小笠原晋也著『ラカンの教え — 精神分析と信仰』自著紹介
2024年07月に ちきゅう座の現代史研究会にお招きいただき,ラカンについて講演をおこなった御縁により,このたび出版した拙著の自著紹介を書くよう 勧めていただいた.改めて運営委員会の諸氏に感謝する.
現代思想と構造主義の文脈において 一時期 日本でも有名であったフランスの精神分析家
Jacques Lacan[ジャック ラカン](1901-1981)
に わたしが初めて外傷的に出会ったのは,1975年の春,新入生のとき,名古屋大学の現代史研究会においてであった.今や,そのときから 51年が経過する.とはいえ,それは,世界史の現状においてなおも現在的である偉大な哲人に取りくむためには,まだ十分な時間ではないかもしれない.
前著『ハィデガーとラカン — 精神分析の純粋基礎としての否定存在論とそのトポロジー』(2020年,青土社)に続いて,わたしは,このたび,新著『ラカンの教え — 精神分析と信仰』を Kindle Direct Publishing (KDP)
により 個人出版した(したがって Amazon
でのみ購入可能 ; KDP は「自費」ゼロの「自費出版」を可能にする;それは 今回 わたしにとっては とても便利なことであった;だが,紙の本として印刷されたものが一般の書店の棚に並ぶことはないので,潜在的な読者にこの本の存在を知らせる作業[要するに 宣伝,あるいは 宣教?]は わたし自身でおこなわなければならない).その内容は,前著出版以降におこなったオンラインセミナーで語ったこと,わたしのブログに書いたこと,招かれた講演で語ったこと,日々の精神分析の臨床において気づいたこと,そして,書き進めてゆくうちに新たに思いついたことに,存している.
ラカンの教え
(l’enseignement de Lacan) — 彼が我々に遺した彼の書とセミネールの総体を,フランスではそう呼ぶ.では,彼は何を我々に教えたのか ? フロイトが手探りで創始した精神分析を,純粋に(非経験論的かつ非形而上学的に)基礎づけること.何のために ? 精神分析が行きづまりに陥ることのないために,そして,新たな精神分析家を実際に養成することができるために.
精神分析を純粋に基礎づけるためにラカンが利用したものは多種多様であるが,それらのうちで最も重要な準拠は,形而上学を根本的に批判したハィデガーの思考である.ハィデガーは,彼自身の思考を「存在の思考」(das Denken des Seyns) と呼んでいる.存在 (das Seyn : das durchgekreuzte Seyn) は,彼がバツじるしで抹消した Seyn[存在]という語のことである.
それは何を表しているのか ? ハィデガー自身は答えを敢えてぼかしているので,我々はそれをこう明確化しよう:それは,『存在と時間』において始められた形而上学批判としての「存在論の伝統の破壊」(Destruktion der ontologischen
Überlieferung) の作業によって彼が見いだした源初論的な穴 — ハィデガー自身は「穴」(Loch) とは言わず,しかして「深淵」(Abgrund) と言っているが — の形式化(ラカンの用語で言うなら,mathème[学素])である.
源初において,神は 天と地を 創造した.地は,空無であった.そして,深淵のおもてを 闇が,そして,水のおもてを 神の息吹が 覆っていた.そして,神は言った:「光が存在せよ」.そして,光が存在した.
そのように存在論の破壊に存するハィデガーの「存在の思考」を,わたしは こう呼ぶ:否定存在論 (l’ontologie apophatique) —「否定神学」(la
théologie apophatique) にならって.そして,存在の穴を こう呼ぶ:否定存在論的孔穴 (le trou apophatico-ontologique).
『存在の問いについて』が発表されるや,その Sein の学素のハィデガーの思考における根本的な意義に気づき得たのは,あまたのハィデガーの研究者たちおよび読者たちのうちで,唯一,ラカンのみであった —
1957-1958年のセミネールにおいてが Sein の学素にもとづいて考案された「抹消された主体」(le
sujet barré) の学素 $ を提示していることが示唆しているように.
ハィデガーは,『存在と時間』において「存在の意味を問う」ために時間論から出発する;そして,時間性をこう定義する : ekstatische Einheit von Zukunft, Gewesenheit
und Gegenwart(将来と過去と現在との解脱的な一性).その表現を,わたしは,黙示録における神の名*のひとつにもとづいて,解釈する
: ὁ ὢν καὶ ὁ ἦν καὶ ὁ ἐρχόμενος(現に存在している者,かつ,無からの創造の源初において存在していた者,かつ,終末においてまさに来たらんとしている者).
*) 黙示録 1,04-05 を 原文のギリシャ語で読むと,その表現が固有名詞として扱われていることを見て取ることができる.
χάρις ὑμῖν καὶ εἰρήνη ἀπὸ ὁ ὢν καὶ ὁ ἦν καὶ ὁ ἐρχόμενος καὶ ἀπὸ τῶν ἑπτὰ πνευμάτων ἃ ἐνώπιον τοῦ θρόνου αὐτοῦ καὶ ἀπὸ Ἰησοῦ Χριστοῦ.
あなたたちに 恵みと平和[が与えられるように]—「[現に]存在している者,かつ,[無からの創造の源初において]存在していた者,かつ,[終末において]まさに来たらんとしている者」から および 彼の玉座のまえにある七つの息吹から および イェスキリストから.そこにおいて,ὁ ὢν καὶ ὁ ἦν καὶ ὁ ἐρχόμενος は,属格を取る前置詞 ἀπό のあとでも,ギリシャ語以外の言語の固有名詞のように,属格に変化せず,主格のまま 置かれている.
すなわち,ハィデガーは,現在性
(Anwesenheit) としての存在という「図」を,そこから出発して存在事象が創造されたところの源初論的な穴 および そこへ存在事象が滅するところの終末論的な穴という「地」のうえに位置づけている.
かくして,三つの主要なテーマ — ラカン(精神分析),ハイデガー(形而上学批判),一神教(信仰)— は,一点へ収斂する:終末論.というのも,このゆえに:ラカンは,欲望主体の昇華の実現としての精神分析の終結について問い続けた;ハイデガーは,形而上学の彼方における存在の歴史の終末としての
Ereignis(出来事,自有)について思考し続けた;そして,一神教は,終末の日にメシアが到来することによって救済は完成されると信じ続けている.また,精神分析の過程と,ハィデガーの存在の歴史と,一神教の救済の歴史は,ラカンが四つの言説として形式化した弁証法的な過程によって,捉えなおされる.それら三つの過程の終着点は,この同じひとつのことである:我々が,神の意志を代理し,それを宣べ伝え,それを実行する者となること.
『ラカンの教え — 精神分析と信仰』においては,そのほか,フロィトの諸概念の否定存在論的再解釈,Jacques-Alain
Miller によるラカン解釈に対する批判,そして,いくつかの有名症例の再解釈も,展開されている.


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