ではなく,根本的には同一のものである,本同である,ということです.
この「不二」は a / φ の構造そのものを差し徴しています.
有無不二,命死不二,義罪不二.同様に,善悪不二.
旧約聖書のヨブ記に登場する悪魔は,YHWH の宮廷の一員です.
福音書において悪を象徴する形象のひとつに徴税人があります.ルカ福音書 18, 9-14を読んでみてください.律法の遵守を誇るファリサイ人は,偽善者であり,義とされることはありません.それに対して,悪の象徴である徴税人は,自分を悪と認め,心から悔いることにより,義とされます.
善ないし義は,悪ないし罪を主体自身の存在の真理として認めること,否認ないし失認しないことに他なりません.
罪ないし悪の否認ないし失認は,義とされません.
不可知論 agnosticisme について.不可知論は,認識論の土俵において問題とされる概念です.しかし,認識論においては,問いは決して適切に措定されません.認識論そのものが誤謬の産物です.
適切な問いは,存在論的に措定されます.
存在論的に「主体の存在の真理」と言うとき,その真理を認識することがかかわるのではありません.問題は,実存において真理を生きること,真理そのもので在ることです.存在の真理を生きることが,永遠の命に与ることです.sinthome はそこに存します.
02 December 2014 : 精神分析の真の創立者は Lacan
であり,Freud はその準備をしたにすぎない; スノビズムとニヒリズムと精神分析不必要性; Not der Notlosigkeit ; 精神分析不必要性こそ,最も精神分析を必要とする事態である.
以前いただいた質問にまだ答えていない,という御指摘をいただきました.Freud は分析を受けていないのに,なぜ精神分析家であると言えるのか?答えは一義的ではありません.
ひとつには,その存在論的規定において「精神分析家で在る」ことと,分析家の言説において「精神分析家として機能する」こととは,同じことではありません.つまり,存在論的規定において精神分析家で在るわけではない者が分析家の言説において精神分析家として機能することは,あり得ます.
その場合,「分析家の言説において精神分析家として機能する」とは,分析家の言説の学素の左側
の部分 a / S2 を体現することです.
S2 は知であり,それは,存在の真理の座に仮定されています.知 S2 の存在の真理の座への仮定が,転移を条件づけます.
転移が成立していれば,a / S2 を体現する者は,存在論的規定性における精神分析家ではなくても,分析家として機能し得ます.つまり,その者の何らかの言動が,分析者 analysant に或る種の効果を及ぼし得ます.それが結果的に治療的であることもありえます.
別の答え:本当の意味での精神分析は Lacan によって初めて創始されたのであり,Freud が精神分析の名のもとに始めたものはその準備段階にすぎない.なぜなら,Lacan が Heidegger の存在論により精神分析を基礎づけなおして初めて,精神分析はその本質を見出したからである.したがって,Freud がしていたことは,語の本当の意味での精神分析ではなく,一種の精神療法にすぎない.
Freud が自分の遺産相続人として作り上げた国際精神分析協会が Freud の死後どうなってきたかを見れば,そこで行われているものは精神分析とは言えないことは明白です.
ではラカン派はどうなのか?Ecole freudienne de Paris も Ecole de la Cause freudienne も組織としては必ずしも理想的に機能していません.
しかし Lacan と分析を経験した者は,Lacan が分析家であったことを証言しています.
つまり,Lacan と分析を経験した者は,そこにおいて分離と復活とが成起したこと,つまり,精神分析の行為が起きたことを,証言しています.
たとえ Lacan 自身は,自分は聖人にはなれなかったと認めてはいても.
日本人の精神分析不必要性については,Lacan は,Kojève の言う「純粋状態におけるスノビズム」に基づいて,日本人は精神分析を必要としていない,と言っています.
しかし,純粋状態におけるスノビズムは,今や,日本人に限らず,普遍的な現象です.
三島由紀夫の『金閣寺』においては,主人公も,その友人である柏木も,金閣寺の住職も,仏教の教義は全くなおざりにしつつ,仏教儀式の形式を尊重し,また,生け花を手際よくいけたり,尺八を巧みに吹いたり,日本の伝統的文化を形式的に受け継いでいます.つまり,そこにあるのは文字どおり,形骸化です.にもかかわらず,仏教や日本伝統文化を尊重し,尊敬すること.それが Kojève の言うスノビズムです.
『金閣寺』の主人公は,例外的に,スノビズムを打ち破り,存在の真理へ至るために,金閣寺を破壊し,それによって復活を遂げます.
しかし,純粋状態におけるスノビズムにおいては,通例,誰もその必要を感じません.
純粋状態におけるスノビズムは,その Vollendung 満了におけるニヒリズムです.今やそれは普遍的です.その実例を Jeff Koons や村上隆氏らの作品に見ることができます.
Lacan は,「James Joyce は désabonné à l'inconscient 無意識と縁を切っている」と言いました.
Finnegans
Wake は分析不能,分析不要です.それと同様に,Jeff Koons らの作品も分析不能,分析不要です.
そして日本人も,ニヒリズムの満了において,分析不要です.
しかし,日本人が精神分析を必要としていないということは,精神分析そのものが無効になったということでしょうか?ちがいます.
ここで Heidegger の Not der Notlosigkeit という表現を思い起こしましょう.
ドイツ語の Not という名詞は多義的で,「必要,強制,欠乏,困窮,辛苦」などの意味を有します.
notlos という形容詞は,「欠乏しているものが何も無い」ことです.「notlos である」とは,生きるために必要なものに関して物質的に満たされた状態です.今の先進諸国において,貧困の問題はまた新たに出現してきてはいますが,多くの者は物質的には notlos である状態,Notlosigkeit を享受しています.
しかし,そのような Notlosigkeit こそ,最も困った状態,Not そのものなのです.
なぜなら,そのような Notlosigkeit においては,存在 Seyn そのものは全く忘却されてしまっているからです.ニヒリズムはその満了にまで展開されているからです.
日本人が精神分析を必要としていないとすれば,それこそ Not der Notlosigkeit の典型的な一例です.精神分析を必要としていないという Notlosigkeit こそ,存在忘却という Not, 最も憂うべき事態です.
さあ,果たして日本人の精神分析不必要性という Notlosigkeit を超克することは如何にして果たされ得るでしょうか?それが問題です.
03 December 2014 : 川上未映子氏の仮面舞踏会; désabonné
à l'inconscient ; 無意識のメッセージを読むのをやめる;
James Joyce は存在の言葉を読むのをやめた;
スノビズムは,力への意志が仮象を価値づけることに存する.
作家の川上未映子氏に関する御意見をいただいています.残念ながら,わたしは彼女の小説を読む機会がありませんでした.彼女が書いたもので読んだのは,朝日新聞に連載されていた「おめかしの引力」というコラムだけです.
そのコラムを読んだ印象では,川上未映子氏は,女性性の仮面舞踏会を意図的に逆手に取っていると思われました.
確か,彼女の小説のひとつにおいて,豊胸手術が Motiv となっていなかったでしょうか?
女性が,女性性の仮面舞踏会を,軽薄性を装うために利用する.しかし,二階堂奥歯氏の自殺例を識っていると,そのことを単純に笑ってはいられなくなります.二階堂奥歯氏が『八本脚の蝶』で語っていた顔面の皮膚の手入れに関する「女性的」こだわりは,精神病的解体に対する必死の予防であったわけですから.
軽薄性を装う女性の有名例のひとつとして,Marylin Monroe の名が思い浮かびます.周知のように,彼女も自殺しています.
川上未映子氏に関する御意見を下さった方がおっしゃるように,確かに,Marylin Monroe の仮面舞踏会的女性性という症状
— それは φ のひとつの証言なわけですが
—,彼女のそのような症状は,男たちにとっては sex symbole という Fetisch となり得ます.
Fetisch の仮面を以て,女性たちは必死で他 A の欲望を支えています.女性たちばかりでなく,例えば三島由紀夫も.
Lacan が絶賛した女性作家 Margueritte Duras は,自殺こそしませんでしたが,alcoolique でした.alcoolisme は自殺の代替手段のひとつです.
わたしが今取り組もうとしているノーベル賞女性作家 Elfriede Jelinek は,不安神経症のために公の場に出てくるのが非常に難しいそうです.ノーベル賞授賞式に出席することもできませんでした.
Elfriede Jelinek を読まねばならないのは,彼女が Lust という表題の小説を書いているからです.Freud の最重要用語 Lust(快,悦)を,当然意図的に自分の作品の表題にする作家を,精神分析家として見過ごすわけには行きません.
James Joyce est désabonné à l'inconscient と Lacan は言いました.
通常,abonnement は,新聞や雑誌の定期購読の契約のことです.désabonné の dé- は,そのような契約が解除されたことを示しています.
désabonné à l'inconscient を,とりあえず「無意識と縁を切った」と訳していますが,そこには,「無意識のメッセージを読むことをやめた」という意味が込められているようにも思えます.
James Joyce の場合,無意識のメッセージを読み続けようとすれば,Schizophrenie 発症の危険性があったかもしれません.その危険性を回避するために,彼は,無意識に完全に蓋をしてしまうような作品を書いたのかもしれません.
それに対して,「純粋状態におけるスノビズム」においては,signifiant ないし image a が代表すべきものは何も無いのです.ニヒリズムは満了の状態に達しています.
Jeff Koons らの作品に高値がつけられるのは,もはや有効な投資先を見いだせない資本が最後の悪あがきとして美術品市場に流れ込んでいるからにすぎません.
それ自体としては無価値なものを無理やり価値づけるのは,Nietzsche の言う「力への意志」の為すところであり,つまり,ニヒリズムであり,純粋状態におけるスノビズムです.
精神分析の不必要性は精神分析によっては超克できないのではないか?そのとおりです.
ただ,何にも困っていない状態が最も困った状態であることが気づかれるのは,もう間もなくです.それは差し迫った事態です.
何にも困っていない状態が最も困った状態であることが気づかれたときに,精神分析は必要とされます.そのときに精神分析家が身近に誰もいないという事態にならないよう,我々は備えていなければなりません.そのときに備えて,今のところ我々はノアの箱船を建造するだけです.
04 December 2014 : ニヒリズムにおいては,人間存在の尊厳は失われる; 十字架上で処刑されたイェスの死は,最も尊厳ある死である; 人間だけが死ぬことができる; 安楽死も生殖医療も,人間存在の技術化である; 人間の本有と神の本有は本同的である.
「尊厳」という語があります.人間の尊厳.人間存在の尊厳.それが一切失われた状態が,Kojève の言う「純粋状態におけるスノビズム」であり,Heidegger の言う「その満了におけるニヒリズム」です.
昨今,いわゆる安楽死のことを「尊厳死」と呼びますが,その表現は「尊厳」を取り違えています.もはや治療の可能性がなくなったからといって人間の生命を技術的に終わらせることは,人間存在の尊厳の尊重とは全く逆の事態です.
では,尊厳ある死はどのようなものか?第一に挙げられるのは,勿論,十字架上で処刑されたイェスの死です.最も義なる者でありながら,罪を引き受け,悲惨に,苦悩しつつ,絶望の叫びをあげつつ,しかし,神への感謝と希望のうちに死ぬ死.
殉教者の死はいずれも尊厳ある死です.彼らの死は神の ex-sistence の証言です.
聖人の死も尊厳ある死です.以前に肖像を紹介した sainte Thérèse de Lisieux (1873-1879) は24歳の若さで結核に全身を蝕まれ苦痛にもがきながら亡くなりました.
いわゆる安楽死においては,或る意味で,人は本当に死んではいません.なぜなら,死を引き受けるのではなく,技術的手段によって回避しているからです.最期まで死の不安を辛抱することを放棄しているからです.
Heidegger は,人間のみが死に得る,と言いました.
動物たちの死は,単なる生命活動の停止です.動物たちにおいては,死を引き受けるという事態は起こりようがありません.
それに対して,人間は死を引き受け,死を覚悟します.死の覚悟において死ぬことが,実存的な死です.死を覚悟し,死の不安と苦痛のなかで辛抱し続けながら死ぬことが,本当の意味での尊厳ある死です.
勿論,現在の医療が提供し得るモルヒネなどの鎮痛手段の使用を排除するものではありませんが.
今,果たして,本当の意味で尊厳ある死を辛抱しながら死のうとする人はどれほどいるでしょうか?技術的手段によって安易に生命活動を停止させることを好む人の方が圧倒的に多いのではないでしょうか?
安楽死と同じ次元で行われているのが,技術的手段によって人間の生命を新たに誕生させることです.人工授精から代理出産まで,さまざまな技術が既に臨床応用されています.
先日も,代理出産で生まれた子の引き取りを先天異常を理由に拒否するという例がありました.人間存在の尊厳などどこ吹く風です.
Vatican は,安楽死にも生殖医療(妊娠中絶を含む)にも原則的に反対しています.それらは,科学技術によって人間存在の尊厳をないがしろにすることだからです.
人間存在の尊厳と,神の尊厳とは,同じものです.それは,Heidegger が存在の真理と呼ぶものです.存在の真理の座を我々は学素
φ で差し徴しています.
今紹介した佐藤優氏の blog に「人間は神と質的に異なります。人間の行為に神的な要素は何もありません」と述べられています.その言葉を評価するには前後の文脈をよく読んでみる必要がありますが,そこに引用されている
Karl Barth のテクストの邦訳はかなりひどいもので,読めたものではありません.
ここではこう言うにとどめておきましょう:
カトリックにおいては,人間の本質と神の本質は本同的です.であればこそ,永遠の命への復活が可能なのです.
ニヒリズムがその満了に達しつつある今,如何に人間存在はその尊厳において復活し得るのか?この問いは,精神分析の終わりの問いと等価です.
06 December 2014 : Lady Gaga の場合; ラカン派精神分析家の基準のひとつは,論理学的時間面接の実践である.
一昨日,人間存在の尊厳を話題にしました.そして,ニヒリズムの時代である今においてそれがいかにないがしろにされているかを問題にしました.
あなたの存在の尊厳は保たれている,とは思わないでください.Marx が剔抉したように,資本主義的市場経済において,賃労働をする労働者の人間存在は労働力という商品に物象化されています.そのことにおいて,労働者の人間存在の尊厳はないがしろにされています.
女性の場合,および,女性と同等の立場にある或る種の男性や子供の場合は,さらに,あらゆる様態の性的商品として売買されることにおいて,人間存在の尊厳はまったく無視されています.
人間存在の尊厳が全く見失われた状態が,その満了におけるニヒリズムであり,純粋状態におけるスノビズムです.
イェスは言いました:「姦淫するなかれと言われていることを,あなたたちは学んでいる.わたしは言う:貪欲を以て女をまなざす者は誰でも,既に心の中でその女との姦淫を犯しているのだ.」
そう言うことによってイェスは,女性を単なる性的対象と見なすことは女性の人間存在の尊厳を侵すことである,と指摘しています.
そして,強姦ほど女性の人間存在としての尊厳を侵害するものはありません.女性にとって強姦は死と同等です.
Lady Gaga が19歳のときに強姦を体験していたことを公表したという記事を紹介しました.
彼女のすばらしい点は,強姦という死から出発して,自分の身体と声を用いて芸術的な創造をなしとげた,ということです.死からの復活,無からの創造の見ごとな一例です.
話題を変えて,ラカン派精神分析家の見分け方をお教えしましょう.ここでは,精神分析の臨床を行っている分析家のことに限ります.或る分析家がラカン派であるか否か,ラカン派分析家を自称ないし自認する者が本当にラカン派分析家であるか否かの試金石は,俗に言う「短時間面接」,Jacques-Alain Miller の表現では「変動時間面接」,より適切には「論理学的時間面接」に存します.
「論理学的時間面接」は,Lacan の1945年の論文:『論理学的時間と先取りされた確実性の断言』に基づく命名です.
Lacan が一回の面接の時間を40-50分と予め定められたものにしなかったのは,主体の存在の真理が成起する瞬間を示現すること以て面接を区切るためです.
そも,主体の存在の真理の成起こそが精神分析の目標です.
aliénation 異状 - séparation 分離の時間的搏動が,精神分析においてかかわる時間性です.
論理学的時間面接は,この時間性に基づいています.
aliénation 異状 - séparation 分離の時間性にもとづいて論理学的時間面接を実践していない者は,ラカン派分析家ではありません.
論理学的時間面接の実践に,Lacan は己れの分析家生命を賭けました.国際精神分析協会から除名されるという代価を払ってでも,それを貫き通しました.そのような論理学的時間面接の意義を正しく理解していない者は,ラカン派分析家ではありません.
もし或る者が本当にラカン派精神分析家であるか否かを確認したければ,論理学的時間面接を実践しているか否かを判断基準にしてください.
07 December 2014 : ラカン派精神分析家の基準のうち最も根本的なものは,ラカン派分析家との分析経験を有していることである;
「女は,見られたくないからミニスカートをはく」; フェティシズムの壁; 自慰的悦としてのファロス悦; ファロスは自慰を可能にするだけである.
付言すると,昨日述べた「ラカン派精神分析家を見わけるための判断基準」,即ち,Lacan の時間性の概念を把握したうえで,いわゆる変動時間面接(より適切には,論理学的時間による面接)を臨床的に実践している者,という基準は,教育分析を前提しています.つまり,その者がラカン派分析家との分析をみづから経験している,という条件も,当然ながら要請されます.
Lacan 自身はラカン派分析家と分析していないではないか,という反論をしないでください.ラカン派分析家も,わたしは第三世代ですし,フランスでは第四世代が育ってきているでしょう.第三世代,第四世代のラカン派分析家は,ラカン派分析家との分析を経験していなければなりません.
本当の意味での分析の終わりへまで分析経験を徹底させることができるのは,ラカン派分析家だけです.
ほかの派の分析家は分析の終わりについて Lacan のように突き詰めて考えることはありません.何を以て「精神分析された」と言えるのか,わかっていません.ですから,本当の精神分析をすることもできません.
さて,こんなことを教えてくださった方がいます:
斉藤環氏は「男は,見られたくないならミニスカートなんかはくな,と女を非難するが,女は,見られたくないからミニスカートをはくのだ」というようなことをどこかで書いている.
果たして,女性は何を見せたくないのでしょうか?斉藤環氏がどう答えているかは知りませんが,ラカン的な答えはこれです:存在の真理
φ を見せたくないのだ.より適切には,存在の真理そのものを示現することは不可能である.がゆえに,目くらましとして仮象
a である下肢を見せるのだ.
このことは,Lacan が Séminaire XIX ...ou pire,
p.82 で提示した命題を思い起こさせます:
je te demande de refuser ce que je t'offre,
parce que c'est pas ça.
我れは汝れに求める,我れが汝れに差し出すものを拒むことを.なぜなら,それは違うからだ.
ここで一人称で「我れ」と言っているのは,Lacan の1955年の書『フロイトの物』において「我れは語る」とことあげしている真理の女神,つまり,存在の真理そのもの,我々の学素では
φ です.
存在の真理 φ が差し出すものは仮象 a です.ミニスカート姿の女性の場合,それは下肢という部分客体です.それに目を奪われてしまう男は,しかし,Fetischismus という amur を越えることはできません.
amur は,Séminaire XIX pp.81-82 で Lacan が提示している曖昧語法の語です.amur には一方で amour 愛を聴き取ることができますが,他方で a-mur, つまり,仮象 a という mur 壁です.仮象は真理への到達を阻む壁なのです.
Séminaire XX Encore pp.75 et 80 において Lacan はこのようなことを言っています:
「男にとって手が届くのは,客体
a だけである.性関係に関して実現され得るのは幻想だけである.」
男は,客体 a ないし幻想に阻まれて,存在の真理へ到達し得ません.
同じことを Lacan は Encore p.75 の最後の段落でこのように言っています:
「signifiant Φ は男においてファロス悦により支えられる徴示素である.ファロス悦とは何か?それは,idiot の悦にほかならない.」
idiot は歴史的な精神医学用語で「白痴」ですが,idiot はギリシャ語の ἴδιος 個に由来しています.つまり,他 A と共にあるのではない状態です.同じ箇所で Lacan は masturbation に言及しています.つまり,ファロス悦とは自慰的な悦です.RSI の図のせいで有名になった jouissance phallique は,自慰的な悦,つまり,他 A を悦することの不可能性です.
以上から,ファロス悦は Fetischismus ないし幻想の別名であることがわかります.
08 December 2014 : 形而上学はニヒリズムとして満了する; 形而上学の満了においては,存在は何ものでも,何ごとでもなくなっている;
形而上学においては,存在 φ はそのものとしては思考されておらず,したがって,死からの復活の可能性も思考されていない;
精神分析は,形而上学の超克のひとつの可能性である; Lacan が「純粋状態におけるスノビズム」と呼んだのは,みづから精神分析の内的必要性を持たぬままに翻訳のためだけに
Ecrits を邦訳する事態である.
Kojève の「純粋状態におけるスノビズム」に戻りましょう.そこにおいては「諸価値は,全く形式化されており,即ち,歴史的という意味における人間的内容を完全に空ぜられている」と彼は『ヘーゲル読解への導入』において述べています.
「価値」は Nietzsche 的用語と取ってもよいでしょう.即ち,価値とは,形而上学の満了における存在のことです.
形而上学の満了においては mit dem Sein ist es nichts と Heidegger は言っています.「存在は何事でもなくなっている.」
もはや存在は何事でもなくなっている.それが「その満了におけるニヒリズム」の Heidegger による定義です.
純粋状態におけるスノビズムと,満了におけるニヒリズムは共に,存在の虚無化です.そしてそればかりでなく,無からの復活の可能性も無視されています.
ニヒリズムとスノビズムにおいては「無からの復活」の可能性は無視されているのは,それらにおいては,存在は,形而上学的に,単純に存在事象そのもの全体と見なされており,存在
φ のことは思考されていないからです.
ということは,とりもなおさず,精神分析は形而上学の超克のひとつの様態である,ということです.
ところで,Lacan が Kojève の「純粋状態におけるスノビズム」に言及している『日本の読者への通告』を読んでみてください.その邦訳は,Ecrits の日本語訳の第一巻の冒頭に出ています.フランス語原文は
Autres écrits に収録されています.
Lacan は1971年の来日の際,四人の Ecrits 邦訳者に会っています.その際,驚くべきことに,精神分析そのものに関心を有する者は誰もいない,という事実を Lacan は見出します.
それ以前に,Lacan に会いに Paris へ行った日本人は何人かいました.彼らのうち幾人かは,留学生としてフランス政府の給費を受ける精神科医でした.当時は少なくとも二年間留学していることができました.しかし,Lacan に精神分析を求めた者は皆無でした.
わたし個人のことを言えば,わたしは自分自身の精神分析の必要性を学生時代から非常に強く感じていました.しかし,日本には分析家と呼ぶに価する分析家は皆無でした.ですから,卒後研修を終えて間もなく,分析を経験するために留学しました.1986年2月に Paris で行われたラカン派の国際学会に参加し,そこで故 Pierre Skriabine 氏に声をかけてもらえたのは,非常に幸運でした.また,当時既に数年前から Paris VIII 精神分析学部の講義を聴講し,実際に分析を受けてもいた向井雅明氏もいました.当時は Jacques-Alain Miller も精力的に講義とセミネールを行っており,Ecole de la Cause freudienne も活気に溢れていました.
そのころに比べると,今はフランスのラカン派もやや形骸化してきているような気がしてなりません.
Kojève が予言したとおり,日本のみならず,欧米全体も「日本化」して,純粋状態におけるスノビズムに陥ってきているようです.
ともあれ,みづから精神分析の経験に入る内的必要性・必然性を全く持たぬまま,Ecrits の邦訳作業をただ単に翻訳のためにのみ続ける四人の日本人大学人を見て,Lacan は暗澹たる気持ちになったに違いありません.
みづから精神分析の内的必要性を持たぬままに翻訳のためだけに
Ecrits を邦訳するという事態,それを
Lacan は Kojève の表現を借りて「純粋状態におけるスノビズム」と呼んだのです.
日本においては,彼の Ecrits もその人間的な意味を全く空ぜられた『エクリ』です.
ですから Lacan は『エクリ』の前書きとなる『日本人読者への通告』において,日本人読者が「この前書きを読むや,この本を閉じる」ことを Lacan は欲しているのです.それが全く冗談ではなかったことは,説明したとおりです.
09 December 2014 : ファロス悦の徴示素 Φ ; 男にとって可能なのは,ファロス悦,即ち,剰余悦のみである; 男であること,女であること.
1960年の講演『主体のくつがえしと欲望の弁証法』において Lacan は,ギリシャ大文字の Φ を,徴象的ファロスの学素として提示し,そして,それを「悦の徴示素」
signifiant de la jouissance と定義します.
しかし,一昨日見たように,1972-73年の Encore における Lacan の言葉によるなら,徴象的ファロス
Φ は,悦そのものの徴示素ではなく,「ファロス悦 jouissance phallique の徴示素」です.そして,ファロス悦は,idiot の悦,つまり,自慰的悦として,他 A の悦 jouissance de l’Autre ではあり得ません.他 A の悦ではないことにおいて,ファロス悦
Φ と剰余悦 a は同等です.
一昨日見たように,Encore において Lacan は,男にとって可能なのは剰余悦
a のみである,と言っています.
1971-72年の Séminaire XIX ... ou pire において提示される性別の論理式において,徴象的ファロス Φ は男性を規定する徴示素として捉え直されます.
性別の論理式の男の側においては,命題
("x) Φ(x) が成り立っています:「すべての
x について Φ(x) である」.したがって,賓辞 Φ(x) により規定される集合が措定され得ます.
かくして,「x は男である」は「x は賓辞 Φ(x) により規定される集合に属する」ことです:
x Î { x | Φ(x) }
ところで,賓辞 Φ(x) は,Lacan の他の学素と如何なる連関を持ち得るか?
先ほど見たように,徴象的ファロスの徴示素
Φ は,ひとつの徴示素として,徴示素
a のひとつの特別な形態にほかなりません.したがって,主体の存在の真理の現象学的構造の学素
の a の座に Φ を代入することができます:
かくして,賓辞 Φ(x) はこう定義され得ます:
そして,「x は男である」は,こう定義され得ます:
これが,「徴象的ファロス Φ が男であることの徴示素である」ということのより厳密な公式化です.
ただし,「父である」という例外も同時に考えねばなりません:
($x) ØΦ(x)
Φ(x)
にあらざる x が ex-sister : 「解脱実存」する.
他方,「女である」を直接に規定する徴示素はありません.「女である」は,否定神学において神について直接的な肯定命題を措定せず,「...にあらず」としか語らないように,否定的にしか差し徴され得ません:
Ø("x) Φ(x)
すべての x について Φ(x) であるわけではない.
「すべての x について Φ(x) であるわけではない」により差し徴される徴象的な穴こそが,「女である」ことを差し徴す欠如せる徴示素です.
そして,穴としての純粋徴示素は,学素 S(Ⱥ) にほかなりません.
ですから Lacan は Encore p.73 の図において,抹消された女性定冠詞
La (女の「すべてならず」の記号)と S(Ⱥ) とを矢印で関連づけています.
抹消された女性定冠詞 La は,ここでは La と表記してもよいでしょう.
女性においては,S(Ⱥ) の穴にさまざまな仮象 a が代入されます.その多様性が,仮面舞踏会としての女性性の現象の多様性です.ひとつの仮象は,つかのま,穴をふさぎますが,間もなく,ほかの仮象によって取ってかわられます.女性の服装等における流行の変化の速さに現れているとおりです.
それに対して,男性においては,通例,S(Ⱥ) の穴は仮象 Φ によりしっかり塞がれています.仮象
Φ により,穴はすっかり否認されています.
しかし,資本の言説と科学の言説によりあらゆる仮象が無効化されて行く現代において,仮象
Φ の堅固さ,Freud が「ファロスの優位」 Primat des Phallus と呼んだものも,揺らいでいます.「男に成る」こともなかなか難しいことが自覚されてきています.
11 December 2014 : 精神分析はひとつの理論でも,ひとつの科学でもない; 精神分析が幸福の科学でないのは,性関係は無いからである;
精神分析はひとつの理論ではありません.精神分析はひとつの科学ではありません.とりわけ,精神分析は,ひとつの幸福の科学ではありません.
「幸福の科学」と言っても,それは,ここでは,大川隆法氏の宗教法人のことではなく,而して,「幸福であることを可能にする科学」のことです.
Freud は精神分析をひとつの精神療法として創始しました.それは,疾患の治療として,ひとつの幸福の科学となり得たかもしれません.
一般的には,病んでいることは不幸ですから,病を治せば,患者をより幸福にすることになります.
1950年代前後の USA においては,精神分析はまさにひとつの幸福の科学と見なされていました.いわゆる American way of life においては,不幸であることは病であり,精神分析はそのような病を根絶し,皆を幸福にし得るものだと思われていました.
ところが,Freud 自身は,1895年の『ヒステリー研究』の末尾において既に,患者にこう言っています:
「あなたのヒステリーの惨状を普通の不幸へ変えることに我々が成功するなら,それは多大な成果なのです.」
つまり,Freud は,精神分析の創生期において既に,仮に精神分析が症状の解消に成功しても,だからといって,アメリカ的な,薄っぺらな,現世的な幸福が実現されるわけではない,ということを十分に自覚していたのです.
何故,精神分析はひとつの幸福の科学ではあり得ないのか?それは,性関係は無いからです.
Freud は1930年の著作:『文化における居心地悪さ』において,人間社会において幸福が実現されないのは,性本能の直接的な満足が許されないからだ,と指摘しました.Freud はまだ,発達段階論の観点から,前性器的なリビード固着が精神分析によって解消されれば,性器的段階が達成され得ると考えていました.性器的段階に到達すれば,性本能の十全な満足が実現されることになります.Freud はまだ,そのことが可能である,と考えていました.人間社会のさまざまな外的要因によって,性本能の十全な満足の実現は妨げられているだけだ,と考えていました.
ところが,そうではないのです.Lacan ははっきり言いました:性関係は無い.
つまり,発達論の言う性器的段階はあくまで想定され,要請されたものにすぎない.そんなものは実際には無い.
Lacan は「性関係は無い」を精神分析のひとつの公理にしました.
性関係は無いのですから,性本能の十全な満足は不可能です.そのことに由来する不幸と不快は,American way of life を幸福の実現と見なす考えにおいては,決して解消されないのです.
幸福の科学と名のってこそいませんが,政治学も,社会学も,心理学も,つまるところ,幸福の科学です.そこにおいては,何らかの社会改革によって,何らかの心理療法によって,幸福を実現することができるはずだ,と想定されています.しかし,その想定は間違っています.
しかし,だからと言って,中島義道氏のように「どうせ死ぬんだから」と悲観して,ニヒリズムに陥ることも間違いです.
精神分析は,ニヒリズムの超克のひとつの可能性です.
最後にひとこと付け加えると,精神分析の基礎は,精神分析における存在と時間について十分に思考することに存します.そのような思考を経ていないままに Lacan の名を引き合いに出して駄弁を続ける評論家たちを,我々が相手にするには及びません.彼らは,Lacan が Ecrits の邦訳者たちについて言ったように,単なる「純粋状態における snob 」にすぎないのです.
翻訳したり評論したりする前に,Lacan の教えを十分に学び,そこにおいて思考されていることをみづから思考する必要があります.
13 December 2014 : ラカン派精神分析において症例提示をするのは患者自身である
或る臨床家の方からいただいた御質問にお答えしましょう.御質問の内容はこうです:ラカン派を自称する臨床家たちがみづから治療した症例を学会などの場で提示しようとしないのは何故か?精神分析の実践を経た後にどのような変化があったのか(あるいは,なかったのか)を提示しなければ,その実践の効果は証明し得ないではないか?
臨床家たちが構成する学会では,自験例の発表は伝統的に行われていることです.
例えば,ヒステリーに関する Freud の師 Jean-Martin Charcot は,Salpêtrière 病院のなかで症例提示をしていました.聴衆の眼前にヒステリー患者を連れ出し,彼女たちが如何なる症状を呈するかを見せました.
Freud 自身,自分が治療したヒステリー患者たちの臨床記録を『ヒステリー研究』にまとめて出版しました.また,「ネズミ男」や「オオカミ男」の症例も論文にして提示しました.
しかし,Lacan は,みづから治療した症例について,その全治療過程を提示したことはありません.Lacan の弟子たちも,僅かな例外を除けば,自験例を詳しく提示することはありません.
症例提示が行われないのは何故か?
ひとつめの理由:精神分析の過程については絶対的な守秘義務が分析家に課せられている.
分析家は,分析の面接において聞いたことを決して他言してはなりません.さもなければ,自由連想は困難になります.特にラカン派の場合,精神分析の患者(分析者,analysant)がみづから分析家になることを目ざしている場合が少なくありません.彼らは当然,ラカン派の学会にも参加しますし,ラカン派の学会誌も読みます.かくして,臨床例が発表や論文の材料として使われれば,当該の患者にすぐわかってしまいます.
ふたつめの理由:ラカン派の分析においては,分析の過程において起こることは,実存的な尊厳を有する出来事であって,科学的・学問的な研究を趣旨とする学会の場で提示される「症例」やら「臨床材料」として扱われることはできない.
症例提示は,臨床家にとって己れの臨床能力を公に証明するためのひとつの手段です.そんなことのために利用されるのは,患者自身にとってはまっぴらごめんです.分析の面接において分析者は己れの実存を賭して語っているのです.その人間的尊厳を「症例」や」「臨床材料」へ卑しめてはなりません.
三つめの理由:精神分析において起こったことについて証言が為されることががあるとすれば,そのような証言を為すのは分析者(患者)自身であって,分析家ではない.
Lacan は,分析者であった者がみづから自分自身の分析経験において成起したことを証言するよう,促しています.そのような証言の場を Lacan は passe パスと名づけています.発表するのは治療者ではなく,患者自身です.
かかわっているのは,分析の終わりを成す自有 Ereignis について証言することです.
自有は,ひとつの topologie, 処言であり,言, dire, Sagen そのものです.自有は,言として実存することです.その言は,存在の言葉そのものです.存在を証言すること,それは最も本自的な実存様態です.
Ecole de la Cause freudienne においては,パスの手続きを経て Analyste de l'Ecole と認定された分析家は,2年間,分析の終わりに関わる最も肝要なことがらについて公に証言するよう義務づけられています.
また,幾人かの lacaniens は,Lacan との分析の経験についての証言を著書として発表しています.なかでも,昔わたしが翻訳した Pierre Rey の『ラカンのところで過ごした季節』と,今わたしが読んでいる Gérard Haddad の『ラカンがわたしを養子にした日』は秀逸です.
ラカン派の分析において如何なる実存的変化が起こるか?それを実際の「症例」において知りたければ,Pierre Rey と Gérard Haddad の証言を読んでみてください.後者はフランス語テクストしかありませんが.
14 December 2014 : Giacometti は,彫刻によって空間の中に裂けめを切り裂いた最初の芸術家である;
Superflat arts are characterized by a slogan : « Imaginary
only, no Real » ; 「オタク文化」を特徴づけるのは,影象的悦の優位である;
ニヒリズムの満了の時代の生き方は snobbish way of life である;
ニヒリズムの満了において存在が何ものでもなくなった今こそ,存在
φ の深淵の裂口があらわになってくる.
今日は都美館の Uffizi 収蔵品展の最終日だったので,御ミサの後,あわてて上野へ行ってきました.留学中も,その後も,自分の分析のために Paris に滞在することが旅行の主目的なので,イタリアもスペインもドイツもオーストリアも訪れたことがありません.
都美館で Botticelli を観賞してきました.Botticelli が描く女性は,存在の尊厳に満ちています.Jeff Koons や村上隆らの作品とは何という違いでしょう!
ついでに,国立新美術館で明日まで行われている Kunsthaus Zürich の収蔵品の展示も見に,六本木まで足をのばしました.
Kunsthaus Zürich は Giacometti のコレクションで有名です.
Giacometti の彫刻は,客体 a そのものです.彼は,彫刻によって現実空間の中に裂けめを作り出した最初の芸術家ではなかろうかと思います.Giacometti の彫刻作品は,現実空間を切り裂き,裂口をうがちます.彼の作品の無気味さと「存在感」は,そのことに由来しています.Giacometti の彫刻作品の裂口性は,Jeff Koons や村上隆らの作品が空間を flat にしてしまうのとは正反対です.
Pharrell Williams の It Girl の宣伝動画を紹介しました.その製作者は,村上隆と彼の友人たちです.
英語では Groddeck や Freud の用語 Es を翻訳するのに,わざわざラテン語の id を持ち出してきて,英語の中性代名詞 it を用いません.ところが,it には性的な意味があります.it のそのような性的意味を広めたのは,興味深いことに,Elinor Glyn (1864-1943) という英国の女性小説家です.Freud とほぼ同時代ですが,彼女は精神分析のことは知らなかったようです.
Pharrell Williams の It Girl の MV を暫く前に紹介してくれたのは,Facebook での或る知人でした.そのときの動画と,今見ることができるものとは若干違うようです.以前のものにおいての方が,今のものにおいてよりもより目立つしかたで或る単語が提示されていました.その単語とは「土足厳禁」です.
今見ることができる It
Girl の MV においても,よく注意していれば,「土足厳禁」という文字が脈絡も無くときどき現れてくるのが見てとれるはずです.
「土足厳禁」は,言うなれば,Jeff Koons や村上隆らの作品の標語です.それは,つまり,imaginary only, no real, 影象のみ,実在おことわり,ということです.
或る方が,おもしろい画像を紹介してくれました.13日土曜日付で tweet してあります.ふたりの女性モデルが完全に人形的,アニメ的な化粧をした姿を,そこに見ることができます.なまみの人間が故意に superflat な影像を演じて見せています.絵画と正反対です.なまみの人間が flat な影像として己れを提示する.それも「土足厳禁」の一例でしょう.
いわゆる American way of life は,大量生産・大量消費における物質的な過剰によって欲望を窒息させることに存します.アメリカ人は,いまでもそれで自己欺瞞的に満足しているのかもしれません.彼らの肥満体がそのことを示唆しています.
日本人も,いわゆる高度成長時代,American way of life を追求していました.しかし,アメリカ人よりも早く,物質的なものによっては満足を得られないことに気づきました.そこで出現してきたのが「オタク文化」です.
「オタク」の本質は,物質的・実在的な満足に見切りをつけて,ひたすら imaginaire なもの,影象的なものによって満足を得ようとすることに存します.物質的なものの大量生産・大量消費に代わって,今や,影象的なものの大量生産・大量消費が蔓延しています.
「オタク」において氾濫している諸々の images は,それ自体としては,全く薄っぺらい,無価値なものです.しかし,「オタク」は,そのようなものを高度に価値づけます.それこそ,「純粋状態におけるスノビズム」です.
今や,American way of life ではなく,snobbish way of life がひたすら追求されています.それは,日本から世界中に輸出されています.今や,全世界が日本化し,オタク化し,snob 化しています.つまり,世界的なニヒリズムの満了です.
ニヒリズムの満了においては,mit dem Sein ist es nichts : 存在は何ものでもなく,何ごとでもない.
しかし,存在が何ものでもなく,何ごとでもなくなった今,まさに,存在の真理,つまり,存在,φ の深淵の裂口があらわになってきます.そして,そのとき初めて,ニヒリズムの超克の可能性も見えてきます.
15 December 2014 : Superflat 作品の存在論.
御質問をいただいています:「二次元の絵も,なまみの身体も,見る側からすれば imaginaire なものではないか?」
この問いは,認識論の次元の問いです.我々は日常的には認識論の次元にいるので,そこから離れるのは難しいですが,認識論は既にそれだけで誤謬のもとです.
正しい問いは,Heidegger 的な存在論において措定され得ます.そして,存在論的に問うとき,我々は,「見る側から」問うのではなく,存在事象の存在そのものに関して問わねばなりません.
存在事象の存在そのものに関して問うとき,初めて,存在の真理の現象学的構造
a / φ に即して問うことができます.
Jeff Koons や村上隆の作品に関して,12月12日の東京ラカン塾精神分析セミネールにおいて,即興的に次のような学素を提示してみました:
petit a,
その下に dollar.
それは,Nietzsche の言う「力への意志」の Wertsetzung 価値措定の行き着いた先です.
男女の性別に関してひとこと:
hysterica の言説は「女の言説」である.大学人の言説は,強迫神経症者の言説として,「男の言説」である.
hysterica の言説ならびに大学人の言説と,男女の性別の論理式とを組み合わせてみるとどうなるか?明日はそのことを論じてみましょう.
16 December 2014 : 四つの言説と性別の論理式; 大学人の言説は,強迫神経症者の言説として,「男の言説」であり,他方,hysterica の言説は「女の言説」である;
支配者の言説は,父の言説として,排斥の言説であり,他方,分析家の言説は,剰余悦の言説として,前性器的悦の言説であり,また,排斥されたものの回帰としての症状の言説である;
Lacan が芸術作品を論ずるとき,それは,芸術作品を精神分析するためではなく,而して,個々の芸術作品において具体化されてた存在の真理の現象学的構造から出発して,精神分析においてかかわる主体の存在に関する問いを問うためである.
Lacan は1969-70年の Séminaire XVII 『精神分析の裏』において四つの言説の学素を提起しました:支配者の言説,分析家の言説,大学人の言説,hysterica の言説.
大学人の言説
hysterica
の言説
次いで,1971-72年の Séminaire XIX ...ou pire において,Lacan は性別の論理式を提起しました:
では,四つの言説と性別の論理式を重ね合わせてみるとどうなるか?Lacan はそのような試みをしていませんが,考えてみましょう.
というのも,hysterica の言説は女の言説であり,大学人の言説は,強迫神経症者の言説として,男の言説である,と解釈し得るのではないかと思うからです.
大学人の言説は,男の言説 le discours de l’homme としては,こうなります:
他方,hysterica の言説は,女の言説 le discours de La femme としては,こうなります:
四つの言説のうち,症状の言説としての分析家の言説は,発達段階論に言う前性器的リビード態勢に相当します:
それに対して,父の言説としての支配者の言説は,オィディプス期に相当します:
発達段階論的表現を用いるなら,前性器的リビード態勢においては,男女の性の区別はまだありません.男においても女においても同様に,前性器的部分客体における部分本能の満足が問題になります.そのことは,前性器的言説としての分析家の言説の図により形式化されます.
それに対して,オィディプス期には,父 S1 が支配者・能動者の座に介入してくることにより,前性器的満足を与えていた部分客体
a は排斥されます.このことは,父の言説としての支配者の言説により表されます.
ここまでは男女共通の事態です.次いで,父の言説としての支配者の言説の構造から出発して,男女の性が分化して行きます.
男の場合,Freud が『トーテムとタブー』において提示した父殺しの神話に語られているように,父 S1 は,死の座としての存在
φ の座へ押しやられます.代わって,能動者の座には,signifiant Φ を賓辞としてひとつの「すべて」を形成する男が来ます.
「或る者 x は男である」は,phallus Φ により規定される集合,すなわち,「すべての
x について Φ(x) である」という命題により規定される集合に x は属している,x はその集合の要素である,ということです.
それに対して,「x は父である」は「x は Φ(x) にあらず」です.そして,そのような x は,すべての x について Φ(x) である」という命題により規定される集合に対して ek-sistieren, ex-sister, 解脱実存します.
父を規定する命題は,単に「Φ(x) にあらざる x が existieren, exister
現存する」ではなく,「Φ(x) にあらざる
x が,存在 φ の座に ek-sistieren, ex-sister 解脱実存する」である,と考えられます.
男の言説において能動者の座に位置する「すべての
x について Φ(x) である」に対して,右上の他者の座,すなわち,受動者の座,被支配者の座に位置する
a は,Fetisch そのもの,ないし,Fetisch としての女の体(全体,または部分)を表します.
さて,hysterica の言説,即ち,女の言説においては,穴の signifiant が能動者の座に来ます.
「すべての x について Φ(x) であるわけではない」という否定命題によって,「賓辞 Φ(x) により規定されないもの」の穴が指し示されます.
「すべての x について Φ(x) であるわけではない」という否定命題によって女を指し示すことは,否定神学において神について「神は ...である」という肯定命題を措定せず,「神は ...ではない」という否定命題のみを措定することにならっています.
否定神学においてのみならず,そもそも宗教において,信仰にとって,神秘を神秘として保守することは本質的なことです.
ここで,「神秘を保守する」とは如何なることか?それは,「存在の真理を,仮象的徴示素で表言しないことによって,尊重し,畏敬する」ことです.
存在の真理 φ に対してあらゆる signifiant a は仮象でしかなく,十全適合的ではありません.そのことをわきまえて存在の真理について肯定命題を措定しないこと.それが神秘に対する否定神学の慎みです.
Lacan は,女に対して,神に対するのと同じ慎みを要請しているわけです.
次に,存在の真理の座に位置するものについて見てみましょう.女の言説としての
hysterica の言説においては,左下の存在の真理の座には「Φ(x) にあらざる x は現存しない」が来ます.この命題は,男の言説において存在の真理の座に来る「Φ(x) にあらざる x が現存する」と矛盾します.しかし,そのような矛盾は,存在の真理の座においては「止揚」されます.
なぜなら,存在の真理そのものは,あらゆる対立,あらゆる矛盾の
ἁρμονία, harmonia, 結接であるからです.
女の言説においては,右上の他者の座,受動者の座に父 S1 が位置づけられます.そのように父に相対することが女の客体選択を特徴づけると Freud は考えました.
ただし,能動者の座の $ は,満足不能の欲望としての hysterica の欲望です.
hysterica にとっては,欲望の満足としての悦は,耐えがたい不安と不快を惹起します.hysterica
は,欲望の満足を versagen
放棄しています.
したがって,hysterica の客体選択においては,父 S1 は不能者でなければなりません.Freud の症例 Dora の父親がそうであったように.不能者ではない Herr K が言いよってくると,Dora は嘔気を覚えます.
男女の性別については今日はここまでにして,ひとこと言いそえておきましょう.我々
lacaniens にとっては,精神分析の「理論」を以て社会現象や芸術作品を論評することがかかわるのではありません.Lacan が芸術作品を論ずるとき,それは,芸術作品を精神分析するためではなく,而して,個々の芸術作品において具体化されている存在の真理の現象学的構造から出発して,それを手掛かりにして,精神分析においてかかわる主体の存在に関する問いを問うためです.
精神分析における何らかの概念を道具にして社会現象や芸術作品などを論じている評論家たちは,深く考えもせずに,あたかも精神分析がひとつのできあがった理論であるかのごとくに錯覚しているのです.
しかるに,以前にも強調したように,精神分析はひとつの理論でもひとつの科学でもありません.
而して,精神分析は,存在の言葉を聴き取ろうとするひとつの途なのです.
17 December 2014 : 精神分析において最も肝腎なものは実在である; 間(ま),裂けめ,穴は,ex-sistence
としての実在の深淵をうかがわせるものである; a の多様性.
存在事象としての存在事象はいづれも,存在の真理の現象学的構造
a / φ によって,存在事象として存在しています.
a は,réel, symbolique, imaginaire の三つの位のいづれにも与っています.
ただし,個々の存在事象それぞれにおいて,a はもっぱら imaginare であったり,もっぱら symbolique であったり,もっぱら réel であったりします.
精神分析の実践においては,例えば Skype を介しての面接はしません.将来の情報技術発達によりどんなに image と音声が鮮明に伝達されることになろうとも,直接対面しないままに精神分析の面接を行うということはありえません.
なぜかと言えば,それは,精神分析において最も肝腎なものは,実在 le réel であるからです.
なまみの人間の実在性無しには,精神分析の実践はありえません.分析家も,分析者も,なまみの人間として面接の現場に実存しているのでなければ,精神分析の実践は起こり得ません.
特に,分析家は,寝椅子に横たわる分析者の背後に座して沈黙するとき,image も声も持たないものになります.imaginaire の位にも symbolique の位にも参与することをやめ,ひたすら réel なものとしてのみ面接の現場に実存することになります.それが肝腎なことです.
Alexandre Kojève が1968年に用いた表現:「純粋状態におけるスノビズム」を持ち出したのは,Lacan の『日本人読者への通告』を読解するためです.そのテクストを読む必要があったのは,Lacan が「日本人は精神分析不可能だ」と言っているという誤解を正すためです.
Lacan は「日本人は分析不可能だ」と言ったのではなく,こう言ったのです:「日本語に住まう者は誰も,自動販売機(今なら,コンピューター)との関繋
— さらには,もっと単純に機械のような顧客[クライエント]との関係
— を調整するため以外には,精神分析される必要を有していない」 [ personne qui habite la langue japonaise, n’a besoin d’être
psychanalysé, sinon pour régulariser ses relations avec les machines-à-sous, –
voire avec des clients plus simplement mécaniques ] (Autres écrits, p.498).
その際,Lacan はあたかも日本人一般について語っているかのようですが,実際には,Écrits の邦訳をしていた四人の翻訳者(四人とも男性の大学人)がみづから精神分析を経験する内的必要性を全く持たぬままに翻訳のためだけに翻訳している日本的状況にあきれかえったのです.
Lacan としては当然,皮肉のひとつも言いたくなったのでしょう.ですから,Lacan は,Kojève の言葉:「純粋状態におけるスノビズム」を引用しつつ,「それは彼のユーモアによるものだ」と付け加えています.
いわゆるオタク文化を分析する仕事は,評論家たちにまかせておけば良いのです.我々としてはただ,Kojève の言う「スノビズム」とその普遍化とをよりよく把握するために,Jeff Koons や村上隆の作品を例に挙げただけです.
Jeff Koons や村上隆らの作品の構造を形式化する学素は,先日示したとおりです:
a, その下に dollar.
どうせ日本画なら,墨絵のほうがどれほど感動的でしょうか!
芸術作品においては,すきま,裂けめ,ひとことで言うなら,間(ま)が非常に重要であることは,よく知られています.Jeff Koons や村上隆らの作品に欠けているのは,まさにそのような間(ま)です.
間(ま),裂けめ,要するに,穴は,ex-sistence としての実在の深淵をうかがわせるものです.
実在の深淵をいかにうかがわせるか,それが芸術作品の実在性,いわゆる「存在感」を規定しています.
男女の性別の問題と関連づけるなら,男においては存在の真理
φ の深淵の穴は徴示素 Φ で多かれ少なかれ完全に塞がれているのに対して,女性においては,存在の真理を代表するものは
Φ の欠如の穴でしかありません.ですから,女性の方がより実在的なのです.
a がどの程度存在の真理の穴を覆い隠すか,あるいは逆に,穴をそのものとしてうかがわせるか,そこに
a の多様性があります.
そして,a の分離可能性,分離の容易さ,困難さも,a の多様性を成しています.
そのような a の多様性の問題は,分析の終わりにおいて存在論的構造
a / φ はいかなるものであり得るかの問題とかかわってきます.
18 December 2014 : わたしは失敗したが,耐え忍びつつ続ける; 真の féminisme は男女の性別の止揚に存する; 男女の性別の彼方における人間存在の真理は,抹消されたファロス φ にほかならない.
藤田博史先生の web site によると,今晩のフジタゼミのテーマは,「ラカンの精神分析はなぜもうダメなのか?」だそうです.ということは,藤田博史先生は「ラカン派」の看板を正式に下ろした,と見なしてよいでしょう.あるいは彼は,始めから自分はラカン派ではない,と言うでしょう.
いずれにせよ,我々としてはここで,Lacan の次のような言葉を読みましょう.1980年1月5日付,Lacan による『解散の書簡』からの抜粋です
(Autres écrits,
pp.317-318) :
「(...) わたしが[精神分析の] École を創立したのは,ひとつの仕事のためである.即ち,Freud が切り開いた畑[領野,場]において,その真理の犂の鋭利な刃を回復し
—,Freud が精神分析の名のもとに設立した独自の実践を,我れらの世においてそれに帰属する義務へ連れ戻し
—,精神分析における偏向と妥協〈それらは,精神分析の使われ方を堕落させることにより精神分析の前進を減衰させる〉を,不断の批判により告発する仕事.この目標を,わたしは堅持する.
それゆえ,わたしは [ l’École freudienne de Paris を] 解散する.そして,l’École freudienne のメンバーと言われる者らについて苦情を言ったりはしない.むしろ,わたしは彼らに感謝する.彼らに教えてもらったのだから.つまり,わたしは失敗したのである
—,即ち,解決の糸口を見失ったのである.
この教えは,わたしにとって貴重である.わたしはそれを有効利用する.
言い換えれば,わたしは,耐え忍びつつ続ける.
そして,今,1980年1月,Lacan と共に続けようと欲する者らに,再び集うよう呼びかける.」
1980年1月に Ecole freudienne de Paris の解散を宣言するとき,Lacan はみづから「耐え忍びつつ続ける」ことを明言し,そして「Lacan と共に続けようと欲する者ら」を励ましています.あなたは,彼の呼びかけに応じますか,それとも,耳を塞ぎますか?
さて,一昨日,男女の性別の本質を成すのは,父の言説としての支配者の言説から出発するひとつの分化である,と言いました.
四つの言説のうち,大学人の言説は,強迫神経症者の言説として,男の言説であり,他方,hysterica の言説は女の言説である,と解釈することができます.
そして,男女の性別は,父の言説ないしオィディプス複合の言説としての支配者の言説から出発するひとつの分化である,と考えることができます.
しかし,男の言説としての大学人の言説と,女の言説としての
hysterica の言説との antithèse が最後の言葉ではありません.そこから再び,前性器的リビード態勢としての分析家の言説への回帰が起こります.
症状の言説としての分析家の言説は,排斥されたものの回帰です.
父の言説としての支配者の言説において排斥されたもの
a は,男の言説としての大学人の言説を経て,または,女の言説としての hysterica の言説を経て,症状の言説としての分析家の言説において,能動者の座へ回帰します.
症状の言説としての分析家の言説においては,男女の性別という antithèse は,言うなれば,止揚されています.
症状の構造 a / φ は,そのものとしては,性別の外にあります.
真の féminisme は,男女の性別の止揚に存するはずです.それは,症状の言説としての分析家の言説において,そして,そこにおいて成起する分離において,実現されます.
男女の性別の彼方における人間存在の真理は,φ にほかなりません.
さて,Lacan は言いました:
Le sérieux, ce ne
peut être que le sériel.
真摯であることは,継起を成すことにほかならない.
EFP 解散宣言のなかで Lacan が用いている言葉で言うなら : persévérence.
耐え忍びつつ続けること.忍耐,辛抱において継続すること.それこそが真摯であることです.
精神分析においては,真摯であることが要請されます.変節とは相容れません.
19 December 2014
: psychose hystérique ; Anna O と
sainte Thérèse de Lisieux ; American way of life と snobbish way
of life.
女性において構造 a / φ の解体可能性は見極められるのか?という御質問をいただきました.つまり,女性においては精神病発症の可能性は正確に予測し得るのか?
フランス精神医学においては古くから psychose hystérique という概念があります.hystérie が精神病症状を伴うことは珍しくありません.Freud と Breuer の共著:『ヒステリー研究』のなかの Breuer の症例,まさに精神分析の生みの母である症例,Anna O がその典型的です.
それから,sainte Thérèse de Lisieux も.
sainte Thérèse de Lisieux は,修道院の上司の勧めに応じて自伝的な文章を書き残しました.彼女の死後,それらは彼女の周囲の者によって一冊の本にまとめられて出版されました.それは,彼女の信仰の証言,つまり,神の証言です.彼女の自伝を読んだ人々は,彼女による神の証言に非常に感動しました.それを読んで病気が癒されたと言う人々が続出しました.それらの経験は Vatican により奇跡と認定され,petite Thérèse は死後まもなく,正式に列聖されました.
sainte Thérèse de Lisieux の自伝の邦訳は絶版にはなっていないようです.翻訳の質がどの程度のものか不明ですが,御興味があればお読みください.勿論,フランス語原書で読むにこしたことはありません.
ともあれ,精神医学的に興味深いのは,修道院に入る以前,たしか 12-13歳ころ,彼女は Anna O と類似の psychose hystérique の症状を呈している,ということです.
彼女たちの psychose hystérique の幻覚症状においては,視覚的な幻覚が優位です.さまざまな無気味な影像が出現します.
petite Thérèse が精神病症状を呈していたのは,まさに Charcot が活躍していた時期であったのですが,彼女は Paris ではなく地方に住んでいたので,Charcot の診察を受けることはありませんでした.
そして,さすがに聖人になる人ですから,petite Thérèse の精神病は,彼女自身の祈りによって自発的に治癒してしまいます.
Anna O の場合,Breuer の治療によっては彼女の症状は完全に消退しませんでした.Breuer 自身は明言していませんが,Freud の推測によると,Anna O は妊娠幻想ないし妊娠妄想を持つに至り,その時点で
Breuer は治療を中断してしまいます.そして Anna O は或る精神病院に入院します.その後の病状の推移がどのようなものであったかは不明ですが,結局,彼女の psychose hystérique は,一種の強迫神経症的性格形成へ変化します.
Anna O の本名は Bertha Pappenheim です.彼女は social
worker のパイオニア的人物として歴史に名を残しています.英語の Wikipedia の説明では,彼女は,女性の権利を主張した feminist でもある,と紹介されています.
Bertha Pappenheim は,売買春の犠牲者となっていた女性たちを救うために共同住居を作り,その施設の長となります.そこでの生活規則はかなり厳格なものでした.彼女はユダヤ人ですから,ユダヤ教の宗教的な戒律に支配された生活でした.それが彼女の最終的な症状となったわけです.
話をもとに戻すと,女性の場合,hystérie だから神経症であって,精神病ではない,と簡単に診断学的分別をしてすますわけには行きません.a / φ の構造の安定性と解体可能性とを,ひとりひとりについて個別的に評価する必要があります.
話題を変えて,American way of life と snobbish way of life についてですが,American way of life が全盛であったのは1950年代前後です.日本では高度成長時代に American way of life が主流でした.
大量生産と大量消費によって物質的な満足が実現され,USA では階級闘争が消滅した,と Kojève は判断し,USA は歴史終焉後の社会である,と彼は考えました.
例えば American way of life においては,若い男は,女の子を連れて自家用車でドライブにでかけ,食事をし,何か買い物をして,といった具合です.今や非常に古風な感じがします.
それに対して,現在主流である snobbish way of life においては,満足は imaginaire の次元において得られます.実際,若者が車に興味を持たなくなったと言われています.女の子も,なまみではなく,アニメのキャラであったり,メイドの扮装で仮想化されています.
snobbish way of life は,American way
of life では(つまり,物質的なものでは)満足は得られないということを前提にしています.imaginaire の次元においては,より確実に,より手っ取り早く,より大きな満足が得られる,というわけです.
日本においていち早く snobbish way of life が主流になったのは,日本画の伝統に見られるように,日本では歴史的に imaginaire なものが優位であったせいでしょう.
ともあれ,snobbish way of life は今や特殊日本的ではなく,より普遍的です.
snobbish way of life は「まがいもの」の優位である,ということは明白です.誰もが,自分たちが熱中しているのは「まがいもの」であるということを多かれ少なかれ自覚しています.しかし,そうわかってはいても,やめられない.そこが問題です.
果たして snobbish way of life の「まがいもの」性は如何にして克服されて行き得るのか?
日本の首相は,戦争による克服を考えているのかもしれません.戦争によりすべてが破壊され,再びゼロから出発すればよい.彼は自覚無きまま,そう考えているのかもしれません.
20 December 2014 : ナルシシズム; オタクたちはみづから美少女になりたがっている; 欲望の客体は主体自身の鏡像である; 性倒錯者は剰余悦を行動化する;
phallic woman について.
「オタクたちはみづから美少女になりたがっている」という議論があることを教えていただきました.或る
twitter 記事を引用すると:
「男のオタクの人ってかわいい女の子と付き合いたいわけじゃなくて,可愛い女の子に自分がなりたいんですよ.だから性別っていうのを超越した存在なんですよ,オタクって.」
これは,narcissisme の概念に鑑みれば至極妥当な主張です.
Narcisse が自分の鏡像に死ぬほど見とれたことが示しているように,欲望の客体は主体自身の鏡像なのです.より正確に言えば,欲望の客体
a は,主体の存在の真理 φ を代表する仮象である : a / φ .
Transgender と混同すべきでないものに,性倒錯としての服装倒錯があります.性倒錯的服装倒錯の行動を取る者らは,おおむね,heterosexual の男性です.彼らは,女装した自分自身の姿を見ることによって性的興奮を得ます.
性倒錯者は,性的幻想を実際に act out します.幻想の acting out の有無が,性倒錯者と神経症者との相違を成します.
美少女の image に見とれるだけにとどまるか,あるいは,女装という行動を取るか.両者において関わっている構造は,ともに,a / φ であり,それによって性的満足,剰余悦 plus-de-jouir が得られます.
オタクの場合,a は美少女の image にとどまります.それに対して,服装倒錯は,女性の衣服を実際に身につけた自分の姿として
a を実現させます.
いずれにせよ,a は理想自我 ideales Ichです.単純に imaginaire なものか,実際に act out するかの相違はありますが.
phallic mother ないし phallic
woman という表現を使う場合,よく用心する必要があります.
構造 a / φ における a は失われた phallus の代理ですから,imaginaire なものとしての女性の身体は phallus の代理です
昨日から Polanski の『毛皮のヴィーナス』が渋谷で上映され始めましたが,例えば Fetisch としての毛皮は,失われた phallus の代理です.それを身にまとう女性は phallic だとも言えます.そして Fetischist にとっては,それはその限りで性的客体です.
他方,同性愛の男性にしばしば見うけられる幻想としての phallic woman ないし phallic mother の幻想があります.彼らの幻想において,母ないし女性の身体には器官としての phallus が備わっています.
同性愛男性が育った家族においては,三島由紀夫の場合典型的であるように,父親ではなく,特定の女性が権力者です.三島由紀夫の場合は,同居していた祖母がそれです.
同性愛男性にとっては,女性が
Φ の体現者であり,それに対して,男性,特に男の子,ないし若い男性が
φ を保有する客体 a と成ります.
phallic mother ないし phallic
woman という表現はしばしば議論を混乱させますから,不用意に用いない方が賢明かもしれません.
ともあれ,男女の性別にもとづく差別を真に無効にするためには,女性が
Φ を獲得するのではなく,男も女も一旦,仮象
a を捨て,存在の真理 φ そのものへ至ることが必要です.それは,よくある精神分析的言い回しでは,去勢を引き受けること,実存論的には,死を引き受けることです.
『毛皮のヴィーナス』の原作者は,周知のとおり,Leopold von Sacher-Masoch (1836-1895) です.彼の名から Krafft-Ebing は1886年に Masochismus
という用語を作り出しました.
これも周知のように,Polanski は pédophilie の疑いで訴追されたことがあります.果たして彼は,毛皮をまとった Venus をどのように演出することができるでしょうか?年末年始,時間の余裕があれば見に行ってみてください.
21 December 2014 : sinthome について; 押しつけられたことば; 存在のことば.
Lacan が1975-76年の Séminaire XXIII で提起した用語 sinthome について御質問いただきました.もしお手元に Séminaire XXIII の本をお持ちでしたら,第VI章を開いてみてください.
第VI章を Jacques-Alain Miller は Joyce et les paroles imposées と題しています.James Joyce と「押しつけられたことば」.
ことばが押しつけられる.これは automatisme mental の本質的特徴です.
automatisme mental は,Lacan の精神医学の師
Clérambault が提唱した用語です.フランス精神医学独特の用語で,英語圏やドイツ語圏では用いられません.日本でも Lacan を学んだ者しか用いません.しかし,automatisme mental は Schizophrenie におけることばの精神病理を統一的に把握することを可能にする非常に有意義な概念です.
Dans l'inconscient ça parle. 無意識において何かが語る.Écrits p.437 に見出される有名な命題です.言い換えると,l'inconscient est le discours de l'Autre. 無意識は他 A の言説である.
Lacan の教えの基本命題中の基本命題である「無意識は他 A の言説である」も「無意識において何かが語る」も,Lacan は automatisme mental に準拠して作り出した,と言えるかもしれません.
Schizophrenie ではない者にとっては,何かは知らないうちにどこかで語っており,我々は,まずもってかつおおかたは,それらのことばを聴き取るまいと否認しています.
しかし,それでも,何かが語ることばは,日常的に,夢や言いそこないなどの形のもとに我々を不意打ちすることがあります.
Schizophrenie においては,何かが語ることばは,もっと顕在的です.病状が進行した段階では,何かは声として語りかけてきます.その声は,我々自身について語り,ときとして揶揄し,また,命令したりもします.その声に耳を塞ぐことはできません.まさに押しつけられてきます.
声が完全に他者性をおびる手前の段階では,自分の考えが声として聞こえる,と感ぜられることもあります.
また,声という対象性をおびる手前の段階では,単なる考えや単語がひとりでに頭に浮かんでくる,と感ぜられることがあります.
以上のような Schizophrenie におけることばの病理,ないし,声の病理を総合的に概念化しているのが automatisme mental です.
また,Schizophrenie においては,まなざしの病理もかかわっています.
Lacan は,声とまなざしとをともに,客体
a に数え入れています.
幻聴という用語は日本独特のものです.フランスでは hallucination ないし hallucinose auditive ないし verbale, 聴覚性ないし言語性幻覚症と言いますし,ドイツでは Stimmenhören 「声を聴く」という表現が用いられたりもします.
ともあれ,Séminaire XXIII の
p.95 で Lacan は sinthome paroles imposées と言っています.「押しつけられた語り」という sinthome. そこで Lacan が問題にしている精神病理は Schizophrenie のはずです.
そして p.96 で Lacan は,Joyce においては,ことばはどんどん「押しつけられたことば」となって行き,ついに
Finnegans Wake においては言語を解体するに至った,と述べています.
Joyce の作品は精神病症状と等価である,と言えます.
我々は日常的には「ことばが押しつけられてくる」とは感じません.しかし,我々にもことばは語りかけています.それは Heidegger が「存在のことば」 Wort des Seins と呼んでいるものです.
存在のことばを聴き取ろうとするか,あるいは,それから耳をそらしたり,ほかの雑音で耳を塞いだりしたままでいようとするか.そこに根本的な倫理的選択がかかわっています.
22 December 2014 : 既に斧は木々の根を切るべく置かれている; ($x) ØF(x) ; YHWH の名としての父の名.
洗礼者ヨハネは言いました:「既に斧は木々の根を切るべく置かれている」(マタイ 3,10).
男女の性別の論理式を改めて見てみましょう:
特に,男の側の式を見てください.もし仮に
("x) Φ(x) :
「すべての x について Φ(x) である」だけであったなら,徴示素ファロス
Φ は存在論的穴 φ をぴったり塞いで固定されてしまっていたでしょう.まるで Jeff Koons の Balloon Dog のように superflat に.
Jeff Koons の作品も村上隆の作品も,($x) ØF(x) : 「非 Φ(x) であるような
x が解脱実存する」無しの ("x) Φ(x) :
「すべての x について Φ(x) である」だけのようなものです.
("x) Φ(x) : 「すべての x について Φ(x) である」だけであれば,徴示素ファロス
Φ による存在論的深淵 φ の隠蔽は完璧であったかもしれません.
ところが,そうは行かないのです.
改めて引用するなら:「既に斧は木々の根を切るべく置かれている」(マタイ 3,10).
この斧は,($x) ØF(x) : 「非 Φ(x) であるような
x が解脱実存する」です.
Φ の flatness は常に non Φ により切り裂かれようとしています.その不安こそ Freud が去勢不安と呼んだものです.
もし仮に去勢不安が全く無かったなら,φ の深淵の穴を塞ぐ Φ の蓋がはずれる可能性は全く無かったでしょう.されば,男の救済の可能性は無かったでしょう
ところが,天の御父は,男にも救済の可能性があるように,御子に先立って,洗礼者ヨハネを使わし,「神の御国は近づいた.回心せよ」と言わせたのです.
「既に斧は木々の根を切るべく置かれている」ことに気づいた男は,去勢,即ち死を通して復活し得るかもしれません.
($x) ØF(x) : 「非 Φ(x) であるような
x が解脱実存する」は,YHWH の名としての父の名です.
それは,Φ の奢りを斧により常におびやかしています.
26 December 2014 : 主体の定立と主体の滅却; 自我無き主体; 自我理想への同一化を解体すること.
精神分析の終わりの必要条件は,Lacan が『Ecole の分析家についての1967年10月9日の提起』において destitution subjective と呼んだものです.
destitution は constitution の反意語です.Lacan は実際,まずは
constitution du sujet について問いました.
主体は如何に定立されるのか?その答え:主体は aliénation として定立される.
つまり,aliénation の構造,異状の構造
a / φ が,主体の consititution, 主体の定立の構造です.
destitution subjective という Lacan の表現をわたしは「主体の滅却」と訳していますが,その訳は残念ながら destitution という語の意義を十分には表現していません.先ほど constitution を「定立」と訳しましたが,それも理想的な翻訳ではありません.
constitution は,或る者を或る役目に就ける,任命する,ということです.辞書の例文では,或る弁護士を自分の代理人に任命する,というときに constituer という動詞を使います.
それに対して destitution は,解任,罷免です.解任,罷免は,当然,何らかの重要な役目,高い職位に就いていた者をその地位から降ろす,ということを含意しています.
destitution subjective は,構造 a / φ における能動者の座,支配者の座に位置する signifiant a — その場合,signifiant
a は,同一化の徴示素であり,自我理想です — をその座から追い出す,分離する,ということです.
主体は,自我理想としての signifiant a との同一化において,主体として異状的に定立されています.その同一化は,症状を成す同一化でもあります.
そのような主体の異状的同一化を解体すること,それが destitution subjective, 主体滅却です.
Lacan は1954-55年の自我についての Séminaire においてこう言っています:「我々が分析家たちを養成するのは,彼らにおいて自我が不在であるというような主体たちが有るようにするためである.(…)自我無き主体,十全に実現された主体,(…)それはまさに,分析中の主体から得ることを常に目ざすべきものである」(Séminaire II, p.287).
Lacan が「自我無き主体」と言っているからといって,即座にそれを仏教的「無我」に還元しないでください.我々は,仏教に言う「無我」のことを正確に理解しているわけではありませんから.
ともあれ,1954-55年に「自我無き主体」と呼んだものを,Lacan は,1967年に,異状の構造を踏まえた上で,destitution subjective という表現で捉え直しているのです.
主体滅却とは,主体の自我理想との同一化の解体,脱同一化です.
それによって,φ の深淵が成す穴を塞いでいたものが除去され,穴が穴としてあらわになります.それが,精神分析の終わりの必要条件です.
27 December 2014 : 精神分析の四つの基礎概念; 異状と分離; Ⱥ ≡ φ ; 欲望の Dialektik.
2014-15年度の東京ラカン塾精神分析セミネールの第二学期と第三学期では,Lacan
の Séminaire
XI, Les quatre concepts fondamentaux de
la psychanalyse, 『精神分析の四つの基礎概念』の読解を行います.
第二学期は2015年01月16日から03月06日までの8回,第三学期は04月10日から07月10日まで(ただし05月01日と05月08日は休み)の12回を予定しています.計20回のセミネールの各回を,Lacan の Séminaire XI の全20章の各々の読解に当てます.
1964年1月から6月までの半年間,Lacan が精神分析家ではない者を多数含む聴衆の前で行った初めての Séminaire である『精神分析の四つの基礎概念』の解説の試みは過去に既に幾人かにより為されていますが,必ずしも納得の行くものではありませんでした.
東京ラカン塾精神分析セミネールでは,Freud と Heidegger と Lacan とのボロメオ結びに基づき,存在の真理の現象学的構造から出発して,Lacan が問い続けた精神分析の主体に関わる問いを,我々もみづから改めて問い直します.
参加者は Les quatre concepts
fondamentaux de la psychanalyse のフランス語テクストを各自御用意ください.フランス語を読めない方は邦訳を御覧になっても結構ですが,読解はフランス語原文に基づいて行います.
Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse のフランス語原書の入手が困難な方は,東京ラカン塾
info@lacantokyo.org または,小笠原晋也 ogswrs@gmail.com へ御連絡ください.
さて,aliénation 異状の構造
と séparation 分離の構造とを図で示してみましょう.
まず,異状の構造:
次いで,分離の構造:
これらの図は,Lacan の1964年の書:『無意識の位置』に基づいています.初歩的集合論において教育的に用いられる Venn diagram を応用するのは,Lacan 自身が1964年の Séminaire XI において行っていることです.
異状の図において a, Ⱥ, $ の三項の各々が置かれた三つの領域はそれぞれ,分析家の言説の構造の四つの座のうちの三つに対応しています:
異状の図において a が位置する二つの円の交わりの領域は,分析家の言説の構造において
a が位置する能動者の座(支配者の座)に対応しています.
異状の図において Ⱥ が位置する領域は,分析家の言説において S2 が位置する存在の真理の座に対応しています.
そして,異状の図において $ が位置する領域は,分析家の言説の構造において
$ が位置する他者の座(奴隷の座,被支配者の座)に対応しています.
分析家の言説において S1 が位置する生産の座に対応する領域は,異状の図には表示されていません.
分析家の言説の構造において知 S2 が位置する存在の真理の座は,抹消されたファロス
φ の学素によっても差し徴されます.
存在の真理と φ とが等価であることの証明については,東京ラカン塾の
web site に上梓してある『ハイデガーとラカン』の第一章を参照してください.
Ⱥ は,他 A の場処のなかの欠如の学素です.
他 A の場処のなかの欠如は,性関係の徴示素ファロス
φ が書かれぬことを止めぬ徴示素であることによりうがたれた深淵でです.したがって,Ⱥ と φ とは相互に等価です.
Ⱥ ≡ φ
かくして,確かに,分析家の言説の構造において知 S2 が位置する存在の真理の座は,徴示素の宝庫である他 A の場処のなかの欠如 Ⱥ の領域である,と言うことができます.
aliénation 異状の構造は,Lacan が“欲望の
Dialektik”と呼んだものの構造でもあります.
弁証法という訳語は Dialektik が何たるかの理解を困難にするだけですから,用いない方が無難です.また,フランス語の dialectique だと名詞か形容詞かわかりませんから,ドイツ語の Dialektik と dialektisch の方が便利です.
欲望の Dialektik とは,Lacan のこの公式により差し徴されていることです:「人間の欲望は,他 A の欲望である」.
無意識的欲望とは,存在
φ のことです.それは,したがって,Ⱥ です.Ⱥ は,他 A の欲望です.
それに対して $ は,hysterica の欲望,désir hystérique, 言い換えると,満足不能なる欲望,désir insatisfait です.Freud の表現では versagter Wunsch, 断念された願望.
Freud は『夢解釈』において取り上げた症例,「美しい(ないし,機知に富んだ)肉屋夫人」の症例において,「願望 Wunsch を断念 versagen する」ことについて論じています.
この動詞
versagen の名詞化
Versagung は,英語で frustration と訳されます.英語の frustration は,日本語でそのまま「フラストレーション」と表記されたり,「欲求不満」と訳されたりします.ところが,ドイツ語の Versagung には「欲求不満」という意味は今でもありません.訳語のひとり歩きの一例です.
$ は,四つの言説のひとつである hysterica の言説において能動者の座に位置することから,hysterica の満足不能なる欲望,断念された欲望の学素である,と言えます.
「hysterica の」という限定を省いて言えば,$ は désir insatisfait の学素です.
欲望の Dialektik を通じて,満足不能なる欲望
$ は,己れの真理を他 A の欲望 Ⱥ に見出すことになります.
分離 séparation の図においては,φ, Ⱥ, $ の三項の各々が置かれた三つの領域は,もはや分析家の言説の構造に含まれる三つの座に対応してはいません.なぜなら,分離という事態の全体は存在の真理
φ の深淵そのものへ還元されてしまうからです.
四つの言説において,hysterica の言説と大学人の言説は,分析家の言説とは区別されています.つまりそれらは,分析家の言説に入ることに対して抵抗している女と男とをそれぞれ表しています.
分析家の言説に入ろうとしない女と男においては,症状はそれとしてはまだ形成されてきません.
28 December 2014 : 学素 a の多義性; 影象的関繋 a - a' ; ひとつの徴示素 a が主体
φ をもうひとつの他なる徴示素 $ に対して代表する; a は存在が残す残渣である; 死としての分離; 死からの復活としての聖人.
Lacan が petit a と呼ぶ学素 a の多義性は,或る意味で,Lacan
の教えの読解の鍵です.そこにおいて Jacques-Alain Miller でさえカン違いを犯しているのですから,一筋縄では行きません.
1974-75年の Séminaire RSI のボロメオ結びの図において,a は le réel 実在,le symbolique 徴象,l’imaginaire 影象の三つの位の交わりに位置づけられています.
つまり,a はそれら三つの位すべてに参与しているのみならず,而して,a は R, S, I 三つの輪のボロメオ結合の可能性を成すものです.
a は,自我,ならびに,幻想のなかの客体としては,影象的です.
その場合,a はひとつの魅了的な影像 image であり,影象的な悦 jouissance imaginaire を成します.影象的な
a は,narcissisme の本質的条件を成します.
また,a は,症状の剰余悦 plus-de-jouir としては,ひとつの徴示素であり,徴象の位に属します.
Lacan は
Écrits p.840 においてこう言っています:
「徴示素の集成が設立されるのは,ひとつの徴示素がひとつの主体をもうひとつの他なる徴示素に対して代表することによる.このことは,夢,言い損ない,機知の言葉など,無意識の成形すべての構造である.」
無意識の成形 formations de l'inconscient には,当然,症状が含まれています.
「ひとつの徴示素 a が主体 φ をもうひとつの他なる徴示素
$ に対して代表する」という症状の構造において,主体を代表する徴示素,それが,剰余悦としての徴示素
a です.
ただし,徴象の位の定義も,徴示素の宝庫としての他 A の場処という定義に尽きるわけではありません.
1974-75年の Séminaire RSI において徴象を穴と定義するより15年以上前,1958-59年の Séminaire VI 『欲望とその解釈』において既に
Lacan は,切れめが徴象の本質である,と言っています.
同じ Séminaire VI において Lacan は,a は切れめであり,穴である,と言っています.
切れめ,ないし,穴としての徴示素
a を,純粋徴示素 signifiant pur と呼んでおきましょう.
徴示素の宝庫としての他 A の場処に開いた穴は,他 A のなかの欠如 Ⱥ, 即ち,不可能な徴示素,書かれぬことをやめない徴示素ファロス
φ によりうがたれた穴です.その穴を徴示する徴示素は,したがって,S(Ⱥ) です.それが,純粋徴示素としての
a です.
かくして,徴示素としての a については,一方で,症状の剰余悦としての
a と,他方で,純粋徴示素 S(Ⱥ) としての a とが区別されることになります.
そして第三に,実在としての
a.
1958-59年の Séminaire VI p.565 において Lacan はこう言っています:
「a は,存在が残す残渣であり,そのことにより,a は実在に参与する.」
また,1965-66年の Séminaire XIII の1966年1月5日の séminaire において
Lacan は,
le a
est de l'ordre du réel
「a は実在の位のものである」
という有名な定義を提起しています.
「実在が残す残渣」 « un reste, un résidu que laisse l'être » という表現は,「存在はそのものとしては抹消される」ことを含意しています.つまり,そこにおいて,存在は,存在,φ であり,Heidegger が Sein とは区別して Seyn と表記する存在です.
「抹消された存在は残渣を残す」という命題は,Heidegger の Es gibt Sein という命題と等価です.
何か φ は,残渣としての存在 a を与える.その限りで,a は実在に参与している,a は実在の位のものである,と言えます.
存在の真理の現象学的構造の学素
a / φ は,以上のことすべてを要約し,形式化する学素です.それがゆえにこの学素は powerful ですが,また同時に,多義的であり,misleading であるかもしれません.
さらに,Lacan が symptôme の代わりにもちいた sinthome という表現も,混乱を招いたかもしれません.
先ほども引用したように,「ひとつの徴示素
a は,主体 φ を,もうひとつの他なる徴示素
$ に対して代表する」という構造は,精神分析において解釈されるべき無意識の成形の構造であり,それを Lacan は四つの言説において「分析家の言説」と呼びます.
分析家の言説の構造において,知 S2 が置かれている存在の真理の座を
φ と表記し,かつ,右下の生産の座をとりあえず省略すれば,「ひとつの徴示素
a は主体 φ をもうひとつの他なる徴示素
$ に対して代表する」の構造が見えやすくなります.
分析家の言説の構造は,昨日提示した異状の構造と等価です.それは,精神分析の過程の構造であり,そこにおいて生ずる転移の構造も表しています.
それに対して,精神分析の終わりにおいて生ずるのは,分離であり,次いで,分離における死
φ からの復活です.
分離は精神分析の終わりの必要条件ですが,精神分析の終わりは分離に尽きるものではありません.死からの復活をまで視野に入れなければ,精神分析の終わりは思考し得ません.
分離は,そのものとしては,言説の構造の外における ex-sistence であり,死そのものです.
しかし,言説の構造の外にとどまることはできません.この世に生きている限り,我々は言説の構造の中へ再び戻ってくることになります.ただし,精神分析家
a として,死から復活して.
死から復活して,永遠の命に与る者は,聖人と呼ばれます.聖人は,存在の真理の証人です.聖人が存在の真理
φ を証言し得るとすれば,それは,聖人は分離において一旦死
φ に至り,そしてそこから復活した者であるからです.
Lacan は,精神分析家の実存構造を聖人の実存構造と等しいものとして考えようとします.
根本的な同一化の構造の解体としての分離において死
φ に至り,そこから純粋存在 a として復活した者.それが聖人であり,かつ,それが Lacan の考える精神分析家です.
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