フロィトの症例オオカミ男の恐怖夢と原光景の否定存在論的再解釈 — 小笠原晋也著『ラカンの教え — 精神分析と信仰』より抜粋
§ 7.6.1.2.2. オオカミ恐怖夢と原光景
Sergei Pankejeff (1887-1979) が満 4 歳の誕生日の直前に経験したオオカミ恐怖夢 — それがこの症例の Wolfsmann(オオカミ男)というあだ名を動機づける — は,治療の過程の早い時点で報告される.フロィト (GW XII, pp.54-55) によれば,セルゲイは その夢について こう語った:
わたしは,この夢を見た:夜,わたしは わたしのベッドに横になっている — わたしのベッドは,足側が窓へ向くように置かれてあり,窓のまえには幾本かの古いクルミの樹が一列に並んでいる;その夢を見たとき,季節は冬であり,時間は夜であったことを,わたしは知っている —.突如,窓が ひとりでに開く.そして,わたしは,大きな驚愕を以て,このことを見る:窓のまえの一本の大きなクルミの樹[の枝]に,幾匹かの白いオオカミが座っている.[その数は]六匹か七匹である.それらのオオカミは,まっ白であり,むしろ キツネか 牧羊犬のように 見える — なぜなら このゆえに:それらは キツネのように 大きな尾を有しており,そして,それらの耳は 立っている — 犬が何かに注意を向けているときに犬の耳がそうなるように.大きな不安 — 明らかに,オオカミたちに食いつくされてしまうという不安 [ Angst, von den Wölfen aufgefressen zu werden ] — に襲われて,わたしは叫び声を上げる.そして,わたしは目覚めた.わたしの子守女が,わたしのベッドのところに急いでやって来た — わたしに何が起きたのかを見るために.わたしが〈それが夢にすぎなかったことを〉確信するまで,かなり時間がかかった;如何に窓が開き,オオカミたちが樹に座っていたかのイメージは,それほどにも自然かつ明瞭にわたしの目のまえに現れたのだった.やっとのことで,わたしは気分を落ちつけることができた;自分が危険から解放されたかのように感じた;そして,再び寝いった.夢のなかの唯一の動きは,窓が開いたことであった;なぜならこのゆえに:オオカミたちは,樹の幹から左右に生えている枝に,如何なる動きもなしに,まったく静かに座っていた;そして,わたしをじっと見つめていた;あたかも それらは全注意をわたしに向けているかのように 見えた.
そのオオカミの恐怖夢に関連して,セルゲイは,このことを思い出す:その夢を見た当時,彼は,グリム童話の一篇『オオカミと七匹の子山羊』の絵本のなかに描かれている〈うしろ足で直立する〉オオカミを,とても怖がっていた.彼の姉は,彼をからかうために,残酷にも,そのオオカミの絵を彼にわざと見せる;すると,彼は,子山羊たちのようにオオカミに食われてしまうという強い恐怖に襲われ,狂ったように叫び出す;それを見て,彼の姉は おもしろがる.彼のそのような過敏状態と不安状態 (sein Zustand von Reizbarkeit und Ängstlichkeit) は〈彼の母に,その状態への何らかの対処を取る必要性を感じさせるほどに〉はなはだしいものとなる.彼の母が取ることになる対処は彼に対する宗教教育である.
フロィトは こう確信する:その夢の背後には,セルゲイの病歴の出発点を成す恐怖症を惹起する原因となったものが,隠されている.そして,セルゲイも 分析家のその確信を 受けいれる.分析の経過中,その夢は 幾度も 話題になる.そして,セルゲイは 常に このことを強調する (cf. GW XII, p.59) :
その夢のふたつの契機が,強い印象を 彼[セルゲイ]に 与えてきた:ひとつは,オオカミたちが まったく静かであり,不動であること;そして,もうひとつは,それを以てすべてのオオカミたちが彼を見つめるところの〈緊張に満ちた〉注視.また,それへ夢が行きつくところの〈あとあとまで残存する〉実在性の感覚 [Wirklichkeitsgefühl] が,彼には 注目に値することと 思われた.
フロィトは,オオカミ恐怖夢 および 分析の過程において得られたそのほかの材料から出発して,あの「原光景」(Urszene) — それは,月齢18ヶ月のセルゲイによる〈両親の coitus a tergo(後背位における性交)の〉目撃に 存する — を,帰納的に構築する — セルゲイの精神病理の最も根本的な原因として.そして,フロィトは こう説明する:原光景において,セルゲイは,母の外陰部に 去勢 — ペニスの切除 — の切創を 認識する;かつ,父との性交において母が悦していることを,認識する;そして,そのような悦が自分にも父によって与えられることを,欲する.そのような原光景は,彼の 4 歳の誕生日の直前に経験されたあのオオカミ恐怖夢において,セルゲイに対して このように 事後的に 作用する:彼は,彼の誕生日 — それは Christmas Eve でもある — に父から贈られるであろう盛大なプレゼントを悦することを期待しつつ,寝る;そして,夢において,その願望は成就される — 原光景の活性化によって,父から与えられる性的満足を悦するという形において.活性化された原光景は,事後的に「去勢の現実性に関する確信」(die Überzeugung von der
Wirklichkeit der Kastration) を セルゲイに もたらす;それは 去勢不安を生じさせる;その不安は,夢において,オオカミたちの静謐にして強烈なまなざしの形を取る.また,子山羊たちのようにオオカミに食べられてしまうという不安も,あらためて喚起される.
以上のような原光景の措定に対して,我々は,今,ラカン的な観点から,ふたつの批判を加えることができる — 如何なる思いこみがフロィトに原光景を構築せしめたのかに関して.ひとつめの批判の対象は,彼の「ファロス中心主義」(phallocentrisme) である.ファロス中心主義は,このことを前提的に要請することに,存する:否定存在論的孔穴を十全に塞ぎ得るファロスは,存在する(それに対して,ラカンの「性関係は無い」という公式は,その思いこみを否定するものである).その思いこみによって,悦は すべて ファロス悦 (la jouissance
phallique) へ
還元され,そして,不安は すべて 去勢不安へ 還元される.フロィトが提唱したオィディプス複合も,去勢複合も,性器体制も,いづれも,彼のファロス中心主義の産物である.それに対して,我々が中心に措定するのは,如何なるものによっても閉塞不可能である穴 — 否定存在論的孔穴 — である;その穴は,死の穴,無の穴,罪の穴として 開出してくる.それが「ファロスの欠如の穴」という意義 — つまり,去勢という意義 — を帯びるのは,あくまで,その穴を塞ぎ得るファロスは存在するという想定のもとにおいてである.しかし,実際には,そのようなファロスは,不可能である:つまり,書かれないことをやめない.
次に,我々のもうひとつの批判が向けられるのは,フロィトの経験論的な思いこみに対してである.経験論の公理は,伝統的に こう公式化される : Nihil est in
intellectu quod non sit prius in sensu(知のなかにあるものにして,先に感覚のなかにあったのではないものは,何もない).つまり,経験論は,知覚的経験に先だつもの(先験的なもの)を 拒否する:もしあなたが何かを知っているならば,その知は,あなたのなかにあらかじめ備わっていたものではなく,しかして,知覚によって外界の現実から得られたものである;セルゲイが満 4 歳の誕生日の時点で既に性的悦および去勢を知っていたのであれば,それは,彼が それ以前に — すなわち,原光景において — それらを知覚していたからである.ただし,フロィトも,経験論的前提を要請することが困難と思われる場合は,カント主義者となる —「図式」(Schema) や「範疇」(Kategorie) の概念を援用しつつ;もっとも,その場合も,フロィトはこう付け加える:それらの先験的なものは遺伝や系統発生によってもたらされたものである;そして,オィディプス複合は — つまり,ラカンの用語で言えば「父の名」は — そのようなものの代表例である.以上のようなフロィトの経験論 — それは あまり徹底的なものではない — に対して,我々は,否定存在論的孔穴のトポロジーの先験性を公理的に措定する — ただし,カント的形而上学にもとづいてではなく,しかして,ハィデガーによる形而上学批判にもとづいて.
原光景を構築する代わりに,我々は,ラカン的な観点から,セルゲイのオオカミ恐怖夢のなかに これらのことを 本質的なものとして 確認する:まず,窓がひとりでに開く — それは,否定存在論的孔穴の開口を表している.先に見たように,ラカンは その開口を 大きく開いたワニの口に 譬えている;セルゲイの夢では,オオカミの口が開くイメージはそのものとしては登場してこないが,それでも,彼は,オオカミにまるごと食べられてしまうという強い恐怖に襲われる.次いで,オオカミたちのまなざしが,幻覚と同じほどに強烈に実在的なものとして,セルゲイを凝視する — 窓の開口の向こうから,深淵の奥底からのように —;そのまなざしは,ダンテが描く地獄の最下層を成す奥底においてすべてが凍りついているのと同様に凍りついているかのようであり,その死的な静謐さのゆえに,かえって非常に恐ろしいものである.要するに,オオカミ恐怖夢において,幼いセルゲイは,否定存在論的孔穴が死の穴として開出してくるのを,経験する;そこにおいて,彼は,極めて実在的な死の穴と,出会う;つまり,その夢における不安は,死の恐怖そのものにほかならない;そこに無理やり性的なものを前提する必要は,まったくない.
では,なぜセルゲイは,彼の 4 歳の誕生日の直前に,そのような死の不安の夢を見ることになったのか ? 直接のきっかけは,フロィトも指摘しているように,12月24日に盛大な二重のプレゼント — 誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントの両方 — を父からもらえることの悦の期待である.そして,その期待は,幼いセルゲイにおいては,さしたる抵抗も防御もなく,非常にすんなりと夢における願望成就を惹起する — ただし,否定存在論的孔穴の〈死の穴としての〉開出を表す極めて恐ろしいイメージの形において —.
いったい,フロィトの『夢解釈』の第III章において「夢は願望成就である」(Der Traum ist eine Wunscherfüllung) と公式化されているにもかかわらず,如何にしてセルゲイのオオカミ恐怖夢のような悪夢が生じ得るのか ? 如何にも,フロィト自身,『夢解釈』の第IV章において,不安夢の形成の分析をとおして,「夢は願望成就である」という簡潔な公式を,若干の補足を以て「夢は,〈抑圧された,排斥された〉願望の〈偽装された〉成就である」(Der Traum ist die verkleidete Erfüllung eines unterdrückten,
verdrängten Wunsches) という形に修正している;しかし,それは いったい どういうことなのか ? 如何にして,それは,不安夢の形成を説明し得るのか ?
フロィト (1900, p.167) の答えは,こうである:
Die Angstträume Träume sexuellen Inhalts sind, deren zugehörige Libido eine Verwandlung in Angst erfahren hat.
不安夢は[その潜在内容において]性的内容の夢であり,そこに属するリビードが不安への変化を被ったのである.
ラカン的な観点からは,そのようなフロィトの命題における「性的」(sexuel, érotique) は「死的」(thanatique) に置き換えられる:夢における願望成就がもたらすのは,性的な悦 (la jouissance sexuelle ou érotique) ではなく,しかして,死的な悦
(la jouissance thanatique) である;なぜならこのゆえに:性本能の正体は,死の本能である;それが性本能であるかのように見えるのは,否定存在論的孔穴を閉塞し得るファロスが想定される限りにおいてである.言いかえれば,あらゆる夢は,本来的には死の不安に満ちた悪夢である;なぜならこのゆえに:夢において,願望成就は,死の穴としての否定存在論的孔穴の開出の表象をもたらそうとする.フロィトは「夢の歪曲」について論ずる;しかし,その歪曲は,まことには,自我にとって不都合な性的悦を隠蔽することに存するのではなく,しかして,死的悦の不安を防御することに,存する.それゆえ,夢のなかで非常に強い不安ないし恐怖が経験される場合,それは,このことを示している:そこにおいて,不安に対する防御はあまり有効に機能しておらず,そして,それゆえ,その夢はあまり歪曲を被っていない.幼いセルゲイのオオカミ恐怖夢は,そのようなかなり純粋な否定存在論的孔穴の開出の表象の一例である.

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