前回の 3月10日付の blog に引き続き,負債と罪の問題について考えてみましょう.
1955年の書
La chose freudienne のなかに Lacan は特に « la dette symbolique » [徴在的負債]と題した一節を設け,その最後の部分 (Écrits,
p.434) でこう言っています:
ce qui frappe
dans le drame pathétique de la névrose, ce sont les aspects absurdes d’une
symbolisation déconcertée, dont le quiproquo à mesure qu’on le pénètre plus
avant, apparaît plus dérisoire. Adaequatio
rei et intellectus : l’énigme homonymique que nous pouvons faire
jaillir du génitif rei, qui sans même
changer d’accent peut être celui du mot reus,
lequel veut dire partie en cause en un procès, particulièrement l’accusé, et
métaphoriquement celui qui est en dette de quelque chose, nous surprend à
donner à la fin sa formule à l’adéquation singulière dont nous posions la
question pour notre intellect et qui trouve sa réponse dans la dette symbolique
dont le sujet est responsable comme sujet de la parole.
[神経症の悲愴なドラマにおいて印象的であるのは,不調和な記号化〈其の取り違えのさまは,分析が進むにつれて,ますますバカバカしいものに見えてくる〉の不条理な様相である.物と識知との等合 [ adaequatio rei et intellectus
] : 驚くべきことに,res [物]の属格 rei – 其れは,アクセントを変えることなく,reus という語〈其れは,訴訟当事者,特に被告人の謂であり,そしてメタフォリックに,何らかの負い目を負っている者の謂である〉の属格でもあり得る – から発生させ得る同音異義の謎は,つまるところ,本同的な等合 – 我れらが措定したのは我れらの識知にとっての其の問い(人間の識知にとって本同的な等合は如何という問い)であり,かつ,其れは,徴在的負債〈口葉(ことば)の主体としての主体は,其の責を負うている〉のなかにその答えを見出す – を公式化する.]
この一節へ,Lacan は,Séminaire XXIV, 1977年3月15日の講義のなかで言及しています:
Contrairement à
ce qu’on dit, il n’y a pas de vérité sur le réel, puisque le réel se dessine
comme excluant le sens. Ça serait encore trop dire, qu’il y a du réel, parce que
pour dire ceci, c’est quand même supposer un sens. Le mot « réel » a lui-même un sens. J’ai même,
dans son temps, un petit peu joué là-dessus. Je veux dire que, pour invoquer
les choses, j’ai évoqué en écho le mot « reus » qui, comme vous le savez, en latin
veut dire « coupable ». On
est plus ou moins coupable du réel. C’est bien en quoi d’ailleurs la
psychanalyse est une chose sérieuse. Je veux dire que c’est pas absurde de dire
qu’elle peut glisser dans l’escroquerie.
[世に言われているのとは逆に,実在について – 実在のうえに – 真理は無い.というのも,実在は,意味を排除するものとして描き出されるから.「実在が在る」と言うことは,さらに言い過ぎであろう.なぜなら,そう言うためには,やはり意味を仮定することであるから.「実在」という語は,それ自身,意味を有している.そのことで往時,わたしは若干,語呂合わせさえした.つまり,事を後ろ盾とするために,わたしは,res という語に対する反響で,reus という語を喚起した.それは,周知のように,ラテン語では「負い目を負うている者,債務者,被告人,罪人」の謂である.我々は,多かれ少なかれ,実在のゆえに有罪である.そもそも,まさにそのことにおいてこそ,精神分析は真剣事なのだ.つまり,「精神分析は詐欺へ変質し得る」と言うことは,ばかげてはいない.]
以上のふたつの引用箇所において Lacan
が問題にしているのは,ひとつの
inadéquation, 不等合です:物と識知との不等合,実在と意味との不等合.
また,« il n’y a pas de
vérité sur le réel » [実在について – 実在のうえに – 真理は無い]という命題は,1965年の『科学と真理』において提示されている命題 :
« nul langage ne saurait dire le vrai sur le vrai » [真について – 真のうえに – 真を言い得る言語は無いだろう] (Écrits, p.867), ならびに le
« manque du vrai sur le vrai » [真についての – 真のうえの – 真の欠如] (ibid., p.868) と等価です.
そしてそれは,« il n’y a
pas de métalangage » [メタ言語は無い] (ibid., pp.813 et 867) と等価であることにより,« il n’y a pas d’Autre de l’Autre »
[他の他は無い] (ibid., pp.813 et 818) と等価であり,かくして,学素 S(Ⱥ) (ibid., p.818) と等価となります.
要するに,かかわっているのは,Saussure の言語構造
に着想を得て Lacan が形式化した主体の存在の真理の現象学的構造
または
です.
上の引用において Lacan は « le sujet de la parole »
[口葉(ことば)の主体]と言っていますが,主体と言語との連関を最も単純明快に公式化しているのは Heidegger です :
« die Sprache ist das Haus des Seins » [言語は,存在の家である].すなわち,存在としての人間主体は言語の構造のなかに位置づけられます.主体の存在論的構造 – 主体の存在の真理の現象学的構造 – は,言語の構造と等価です.
言語構造において徴示素は被徴示そのものではなく,被徴示を代表ないし代理するものでしかないのと同様に,主体の存在の真理の現象学的構造においては,真理 [ vérité ] は,真理そのものならざる仮象 [ semblant ] によって代表されるしかなく,同じく,実在 [ le réel ] は,実在そのものならざる影在 [ l’imaginaire ] によって代表されるしかありません.すなわち,真理ないし実在について – 真理ないし実在のうえに – 真を言うことは不可能です.
そして,真理と仮象との間,実在と影在との間の切れ目 – 言語構造の学素において徴示素の座と被徴示の座とを区切る水平の線分 – を成すのが,S(Ⱥ) の穴としての徴在の位 [ l’ordre
du symbolique ] です.
このように言うと,説明の順序としては,徴在が最後になってしまいますが,本当は,徴在こそが,構造の可能性の条件として,第一次的なものです.徴在の穴がうがたれ,徴在の切れ目がつけられてこそ,影在と実在,仮象と真理は差異化され得ます.影在が実在に対して不等合的であり,真理に対する仮象でしかあり得ないのは,徴在の穴がうがたれたからにほかなりません.
ですから,Lacan
もこう言っています : le sujet en tant que sujet de la
parole est responsable de la dette symbolique [口葉の主体としての主体は,徴在的負債の責を負うている].
こう言い換えてもよいでしょう : le parlêtre est coupable de la dette symbolique [言語存在は,徴在的負債の故に有罪である].
人間は,言語存在であることにおいて,構造的に有罪である.それが,神学において原罪と呼ばれているものの正体です.
ところで,先ほど引用した1977年3月15日の講義においては,Lacan は « on est plus ou moins coupable du réel » と言っています.「徴在的負債の故に有罪である」ではなく,「実在の故に有罪である」.しかも,原罪として絶対的に有罪であるのではなく,「多かれ少なかれ有罪である」.どういうことでしょうか?
1955年の La chose freudienne においても,1977年の Séminaire においても,Lacan
は,res [物]の属格 rei と reus [負い目を負うている者,罪人]の属格 rei との一致に言及しています.それに関連して我々は,Séminaire VII, 1959年12月23日の講義 (p.101, version Seuil) において,Lacan が,聖パウロのローマ書簡の 7章 7-11節を,そこにおける「罪」 [ ἁμαρτία, péché ] という語に「物」 [ Chose ] という語を代入しつつ,引用しているのを思い出します:
Est-ce que
la loi est la Chose ? Que non pas ! Toutefois je n’ai eu connaissance de
la Chose que par la loi. En effet, je n’aurais pas eu l’idée de la convoiter si
la loi n’avait dit : Tu ne la convoiteras pas. Mais la Chose trouvant
l’occasion produit en moi toutes sortes de convoitises grâce au commandement. Car
sans la loi, la Chose est morte. Or, moi j’étais vivant jadis, sans la loi. Mais
quand le commandement est venu, la Chose a flambé, est venue de nouveau, alors
que moi j’ai trouvé la mort. Et pour moi, le commandement qui devait mener à la
vie, s’est trouvé mener à la mort. Car la Chose, trouvant l’occasion, m’a
séduit grâce au commandement, et par lui m’a fait désir de mort.
[律法は物であるか?とんでもない!しかるに,律法によるのでなければ,わたしは物を識らなかった.いかにも,もし仮に律法が「物を欲望するなかれ」と言わなかったなら,わたしは,物を欲望することを知らなかっただろう.しかし,物は,機会を捉えて,命令(戒律,掟)により,あらゆる類の欲望をわたしのうちに作り出した.そも,律法無しには,物は死んでいた.律法無しに,わたしはかつて生きていた.しかし,命令が来たりて,物は生きかえり,そしてわたしは死んだ.命へ至る命令が,わたしにとっては,死へ至るものである,とわかった.そも,物は,機会を捉えて,命令によりわたしを誘惑し,そして,命令によりわたしに死の欲望を生ぜしめた.]
そこにおいて Lacan は,単純に「罪」に「物」を代入しているだけでなく,若干の変奏を行ってもいます.特に「欲望,貪欲」について,原文は単純に名詞 convoitise が使われているのに対して,Lacan は敢えて動詞 convoiter を用いて,「物を欲望すること」と言っています.そして,最後の部分,聖パウロは「罪は,命令によって,わたしを死なせた」と言っているのに対して,Lacan は「物は,命令により,わたしに死の欲望 [ désir de mort ] を生ぜしめた」と言っています.「死の欲望」には,Freud の言う Todestrieb [死の本能]が読み取れます.
かくして,こう読解することができます:そこにおいて Lacan が念頭に置いているのは,死の本能としての欲望 $ と,l’achose とも表記されることになる la Chose としての客体 a との連関,すなわち,幻想の学素 ( $ ◊ a
) である.
かくして,「我々は多かれ少なかれ実在の故に有罪である」という命題は,「我々は,多かれ少なかれ,l’achose としての客体 a の故に有罪である」と読みかえられ得ます.
客体 a は,剰余悦として,症状の言説としての分析家の言説においては,主体の存在の真理を代表する能動者(代表者,代理物)の座に位置づけられます.能動者の座に位置する剰余悦 a は,しかし,真理そのものではなく,真理を「多かれ少なかれ」忠実に – あるいは不忠実に – 代表する仮象的な代理物にすぎません.その意味において,「我々は多かれ少なかれ実在の故に有罪である」.しかしそれも,つまるところ,仮象と真理との間の切れ目としての徴在の穴の故にです.
ここで,前に紹介した Séminaire
VII の一節を思い起こしましょう.1960年7月6日の講義において Lacan は,« la seule chose dont on puisse être
coupable, c’est d’avoir cédé sur son désir » [其れがゆえに我々が有罪であり得るところの唯一のことは,己れの欲望に関して譲歩したということである]と公式化した後で,こう言います:
Si l’analyse a un
sens et si le désir est ce qui supporte le thème inconscient, l’articulation
propre de ce qui nous fait nous enraciner dans une destinée particulière –
laquelle exige avec insistance que la dette soit payée – revient, retourne pour
nous ramener dans un certain sillage, dans quelque chose qui est proprement
notre affaire.
[もし精神分析には意味があり,かつ,もし欲望は無意識的な主題(無意識という主題,無意識という問題)を支えるものであるなら,されば,我れらを個別的な運命〈其れは,負債が返済されるよう,執拗に要請する〉のなかへ根づかせるものの固有な連なりは,回帰し,戻り来て,我れらを或る軌跡へ
– 本自的に我れらの本事である何ごとかへ –
我れらを連れ戻す.]
「欲望に関して譲歩する」における欲望は,当然ながら,通常の意味での「あれが欲しい,これが欲しい」の欲望ではなく,而して,その破壊不可能性と満足不可能性における根本的な欲望,他の欲望 Ⱥ としての欲望,すなわち,ex-sistence としての存在欠如そのものです.それは,不可能在としての実在です.
如何なる存在事象も,欲望 Ⱥ を満足させることはできません.したがって,欲望の満足に関して如何なる譲歩もしないとするなら,すなわち,欲望に関して真摯であり,欲望に対して本当に忠実かつ誠実に答えようとするならば,欲望を満足させるかに見えるかもしれない存在事象は,単なるごまかし – Lacan が剰余悦 [ le plus-de-jouir ]
と名づけたもの – として,すべて拒否されねばなりません.すなわち,穴 S(Ⱥ) が開かれたままであることに耐えねばなりません.
にもかかわらず,まずもって大概のところ,Ⱥ の穴 S(Ⱥ) は,何らかの仮象的剰余悦 a によって塞がれています :
この事態が,「欲望に関して譲歩した」ということです.
したがって,「欲望に関して譲歩した」という事態も,埋め合わせ不可能な徴在の穴 S(Ⱥ), すなわち,徴在的負債に由来しています.
上に引用した1960年7月6日の講義の一節における revenir [回帰する]は,「常に同じ座に回帰する」ものとしての実在を示唆しています.また,articulation [連なり,連節]は,その固執における徴示素連鎖 [ l’insistance de la chaîne signifiante ]
を示唆しています.それによって規定される反復強迫 [ Wiederholungszwang, automatisme
de répétition ] は,「我々を個別的な運命へ根づかせる」ことになります.
では,「負債が返済されるよう執拗に要請する」ものは何か?それは,あの「猥褻かつ強暴な形象」たる超自我です.「負債を返済せよ」という要請は,超自我の定言命令:「悦せよ」と等価です.
超自我の命令:「悦せよ」は,遂行不可能です.なぜなら,性関係は無いからです.「負債を返済せよ」という命令も,同様に,遂行不可能です.なぜなら,原罪があるからです.
しかし,我々は,まずもって大概のところ,超自我の定言命令から自由ではありません.そのとき何が起こるか?命令を遂行したようなふりをするというごまかしです.ごまかしは,我々の日常的な実存様態であり,または,症状としての実存様態です.
「悦せよ」という定言命令の遂行を不可能なものとして単純に退けることができないときに起こる悦のごまかしを,Freud は「代理満足」 [ Ersatzbefriedigung ] と呼び,Lacan
は剰余悦 [ le plus-de-jouir ] と名づけました.それは,不可能な悦の代補 [ suppléance ] です.そしてそれが,症状の本質を成します.
しかし,いくら我々が剰余悦を以て他 Ⱥ の欲望に対する答えをごまかしたつもりになっていても,超自我の方はごまかされません.それは,「負債を返済せよ」と執拗に要請し続けます.すると我々は,欲望に対して剰余悦のごまかしをますます重ねて行かざるを得ません.しかしそれは,「欲望に関して譲歩する」ことをますます続けて行くことにほかなりません.つまり,罪はますます重くなって行きます.Freud が「無意識的な罪意識」や「無意識的な有罪感」と呼んだものは,ますます強くなって行きます.
では,どうすればよいのか?みづから精神分析を経験することによって,ごまかしをやめ,罪を認めることです – 原罪に至るまで.仮象的な剰余悦を放棄し,他の欲望の穴 S(Ⱥ) を塡塞不可能なものとして認めることです.そしてそれは,原罪を認めることにほかなりません.なぜなら,我々は原罪を負うている,ということは,言語存在としての我々の存在論的構造の可能性の条件は徴在の穴 S(Ⱥ) である,ということですから.
ごまかしの剰余悦を捨て去り,罪を,原罪に至るまで,すべて認めて,悔いるときに,何が起こるか?罪の赦しです.我々は,鬱々たる有罪感から解放されて,Lichtung [朗場]の Heiter [明朗]へ至ることができます.それが,死からの復活とともに,精神分析の終わりにおいて成起するはずのことです.
「精神分析は詐欺へ変質し得る」という Lacan
の警告に関して若干の注釈を加えておきましょう.精神分析の詐欺への変質が起こり得るのは,徴在の切れ目による実在と影在との不等合を何らかのしかたでごまかしつつ,「我れは,真のうえに真を言う」と主張する者,言い換えれば,「他の他」 [ Autre de l’Autre ] として振る舞う者,すなわち,「下司」 [ canaille ] と Lacan が呼ぶ者が,分析家の機能を臆面も無く果たそうとするときにです.実際,そのような下司を Lacan は「詐欺師」 [ imposteur ] (Écrits, p.813) と規定しています.
精神分析のことがほとんど知られていない日本には,みづから精神分析を経験してもいないのに「精神分析医」や「精神分析家」を自称している者が現にいます.我々としては,そのような者たちに近づかないよう,人々に警告を発せざるをえません.また,そのような者たちによる金銭的,精神的,性的な詐欺や搾取の被害者となった人々の訴えに耳を傾ける用意があります.
さて,前回,3月10日付の blog で紹介した Lacan のテクスト部分に戻って,詳細な読解を試みましょう.そもそも,ここでは Le séminaire sur « La Lettre volée »
のなかの一節 (Écrits p.27) を解説するのが我々の本来の目的ですから.改めて引用しておきます:
Plût au ciel que
les écrits restassent, comme c’est plutôt le cas des paroles : car de celles-ci
la dette ineffaçable du moins féconde nos actes par ses transferts. Les écrits
emportent au vent les traites en blanc d’une cavalerie folle. Et, s’ils
n’étaient feuilles volantes, il n’y aurait pas de lettres volées.
[scripta manent, verba volant (書かれたものは残り,口先だけの言葉は飛び去る)というラテン語の諺のとおりに「書は残る」ということが天のお気に召すように – むしろ,口葉(ことば)の場合にそうであるように:そも,口葉に関しては,少なくとも,帳消し不可能な負債が,その移転によって,我れらの行為を豊かにする.書は,狂気の白紙空手形を風に持ち去らせる.そして,もし仮に書がルーズリーフでなかったなら,盗まれた手紙も無かったであろう.]
加えて,ローマ講演から同内容の一節 (Écrits, pp.302-303) をも:
c’est en
reconnaissant la subjectivation forcée de la dette obsessionnelle (...) dans le
scénario (...) de la restitution vaine, que Freud arrive à son but : soit à lui
faire retrouver dans l’histoire de l’indélicatesse de son père (...) la béance
impossible à combler de la dette symbolique dont sa névrose est le protêt.
[Rattenmann の徒労に終わった返済のシナリオのなかに強迫神経症的負債の強制的主体化を認めることによって,Freud は目的を達成する:すなわち,Rattenmann に対して,彼の父の不誠実さの歴史のなかに,徴在的負債
– 彼の神経症は,その負債に対する手形抗弁である –
という埋め合わせ不可能な裂口を見出させることによって.]
さて,常識的には,ラテン語の諺のとおり,紙や石に書かれたものは確かな証拠として残るのに対して,口頭で言われたことは必ずしも記憶に残りませんし,残っていてもしばしば不正確です.にもかかわらず,Lacan は「残るのはむしろ,口葉(ことば)の方だ」と言っています.
ここで,「ことば」を「言葉」ではなく「口葉」と表記することについて若干の注釈をさしはさむと,それは,「口」の卜文や金文における表記
の字に白川静が見出した意義を尊重するためです.白川によれば,「口」は,解剖学的な口を指すよりも,むしろ,源初的に,祝祷ということばの根本的な機能を指し示す字です.そのことを利用して,Lacan が用いる parole という語がことばの本質的な機能を差し徴すときには,それを「口葉」(ことば)と翻訳したいと思います.
Les paroles restent. 口葉は残る.それは,Jesus
の言葉 (Mt 24,35)
を思い起こさせます : ὁ
οὐρανὸς καὶ ἡ γῆ παρελεύσονται, οἱ δὲ λόγοι μου οὐ μὴ παρέλθωσι [天と地は過ぎ去るだろうが,わたしのことばが過ぎ去ることはない].ここでは
λόγος という語は複数形で使われていますが,しかし,ヨハネ福音書の冒頭の ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος [源初に λόγος が在った]がすぐに喚起されます.この λόγος は Jesus 自身であり,開闢の切れ目 S(Ⱥ) そのものです.同様に,Lacan も複数形で les paroles と言っていますが,本当に問題となっているのは単数形の la parole であり,そして,le sujet de la parole です.
La dette ineffaçable [帳消し不可能な負債],ならびに la béance impossible à combler de la dette symbolique [埋め合わせ不可能な〈徴在的負債の〉裂口].先に見たように,le sujet en tant que sujet de la parole est responsable de la dette symbolique, 口葉の主体としての主体は,徴在的負債の責を負うています.徴在的負債の裂口 S(Ⱥ) は,口葉の機能と言語の構造との可能性の条件である徴在の穴 S(Ⱥ) そのものです.言い換えれば,言語存在としての人間は,己れの存在論的構造を,徴在の穴としての徴在的負債の裂口に負うています.したがって,人間が言語存在である限りにおいて,人間にとっては,徴在的負債は埋め合わせ不可能な穴であり続けます.
Les transferts de la dette ineffaçable. この transfert は,精神分析的な意味における「転移」ではなく,而して,商法などの法律の分野で言う「移転」です.或る権利の帰属者を或る人から他の人へ変更することです.
Lacan が念頭においているのは,Freud の症例 Rattenmann における父の Schuld [負債,罪]の問題です.彼の父親は,軍の下士官であった若いとき,所属していた部隊の公金の一部を賭博のために使い込んでしまいましたが,事が発覚して横領の罪に問われる前に,友人が貸してくれた金で穴埋めすることができました.しかし,不明な事情により,その友人への返済を果たすことはできませんでした.つまり,彼の父親は返済不可能な負債を負っていました.Freud は,Rattenmann が下士官として軍事演習に参加していたときに見舞われた強迫観念 – それは,立てかえてもらった眼鏡の代金を誰に対して如何にして返済するかにかかわっています
– のなかに,その「返済不可能な父の負債」の問題を読み取ります.
事情はこうです:軍事演習中に彼は眼鏡を紛失したので,Wien の眼鏡屋から新たな眼鏡を取り寄せます.品物が演習地の近くの郵便局に届いたとき,或る職員が代金を立て替えてそれを受け取り,さらに,或る人にそれを
Rattenmann に届けてくれるよう頼みます.眼鏡は無事に彼の手元に届きます.そして,誰が代金を立て替えてくれたかについても正しい情報が彼に伝えられます.ところが彼は,事実を知っているにもかかわらず,すぐさま返済を履行しようとはせず,代わりに,彼の頭の中には,誰に対して如何にして返済するかに関して現実的には実行不可能なことを命ずる強迫観念が展開されます.そして実際,彼は,軍事演習地滞在中に負債を支払うことができませんでした.(ただし,Wien に戻ってから,実際には始めから知っていた事実にもとづいて,立てかえをしてくれていた郵便局職員に宛てて,しかるべき金額を送金しました.)
つまり,Rattenmann の強迫観念の症状において,帳消し不可能な負債は父から彼へ「移転」されました.そのことを
Lacan は「負債の強制的主体化」とも言っています.そして,その移転によって,強迫神経症の症状行為は,その意義において「豊かに」なります.すなわち,父の負債を返済しようとするふりをしつつも,実際にはその履行が不可能であるようにしている,という意義です.Lacan が用いている表現で言うなら,「手形抗弁」の意義です : Rattenmann の神経症は,徴在的負債に対する手形抗弁 [ protêt ] である (Écrits, p.303).
protêt という商法用語は,語源的に動詞 protester [抗議する,抗弁する]と関連しています.ドイツ語や英語には名詞 Protest, protest があります(フランス語では protestation と言います).ともあれ,精神分析家にとっては,männlicher Protest [男性的抗議]という表現がすぐさま連想されます.男性患者の精神分析治療において去勢不安に対する究極的な抵抗と否認を成す現象です.おそらく Lacan もその表現を念頭に置きつつ,負債の返済に対する抵抗ないし拒絶としての神経症症状を指すために,protêt という商法用語を使ったのでしょう.
同じ事態を言い表すために,Lacan は Écrits p.27 では les traites en blanc d’une cavalerie folle と言っています.cavalerie は「騎兵隊,騎兵部隊」ですが,商業の語彙において traites (または effets, chèques) de cavalerie は,実際には履行されない支払があたかも履行されるかのごとくに装うために振り出される手形です.いわゆる「空手形」です.他方,en blanc は,その手形は「誰が,誰に,幾らを,いつ」支払うかが全く書かれていない白紙状態だ,ということです.
folle は形容詞 fou [狂気の,狂人の]の女性形です.直前の女性名詞 cavalerie [騎兵隊]にかかっています.しかし,ひとりの騎士について chevalier fou [狂人騎士]と言えば,すぐさま連想されるのは Don Quijote でしょう.騎士道物語の虚構的世界に生き続ける Don Quijote を神経症と診断すべきか,paranoia と診断すべきか,それはどうでも良いことです.それは,広義の folie [狂気]であり,Lacan が言うところの aliénation [異状]です.
すなわち,異状の徴示素としての症状は,徴在的負債という帳消し不可能な負債を返済するかに装うための白紙空手形である.白紙であるということは,自分が債務者であることを否認しているということ,負債を引き受けることができていないということです.そして,空手形であるということは,手形を振り出しながらも本当に返済する気はない,ということです.単なるごまかしであり,まやかしにすぎません.それが,徴在的負債に対する症状の本質です.
そして最後に Lacan は,精神分析治療に関連する重要なことをひとつ指摘しています.それは,症状という白紙空手形は,書であるがゆえに,ルーズリーフのように一枚一枚ばらばらに分離することが可能なものである,ということ;そして,それがゆえに,紙が一枚一枚風に持ち去られ得るように,症状はひとつひとつ剥ぎ取られ得る,ということです.
しかし,そのためには,症状の剰余悦の徴示素 a が排斥の言説としての支配者の言説において生産の座に隠れたままでいてはなりません.
a は,分析家の言説において能動者(代理物)の座に現れ出でねばなりません – その座から,精神分析的解釈の作用によって,分離され,廃位されるために.
ともあれ,今回は,la dette symbolique
[徴在的負債]の概念を詳細に検討することができたと思います.
毎週金曜日の晩に行われる東京ラカン塾精神分析セミネールは,現在,春休み中です.2015-2016年度第三学期は,4月15日に開始します.引き続き,Lacan の Le séminaire sur « La Lettre volée » の読解を継続します.
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