2021年9月26日

ある日本文学研究者の追加質問に答えて


ある日本文学研究者の追加質問に答えて




早稲田大学 文学研究科 博士課程で 川端康成 (1899-1972) の文学について 研究している 馮 思途 氏の いくつかの質問に 答えるために,9月12日付の記事を 書きました.それに対して,彼は,いくつかの追加質問を 送ってきました.それらに答えるために,この記事を書きます.


否定存在論的孔穴について:

「否定存在論」(l’ontologie apophatique) も「否定存在論的孔穴」(le trou apophatico-ontologique) も,わたしの造語です.わたし以外,誰も用いていませんし,誰も用いることはないでしょう.

9月12日付の回答のなかでも述べたように,「否定存在論」は Heidegger の das Denken des Seyns存在 の 思考]のことです(そのままだと 見えにくいので,赤色で示します).しかし,「穴」(Loch) という語 — たとえば 宇宙物理学で言う black hole は ドイツ語では schwarzes Loch です — は,彼の思考の語彙には 属していません.代わりに,彼は,Abgrund[深淵],Ab-grund[深淵的な基礎,基礎としての深淵],Riß[裂けめ],Zerklüftung[裂けめ]などの語を 用いています.

Lacan は「穴」(trou) という語を より積極的に 使っています.しかし,彼の思考における その語の 本質的な重要性を 十分に強調している ラカニアンは,多分,わたし以外には いません.

いずれにせよ,穴について問うという思考は,トポロジックな思考です.それを,Heidegger も Lacan も 共有しています.

勿論,世界のどこを見まわしても,宇宙のどこを探索しても,源初論的孔穴は 目に見える形で 見出されるわけではありません.その直接的な証拠を提示することは できません.しかし,その代理 ないし その表象は,さまざまな形で 出現します — 芸術作品において,夢において,等々.

Freud が「無意識」の名称のもとに発見したものを,Lacan は,生物学(医学)にも 心理学にも 還元せず,而して,トポロジックに「人間存在の中核に口を開く穴」と捉えます.それは 否定存在論の基本的な考え方です.

しかも,Freud が 無意識を発見したのは 19世紀であって,それ以前ではなかった.ということは:無意識の穴は,18世紀までは塞がれていたが,19世紀に その穴塞ぎが無効になったことによって 口を開いた.

Michel Foucault を読んでいる あなたなら,それは coupure épistémologique[エピステモロジックな 切れめ]である,と言うでしょう.しかし,Foucault の その概念は,実は,Heidegger と Lacan に 基づいています.Foucault は Heidegger を 丹念に読んでいましたし,また,彼は,一時期,Lacan の セミネールを 聴講していました(後に 彼は 精神分析に対して 批判的になりますが).

Lacan が Freud をとおして 否定存在論的孔穴に気づいたのに対して,Heidegger は どのように それに気づいたのか ? それは,形而上学的な存在論の批判をとおしてです.

そのことを 我々は 彼の Sein und Zeit[存在と時間](1927) において 読み取ることができます.しかし,Heidegger を 初めて読む人に対して わたしが 勧めているのは 彼の『ニーチェ』講義(原著英訳邦訳)です.それは,1936-1940年に為された講義と 1940-1946年に執筆された論文に もとづいて 1961年に 二分冊の形で 出版された 本です(彼の Gesamtausgabe[全集]の 第 6 巻).大著ですが,『存在と時間』よりも はるかに 読みやすく,そして,読んで おもしろい 本です.もし あなたが この本を読んで おもしろいと感ずることができないなら,あなたには Heidegger は あまり向いていない,と 言ってもよいほどです.

そこにおいて Heidegger が 論じているのは,Nietzsche において読み取ることにできる〈形而上学の歴史の「満了」(Vollendung) としての〉Nihilismus[nihilism, nihilisme, 虚無主義,ニヒリズム]と Nietzsche による その超克の試みです.

ニヒリズムは,基本的には,このことに存します : Platon 以来 歴史的に最高の価値と見なされてきたもの — イデア的なもの,形而上学的なもの,そして,哲学者と神学者が「神」と呼んできたもの — の価値が 現代では 失われてしまった(その喪失の穴は,否定存在論的孔穴にほかなりません).その喪失に対して,受動的な態度において 不安におののき 悲嘆し 絶望する者も います(受動的ニヒリズム — その代表例は Schopenhauer).他方,その喪失の穴を再び塞ぐために,能動的に 穴塞ぎとなるものを措定しようとする者も います(能動的ニヒリズム — その代表例は Nietzsche).

我々は,今も,基本的に言って,ショーペンハウアー的態度 または ニーチェ的態度の いずれかを 取っています.しかし,「それらの いずれによっても ニヒリズムを超克することはできない;むしろ,ニヒリズムを 形而上学の歴史の必然的な帰結と 捉え,形而上学そのものの基礎を 批判せねばならない」— Heidegger は そう考えます.

形而上学とは,τὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]ないし τὸ ὂν ᾗ ὄν[存在としての存在]について 思考する 思考です.ですから,形而上学とは 本質的に言って 存在論です.

Platon は,τὸ ὄντως ὄνἰδέα[イデア]と 名づけます.源初に 本当に存在するものとしての イデアが あった — それが,形而上学の主導的命題です.

それに従う限り,現代のニヒリズムは「本当に存在するもの」の価値が 失われた ということであり,それを超克するためには,「本当に存在するもの」ないし その代わりになる価値を 改めて措定せねばならない,ということになります.

そして,Nietzsche は まさに そのことを 実行しました — Wille zur Macht[力への意志]と ewige Wiederkunft des Gleichen[同じものが 永遠に 回帰すること,永劫回帰]を 措定することによって.

しかし,それらは 明白に paranoisch[妄想的]な 構築物です.我々としては,それらを以て ニヒリズムは超克された と 見なすことは とてもできません.

Heidegger の 選んだ道は,Platon の イデア論 そのものを 批判することです.つまり,「源初に 本当に存在するものとしての 存在が 存在した」という形而上学の主導命題を 批判することです.

それによって,Heidegger は,形而上学の源初とは異なる もうひとつの ほかの源初 について 問うことになります.それを 彼は,Sein[存在]という語を バツ印で 抹消することによって,指ししるします:


「存在」を抹消することは,形而上学の基礎 (Grund) を 抹消することです.そのとき,存在 は ひとつの Abgrund[深淵]となります.が,それは 同時に Ab-grund[深淵的な基礎,基礎としての深淵]でもあり得ます.

そのような 源初論的な 存在 の 穴 を措定することは,形而上学の この思いこみを 否定することです :「源初においては 何も欠けてはおらず,すべては完璧であった;もし 今 何らかの欠如や欠落や欠陥が見出されるとすれば,それは,源初より後に 何かが欠けたからである」.

そうすることによって,我々は,何らかの新たな価値を妄想的に措定することによってニヒリズムを超克しようとする 不可能な試みを 断念することができます.

そして,そのとき,ニヒリズムの超克の可能性は このことに存することになります:源初論的な 存在 の 穴を 穴として受けいれ,その 存在 の 穴を 我々自身 生きること.

源初に ひとつの Ab-grund の 穴が あった — そのことを 我々は 実は 聖書の冒頭に 見出すことができます(Heidegger は 明確に そう指摘しては いませんが).旧約聖書です.つまり,ユダヤ民族が 神との関係において 古代ギリシャ文明の黄金時代よりも前に 書き上げた テクストです.

その最初の書『創世記』は こう始まります :「源初において,神は 天と地を 創造した.そのとき,地は 無定形であり 空虚であった.闇が 深淵のおもてにあった.そして,神の息吹が 水のおもてに 動いていた」.

その「深淵」という語(ヘブライ語では תְּהוֹם [ tehom ], ギリシャ語では ἄβυσσος[この語は,英語の abyss および フランス語の abysse の 語源であり,ドイツ語では Abgrund と訳され得ます])は「源初論的な穴」(否定存在論的孔穴)を 指している — 我々は そう読むことができます.

この創世記の冒頭は,「無からの創造」(creatio ex nihilo) という 神学の概念を 動機づけています.また,「無からの創造」は,終末論 (eschatology, eschatologie) とも 相関的です — もっとも,その終末は,単純に すべてが無に帰することではなく,而して,永遠の命[いのち]における救済に 存します.

「無からの創造」と 終末論は,ユダヤ教と キリスト教と イスラム教に 共有されています.ほかの文化圏(日本を含む中国文化圏,ヒンズー教が支配的なインド文化圏)にとっては 異質な考え方です.しかし,「無からの創造」と 終末論にもとづかない限り,現代の最大の問題である「ニヒリズムの超克」に取り組むことは できません.

穴は源初論的であり,それを 塞ぐことも 隠すことも 決して できない.そのことを自覚すれば,我々は,穴を塞いだり隠したりする試みを 断念することができます — それは達成不可能な試みですから.そして,我々自身,穴として生きる という 終末論的な覚悟における生き方を 生きることができます.精神分析の終結において成起する「欲望の昇華」は,それにほかなりません.

ですので,お勧めする読書は,Heidegger と 神学です.ただし,Heidegger は ドイツ語で読まないと 本当には読むことはできません.ドイツ語で読めなければ,せめて 英訳で読んでください.邦訳では読めません(ただし,ドイツ語はできないが Heidegger を読んでみたいと思っている日本人には,わたしは,先ほども言及した 彼の『ニーチェ』講義の邦訳を 勧めています).Heidegger は 中国語には翻訳されているでしょうか?

神学に関しては,キリスト教を 中国文化や日本文化には異質なものとして 敬遠している限り,あなたの思考が深まることはない,と わたしは断言します(カトリックであるわたしがそう言っても 眉唾ものだ と あなたは思うでしょうが).

神に対して心を閉ざし続ける社会が どうなるか — 着々と自滅に向かいつつある 今の日本社会は その典型例です.

神学を学ぶためには,まず 聖書を読む必要があります(聖書は神学書ではありませんが).

神学そのものに関する入門書は 何がよいか?これは難問です.早稲田大学の図書館で探してみてください.ただ,キリスト教神学も 非常に多様です.わたし自身はカトリックですから,やはり,プロテスタントの著者の本よりは,カトリックの著者の本を お勧めしたいと思います.今 Google で探したところ,フランス語原著の『カトリック神学入門』が 目にとまりました.図書館にあるでしょうか?


神経衰弱 (Neurasthenie) について:

Neurasthenie は,19世紀に 広く通用していた概念ですが,今の精神医学においては もはや 疾病単位 (clinical entity) とは 見なされていません.

もし 男女の性別に関連づけるなら,ヒステリーが女性の病理であるとすれば,男の病理の代表例は 強迫神経症 (Zwangsneurose, obsessive-compulsive disorder) です.しかし,強迫神経症は 女性でも 珍しくはありませんし,男性のヒステリー患者も います.

いずれにせよ,「神経衰弱」を論じようとすることは,もはや時代錯誤です.

男女の性別に関しては,否定存在論的孔穴を塞ぐ phallus に準拠する必要があります.が,ここでは その問題には 立ち入りません.


川端康成の「記憶」に関して:

川端康成の父は 彼が 19ヶ月のときに死に,ついで 彼の母も 彼が 2歳 7ヶ月のときに死んだ という 伝記的な事実は,彼が とても幼いときに 死の穴(喪失の穴)に直面させられた ということを 示しています.死の穴との直面の経験は,当然,彼に対して外傷的に作用したはずです.だからこそ,その記憶は 排斥(Verdrängung,「抑圧」)されました.彼は 両親の死そのものについて みづからは 何も想起することはできない.その代わりに,親戚の人々の言葉が 想起される.つまり,それらの言葉は 彼にとって 死の穴を 塞ぐ あるいは 隠すものです.

彼の作品は 両親の死の穴をめぐりつつ為された創造である と 言うことができるかもしれません — たとえ 死が主題的に扱われてはいない作品でも.しかし,結局,彼は喪を克服することはできなかったのではないか — 彼の 72歳での 自殺は そのことを示唆しているように 思われます.

わたしは,川端康成の作品のなかで読んだことがあるのは,『伊豆の踊子』と『雪国』だけなので,確たることは何も言えません.しかし,彼の自殺の理由は 単純な伝記的研究では 見えてこないだろう ということは 確かでしょう.ノーベル文学賞の誉れを受けた 72歳の作家が,病苦も無いのに,何故 自殺を選んだのか ? 幼児期の死の穴の経験 以外に,説得力のある答えを見出すのは,困難でしょう.

0 件のコメント:

コメントを投稿