主の御降誕 おめでとうございます
丸テーブルでの Spiritual conversation に何度も参加して 気がついたのは,繰り返すうちに,想像もしなかった結論が その小グループから発表されていったことである.事前にはまったく想像もつかない内容が,小グループのコンセンサスとして発表されていくので,最終文書のドラフトは,最後の週が始まるまで 完成しなかった.
Spiritual conversation には,ほとんどすべての参加者が 実際に その場で 参加し,実際に[他者のことばと 聖なる息吹のことばに]耳を傾ける〈忍耐のうちに過ごした〉時間であった.さらには,その Spiritual conversation は,教会の一部の声[高位聖職者たちの声]だけではなく,[しかして]まだ十分ではないものの あらゆる人を[女性も 若者も 一般信徒も ヒラの司祭も]平等に招き入れた 小共同体で なされた.
シノドス的教会とは,どこに進むのか あらかじめ計画を定めることが難しい 教会である.
シノドス的教会とは,忍耐を必要とし,じっくりと時間をかける手間を惜しまない 教会である.
シノドス的教会とは,それを構成するすべての人が平等に発言し 識別に参加する〈ひとつのキリストの体としての〉教会である.
その意味で,今回のシノドスは,何かを決める会議ではなく,聖霊[聖なる息吹]による導きを共同識別する術[すべ]を身につける シノドスであった.何かが決まったり決まらなかったりすることに一喜一憂せず,このプロセスを具体的に生きることの重要性を 理解したい.
聖書やカテキズムの字面が絶対的なものではなく,しかして,決定的なのは 聖なる息吹のことばである — それは,わたしたちの信仰生活にとって 根本的に重要なことです.
また,今年 最も心に残った言葉のひとつを 分かち合いたいと思います.12月17日の LGBTQ みんなのミサを司式してくださった Padre Vicente Bonet(イェズス会社会司牧センター)は,説教のなかで,2013年03月に教皇に着座してから まだ 5ヶ月ほどしかたっていない Papa Francesco に対して インタヴューをおこなった Civiltà Cattolica 誌の 編集長 Padre Antonio Spadaro SJ(当時)の 不意の問い « Chi è Jorge Mario Bergoglio ? »[Jorge Mario Bergoglio とは 誰か?]に対して こう答えました:「わたしは,主から〈慈しみを以て〉まなざされた 罪人である」.そのインタヴューのその一節を読んでみましょう:
わたし (Antonio Spadaro) は,質問を用意してあったが,あらかじめ定めてあったインタヴュー案に則らないことにした;そして,若干 藪から棒に 彼に こう問う:「Jorge Mario Bergoglio とは 誰か?」Papa は,沈黙のうちに わたしを見つめた.わたしは 彼に「それは あなたに問うてもよい問いですか?」と問う.彼は その問いを受けつけたことを示すために うなづき,わたしに こう言う:「何が最も適切な定義であるのか わたしは知らない… わたしは ひとりの罪人である.それが 最も適切な定義である.それは,文学のジャンルに属するような[比喩的な]言い回しではない.[文字どおりに]わたしは ひとりの罪人である」.Papa は 省察し続ける — 没頭して — そのような問いを予期していなかったのように,さらなる省察へ強制されたかのように.「いかにも,わたしは 多分 こう言うことができるだろう:わたしは 若干 ずる賢い;わたしは 行動することができる;しかし,わたしは また 若干 素朴でもある ということも 真である.いかにも.だが,最良の総合 — 最も内奥から浮かんでくる総合,最も真であると感ぜられる総合 — は,まさに これである:わたしは,主にまなざされた 罪人である」.そして,彼は 繰り返す:「わたしは 主にまなざされた者である.わたしの紋章の銘 « Miserando atque eligendo »[憐れみ,そして 選んだ]を わたしは いつも わたしにとって とても真なるものと 感じている」.
Papa Francesco の 紋章の銘は 聖 Beda Venerabilis (ca 673 – 735) の 説教から 取られている;彼は,マタイの召命に関する福音書のエピソード (Mt 9,09) をコメントしつつ,こう書いている : « Vidit ergo Jesus publicanum et quia miserando atque eligendo vidit, ait illi Sequere me »[かくして,イェスは,徴税人を 見た;そして,慈しみつつ[憐れみつつ]かつ 選びつつ 彼を見たので,彼に言った:『わたしに 付き従いなさい』」.そして,彼 (Papa Francesco) は 付け足す:「わたしには,ラテン語の gerundium « miserando » は イタリア語でも スペイン語でも 翻訳不可能であるように 思われる.わたしは それを もうひとつのほかの gerundium — ただし それは実際には存在しない — を以て 翻訳したくなる : misericordiando」.
Papa Francesco は,彼の省察を 続ける;そして わたしに 飛躍したことを 言う — その飛躍の意味は わたしには すぐには わらかない —:「わたしは ローマを よく識らない;わずかなことしか 識らない;わたしが識っているもののうちには Santa Maria Maggiore[大聖堂]が ある;わたしは いつも そこへ行っていた」.わたしは 笑って,彼に言う:「わたしたちは 皆 とてもよく わかります,Santo Padre !」「そうとも — と Papa は 続ける —,わたしは Santa Maria Maggiore を識っており,San Pietro[大聖堂]を識っている.だが[以前]わたしは,ローマに来ると,いつも via della Scrofa に宿をとっていた.そこから,わたしは しばしば San Luigi dei Francesi 教会を 訪れた;そして,そこにある Caravaggio の「聖マタイの召命」の絵を 見に行ったものだ」.何を Papa は わたしに言いたいのかを,わたしは わかり始める.
「イェスの指は こんなふうに向けられている — マタイへ.わたしも あのようである;わたしは 自分を あのように 感ずる — あのマタイのように」.そして,そのとき,Papa の口調は 決然となる — あたかも〈探し求めていた自己像を〉捕らえたかのように:「わたしを感動させるのは,あのマタイの所作である.彼は,彼の金[かね]を摑む — こう言うかのように:『いいえ,わたしではありません[わたしを選ばないでください;わたしを指ささないでください]! いいえ,この金[現世の利益と快楽]は わたしのものです!』それが わたしだ:主が彼のまなざしを向けたところの 罪人.そして,これが〈わたしが わたしの《教皇への》選出を 受けいれるかどうかを 問われたときに〉わたしが言ったことだ — そして 彼は こう つぶやく — : Peccator sum, sed super misericordia et infinita patientia Domini nostri Jesu Christi confisus et in spiritu penitentiae accepto[わたしは 罪人である;だが〈我らの主 イェス キリストの 慈しみ[憐れみ]と 無限の忍耐に 信頼して〉かつ〈悔悛の精神において〉わたしは 受けいれる]」.
主から〈慈しみ[憐れみ]を以て〉まなざされた 罪人 — とても感動的な表現ですね! そして,それは,Papa Francesco だけのことではなく,しかして,わたしたちは 誰もが そのような存在なのです.わたしたちは 誰もが 罪人ですが,しかし,そのような罪人として,イェスから 呼ばれたのです — 慈しみ[憐れみ]を以て まなざされ,そして,各人の召命のために 選ばれて.そのことを思い起こさせてくださった Papa Francesco と Padre Vicente Bonet に 感謝します.
では,主の御降誕のよろこびとともに,皆さま,幸多き新年を お迎えください.
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Nb 6,24-26 :
主が あなたを 祝福し,護ってくださるように.
主が 彼の顔を あなたへ向けて 輝かせ[主が あなたに 微笑み],あなたのために恵みぶかくありますように.
主が 彼の顔を あなたへ向けて 上げ[主が あなたに対して好意的であり],あなたのうえに平和を置いてくださるように[あなたに平和をもたらしてくださるように].