2022年7月25日

不正な家政管理人の譬えを ギリシァ語の原文で 読む

 
Marinus van Reymerswale (um 1490 - um 1546)
Gleichnis vom untreuen Verwalter*
不正な家政管理人の譬え

不正な家政管理人の譬えを ギリシァ語の原文で 読む




「不正な(または,賢い)家政管理人」[ ὁ οἰκονόμος τῆς ἀδικίας, ὁ οἰκονόμος ὁ φρονίμος ] と呼ばれる 譬え (Lc 16,01-13) は,そこにおいて 不正を働く者を Jesus が褒めているように 見えるので,不可解な話です.ギリシァ語の原文を参照しつつ,注意深く読んでみましょう:

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1 Ἔλεγεν δὲ καὶ πρὸς τοὺς μαθητάς,

1 さらに 彼 [ Jesus ] は 弟子たちに 言った:

Ἄνθρωπός τις ἦν πλούσιος ὃς εἶχεν οἰκονόμον, καὶ οὗτος διεβλήθη αὐτῷ ὡς διασκορπίζων τὰ ὑπάρχοντα αὐτοῦ.

ある裕福な者が いた.彼は,ひとりの家政管理人を 持っていた.そして,その者は,彼の財産を浪費する者として,彼に対して 告発された.

2 καὶ φωνήσας αὐτὸν εἶπεν αὐτῷ,

2 そこで,彼は,その者を呼んで,彼に 言った:

Τί τοῦτο ἀκούω περὶ σοῦ ; ἀπόδος τὸν λόγον τῆς οἰκονομίας σου, οὐ γὰρ δύνῃ ἔτι οἰκονομεῖν.

いったい,おまえについて,わたしは 何を 聞いているか? おまえの家政管理の 決算書を 提出しろ.なぜなら,おまえは もはや 家政管理をすることはできないからだ.

3 εἶπεν δὲ ἐν ἑαυτῷ ὁ οἰκονόμος,

3 そこで,彼[家政管理人]は 自身のなかで 言った:

Τί ποιήσω, ὅτι ὁ κύριός μου ἀφαιρεῖται τὴν οἰκονομίαν ἀπ᾽ ἐμοῦ ; σκάπτειν οὐκ ἰσχύω, ἐπαιτεῖν αἰσχύνομαι.

わたしの主人が わたしから 家政管理[の職]を取り上げるからには,わたしは どうしようか? わたしは,耕す力を持ってはいないし,乞食をするのは 恥ずかしい.

4 ἔγνων τί ποιήσω, ἵνα ὅταν μετασταθῶ ἐκ τῆς οἰκονομίας δέξωνταί με εἰς τοὺς οἴκους αὐτῶν.

4 何をすべきか,わたしは 知っている — わたしが家政管理[の職]から解かれたならば,いつでも,彼らが わたしを 彼らの家へ 迎え入れてくれるためには.

5 καὶ προσκαλεσάμενος ἕνα ἕκαστον τῶν χρεοφειλετῶν τοῦ κυρίου ἑαυτοῦ ἔλεγεν τῷ πρώτῳ,

5 そして,彼は,自分の主人の負債者たちを ひとり ひとり 呼んで,最初の者に 言った:

Πόσον ὀφείλεις τῷ κυρίῳ μου ;

あなたは わたしの主人に対して どれほどの負いめを 負っているか?

6 ὁ δὲ εἶπεν,

6 そこで,その者は 言った:

Ἑκατὸν βάτους ἐλαίου.

油 100 バトス.

ὁ δὲ εἶπεν αὐτῷ,

そこで,彼は その者に 言った:

Δέξαι σου τὰ γράμματα καὶ καθίσας ταχέως γράψον πεντήκοντα.

あなたの書類[借用書]を 取って,急いで 座り,50 と書きなさい.

7 ἔπειτα ἑτέρῳ εἶπεν,

7 次いで,彼は,もうひとりの者に 言った:

Σὺ δὲ πόσον ὀφείλεις ;

で,あなたは,どれほどの負いめを 負っているか?

ὁ δὲ εἶπεν,

その者は 言った:

Ἑκατὸν κόρους σίτου.

小麦 100 コロス.

λέγει αὐτῷ,

彼は,その者に 言った:

Δέξαι σου τὰ γράμματα καὶ γράψον ὀγδοήκοντα.

あなたの書類を 取って,80 と書きなさい.

8 καὶ ἐπῄνεσεν ὁ κύριος τὸν οἰκονόμον τῆς ἀδικίας ὅτι φρονίμως ἐποίησεν· ὅτι οἱ υἱοὶ τοῦ αἰῶνος τούτου φρονιμώτεροι ὑπὲρ τοὺς υἱοὺς τοῦ φωτὸς εἰς τὴν γενεὰν τὴν ἑαυτῶν εἰσιν.

8 すると,主人は,不正義の家政管理人を 褒めた — なぜなら,彼が賢くふるまったから;なぜなら,この世の息子たちは,自身の同族に対しては,光の息子たちよりも,より賢いから.

9 Καὶ ἐγὼ ὑμῖν λέγω, ἑαυτοῖς ποιήσατε φίλους ἐκ τοῦ μαμωνᾶ τῆς ἀδικίας, ἵνα ὅταν ἐκλίπῃ δέξωνται ὑμᾶς εἰς τὰς αἰωνίους σκηνάς.

9 そこで,わたし [ Jesus ] は あなたたちに 言う:不正義の mammon によって あなたたち自身のために 友を作りなさい — それ[不正義の mammon]が尽きるや,彼らが あなたたちを 永遠の住まいへ 迎え入れてくれるように.

10 ὁ πιστὸς ἐν ἐλαχίστῳ καὶ ἐν πολλῷ πιστός ἐστιν, καὶ ὁ ἐν ἐλαχίστῳ ἄδικος καὶ ἐν πολλῷ ἄδικός ἐστιν.

10 いと小さきことについて信頼可能な者は,大きなことについても信頼可能だ.また,いと小さきことについて不正な者は,大きなことについても不正だ.

11 εἰ οὖν ἐν τῷ ἀδίκῳ μαμωνᾷ πιστοὶ οὐκ ἐγένεσθε, τὸ ἀληθινὸν τίς ὑμῖν πιστεύσει ;

11 かくして,もし あなたたちが 不正な mammon について 信頼可能でなかったならば,誰が 真正なるものを あなたたちに 信託するだろうか?

12 καὶ εἰ ἐν τῷ ἀλλοτρίῳ πιστοὶ οὐκ ἐγένεσθε, τὸ ὑμέτερον τίς ὑμῖν δώσει ;

12 そして,もし あなたたちが 他者のものについて 信頼可能でなかったならば,誰が あなたたちに あなたたち自身のものを 与えるだろうか?

13 οὐδεὶς οἰκέτης δύναται δυσὶ κυρίοις δουλεύειν· ἢ γὰρ τὸν ἕνα μισήσει καὶ τὸν ἕτερον ἀγαπήσει, ἢ ἑνὸς ἀνθέξεται καὶ τοῦ ἑτέρου καταφρονήσει. οὐ δύνασθε θεῷ δουλεύειν καὶ μαμωνᾷ.

13 ふたりの主人に仕え得る 家事奴隷は ひとりも いない.なぜなら,家事奴隷は,一方を憎み,他方を愛することになるか,あるいは,一方を崇め,他方を蔑むことになるか だからだ.あなたたちは,神に仕え かつ mammon に仕えることは できない.


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さて,ギリシァ語原文を見ると 一目で気がつくように,この譬えでは οἶκος[家]という語に由来する語が いくつか 使われています : οἰκονόμος[家政管理人],οἰκονομία[家政管理],οἰκονομέω[家政管理をする],οἰκέτης[家事奴隷].そして,「不正な家政管理人」の譬えのなかでは 用いられていませんが,οἶκος[家]と語根を共有する動詞 οἰκέω は「住まう」です(後ほど引用する箇所に 出てきます).

οἰκονομία は economy[経済]の語源です.そして,οἰκονομία の 語源は οἰκονόμος です.では,οἰκονόμος とは 何か? 古典期(紀元前 5 – 4 世紀)の 古代ギリシァ社会においては,家政管理を司るのは その家の主人 [ κύριος ] にほかなりませんでした.しかし,新約聖書が書かれたローマ帝政の時代,使用人や家事奴隷を有するような 裕福な家では,家政業務を担当する者(多くの場合,奴隷 または 解放奴隷)が 雇われていました.「不正な家政管理人」の譬えに登場する οἰκονόμος は,それです.彼は,彼が仕える主人に対して 誰が どれほどの負債を負っているか(そして,場合によっては,主人が 誰に対して どれほどの負債を負っているか)を 記録し,その帳簿を管理しています.つまり,彼は,主人の資産管理を任されています.さらに,より時代がくだると,οἰκονόμος は ある団体や組織の財務の責任者のことになります.

ともあれ,この「不正な家政管理人」は 何を表わしているのか? それは,わたしたち自身です.譬えのなかの「主人」(κύριος) は,主なる神(神なる主)ですから,彼に仕える家政管理人 [ οἰκονόμος ] は,わたしたち自身のことにほかなりません.

実際,パウロは こう言っています:「あなたたちは 神の神殿であり,あなたたちのうちには 神の息吹が 住まっている」[ ναὸς θεοῦ ἐστε καὶ τὸ πνεῦμα τοῦ θεοῦ οἰκεῖ ἐν ὑμῖν ] (1 Cor 3,16).

つまり,神は,わたしたちの生を,神の息吹が — つまり,神 自身が — 住まう [ οἰκεῖν ] 家として,わたしたち各々に 与えています.そして,神は,さらに,わたしたちが 神の家としての わたしたちの生を どう生きるか という 家政管理 [ οἰκονομία ] を,わたしたち各々に 任せています.

しかし,わたしたちは 皆,神の家であるわたしたちの生の家政管理において,何らかの不正を犯しています — だからこそ,わたしたちは 皆,罪人なのです.

そして,この世における わたしたちの生は,いつか,「死」という der absolute Herr[絶対的な支配者,絶対的な主]によって わたしたちから 取り上げられます.そのとき,わたしたちは,わたしたち自身がそれであるところの〈神の〉家の 家政管理の 決算を 報告するよう,神から 求められます.

あるいは,キリスト者であるわたしたちの実存は Jesus の παρουσία[臨在,再臨]を 我々の生がそれであるところの〈神の〉家のなかに ek-sistieren[解脱実存]させることに存する限りにおいて,わたしたちは,常に 終末論的覚悟において 生きているのですから,如何なるときも わたしたち自身の人生の家政管理の決算報告をする準備ができているはずです.

さて,その決算のとき,主は,わたしたちに こう問いかけます:飢えていた わたしに,あなたは 食べるものを 与えたか? 渇いていた わたしに,あなたは 飲むものを 与えたか? 異邦人であった わたしを,あなたは 迎え入れたか? 裸であった わたしに,あなたは 服を 着せたか? 病んでいた わたしを,あなたは 見まったか? 牢にいた わたしに,あなたは 会いに来たか? (cf. Mt 25,31-46). 要するに,「わたしがあなたたちを愛したように,あなたたちは 互いに 愛し合いなさい」(Jn 13,34) という 主の命令を,あなたたちは どれほど実行したか?

Jesus が列挙している以外にも,隣人愛の実践は さまざまです.問題の譬えの家政管理人は,隣人が負っている「負いめ」[ ὀφείλημα ] — つまり「罪」[ ἁμαρτία ] — を 軽くしてやります.

家政管理人が隣人たちに対して問う問い :「あなたは わたしの主人に どれほどの負いめを負っているか?」[ πόσον ὀφείλεις σὺ τῷ κυρίῳ μου ; ] (v. 5) のなかで 使われている 動詞 ὀφείλω[負いめを負う]から 派生した 名詞 ὀφείλημα[負いめ]と ὀφειλέτης[負いめを負っている者:負債者]は,「主の祈り」のなかで 用いられています:

καὶ ἄφες ἡμῖν τὰ ὀφειλήματα ἡμῶν ὡς καὶ ἡμεῖς ἀφήκαμεν τοῖς ὀφειλέταις ἡμῶν (Mt 6,12).

その一節は,典礼のなかでは「わたしたちの罪を お赦しください;わたしたちも 人を赦します」と 訳されていますが,その直訳は こうです:

そして,わたしたちの負いめを わたしたちから 取り去ってください — わたしたちも わたしたちの負債者[わたしたちに対して負いめを負っている者]たちから[彼らの負いめを]取り去ったように.

隣人愛の実践の命令は,主による命令です.もし わたしたちの隣人が 主の命令に従順でないならば,確かに 彼または彼女は わたしたちに対しても負いめを負います.しかし,根本的には,彼または彼女が負いめを負っているのは 主に対してです.そして,罪を完全に赦すことができるのは,主のみです.

しかし,わたしたちの隣人の〈わたしたちに対する〉負いめを,わたしたちは 赦すことができます.

注を差しはさむと,わたしたちは,主の祈りのなかで,「わたしたちは 赦しました」[ ἡμεῖς ἀφήκαμεν ] と 完了形で 言います.しかし,実際に わたしたちは そう言うことが できるでしょうか? つまり,よく見てみると,わたしたちは このことに気づかされます:主の祈りは,「あなたたちの隣人の〈あなたたちに対する〉負いめを 赦せ」という 主の命令を 包含している.ただし,それは「あなたの隣人である誰かが あなた個人に対して どれほどひどいことをしても,あなたは 泣き寝入りしなさい」ということではありません.というのも,主の祈りは,「わたしたち」という信仰共同体の次元の祈りであるからです.

話をもとに戻すと,ともあれ,この譬えの家政管理人は,隣人たちの負いめを 部分的にのみ 軽減しています — 負いめを すべて 帳消しにし得るのは 主のみですから.

わたしたちも,わたしたちの隣人が わたしたちに対して 負いめを負ったとき,それを赦すことができます.そうすれば,主は わたしたちの φρονίμως ποιεῖν[賢い ふるまい](v. 8) を 褒めてくれるでしょう.そして,そうするとき,わたしたちは,わたしたち自身が主に負っている負いめを帳消しにしてくれるよう,主に願うことが できます.

ところで,「この世の息子たちは,自身の同族に対しては,光の息子たちよりも より賢い」(v. 8) における「光の息子たち」とは 何でしょうか?

その節において「光の息子たち」に対置されている「この世の息子たち」[ οἱ υἱοὶ τοῦ αἰῶνος τούτου ] という表現は,ルカ 20,34 にも 見出されます.その節は,復活を認めないサドカイ人たちが Jesus に論戦を挑む 場面 (Lc 20,27-40) における Jesus の〈彼らに対する〉答えに 属しています.

サドカイ人たちは Jesus に この問いを 措定します:「七人兄弟が いた.一番上の者が ある女と結婚したが,子どもをもうけぬままに 死んだ.律法 (cf. Dt 25,05-06) にしたがって,二番めが彼女と結婚したが,彼も 子どもをもうけぬままに 死んだ.以下,七番めに至るまで,残りの兄弟 すべてが 順々に 彼女と結婚したが,皆,彼女との子どもをもうけぬままに 死んだ.そして,最後に 彼女も 死んだ.もし死者たちが復活するならば,そのとき 彼女は 七人のうちの誰の妻となるのか?」

この問答は マタイ 22,23-33 と マルコ 12,18-27 でも 物語られています.しかし,ルカは,マタイやマルコには見出されない 独自の表現を用いて,Jesus に 答えさせています (Lc 20,34-36) :

そして,Jesus は 答えて 彼らに 言った:

この世の息子たち [ οἱ υἱοὶ τοῦ αἰῶνος τούτου ] は,めとり,めとられる.だが,〈あの世と 死者たちのなかからの復活とを〉得るにふさわしいと判断された者たち [ οἱ καταξιωθέντες τοῦ αἰῶνος ἐκείνου τυχεῖν καὶ τῆς ἀναστάσεως τῆς ἐκ νεκρῶν ] は,めとりも めとられも しない.そも,彼らは もはや 死に得ない.そも,彼らは 天使に等しい [ ἰσάγγελοί εἰσιν ]. そして,彼らは 神の息子である [ υἱοί εἰσιν θεοῦ ] — 復活の息子でありつつ [ τῆς ἀναστάσεως υἱοὶ ὄντες ].

そこにおいて ルカは「この世の息子たち」[ υἱοὶ τοῦ αἰῶνος τούτου ] に対して「神の息子たち」[ υἱοί θεοῦ ] および「復活の息子たち」[ υἱοὶ τῆς ἀναστάσεως ] を 対置しています.確かに,今 生きている 我々 キリスト者は,皆,「神の息子」です — わたしたちを神の息子としてくれる 聖なる息吹 [ πνεῦμα υἱοθεσίας ] (Rm 8,15) を受けたことにおいて.しかし,上のルカの一節における「神の息子たち」は,「死者たちのなかから〈永遠のいのちへ〉復活した者たち」という意味における「復活の息子たち」です — なにしろ,彼らは「もはや死に得」ず,「天使に等しい」とさえ 言われているのですから.

「光の息子たち」(Lc 16,08) —「この世の息子たち」との対置における — とは それである — つまり,「死者たちのなかから〈永遠のいのちへ〉復活した者たち」のことである — と解釈することができるでしょう.

彼らは,既に 天の国にいるのですから,わたしたちに対して 直接 何かをすることは できません — わたしたちの願いを主にとりなしてくれることはできるでしょうが.

それに対して,「この世の息子たち」である わたしたちは,わたしたちの隣人(わたしたちの「同族」)の〈わたしたちに対する〉負いめを 直接 取り去ることができます.そのことにおいて,「この世の息子たち」である わたしたちは,「光の息子たち」よりも「より賢い」[ φρονιμώτεροι ] のです.

さて,最後に μαμωνᾶς (mammona, mammon) です.「不正義の mammon」[ ὁ μαμωνᾶς τῆς ἀδικίας ] ないし「不正な mammon」[ ὁ ἄδικος μαμωνᾶς ] とは 何でしょうか?

新約聖書のギリシャ語 μαμωνᾶς は,アラム語の単語に由来します.「あなたたちは,ふたりの主人 — 神と mammon と — の両方に仕えることは できない」(Mt 6,24 ; Lc 16,13) が 諺として 引用されるとき,その mammon は,通常,偶像化された貨幣 — あるいは,物質的な富 — と 解釈されます.

しかし,ルカ福音書では,「不正義の mammon が 尽きるや,友たちが あなたたちを 永遠の住まい [ αἱ αἰώνιοι σκηναί ] へ迎え入れてくれるように」(v. 9) と言われています.

σκηνή は,神の住まいとしての「幕屋」のことです.ここでは,「永遠の」が付されてさえいますから,「永遠の住まい」は「神の国」のことです.

つまり,Jesus は わたしたちに こう勧めているのです:不正義の mammon によって あなたたち自身のために 友[複数]を作りなさい — 不正義の mammon が 尽きるや,彼らが あなたたちを 神の国へ 迎え入れてくれるように (v. 9).

ということは,不正義の mammon は,物質的な富というよりは,むしろ,わたしたちの〈この世における〉生 そのもの を 指している,と読むことが できます.実際,「尽きる」と訳した動詞 ἐκλείπειν は,太陽や月が「蝕」(eclipse) により「消える」ことだけでなく,しかして,端的に「死ぬ」ことでもあります.ですから,「不正義の mammon」[ ὁ μαμωνᾶς τῆς ἀδικίας ] は,「わたしたち罪人の 地上的な生」のことであり,そして,「不正義の家政管理人」[ ὁ οἰκονόμος τῆς ἀδικίας ] は「不正義の資産を管理する者」つまり「罪深い生を生きている わたしたち」自身のことです.

Jesus は わたしたちに「不正義の mammon によって 友を 作りなさい」と勧めます.確かに,そこだけを読むと,Jesus が不正なことを奨励しているように 見えます.しかし,「友」[ φίλος ] という名詞は,「愛する」と訳される ふたつの動詞 φιλεῖν と ἀγαπᾶν を介して,ἀγάπη[愛]をも 喚起します.とすれば,「不正義の家政管理人」がしたように「不正義の mammon によって 友を 作る」ことは,「この世に生きている間,隣人たちを愛し,隣人たちの負いめを赦す」ことである,と解することができます.わたしたちがそうすれば,主も わたしたちの罪を 赦してくれます.そして,わたしたちは「永遠の住まい」(天の国)へ入れてもらうことができます.

次に,vv. 10-12 における πιστός について.それは,文脈上は「信頼可能な者」ですが,ほかの文脈では「信ずる者」,つまり「信者」です.「わたしたちの主 Jesus Christ は 永遠のいのちへ 復活した と 信ずる者」です.この一節においてかかわっているのは,わたしたちの πίστις[信仰]です.

ですから,「いと小さきことについて信頼可能な者は,大きなことについても信頼可能である.また,いと小さきことについて不正な者は,大きなことについても 不正である」(v. 10) は,こう読めます:この世の生において隣人を愛することができる者は,心から神をも愛しており,神の愛を信じている者である.また,この世の生において隣人を憎む者は,Jesus の愛の命令に背く 不正な者であり,そのような者は,神の愛をも信じない 不正な者である.

実際,第 1 ヨハネ書簡 (4,20) でも こう言われています:「そも,目に見える兄弟を愛さない者は,目に見えない神を愛し得ない」.

「もし あなたたちが 不正義なる mammon について 信頼可能な者でないならば,誰が 真正なるもの [ τὸ ἀλητινόν ] を あなたたちに 信託 [ πιστεύειν ] するだろうか?」(v. 11) という問いかけにおいて,「不正義なる mammon」と「真正なるもの」[ τὸ ἀλητινόν ] とが対置されています.「不正義なる mammon」が わたしたちの〈この世における〉生であれば,「真正なるもの」は 永遠のいのちに ほかなりません.文脈上,他動詞として「信託する」と訳される πιστεύειν は,聖書の ほかの箇所の 大多数においては 自動詞「信ずる」です.とすれば,あの問いかけは,こう読めます:この世の生において神の愛と隣人愛を生きていない者は,信仰において永遠のいのちを生きることもできない.

「もし あなたたちが 他者のものについて 信頼可能な者でなかったなら,誰が あなたたち自身のものを あなたたちに 与えるだろうか?」(v. 12) は,こう読めます:もし わたしたちが 神の愛を信ずることにおいて 隣人愛を実践し,他者の存在を尊重しないならば,神は,わたしたち自身の最も本来的な存在である 永遠のいのちを わたしたちに 与えてはくれないだろう.

わたしたちは,「神と mammon との両方に仕えることはできない」(v. 13). そう聴くとき,わたしたちは,神の愛によって生きる わたしたちについて Jesus がこう言っていることを 思い起こします : οὐκ εἰσὶν ἐκ τοῦ κόσμου, καθὼς ἐγὼ οὐκ εἰμὶ ἐκ τοῦ κόσμου[彼らは この世に由来する者では ない — わたしがこの世に由来する者ではないのと 同様に](Jn 17,14). わたしたちの最も本来的ないのちは,この世の生ではなく,永遠のいのちです.神の愛に浸されて 永遠の命において 生きる わたしたちは,もはや この世の偶像に仕えるのではなく,しかして,愛する神と愛する隣人たちに 仕えます.

以上に見たように,Jesus が不正な行いを褒め,奨励しているかのように 見える「不正な家政管理人」の譬えにおいて かかわっているのは,罪の赦しです.鍵言葉は,動詞 ὀφείλειν[負いめを負う]です.上にも見たように,その派生語が ふたつ 主の祈りにおいても 用いられています.

Papa Francesco も ひごろから 強調しているように,わたしたちは 皆,罪人です.日常生活において,神に対しても 互いに対しても 罪を犯し,「不正義の mammon」を 生きています.しかし,わたしたちが 洗礼において 神の愛のなかに浸されたとき,神は わたしたちの罪を 赦してくれました.神の愛において,わたしたちが 皆,互いを愛し合い,互いに 罪を赦し合うことができますように.


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* 冒頭に提示した Marinus van Reymerswale の 絵において,向かって左側の男は 不正な家政管理人です.では,向かって右側の男は 誰か? どうやら,この譬えを語っている Jesus Christus のようです.というのも,Marinus van Reymerswale は,Jesus を こんなふうに 描いているからです(この絵は「マタイの召命」):


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