Henryk Siemiradzki (1843-1902)
Christ with Martha and Maria
マルタとマリアのエピソード (Lc 10,38-42) を ギリシァ語の原文で 読む
年間 第 16 主日(2022年7月17日)の 福音朗読 :「マルタとマリア」(Lc 10,38-42) について,幾人かの神父さまが,「マルタは いろいろのもてなしのために せわしく立ち働いていた」(40) という文の動詞 περισπάω(辺縁へ引っ張る;受動態では:注意が,ひとつの中心的なことに 集中せずに,さまざまな辺縁的なことの方へ 引かれる)の意味に 言及していました.しかし,その動詞だけでなく,この一節 全体を ギリシァ語の原文で 読んでみると,とても明瞭な対置に 気づくことができます:
38 Ἐν δὲ τῷ πορεύεσθαι αὐτοὺς αὐτὸς εἰσῆλθεν εἰς κώμην τινά· γυνὴ δέ τις ὀνόματι Μάρθα ὑπεδέξατο αὐτόν εἰς τὸν οἶκον αὑτῆς.
38 さて,彼らの歩みの途上,彼 [ Jesus ] は,ある村へ入った.すると,ある女 — 名は Martha — が,彼を,彼女の家へ 迎え入れた.
39 καὶ τῇδε ἦν ἀδελφὴ καλουμένη Μαριάμ, ἣ καὶ παρακαθεσθεῖσα παρὰ τοὺς πόδας τοῦ κυρίου, ἤκουεν τὸν λόγον αὐτοῦ.
39 そして,彼女には,Maria と呼ばれる 妹[または 姉]がいた.彼女も,主の足のそばに座って,彼のロゴスを聴いていた.
40 ἡ δὲ Μάρθα περιεσπᾶτο περὶ πολλὴν διακονίαν· ἐπιστᾶσα δὲ εἶπεν,
Κύριε, οὐ μέλει σοι ὅτι ἡ ἀδελφή μου μόνην με κατέλιπεν διακονεῖν ; εἰπὲ οὖν αὐτῇ ἵνα μοι συναντιλάβηται.
40 だが,Martha は,多くの奉仕をめぐって 気を取られていた.そして,彼女は,[Jesus の]近くに立って,言った:
主よ,あなたには 気にならないのですか,わたしの妹がわたしだけに奉仕させていることが? さあ,彼女に言ってください,わたしの手伝いをするように と.
41 ἀποκριθεὶς δὲ εἶπεν αὐτῇ ὁ κύριος,
Μάρθα Μάρθα, μεριμνᾷς καὶ τυρβάζῃ περὶ πολλά,
41 すると,主は,答えて 彼女に言った:
Martha よ,Martha よ,あなたは,多くのことをめぐって 心配し,混乱している.
42 ἑνὸς δέ ἐστιν χρεία· Μαριὰμ γὰρ τὴν ἀγαθὴν μερίδα ἐξελέξατο ἥτις οὐκ ἀφαιρεθήσεται αὐτῆς.
42 だが,唯一のことの必要だけが ある.そも,Maria は 善い分けまえを 選び取った.それが彼女から取り去られることは ないだろう.
ギリシァ語の原文を読むと,まず,この対置が 目にとまります:動詞の接頭辞 παρα- と περι- との 対置 — つまり,παρακαθέζομαι[そばに座る]の παρα- と περισπῶμαι[注意が 辺縁的なことがらの方へ 引かれる]の περι- との 対置.その対置は,前置詞の対置として繰り返されることによって,より いっそう 強調されています.つまり,παρὰ τοὺς πόδας τοῦ κυρίου[主の足のそばに]の παρά と περὶ πολλὴν διακονίαν[多くの奉仕をめぐって]の περί との 対置.
そして,目にとまる〈もうひとつの〉対置は,πολλά[多]と ἕν[一:いち]との 対置です.テクストにおいては,「多」という語は,περὶ πολλὴν διακονίαν[多くの奉仕をめぐって]および περὶ πολλά[多くのことをめぐって]において 用いられています — いづれの場合も περί[をめぐって]を 前置詞として.それに対して,「一」[いち]という語は,ἑνὸς δέ ἐστιν χρεία[だが,唯一のことの必要だけが ある]において,用いられています.
「唯一のこと」は,ロゴスとしての Jesus です.彼が 中心を成しています.Maria は その「そば」で — παρὰ τοὺς πόδας τοῦ κυρίου[主の足のそばで]— παρακάθεσθαι[そばに座る]しています(παρά が 敢えて 二度 使われることによって,「そば」が強調されています).そして,彼女は,Jesus の ロゴスを じっと 聴いています.
それに対して,Martha は περισπᾶσθαι[注意が,中心にある唯一的な神のロゴスに集中せず,辺縁にある多数の存在事象へ 引かれている]の状態にあります.そのとき,唯一的な神のロゴスは 中心から おしのけられてしまいます.そして,その代わりに中心を成すのは「多数の存在事象」です.かくして,Martha の注意と関心は,多数の存在事象の周りを 混乱しながら 巡ることになります.
Jesus は,当然,「神のロゴスをじっと聴く Maria こそが 善い分け前を選び取った」と言って,神のロゴスを聴くことを Martha にも 勧めます.
このエピソードは,昨今,gender roles にかかわる話として 社会学的な観点から論ぜられることもあります.しかし,わたしとしては,やはり,それを,ひとつの allegoria として読みたいと思います.すなわち,Maria は,唯一的な神のロゴスをじっと聴く態度を表わしています,それに対して,Martha は,世の多数の存在事象に気を取られて,神のロゴスを聴くことを見失ってしまっている態度を,表わしています.わたしたちは,日常生活のなかで Martha の状態に陥りがちです.ですから,祈りにおいて Maria の態度を取り戻す必要があります.
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