01 November 2014 : 思考する詩作は存在の処言である; 芸術作品ならびに聖人の実存は,存在の真理の証言である.
Heidegger が1947年に書いた哲学詩 Aus der Erfahrung des Denkens 『思考の経験にもとづいて』のなかに見出されるこの命題を改めて掲げておきましょう:
Aber das denkende
Dichten ist in der Wahrheit die Topologie des Seyns.
だが,思考する詩作は,その真理において,存才の処言である.
この命題を以て,Heidegger は,勿論,Heidegger 自身が哲人 Denker として遂行している思考 Denken は如何なるものかを規定しているのですが,しかるに,それは精神分析の本質をも表言しています.
Lacan は1952年に或る哲学の学会で Freud の症例ネズミ男を題材にして講演しました.その題は:『神経症者の個人的神話,または,神経症における詩と真理』.
「詩と真理」は,Goethe の自伝的作品 Dichtung und Wahrheit を踏まえています.
ドイツ語で Gedicht は poème 詩であり,Dichtung は poésie 詩を作ること,詩作です.
しかし,動詞 dichten は,より広い意味において,何らかの文学作品を創作することでもあり,Dichtung は fiction でもあります.特に Wahrheit 真理と対置されればなおさら,Dichtung は fiction 虚構としての創作,真理ではないものとしての仮象です.そして poésie の語源 ποίησις は何であれ何かを作ることですから,Dichtung は création 創造でもあります.
精神分析の行為は,ひとつの denkendes Dichten にほかなりません.
精神分析においては dire, sagen, 「言う」がかかわっています.何を言うのか?存在の真理を言うのです.
存在の真理の深淵がうがつ穴の周りを回りつつ,存在の真理について思考する.存在の真理へと思考を馳せる.そして,存在の真理をできるだけ忠実に代表する言葉を dichten 創造する.それが,精神分析の行為です.
Denkendes Dichten は Topologie
des Seyns である,と Heidegger は言っています.
Seyn は Sein の古い正書法ですが,Heidegger はそれを存在
φ を差し徴すために用います.
Topologie des Seyns は「存在 Seyn の場処,在処である τόπος
を言う λέγειν」ことです.すなわち「存在の真理の座 φ を表言する」ことです.
存在の真理の座 φ は,ex-sistence 解脱実存の場処です.それは,存在事象の座
a に対しては常に外に位置づけられて存有するものの座です.
Denkendes Dichten である Topologie
des Seins は,存在の真理 φ を解読すること déchiffrage でもあります.déchiffrage は Lacan が用いている表現です.
解読によって,ひとつの作品が創造されます.Joyce の Finnegans Wake がその一例です.
詩作,創造,作品は,存在の真理の証言です.
存在の真理をすべて,そのものとして言うことは不可能です.しかし,存在の真理について証言することは不可能ではありません.
芸術作品ならびに聖人の実存は,存在の真理のひとつの証言です.
11月1日は,カトリックにおいて聖人たちすべてを記念する祝い日です.昔は「万聖節」と言っていました.今は「諸聖人の日」と呼んでいます.
芸術作品が何らかの感動を喚起し,多くが殉教者である聖人たちが畏敬の念を惹起するのは,芸術作品や聖人が存在の真理を代表する証言であるからです.それが,物の存在論的構造であり,聖人の実存構造です.
02 November
2014 : 現実に対するファンタジーの優位;
It Girl の宣伝ビデオ;
フェティッシュとニヒリズム.
或る方が送ってくださった御質問に基づいて,こう問うこともできるかもしれません:
Lacan の世界観は如何なるものか?あるいは,精神分析の世界観は如何なるものか?これらの問いに対しては,わたしはこう答えます:問いの立て方が不適切である.
というのも,世界観 Weltanschauung という概念は,認識論を前提しているからです.認識論は,さらに,認識の主体と客体の存在を前提しています.
ところが,Lacan は,精神分析において,伝統的な主客関係の概念を無効にし,存在そのものに関する問いを問うているからです.
適切な問いは,したがって,1964年1月22日の Séminaire の最後に Jacques-Alain Miller が Lacan に向かって発した問いです:
Quelle est votre ontologie ? あなたの存在論は如何なるものか?
1964年.50年前です.大学紛争で社会が騒然としていたのは68-70年ころです.むしろ当時は「世界観」は流行語でした.そこには,現在の社会を否定し,革命を起こさねばならない,という情熱がこめられていました.それは,ある意味で,美しき魂 schöne Seele の夢想でした.
今や「世界観」はほとんど死語でしょう.外界や社会がどうであるかはどうでも良いことです.なぜなら,そこには如何なる満足も見いだせないからです.
満足が得られるのは Phantasie においてである.今や,美しき魂は完全に内向きになっています.
満足は Phantasie において得られる.それは,virtual reality の受容の前提です.逆ではありません.virtual reality がはやったから内向きになったのではなく,Phantasie の優位が先にあったのです.
今や人々は,世界観を問うことはしません.逆に,ファンタジーを問題にします.
ところで,ファンタジーを通して問われるべきは,Lacan が「根源的幻想」と呼んだものです.そして,幻想を通して問われるのは,Lacan が「他 A の欲望」と呼び,Heidegger が「存在の請求」と呼んだものです.
ファンタジー優位の今は,まさに精神分析の時代となる可能性をはらんでいます.
先日,ある人が Facebook に Pharrell Williams という hip-hop singer の最新曲
It Girl の music video を紹介していました.その video は,村上隆と彼の collaborator が製作した Superflat なアニメです.しかも,そこに登場する女性たちはすべて,いわゆるロリコン好みに描かれています.一般のアメリカ人たちにとってはかなり違和感を感じさせるものであったようで,The New Yorker 誌がその Pharrell Williams の video を話題にしました.
村上隆のいわゆる Superflat な作品は,伝統的な観点からはもはや芸術作品とは言えないような image や icon から成っています.もはや何の意味も持たない,純粋に imaginaire な形象.そのような作品に何億円もの値がつくのですから,まさに Fetisch です.いわゆるロリコン好みに描かれた女性も Fetisch 以外の何ものでもありません.そのような Fetisch の機能は何か?
Freud は既に1927年に答えています: Fetisch は失われた phallus の代理である.つまり,a / φ .
今,ちまたにあふれかえっているているファンタジーにおいて際限無く増殖している image や icon はすべて,Fetisch です.
そして,Fetisch が覆い隠し,否認させるのは,φ です.
Freud はそれを去勢と呼びました.しかし「去勢」は今の人々にはピンと来ないかもしれません.何と呼べば良いでしょうか?
人間存在が資本と科学の言説のなかでもはや何の尊厳も持たないこと,人間は資本の増殖に仕えるためのただの人材,人的資材にすぎないこと,人間存在は無に等しいこと.
「ニヒリズム」もほとんど死語ですが,その忌まわしい響きを今,人々は再び聞き取ることができるでしょうか?
03 November 2014 : 大学の言説 vs 分析家の言説; 聖なるもの; 存在のことば.
御質問くださった或るかたは,自称 lacanien たちの知ったかぶり,知的うぬぼれにうんざりさせられたことがあるそうです.そのような lacanien は Socrates, Heidegger, Lacan を見習うように!
知をふりかざすことは,大学の言説にほかなりません.例えば政治体制としては,それは官僚支配です.官僚たちは大学,ないしより高等な教育機関で統治するための know how を学び,そのような知として支配者の座についています.
精神医学の臨床においては,DSM に頼る診療は大学の言説のものです.DSM は診断基準をまとめたマニュアル知です.精神科医は,そこにリストアップされた病名を精神障碍者にはりつけて,精神障碍という実存的出来事を支配したつもりになっています.
大学の言説に対して,Socrates, Heidegger, Lacan ら,偉大な哲人たちは,分析家の言説に位置しています.彼らは,みづから知をふりかざすのではなく,知を存在の真理の座に仮定し,知が何を言おうとするのかを聴き取るために,知の声に耳を傾けます.
Socrates は,知の声を δαίμων と呼んでいます.Heidegger
は Herakleitos や Parmenides の断片に存在の言葉を聴き取ろうとします.Lacan は,神学,哲学,文学,数学,文化人類学などの精神分析以外の領域から常に学ぼうとしています.
存在の言葉 Wort des Seins は Heidegger が用いた表現です.神学において Wort と言えば,ヨハネ福音書の冒頭に言われているように,それはイェスのことです.存在
φ は声 a をとおして人間へ請求を差し向けてきます.
存在の言葉に耳をふさぐこと.適当に聞いたふりをすること.存在の真理が何を言おうとしているのか,そんなことは知りたくもないと抵抗すること.それが我々の日常態です.世間の多くの人々はそれで何とかやっています.しかし,それではどうにもならなくなるときには?
聖性についてコメントをいただいています.「聖なるもの」は,Heidegger が読解を試みた Hölderlin の詩
Wie wenn am Feiertage あたかも祝い日に... の一節を思い起こさせます:
Jetzt aber tagts
! Ich harrt und sah es kommen, Und was ich sah, das Heilige sei mein Wort.
今や,しかし,日が昇る!我れは待ちわびた.して,それが来るのを見た.して,我れが見たもの,聖なるものぞ,我が言葉たれ.
そこで Hölderlin が言葉 Wort と呼んでいるものは,イェスのことかもしれません.「待ちわびる」はイェスの再臨の期待かもしれません.今や日が昇る:ニヒリズムの夜は明けようとしています.そのとき出現し,成起するものは,聖なるものです.
Lacan は sinthome を Σ と表記することがあります.それにしたがって,sinthome の構造を Σ / φ と書いてもよいかもしれません.
04 November 2014 : 死は,最も即自的な存在可能性である; 死は,無の匱である; 死と罪; 死からの復活と罪の赦し.
東京ラカン塾の web page を全面的に改訂しました.ホームページ作成ソフトの新しいものを用いたのですが,そうそう思いどおりに作れるものでもありませんでした.さらに改訂すべき余地はありますから,不備な点を御指摘いただければ幸いです.
言い遅れましたが,先の日曜日,11月2日は,カトリックでは「死者の日」でした.11月1日の「諸聖人の日」に続いて,すべての死者を記念する日です.ちなみに,Halloween はカトリックの行事ではありません.
死について,Heidegger は1927年の『存在と時間』においてこう言っています:
「死は,最も即自的な存在可能性 [ die eigenste Seinsmöglichkeit ] である.」
また,1950年の講演 Das Ding ではこう言っています:
「死は,無の匱として,存在という存有するものを己れのうちに保匿している.」
いずれにせよ,死は,単純に「生理学的生命機能が停止すること」ではありません.
Heidegger の死の概念には,復活の概念が既に含まれています.復活とは,死んだ後に単純にこの世に「よみがえる」ことではなく,この世の生ではない「永遠の命」に与ることです.それが,「最も即自的な存在可能性」です.
「即自的」は,ドイツ観念論に言う
an sich ではなく,eigen です.それは,「本来的な自己に即している」という意味において「即自的」と訳されてもよいでしょう.
ところで,永遠の命へ復活するためには,あらかじめ死なねばなりません.
学素
a / φ において,死は φ に相当します.
構造
a / φ において a を純化し,S(Ⱥ) の穴へ還元すれば,S(Ⱥ) / φ となります.
穴 S(Ⱥ) は,死 φ の深淵の最も忠実な代表です.カトリックの聖人たちの実存は,学素
S(Ⱥ) / φ で形式化され得ます.
それに対して,Joyce のような芸術家においては,死からの復活としての創造が発起します.それを Σ / φ としましょう.
Σ / φ は,無からの創造であり,死からの復活です.それが発起するためには,いったん死へ至らねばなりません.無の深淵へ到達せねばなりません.それが,精神分析以前的な症状としての
a / φ との相違です.
RSI のボロメオ結びの中央に位置づけられた
a は,réel, symbolique, imaginaire のいずれにも与り得ます.
Σ は,その物質性における signifiant, 言うなれば
signifiant réel です.
死 φ は,罪でもあります.罪の赦しと和解について,明日以降,改めて考えてみましょう.
05 November 2014 : 神話としての聖書; fiction
と fetish ; 復活と赦しと和解.
先月30日にフジタゼミで,福田肇氏がマルコ福音書 2,1-12 から出発して,罪の赦しについて論じてくれました.
罪の赦しを主題に選んだのは彼の友人,森下耕牧師(日本基督教団)であったそうですが,森下牧師は残念ながら参加できませんでした.
とりあえず皆さんもマルコ福音書 2,1-12 を読んでみてください.四肢ないし半身の麻痺した病人をイェスが癒やし,罪の赦しを与えるエピソードです.
現実には起こり得ない奇跡が物語られているからといって,聖書をバカげた作り話の寄せ集めと判断しないでください.
先代の教皇,今は名誉教皇と呼ばれている Benedikt XVI は彼の名著『ナザレのイェス』の冒頭で,いわゆる歴史主義のせいで貧弱にされてしまったイェス像を嘆いています.
どれが歴史上実際に起きたことであるかと問うならば,福音書の大部分は捨て去られることになります.聖書のなかに歴史的事実を探すべきではありません.もし仮に歴史上実際に起きたことが語られているとしても,そのようなことは,fictif な要素とともに,すべて,神話へと創造されているのですから.そして,fiction としての神話においては真理が提示されているのです.
fiction は fingere に由来し,Fetisch は facere に由来しています.
それらふたつのラテン語動詞 facere と fingere は語源を共有してはいないようですが,一方は様々な意味で「作る」,他方は「形造る」,悪い意味で「でっちあげる」ですから,意味上は相互に関連しています.
Fetisch という語は,「つくりもの,まがいもの,仮象」というニュアンスを強く含んでいます.
fiction も Fetisch も「真理」の反意語です.
精神分析においてかかわる真理,四つの言説の構造において左下の座に位置する真理は,そのものとしては提示され得ないもの,書かれぬことを止めない不可能在,実在としての真理です.
Fiction も Fetisch も,そのような真理を代表し,代理するもののひとつです.そして,両者ともに,或る種の創作,創造 création です.
聖書に戻って,マルコ福音書 2,1-12 を読む際の注目点を先に指摘しておくと,まず,この癒やしと赦しの奇跡の業(わざ)は,信仰において行われています.第5節において「イェスは彼らの信仰を見て」と言われていますから.
第二に,からだの麻痺した男は,当然ながら,脳血管障害等の何らかの病気のせいで麻痺したのであって,犯罪行為のせいではありません.彼が何か悪を為したのではないにもかかわらず,イェスは「あなたの罪は赦された」と宣言します.
第三に,第9節と11節でイェスが発する「起き上がれ,立ち上がれ」という命令において用いられている自動詞
ἐγείρειν は,他動詞としては「復活させる」であり,聖書のほかの箇所において「死者たちのうちからの復活」を言うときに用いられる語です.
さらに,「罪の赦し」と密接に関連する「和解」の主題にも触れておきましょう.和解に関して,マタイ福音書 5,23-26, ならびに聖パウロのローマ書簡 5,8-11 を読んでください.
それから,『精神分析の倫理』において Lacan が引用している有名な箇所も,罪と死との関連に関して,読んでみてください.それは,やはり聖パウロのローマ書簡の 7,7-12 です.
今日は宿題を幾つか出しました.それらにもとづいて,明日以降,話を続けて行きましょう.
06 November 2014 : 無意識的罪意識; 存在論的有罪性; 原罪の赦しと死からの復活.
罪の概念に関してですが,西洋は罪の文化,日本は恥の文化,とよく言われていました.出典は Ruth Benedict (1887-1948) という米国の文化人類学者の『菊と刀』(1946) です.第二次世界大戦中,USA では敵である日本をよく知るための研究が盛んに行われていたことがうかがわれます.
しかし,恥の意識も広い意味では罪の意識の一種です.また,名誉を重んずる態度は西洋においても古代から一貫しています.
ともあれ,精神分析においてかかわる罪は,Freud が「無意識的罪意識」という矛盾した表現で呼んだ有罪性です.無意識的ですから,厳密には,「罪意識」とか「有罪感」とは言えません.
Freud が「無意識的罪意識」と呼んだものは,何らかの違法行為の結果ではなく,いわば a priori な有罪性,ないし存在論的有罪性と呼ぶべきものです.何もしていないうちに既に有罪なのですから,それは,神学において原罪と呼ばれるものと関連しています.
仏教には原罪に相当する用語は無いでしょうが,しかし,我々が輪廻にとらわれて解脱できず,現世にとどまっている,ということは,我々の前世における罪の結果なのです.前世の罪を相続しているという意味で,それはまさに原罪です.ドイツ語では「原罪」は Erbsünde 「相続した罪」です.
カトリックの Credo のひとつ,使徒信条では,こう言います:
Credo in
remissionem peccatorum, carnis resurrectionem, vitam aeternam.
わたしは,罪の赦し,肉体の復活,永遠の命を信じます.
罪の赦しは,死からの復活と密接に関連しています.
昨日指摘したように,マルコ福音書 2,1-12 に物語られている麻痺患者の癒しのエピソードにおいて,イェスが「起き上がれ,立ち上がれ」と命ずる際,その動詞は「復活させる」という意味でも用いられます.
マルコ 2,1-12 は譬え話と同じように読まれるべきです.そこには,読み取られるべき秘められた意味があります.
麻痺患者は,身動きもできないまま横たわっています.それは,死者の譬えです.イェスは,死者に「起き上がれ」と命令し,復活させたのです.
実際,そのようなエピソードが幾つか物語られています.たとえば,マタイ福音書 9,25 : イェスは,死んだ少女の手を握ります.すると,少女は起き上がります.また,ルカ福音書 7,14-15 : イェスは,死んだ少年に「起きなさい」と命じます.すると,少年はよみがえります.
いずれの場合も,同じ動詞
ἐγείρειν が用いられています.
復活は,名詞では ἀνάστασις です.この語は,女性の名前 Anastasia のもとになっています.
「復活させる」という動詞としては,ἀνίστημι と ἐγείρω のいずれもが同じ程度によく使われています.
原罪の赦しと,死からの復活は,相互に等価です.
08 November 2014 : 工藤庄平氏と永井均氏; 存在の意味に関する問いが問われないところにおいて擬似問題は増殖する;
我れは他である; fiction
の構造において真理は己れを示す; ふたつの死の間の矢吹丈; あしたのジョーと主の変容.
ある方から,我々の友人工藤庄平氏の twitter での発言を教えてもらい,それを retweet しました.工藤氏が引用している永井均氏の twitter 発言も見つけることができたので,retweet しました.
永井均@hitoshinagai1
高校生のとき、クリスチャンで左翼の先生に「イエス・キリストを神だと信じるなら、天皇を神だと信じる人を批判する資格はない」と言って悲しませたことがあった。
工藤庄平@nineteen_jacob
「イエス・キリストを神だと信じるなら、天皇を神だと信じる人を批判する資格はない」(永井均).
― そもそもイエス・キリストは己が真に神の子である(誇大妄想ではなく)事を如何にして証明するのか?仮に彼が水上歩行や中風の癒しを為し得たとして,それを彼が真に神の子である事の証拠と言い得るのか?
永井均氏のことは全く知らなかったので,Wikipedia の記事を参照しました.
「イエス・キリストを神だと信じるなら,天皇を神だと信じる人を批判する資格はない」は永井氏の高校生時代の発言だそうですから,若気の至りでしょう.それとも,永井氏は今もそう考えているのでしょうか?
まず,当然ながら,Abraham を信仰上の祖先とする三つの宗教,ユダヤ教,キリスト教,イスラム教における神と,日本神話の神々とを同列に置くことはできません.同じ「神」という語で差し徴されてはいても,概念的には全く別物です.
また,天皇自身が神格化されることを拒むだろう今,もし仮に天皇を神だと信ずる人がいるとして,どうして批判する必要があるでしょうか?その人は,その信念,信仰,ないし幻想,妄想によって,実存をかろうじて支えているのかもしれません.その場合,その支えを不用意に崩してはなりません.
「イェスは自分が神の子であることを如何に証明し得るか?」に対しては,Gödel にならって,真理はその証明可能性について決定不可能である,と答えることもできます.
その場合,「真理」は,イェスが
ἐγώ εἰμι ἡ ἀλήθεια 「我れは真理である」と言うときの「真理」です.
そのような真理にとって証明は無用です.
「仮にイェスが実際に水上歩行や中風の癒しを為し得たとして」に対しては,聖書は歴史書ではなく神話である,と答えましょう.聖書においては,歴史的事実の断片も,神話の材料に応用されています.そして,神話という fiction の構造において,真理は己れを示します.
Hard problem of consciousness と呼ばれているもの:
は,科学主義の観点においてのみ措定される問いです.
他方,永井均氏が取り組んでいると言われる the Harder Problem of Consciousness は,徴象 le symbolique, 実在 le réel, 影象
l'imaginaire の諸次元を区別することを知らないときに措定される問いです.
「なぜわたしはわたしなのか?」は,影象的な自我・他者の関繋
a - a' のなかで問われている問いです.
それに対して,徴象と実在とを知っている者,たとえば Arthur Rimbaud は
« Je est un autre » 「我れは他者である」と断定しています.
以上のような擬似問題はすべて,真に問われるべき問いを問うていないところに生じます.真に問われるべき問いとは,『存在と時間』において Heidegger が「存在の意味に関する問い」と呼んだものです.
「存在論と神学と精神分析は,互いに次元が異なる」という御意見をいただきました.いいえ,それら三つにおいては同一の構造がかかわっています.即ち,存在の真理の現象学的構造
a / φ です.
存在論と神学は Heidegger により既に統一されていました.そこに精神分析を加えて,より大きな統一を成したのは,Lacan です.
そもそも,人間の存在の本有と神の存在の本有は das Selbe, 本同的なものです.それは,存在
φ です.
復活をどう説明するか考えていて,ふと『あしたのジョー』の finale を思い出しました.
三島由紀夫『あしたのジョー』の愛読者で,あるとき彼は講談社にやってきて,少年マガジンを買いそびれて本屋になくなってしまったから,残っていたら一冊売ってくれ,と言ったそうです.
最後にまっ白に描かれた矢吹丈は死んだのか?と当時騒がれました.死んだのではありません.彼は,復活したのです.
力石徹とジョーとの rivalité は,影象的な関繋そのものです.しかし,力石が死んだとき,決定的な変化が起こります.ジョーは死を先取り的に懐胎します.
Lacan は Antigone について entre
deux morts : 「ふたつの死の間のアンチゴネー」を論じています.それと同様に,力石の死後,ジョーはふたつの死の間にあります.
福音書には「主の変容」と呼ばれるエピソードが描かれています.主の変容において,イェスは復活を先取りして,まっ白にまばゆく輝きます.まっ白になったジョーを思い浮かべて,ふと,その輝きを連想しました.
09 November 2014 : あなたたちは神の家であり,神の霊気はあなたたちに内に住んでいる;
人間はすべて,神の子である; 現場存在は神の現象学である; holisme の陥穽; 神話は存在の真理の隠喩である; 原罪と存在.
11月9日は,ローマの Laterano 大聖堂 Basilica di San Giovanni in Laterano の献堂の記念日でした.
Laterano 大聖堂はローマ司教座教会です.本来は教皇の本拠地でした.
11月9日の御ミサの第二朗読は,聖パウロの第一コリント書簡 3,9-17 の一部でした.そのなかに意義深い表現が出てきます:「あなたたちは神の家である.」「あなたたちは神の神殿であり,神の霊気(聖霊)はあなたたちに内に住んでいる.」
以前,Heidegger の「存在の住まい」という表現を紹介しました.「言語は存在の住まいである」.
Heidegger が「存在の住まい」と言うとき,彼は聖パウロの「神の家」をふまえているのではないかと推測されます.
構造 a / φ は,存在の真理の現象学的構造であり,かつ,言語の構造でもあります.したがって,「言語は存在の住まいである」と「人間は神の家である」とは相互に等価です.
我々人間の内には神の霊気が住まっています.人間の本有は神性です.
言い換えると,人間の実存,Dasein, 現場存在は,神の現象学です.
ただし,人間の本有であり,かつ神の本有であるところのものは,ex-sistence としての存在
φ です.
工藤庄平氏が参照するよう勧めてくれた彼の記事を読みました:
そこにおいて「二つのドグマ」と呼ばれているものが何なのかわからなかったので,よく理解できませんでしたが,holisme と呼ばれるものが問題になっているようです.
いわゆる holisme は,存在事象そのもの全体 das Seiende als solches im Ganzen と Heidegger が呼ぶところのものにとどまっています.つまり,ex-sistence としての存在
φ を思考してはいません.
イェスは神の子です.イェスのみならず,人間はすべて神の子です.これは,カトリックの教義のひとつです.
「人間は神の子である」とは「現場存在 Dasein は神の現象学である」ということです : a / φ .
当然ながら,存在事象そのもの全体に対して ex-sistence, Ek-sistenz であるものを,存在事象そのもの全体を根拠にして証明することはできません.
逆に,その Ek-sistenz, つまり,存在
φ の方が,存在事象そのもの全体の根拠です.
Es gibt Sein. 存在 φ は,存在事象そのもの全体としての存在を与える,恵む,恵与する.
その構造を学素 a / φ は形式化しています.
イェスの奇跡の物語は,神話として,fiction として,存在の真理の métaphore です.
ここで一旦,話を少し戻して,罪のことに立ち返りましょう.というのも,Heidegger の『存在と時間』における罪の概念への言及をいただいたからです.
『存在と時間』において Heidegger は罪をこう定義しています:
「有罪である」とは「ひとつの非 Nicht によって規定された存在の根拠であること」(Grundsein für ein durch ein Nicht bestimmtes Sein) である.
より簡潔に Grundsein einer Nichtigkeit 「ひとつの非性の根拠であること」とも言われています.
ein durch ein Nicht bestimmtes Sein 「ひとつの非 Nicht によって規定された存在」とは,後に Heidegger がバツ印で抹消する存在,つまり,Sein, 存在,Lacan 的学素の φ にほかなりません.
現場存在 Dasein の存在論的構造は a / φ です.
ですから,das Dasein ist im Grunde seines Seins schuldig 「現場存在は,その存在の根拠において,有罪的である」と Heidegger も言っています.
「人間はその存在の根拠において有罪である」とは,つまり,原罪を負っている,ということです.原罪という神学的概念を,Heidegger は存在論的に定義しなおしたのです.
良心という道徳的な概念も,Heidegger は存在論的に捉え直します.
「良心を持とうとすること
Gewissen-haben-wollen は Anrufverstehen である」と規定されています.
Anruf は「存在の呼びかけ」です.「存在の呼びかけ」は,後の用語では Anspruch des Seins 「存在の請求」です.Freud の用語では Triebanspruch 「本能の請求」,Lacan の用語では「他 A の欲望」です.
そして Heidegger は,der Ruf erschließt das ursprünglichste Seinkönnen des Daseins als
Schuldigsein 「存在の呼びかけは,現場存在の最も本源的な存在可能を有罪存在として開明する」と言っています.
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