「父の名の閉出」とは 何か?
つまるところ,Lacan が la forclusion du Nom-du-Père[父の名の閉出]と呼ぶ事態は,如何なるものなのか?という質問が寄せられたので,改めて 精神分析の純粋基礎としての否定存在論 [ l'ontologie apophatique en tant que fondement pur de la psychanalyse ] の観点から その問いに取り組んでみよう.
否定存在論は,源初論的孔穴 [ le trou archéologique ] のトポロジーとして展開される.Heidegger にならって,それを「存在の歴史」[ die Geschichte des Seins ] として捉えるなら:
1) 源初論的位相 [ la phase archéologique ] : ἐν ἀρχῇ[源初において]穴が口を開いていた;
2) 形而上学的位相 [ la phase métaphysique ] : 形而上学の始まりにおいて,その穴は Platon の ἰδέα による閉塞によって 源初排斥 [ Urverdrängung ] され,以後,一連の形而上学的な(イデア的な)形象が 穴を塞ぎ続ける.その形象は,形而上学的な存在論においては,「存在」[ das Sein ] と呼ばれる;
3) 終末論的位相 [ la phase eschatologique ] : Platon 以来の形而上学の歴史は,Nietzsche において「満了」[ Vollendung ] を迎え,以後,我々は,存在の歴史の「終末論的位相」を生きている.そこにおいては,「存在」による穴塞ぎの無効性があらわとなり,源初排斥されていた穴は,口を開いて,現れ出てこようとする.それゆえ,Heidegger は,穴を塞いできた「存在」[ das Sein, das Seyn ] を バツ印で抹消する:
それによって,我々は,源初論的孔穴を「
否定存在論的孔穴が 口を開いて 現出しようとしてくるとき,それは,強い不安 — 無の不安,死の不安,罪の不安,そして,Freud が「去勢不安」と呼んだ不安 — を惹起する.それゆえ,現出しようとする穴は,激しい抵抗と防御によって,再び塞がれ,あるいは,覆い隠される.しかし,源初論的な穴を 完全に塞いでしまうことも,完全に覆い隠してしまうことも,不可能である.
我々が 今 生きている 存在の歴史の終末論的位相は,現れ出でてこようとする穴に対する抵抗と防御の虚しい試みによって特徴づけられている.我々が「病理学的」と呼んでいるのは,それらの抵抗と防御の試みのことである.精神分析は,その終結において,我々が それらの抵抗と防御を放棄し,我々が 自身の Dasein[現場存在]を
さて,「父の名」(le Nom du Père) という表現は,カトリック教会において行われるミサの始めに司祭が発する言葉 : In nomine Patris et Filii et Spiritus Sancti (Au nom du Père et du Fils et du Saint-Esprit)[父と子と聖霊の御名によって]に由来している.
1955-1956 年に行われた Séminaire III Les psychoses[精神病]をもとにして 1957 年 12 月から 1958 年 1 月にかけて執筆された書 D'une question préliminaire à tout traitement possible de la psychose[精神病のあらゆる治療に前提的なひとつの問いについて]において,Lacan は「父の名」をこう定義している :
le signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi[徴示素の場所としての他 A のなかで,律法の場所としての他 A の徴示素であるところの徴示素](Écrits, p.583).
すなわち,Lacan は,「他 A の場所」[ le lieu de l'Autre ] に二種類を区別している:ひとつは「徴示素の場所」としての他 A の場所;もうひとつは「律法の場所」としての他 A の場所.
「徴示素の場所」は,1960年の書『フロィト的無意識における 主体のくつがえし と 欲望の弁証法』においては「徴示素の宝庫」[ le trésor du signifiant ] とも呼ばれている.そして,徴示素の場所 ないし 徴示素の宝庫 としての 他 A とは「母」のことである (cf. Écrits, p.813).
徴示素の場所としての他 A が母であるなら,それに対して,律法の場所としての他 A は,確かに,父である —「父の名」とは,律法の場所としての他 A の徴示素である,と定義されているように.
父は,母に対して「他」であり,律法の場所としての他 A は,徴示素の場所としての他 A に対して「他」である.Lacan の表現で言えば,父は 母の「他」であり,律法の場所としての他 A は,徴示素の場所としての他 A の 他 A (l'Autre de l'Autre) である.すなわち,「父の名」(le Nom-du-Père) は,「他の他」の徴示素 (le signifiant de l'Autre de l'Autre) である.
1953年のローマ講演においては「父の名」は le support de la fonction symbolique[徴示性の機能の支え](Écrits, p.278) と規定されていた.それは,いかにも,人間が言語の構造に住まい得るために必要不可欠であるように見える.
1957-1958年の精神病に関する書においては,「父の名」は,la métaphore paternelle[父のメタフォール]のメカニズムによって,死的 [ thanatique ] な否定存在論的孔穴に「ファロスの欠如の穴」という性的 [ sexuel, érotique ] な意義 — それを Lacan は la signification du phallus[ファロスの意義]または la signification phallique[ファロス意義]と呼び,1958年の時点では それを形式化する学素を φ としているが,1960年の書『主体のくつがえし』においては その学素は ( − φ ) となる — を付与する機能を有するものと見なされている:
「父のメタフォール」の式において le désir de la mère[母の欲望]と呼ばれているのは,徴示素の宝庫としての 他 A の場所に口を開いた穴 — すなわち,否定存在論的孔穴 — のことである.それは,そのままでは,死の穴であり,無の穴であり,罪の穴であって,強い不安を惹起する穴である.父の名は,母の欲望としての否定存在論的孔穴を塞ぎ得る phallus patriarcal[家父長ファロス]Φ として,自身を措定する — まことには 否定存在論的孔穴は閉塞不可能である にもかかわらず.そして,それによって,否定存在論的孔穴に,ファロスの欠如の穴 ( − φ ) という 性的 [ sexuel, érotique ] な意義 — ファロス意義 — を付与し,否定存在論的孔穴を「家父長ファロス Φ によって閉塞可能な穴」と見せかける.それが,Freud が Ödipuskomplex と名づけたもののからくりである.
ところが,精神病に関する書から たった 2 年後,1960年の『主体のくつがえし』においては,Lacan は,「他の他」(律法の場所としての 他 A, 父の名としての 他 A)について,こう述べている:
il n'y a pas d'Autre de l'Autre. C'est en imposteur que se présente pour y suppléer, le Législateur (celui qui prétend ériger la Loi)[他の他は 無い.それを代補するために 立法者(「我れは律法を立てる者である」と称する者)が姿を現すとすれば,それは ペテン師としてである](Écrits, p.813) .
すなわち,1960年の書においては,徴示素の場所としての他 A — 母 — に対して他である他 A は無い,と否定されている.それは,このことを言っている :「母の欲望」の穴 — すなわち,母における phallus の欠如の穴,去勢の穴としての否定存在論的孔穴 — を本当に塞ぎ得るようなものは 何も無い;律法の場所としての他 A — すなわち,徴示素の場所としての他 A に対して他である他 A — の徴示素としての「父の名」は,ペテン師にすぎない.
1953年における「徴示性の機能の支えとしての父の名」から 1960年における「ペテン師としての父の名」へ : 1957-58年の精神病に関する書は,父の名の閉出によって開口する穴に注目していることにおいて,この〈父の名の概念の〉くつがえしの転換点を成している.
実際,trou[穴]という語は,1957-1958年の精神病に関する書を読む際の key word である.たとえば:
La Verwerfung sera donc tenue par nous pour forclusion du signifiant. Au point où (...) est appelé le Nom-du-Père, peut donc répondre dans l'Autre un pur et simple trou, lequel par la carence de l'effet métaphorique provoquera un trou correspondant à la place de la signification phallique[したがって,我々は,Verwerfung(棄却)を,徴示素の閉出と見なす.つまり,そこにおいて父の名が呼ばれるところの点に対して,ひたすらひとつの穴が 他 A のなかで 答え得るだけである — その穴は,父のメタフォールの効果の欠如によって,ファロス意義の座に対応する穴を惹起することになる](Écrits, p.558).
Pour que la psychose se déclenche, il faut que le Nom-du-Père, verworfen, forclos, c'est-à-dire jamais venu à la place de l'Autre, y soit appelé en opposition symbolique au sujet. C'est le défaut du Nom-du-Père à cette place qui, par le trou qu'il ouvre dans le signifié amorce la cascade des remaniements du signifiant d'où procède le désastre croissant de l'imaginaire, jusqu'à ce que le niveau soit atteint où signifiant et signifié se stabilisent dans la métaphore délirante[精神病の発症のためには,このことが必要である : verwerfen された — 閉出 (forclore) された — すなわち,かつて一度も 他 A の座に 到来しなかった — 父の名が,主体との徴示的な対置において,他 A の座において 呼ばれること.他 A の座における〈父の名の〉欠陥は,それが被徴示において開く穴によって,徴示素の再編成の連鎖反応を誘発し,そこから,悪化してゆく〈事象性の〉破局が生じ,そして,(最終的に)妄想的メタフォールにおいて 徴示素と被徴示と(の連関)が安定化する水準が達成されるに至る](ibid., p.577).
以上のように,精神病に関する 1957-1958 年の書において,「父の名」の閉出の穴は,トポロジックに明確に取り出された.では,その穴(否定存在論的孔穴)と それを塞ぐと見なされてきた徴示素「父の名」との関係は,まことには 如何なるものであるのか?その問いを,Lacan は,1958-1959 年の Séminaire VI『欲望 と その解釈』および 1959-1960 年の Séminaire VII『精神分析の倫理』を通じて,問い直して行く.Séminaire VI においては,Hamlet と 彼の父の亡霊(すなわち 超自我)との関係が 問われている.そして,Séminaire VII においては,欲望の昇華に関する問いが 問われている.
そして,Lacan が到達した結論は:父の名の閉出の穴は,破壊不可能な欲望の穴そのものであり,その穴を塞ぎ得るものは 何も無い.その穴を塞ぎ得ると称する者は,ペテン師(『精神分析の倫理』において用いられた表現で言えば,knave すなわち canaille[ゲス:倫理的に最も卑劣な者])にすぎない.
次なる Lacan の問いは:では,「父の名」は 単なる仮象にすぎないのか?単なる仮象ではないような「父の名」は 如何なるものであり得るか?その問いから出発して,「父の名」は複数化されて行くことになる : les Noms-du-Père. この複数化された「父の名」について,Lacan は,1963-1964 年の Séminaire において 問うことを予定していた.しかし,周知のように,IPA からの「破門」にともない,Lacan は,Les Noms-du-Père の Séminaire を中止し,代わりに,1964 年,『精神分析の四つの基礎概念』について論ずることになる.
以後,複数化された「父の名」について論ずることは決してしない,と Lacan は ときおり 断言している(たとえば,Séminaire XIX の 1972年03月03日の講義,あるいは,Séminaire XXI の 1973年11月13日の講義).しかし,実は,Lacan は 複数化された「父の名」について しっかり論じている — 四つの言説における le signifiant maître[支配者徴示素]S1 として.
支配者徴示素 S1 は,「父の名」の学素である.四つの言説においては,S1 は四つの座に配置され得る.つまり,その位置する座に応じて,四種類の S1 があり,すなわち,四つの「父の名」がある.
1957-1958 年の 精神病に関する書において論ぜられていた「父の名」は,大学の言説における支配者徴示素 S1 に相当する.
大学の言説の構造において,「父の名」は,否定存在論的孔穴を閉塞し得る 支配者徴示素 S1 として,真理の座(黄)に措定されている.
その S1 は,「性関係」を可能にするものとして想定される le phallus patriarcal[家父長ファロス]Φ でもある.
しかし,「性関係は無い」のであり,「父の名」は仮象にすぎない.精神分析の経験は,そのような「父の名」を「書かれないことをやめない」ものの座(右下の「生産の座」)へ閉出し,分析家の言説の構造への移行を可能にする:
では,そのとき,如何にして 精神病の発症は起こらないで済むのか?
先に,精神病の症状は 如何なるものであるか を見ておこう.
精神病の症状は,基本的に言って,ふたつの要素から成っている:ひとつは,Wahnbedeutung[妄想意義]; もうひとつは automatisme mental[精神自動症,すなわち,幻聴].Schizophrenie においては,それらふたつの要素は 多かれ少なかれ 混在している.Paranoia は,もっぱら Wahnbedeutung のみから成っており,automatisme mental の現象を欠いている.
Wahnbedeutung は,閉出された父の名の代わりに,代償的に措定される 支配者徴示素 S1 である.automatisme mental は,父の名の閉出によって口を開いた否定存在論的孔穴のエッジにおいて反応的に増殖する客体 a の現象である.
ついでながら,以上の観点から見直すなら,この記事の冒頭に提示した schéma I は,メビウスの帯のエッジを表わしていることが 見て取れる:
Schreber の精神病の構造を表わすこの schéma I において,右側の le symbolique の領域 と 左側の l'imaginaire の領域は,ともに,父の名の閉出の穴に還元される.中央の le réel — 書かれることをやめないもの(必然)としての実在性 — の領域は,客体 a に相当し,すなわち,メビウスの帯のエッジに相当する.この図には,書かれないことをやめないもの(不可能)としての実在性の領域 — そこには,主体 $ が位置づけられる — は,示されていない.
話を戻すと,父の名の閉出は,精神病者においては,Wahnbedeutung S1 の代償的な措定 と automatisme mental a の反応的な増殖をもたらすが,精神分析の経験においては,大学の言説から分析家の言説への構造転換をもたらす.それが可能であるのは,昇華された欲望としての分析家の欲望 $ による支えのおかげである.
周知のように,精神分析の経験の最中に 精神病が発症することがある(元来,borderline case という名称は そのような場合のことを指していた).そのような望ましくない事態が生ずるのは,父の名の閉出にともなう大学の言説から分析家の言説への構造転換を可能にする分析家の欲望の支えが しかるべく機能しないからである.その場合,Wahnbedeutung S1 の代償的な措定 と automatisme mental a の反応的な増殖とを 招いてしまうことになる.
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