13 October 2014 : 詩篇23 ; 神の名; 神は我れらと共に在る.
今月11-13日に行われた聖ペトロ・パウロ労働者宣教会 (Mission ouvrière
Saints Pierre et Paul, MOPP) の黙想会は,大変実り多いものでした.この精神分析 Tweeting Seminar において触れたことのある問題についても幾つか発見したことがあります.
今回,題材として取り上げられたのは詩篇23です.したがって,旧約聖書へ多く言及がなされました.
旧約聖書と新約聖書は,一方がユダヤ教,他方がキリスト教というように切り離されたテクストではありません.なぜなら,それらは神の言葉としてはひとまとまりのものだからです.旧約のテクストを成す言葉を語った預言者たちは,それと知らぬままに,新約で初めて啓示されることを既に語っています.言い換えると,旧約が含む意義は,新約から振り返って読むことによって,事後的に初めて明確になります.
たとえば三位一体はキリスト教独特の観念だと言われています.ところが,Fratello Giuliano Delpero は指摘します:創世記の冒頭において三位一体の神秘は既に示されている.
創世記の冒頭を読んでみてください:「神が天地の創造を始めたとき,地は荒廃・空虚.深淵の面に闇.神の息吹は,水の面を舞っていた.して,神は言った:光あれ.」
そこにおいて神は,YHWH, 父なる神です.神からは息吹が発せられます.神の息吹は,聖なる霊気,聖霊です.そして,神の息吹に運ばれて,神のことばが響きます.神のことばは,子,イェス・キリストです.ヨハネ福音書の冒頭で言われているように,イェスは神の言葉の受肉です.
このように読解してみると,確かに,モーセ五書の冒頭において既に,三位一体は示唆されているのがわかります.
父なる神が子なるイェスとして己れを示すことを可能にするのは,父から発せられる息吹である霊気です.
詩篇23はさして長いものではないので,全文を引用しておきましょう:
YHWH は我が牧者
我れに欠けるもの無し.
彼れは我れを青草に横たわらせ,
安らぎの水の辺に連れ行き,
我れを生き返らせる.
彼れは,彼れの名のゆえに,
我れが正義の道を通るよう導く.
我れは,闇と死の谷を歩むときも
悪を恐れない,なぜなら汝れは我れと共に在るから.
汝が棒,汝が杖は,我れを安心させる.
我が敵の面前で
汝れは我がために食事を給してくださる.
我が頭に香油を注いでくださる.
我が杯はあふれる.
我が生のすべての日々,
善意と愛は我れを追う.
我れは YHWH の家へ立ち返り,
日々を過ごす.
この詩の作者はイスラエルの最も輝かしい王となる David であるとされています.そして,David がこの詩を歌ったのは,彼れが王となる以前,イスラエルの初代の王 Saul に迫害され,荒れ野を逃げ回っていたときだ,とされています.
彼れは我れを青草に横たわらせ,
安らぎの水の辺に連れ行き,
我れを生き返らせる.
彼れは,彼れの名のゆえに,
我れが正義の道を通るよう導く.
我れは,闇と死の谷を歩むときも
悪を恐れない,なぜなら汝れは我れと共に在るから.
汝が棒,汝が杖は,我れを安心させる.
我が敵の面前で
汝れは我がために食事を給してくださる.
我が頭に香油を注いでくださる.
我が杯はあふれる.
我が生のすべての日々,
善意と愛は我れを追う.
我れは YHWH の家へ立ち返り,
日々を過ごす.
この詩の作者はイスラエルの最も輝かしい王となる David であるとされています.そして,David がこの詩を歌ったのは,彼れが王となる以前,イスラエルの初代の王 Saul に迫害され,荒れ野を逃げ回っていたときだ,とされています.
そのような解説は,わたしの手元のフランス語訳聖書にも書かれてありません.その聖書は非常に詳しい注を備えているのですが.詩篇23の背景がそのようなものだと言えるのは,ユダヤ教の律法学者の伝統のおかげです.Fratello Giuliano はユダヤ教にも精通しており,そのことを教えてくれました.
まずは,Lacan と関係のあることに触れておきましょう.つまり,父の名,神の名の問題です.
第3節に「彼の名のゆえに」,つまり「神の名のゆえに」と言われています.如何なる名か?それはこの詩篇そのもののなかで言及されています.「汝れは我れと共に在る」がそれです.なぜなら,旧約の預言書,イザヤ書 7,14 にこう言われているからです:
“見よ,乙女が身ごもり,息子を生む.そして,彼女はその子に「インマヌエル:神は我れらと共に」という名を与える.”
そこにおいてイザヤは,乙女マリアがイェスを生むことを預言している,と解釈されます.
Immanu El というヘブライ語の表現は「神は我れらと共に在る」を意義します.実際,イェスは,「我れは常に汝れらと共に在る」と我々に言っています.
したがって,神の名は単に「我れは存在する」であるのみならず,「我れは汝れらと共に存在する」なのです.
14 October 2014
: 転移のもとで読む; 存在の場処は,最も遠く,かつ,最も近い; 罪の赦しと死からの復活.
聖書に限らず,読むに値する書,聴くに値する言葉に対するとき,我々は転移の状態にあります.そして,それらに対して我々が転移の状態になければ,それらは有意義な書,言葉にはなりません.
或る signifiant の意義 Bedeutung を読み取るためには,その真理の座に知
— 主体の存在の真理の知 S2 — を仮定しなければなりません.そのような知が仮定されて初めて,signifiant は語り始めます.
転移は,知の仮定により規定されます.そのとき,signifiant a はいかにも有意義そうな外見をしている必要はありません.それは全く何を言おうとしているのか不明な,不透明な,謎めいた signifiant でもあり得るし,取るに足りない言葉,ただのうめき声でもあり得ます.また,全くの無言,無音の言葉,無声の声でもあり得ます.
たとえば,『大いなる沈黙』という修道院内の生活の記録映画のなかで引用されていた旧約聖書の一節で,神はすさまじい嵐のなかにも地震のなかにも現れなかった.そうではなく,ほんのかすかなささやきのような音のなかに神は自身を顕した,と言われています.
Freud が Übertragungsliebe 「転移愛」という表現を用いたように,転移と愛とは互いに密接な関連にあります.
Facebook で,うめくだけの障碍者の言葉にじっと耳を傾けて聴くということが話題になっている記事が引用されていました.かかわっているのは,「愛を以て聴く」ということです.その記事には「愛」という key word は明示されてはいませんでしたが,含意されていることは明らかです.
愛を以て聴くとき,言葉は,そこにおいて何かが語っているものとして立ち現れてきます.
存在事象に忙殺されている我々にとって,聖書のテクストは,一見,無意味なものにしか見えないかもしれません.しかし,それを神の言葉として,神を愛しつつ読むならば,取るに足りない signifiant の断片も,主体の存在の真理に満ちたものとなります.
詩篇23において,父の名,神の名は,単に「我れは存在する」だけではなく,「我れは汝れらと共に存在する」であることが読み取られます.
「我れは存在する」は,世の終わりにおいて初めて啓示される神のことかもしれません.最も遠いものとしての神かもしれません.
それに対して,神の名は「我れは汝れらと共に存在する」であれば,神は常に人間と共に存在します.神は最も近しいものです.あまりに近すぎて,それと気づくことができないほどです.
最も遠く,かつ,最も近い場処,それが,解脱的統一としての存在の場処です.
YHWH の名としての父の名は,そのような存在 φ の座そのものです.
詩篇23において「名」という語が出てくる箇所を改めて見てみると,「彼れは,彼れの名のゆえに,
我れが正義の道を通るよう導く」と歌われています.
「正義の道を通る」は,単に「道徳的に正しいことをする」ではなく,聖パウロのローマ書簡に言う「義である」です.
「義とされる」は「救済される」と同義です.神は,神の名のゆえに,我々を義とし,救済してくださる.
つまり,我々は,何か良きわざを為したがゆえに救済されるのではありません.そうではなく,ローマ書簡の表現で言えば,「信仰により義であるものは生きる」,つまり,永遠の命を生きるのです.
詩篇23とローマ書簡とを合わせて読むなら,「信仰により義であるものは永遠の命を生きる」は「神は,人間のわざのゆえにではなく,神の名のゆえに,神の本有のゆえに,人間を義とし,救済し,永遠の命に与らせてくださる」ということだとわかります.
そこにおいて,キリスト教における罪の赦しと救済が,仏教における解脱とは決定的に異なる点が明らかになります.
仏教においては,解脱の可能性の条件は,業,カルマ,つまり,因果応報です.人間はみづから善業を重ねれば,解脱と成仏に至ることができます.
それに対してキリスト教では,人間の業のゆえにではなく,神の本有のゆえに,神の愛のゆえに,罪の赦し,永遠の命,復活が恵与されます.
Fratello Giuliano はこう言っていました:仏教は道徳的教えであるのに対して,キリスト教は教えではなく,証言である.イェスは十字架で処刑され,三日目に永遠の命へ復活したという出来事の証言である.
出来事,Ereignis という語を強調しておきましょう.
15 October 2014 : 聖人と神秘経験; sainte
Thérèse d’Avila ; sainte Thérèse de Lisieux ; 欠如の純粋徴示素 S(Ⱥ)
; 詩篇23と復活.
10月15日は,Avila の聖テレサ sainte Thérèse d’Avila (1515-1582) の祝い日です.
添付した絵は,Velasquez による sainte Thérèse d’Avila の空想上の肖像です.左上のハトは,聖なる霊気(聖霊)の象徴です.
皆さんには,Lacan の Encore の表紙に使われている Bernini の彫刻の方が良く知られているでしょう.
Velasquez による肖像は,Kristeva の大著 Thérèse mon amour の表紙に使われています.Kristeva
は作家ですから,作家としての
Thérèse d'Avila を選んだのでしょう.Thérèse d'Avila は多くの著作を残しています.
また,10月1日は sainte Thérèse de Lisieux (1873-1897) の祝い日です.
10月はほかにも,4日が saint François d'Assise (1181-1226) の祝い日,18日が,わたしの洗礼名の聖人,福音記者,聖ルカの祝い日です.偉大な聖人の日がメジロおしです.
Thérèse d'Avila も Thérèse de
Lisieux も François d'Assise も,神との直接的な合一を経験した mystiques です.特に François d'Assise は,体に聖痕が現れたほどに,イェスと一致しました.
体に聖痕が現れた現代の例としては,Pierre Janet (1859-1947) の症例 Madeleine が有名です.Janet は彼女について De l'angoisse à l'extase 「不安から解脱へ」という大著を書いています.
神秘経験は,死の先取り経験です.Lacan の言う意味での分離 — 構造 a / φ において a の φ からの分離 — が起こり,主体と他 A とは,各々の欠如 φ と Ⱥ との一致において交わりあいます.それは,死の悦の実現です.そして,死からの復活が成起します.
それを Janet は症例 Madeleine についての標語「不安から解脱へ」で表言しています.
復活は,永遠の命,永遠の生の悦です.聖人たちは,死の悦と永遠の生の悦とを,身を以て証言しています.
聖人において,a は欠如の純粋徴示素 S(Ⱥ) へ還元されています.
Lacan の「欲望のグラフ」,あの二段がまえの複雑なグラフにおいて,S(Ⱥ) は左上の場処に位置づけられています.そこは,精神分析の経験の終わりに見出されるはずのものの座です.
Lacan はどこかで,その S(Ⱥ) の座にはイェス・キリストが位置づけられる,と言っていたと思います.S(Ⱥ) の座は,したがって,聖人の座,sinthome の座である,と言えるでしょう.
詩篇 23 について補足しておくと,その詩は David が Saul に迫害されて,荒れ野をさまよっているときに詩われた,とされています.そのとき David は死の野に既にいるのです.しかし,そのとき同時に,David は復活の悦を詩っています.
YHWH は我が牧者
我れに欠けるもの無し.
彼れは我れを青草に横たわらせ,
安らぎの水の辺に連れ行き,
我れを生き返らせる.
我れは,闇と死の谷を歩むときも
悪を恐れない,なぜなら汝れは我れと共に在るから.
我れに欠けるもの無し.
彼れは我れを青草に横たわらせ,
安らぎの水の辺に連れ行き,
我れを生き返らせる.
我れは,闇と死の谷を歩むときも
悪を恐れない,なぜなら汝れは我れと共に在るから.
David は「闇と死の谷」にいます.そのこは荒れ野,砂漠ですから,飲み水はありません.しかし同時に,そこは青草の繁る安らぎの水辺です.ここでは水は,死から復活への橋渡しとなる洗礼の水です.その水は「我れを生き返らせる」,つまり,復活させてくれます.
詩篇 23 は,通常,神への信頼の詩と分類されていますが,そこではむしろ,復活の悦が高らかに歌われています.
我が敵の面前で
汝れは我がために食事を給してくださる.
我が頭に香油を注いでくださる.
我が杯はあふれる.
汝れは我がために食事を給してくださる.
我が頭に香油を注いでくださる.
我が杯はあふれる.
この部分では,旧約のほかの箇所でも用いられている「天上的饗宴」の image が提示されています.神とともに飲み食いする宴です.神との communion の比喩です.
詩篇 23 において「YHWH は我が牧者」と詩われるとき,父の名 YHWH は,分析家の言説において生産の座へ閉出されている S1 としての父の名ではあり得ません.
むしろ,YHWH は復活の可能性の条件です.
聖人たちは神の証人です.彼ら,彼女らは,神の愛を,みづから身を以て証言します.その「身」は,彼らの実存構造
a / φ における a, 純粋徴示素となっている a です.その限りで,証言はひとつの métaphore です.
精神分析においてかかわる métaphore は,代理・代表の構造,症状の構造
a / φ によって規定されます.
métaphore の解釈において読み取られるべきなのは,imaginaire な意味ではなく,而して,Bedeutung φ です.
言い換えると,métaphore は,存在の真理の深淵を啓示してくれます.
その深淵は,二階堂奥歯氏が証言しているように,直視するにはあまりにおそろしすぎる深淵です.彼女はじかにそれと向き合い,そこに吸い込まれるように投身してしまいました.
緩衝となる métaphore, 症状としての métaphore が二階堂奥歯氏には欠けていました.
もし彼女が,キリスト教でも仏教でも,信仰をもっと生き生きしたしかたで生きることができる環境にいたなら,彼女は信仰という métaphore で身を守ることができたかもしれません.
10月16日は,sainte Marguerite-Marie Alacoque (1647-1690) の祝い日でした.キリストの聖なる心 Sacré Coeur への崇拝を始めた聖人です.
写真は,Bourgogne 地方の Paray-le-Monial という町にある礼拝堂に安置されている sainte Marguerite-Marie Alacoque の遺体です.17世紀の人なのに,遺体の保存が良好であることに驚きます.
ついでながら,聖人の遺体が巡礼者たちに見えるように安置されている例として有名なのは,Lourdes でマリア様と出会った sainte Bernadette です.彼女の遺体は,Bourgogne 地方の Nevers という町にある chapelle Saint-Gildard に安置されています.Paris 市内では,6区の saint François Xavier 教会のお御堂内に
sainte Madeleine-Sophie Barat (1779-1865) の遺体が安置されています.sainte
Madeleine-Sophie Barat は,聖心会 Société du Sacré-Cœur de Jésus の創立者です.先日 MOPP の黙想会が行われたのは,裾野市にある聖心会の修道院の山の家ででした.
話を sainte Marguerite-Marie Alacoque に戻すと,彼女が書いたものの日本語訳を二階堂奥歯氏は『八本脚の蝶』のなかで幾度か引用しています.だからこそ,この聖人の名をここで挙げたのです.
二階堂奥歯氏が引用したところをここで孫引きするなら:
「わたしたちは,愛するために心を持っており,苦しむために肉体を持っている.」
「わたしは苦しみ無しでは一瞬も生きることができませんでした.わたしが苦しめば苦しむほど,わたしは,もっとこの愛の聖性に満足しました.そしてそれは,絶え間無く苦しんだわたしの心に三つの願望をかき立てました.第一に,苦しむこと.第二に,主を愛し,聖体を受けること.第三に,主と一致するために死ぬこと.」
「わたしは,わたしの苦しみが減少するのを望んだことは一度もありませんでした.なぜなら,わたしの体がいっそううちひしがれれば,それだけ,わたしの霊はもっと喜びを感じ,そして,もっとわたし自身に専念させ,苦しみのイェスともっと深く結びつく自由があります.」
二階堂奥歯氏は,「わたしたちは,愛するために心を持っており,苦しむために肉体を持っている」を座右の銘にする,とさえ言っています.
sainte Marguerite-Marie Alacoque は,実際に物理的に自分の身体を痛めつける荒行のようなことを好んでしていたそうです.しかし,sainte Marguerite-Marie Alacoque は,二階堂奥歯氏のように自殺はしませんでした.
苦痛を辛抱することにおいて,十字架上で苦しむイェスと「深く結びつく」,即ち「一致する」,つまり,主との communion において死に,復活すること.sainte Marguerite-Marie Alacoque は,そのような communion を生きていました.
他方,二階堂奥歯氏にとっては,宗教も信仰も仮象のものにすぎませんでした.17世紀と21世紀の違いかもしれません.
あるいは,悪しき wittgensteinisme ? というのも,今開いている『八本脚の蝶』のページで二階堂奥歯氏は Wittgenstein を引用しているからです:
「神は世界の中には顕れない」.
もう少し Wittgenstein を二階堂奥歯氏から孫引きしてみると:
「自然科学の命題以外,何も語らぬこと.(…)ほかの人が形而上学的なことがらを語ろうとするたびに,君は君の命題の中で全く意義を持たない記号を使っている,と指摘してやること.」
Wittgenstein は,三位一体の神秘を識らなかったようです.勿論,三位一体という語は知っていたでしょうが,それが如何なるものであるか,彼は真剣に考えたことがなかったのでしょう.
三位一体の神秘は,神の存在の真理の現象学です.神は世界の中に顕れます.
また,少なくとも Tractatus の Wittgenstein は,nihilisme の超克を全く考えていなかったようです.「意義を持たない記号」と彼が読んでいるところのものは,構造
a / φ における a にほかなりません.Wittgenstein は,存在の真理は,存在
φ にほかならない,ということに気づいていません.
Wittgenstein が沈黙して立ち止まったところこそ,精神分析の出発点です.Wittgenstein
の行き詰まりから精神分析は始まります.
先日,藤田博史先生主催の木曜ゼミで,宗教の布教は善意で為されれば為されるほど,大きなお世話ではないか,ということについて議論があったそうです.
それとの関連において言うなら,精神分析を広めようとすることも大きなお世話ではないか?
精神分析は,単なる机上の空論ではなく,人間存在の様態を変える実際的効果を持ちます.であれば,精神分析の実践が或る程度社会の中に広まれば,精神分析は何らかの社会的効果を持ち得ます.
つまり,精神分析の政治学 la politique de la psychanalyse を考えることができます.
精神分析の政治学は如何なるものであり得るか?精神分析の効果として誕生するかもしれない社会は,如何なる
politeia のものであり得るか?
その答えは,Lacan の四つの言説を手掛かりにすれば見えてきます.
民主主義とは,民,つまり奴隷が支配者の座に就いている
politeia です.それは,大学の言説の構造を有しています.
支配者徴示素 S1 は,Freud の Totem und Tabu において Urvater 原父が息子たちに殺されたように,存在の座,つまり,死の座へ排斥されてています.
支配者の座に就いている S2 は,普遍的知としては,確かに,大学 université です.しかし,université のラテン語語源 universitas は「全体」です.
大学の言説は,ひとつの「すべて」の支配体制です.それが民主主義の本質です.
周知のように,民主主義における意志決定の原理は多数決であり,したがって,民主主義とはひとつの多数派の支配です.ところが,多数派は「皆」の名において支配します.多数決で決められたことは「皆」の意志で決められたことであり,あらゆる者がそれに従わなくてはならない,というわけです.
しかるに,民主主義は,「皆」というすべてから排除された者を必然的に伴います.大学の言説において「皆」から排除された者は,右上の奴隷の座に位置づけられた
a です.
たとえば,S2 は男であり,a は女です.あるいは,S2 は「正常者,健常者」であり,a は「障碍者」です.USA においては伝統的に S2 は WASP であり,a は黒人や hispanic です.日本においては,S2 は,君が代を歌い,日の丸を仰ぎ見る「日本人」であり,a は「非国民」です.
「皆」,「すべて」を形成する S2 が,そこから排除された者 a を暴力的に支配する政治体制,それが民主主義です.
その意味で,人民民主主義共和国である中国は,確かに,世界で最も民主主義的な政治体制の国家である,と言えます.
それに対して,精神分析の政治学は,Lacan が分析家の言説と呼ぶ構造に表されています.
分析家の言説により形式化される politeia においては,排除されていた者が支配者の座に就いているのですから,要するに,誰も排除されることはありません.
民主主義を超克する「革命」は如何に為され得るのか?それは,精神分析の実践によってです.ひとりの精神分析家が精神分析の実践によって幾人かの精神分析家を新たに誕生させ,今度は,彼らがまたそれぞれ,幾人かの分析家を新たに誕生させる.そのようにネズミ算式に精神分析家は増えて行きます.
そのように精神分析家が増殖する過程の究極的な到達点は,あらゆる者が精神分析家であるような社会です.それが,分析家の言説により形式化される politeia です.そのような politeia を目ざすのが,精神分析の政治学です.
それに対して異論が提起されます.そんなことは大きなお世話だ.排除された者の立場で安心している者もいるのだ.そのような者にまで精神分析の福音を押しつけないで欲しい.
たとえば「ひきこもり」と言われている状態にある人々のことを考えてみましょう.わたしの臨床経験においては,ひきこもっている人々は,ある程度進行した幻覚妄想状態にある Schizophrenie の患者さんか,あるいは,Schizophrenie 発症前後の状態にある人々でした.
ひきこもりの人々すべてがそのような精神病理学的状態にあるのかどうか,確かなことは言えません.もしかしたら,確信犯的に引きこもっている人々もいるかもしれません.
もし「ひきこもり」を広義に取るなら,Wittgenstein も「ひきこもり」であったかもしれません.そのような「ひきこもり」の人々は,伝統的には schöne Seele 「美しい魂」と呼ばれてきました.ひとりの美しい魂としての Wittgenstein. 昨日の東京ラカン塾で論じたことを,ここでも紹介してみましょう.
19 October 2014 : 人間の実存は,神の現象学である.
今日の御ミサで,関口教会主任司祭,山本量太郎神父様は,福音朗読箇所 (Mt 22,15-21) について大変すばらしい解説をしてくださったので,紹介しましょう.
Wittgenstein とも無関係ではありません.というのも,Wittgenstein は彼の Tractatus logico-philosophicus 6.432 でこう言っているからです:「神は,世界において己れを啓示しない」.とんでもない!神はこの世に己れを啓示します.
10月19日の福音朗読は Mt 22,15-21 でした.有名な文句:「皇帝のものは皇帝へ,神のものは神へ」が出てくる一節です.
当時,ユダヤ地方はローマ帝国の支配下にありました.ユダヤ人たちはローマ皇帝へ税金を払う義務を負わされていました.そのためにはローマ帝国の貨幣を用います.ローマ帝国の銀貨には皇帝の肖像が刻まれています.そのような貨幣を用いて税を支払うことは,皇帝の権威を認めることです.当時,ローマ皇帝は自分を神として崇めることを人々に強制していました.本来,それはユダヤ人には従い得ないことです.しかし,税を払わないでいることは反逆になります.そのような二律背反状況において,律法学者らはイェスに問います:皇帝に税を支払うことは許されるか?イェスはローマ帝国の銀貨の刻印を示しつつ,彼らに問いかえします:この肖像と銘は誰のものか?彼らは答えます:皇帝のものだ.イェスは言います:皇帝のものは皇帝へ返し,神のものは神へ返せ.
このイェスの言葉は,一見そうは見えませんが,実は譬え話です.key word を成しているのは「肖像」です.ギリシャ語では εἰκών, ラテン語では imago です.
imago という語は皆さんも知っているでしょう.Freud が出版させていた精神分析の機関誌の名です.それをまねて青土社はかつて同名の雑誌を出していました.imago は,しかし,雑誌の名であっただけではありません.
1940年代の Lacan は,Freud の Ichideal 自我理想を imago と呼んでいました.signifiant
a の前駆概念です.
ともあれ,εἰκών, imago の用語によって我々は創世記 1,27 へ回送されます:
ἐποίησεν ὁ θεὸς τὸν ἄνθρωπον, κατ᾿ εἰκόνα
θεοῦ ἐποίησεν αὐτόν.
creavit Deus hominem ad imaginem suam ; ad
imaginem Dei creavit illum.
神は,人間を,神の εἰκών, imago に成るよう創造した.
この εἰκών, imago は「似姿」と邦訳されています.フランス語では image です.
神は,人間が神の image であるよう,創造したのです.言い換えると,神は人間としてこの世に己れを啓示したのです.この「人間」はイェスひとりに限られません.あらゆる人間です.人間存在は,神の現象学です.その構造は我々の学素
a / φ により形式化されます.神は,いかにも,十全適合的には,adaequatio においては,己れを啓示しませんが,しかし,似姿によって,仮象によって,己れを代表します.
イェスは言いました:神のものは神へ返せ.
イェスが律法学者らとの対話においてこう言ったのは,十字架上で処刑される三日前のことです.つまり,その言葉は,イェスが全人類の罪の贖いのために身を以て支払いをすることを予告しているのです.
その支払いは,Lacan が dette symbolique, 徴象的負債と呼ぶところのものの返済にほかなりません.それによって,signifiant a は棄却されます.Lacan が destitution
subjective 主体滅却と呼ぶ事態です.言い換えれば,分離 séparation です.
それによって,負債は支払われ,神のものは神へ返されます.そして,人間は,神のものとして復活します.それが Ereignis です.自有です.人間は,己れの最も本来的な自己により自有されるのです.
イェスの言葉と精神分析とは完全に一致します.
20 October 2014 : 存在のトポロジー; 存在論的差異; 死からの復活と無からの創造.
御質問をいただいています:聖書は sinthome であるか?勿論です!
直接 Lacan の Séminaire XXIII Le sinthome
を読んでみる前に,Heidegger
のこの命題を参照しましょう:
das denkende
Dichten ist in der Wahrheit die Topologie des Seyns. Sie sagt diesem die
Ortschaft seines Wesens.
“思考する詩作は,その真理において,存才のトポロジーである.それは,存才のために,存才の本有の処有を言う.”
Seyn は Sein の古い正書法です.Heidegger は,存在事象そのもの全体としての存在 Sein とは弁別されるべきものとしての存在,Sein, Lacan 的学素では φ を,Seyn と書きます.白川静によれば「才」は「在」の元の字ですから,Seyn を「存才」と訳します.
先週金曜日,10月17日の東京ラカン塾のセミネールに参加していた或る人の発言によって改めて実感させられたのですが,存在,φ と,存在事象そのもの全体としての存在との差異,Heidegger が「存在論的差異」と呼んだものは,自明のものでは全然ないようです.だからこそ Lacan は,Möbius の帯や cross cap などの topological objects に基づいて,存在論的穴を説明しようとしました.
一枚の disc のエッジと一本の Möbius の帯のエッジとを同一化すると,投射平面が得られます.投射平面を,Lacan は好んで cross cap とも呼びます.cross cap を実数三次元空間内に embed するすることは不可能ですが,その部分的表象
immersion は,球面の一部を鉗子ではさんでつぶしたような外見をしています.
鉗子ではさまれ,つぶれて,ひとつの線分のようになっているところの諸点を除いた部分は,球面の一部であり,一枚の disc へ還元されます.
したがって,Möbius の帯の要素は,cross cap においてはそのものとしては現れておらず,つまり,己れを隠しています.
cross cap の閉曲面は,構造 a / φ を表しています.cross
cap を構成するふたつの要素,disc
と Möbius の帯とのうち,己れを隠している Möbius の帯は φ に,現れている disc は a に対応しています.
存在論的差異は,存在事象の次元のなかで新たに識別された差異ではなく,存在事象と,存在事象ではないものとの,根本的な差異です.
cross cap においては,disc a が存在事象そのもの全体としての存在 Sein であり,Möbius の帯 φ が Seyn です.Sein と Seyn とは,disc と Möbius の帯とのように,相互に根本的に異質なものです.
話を Topologie des Seyns 存才のトポロジーに戻すと,存才のトポロジーとは,存才のために,存才が宿る場処の本有を「言う」ことです.「存才の本有の場処を言う」とは,存才が ek-sistieren し得るように,人間が己れの実存,己れの
Dasein 現場存在によって,存才を守ること,守護すること,保護することです.つまり,a / φ として実存しつつ,φ を a のなかに保匿することです.
その a は,できあいの存在事象ではなく,ひとつの「無からの創造」です.
それが,Heidegger が denkendes Dichten と呼んでいるものです.denken 「思考する」も,ひとつの dichten 「詩作する,創造する」です.
それは,抹消された存在 φ から出発しての創造であることにおいて,無からの創造 creatio ex nihilo です.
無からの創造は,死からの復活と等価です.
Lacan が sinthome と呼ぶものは,そのような無からの創造,死からの復活としての症状
a / φ だ,と考えられます.
聖書の物語は神話です.神話は,不可能在としての実在
φ を保匿するために,φ から出発して為されるひとつの創造です.そのような神話として,聖書はひとつの sinthome である,と言えます.
逆に言えば,Joyce の Finnegans Wake はひとつの聖書です.なにしろ,Finnegans Wake の主題は死と復活なのですから.ただし,Finnegans Wake が聖書ほど長期にわたる best seller になるとは思いませんが.
Lacan が jouissance de déchiffrage と言うとき,Joyce がその一例です.彼は,存在の真理
φ の座に仮定された知 S2 を解読しつつ,彼の作品 a を創造します.Joyce の創造 a は,存在の真理 S2 の解読です.
カトリックにおいて聖人と呼ばれている人々,たとえば Mother Teresa や Jean-Paul II は,芸術的創造をしたわけではありません.彼らは,隣人を愛し,神に熱心に祈りました.彼らは,信仰を実践する彼らの生,彼らの実存において
φ を保匿しています.
周知のように,どんなに技術やテクニックがある artiste も,それだけでは感動を与えることはできません.テクニックは,芸術的創造の必要条件でも十分条件でもありません.
Lacan が引用していますが,Picasso はこう言いました : je ne cherche pas, je trouve. わたしは探さない.わたしは見つける.
Picasso が真の芸術家であるのは,彼が存在の真理 φ を見出しているからです.
21 October 2014 : 構造主義について; 言語の構造と存在の構造; 真理と神話; 元祖 sinthome イェス・キリスト.
「構造主義」に関して御質問をいただいています.
Lacan は「構造主義者」を自認したことは一度もありません.
Lacan は Lévi-Strauss 経由で Saussure を学んだので,Lévi-Strauss に恩義を感じており,そのことを表明していますが,Lévi-Strauss の方は Lacan を「神学への逆戻り」として批判していたそうです.
Lévi-Strauss は Lacan の発想の数多くの源のひとつに数え入れられているので,わたしも Anthropologie structurale を読んでみようとしましたが,第一頁で,これを苦労して読んでもしょうがないと感じて,放り出しました.
Lacan における構造は,la structure du langage, 即ち,構造
a / φ 以外のものではありません.
いわゆる構造主義においては,Heidegger の言う意味での存在,Seyn, φ は視野に入ってきません.構造
a / φ は,Heidegger に準拠することによって初めて見えてきます.
いわゆる構造主義においては,存在事象の次元における差異のシステムとしての構造が問題になるだけです.それに対して,精神分析では,精神分析の主体の存在
φ こそが本質的です.
精神分析における構造は,言語の構造
a / φ であり,それは,主体の存在
φ の住まいです.このような構造の概念は,いわゆる構造主義のものではありません.
「神話」という語に関しては,それを用いて Freud は『精神分析への導入のための新たな一連の講義』のなかでこう言っています:
Die Trieblehre
ist sozusagen unsere Mythologie.
本能学説は,言うなれば,我々の神話である.
神話とは,それとして十全適合的に表言することが不可能であるものに関して fiction, つまり métaphore を以て語ることです.神話も詩作も症状も,同じ学素
a / φ で構造化されています.
Schizophrenie において,néologisme
は幻覚妄想症状の等価物です.
Schizophrenie は,構造 a / φ の解体を以て始まります.dépersonnalisation が出現するのはその解体にともなってです.
構造 a / φ の解体が代補されなければ,自殺に至るでしょう.代補されれば,典型的には,幻覚妄想症状が出現します.それは,無ないし死
φ から,新たな a が創造されることであり,新たな命へ復活することです.
Lacan は Joyce を sinthome と呼びましたが,Jésus Christ こそが「元祖」sinthome です.
仏教国の日本では,ブッダこそが「元祖」sinthome だと異議を唱える人々がいるでしょう.反対はしません.
22 October 2014 : 徴象と実在; 穴としての徴象.
或る御質問へ回答するために Lacan の Écrits の或る箇所を参照したところ,改めて発見したことがあります.
1953-54年の Séminaire I の一部にもとづいて1956年に書かれた 『Jean Hypolite のコメントへの答え』のなかの一節 (Écrits, p.392) :
徴象の位においては,空虚は,充満と同じく徴示素的である;
今日 Freud の言葉を聴くなら,徴象の
dialektisch な動き全体の最初の歩みを定立するのは,ひとつの空虚の裂口である,とまさに思われる.それは,その歩みを繰り返すことに Schizophrenie 患者が固執することをまさに説明する,と思われる.ただし,無駄である.なぜなら,Schizophrenie 患者にとっては,徴象全体が実在的であるから.
御質問に答えるために引用しようと思っていたのは「Schizophrenie 患者にとっては徴象全体が実在的である」という文だけだったのですが,それに先立つ部分を読んで,1974-75年の Séminaire RSI における徴象の位の定義を,それより20年前の書に再発見しました.
つまり,RSI において Lacan は徴象を穴と定義するのですが,「徴象の dialektisch な動き全体の最初の歩みを定立するのは,ひとつの空虚の裂口である」という文において,まさにその定義を先取りしています.穴という裂口こそが,徴象の本質です.
徴象の dialektisch な動きは,主体と他 A との Dialektik です.
主体自身の存在の真理 φ は他 A の場処に穴 S(Ⱥ) をうがつ.主体はその穴の周りを回ることによって,それを己れ自身の存在の真理と認めるに至る.そのとき,自有が発起する.
S(Ⱥ) の穴の周りを回る動きは,徴示素の連鎖
a の固執 (Écrits, p.11) として現れます.
Schizophrenie の症状として Lacan が念頭においているのは,彼の精神医学の師 Clérambault の言う automatisme mental です.
automatisme mental は,ひとくちに言えば,Schizophrenie
における声の幻覚症状,いわゆる幻聴です.それは,書かれることをやめない徴示素
a の連鎖を成します.
非精神病者においては,徴示素連鎖をたどっていくことによって S(Ⱥ) の穴が見えてきます.
ところが,Schizophrenie 患者においては,そのような歩みは無駄に終わってしまいます.なぜなら「Schizophrenie 患者にとっては徴象全体が実在的である」(tout le symbolique est réel) からだ,と Lacan は言っています.
automatisme mental を構成する徴示素連鎖と,妄想形成の核を成す phénomènes élémentaires とは,それらの物質性において実在的である.それらの物質性は,ex-sistence としての実在の深淵の穴を,分離不可能なように塞いでしてしまう.
Écrits p.392 から引用した一節は,そう言っていると思われます.
そして,続けて Lacan はこう言っています:「そのことにおいて,Schizophrenie 患者は Paranoia 患者とはまさに異なる.Paranoia 患者については,我々 [ Lacan ] は医学博士論文 [ 1932年の症例 Aimée の論文 ] において,影象的な構造が優位であることを示した(…)」.
Lacan が言う意味での Paranoia においては,即ち,症例 Aimée においては,Schizophrenie とは異なり,妄想症状において優位であるのは,自我理想との関繋
a - a', つまり,鏡の段階の構造です.
それに対して,Schizophrenie においては,幻覚妄想症状も néologisme も実在的なのです.
23 October 2014 :
Paranoia と Schizophrenie ; symptôme
と sinthome.
Lacan の言う意味での
Paranoia と Schizophrenie との違いは,このことです:
Paranoia 即ち症例 Aimée においては妄想症状はその意義の「実現」によって消退したが,他方,Schizophrenie においては,幻覚妄想症状のそのような自発的解消は起こりません.
症状は,一般的に, a / φ として構造化されています.症状の多様性を規定するのは
a の多様性ですが,それだけでなく,構造
a / φ の解体可能性も重要です.
ひとくちに精神病や妄想と言っても,Aimée の症状は解消したのに対して,Schizophrenie の症状は,薬物療法によって抑えつけることはできても,解体することはありません.Schizophrenie の症状における声や妄想を特徴づけるのは,それらの実在性です.Schizophrenie の患者さんたちにとっては,症状の声や妄想は,いわゆる現実よりももっと実在的です.
この場合の「実在的」は「不可能」,即ち「書かれぬことをやめない」ではなく,而して「ex-sistence としての実在,φ の実在とまったく一体になり,物質的 matériel となった」ということです.
その場合,構造 a / φ において,a はその不透明な物質性において「実在的」である,と Lacan は言っています.
réel という用語も一義的ではありません.
automatisme mental (Schizophrenie における声の幻覚) における声,妄想知覚において
phénomène élémentaire を成す Bedeutung, néologisme を成す signifiant の断片はいずれも,実在的な
a です
sinthome にせよ symptôme にせよ,症状の構造は,分析家の言説の構造の左側の部分 a / S2 です.
質問者の方を混乱させてしまった原因は,次のことです:つまり,一方に,分析の開始以前の,分析可能なものとしての神経症症状があり,他方に,分析の終わりを成す「死からの復活」としての症状があります.
わたしは今までのところ両者を共に学素
a / φ で表してきました.Lacan も両者を共に symptôme と呼んでいます.
分析の終わりを成す「死からの復活」,「無からの創造」としての症状を特に sinthome と Lacan が呼ぶのは,Joyce との関連においてのみであり,ほかの文脈においては,用語上の区別な為されていません.
Schizophrenie の症状は,構造 a / φ の解体から出発して形成されていますから,或る意味で,既に sinthome です.実際,Schizophrenie の症状は,Joyce の Finnegans Wake と同様,分析不能,分析不要です.
イェスやブッダは,彼らの実存構造
a / φ において,他 A の欲望としての存在
φ に最も忠実,従順な者たちです.そのことにおいて,彼らは sinthome, saint homme です.
26 October 2014 : 精神病における症状形成; 精神病患者の精神分析可能性.
関係妄想 Beziehungswahn は,Schizophrenie の精神病理学においては正確に定義された用語です.
Schizophrenie の症状形成には少なくともふたつの系統が区別されます.ひとつは automatisme mental, もうひとつは Wahnwahrnehmung 妄想知覚です.
automatisme mental は声(それは出発点においてはまだ「声」ではなく,頭に勝手に浮かんでくる言葉の断片であったりしますが)を核にして発展して行きます.
伝統的なドイツ精神病理学において妄想知覚と呼ばれているものにおいては,その核を為すのは Bedeutung 意義の経験です.如何なる意義かは不明な,不透明な謎めいた意義がまず生じ,そこから解釈によって妄想が発展して行きます.
謎めいた意義の経験の第一段階は,Wahnstimmung 妄想気配,妄想気分と呼ばれています.意義はまだ全く漠然としています.しかし,無気味な不安と緊張は既に感ぜられ始めています.
第二段階が Beziehungswahn 関係妄想です.謎めいた意義は,患者自身と関係づけられます.「わたし自身にかかわっている」という確信が生じます.なぜなら,その意義は,確かに,患者自身の存在の真理の現象にほかならないのですから.
そして,第三段階は,狭義の Wahnwahrnehmung 妄想知覚です.フランスの伝統的な精神病理学においては,解釈妄想 délire d'interprétation と呼ばれています.謎めいた意義が解釈されて,多くの場合,患者自身が他者から何らかの作用を被る被害妄想,迫害妄想が形成されます.
automatisme mental と妄想知覚とに加えて,まなざしを核とする妄想形成を第三の系統として明確に区別しても良いと思います.Lacan は「まなざし」も客体 a に数え入れていますから.まなざしの経験から,被注察妄想が形成されて行きます.
ただし,被注察妄想は,automatisme mental の声の経験において二次的に形成されてくることもあり,実際にはむしろその場合の方が多いです.
いずれにせよ,Schizophrenie において症状形成の核となる声,まなざし,意義は,réel なものとして出現してきた a です.
Schizophrenie が精神病理学的に比較的良く規定された症候群(単一疾患ではない)であるのに対して,Paranoia は曖昧です.
Schizophrenie において妄想症状が幻覚症状よりも目立つ病態は paranoïde と形容されます.しかし,Schizophrenie の paranoid type は,あくまで Schizophrenie の一病態です.Paranoia と混同しないようにしてください.
Paranoia には,いわゆる誇大妄想 mégalomanie, 被愛妄想
érotomanie などのほか,1932年の Lacan が psychoses du surmoi 超自我精神病と名づけた二型,自罰パラノイアと好訴妄想(復権妄想)があります.
Paranoia は精神病理学的に単一ではありません.一方に,Lacan の Aimée や Freud の Wolfsmann のような
imaginaire 優位の病態があり,他方に,幻覚症状がほとんど目立たない Schizophrenie と見なされ得る病態があります.
Schizophrenie 患者の精神分析可能性の問題については,一概には論ぜられません.
まず,未発症の Schizophrenie 患者さんが精神分析を求めて来ることがあります.不用意に分析に導入すると,それによって幻覚妄想症状が惹起される危険性があります.未発症 Schizophrenie 患者においては構造
a / φ がもともと非常に不安定です.そのことに分析家が事前に十分留意していないと,分析によって構造
a / φ は容易に崩壊してしまい,その代補として急激な幻覚妄想症状が始まり得ます.そのような事態は当然,望ましいことではありません.予備面接において,構造
a / φ の脆弱性を非常に慎重に評価する必要があります.さらに,分析家との面接を継続することが患者さんにとって何らかの支えになり得るか否かを評価します.判断は case by case です
27 October 2014 : 無意識はひとつの言語として構造化されている; 言語の構造は,言語に住まう存在としての人間存在の存在論的構造である.
Schizophrenie 患者の精神分析可能性の問題についてもう少し考えてみましょう.
活発な幻覚妄想症状のさなかの Schizophrenie 患者が何らかの治療を求めて精神科医なり精神分析家のところに来ることは例外的です.彼らは自分の症状にとらわれており,症状を悦しています.そこから脱出しようとは思いません.それに,Schizophrenie 患者たちの症状は既に sinthome ですから,分析不可能,分析不要です.
それに対して,幻覚妄想症状の活発な形成がおさまった状態の Schizophrenie 患者は,欝状態や意欲低下などの自覚症状のゆえに治療を求めてくることがあります.この場合は,未発症患者と同様です.幻覚妄想症状の再発の可能性を評価しつつ,case by case で考えます.
さて,他の質問に移りましょう.質問者の方と対話した或る自称 lacanien は「世界が言語で成立しているのは精神分析の大前提である」と断言したそうです.その自称 lacanien が Lacan を引用したつもりであったなら,非常に不正確な引用です.
Lacan の基本公式のひとつはこれです:
l'inconscient est structuré comme un langage. 無意識は,ひとつの言語として構造化されている.
言語の構造とは,これです:
a / φ .
1950年代に確立された公式:「無意識はひとつの言語として構造化されている」は,1953年のローマ講演においては,「症状はひとつの言語として構造化されている」と述べられていました.つまり,学素
a / φ は,症状の構造の学素でもあります.
それらふたつの公式をたばねるのは,formations de l'inconscient 「無意識の成形」です:
夢,言いそこない,しそこない,機知,症状.さらに付け加えるなら,芸術作品.そしてさらに,実存.そこまで言うと,一見,Freud の領域を超えてしまうように見えますが,しかし,Lacan は精神分析家の実存を問題にしました.
「世界」Welt は,非常に大きな主題です.というのも,ドイツ語で Welt は,単に「世界」「世間」だけでなく,森羅万象,宇宙です.特に Weltraum と言えば,宇宙空間です.Stanley Kubrick の
2001 : A Space Odyssey 「2001年宇宙の旅」は,ドイツ語では
2001 : Odyssee im
Weltraum です.
Welt の問題については,Heidegger に準拠して,後日考えてみましょう.
ともあれ,Lacan が「世界は言語で成立している」と言ったことはありません.
それに対して,「無意識の成形はひとつの言語として構造化されている」は,無意識の成形の精神分析可能性の必要条件です.
そして,言語の構造 a / φ は,精神分析とは何かを考えるための基本的な足がかりです.
Lacan は,Heidegger を足がかりにして精神分析を基礎づけ直しつつ,言語の構造
a / φ は,言語に住まう存在としての人間存在の存在論的構造であることを公式化しました.Lacan の用語 parlêtre はそのことを言っています.
parlêtre は「人間の実存はひとつの言語として構造化されている」ということです.
parlêtre は「言語存在」です.あるいは,英語圏の論者に説明するために
in-language-Being と訳してみたことがありますから,「言語内存在」でも良いかもしれません.
みづからまだ明瞭に発話できない幼児も,当然ながら,言語内存在です.いわゆる小児自閉症は,主体の存在と言語の構造との関係の障害です.自閉症児は,うまく言語の中に住まうことができません.小児自閉症は言語内存在の障碍である,と言えます.
28 October 2014 : 基礎づけを欠く精神分析は無意識の真理を見失う; Lacan の教えは,精神分析を存在論的に基礎づけることに存する.
或る質問者のかたによると,人文系の自称 lacanien たちは,Lacan の言語についての思考を,次のような命題へ還元することがあるそうです:「人間は,言葉を通して、あらゆるものごとを見ている,すなわち,分節している」.
このような認識論的思考とは Heidegger も Lacan も無縁です.通常は認識論そのものと見なされている Kant の『純粋理性批判』をさえ,Heidegger は存在論的に読解しています.
問われるべきは「主体は客体を如何に認識し得るか?」ではなく,「物は如何に存在し得るか?」です.
そして,物という客体の存在においてかかわっているのは,主体自身の存在なのです.それが「異状」
aliénation と呼ばれる事態です.
そもそも,Lacan はいったい何のために彼の教えを展開し続けたのでしょうか?それは,精神分析の実践を基礎づけるためです.しかも,精神分析の実践がはらむ可能性を最大限に発揮させ得るように基礎づけるためです.
Lacan が彼の Séminaire を開始した1950年代,精神分析は USA で黄金時代を謳歌していました.精神医学において,当時はまだ有効な薬物療法が開発されていなかったので,治療は大部分,精神療法でした.精神分析は,当時臨床的に行われていた幾つかの精神療法のうち最も本格的なものと見なされていました.また,当時 USA では,精神科医がアカデミズムのなかで出世するためには精神分析家の肩書きを持つことが必須条件でした.
そのような条件のもとで USA の精神分析の実践は権威主義と形式主義に毒され,精神分析の根源的な可能性は見失われていました.
USA のそのような事態に対して,フランスでは,Lacan が精神分析に出会ったのは surréalisme の文脈においてでした.surréaliste たちは,Freud が発見した無意識に人間存在の新たな真理を見出していました.Lacan の出発点はそこです.
せっかく Freud が発見した無意識という人間存在の真理を,米国流の精神分析は,見なかったことにして済まそうとする.真理について何も知りたくはない,という「無知の情熱」がそこには働いています.
成り行きにまかせておけば,無知の情熱のせいで,精神分析は,無意識の真理を見失ってしまい,現代社会における人間の生の「いごこち悪さ」をごまかすための therapy のひとつへ堕してしまいます.
精神分析がそのように堕落してしまってはならない.それが Lacan の教えの動機です.
Lacan はまず問いました:精神分析とは何か?Lacan の答え:精神分析とは,精神分析家が為すものと人々が期待するところの治療である.では,精神分析家とは何か?それは,精神分析されて在る者である.
一見,循環論法にすぎないかのように見えるこの議論によって,Lacan は,精神分析の本質に関する問いを精神分析家の存在に関する問いへ定式化しなおしたのです.精神分析家で在るということに関する存在論的問いこそが,精神分析の中心的かつ根本的な問いです.
29 October 2014 : 原罪の赦しと死からの復活; 精神分析家は,無意識という人間存在の真理の証人である; 異状から自有へ; 言語内存在は,人間の本質定義である.
10月30日木曜日,藤田ゼミで,福田肇さんと彼の友人,森下耕牧師との対談が予定されています.主題は,キリスト教における罪の宥し(赦し)です.
キリスト教に言う原罪は存在論的なものであることを以前,指摘しました.赦しも,当然,同じ視点から思考されます.
24日,先週金曜日の東京ラカン塾の séminaire において Heidegger の ontologische Differenz について考えたとき,Heidegger がそこから発展させた Austrag の概念についても考えてみました.そして,それは和解 réconciliation と関連することがわかりました.
和解は,赦しと密接に関連しています.
さらに,カトリックの Credo を思い起こしましょう.使徒信条 le Symbole des Apôtres の最後の部分ではこうです:
Credo in (...)
remissionem peccatorum, carnis resurrectionem, vitam aeternam.
わたしは信じます,罪の赦しを,肉体の復活を,永遠の命を.
そこから読み取れるように,罪の赦しと死からの復活とは,互いに密接に関連しています.
さて,10月31日の東京ラカン塾の séminaire のテーマは,精神分析の基礎にとっての Heidegger 存在論における時間 Zeit と時間性 Zeitlichkeit, Temporalität の概念の意義です.
時間は Lacan にとっても非常に重要な主題です.Lacan は1945年に「論理学的時間」le temps logique について論文を書いていますし,それから33年後,1978-79年の Séminaire は「トポロジーと時間」と題されていました.トポロジーと時間という主題は,残念ながら十分に展開されないままになってしまいましたが,「存在のトポロジー」という Heidegger の表現を知っていれば,そこに「存在と時間」のこだまを聴き取ることができるかもしれません.
ところで,昨日用いた「精神分析されて在る」
être psychanalysé という表現について御意見をいただきました.「精神分析されて在る」は単なる受動表現ではなく,むしろ,「精神分析をその終わりに至るまで経験しとおした」という完了を表現しているもの,と理解してください.
精神分析による無意識の発見は人間存在の真理の発見であるなら,「精神分析されて在る」こと,「精神分析を完了した」ことは,従来は秘匿されていた存在の真理を証しする
— 明かす — ことである,と言えます.
精神分析家は,無意識という人間存在の真理の証人です.
Lacan は「精神病者は無意識の殉教者である」と言いました.その場合,殉教者 martyr は証人 μάρτυρος です.
精神分析家は,精神病者と同じく,無意識の殉教者・証人です.
殉教者は聖人です.Lacan が「精神分析家は,伝統的に聖人と呼ばれていたものに相当する」と言うとき,それは,精神分析家が無意識という存在の真理の殉教者・証人であることにおいてです.
精神分析は,その最も根源的な可能性においては,言語に住まう存在としての人間主体存在の実践的現象学かつ現象学的実践です.日常態においては,存在の真理は「異状」
aliénation としてしか現れてきません.異状を解体し,自有 Ereignis に成ること,精神分析はそこに存します.
人間とは何か?Aristoteles 以来の形而上学の伝統においては,人間は「理性的動物」animal rationale です.そのような形而上学的人間観を超克するために Heidegger は人間を Dasein 現場存在と規定することから出発しました.
存在は言語に住まいます.言い換えると,存在は言語の構造のなかに保匿されます:
a / φ .
したがって,言語存在 parlêtre は,精神分析の理論的便宜のための概念ではなく,人間存在の本質的な定義,しかも Heidegger 的な定義です.
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