2016年3月10日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-16年度 第16回,2016年03月11日

La dette symbolique


精神分析の臨床における有罪感,有責感の問題について考えてみましょう.何事かに関して負いめがある,罪がある,責めを負うている,と感ずること,そして,そのことを否認しようとすることは,精神分析の臨床においてしばしば問題となります.

Écrits p.27 で Lacan は « scripta manent, verba volant » [書かれたものは残り,語られた言葉は飛び去る:口頭で言われたことは,忘れ去られたり,後から否認されたりするが,書かれたものは後々まで残るので,文書作成の際には語や表現の選択に慎重であらねばならない,あるいは,重要な取り決め事は口約束のままではなく,文書化しておくべきだ]というラテン語の諺に言及した後,こう言っています:

« Plût au ciel que les écrits restassent, comme c'est plutôt le cas des paroles : car de celles-ci la dette ineffaçable du moins féconde nos actes par ses transferts. Les écrits emportent au vent les traites en blanc d'une cavalerie folle. Et, s'ils n'étaient feuilles volantes, il n'y aurait pas de lettres volées. »

[書は残るということが天のお気に召すように – むしろ,口葉(ことば)の場合にそうであるように:そも,口葉については,少なくとも,帳消し不可能な負債が,その移転によって,我れらの行為を豊かにする.書は,狂気の白紙空手形を風に持ち去らせる.そして,もし仮に書がルーズリーフでなかったなら,盗まれた手紙も無かったであろう.]

この一節とほぼ同じ内容の一節を,我々はローマ講演 (Écrits, pp.302-303) のなかに見出すことができます.そこにおいて Lacan は,Freud の強迫神経症患者 Rattenmann [ネズミ男]が捕らわれた或る強迫観念 立てかえてもらっていた眼鏡の代金を誰に如何にして返済するかにかかわる強迫観念 – の Freud による分析に準拠しつつ,こう言っています:

« c'est en reconnaissant la subjectivation forcée de la dette obsessionnelle (...) dans le scénario (...) de la restitution vaine, que Freud arrive à son but : soit à lui faire retrouver dans l'histoire de l'indélicatesse de son père (...) la béance impossible à combler de la dette symbolique dont sa névrose est le protêt. »

[徒労に終わった返済のシナリオのなかに強迫神経症的負債の強制的主体化を認めることによって,Freud は目的を達成する:すなわち,Rattenmann に対して,彼の父の不誠実さの歴史のなかに,徴在的負債 – 彼の神経症は,その負債に対する手形抗弁である – という埋め合わせ不可能な裂口を見出させることによって.]

さらに,負債とその返済とに関連して,Séminaire VII の最終回,1960年7月6日の講義からの引用も挙げておきましょう.そこにおいて Lacan は,« la seule chose dont on puisse être coupable, c'est d'avoir cédé sur son désir » [其れがゆえに我々が有罪であり得るところの唯一のことは,己れの欲望に関して譲歩したということである]と公式化した後で,こう言っています:

« Si l'analyse a un sens et si le désir est ce qui supporte le thème inconscient, l'articulation propre de ce qui nous fait nous enraciner dans une destinée particulière – laquelle exige avec insistance que sa dette soit payée revient, retourne pour nous ramener dans un certain sillage, dans quelque chose qui est proprement notre affaire. »

[もし精神分析には意味があり,かつ,もし欲望は無意識的な主題(無意識という主題,無意識という問題)を支えるものであるなら,されば,我れらを個別的な運命〈其れは,負債が返済されるよう,執拗に要請する〉のなかへ根づかせるものの固有な連なりは,回帰し,戻り来て,我れらを或る軌跡へ – 本自的に我れらの本事である何ごとかへ – 我れらを連れ戻す.]

dette [負債]という語を Lacan が用いるのは,Freud が用いる Schuld という名詞と,それに関連する形容詞 schuldig により差し徴されている問題について思考するためです.

ドイツ語の Schuld は,「負債」と「罪」のふたつの意味を有しています.日本語で一語で言うなら,「負いめ」です.an etwas schuldig sein は「... について有罪である,有責である」であり,jemandem etwas schuldig sein は「... に ... を負うている,... に対して ... の負債がある」です.

Lacan は,ですから,ときとして,coupable par la dette または coupable de la dette [負債の故に有罪である]とも言っています.

負債の問題において問われているのは,罪の問題です.さらに言えば,単に罪ではなく,神学的な意味における原罪 [ péché originel ] です.源初的な罪,源初の罪,源初に由来する罪です.

原罪のことをドイツ語では Erbsünde と言います.Sünde は宗教的な意味における「罪」,Erbe は「相続人」ないし「遺産,相続財産」です.もし仮に自身が罪を犯したことがなくても,我々は既に罪を相続しており,有罪なのです.

原罪の概念は,大部分の日本人が非反省的に信じ込んでいる仏教的な因果応報の思想にとっては受け容れがたいものです.仏教においては,悪しき業(karma, 行為)が無ければ,悪しき果(罪)もあり得ません.そして,自身の悪業の果報を免れることはできず,その責任をみづから取らねばなりません.つまり,罪が赦されることは決してありません.

それに対して,キリスト教においては,慈しみ深い神は我々の罪を赦します.原罪をも赦します.ただし,我々が自身の罪を認め,真摯に悔い,罪の赦しを神に請い求めるという条件のもとに.

つまり,我々が罪(原罪をも含めて)を認めようとしないならば,あるいは,自身の有罪性を我々自身が何らかのしかたで取りつくろい得ると思っている限りは,罪の赦しは得られません.自身を罪人と認めるときに初めて,罪の赦しが与えられ,有罪性から解放されることができます.

そのようなものとしての原罪の問題は,キリスト教においてのみかかわるのではありません.Freud が用いた「無意識的な罪意識,無意識的な有罪感」という表現を深刻に取るならば,精神分析においてかかわる罪の問題の逆説性を読み取ることができます.自身で罪を犯した憶えが無くても,我々は有罪なのです.つまり,原罪を負うているのです.

ただし,ユダヤ教の信仰もキリスト教の信仰も有していなかった Freud 自身は,原罪の問題を深く考えることはありませんでした.代わりに Freud は,Rattenmann の強迫観念において,彼の父が負った Schuld [負債]の償いの主題を読み取ります.Rattenmann は,あたかも,父の Schuld を相続したかのごとくです.つまり,一種の Erbsünde を彼は負うている,というわけです.Lacan は,そこに注目します.

Lacan の言う dette symbolique について,原罪との関連において検討してみましょう.

まず,Lacan の表現に注目しましょう : « la dette ineffaçable » [帳消し不可能な負債],« la béance impossible à combler de la dette symbolique » [徴在的負債の埋め合わせ不可能な裂口].

徴在的負債は帳消し不可能である,なぜなら,それは埋め合わせ不可能な裂口であるから.つまり,徴在的負債とは,徴在の裂け目,穴としての徴在の位そのものにほかなりません.

徴在の裂け目は,開闢する裂け目として,源初的です.したがって,徴在の裂け目そのものとしての徴在的負債も源初的です.つまり,原罪です.

源初的にして,かつ,塡塞不可能な穴,そのようなものとしての徴在の位,それが罪の問題の根源を成します.

長くなりますから,稿を改めましょう.

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-16年度 第16回:


Lacan の Le séminaire sur « La Lettre volée » の読解を継続します.

日時 : 2016年03月11日,19:30 - 21:00,

場所:文京シビックセンター(文京区役所の建物) 5 階 D 会議室.

参加費無料.事前の申請や登録は必要ありません.

テクストは各自持参してください.テクストを入手することが困難な方は,小笠原晋也へ御連絡ください : ogswrs@gmail.com

3月11日は,2015-16年度の第二学期の最終日です.四週間の春休みの後,第三学期は04月15日に開始します.

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