2019年3月11日

存在論的性別について

存在論的性別について




transgender の現存が提起する性別に関する問い


わたしが共同代表を務める LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体 LGBTCJ の twitter でたまたま見かけた一ノ瀬文香氏の問いかけ — transgender の定義に関する問い — に対する回答のなかで,わたしは「存在論的性別」(ontological sexuation) の概念を紹介した.そして,「女性である」ことは positive に規定され得ない,と述べた.すると,それに対して Mew 氏から質問をいただいた.そこで,この機会に,Lacan の性別の公式 (les formules de la sexuation) と存在論的性別の概念について,改めて日本語で若干の説明を試みてみよう.

「存在論的性別」と言ったが,より正確には「否定存在論的性別」(la sexuation apophatico-ontologique) である.いきなり「否定存在論」(l'ontologie apophatique) と言っても理解しがたいので,先日の tweet では「存在論」という表現を用いておいた.


しかし,不用意に「存在論的性別」と言うと,Alenka Zupančič を始めとするフェミニストの論者からは反論されることになる :「男である」ことと「女である」こととを実体論的ないし本質論的に差別するな!と.


確かに,「存在論」を,形而上学の伝統のなかでそう呼ばれてきたものと取るなら,その反論は当然のものである.そこにおいては,「存在」はひとつの「実体」と見なされてきた.それゆえ,「男である」ことと「女である」こととは存在論的に規定される,と言うことは,中国の古代以来の陰陽論における「陽」と「陰」との区別と同様に,「男である」の存在論的実体と「女である」の存在論的実体とを相異なるものとして措定することになる.それは,「男である」ことと「女である」こととをそれぞれ歴史学的または民族学的に規定された社会学的構築物と見なすフェミニズムの思考とは根本的に相容れないものとなる.


ところで,性別について,フェミニズムとはまったく異なる観点から,常識的な概念を疑問に付するのが,「transgender が現存する」という人間学的な事実である.transgender の現存は,「生物学的性別」(biological sex)[病理学的な例外はあるものの,原則的には性染色体によって規定される生得的な性別]にも,「社会学的性別」(sociological gender)[ある社会のなかで歴史的,慣習的に規定される後天的な性別]にも還元され得ない「性別の第三の規定性」を我々に示唆している.


transgender の性別が社会学的なものではないことは,たとえば,次のような事実から推定され得る:典型的な transgender girl は,ことばの世界に住みはじめるや(ことばを話せるようになるやいなや),女の子が好むおもちゃや服装に,おのずと(つまり,周囲のおとなたちの示唆や指示がなくても)関心が向く.親が「きみは男の子なんだから,男の子らしくしなさい」といくら言って聞かせても,それは,たいがい,まったく無効であり,子ども自身にとっては苦痛な強制でしかない.また,トランス男性である杉山文野氏は,「ものごころがついてからずっと,気持ちは『ぼく』なのに,からだは『女』だった.以来,ぼくは,ずっと『女体の着ぐるみ』を身につけているかのような感覚のまま,人生をすごしてきた」と証言している.


したがって,生物学的な意味において生得的 (congenital) であるわけではないが,経験的に獲得された (acquired) わけでもない性別 — 非生物学的であり,かつ,先験的 (a priori)[経験に先立つもの]である性別 — について考えねばならない.それが,否定存在論的性別 (la sexuation apophatico-ontologique, apophatico-ontological sexuation) を措定する理由である.




否定存在論の導入


我々の「否定存在論」(l'ontologie apophatique, die apophatische Ontologie) という名称は,それが伝統的な  形而上学的な — 存在論には属していないことを示している.我々が準拠するのは,Heidegger の「存在 の思考」(das Denken des Seyns) である.


我々は,技術的な簡便のために,単純に一本線で抹消して「存在」(Sein, Seyn) と書くが,Heidegger 自身は,Sein ないし Seyn という単語(いずれもドイツ語で「存在」)を,バツ印で抹消している:




存在 の思考」を説明するために,いちいち,「存在という単語は抹消して書きます」と言うのも面倒なので,我々は「否定存在論」と言う.


« apophatique » という語は「否定神学」(la théologie apophatique) から借用してきたものである.


「存在」という語を抹消するのは,形而上学的な存在論におけるように「存在」を実体化することを,避けるためである.


形而上学の歴史においては,存在は,まず,Platon により,ἰδέα[イデア]として措定された.我々が日常的に経験し得る存在事象(Seiendes : 存在するもの)が単なる仮象にすぎないのに対して,ἰδέα は τὸ ὄντως ὄν[本当に存在する実体]と見なされる.仮象的な存在事象は,実体的な ἰδέα が,我々にも経験可能な姿において現象してきたものである.ἰδέα という実体が,我々が経験し得る存在事象の存在を可能にしている.


形而上学的な存在論においては,そのように,「存在」は,「本当に存在する実体」として,一般的な存在事象とは区別されてはいるものの,一種の「存在するもの」— 特別な,完全な,本質的な,実体的な「存在するもの」— と見なされている.つまり,形而上学的な存在論においては,存在は実体化されている.


そのように実体化された「存在」の最たるものが,形而上学的な神学において措定されてきた「神」である.そこにおいて,神は,万物(宇宙)の存在の最初の原因 (causa prima) であり,かつ,神自身の存在の原因 (causa sui) と見なされている.そのような原因として神は存在している,と形而上学的神学においては公式化されている.そのような神は,愛とも,罪の赦しとも,死から永遠の命への復活とも,無縁である.


ともあれ,紀元前 4 世紀に始まった形而上学の歴史において「本当に存在する実体」と見なされてきた「存在」は,神学的な「神」とともに,19世紀以降,自然科学と資本主義経済の全世界的な支配のもとで,もはや,実際には存在しない観念的な産物としか見なされなくなった.


というのも,そこにおいては,「存在する」と見なされ得るものは : 1) 科学的に分析可能であるもの(技術的な条件により今のところは分析可能でなくても,原理的には分析可能なもの); 2) 資本増価のために利用可能であるもの(技術的な条件により今のところは利用可能でなくても,原理的には利用可能なもの)のみだからである.


明らかに,形而上学的な「イデア」も,神学的な「神」も,科学的に分析可能ではなく,資本増価のために利用可能でもない.したがって,それらは存在しない.


かくして,形而上学の歴史において存在事象の存在の可能性の条件と見なされてきたものは,19世紀以降,まったく無効化されてしまった.つまり,もはや「本当に存在する実体」としての形而上学的な「存在」は,否定され,抹消されてしまった.


それゆえ,「存在」という語は,今や,抹消されるしかない:存在


そして,それとともに,この事態が生じた:従来「最も価値あるもの」と見なされてきたもの — 真善美のイデアや,全知全能なる神 — が,まったく無価値なもの,まったく無意味なものになってしまった.


19世紀以来,今もなお続いているこの危機的状況は,ニヒリズム (nihilisme, Nihilismus)[虚無主義]と呼ばれる.とりわけ,1990年代以降(いわゆるバブル崩壊後)の日本社会は,虚無主義的な社会の最たる例である.そこにおいては,従来「価値」があると見なされてきたものが,ことごとく無価値になり,いったい何に確たる「価値」を見出せばよいのか,誰にもわからなくなっている(その空白を埋めるために,machismo[男性中心主義]と nationalisme[国家主義,国粋主義]のパラノイアが支配的となっており,そして,2011年の大震災に対する反動によって,そのパラノイアはますます強化されてきている).


存在事象の存在を根拠づけてきた「本当に存在する実体」としての「存在」が抹消されたことにより,存在事象そのもの全体の領域には,もはや埋め塞ぐことの不可能な穴が開いてしまった.


そのことは,より具体的には,何によって,あるいは,何において,示唆されているか?


形而上学的な「神」に関しては,周知のとおり,Nietzsche によって「神は死んだ」と宣告されている.


「真善美」のイデアが無効になったことは,たとえば,次の事態によって証されている : 1) 真理について問うことはまったく無意味になり,政治状況は post-truth の渾沌に陥っている ; 2) 道徳を根拠づける倫理的な善は見失われ,悪しき相対主義がまかりとおっている ; 3) 現代芸術においては,美の伝統的な規範は崩れ去り,芸術は「芸術のための芸術」でしかなくなっている.


では,如何にニヒリズムは超克され得るか?失われてしまったイデアや神の代わりになるものを,どこかから見つけてくるなり,新たにでっちあげるなりして,それによって穴を再び塞げば良いのか?


それは,実は,既に Nietzsche により試みられたことである — 彼の「力への意志」と「同じものの永遠なる回帰」の妄想によって.しかし,それは「能動的ニヒリズム」と呼ばれるニヒリズムの一類型にすぎない(それに対して,「イデアは失われた,神は死んだ」と嘆いているだけの場合は「受動的ニヒリズム」と呼ばれる).


それに対して,ニヒリズムを本当に超克するために,Heidegger は,我々にこう示唆している — 最高に価値ある実体が価値を失ったことによって世界には穴が開いてしまったと嘆くのではなく,我々は,むしろ,こう考えるべきである:存在事象そのもの全体の領域には,実は,もともと,穴が開いていたのだ.従来,形而上学の歴史においては,Platon の ἰδέα を始めとする「実体的な存在」(神学的な「神」を含む)が,その穴を塞いできた.そして,それによって,穴は覆い隠されてきた.しかし,そのような「存在」は「存在」にすぎないことがあらわになった今,その穴を否認し続けようとしたり,その穴を何か別のもので埋め塞ごうとするのではなく,しかして,存在 の穴について,および,その穴の「向こう側」について,問い,思考すべきである.つまり,その穴と,その穴によって規定される構造とについて,問い,思考すべきである.


そこで,我々は,存在事象そのもの全体の領域に口を開く 存在 の穴を「否定存在論的孔穴」(le trou apophatico-ontologique) と名づける.そして,その穴によって規定される構造を「否定存在論的構造」と呼ぶ.


Heidegger 自身は,Freud が発見した「無意識」も,Freud が創始した「精神分析」も,正当に評価することはなかったが,実は,我々が否定存在論的孔穴を最も直接的に経験し得るのは,Freud が「無意識」と名づけた穴 — 我々人間存在のただなかに口を開く穴 — によってである.


そのことに気づいた Lacan は,否定存在論(それは,Lacan が Heidegger の思考から抽出してきたものにほかならない)によって,Freud の精神分析を基礎づけなおすことになる




否定存在論的トポロジー


さて,穴に関して問い,思考することは,トポロジーを要請する.なぜなら,穴について思考する最も単純なしかたは,ひとつの面(surface : 曲面 — 面は,必ずしも平面 [ plane ] である必要はない)にひとつの穴が開いていると表象するところから出発することだからである.


そこで,Lacan は,トポロジーにおいて「投射平面」(projective plane) と呼ばれる閉曲面 (closed surface) を持ち出し,そして,それをふたつの曲面 — 穴開き球面(青)と Möbius strip(メビウスの帯:赤)と — に切り分ける:




逆に言えば,穴開き球面の穴のエッジと Möbius strip のエッジとを同一化することによって,穴は塞がれ,かくして,穴のエッジの無いひとつの「閉じられた曲面」(closed surface) である「投射平面」が得られる(「投射平面」という名称は,絵画の遠近法においてもちいられる「投射,射影」に由来するが,詳しい説明はここでは省略する).


投射平面は,そのものとしては,三次元ユークリッド空間のなかに描き出すことはできない(トポロジーの用語で言えば,embed する[埋め込む]ことは不可能である)が,その immersion[はめ込み]のしかたは幾つかある.そのうちのひとつは,その形態から,cross-cap と呼ばれている:





cross-cap は,球面の一部を鉗子ではさんでつぶしたような形態をしている.上の図に描かれているように,cross-cap の局所的な「交線」のように描かれている線分(緑)は,そこにおいて穴開き球面のエッジと Möbius strip のエッジとが同一化されるところの曲線である.


cross-cap の図において,三次元ユークリッド空間のなかに描き出され得るのは,穴開き球面(青)とエッジ(緑)のみである.Möbius strip の曲面(メビウス曲面:赤)は,言うなれば,エッジの線の「向こう側」へはみ出してしまっており,三次元ユークリッド空間のなかにいる我々に対しては隠されている.


三次元ユークリッド空間のなかに現れてきている穴開き球面を,我々は,存在事象の consistance[存立性]の場所 (lieu) に対応するものと見なす.それに対して,三次元ユークリッド空間の「外」へはみ出してしまっているメビウス曲面を,我々は,存在 の ex-sistence[解脱実存]の在所 (localité) に対応するものと見なす.


また,上の図におけるように cross-cap の閉曲面をふたつの曲面に切り分けたとき,穴(黄)は,穴開き球面(青)に口を開いた穴と見ることもできるし,メビウス曲面(赤)のエッジ(緑)が縁どる穴と見ることもできる.


以上のような cross-cap のトポロジーを,Lacan は,否定存在論的構造のモデルとして用いている.


さらに,Lacan は,Venn diagram[ヴェン図]を応用した図を,否定存在論的トポロジーをより簡潔に図示するために用いている:




まとめると,否定存在論的構造は,次のように四色に色分けされた四つのトポロジックな要素から成る:


1) 存在事象 (Seiendes) の存立性 (consistance) の場所 — 穴開き球面(青);


2) 存在 (Sein) の解脱実存性 (ex-sistence) の在所 — メビウス曲面(赤);


3) 存在事象の存立性の場所と 存在 の解脱実存性の在所とを分け隔てる存在論的差異 (die ontologische Differenz, la différence ontologique) — 穴(黄);


4) 存立性の場所と解脱実存性の在所とを,両者の差異(存在論的差異)を保ちつつ,繋ぎ合わせるボロメオ結合性 (la nodalité borroméenne) — エッジ(緑).


そこにおいて「ボロメオ的」(borroméen) は,「ボロメオ結び (le noeud borroméen) におけるように」ということである.




ボロメオ結びも,Lacan が否定存在論的構造を我々に「具象的」に説明するために利用した道具のひとつである.上の図は,四つの輪から成るボロメオ結びである.ボロメオ結びにおいては,それを構成する複数の輪(三つ以上)のうち,どのふたつをとっても,それらは,通常の鎖を構成する輪のように相互にかみあってはおらず,相互に分けることができる.また,ボロメオ結びを構成する複数の輪のうち,どの一本を切っても,ほかの輪はすべて相互に分離してしまい,ボロメオ結びは解けてしまう.

そのように,ボロメオ結びにおいては,複数の要素が,互いに多様な差異を保ちつつも,ひとつの一致へ結び合わされている.ボロメオ結びは「多様性における一致」の象徴である,と我々は言うことができるだろう.




言語存在とその否定存在論的構造


否定存在論は,人間が言語に住んでいることによって,必然的に要請される.


人間は言語に住まう — この命題は,Heidegger に由来する.彼はこう言った :「言語は,存在 の家である.言語という住まいに,人間は住まう」(Die Sprache ist das Haus des Seins. In iherer Behausung wohnt der Mensch).


そこには,人間と言語に関する「常識的」な思念とは根本的に異なる思考が包含されている.


人間は,Aristoteles 以来,こう定義されている:理性を有する動物(理性的な動物)[ ζῷον λόγον ἔχονanimal rationale ]. それと相関的に,言語は「情報伝達 (communication) の道具」と見なされている.理性を有する動物としての人間が,情報伝達の手段として,言語を道具的に使用する — この思念は,いまだに広く流通している.しかし,それは,形而上学に制約されている.


形而上学がもはや無効となった今,人間と言語に関してまったく異なる観点が要請されている.それは,こうである:言語は構造であり,人間は言語という構造に住んでいる.


非形而上学的な人間の定義は,「言語に住まう存在」という意味において:言語内存在 (In-der-Sprache-Sein, Being-in-language). Lacan は,彼独特の新造語でこう言った : le parlêtre[言語存在].


では,言語の構造は,如何なるものか?それは,否定存在論的なものである.言語の可能性の条件は,否定存在論的構造である — つまり,存在事象そのもの全体と 存在 とが,否定存在論的切れ目(存在論的差異)によって分離され,かつ,ボロメオ的に結合されている構造.


そのようなものとしての言語は,単なる情報伝達の手段ではない.言葉は,存在 を代理するものである.「言葉」の代わりに,言語学の用語で signifiant[徴示素]と言うなら,その定義は,Lacan によれば,「ひとつの徴示素は,主体[存在]を,もうひとつのほかの徴示素に対して,代理する」.そこにおいて,存在 を代理する「ひとつの徴示素」とは異なる「もうひとつのほかの徴示素」は,否定存在論的孔穴のエッジそのもののことである.




ファロス Φ の否定存在論位置づけとその仮象性


以上,長々と否定存在論について説明してきたのは,「男である」ことを存在論的(否定存在論的)に規定する phallus Φ の位置づけを厳密に提示するためである.なお,phallus という単語のカタカナ書きは「ファルス」または「ファロス」であるが,わたしは,どちらかといえば,原語のギリシャ語 φαλλός にしたがって「ファロス」と表記する方を好む.


勃起したファロス (ἰθύφαλλος, ithyphallus) は,古今東西,普遍的に,「生命力」の象徴である.布で覆い隠された ithyphallus の像の覆いを取ることは,古代ギリシャにおいて,秘儀の儀式的頂点を成していた,と言われる.また,周知のように,日本にも ithyphallus の像を神体として祭る神社がある.


「生命力」は,生きるものの生の可能性の条件であり,それは,要するに,存在事象の存在の可能性の条件としての形而上学的な「存在」のことである.したがって,生命力の象徴としての phallus Φ は,ヴェン図を応用した否定存在論的トポロジーの図において,次のように位置づけられる:




すなわち,存在事象 (Seiendes) の場所(青)と 存在 (Sein) の在所(赤)との間の否定存在論的孔穴(黄)を塞ぐものとして,phallus Φ が位置づけられる.


この構造は,如何なる事態を形式化しているか?否定存在論的孔穴は,存在事象の場所に口を開けた「無」の穴であり,「死」の穴である.なぜなら,存在 の在所は,「存在」が抹消されていることにおいて,「無」の在所であり,「死」の在所だからである.


「生命力」の象徴である phallus Φ は,「死的」(thanatique) である否定存在論的孔穴を埋め,覆い隠すために,その穴のところに措定される.それによって,phallus Φ は,死の穴に対する不安を防御することができる.


また,同時に,「phallus Φ は否定存在論的孔穴を埋め塞ぎ得る」と信ずることは,本来は「死的」(thanatique) なものである否定存在論的孔穴に,「ファロスの欠如」( − φ ) という「性的」(sexuel, érotique) な意義を付与することになる.


穴が「死の穴」であるなら,それは埋め塞ぎようがない — 死は,何を以てしても,防ぎようがない.それに対して,穴が「ファロスの欠如の穴」( − φ ) であるなら,phallus Φ を以てすれば埋め塞ぎ得るはずだ:それは,本当にそうなのではなく(なぜなら,以下に説明するように,そのような phallus は実は不可能であるから),しかして,単なる「信ずる」(信仰,イデオロギー,妄想)の効果である.


そのような「信ずる」の構造が,Freud が Ödipuskomplex[エディプス・コンプレクス,オィディプス複合]と呼んだものである:




Ödipuskomplex の構造においては,否定存在論的孔穴(黄)には「ファロスの欠如」の穴 ( − φ ) という意義が付与されており,「父のファロス」Φ はその穴を塞ぐことができる,と信ぜられている.言い換えると,「ファロスの欠如」の穴 ( − φ ) 「母の欲望」の穴であり,「父のファロス」Φ はその穴を満たすことができる,と信ぜられている.


未成熟な子どもは,まだ「父のファロス」を有しておらず,かつ,自身の母と性関係を持つこと(近親相姦)は禁止されている.しかし,将来,性本能が成熟したときには「父のファロス」を有することができるようになっており,かくして,母の代理であるような女性との性関係において性本能の満足を得ることができるはずだ — そのように,Ödipuskomplex は,単純に「近親相姦の禁止」に存するのではなく,しかして,将来的な「父のファロス」の獲得と性本能の満足の可能性を「信ずる」こと(信仰,イデオロギー,妄想)を包含している.


しかし,実は,性関係(性器的性交)において性本能の満足を可能にするような phallus は不可能である.そのことを Lacan は「性関係は無い」(il n'y a pas de rapport sexuel) というセンセーショナルな命題によって,簡潔に公式化した.


Freud は,素朴に,かつ「常識」的に,性本能は発達の諸段階を経て成熟し得る,と信じていた.つまり,性本能が未成熟な子どもにおいては,本能は前性器的な満足(口における満足と肛門における満足)に甘んじている(前性器期)が,Ödipuskomplex の時期(ファロス期)に至ると,本能満足の器官は phallus となり,性的関心は親(男の子の場合は母親,女の子の場合は父親)へ向けられる.しかし,近親相姦の禁止の効果により,Ödipuskomplex は衰退し,5, 6 歳ころから性本能は一旦,活動休止となる(潜伏期).そして,思春期になると,性本能は成熟した形で活動的になり,性器的な満足が可能となる(性器体制).


Lacan の公式 :「性関係は無い」は,Freud が「性器体制」(Genitalorganisation) と呼んだ性本能の成熟段階はただの神話にすぎず,実際にはそのようなものは無い,ということである.


性器体制は不可能である — なぜなら,精神分析治療によっても性本能を成熟段階へ至らせることはできない,ということが,臨床的に確認されるからである.神経症は,性本能の前性器的な固着に起因する.精神分析治療は,前性器的な固着を解く.すると,何が生ずるか?理論的に期待されていたのは,性本能の性器体制への成熟である.しかし,実際に臨床的に確認されるのは,不安の強まりである.つまり,患者は,前性器的な固着の解消によって,phallus Φ に与り得るようになるのではなく,しかして,「性関係は無い」の穴 — 死的な否定存在論的孔穴 — に直面させられるだけである.


つまり,phallus Φ は,否定存在論的孔穴を塞ぎ得るものとして措定され,それによって,否定存在論的孔穴を「死的」なものから「性的」なものへ変化させ得るかのように見えているが,そのような phallus Φ はただの仮象にすぎない.


しかし,一般的には,phallus Φ は「本物」であり,性本能の性器的な満足は可能であるはずだ,といまだに信ぜられている.その「信ずる」は,イデオロギーであったり,信仰であったり,妄想であったりする.


家父長制 (patriarcat, patriarchy) は,社会制度としてはもはや存続していない.しかし,ひとつのイデオロギーとしては,いまだに支配的である.イデオロギーとしての家父長制を,「家父長主義」(patriarchalisme, patriarchalism) と呼ぼう.


家父長主義と関連する病理は,男性中心主義である.それは,machismo, phallocratie[ファロス支配主義],phallofascisme[ファロス全体主義]などとも呼ばれる.


家父長主義と男性中心主義は,息子が父から与えられる phallus Φ は「本物」である,と信ずるイデオロギーないし妄想に存する.その妄想にもとづいて,無差別殺傷事件が起きることさえある — "incel" (involuntary celibate) と自称する若者たちが,集団的にではなく,あくまで個別的に,孤独に,何件かのテロ事件を起こしている. 日本においても,家父長主義は,今や単なるイデオロギーの次元を通りこして,妄想の域に達している,と言ってよい.


そのような「信ずる」の病理の悪化は,何によっているのか?それは,否定存在論的孔穴を塞ぎ得るものとしての phallus Φ が,ほかの形而上学的な諸形象 (ἰδέα, ούσία, substantia, essentia, etc.) と同様に,科学と資本主義の支配性のもとで,無効化されつつあるからにほかならない.「信ずる」が妄想的となってきているとすれば,それは,イデア的なものの無効化に対する反動の効果にほかならない.




「男である」ことの否定存在論的規定性


さて,生物学的性別 (biological sex) でも社会学的ジェンダー (sociological gender) でもない,性別の第三の規定性 — 否定存在論的規定性 — に,今や,やっと論を進めることができる.


ある人間が否定存在論的に「男である」ことは,その者の生物学的な性別にかかわらず(つまり,生物学的には女性であってもよい),phallus Φ  ないし,phallus Φ を有していると見なされる父親ないし父親的な人物 — を「自我理想」(Ichideal) として取り込み,それと同一化することに存する.


その限りにおいて,phallus Φ は男の自我理想である,と言うことができる.


また,phallus Φ は,息子が父から与えられるものであれば(その親子関係は,生物学的なものである必要はなく,「精神的」なものであってもよい),その継承の連鎖を遡って行けば,神話的な「源初の父」(Urvater, patriarche, patriarch) が起源に想定され得る.


Freud は,『トーテムとタブー』(1913) において,原始時代の部族社会はそのような Urvater によって支配されていたのではないか,と空想している.Urvater は,独裁的,専制的に支配しており,部族の女性すべてを独占していた.息子たちは,団結して反乱を起こし,父を殺害し,父の力を自身へ取り込むために,死んだ父の肉を食べた.しかし,父殺しの罪意識のゆえに,自身に律法を課し,父の所有物であった女たちとは性関係を持たないことにした(近親相姦の起源の神話).


ともあれ,息子が父から与えられる phallus Φ は,その神話的な起源のゆえに,「家父長ファロス」(le phallus patriarchal) と呼ぶこともできる.


冒頭に掲げた Lacan の「性別の公式」(les formules de sexuation) のうち,男の側の式を見てみよう:




そこにおいて,Lacan は,Φ を形式論理学における賓辞のように扱っている.



は,Urvater を表す式である.つまり,il ex-siste x tel que Φ(x)Φ(x) であるような x が解脱実存している].


勿論,通常の形式論理学では,




は,単に「...であるような x が現存 [ exister ] している」である.それに対して,Lacan の性別の式においては,Urvater は,息子たちと同じ次元において「現存」しているのではなく,「死せる父」として,現存している息子たちとは異なる次元において「解脱実存」している,ということが形式化されている.


それに対して,



は,息子たちを表している.つまり,pour tout x φ(x)[すべての x について φ(x) である].


そこにおいて,φ(x) は,息子 x が家父長ファロス Φ を男の自我理想として取り込み,それと同一化している事態を表す賓辞である.息子たちは,すべて,同じ家父長ファロス Φ と同一化している限りにおいて,相互に同一化している.そして,それによって,「すべての男」の集合が形成される.

集合論の記号を用いるなら,男の集合 M は,こう定義される:

M = { x | φ(x) }

この集合 M は,全称命題



によって規定されていることによって,ひとつの集合として現存している.

ある者 x が「男である」ということは,その x が男の集合 M の要素である,ということであり,形式的には単純にこう表記され得る:



また,男の側の性別の式を否定存在論的トポロジーの図のなかに配置するなら,こうなる:


「すべての男」がひとつの集合を成し得るということは,「男性全体主義」(le totalitarisme mâle, male totalitarianism) を条件づけている.つまり,家父長ファロス Φ を共通の自我理想とすることによって相互に同一化した男たちは,ひとつの「すべて」を形成することにおいて,その「すべて」に属さない者たちをことごとく排除し,差別する.そして,ひとつの社会全体がその「すべて」によって支配され,その「すべて」に属さないものたちは社会の辺縁へ追いやられる.先に挙げたいくつかの表現  machismo, phallocratie, phallofascisme — は,同じ事態を指している.そして,それが,性差別 (sexisme, sexism) の本質である.




「男である」から「父である」へ


先ほども言及したように,男の自我理想 phallus Φ は,ほかの形而上学的な(イデア的な)諸形象と同様に,科学と資本主義の支配性のもとで,ますます無効化されつつある.それにしたがって,疑問はますます大きくなってきている :「男である」とは如何なることに存するのか?


そして,一方では,男の自我理想 phallus Φ の無効化が進行しつつあり,他方では,それに対する反動も強まっている:たとえば,家父長制や toxic masculinity[有害な男性性]の理想化,少数者(民族学的少数者,性的少数者,等々)に対する差別や嫌悪の悪化,等々.


男の自我理想としての phallus Φ の再強化を目ざすことは,形而上学が無効化された現代においては,もはや問題外である.つまり,理想的な「男である」を明確に定義しなおそうとしても無駄である.


今,必要なのは,むしろ,「男である」ことの彼方において,「父である」とは如何なることに存するのか?「父である」ことは如何に可能であるのか?を問うことである.


勿論,それは,家父長主義的な「父である」ではない.そうではなく,キリスト教的な愛(あわれみ,いつくしみ)の体現としての父性である.


キリスト教においては,神は「父」と呼ばれる.そして,「神は愛である」と言われる.その限りにおいて,「父である」は「愛する」に存する.


そのような父性は,死せる Urvater の解脱実存性ではなく,しかして,書かれないことをやめない不可能な「神の名」の解脱実存性を代理するボロメオ結合性  多様性における一致を可能にするボロメオ結合性  に存する.このことについては,別の機会に論ずることにしたい.




「女である」ことの否定存在論的規定性の不可能性


冒頭に掲げた Lacan の性別の公式は,男の側と女の側のふたつの式から成っている.しかし,だからと言って,Lacan は性別男女二元論 (gender binarism) に与していた,というわけではない.


性別の公式の女の側は,こう表記されている:




そこにおいて,記号




は,否定の記号である.




この式は,il n'ex-siste pas x tel que Φ(x)Φ(x) であるような x は解脱実存していない]ということを形式化している.つまり,死せる Urvater Φ(x) の解脱実存は,女の側には位置づけられない.


他方,式




は,ce n'est pas pour tout x que φ(x)すべての x について φ(x) であるというわけではない]と言っている.つまり,「女である」ということを,positif[肯定的]にではなく,apophatique に(否定命題によって)述べている.


Lacan が「女」に関して肯定命題を措定するのを避けたことは,否定神学 (la théologie apophatique) が「神」に関して肯定命題を措定するのを避けたことを動機づけたのと同じ否定存在論的構造によって動機づけられている.つまり,「神」は 存在 であるのと同じく,「女」は 存在 である.


そのことを,Lacan は,La Femme n'existe pas[女は,現存していない]または La Femme n'ex-siste pas[女は,解脱実存していない]という簡潔な — しかし,やはり一般聴衆を驚かさずにはいない — 公式によって,言っている.


その場合,「女」(La Femme) は,「x は女である」を表す命題によって規定され得る女すべての集合のことである.そのような集合は,「女である」ことを形式化し得る賓辞は書かれ得ないことによって,不可能であり,しがたって,男の集合が現存するようには現存し得ず,また,男にとっての Urvater が解脱実存するのと同じ意味において解脱実存することもない.


「女である」ことを形式化し得る賓辞は書かれ得ない — それは,男の自我理想 phallus Φ に相当するものは女の側には無いからである.もし仮に「女の自我理想」が措定され得るなら,「女である」ことは,それとの同一化によって規定され得ることになるだろう.しかし,実際には,「女の自我理想」は措定され得ず,したがって,否定存在論的に「女である」ことは positif には規定され得ない.「女である」ことは,「男であるのではない」— つまり,男の自我理想 phallus Φ との同一化が成立していない — ということとして,negatif に言うことしかできない.


そして,そのことにおいて,女の側には,あらゆる「男にあらず」の多様性(性的多様性)が位置づけられる.例えば,たとえ生物学的には男であっても,男の自我理想との同一化が成立していなければ,その者は「男である」のではなく,否定存在論的には女の側に位置づけられる.また,男であるか否かが流動的 (gender fluid) である場合には,男の自我理想との同一化が不安定であることが推察される.




「女らしさ」の仮面舞踏会と女性悦


否定存在論的に a priori[先験的]に「女である」ことは positif には規定され得ないのに対して,経験論的には,ある者が「女らしい」(être féminine) と言うことは必ずしも不可能ではない.では,それは如何なることに存するのか?それは,「女性らしさ」の「理想自我」(Idealich) を取り込み,それと同一化することによって規定される.


「女性らしさ」の理想自我との同一化によって「女」らしくあることに存する「女性性」を,イギリスの女性精神分析家 Joan Riviere (1883-1962) は,1929年に発表された論文において,「仮面舞踏会」(masquerade, mascarade) に譬えている.


そのような「女性性」(一般的に「女性らしさ」と呼ばれているもの)は,「仮面」にすぎない — なぜなら,女性性の「本質」は規定不可能であるから.


「女性らしさ」の理想自我は,男の自我理想 Φ が普遍的であるのとは対照的に,まったく一定していない.たとえば,現代社会においては,服装や化粧品などの商業的な宣伝や広告によって,いかようにでも変化し得る.


しかし,そのような仮象的な「女性らしさ」の彼方に,ある種の神秘的な女性性 「まったく異なるもの」としての女性性 — が示唆される.そのような女性性は,男が経験し得るファロス悦 (la jouissance phallique) とはまったく異なる悦としての女性悦 (la jouissance féminine) ファロス悦の彼方の悦としての女性悦 — に存する.


しかし,女性悦を神秘化しすぎないでおこう.ここで詳論することはできないが,Lacan が「女性悦」(la jouissance féminine) と呼んだものは,むしろ,仮象的な「女らしさ」の仮面舞踏会を捨て去ることに存する「分離の悦」(la jouissance de séparation) である.そして,精神分析の経験においては,分離の悦は,精神分析の終結において,昇華の悦 (la jouissance de sublimation) へ導かれることになる.先ほど言及した「父である」ことの問題も,昇華との関連において論ぜられるだろう.


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