Joyce le Symptôme (la version conférence)
症状 ジョイス(講演版)[1]
Jacques Lacan
Je ne suis pas dans ma meilleure forme aujourd’hui, pour toutes sortes de raisons.
わたしは 今日 体調が あまり よくない — あらゆるたぐいの理由によって.
[4] Lacan は,Finnegan のなかに fin[終わり]を 読み取らせている.
Je rectifie pourtant –, ptom, p’titom, p’titbonhomme vit encore, dans la langue qui s’est crue obligée, entre autres langues, de ptômer la chose coïncidente. Car c’est ce que ça veut dire.
C’est une supposition – il se serait reconnu si je pouvais aujourd’hui lui parler encore. Il serait centenaire, et ce n’est pas l’usage – ce n’est pas l’usage de poursuivre la vie aussi longtemps, ce serait une drôle d’addition.
Sortant d’un milieu assez sordide, Stanislas pour le nommer – enfant de curé, quoi, comme Joyce, mais de curé moins sérieux que les siens, qui étaient des jésuites, et Dieu sait ce qu’il a su en faire –, bref, émergeant de ce milieu sordide, il se trouve qu’à dix-sept ans, grâce au fait que je fréquentais chez Adrienne Monnier, j’ai rencontré Joyce. De même que j’ai assisté, quand j’avais vingt ans, à la première lecture de la traduction française qui était sortie d’Ulysse.
わたしは,この事実に その証言を 見出す:すなわち,[Finnegans Wake という表題の]ふたつめの語 Wake[覚醒,徹夜祭,前夜祭,通夜]にもかかわらず 目覚めのない この夢の 一群の登場人物たちのなかに — 一連の〈Finnegans Wake の〉登場人物たちのなかに — あの双子の兄弟 — Shem と Shaun [34] — がいる ということ.Shem のことを Shemptôme [35] と呼ぶのを 許したまえ.
[34] Shem は,創世記において,ノアの息子たち三人のうちの長男の名であるが,語音の類似により Jim の名を連想させる.Jim は James(Joyce の名)の愛称形である.Shaun は アイルランド語の Sean の英語化された表記であり,アイルランド語の Sean は 英語の John(フランス語の Jean)に相当する.
[35] Finnegans Wake において,Shem は,Shem the Penman と呼ばれている(すぐ後で Lacan も the penman に言及している)ように,Joyce の alter ego である と見なされている.したがって,Shemptôme は Joyce le Symptôme の言い換えである.
[40] s’abonner à は,定期的に発行ないし出版される新聞や雑誌など または 定期的に行われるよう企画された演奏会や上演会などの入場券を 毎回 購入することを 予約すること.désabonner は abonnement[定期的な予約購読,予約購入]を 中止すること.「Joyce は 無意識の定期購読をやめた」とは「Joyce は 無意識が発するメッセージを読むことをやめた」ということ.あるいは,「無意識を定期購読する」という表現は「精神分析を経験する」ということを指すかもしれない — 分析者(analysant : 精神分析の患者)は,定期的に 面接に来ては,その都度,代金を支払うのであるから.
Il faudrait continuer ce questionnement de l’œuvre majeure et terminale, de l’œuvre à quoi en somme Joyce a réservé la fonction d’être son escabeau. Car de départ, il a voulu être quelqu’un dont le nom, très précisément le nom, survivrait à jamais. À jamais veut dire qu’il marque une date. On n’avait jamais fait de littérature comme ça. Et pour, ce mot littérature, en souligner le poids, je dirai l’équivoque sur quoi souvent Joyce joue – letter, litter. La lettre est déchet. Or, s’il n’y avait pas ce type d’orthographe si spécial qui est celui de la langue anglaise, les trois quarts des effets de Finnegans seraient perdus.
Si le lecteur est fasciné, c’est de ceci que, conformément à ce nom qui fait écho à celui de Freud – après tout, Joyce a un rapport à joy, la jouissance, s’il est écrit dans lalangue qui est l’anglaise –, que cette jouasse, cette jouissance est la seule chose que de son texte nous puissions attraper. Là est le symptôme.
[52] Joyce の 詩集 Chamber Music (1907) は,こう始まっている:
[55] lom は l’homme[男,人間]の lalangue 表記.Lacan は,書版の Joyce le Symptôme においては,最初のページで LOM を持ち出している.
Ce faisant, j’introduis quelque chose de nouveau, qui rend compte non seulement de la limitation du symptôme, mais de ce qui fait que c’est de se nouer au corps, c’est-à-dire à l’imaginaire, de se nouer aussi au réel, et, comme tiers à l’inconscient, que le symptôme a ses limites. C’est parce qu’il rencontre ses limites qu’on peut parler du nœud.
Le nœud est assurément quelque chose qui se chiffonne, qui peut prendre la forme d’un peloton, mais qui, une fois déplié, garde sa forme de nœud, et du même coup son ex-sistence.
[1] 1975年06月16-20日,第 5 回 International James Joyce Symposium が Paris で 行われた.Lacan は,Jacques Aubert の要請に応えて,その初日(16日)に 開会講演を Sorbonne の大講堂で 行った.このテクストは,その場における Éric Laurent のメモにもとづいて(というよりは おそらく 録音にもとづいて)Jacques-Alain Miller が 作成したもの.1987年に Navarin éditeur から 出版された Joyce avec Lacan に,同名の表題の書版 (la version écrite) とともに,収録された(Joyce avec Lacan には,ほかに,Séminaire XXIII の 初回講義,Jacques Aubert のテクスト など が 収録されている).現在は,Seuil 版 の Le Séminaire XXIII (1975-1976) Le sinthome に 収録されている.
Avec l’agrément de Jacques Aubert, à l’insistance duquel vous devez de me voir ici – Jacques Aubert qui est un éminent joycien, et dont la thèse sur l’esthétique de Joyce est un ouvrage éminemment recommandable – j’ai pris comme titre Joyce le Symptôme.
Jacques Aubert [2] の同意を以て,わたしは[この講演を]Joyce le Symptôme[症状 ジョイス]と 題した.あなたたちが わたしがここにいるのを 見ているのは 彼の強い要請のおかげだ.彼は 傑出したジョイス研究者であり,彼の〈Joyce の美学に関する〉博士論文は 特に お勧めの著作だ.
[2] Jacques Aubert (1932-2020), Université de Lyon II 教授,James Joyce の専門的な研究者,翻訳者.Introduction à l'esthétique de James Joyce[ジェィムズ ジョイス の 美学 への 導入](Didier Érudition, 1973).
[2] Jacques Aubert (1932-2020), Université de Lyon II 教授,James Joyce の専門的な研究者,翻訳者.Introduction à l'esthétique de James Joyce[ジェィムズ ジョイス の 美学 への 導入](Didier Érudition, 1973).
Là-dessus, vous allez me pardonner de poursticher un moment – cela ne va pas durer – le Joyce de Finnegans Wake, qui est le rêve qu’il lègue, mis comme un terme à – quoi ? C’est ce que je voudrais essayer de dire. Ce rêve met, à l’œuvre, fin – Finnegan – de ne pouvoir mieux faire.
そこで,しばしの間 — わたしの話は 長くは続かない — わたしが Finnegans Wake の Joyce を 腐れ模倣する [3] ことを 許したまえ.Finnegans Wake は,Joyce が遺した夢 — ひとつの終止符として置かれた夢 — である.何に対して ? それを わたしは 言おうと 試みたい.その夢は[Finnegans Wake という]作品に 終わり Finnegan [4] を つける — よりよくできはしないがゆえに.
[3] Lacan は,pasticher[模倣する,pastiche を作る]と言う代わりに,poursticher と言っている.この pour- の部分には 次の段落に出てくる pourriture[腐敗]を読み取ることも できるかもしれない.その場合,poursticher は「腐れ模倣する:腐敗した模造品を作る」となるだろう.
[4] Lacan は,Finnegan のなかに fin[終わり]を 読み取らせている.
Je reprends. Pourquoi vouloir que la pourriture dont l’homme pourspère – qui sonne comme « pourrir en espérant» –, pourquoi vouloir que la journiture qui nous enfourne de nouvelles, transmette correctement mon titre ? Jacques Lacan, ils ne savent même pas ce que c’est, Jules Lacue, ça ferait aussi bien – c’est d’ailleurs la prononciation anglaise de ce que nous appelons, dans la langue nôtre, la queue. Pourquoi imprimeraient-ils Joyce le Symptôme ? Jacques Aubert le leur communique, alors ils foutent Jacques le Symbole. Tout ça, bien sûr, pour eux, c’est du kif.
続けよう.なぜ[このことを]欲するのか — それによって人間が 腐れ繁栄する [5] ところの腐敗 [6] —「希望によって腐敗する [7]」と 聞こえるだろう — が... 我々のなかにニュースを詰め込む「腐れジャーナリズム [8]」が わたしの[Joyce le Symptôme という]表題を正しく伝える ということを ? 彼らは Jacques Lacan とは何なのか すら 知らない — Jules Lacue [9] であっても かまわない.そもそも,それは,我々が フランス語において la queue と呼ぶところのものの英語的な発音 [10] である.なぜ 彼らは Joyce le Symptôme と[正しく]印刷するだろうか ? Jacques Aubert が 彼らに Joyce le Symptôme[症状 ジョイス]と 伝えても,彼らは Jacques le Symbole[象徴 ジャック]と やるだろう.勿論,Joyce le Symptôme だろうと Jacques le Symbole だろうと,彼らにとっては 同じことだ.
[5] prospérer[栄える]の代わりに Lacan は pourspérer と言っている.pour- には pourrir[腐敗する]を読むことができる.
[6] pourriture[腐敗]は nourriture[栄養,食物]を 連想させる.
[7] pourspérer の pour- には pourrir[腐敗する]を,-spérer には espérer[希望する]を 読むことができる.
[8] journiture < journalisme[ジャーナリズム]+ pourriture[腐敗]
[9] Jules は,人名であるが,フランス語の普通名詞としては「恋人,情夫,夫,ひも」(つまり,ある女性と何らかの性的な関係にある男のこと)でもある.フランス語の女性名詞 queue は「尾」であるが,俗語的意味では「男性性器」,「性交相手としての男」である.
[10] フランス語単語 la queue は,英語的に発音されれば,lacue と聞こえる.
[9] Jules は,人名であるが,フランス語の普通名詞としては「恋人,情夫,夫,ひも」(つまり,ある女性と何らかの性的な関係にある男のこと)でもある.フランス語の女性名詞 queue は「尾」であるが,俗語的意味では「男性性器」,「性交相手としての男」である.
[10] フランス語単語 la queue は,英語的に発音されれば,lacue と聞こえる.
Du sym qui ptôme au sym qui bole, qu’est-ce que ça peut bien faire au bosom d’Abraham, où le tout-pourri se retrouvera en sa nature de bonneriche pour l’étournité ?
ptôme する sym [11] から bole する sym [12] へ — それは,いったい,アブラハムの懐 [ bosom ] [13] と 如何なるかかわりを有するのか ? そこにおいては[アブラハムの懐においては]完全に腐った者 - いと小さき者 [14] が 軽率永遠に [15] 善良裕福な [16] 質[たち]に 戻るだろう.
[11] Lacan は,名詞 symptôme を分割して,le sym qui ptôme[ptôme する sym]と言っている.彼が le sym と言うとき,我々は そこに le saint[聖人]をも 聴き取ることができる.他方,ptômer という動詞は フランス語には 無い.が,symptôme の 語源 σύμπτωμα が そこから派生したところの動詞 συμπίπτω[ともに落ちる,遭遇する,(ある出来事が)起きる]は 接頭辞 σύν[ともに]と 動詞 πίπτω[落ちる,倒れる]に分解される.
[12] Lacan は,名詞 symbole を分割して,le sym qui bole[bole する sym]と言っている.やはり,le sym に 我々は le saint を聞くことができる.また,フランス語には boler という動詞は無いが,先ほどの symptôme と同様に,symbole の 語源 σύμβολον[割り符,ある identity の証拠となる何らかの徴]が そこから派生したところの動詞 συμβάλλω[いっしょに投げる,ひとつにする,ひとつになる,集める,集まる,会う,契約をする]は,接頭辞 σύν[ともに]と 動詞 βάλλω[投げる]とに 分解される.
[13] アブラハムの懐 [ bosom of Abraham ] — Lacan は,ここで,フランス語で le sein d’Abraham とは言わず,英語の名詞 bosom[胸,ふところ]を用いている.「アブラハムの懐」は,第 2 神殿期 (516 BCE – 70 CE) のユダヤ教において形成された概念であり,冥府[よみ]のなかで 義人のために用意された 安らぎの場所 を指す.そのギリシャ語表現 ὁ κόλπος Ἀβραάμ は 新約聖書のなかにも 見出される (e.g. Lc 16,22). 英語 bosom[胸,女性の乳房]は,その字面においても 意味においても,bottom[下部,底,尻,肛門,女性性器]を想起させる.
[14] 原文では三行からなる このパラグラフにおいて,Lacan は,ルカ福音書 16,19-31 の「金持ちとラザロの喩え」を念頭に置いているように思われる.実際,そこにおいて「アブラハムの懐」(ὁ κόλπος Ἀβραάμ) という表現が 使われている (Lc 16,22). この le tout-pourri[完全に腐った者]という語は le tout-petit[いと小さき者]を 音の近似において 想起させる.
[12] Lacan は,名詞 symbole を分割して,le sym qui bole[bole する sym]と言っている.やはり,le sym に 我々は le saint を聞くことができる.また,フランス語には boler という動詞は無いが,先ほどの symptôme と同様に,symbole の 語源 σύμβολον[割り符,ある identity の証拠となる何らかの徴]が そこから派生したところの動詞 συμβάλλω[いっしょに投げる,ひとつにする,ひとつになる,集める,集まる,会う,契約をする]は,接頭辞 σύν[ともに]と 動詞 βάλλω[投げる]とに 分解される.
[13] アブラハムの懐 [ bosom of Abraham ] — Lacan は,ここで,フランス語で le sein d’Abraham とは言わず,英語の名詞 bosom[胸,ふところ]を用いている.「アブラハムの懐」は,第 2 神殿期 (516 BCE – 70 CE) のユダヤ教において形成された概念であり,冥府[よみ]のなかで 義人のために用意された 安らぎの場所 を指す.そのギリシャ語表現 ὁ κόλπος Ἀβραάμ は 新約聖書のなかにも 見出される (e.g. Lc 16,22). 英語 bosom[胸,女性の乳房]は,その字面においても 意味においても,bottom[下部,底,尻,肛門,女性性器]を想起させる.
[14] 原文では三行からなる このパラグラフにおいて,Lacan は,ルカ福音書 16,19-31 の「金持ちとラザロの喩え」を念頭に置いているように思われる.実際,そこにおいて「アブラハムの懐」(ὁ κόλπος Ἀβραάμ) という表現が 使われている (Lc 16,22). この le tout-pourri[完全に腐った者]という語は le tout-petit[いと小さき者]を 音の近似において 想起させる.
「金持ちとラザロの喩え」において,Jesus は こう物語っている:ある金持ちの家の前で 乞食ラザロは 病気と飢えで 死ぬ.同じとき 金持ちも死ぬ.冥府で,金持ちは拷問を受ける.ラザロは アブラハムの懐で 安らいでいる.金持ちは アブラハムに 救いを求めるが,アブラハムは それを冷たく拒絶する.
生前,乞食ラザロは 全身に皮膚潰瘍を病んでおり,犬が彼の潰瘍をなめにくる,と 述べられている.le tout-pourri[完全に腐った者]は,そのラザロの状態を指している と 読める.そして,乞食ラザロは tout-petit[いと小さき者]でもある.
このパラグラフに続く 三つのパラグラフで Lacan は sinthome すなわち saint homme[聖人]を導入する.「金持ちとラザロの喩え」に登場する 乞食ラザロは 聖人とは見なされていないが,ヨハネ福音書 11 章で Jesus が 死から復活させる ラザロ(ルカ福音書 11,38-42 で Jesus をもてなすマルタとマリアの兄弟)は,マルタとマリアとともに 聖人として 敬われている.聖人 (saint homme – sinthome) であるラザロは,義人と同様に,確かに,アブラハムの懐に居場所を有している.
[15] pour l’étournité < pour l’éternité[永遠に]+ étourneau[ムクドリ,軽率な者]
[16] Lacan は bonneriche と言っている.bonniche は「若い女中」,bonne は「女中」であるが,ともに bon[良い,善い]の派生語である.riche は「豊かな,裕福な,金持ちの」であり,「金持ちとラザロの喩え」における「金持ち」は le riche である.ただ,死後,冥府においては,金持ちとラザロとの関係は 生前におけるそれに対しては逆転しており,ラザロがアブラハムの懐で豊かな宴会に与っているのに対して,金持ちは 地獄の火のなかで 渇きに苦しんでいる.
[15] pour l’étournité < pour l’éternité[永遠に]+ étourneau[ムクドリ,軽率な者]
[16] Lacan は bonneriche と言っている.bonniche は「若い女中」,bonne は「女中」であるが,ともに bon[良い,善い]の派生語である.riche は「豊かな,裕福な,金持ちの」であり,「金持ちとラザロの喩え」における「金持ち」は le riche である.ただ,死後,冥府においては,金持ちとラザロとの関係は 生前におけるそれに対しては逆転しており,ラザロがアブラハムの懐で豊かな宴会に与っているのに対して,金持ちは 地獄の火のなかで 渇きに苦しんでいる.
しかしながら,わたしは訂正する — ptom, p’titom, p’titbonhomme [17] は なおも 生きている —[フランス語という]言語のなかで — その言語は,ほかの言語とともに,同時的に生ずること [18] を ptômer [19] せねばならない と 思い込んでいる.そも,それが その言わんとするところだ [20].
[17] ptom は,symptôme (σύμπτωμα) に含まれる ptôme(πτῶμα : 落ちること,倒れること,災害,災難)を lalangue の断片として 表記したものである.次の p’titom は,ptom の p と tom の間に ’ti を挿入して 得られる lalangue の断片であり,我々は それを petit homme[小さな男,地位や序列のうえで下位に位置づけられる男]と読むことができる.三つめの p’titbonhomme は 明らかに petit bonhomme と読める.この場合,petit は,単純に「小さい」ではなく,親愛の気持ちを表す形容詞である.bonhomme は「善人」ではなく,「お人よし」あるいは 単純に「男」である.ここでは,この petit bonhomme は「聖人」(saint) のことである と 解釈することができる.
[18] Lacan は coïncidence と言っている.この語は,すぐ後で Lacan が言及する Bloch et von Wartburg による フランス語語源辞典 Dictionnaire étymologique de la langue française (1932) の symptôme の項において,ギリシャ語 σύμπτωμα の本来の意義として挙げられている.つまり,σύμπτωμα とは,ある出来事と同時に 付帯的に 生じ,その同時発生性によって その出来事そのものを指ししるすものとなる 徴 のことである.
[19] Lacan は 再び ptômer を 他動詞として用いている.この場合,その意義は「二重子音 pt のうち p を 脱落させる」ことであろう — それによって,σύμπτωμα から sinthome が得られる.
[20] Lacan は « c’est ce que ça veut dire »[それが その言わんとするところだ]と言っているが,この言葉は一義的に解釈しがたい.ひとつには:二重子音 pt のうち p を脱落させることが,πτῶμα(落とすこと)の言わんとするところだ;もうひとつには : σύμπτωμα という語の本来の意義は coïncidence である — つまり,ある出来事と同時に 付帯的に 生じ,その同時発生性によって その出来事そのものを指ししるすものとなる 徴,それが σύμπτωμα である.
[17] ptom は,symptôme (σύμπτωμα) に含まれる ptôme(πτῶμα : 落ちること,倒れること,災害,災難)を lalangue の断片として 表記したものである.次の p’titom は,ptom の p と tom の間に ’ti を挿入して 得られる lalangue の断片であり,我々は それを petit homme[小さな男,地位や序列のうえで下位に位置づけられる男]と読むことができる.三つめの p’titbonhomme は 明らかに petit bonhomme と読める.この場合,petit は,単純に「小さい」ではなく,親愛の気持ちを表す形容詞である.bonhomme は「善人」ではなく,「お人よし」あるいは 単純に「男」である.ここでは,この petit bonhomme は「聖人」(saint) のことである と 解釈することができる.
[18] Lacan は coïncidence と言っている.この語は,すぐ後で Lacan が言及する Bloch et von Wartburg による フランス語語源辞典 Dictionnaire étymologique de la langue française (1932) の symptôme の項において,ギリシャ語 σύμπτωμα の本来の意義として挙げられている.つまり,σύμπτωμα とは,ある出来事と同時に 付帯的に 生じ,その同時発生性によって その出来事そのものを指ししるすものとなる 徴 のことである.
[19] Lacan は 再び ptômer を 他動詞として用いている.この場合,その意義は「二重子音 pt のうち p を 脱落させる」ことであろう — それによって,σύμπτωμα から sinthome が得られる.
[20] Lacan は « c’est ce que ça veut dire »[それが その言わんとするところだ]と言っているが,この言葉は一義的に解釈しがたい.ひとつには:二重子音 pt のうち p を脱落させることが,πτῶμα(落とすこと)の言わんとするところだ;もうひとつには : σύμπτωμα という語の本来の意義は coïncidence である — つまり,ある出来事と同時に 付帯的に 生じ,その同時発生性によって その出来事そのものを指ししるすものとなる 徴,それが σύμπτωμα である.
Référez-vous au Bloch et von Wartburg, dictionnaire étymologique qui est d’une assiette solide, vous y lisez que le symptôme s’est d’abord écrit sinthome.
フランス語の語源辞典 Bloch et von Wartburg [21] を 参照したまえ.それは,堅固な台座に据えられている.あなたたちは そこに このことを読むだろう:すなわち,symptôme は まずは sinthome と書かれていたのだ.
[21] Oscar Bloch (1877-1937) と Walther von Wartburg (1888-1971) による Dictionnaire étymologique de la langue française (1932).
[21] Oscar Bloch (1877-1937) と Walther von Wartburg (1888-1971) による Dictionnaire étymologique de la langue française (1932).
Joyce le sinthome fait homophonie avec la sainteté, dont quelques personnes ici peut-être se souviennent que je l’ai télévisionnée.
Joyce le sinthome [ Joyce le saint homme ] は,聖性[聖人であること]と 同音となる.「聖人である」ことについて わたしは Télévision のなかで語った [22] ということを 思い出す者が ここには 多分 幾人か いるだろう.
[22] cf. Autres écrits, pp.519-520. そこにおいて,Lacan は,精神分析の経験の終結に至った者としての 精神分析家 の存在 —「精神分析家 で ある」こと — を「聖人である」(être un saint) こととして 考えている.
[22] cf. Autres écrits, pp.519-520. そこにおいて,Lacan は,精神分析の経験の終結に至った者としての 精神分析家 の
Si on poursuit un peu la lecture de cette référence dans le Bloch et von Wartburg en question, on s’aperçoit que c’est Rabelais qui du sinthome fait le symptomate. Ce n’est pas étonnant, c’est un médecin, et symptôme devait avoir déjà sa place dans le langage médical, mais ce n’est pas sûr. Si je continue dans la même veine, je dirai qu’il symptraumatise quelque chose.
問題の Bloch et von Wartburg のなかの symptôme に関する注釈を もう少し 読み続けると,このことに気がつく:すなわち,Rabelais [23] は sinthome を symptomate と表記していた.それは,驚くべきことではない.彼は 医師であり,symptôme という語は 医学の言語のなかでは 既に その座を有していたはずであろう — だが,確かではない.同じ着想で続けるなら,わたしは こう言う : symptôme[症状]は 何ごとかを symptraumatiser [24] している.
[23] François Rabelais (1483-1553) : Pantagruel (1532) と Gargantua (1534) の著者.
[24] symptraumatiser には symptomatiser と traumatiser とを 読み取ることができる.symptomatiser は「何ごとかを ある症状によって 表す,指ししるす」こと.traumatiser は「...に 外傷を与える」こと.したがって,symptromatiser は「外傷を与えられた何ごとかを 何らかの症状によって 表わす,指ししるす」こと.
[23] François Rabelais (1483-1553) : Pantagruel (1532) と Gargantua (1534) の著者.
[24] symptraumatiser には symptomatiser と traumatiser とを 読み取ることができる.symptomatiser は「何ごとかを ある症状によって 表す,指ししるす」こと.traumatiser は「...に 外傷を与える」こと.したがって,symptromatiser は「外傷を与えられた何ごとかを 何らかの症状によって 表わす,指ししるす」こと.
L’important n’est pas pour moi de pasticher Finnegans Wake – on sera toujours en dessous de la tâche –, c’est de dire en quoi je donne à Joyce, en formulant ce titre, Joyce le Symptôme, rien de moins que son nom propre, celui où je crois qu’il se serait reconnu dans la dimension de la nomination.
わたしにとって重要なのは,Finnegans Wake を模倣することではない — そのような課題を達成することは とてもできないだろう.わたしにとって重要なのは,これを言うことである:何において わたしは この Joyce le Symptôme[症状 ジョイス]という表題を公式化するとき Joyce に まさに 彼の固有名 以外の何ものでもないものを 与えているのか — 彼の固有名,すなわち,そこにおいて 彼は 命名 [25] の次元において 彼自身を 認めるであろう と 思われるところのもの.
[25] Lacan は,Séminaire XXII (1974-1975) R.S.I. において,le réel[実在性]と le symbolique[徴示性]と l’imaginaire[仮象性]とに対する 第 4 の要素を nomination[命名]と呼んでいる — その場合,「命名」とは,「書かれないことをやめない」もの(不可能)としての 実在性 を 代理する「書かれることをやめない」もの(必然)としての 実在性 のことである.その第 4 の要素は,Séminaire XXIII (1975-1976) Le sinthome においては,le réel R, le symbolique S, l’imaginaire I とに対して,le sinthome Σ と呼ばれることになり,そして,Séminaire XXI (1973-1974) Les non-dupes errent においては,nodalité[ボロメオ結合性]と呼ばれていた.Lacan は nodalité という用語を,1974年以降,積極的に 再利用してはいないが,我々は それを 四つ輪のボロメオ結びの 第 4 の輪の機能の名称として 登用する.Les Noms-du-Père[複数形における 父の名]と 同音異義の表題を 付された 1973-1974年の Séminaire XXI および それ以降の 時期に 父の機能について 問うとき,Lacan は この〈四つ輪のボロメオ結びの〉第 4 の輪の機能 — 命名 と ボロメオ結合性 — のことを 考えている.そして,それは,「欲望の昇華」としての 愛 [ l'amour en tant que sublimation du désir : cf. Séminaire X L'angoisse ] —「性関係は無い」の穴を代補するものとしての 愛-結合性 [ l'amour-nodalité qui supplée au trou du non-rapport sexuel : cf. Séminaire XX Encore ] — のことでもある.
それは 仮定である — もし 仮に わたしが 今日 なおも 彼に 語りかけることが できるならば,彼は[彼の症状に]彼自身を認めるであろう.彼 [ James Joyce : 1882-1941 ] は[もし生きていれば]100歳くらいになっているだろう — 普通は,そのように長く生き続けはしない.[そのように長く生き続けるのは]たいした勘定だ.
Rencontre
出会い
Sortant d’un milieu assez sordide, Stanislas pour le nommer – enfant de curé, quoi, comme Joyce, mais de curé moins sérieux que les siens, qui étaient des jésuites, et Dieu sait ce qu’il a su en faire –, bref, émergeant de ce milieu sordide, il se trouve qu’à dix-sept ans, grâce au fait que je fréquentais chez Adrienne Monnier, j’ai rencontré Joyce. De même que j’ai assisté, quand j’avais vingt ans, à la première lecture de la traduction française qui était sortie d’Ulysse.
かなりさもしい環境 — 名を挙げるなら Collège Stanislas [26] — から出て... そこでは わたしは 神父の生徒だった... Joyce と同様に... だが,彼の教師であった神父たちはイェズス会士だが — 彼が 神父たちのことを どう思っていたかは,神のみぞ知る —,わたしのところの神父たちは さほど まじめではなかった... 要するに,わたしは,あのさもしい環境から出て,たまたま,17歳のときに,Adrienne Monnier の 書店 [27] に 足しげくかよっていたおかげで,Joyce の作品に 初めて 出会った.また,同様に,20 歳のとき,発表されたばかりの Ulysses のフランス語訳が初めて朗読された場に 居あわせた.
[26] Collège Stanislas は,1804年,Claude Liautard 神父により創立された カトリック教育機関.特定の修道会とは無関係.Lacan は,初等教育と中等教育を 計 12 年間にわたり そこで 受けた.
[27] Adrienne Monnier (1892-1955) は,1915-1951年,7, rue de l’Odéon で,書店 La Maison des Amis des Livres を営んでいた.そこで,彼女は,当時の前衛的な文学作品の本の販売と貸し出しを行っていた.彼女のパートナー Sylvia Beach (1887-1962) は,英文学専門書店 Shakespeare and Company を 1919年に パリ市内に開設し,1921年に その店は 12, rue de l’Odéon に移転した(ドイツ軍によるパリ占領にともない,1941年に閉店).Sylvia Beach は,1922年,英国と米国で発禁処分を受けていた Ulysses の初版を Paris で出版した.
[26] Collège Stanislas は,1804年,Claude Liautard 神父により創立された カトリック教育機関.特定の修道会とは無関係.Lacan は,初等教育と中等教育を 計 12 年間にわたり そこで 受けた.
[27] Adrienne Monnier (1892-1955) は,1915-1951年,7, rue de l’Odéon で,書店 La Maison des Amis des Livres を営んでいた.そこで,彼女は,当時の前衛的な文学作品の本の販売と貸し出しを行っていた.彼女のパートナー Sylvia Beach (1887-1962) は,英文学専門書店 Shakespeare and Company を 1919年に パリ市内に開設し,1921年に その店は 12, rue de l’Odéon に移転した(ドイツ軍によるパリ占領にともない,1941年に閉店).Sylvia Beach は,1922年,英国と米国で発禁処分を受けていた Ulysses の初版を Paris で出版した.
Ce sont les hasards qui nous poussent à droite et à gauche, et dont nous faisons notre destin, car c’est nous qui le tressons comme tel. Nous en faisons notre destin, parce que nous parlons. Nous croyons que nous disons ce que nous voulons, mais c’est ce qu’ont voulu les autres, plus particulièrement notre famille, qui nous parle. Entendez là ce nous comme un complément direct. Nous sommes parlés, et, à cause de ça, nous faisons, des hasards qui nous poussent, quelque chose de tramé.
[その後]偶然が 我々を 右へ 左へ 押しやる.そのような偶然から 我々は 我々の運命を作りあげる —「作りあげる」と言うのも,運命を 組紐を編むように 編むのは 我々自身であるからだ.我々は,偶然から 運命を作りあげる — なぜなら 我々は語るからだ.我々は こう思い込んでいる:我々は,我々が欲することを 言っている,と.だが,我々が言っているのは,他者たちが欲していることなのだ.より特定するなら,我々の家族 — 我々のことを語る〈我々の〉家族 [28] — が欲していることを.この「我々のことを語る」[ qui nous parle ] の nous を 直接補語として 聞きたまえ.我々は 語られている.そして,それがゆえに,我々は,我々を押しやる偶然から 織りあげられた[たくらまれた][29] 何かを 作りあげるのだ.
[28] Lacan は,notre famille qui nous parle と言ったのに続けて,この nous を直接補語と取るよう 指示している.
[29] Lacan が用いている動詞 tramer は「織る」でもあり「たくらむ」でもある.
[28] Lacan は,notre famille qui nous parle と言ったのに続けて,この nous を直接補語と取るよう 指示している.
[29] Lacan が用いている動詞 tramer は「織る」でもあり「たくらむ」でもある.
En effet, il y a une trame – nous appelons ça notre destin. De sorte que ce n’est sûrement pas par hasard, quoiqu’il soit difficile d’en retrouver le fil, que j’ai rencontré James Joyce à Paris, alors qu’il y était, pour un bout de temps encore.
実際,ひとつの たくらみ [30] が ある — 我々は それを 我々の運命と呼ぶ.それゆえ,わたしが Paris で James Joyce に出会った — 当時 彼は Paris に 住んでおり [31], さらに もうしばらくの間,Paris に住み続けた — のは 確かに 偶然によるものではない — その運命の糸をたどるのは難しいとはいえ.
[30] 名詞 trame は,動詞 tramer の「織る」との連関においては「緯糸」であるが,「たくらむ」との連関においては「たくらみ」である
[31] Joyce と 彼の家族は,1920年に Zürich から Paris に移住し,1940年,ドイツ軍による Paris 占領にともない,Zürich に戻った.
[30] 名詞 trame は,動詞 tramer の「織る」との連関においては「緯糸」であるが,「たくらむ」との連関においては「たくらみ」である
[31] Joyce と 彼の家族は,1920年に Zürich から Paris に移住し,1940年,ドイツ軍による Paris 占領にともない,Zürich に戻った.
Je m’excuse de raconter mon histoire. Mais je pense que je ne le fais qu’en hommage à James Joyce.
わたしの個人史にかかわる話をしたことを容赦願おう.だが,思うに,そうしたのは,James Joyce に対する敬意においてにほかならない.
Université et psychanalyse
大学 と 精神分析
J’ai toujours trimbalé dans mon existence, errante comme celle de tout le monde, une quantité énorme de livres – il y en a haut comme ça – dans lesquels ceux de Joyce ne vont pas plus haut que ça – les autres, ce sont ceux sur Joyce.
わたしは,人生において — 皆の場合と同様,さまよいの人生において,常に,大量の本を — 積み上げれば これほどの高さになるくらい — 持ち歩いていた.そのうち,Joyce の本は,この程度の高さにしかならない — ほかは,Joyce に関する本だ.
Ceux-là, je les lisais de temps en temps, mais je m’en suis appliqué une tripotée tous ces temps-ci, Jacques Aubert en sera le témoin. J’ai pu y voir plus que des différences – un balancement singulier dans la façon dont Joyce est reçu, et qui part du biais dont il est pris.
それらの本を,わたしは,ときおり読んでいた.しかし,最近は ずっと,多数の Joyce 関連書籍を わたし自身に課している — Jacques Aubert が そのことの証人となるだろう.それらのなかに,わたしは,相違以上のものを見出し得た.Joyce が受容されるしかたのなかには,奇妙な揺れがある.それは,彼を捉える方途に由来している.
Conformément à ce que Joyce lui-même savait qu’il lui arriverait dans le posthume, c’est l’universitaire qui domine. C’est à peu près exclusivement l’universitaire qui s’occupe de Joyce. C’est tout à fait frappant.
Joyce 自身が 彼の死後に起こるだろう と 知っていたとおりに,優勢なのは 大学人である.Joyce に取り組むのは,ほぼ全員,大学人である.それは,まったく 驚くべき事態だ.
Joyce l’avait dit : « Ce que j’écris ne cessera pas de donner du travail aux universitaires. » Et il n’espérait rien de moins que de leur donner de l’occupation jusqu’à l’extinction de l’Université. Ça en prend bien le chemin. Et il est évident que cela ne peut se faire que parce que le texte de Joyce foisonne de problèmes tout à fait captivants, fascinants, à se mettre sous la dent pour l’universitaire.
Joyce は こう言った:「わたしが書くものは,大学人たちに仕事を与えることを やめないだろう」.そして,彼が望んでいたのは,まさしく このことである:大学人たちに仕事を与え続けること — 大学が消滅するときまで.事態は,そのとおりになっている.そして,そうなっているのは,明らかに,このことのゆえにである:大学人にとって,Joyce のテクストは,食べてみるなら,実に魅力的な,魅惑的な 問題に 満ち満ちているのだ.
Je ne suis pas un universitaire, contrairement à ce qu’on me donne du professeur, du maître, et autres badinages. Je suis un analyste. Cela fait tout de suite homophonie, n’est-ce pas, avec les quatre maîtres annalistes dont Joyce fait grand état dans Finnegans, et qui ont fondé les bases des annales de l’Irlande. Je suis une autre espèce d’analyste.
わたしは 大学人ではない — 人々が わたしに 教授だの 先生だの そのほか おもしろおかしく 肩書きを与えるのに反して.わたしは 精神分析家 [ analyste ] だ.それは すぐさま 年代記作者 [ annaliste ] と 同音語となる.Joyce は Finnegans Wake において 四人の年代記作者に おおいに準拠しており,彼らは アイルランドの年代記の基礎を築いている.わたしは,ほかの類の analyste だ.
De l’analyse qui, depuis, a émergé, on ne peut pas dire que Joyce ait été mordu. Des auteurs dignes de foi, qui connaissaient bien Joyce – moi, je l’ai entrevu – qui étaient de ses amis, avancent volontiers que, s’il a freudened, s’il a freudenedé ce fredonnement, c’était avec aversion. Je crois que c’est vrai.
その後 出現した 精神分析の虫に Joyce は 噛まれたた と言うことは できない.信頼に足る著者たち — Joyce のことを よく識っており — わたしは,彼を垣間見たにすぎない — Joyce の友人であった著者たち — は,えてして こう主張している:もし Joyce が freuden した [32] としても,もし Joyce が 鼻歌で Freud の名を歌った [33] としても,それは,嫌悪感を以てであった.わたしは,それは真だ,と思う.
[32] Lacan は il a freudened と言っている.この文は 複合過去の時制の文であるが,過去分詞 freudened は,フランス語の形ではなく,英語の形を取っている.freuden という動詞は「フロイトを読む」と訳せるだろう.
[33] Lacan は il a freudenedé ce fredonnement と言っている.fredonnement は「鼻歌,ハミング」である.その語の fred- の部分には フランス語的に発音された Freud の名を 見出すことができる.il a freudenedé ce fredonnement は「フロィトの名を鼻歌で歌う」と訳せるだろう.
[32] Lacan は il a freudened と言っている.この文は 複合過去の時制の文であるが,過去分詞 freudened は,フランス語の形ではなく,英語の形を取っている.freuden という動詞は「フロイトを読む」と訳せるだろう.
[33] Lacan は il a freudenedé ce fredonnement と言っている.fredonnement は「鼻歌,ハミング」である.その語の fred- の部分には フランス語的に発音された Freud の名を 見出すことができる.il a freudenedé ce fredonnement は「フロィトの名を鼻歌で歌う」と訳せるだろう.
J’en trouverai le témoignage dans le fait que dans la constellation du rêve dont il n’y a pas d’éveil, malgré le dernier mot, Wake, dans la trame des personnages de Finnegans, il y a ces deux jumeaux – Shem, vous me permettrez de l’appeler Shemptôme, et Shaun.
[34] Shem は,創世記において,ノアの息子たち三人のうちの長男の名であるが,語音の類似により Jim の名を連想させる.Jim は James(Joyce の名)の愛称形である.Shaun は アイルランド語の Sean の英語化された表記であり,アイルランド語の Sean は 英語の John(フランス語の Jean)に相当する.
[35] Finnegans Wake において,Shem は,Shem the Penman と呼ばれている(すぐ後で Lacan も the penman に言及している)ように,Joyce の alter ego である と見なされている.したがって,Shemptôme は Joyce le Symptôme の言い換えである.
C’est comme ça, j’espère, que ça se prononce, parce que je n’ai pas consulté là-dessus Jacques Aubert, qui, pour la prononciation, m’a rudement bien soutenu pendant ce brassage.
Shaun という名は そのように発音される と 思う — というのも,それについて わたしは Jacques Aubert に問い合わせなかったからだ.彼は,この醸成期間中,発音に関して,わたしを厳しく助けてくれた.
Il y a donc le Shemptôme et le Shaun. Ils sont noués – rien de plus noué que des jumeaux. C’est à l’autre – pas à Shem, qu’il appelle, en lui additionnant un épinglage, the penman, le plumitif –, c’est à Shaun que Joyce épingle le docteur Jones. Il s’agit de cet analyste auquel Freud, qui savait ce qu’il faisait, a donné la charge de faire sa biographie. Il le connaissait bien, c’est-à-dire qu’il était sûr que Jones n’y mettrait pas la moindre fantaisie, qu’il ne se permettrait pas, entre autres, de mettre la touche, la morsure, l’agenbite of inwit. Quelque part dans Ulysse, Stephen Dedalus parle d’agenbite of inwit, de la morsure – on traduit ça en français, je ne sais pas pourquoi – de l’ensoi, alors que ça veut plutôt dire le wit, le wit intérieur, la morsure du mot d’esprit, la morsure de l’inconscient. Avec Jones, Freud était tranquille – il savait que sa biographie serait une hagiographie.
というわけで,Shemptôme と Shaun がいる.彼らは 結び合わされている — 双子ほどに結び合わされているものは 無い.Shem — Joyce は 彼を 渾名を付加して the penman と呼んでいる — の方ではなく,もうひとりの方 — Shaun の方 — に,Joyce は Doctor Jones [36] をピンどめしている.Ernest Jones, つまり,Freud が 彼の伝記を書く課題を与えた あの分析家だ.Freud は,自分が何をしているのか,わかっていた.Freud は Jones のことを よく知っていた.つまり,Freud は 確信していた — Jones は 伝記に いささかも 幻想を持ち込まないだろう,特に,脚色することを 自身に許さないだろう — agenbite of inwit [37][のゆえに]— と.Ulysses のどこかで,Stephen Dedalus は agenbite of inwit について語っている.それは,なぜかわからないが,フランス語訳では morsure de l’ensoi[即自が噛むこと]と 訳されている.しかるに,inwit は むしろ wit [38] — 内的な wit — のことだ.つまり,agenbite of inwit は,la morsure du mot d’esprit[機知の語が噛むこと,機知の語に噛まれること],無意識が噛むこと[無意識に噛まれること]である.Jones にまかせておけば,Freud は 心おだやかであった — Freud は 彼の伝記が聖人伝になるだろうことを 知っていた.
[36] Shaun は 語音の類似によって 容易に Jones を想起させる.
[37] Ayenbite of Inwyt は,ドメニコ会の修道士 Laurent du Bois が Bourgogne 公爵 Philippe II の求めに応じて フランス語で書いた 道徳的および宗教的な教えに関する 著作 La Somme le Roi[王たる大全](1279) の 1340年に作成された 英訳(ただし ケント地方の方言)の 表題である.それは,「良心の呵責」と訳され得る ラテン語の remorsus conscientiae の 文字どおりの直訳である : re-morsus con-scientiae = again-bite of in-wit[内的な知が 再び噛む こと].Joyce は Ulysses において その語を agenbite of inwit という形で用いており,それによって,agenbite of inwit という語の使用は,限られた程度においてではあるが,現代英語のなかで 復活した.
[38] 英語の wit は,ドイツ語の Witz[機知],フランス語の mot d’esprit[機知,気のきいた言葉]に相当する語であるが,ドイツ語の Witz と同様,ゲルマン語における語源を ドイツ語の動詞 wissen[知る]と 共有している.したがって,inwit は,「内的な知」すなわち「無意識の在所に仮定された知」と 解釈され得る.
[36] Shaun は 語音の類似によって 容易に Jones を想起させる.
[37] Ayenbite of Inwyt は,ドメニコ会の修道士 Laurent du Bois が Bourgogne 公爵 Philippe II の求めに応じて フランス語で書いた 道徳的および宗教的な教えに関する 著作 La Somme le Roi[王たる大全](1279) の 1340年に作成された 英訳(ただし ケント地方の方言)の 表題である.それは,「良心の呵責」と訳され得る ラテン語の remorsus conscientiae の 文字どおりの直訳である : re-morsus con-scientiae = again-bite of in-wit[内的な知が 再び噛む こと].Joyce は Ulysses において その語を agenbite of inwit という形で用いており,それによって,agenbite of inwit という語の使用は,限られた程度においてではあるが,現代英語のなかで 復活した.
[38] 英語の wit は,ドイツ語の Witz[機知],フランス語の mot d’esprit[機知,気のきいた言葉]に相当する語であるが,ドイツ語の Witz と同様,ゲルマン語における語源を ドイツ語の動詞 wissen[知る]と 共有している.したがって,inwit は,「内的な知」すなわち「無意識の在所に仮定された知」と 解釈され得る.
Évidemment, que Joyce Shaunise, si je puis dire, le Jones en question, c’est ce qui nous donne l’idée de l’importance, comme dit l’autre, d’être Ernest. Beaucoup plus que Joyce, Jones – je vous le dis parce que je l’ai rencontré – faisait la petite bouche sur le fait de s’appeler Ernest. Mais c’était sans doute à cause de la pièce de ce titre, si étonnante, de Wilde, dont Joyce fait grand état. Plus d’une fois dans Finnegans surgit cette référence à l’importance de s’appeler Ernest.
明らかに,Joyce は 問題の Jones を 言うなれば Shauniser[Shaun 化]している.そのことは,我々に,Ernest であることの重要さ [39] — ほかの者が言っているように — を わからせてくれる.Joyce より はるか 以上に,Jones は,Ernest という名を持つことに 勿体をつけていた — わたしが あなたたちに そう言うのも,わたしは彼と会ったことがあるからだ.だが,それは,おそらく,Wilde の あの驚くべき表題の戯曲のせいだろう.その戯曲を Joyce は 高く評価していた.Finnegans Wake において,一度ならず,Ernest と呼ばれることの重要さへの言及は 出現する.
[39] すぐ後でタネあかしされるように,Oscar Wilde の戯曲 The Importance of Being Earnest への言及.
[39] すぐ後でタネあかしされるように,Oscar Wilde の戯曲 The Importance of Being Earnest への言及.
Désabonné à l’inconscient...
無意識に対して 定期購読を やめた 者
Tout cela n’a portée que d’approcher ceci, que ce n’est pas la même chose de dire Joyce le sinthome ou bien Joyce le symbole.
以上のこと すべては,このことを近寄せるために ほかならない:すなわち,Joyce le sinthome と言うか または Joyce le symbole と言うかは 同じことではない.
Si je dis Joyce le Symptôme, c’est que le symptôme, le symbole, il l’abolit, si je puis continuer dans cette veine. Ce n’est pas seulement Joyce le Symptôme, c’est Joyce en tant que, si je puis dire, désabonné à l’inconscient.
わたしが Joyce le Symptôme と言うとすれば,それは,症状は 象徴を 廃している ということだ — そのような発想で続け得るなら.それは,単に Joyce le Symptôme と言うだけではない.それは,言うなれば,無意識に対して 定期購読[予約購読]を やめた者 [ désabonné [40] à l’inconscient ] としての Joyce である.
[40] s’abonner à は,定期的に発行ないし出版される新聞や雑誌など または 定期的に行われるよう企画された演奏会や上演会などの入場券を 毎回 購入することを 予約すること.désabonner は abonnement[定期的な予約購読,予約購入]を 中止すること.「Joyce は 無意識の定期購読をやめた」とは「Joyce は 無意識が発するメッセージを読むことをやめた」ということ.あるいは,「無意識を定期購読する」という表現は「精神分析を経験する」ということを指すかもしれない — 分析者(analysant : 精神分析の患者)は,定期的に 面接に来ては,その都度,代金を支払うのであるから.
Lisez Finnegans Wake, vous vous apercevrez que c’est quelque chose qui joue, non pas à chaque ligne, mais à chaque mot, sur le pun, un pun très, très particulier. Lisez-le, il n’y a pas un seul mot qui ne soit fait comme les premiers dont j’ai essayé de vous donner le ton avec « pourspère », fait de trois ou quatre mots qui se trouvent, par leur usage, faire étincelle, paillette. C’est sans doute fascinant, quoiqu’à la vérité, le sens, au sens que nous lui donnons d’habitude, y perd.
Finnegans Wake を 読みたまえ.あなたたちは このことに気がつくだろう:すなわち,それは,各行においてではなく,各語において,pun [41] で 遊んでいる 何ものか である.しかも,非常に特別な pun で.Finnegans Wake を 読みたまえ.わたしが « pourspère » で その調子を あなたたちに示そうとしたところの 幾つかの最初の例と 同じように 作られていない語は ひとつもない.それは,三つか 四つの語で できており,それらは その使われ方によって 火花を — スパンコールのようなきらめきを — 成している.それは,おそらく,魅力的である — が,まことには,意味は — 我々が「意味」という語に 通常 与える意味における意味は — そこにおいて 失われている.
[41] Lacan は 英語単語 pun を用いている.pun は,同音の単語ないし類似音の単語の異なる意義を利用する言葉遊び.
[41] Lacan は 英語単語 pun を用いている.pun は,同音の単語ないし類似音の単語の異なる意義を利用する言葉遊び.
M. Clive Hart, dans Structure and Motif in Finnegans Wake, parle de je ne sais quoi de décevant dans l’usage que Joyce fait de ce type de pun. M. Atherton, dans son livre The Books at the Wake, réfère ça à the unforeseen, l’imprévu. Ce pun, c’est plutôt le portemanteau au sens de Lewis Carroll, en quoi celui-ci est un précurseur – et pour l’avoir sans doute rencontré assez tard, Joyce a dû, résume Atherton, s’en trouver quelque peu importuné.
Clive Hart [42] は,[彼の著書]Structure and Motif in “Finnegans Wake” (1962) のなかで,Joyce による その類の pun の用い方における 何やら がっかりさせるもの について 語っている.Atherton [43] は,彼の著書 The Books at the Wake (1959, 1974) のなかで,それを the unforeseen[予見されていないもの,思いがけないもの]に帰している.この pun は,むしろ,Lewis Carroll の言う意味における 旅行鞄語 [44] あり,そのことにおいて,Lewis Carroll は先駆者である — そして,Joyce は,Lewis Carroll[の作品]とは かなり遅く 出会ったがゆえに,それを 幾分か わずらわしく感じていたはずであろう — と Atherton は要約している.
[42] Clive Hart (1931-2016) : James Joyce の専門的な研究者.特に,Finnegans Wake の研究に最も早く取り組んだ研究者のひとり.彼の A Concordance to Finnegans Wake (1963) は,初の網羅的なジョイス語辞典として 今も評価されている.
[43] James Stephen Atherton (1910-1986) : James Joyce の専門的な研究者.主著 : The Books at the Wake – A Study of Literary Allusions in James Joyce’s Finnegans Wake (1959, 1974).
[44] 旅行鞄語 (portmanteau word) について,Lewis Carroll は,Through the Looking-Glass のなかで Humpty Dumpty に Alice に対して こう説明させている : You see it’s like a portmanteau – there are two meanings packed up into one word[わかるだろう,それは 旅行鞄のようなものだ — ふたつの意味が ひとつの語に 詰め込まれているのだ].
[42] Clive Hart (1931-2016) : James Joyce の専門的な研究者.特に,Finnegans Wake の研究に最も早く取り組んだ研究者のひとり.彼の A Concordance to Finnegans Wake (1963) は,初の網羅的なジョイス語辞典として 今も評価されている.
[43] James Stephen Atherton (1910-1986) : James Joyce の専門的な研究者.主著 : The Books at the Wake – A Study of Literary Allusions in James Joyce’s Finnegans Wake (1959, 1974).
[44] 旅行鞄語 (portmanteau word) について,Lewis Carroll は,Through the Looking-Glass のなかで Humpty Dumpty に Alice に対して こう説明させている : You see it’s like a portmanteau – there are two meanings packed up into one word[わかるだろう,それは 旅行鞄のようなものだ — ふたつの意味が ひとつの語に 詰め込まれているのだ].
Lisez des pages de Finnegans Wake, sans chercher à comprendre. Ça se lit. Si ça se lit, comme me le faisait remarquer quelqu’un de mon voisinage, c’est parce qu’on sent présente la jouissance de celui qui a écrit ça. Mais ce qu’on se demande, tout au moins la personne en question, c’est pourquoi Joyce l’a publié. Pourquoi ce Work qui a été dix-sept ans in progress, l’a-t-il enfin sorti, noir sur blanc ?
Finnegans Wake の 幾ページかを 読んでみたまえ — 了解しようと努めることなく.読めないことはない.読めないことはないとすれば,それは,わたしの身近にいる或る者が そのことを わたしに 指摘してくれたように,それ [ Finnegans Wake ] を書いた者の悦が[それらのページに]現在していることが 感ぜられるからだ.だが,我々は — 少なくとも,そのことを指摘してくれた人物は — 自問する:なぜ Joyce は それを 公表したのか ? なぜ この〈17年間 Work in Progress であった〉作品は ついに 出版されたのか — 誰の目にも見える形で ?
C’est une chance qu’il y en ait une seule édition, ce qui permet de désigner, quand on le cite, la ligne à la bonne page, c’est-à-dire à la page qui ne portera jamais que le même numéro. S’il fallait que, comme les autres livres, ce soit édité sous des paginations diverses, où irait-on pour s’y retrouver !
Finnegans Wake に唯一の版しかないのは ひとつの幸運だ — それによって,[Finnegans Wake から語句を]引用する際には,それが正確に何ページの何行に見出されるのかを示すことが 可能となる — つまり,どの版においても,n ページと指定されたページは 必ず同じである.ほかの本の場合のように 版が変わると ページの割りふりも異なることになるなら,引用された語句が[Finnegans Wake の]どこにあるのか 見当もつかないことになるだろう.
Qu’il l’ait publié, c’est ce dont j’espérerais, s’il était là, le convaincre qu’il voulait être Joyce le Symptôme, en tant que, le symptôme, il en donne l’appareil, l’essence, l’abstraction. Si quelque chose rend compte du fait noté par Clive Hart, qu’à suivre ses pas, on s’en trouve à la fin, fatigué, c’est bien ceci qui prouve que vos symptômes à vous, c’est la seule chose qui, chez vous comme chez chacun, porte l’intérêt. Le symptôme chez Joyce est un symptôme qui ne vous concerne en rien, c’est le symptôme en tant qu’il n’y a aucune chance qu’il accroche quelque chose de votre inconscient à vous. Je crois que c’est là le sens de ce que me disait la personne qui m’interrogeait sur pourquoi il l’avait publié.
Joyce が Finnegans Wake を出版した ということによって,わたしは,もし仮に Joyce がここにいたなら,彼にこのことを認めさせることができる と思っただろう:すなわち,彼は,症状 ジョイス でありたかったのだ — 彼が 症状の 装置,本質,抽象を 与えている限りにおいて.もし Clive Hart によって指摘された事実 — Joyce の歩みの後を追おうとする者は しまいには 疲れ果ててしまう という事実 — を説明し得る何ごとかがあるとすれば,それは,まさにこのことである:すなわち,あなたの症状は,各人においてと同じく,あなたにおいて,重要性を有する唯一のことである.Joyce における症状は,あなたには何らかかわらない症状であって,あなたの無意識のうちの何ごとかを引っかけるチャンスはまったく無いものとしての症状である.それが〈なぜ Joyce は Finnegans Wake を出版したのかについて わたしに問うた者が わたしに言ったこと [45] の〉意味である,と わたしは思う.
[45] Finnegans Wake の各ページには Joyce の悦が 現在している ということ.
[45] Finnegans Wake の各ページには Joyce の悦が 現在している ということ.
... bien que ne jouant que sur le langage
ことば遊びをしているだけとはいえ...
そう問うことを 続けねばならないだろう,Joyce の 主要な かつ 最後の 作品 [ Finnegans Wake ] について — その作品に,結局,Joyce は,彼の escabeau [46] であることの機能を 割り当てた.そも,当初から,彼は,その名が — まさに名が — 永遠に生き続けるところの者であることを欲した.「永遠に」とは「彼の名が ひとつの時代を画する」ということだ.そんなふうに文学をした者は ほかにひとりもいない.そして,この「文学」[ littérature ] という語の重みを強調するために,わたしは,Joyce がしばしば弄した曖昧表現 — a letter, a litter[文字,塵芥]を 再び 言おう.文字(文学)は 塵芥である.ところで,もし仮に この類の かくも特別な正書法 — 英語の正書法 — が無かったならば,Finnegans Wake の効果の四分の三は 失われているだろう.
[46] escabeau は「踏み台,脚立」であるが,Joyce について論ずるとき,Lacan は それを 芸術作品を指すために 用いている — この語には beau[美しい]を読み取ることができ,また,踏み台 や 脚立は 高い位置に昇るための道具であることから,escabeau は 芸術的創造における sublimation[昇華]の問題と 関連づけられる.Lacan は,この語を,Joyce le Symptôme の version écrite において より活用している.
Le plus extrême, je peux vous le dire, le devant d’ailleurs à Jacques Aubert, c’est – Who ails tangue coddeau, aspace of dumbillsilly ? Si j’avais rencontré cet écrit, aurais-je ou non perçu – Où es ton cadeau, espèce d’imbécile ?
最も極端な例を言うなら — しかも Jacques Aubert の前で — それは : Who ails tongue coddeau, aspace of dumbillsilly ? [47] もし 仮に わたしが この一文に 書かれたものとして 出会っていたなら,はたして わたしは 気がついただろうか — Où est ton cadeau, espèce d’imbécile ? [48]
[47] Finnegans Wake, p.15. 英語の文として読むなら : Who[誰]ails[苦しめる,悩ます]tongue[舌]coddeau[cod : タラ,god : 神,d’eau : 水の]aspace[a space : 間(ま,あいだ)]of dumbillsilly[dumb : 愚鈍,dumbbell : ダンベル,silly : 愚かな].
[48] Où est ton cadeau, espèce d’imbécile ? : おまえがもらったプレゼントは どこにある(おまえがもらったプレゼントを どこにやった,どこになくした),愚か者め!
[48] Où est ton cadeau, espèce d’imbécile ? : おまえがもらったプレゼントは どこにある(おまえがもらったプレゼントを どこにやった,どこになくした),愚か者め!
L’inouï, c’est que cette homophonie en l’occasion translinguistique ne se supporte que d’une lettre conforme à l’orthographe de la langue anglaise. Vous ne sauriez pas que who peut se transformer en où si vous ne saviez pas que who au sens interrogatif se prononce ainsi. Il y a je ne sais quoi d’ambigu dans cet usage phonétique, que j’écrirais aussi bien f.a.u.n.e. Le faunesque de la chose repose tout entier sur la lettre, à savoir sur quelque chose qui n’est pas essentiel à la langue, qui est quelque chose de tressé par les accidents de l’histoire. Que quelqu’un en fasse un usage prodigieux interroge en soi ce qu’il en est du langage.
前代未聞であるのは このことだ:すなわち,この同音異義表現 — この場合 それは 英語とフランス語にまたがっている — は,まさしく 文字によって — 英語の正書法に合致した文字によって — 支えられている.あなたは,もし who が 疑問の意味においては où と同様に発音される [49] ということを知らなければ,who が où に変わり得るということを 知り得ないだろう.この 音声学的 [ phonétique ] な 慣習のなかには わけのわからない曖昧なものがある — phonétique を faunétique [50] と書いてもよいだろう.この事態の faunesque なところは 完全に 文字 — すなわち,言語にとって本質的ではないもの — によっている.そも,文字は,歴史の偶然によって編み出された何ものかにすぎない.しかるに,文字をそのように驚くべきしかたで利用した者がいるという事実は,それだけで,言語は如何なるものであるかを 問うている.
[49] où と同様に発音されるのは,疑問詞としての who ではなく,関係代名詞としての who — それが 軽く発音される場合 — である.
[50] faune は ラテン語の Faunus(ギリシャ神話の Pan と混同されている)に由来し,「半獣神,牧神」または「動物相,動物誌」である.形容詞は二形あり,faunesque は「半獣神の,半獣神のような」,faunique は「動物相の」.
[49] où と同様に発音されるのは,疑問詞としての who ではなく,関係代名詞としての who — それが 軽く発音される場合 — である.
[50] faune は ラテン語の Faunus(ギリシャ神話の Pan と混同されている)に由来し,「半獣神,牧神」または「動物相,動物誌」である.形容詞は二形あり,faunesque は「半獣神の,半獣神のような」,faunique は「動物相の」.
J’ai dit que l’inconscient est structuré comme un langage. Il est étrange que je puisse aussi dire désabonné de l’inconscient quelqu’un qui ne joue strictement que sur le langage, quoiqu’il se serve d’une langue entre autres qui est, non pas la sienne – car la sienne est justement une langue effacée de la carte, à savoir le gaélique, dont il savait quelques petits bouts, assez pour s’orienter, mais pas beaucoup plus –, non pas la sienne donc, mais celle des envahisseurs, des oppresseurs.
わたしは言った:無意識は ひとつの言語として 構造化されている.奇妙なことに,わたしは こうも言い得た : Joyce は 無意識に対して 定期購読をやめた者 である — Joyce, つまり,厳密に言って 言語そのものだけを弄した何者か.彼は もろもろの言語のうちの ひとつの言語 — 彼自身の母国語 ゲール語 ではない言語 — なぜなら それは まさに 地図から抹消されてしまった言語であるから — を用いたとはいえ.彼は,ゲール語については,わずかなことを知っていただけだ — 見当をつけるためには十分ではあったが.しかし,それ以上に 多くを 知っていたわけではない.ともあれ,彼が用いたのは,彼の母国語であるゲール語ではなく,しかして,侵略者の言語,抑圧者の言語であった.
Joyce a dit qu’en Irlande on avait un maître et une maîtresse, le maître étant l’Empire britannique, et la maîtresse la Sainte Église catholique, apostolique et romaine, les deux étant du même genre de fléau. C’est bien ce qui se constate dans ce qui fait de Joyce le symptôme, le symptôme pur de ce qu’il en est du rapport au langage, en tant qu’on le réduit au symptôme – à savoir, à ce qu’il a pour effet, quand cet effet on ne l’analyse pas –, je dirai plus, qu’on s’interdit de jouer d’aucune des équivoques qui émouvraient l’inconscient chez quiconque.
Joyce は 言った:アイルランドには ひとりの男性支配者と ひとりの女性支配者が いる — 男性支配者は 大英帝国であり,女性支配者は 聖なる 使徒的 ローマ カトリック 教会だ.両者は,おなじ類の災難である.それは,Joyce を症状にするものにおいて まさしく確認されることだ.症状 — 彼の〈言語との〉関係が如何なるものであるかを示す 純粋症状 — 言語が症状に還元される限りにおいて — すなわち,言語が 症状が有する効果に 還元される限りにおいて — ただし,我々が その効果を 分析しないときに — さらに言うならば,誰においてであれ 無意識を感動させるかもしれない曖昧表現のうち 如何なるものについても おもしろがることを 我々が自身に禁止するときに.
La jouissance, non l’inconscient
無意識ではなく 悦
Si le lecteur est fasciné, c’est de ceci que, conformément à ce nom qui fait écho à celui de Freud – après tout, Joyce a un rapport à joy, la jouissance, s’il est écrit dans lalangue qui est l’anglaise –, que cette jouasse, cette jouissance est la seule chose que de son texte nous puissions attraper. Là est le symptôme.
Joyce の読者が魅惑されるとすれば,それは,このことに である:すなわち,彼の名 — それは Freud の名に呼応しており,つまるところ,Joyce は joy に すなわち jouissance に 関係している [51] — 彼の名が 英語という lalangue において書かれるなら... Joyce という名に合致して,この jouace, この jouissance[悦]は,我々が 彼のテクストから つかまえてこれる 唯一のものである.それが 症状である.
[51] 英語の joy[喜び]は フランス語の joie[喜び]に由来し,joie は ラテン語の gaudium に由来している.それと関連する ラテン語の動詞は gaudere[喜ぶ]であり,フランス語の jouir[悦する]と réjouir[喜ばす]は gaudere に由来している.また,英語の enjoy は 古フランス語の enjoier に由来している.Joyce という単語は 英語のなかには無いが,rejoice[喜ぶ,喜ばせる]はあり,それは フランス語の réjouir または réjouissance[喜び]に由来している.したがって,Joyce の名は まさしく jouissance と関連している.そして,Freud の名は Freude[喜び]に関連している.ついでながら,Antonio Gaudí の名も gaudium に由来している.
Le symptôme, en tant que rien ne le rattache à ce qui fait lalangue elle-même dont il supporte cette trame, ces stries, ce tressage de terre et d’air dont il ouvre Chamber Music, son premier livre publié, livre de poèmes, le symptôme est purement ce que conditionne lalangue, mais d’une certaine façon, Joyce le porte à la puissance du langage, sans que pour autant rien n’en soit analysable.
症状は... Joyce は,英語という lalangue によって,あの緯糸,あの線条,あの〈大地と空気との〉編み合わせを 支える — 彼の〈最初に出版された〉本,詩集 Chamber Music[室内楽][52] を,彼は,大地と空気との編み合わせで 開始している — のだが,その lalangue そのものを成すものに 彼を結びつけるものは 何も無い... その限りにおいて,症状は,純粋に,lalangue が条件づけるものである,が,あるしかたで,Joyce は 症状を[ジョイス語と呼ばれるべき]言語の域へ 持って行った — ただし,そのうち 分析可能なものは 何も無いのだが.
[52] Joyce の 詩集 Chamber Music (1907) は,こう始まっている:
Strings in the earth and air
Make music sweet;
Strings by the river where
The willows meet.
There’s music along the river
For Love wanders there,
Pale flowers on his mantle,
Dark leaves on his hair.
Dark leaves on his hair.
All softly playing,
With head to the music bent,
And fingers straying
Upon an instrument.
With head to the music bent,
And fingers straying
Upon an instrument.
大地と空気のなかで 弦は
甘美な音楽を 奏でる
弦は 川端で
そこで 柳たちは 出会う
川にそって 音楽がある
そも 愛は そこを そぞろ歩く
愛のマントには 淡い花が
愛の髪には 暗い葉が
甘美な音楽を 奏でる
弦は 川端で
そこで 柳たちは 出会う
川にそって 音楽がある
そも 愛は そこを そぞろ歩く
愛のマントには 淡い花が
愛の髪には 暗い葉が
すべては やさしく 戯れる
頭を 音楽へ かしげて
そして 指は さまよう
楽器のうえを
頭を 音楽へ かしげて
そして 指は さまよう
楽器のうえを
C’est ce qui frappe, et littéralement interdit, au sens où l’on dit je reste interdit.
それが 驚かせることであり,文字どおり 唖然とさせる [ interdire ] ものである — je reste interdit[わたしは 唖然としている]と言うときの interdire [53] という語の意味において.
[53] interdire という動詞は「禁止する」という意味で用いられることの方が 多い.
[53] interdire という動詞は「禁止する」という意味で用いられることの方が 多い.
Qu’on emploie le mot interdire pour dire stupéfaire a toute sa portée. C’est là ce qui fait la substance de ce que Joyce apporte, et par quoi, d’une certaine façon, la littérature ne peut plus être après lui ce qu’elle était avant.
stupéfaire[唖然とさせる]と言う代りに interdire という語を用いることは,それなりの効果を有している.それこそ,Joyce がもたらしたことの実質を成すものであり,それゆえ,ある意味で,Joyce 以後の文学は 彼以前の文学では もはや あり得ない.
Ce n’est pas pour rien qu’Ulysse aspire, aspire un quelque chose d’homérique, bien qu’il n’y ait pas le moindre rapport, quoique Joyce ait lancé les commentateurs sur ce terrain, entre ce qui se passe dans Ulysse et ce qu’il en est de L’Odyssée. Assimiler Stephen Dedalus à Télémaque... On se casse la tête à porter le faisceau du commentaire sur L’Odyssée. Et comment dire que Bloom soit en quoi que ce soit, pour Stephen, qui n’a rien à faire avec lui, sauf de le croiser de temps en temps dans Dublin, son père ? – si ce n’est que déjà Joyce pointe, et se trouve dénoter que toute la réalité psychique, c’est- à-dire le symptôme, dépend, au dernier terme, d’une structure où le Nom-du-Père est un élément inconditionné.
Ulysses がホメロス的な何ごとかを吸い寄せるのは,ゆえ無きことではない — Ulysses において起こること と Odysseia がどうであるか との間には 関係は いささかも無い とはいえ — Joyce は 注釈者たちを その領域に放ったのではあるが.Stephen Dedalus を Telemachos に同一視すること... 彼らは,注釈のビームを Odysseia に当てて,頭を悩ませている.また,Leopold Bloom が,いかなることにおいてであれ,Stephen にとって — Stephen は,Bloom とは,Dublin の街中で ときおり すれ違う 以外,何の関係も 無い — 父である と 如何にして 言い得るか ? — もし 次のようでなければ:すなわち,Joyce は 既に このことを 指し示しており,たまたま 指ししるしている,すなわち,心的現実 — すなわち 症状 — は 究極的には そこにおいて父の名が無条件的な要素であるところの構造に 依拠している,ということ.
Le Père borroméen
ボロメオ的な 父
Le père comme nom et comme celui qui nomme, ce n’est pas pareil. Le père est cet élément quart – j’évoque là quelque chose dont seulement une partie de mes auditeurs peut avoir le délibéré –, cet élément quart sans lequel rien n’est possible dans le nœud du symbolique, de l’imaginaire et du réel.
名としての父 と 命名する者としての父 と は 同じものではない.父とは,あの 第 4 の 要素である — ここで わたしは 今 ここにいる聴衆の一部しか聞いたことのないことを 持ち出すが — 父とは,それ無しには 徴示性と仮象性と実在性のボロメオ結びにおいて 何も可能ではないところの あの 第 4 の 要素である.
Mais il y a une autre façon de l’appeler. C’est là que ce qu’il en est du Nom-du-Père, au degré où Joyce en témoigne, je le coiffe aujourd’hui de ce qu’il convient d’appeler le sinthome.
だが,それ[ボロメオ結びの 第 4 の 要素 としての 父]を呼ぶ 呼び方は,もうひとつ ある.それが,そこにおいて Joyce がそれについて証言するところの度合いにおける 父の名が いかなるものであるか である.わたしは,今日,それに,sinthome と呼ぶのがよいものを 被せる.
C’est en tant que l’inconscient se noue au sinthome, qui est ce qu’il y a de singulier chez chaque individu, qu’on peut dire que Joyce, comme il est écrit quelque part, s’identifie à l’individual. Il est celui qui se privilégie d’avoir été au point extrême pour incarner en lui le symptôme, ce par quoi il échappe à toute mort possible, de s’être réduit à une structure qui est celle même de lom, si vous me permettez de l’écrire tout simplement d’un l.o.m.
無意識は sinthome — それは,各個人においてある 特異的なものである — に結ばれる限りにおいて,我々は こう言い得る : Joyce は — どこかに書かれてあるように — individual [54] に同一化している.Joyce は,自身において症状を受肉するために極致点に行ったことにより自身を特権化する者である.その場合,症状とは,それによって 彼は あらゆる可能な死を 免れるところのものである — ひとつの構造へ還元されたことによって — その構造とは lom [55] の構造そのものである — まったく単純にそう書くことを許してもらえるなら : l.o.m.
[54] Lacan は 英語で individual と言っている — 英語の文献に準拠しているので.individual(フランス語では,名詞としては individu, 形容詞としては individuel)の語源は,ラテン語の dividere[分ける,分割する]であり,その派生語のひとつは division[分裂,裂け目]である.したがって,「Joyce は individual に同一化した」と 言うとき,その individual は,単純に「個人」ではなく,「主体 $ の裂け目を完璧に隠蔽し得た者」である.
[55] lom は l’homme[男,人間]の lalangue 表記.Lacan は,書版の Joyce le Symptôme においては,最初のページで LOM を持ち出している.
C’est ainsi qu’il se véhicule, comme quelque chose qui met un point final à un certain nombre d’exercices. Il met un terme. Mais comment entendre le sens de ce « terme» ?
そのように,彼は,自身を伝えている — いくつかの数の営為に対して 終止符を打つ [ mettre un point final ] 何か [56] として.彼は 終止符を 打つ [ il met un terme ]. だが,この terme [57] という語の意味を 如何に取るか ?
[56] Lacan は,quelqu’un[誰か]ではなく quelque chose[何ものか,何ごとか]と言っている.
[57] terme : 期限,終わり,語(用語).後ほど Lacan が用いる limite と関連する語.
[56] Lacan は,quelqu’un[誰か]ではなく quelque chose[何ものか,何ごとか]と言っている.
[57] terme : 期限,終わり,語(用語).後ほど Lacan が用いる limite と関連する語.
Il est frappant que Clive Hart mette l’accent sur le cyclique et sur la croix comme étant substantiellement ce à quoi Joyce se rattache. Certains d’entre vous savent qu’avec ce cercle et cette croix, je dessine le nœud borroméen. Interroger Joyce sur ceci, que ce nœud produit, à savoir l’ambiguïté du 3 et du 4, à savoir ce à quoi il restait collé, attaché, à l’interrogation de Vico, à des choses pires, à la conversation avec les esprits, qu’Atherton range d’ailleurs sous le titre général de spiritualism, ce qui m’étonne, car j’avais appelé ça jusqu’à présent spiritisme. Il est assurément surprenant de voir qu’à l’occasion, cela contribue dans Finnegans au titre du symptôme.
驚くべきことに,Clive Hart は,円環的なもの と 十字形のものとに 強調を置いている — 実質的に,Joyce が結びつきを持つものであるものとして.あなたたちのうち幾人かは知っているように,輪と十字で わたしは ボロメオ結びを描いている.Joyce に対して このことについて 問いを措定する:すなわち,この提示されたボロメオ結び,すなわち,3 と 4 の両義性,すなわち,Joyce が熱心に取り組んでいたもの,執着していたもの,Vico [58] の問い,より悪いことに,心霊との会話 — ついでながら,それを Atherton は spiritualism [59] という一般表題のもとに扱っている.それに わたしは 驚いた — というのも,今まで わたしは それを spiritisme [60] と呼んでいたからだ.ときによって 心霊術が Finnegans Wake において 症状として 貢献しているのを見るのは,確かに 驚くべきことだ.
[58] Giambattista Vico (1668-1744) が 彼の主著 La Scienza Nuova (1725) で展開した 円環的(循環的)歴史観 — 永劫回帰,παλιγγενεσία — に Joyce は Finnegans Wake において 準拠している.Vico によれば,歴史は,0) 野蛮 から出発して,1) 神々の時代 ; 2) 英雄たちの時代 ; 3) 人間たちの時代 を経て,0) 野蛮に帰る.Finnegans Wake においても,最後の単語 the は 最初の単語 riverrun へ回帰する.
[59] spiritualism[英語の表記.フランス語の表記では spiritualisme]: 心霊術,降霊術 ; materialism[唯物論,物質主義]の 反意語としての 唯心論,精神主義.
[60] spiritisme : 心霊術,降霊術.
[58] Giambattista Vico (1668-1744) が 彼の主著 La Scienza Nuova (1725) で展開した 円環的(循環的)歴史観 — 永劫回帰,παλιγγενεσία — に Joyce は Finnegans Wake において 準拠している.Vico によれば,歴史は,0) 野蛮 から出発して,1) 神々の時代 ; 2) 英雄たちの時代 ; 3) 人間たちの時代 を経て,0) 野蛮に帰る.Finnegans Wake においても,最後の単語 the は 最初の単語 riverrun へ回帰する.
[59] spiritualism[英語の表記.フランス語の表記では spiritualisme]: 心霊術,降霊術 ; materialism[唯物論,物質主義]の 反意語としての 唯心論,精神主義.
[60] spiritisme : 心霊術,降霊術.
Ce n’est pas tout, car il est difficile de ne pas tenir compte de cette fiction qu’on peut mettre sous la rubrique de l’initiation. En quoi consiste ce qui se véhicule sous ce registre et sous ce terme ? Combien d’associations qui se font arme de drapeaux dont elles ne comprennent pas le sens? Que Joyce se soit délecté à Isis Unveiled de Mme Blavatsky est une chose que j’apprends d’Atherton, et qui me sidère. La forme de débilité mentale que comporte toute initiation est ce qui, moi, me saisit d’abord, et me la fait peut-être sous-estimer.
それで全部ではない.というのも,秘儀 [ initiation ] の範疇に分類され得る あの虚構を 考慮に入れないでおくことは 難しいからだ.その次元 および その名称のもとに 伝えられるものは,何に存しているのか ? 旗を自身の紋章としている団体 — それらは,自身の紋章の意味を理解していない — は 幾つ あるか ? Joyce は Madame Blavatsky [61] の Isis Unveiled [62] を 喜んで 読んでいた ということは,わたしが Atherton から学んだことであり,それは わたしを びっくりさせた.あらゆる秘儀が何らかの形の精神薄弱を包含している ということは,まず,わたしの目にとまったことであり,おそらく,わたしに それを 過小評価させた.
[61] Helena Petrovna Blavatsky (1831-1891) : 心霊術信奉者,神智学協会 (Theosophical Society) の 創立者.
[62] Isis Unveiled は Helena Blavatsky の 1877年の著作.Theosophical movement の 基本的なテクストと見なされている.
[61] Helena Petrovna Blavatsky (1831-1891) : 心霊術信奉者,神智学協会 (Theosophical Society) の 創立者.
[62] Isis Unveiled は Helena Blavatsky の 1877年の著作.Theosophical movement の 基本的なテクストと見なされている.
Il faut dire que, peu après le temps où j’avais fait, grâce au ciel, la rencontre de Joyce, j’allai trouver un nommé René Guénon qui ne valait pas plus cher que ce qu’il y a de pire en fait d’initiation. Hi han a pas, à écrire comme celui de l’âne à quoi Joyce fait allusion comme au point central de ces quatre termes qui sont le Nord, le Sud, l’Est et l’Ouest, comme au point de croisée de la croix – c’est un âne qui le supporte, Dieu sait que Joyce en fait état dans Finnegans.
このことを言っておかねばならないだろう — わたしは,天のおかげで Joyce との出会いを果たしたときの少し後で,あの René Guénon [63] に会いに行った.彼は,秘儀に関する最悪のしろものよりはましである というわけではない.Hi han a pas [64] — ロバのそれのように書くなら — Joyce は それをほのめかしている — 北,南,東,西の四項の中心点として — 十字の交差点として — その交差点を支えるのは ロバである — 神が知るように,Joyce は Finnegans Wake において それを引き合いに出している.
[63] René Guénon (1886-1951) : 東洋の哲学や秘儀を紹介するフランス語著書を 27 冊 著した.それらは「東洋かぶれ」の西洋人たちには 今でも 読まれている.
[64] « Hi han a pas » は « il n’y en a pas »[無い]の lalangue 表記.何が無いのかは,このパラグラフでは不明であるが,当然,« il n’y a pas de rapport sexuel »[性関係は無い]が 想起される.
[63] René Guénon (1886-1951) : 東洋の哲学や秘儀を紹介するフランス語著書を 27 冊 著した.それらは「東洋かぶれ」の西洋人たちには 今でも 読まれている.
[64] « Hi han a pas » は « il n’y en a pas »[無い]の lalangue 表記.何が無いのかは,このパラグラフでは不明であるが,当然,« il n’y a pas de rapport sexuel »[性関係は無い]が 想起される.
Mais quand même Finnegans, ce rêve, comment le dire fini, puisque déjà son dernier mot ne peut se rejoindre qu’au premier, le the sur lequel il se termine se racolant au riverrun dont il se débute, ce qui indique le circulaire ? Pour tout dire, comment Joyce a-t-il pu manquer à ce point ce qu’actuellement j’introduis du nœud ?
だが,ともあれ,この Finnegans Wake という夢について,それは終った と どうして言えるか ? — というのも,既に,その最後の語は その最初の語に 結びつくのだから — その語において Finnegans Wake が終るところの the は,それを以て Finnegans Wake が始まるところの riverrun に つながる.それは,円環的なもの[循環的なもの]を指し示している.要するに,如何に Joyce は,この点において,わたしが 今 ボロメオ結びによって導入しているものを 逸し得ただろうか ?
ボロメオ結びを用いつつ,わたしは,新しい何ごとかを導入している.それは,症状の限定 [ limitation ] を説明するだけでなく,しかして,このようになることをも説明する:身体 すなわち 仮象性(事象性)に[ボロメオ的に]結ばれ,また,実在性に結ばれ,そして,第三のものとして,無意識 [65] に結ばれることによって,症状は その[三つの]限定 [ ses limites ] を得る.症状が それら[三つの]限定 [ ses limites ] と出会うがゆえにこそ,我々は ボロメオ結びについて 語ることができる.
[65] Lacan は ここで le symbolique[徴示性]と言う代りに l'inconscient[無意識]と言っている.Séminaire XXIII (1975-1976) Le sinthome において提示される 四つ輪のボロメオ結びは,次のとおり:
ボロメオ結びを,我々は,確かに,くしゃくしゃに丸めて,玉の形にすることができる.しかし,いったん 広げられれば,それは,そのボロメオ結びの形を保っている.そして,そのことによって,同時に,その ex-sistence[解脱実存性]を保っている.
C’est ce que je me permettrai d’introduire dans mon cheminement de l’année prochaine, en prenant appui sur Joyce, entre autres.
以上が,次年度[1975-1976年度]の わたしの歩みにおいて わたしが導入することになるところのものである — 就中 Joyce に準拠することによって.
小笠原 晋也 による 邦訳 と 注
La traduction japonaise et les notes par Luc Ogasawara
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