2023年9月12日

ヨハネの Logos を よりよく理解するために — 旧約聖書における「主の ことば」と「知恵」の 概観

Luca Giordano (1634-1705) : Il Sogno di Salomone (cf. 1 R 3,04-15)

神は,眠るソロモンに 彼の夢のなかで 現れ,彼に言う :「求めよ — 何を わたしは おまえに 与えようか?」そして,ソロモンは 統治者に必要な 知恵(賢明な心)を 求める.この絵では,知恵は,画面の右上に,ギリシャ神話の女神 アテナ(戦争の女神,知恵の女神)として 描かれている.そして,彼女は,武装しているが,イェス キリストの象徴 子羊を 彼女の左腕に 抱いている.

ヨハネの Logos を よりよく理解するために — 旧約聖書における「主の ことば」と「知恵」の 概観



ヨハネ福音書の序章 (1,01-18) を精読するためには,そこにおいて 提示されている Λόγος (Logos) が 如何なるものであるのかを 理解しておかねばならない.そして,ヨハネの Logos は 旧約聖書における「主の ことば」( דְּבַר־יְהוָה : Dbar YHWH, ὁ λόγος τοῦ κυρίου, verbum Domini ) [1] [2] と「知恵」( חָכְמָה : chokhmah, σοφία, sapientia ) [3] とに準拠している,と言われている.そこで,本稿においては,それらについて 概観してみよう. 

[1] דָּבָר の訳語として,ギリシャ語では λόγος のほかに ῥῆμα も用いられる;また,ラテン語では verbum のほかに sermo も用いられる.


[3] 参考 : Traduction œcuménique de la Bible の Jn 1,01 への 脚注


I. 旧約聖書における「主の ことば」について


I-1. 神は ことばによって 創造する


創世記 1,03-31 は,如何に 神が ことばによって 宇宙を創造したかを 物語っている.そして,そのことは,たとえば Ps 33,06 において このように歌われている:
 
בִּדְבַר יְהוָה שָׁמַיִם נַעֲשׂו
וּבְרוּחַ פִּיו כָּל־צְבָאָֽם

biḏḇar Adonai šāmayim naʿăśû
ûḇrûaḥ pîv kāl ṣᵊḇā'ām

τῷ λόγῳ τοῦ κυρίου οἱ οὐρανοὶ ἐστερεώθησαν
καὶ τῷ πνεύματι τοῦ στόματος αὐτοῦ πᾶσα ἡ δύναμις αὐτῶν

Verbo Domini caeli facti sunt,
et spiritu oris eius omnis virtus eorum.

By the word of the Lord the heavens were made,
And by the breath of His mouth all their array.

主の ことばによって 天は造られた;
そして,彼の口の息吹 [4] によって 天の軍すべては[造られた]


[4]  רוּחַ , πνεῦμα, spiritus は,既成の聖書邦訳においては「霊」と訳されているが,それが如何に不適切であるかについては,わたしの このブログ記事を参照;わたしは それらの単語を「息吹」と訳すことを 好む.


そこにおいて,「主の ことば」( דְבַר יְהוָה ) と「彼の口の息吹」( רוּחַ פִּיו ) とが 平行関係に置かれていることに 注目しよう.

その平行関係は,ヘブライ語において 詩的な効果を生むものである.David Bivin は,彼の Understanding the Difficult Words of Jesus — New Insights From a Hebraic Perspective (p.89) において,こう説明している:

ヘブライ語の詩は,英語の詩のようではない.それは,詩節の終わりにおいて韻を踏むことをしない;同じ音を繰り返すことを しない;そうではなく,同じ考えを 反復させる — あるいは,こだまさせる.つまり,同じことを 二度 言う — ただし,それぞれ 相異なるしかたによって,等価ではあるが相異なる言葉遣いにおいて.ヘブライ語の詩の この特徴は parallelism と呼ばれる.この parallelism — ふたつの同義文を〈ふたつの 相互に隣接する 詩節として〉並べること — は,ヘブライ語の詩の本質である.

したがって,「主の ことば」と「彼の口の息吹」は,同一のこと — 神の創造力 — を言うための 同義表現である.

そのことは,神の「ことば」(λόγος) と「息吹」(πνεῦμα) とが 相互に等価なものであることを気づかせてくれる 重要な手がかりとなる.

そして,そのこと 神の「ことば」(λόγος) と「息吹」(πνεῦμα) とが 相互に等価なものである ということ によって,我々は,創世記の冒頭と ヨハネ福音書の冒頭との 対応関係にも 気づくことができる(創世記の Septuaginta 版と ヨハネ福音書とが ともに « Ἐν ἀρχῇ »[源初において]で始まることから,福音記者ヨハネは 序章を執筆する際に 創世記の創造神話を踏まえたはずだ ということは,通説になっている)

実際,創世記において 神のことばによる〈無からの〉創造が始まるまえに まず登場するのは רוּחַ אֱלֹהִיםRuah Elohim : 神の息吹)である;他方,ヨハネ福音書の冒頭 (1,01) 最初に登場するのは λόγος であり,そして,次いで (1,03) 創造に関して こう言われる : πάντα δι᾽ αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν ὃ γέγονεν[すべては,それ (λόγος) によって 成った;そして,成ったものにして それ無しに成ったものは,ひとつもなかった].

いかにも,創世記において 神が「...であれ」という命令のことばによって創造してゆくことと Jn 1,03 との対応は 一目瞭然である;しかし,我々は,神の「ロゴス」と「息吹」とが相互に等価なものであることによって,「源初の空無を 神の息吹が 覆っていた」と「源初にロゴスがあった」との対応にも 気づくことができる.

また,神の「ロゴス」と「息吹」との等価性にもとづいて,我々は,おそらく聖書研究者たちによって指摘されたことのない〈創世記の創造神話と ヨハネ福音書の序章との〉対応関係を もうひとつ 指摘することができるだろう.すなわち,あの ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο”[ロゴスは 肉となった](Jn 1,14) は,創世記 (2,07) における この〈人間の〉創造に 対応している:

そして,YHWH Elohim は,Adam ( אָדָם ) ( אֲדָמָה : adamah) 塵から 作った;そして,彼の鼻へ いのちの息( נִשְׁמַת חַיִּים : nishmath hayyim — 神の いのち[永遠の いのち]を与える 息)を 吹き入れた;そして,Adam  いきている いのち( נֶפֶשׁ חַיָּֽה : nephesh hayya — 神に与えられた いのち[神の いのち,永遠の いのち]をいきている 地上的な いのち)に成った.

いかにも,そこで使われている単語は רוּחַ (ruach) ではなく,しかして נְשָׁמָה (neshamah) である;しかし,この場合,両者は 同義語(息,息吹)である.

創世記 1,27 の「そして,神は Adam を 創造した — 彼の似姿に;神の似姿に 彼[神]は 彼 [ Adam ] を 創造した;男と女 — 彼[神]は 彼らを 創造した」においては述べられていない 息吹(ロゴス)の役割を,2,07 は 明示している:神の息吹(ロゴス)は 神のいのち(永遠のいのち)そのものであり,神は それを 人間に与える;そして,それによって「いのちある身」( נֶפֶשׁ חַיָּֽה ) が生成する —「ロゴスは肉となった」は そのことを言っている と解釈され得るだろう.


I-2. 神は 彼のことばを ある使命のために 世へ 遣わす [ שָׁלַח : shalah, ἀποστέλλω, emitto ] ; そして,神のことばは,その使命を果たしたあと,神のところへ帰ってゆく


Jesus Christus が 彼の父によって 人間のところへ 遣わされ,そして,全人類の救済という使命が「成し遂げられた」(τετέλεσται : cf. Jn 19,30) あと,父のもとへ帰ってゆくように,神のことばも 世へ遣わされて,使命を果たしたあと,神のもとへ帰ってゆく.たとえば,Is 55,10-11 において こう述べられている:

なぜなら このゆえに:雨は 降る;
雪も[降る]天から;
そして,そこへ[天へ]帰らない;
しかして,地を潤す;
そして,成長するものを生えさせる;
そして,与える — 撒くべき種と 食べるべきパンを;

そのように,わが ことば [ דְבָרִי : debari, τὸ ῥῆμά μου, verbum meum ] は,わが口から出ると,
むなしく わたしのところへ帰らない;
しかして,わたしが欲することを 為す;
そして,それがためにわたしがそれ[わがことば]を遣わしたところのものを 成功させる.

さらに,神が彼のことばを人間たちのところへ遣わすことが歌われている 詩篇の例を ふたつ挙げると:

Ps 107,19-20 :

そして,彼らは 叫んだ — 主へ — 彼らの苦境において;
彼らの苦悩から 彼[主]は 彼らを 救った.

彼は 遣わした — 彼のことば [ דְּבָרוֹ : dbaro, ὁ λόγος αὐτοῦ, verbum suum ] を — そして,彼らを癒した;
そして,彼らを 解放した — 彼らの穴[彼らが陥っていた穴,罠]から.


Ps 147,15-18

[YHWH は]彼のことば [ אִמְרָתוֹ : imratho, τὸ λόγιον αὐτοῦ, eloquium suum ] を地へ遣わす方;
彼のことば [ דְּבָרוֹ : dbaro, ὁ λόγος αὐτοῦ, verbum ejus ] は すばやく 走る [5].

[彼は]羊毛のような雪を与える方;
彼は 霜を 灰のように 散らす.

[彼は]彼の氷を パン屑のように 投げる;
彼の寒さに対して 誰が耐え得ようか?

彼は,彼のことば [ דְּבָרוֹ : dbaro, ὁ λόγος αὐτοῦ, verbum suum ] を 遣わし,それら[雪,霜,氷]を 溶かす;
彼が 彼の息吹 [ רוּחוֹ : ruho, τὸ πνεῦμα αὐτοῦ, spiritus eius ] を 吹かせると,水が流れる [6].


[5] Ps 147,15 においては,「主のことば」に ふたつの用語が当てられている:ひとつは( חָכְמָה :(dabar), そして,もうひとつは אִמְרָה (imrah). 後者は,名詞 אֵמֶר (emer)[ことば]の派生語である;そして,名詞 אֵמֶר (emer) は 動詞 אָמַר (amar)[言う]に由来している.

名詞 דָּבָר (dabar) の語源である 動詞 דָּבַר (dabar)[言う]の 元来の意義は「一列に並べる,順番に並べる」であった;そこから,「単語を順序よく並べる」という意味において,דָּבַר は「言う,語る」となった.

それに対して,動詞 אָמַר (amar)[言う]の 元来の意義は「運び出す」であった;そこから,「明るみに出す」という意味において,אָמַר は「言い表す,言う」となった.

דָּבַר と אָמַר の 用例を見てみると:

Gn 1,03 :

וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אוֹר וַֽיְהִי־אֽוֹר

vayyō'mer 'ĕlōhîm yᵊhî 'ôr vayhî 'ôr

そして,神は言った:「光が存在するように!」 そして,光が存在した.

Gn 8,15 :

וַיְדַבֵּר אֱלֹהִים אֶל־נֹחַ לֵאמֹֽר

vayḏabēr 'ĕlōhîm 'el nōaḥ lē'mōr

そして,神は 言った — ノアへ —[箱船から出よ と]言うために.


[6] Ps 147,18 においても,Ps 33,06 におけるのと同様に,Dabar[ことば]と Ruach[息吹]とが 詩的平行関係に置かれてあることに 注目.


I-3. 神のことばは 讃美の対象である


神のことばは,神自身と同様,讃美の対象として 歌われている.その例を 詩篇 56 から ふたつ 示す:

Ps 56,05
 
בֵּאלֹהִים אֲהַלֵּל דְּבָרוֹ
בֵּאלֹהִים בָּטַחְתִּי לֹא אִירָא
מַה־יַּעֲשֶׂה בָשָׂר לִֽי

bē'lōhîm 'ăhallēl dᵊḇārô
bē'lōhîm bāṭaḥtî lō' îrā'
mah yaʿăśê ḇāśār lî

神に — 彼のことば [ דְּבָרוֹ : dbaro, λόγος, sermo ] を わたしは 讃える [ הָלַל : halal, ἐπαινέω, laudo ] —
神に わたしは信頼する;わたしは恐れない;
何を 肉[人間]は わたしに 為し得るか?


Ps 56,11-12
 
בֵּֽאלֹהִים אֲהַלֵּל דָּבָר
בַּיהוָה אֲהַלֵּל דָּבָֽר
בֵּֽאלֹהִים בָּטַחְתִּי לֹא אִירָא
מַה־יַּעֲשֶׂה אָדָם לִֽי

bē'lōhîm 'ăhallēl dāḇār
bayhvâ 'ăhallēl dāḇār
bē'lōhîm bāṭaḥtî lō' 'îrā'
mah yaʿăśê 'āḏām lî

神に —[彼の]ことば [ דָּבָר : dabar, ῥῆμα, sermo ] を わたしは 讃える [ הָלַל : halal, αἰνέω, laudo ] —
YHWH に —[彼の]ことば [ דָּבָר : dabar, λόγος, sermo ] を わたしは 讃える —
神に わたしは信頼する;わたしは恐れない;
何を 人間は わたしに 為し得るか?


以上に見たように,神のことばは,神の創造力を表すものとして,神の息吹(聖なる息吹)と 等価的である;そして,神のことばは,創造の medium[手段]ないし agent[能動者,作用者]として 神から創造界へ遣わされることにおいて,息吹と同様に,神と創造界とを繋ぐ medium[媒介]である;さらに,神のことばは,三位一体のうちの ひとつの ὑπόστασις である 聖なる息吹 (Sanctus Spiritus) と等価的なものとして,息吹と同様に 讃美の対象である.


II. 旧約聖書における「知恵」について


ヨハネ福音書の序章(ロゴスの讃歌)は,旧約聖書の知恵文学(詩篇の一部,箴言,ヨブ記,雅歌,コヘレト,知恵の書,ベン シラの 書)[それらのうち「知恵の書」および「ベン シラの書」は 第二正典]における「知恵の讃歌」を 踏まえている と 言われている.そこで,「知恵の讃歌」の例を 三つ 読んでみよう.


II-1. 箴言


まず,箴言 8,22-36 :

22 YHWH は,わたし[知恵]を 得た[生んだ]— 彼の道の始まり —
いにしえの彼の仕事に先だって.
23 わたしは着座した[油を注がれた,聖別された]— 永遠以前に,
源初以来,地の始まり以来.
24 わたしは生まれた — 深淵 [7] が[まだ]無いときに,
水の〈豊かな〉源が[まだ]無いときに.
25 わたしは生まれた — 山たちが据えられる前に,
丘たちよりも前に,
26 地をも 空間をも 土ぼこりの全体をも
彼 (YHWH) が まだ 造っていないときに.
27 わたしは そのとき[存在していた]— 彼 (YHWH) が 天を確立したときに,
[彼 (YHWH) が]深淵に対して その[穴の]円周を描き込んだときに,
28[彼 (YHWH) が]上に 雲を固めたときに,
[彼 (YHWH) が]深淵の目を強めたときに,
29[彼 (YHWH) が]海に その境界を 定めたときに —
水が その口を 越えないように —
[彼 (YHWH) が]地の基礎を画したときに;
30[そのとき]わたしは 彼 (YHWH) の傍らで 親密な協働者であった;
そして,わたしは,日々,彼の喜びであった —
彼の面前で いつも 遊びつつ;
31 彼の地[彼が創造した地]の世界で 遊びつつ;
そして,わが喜びは アダムの息子たち[人間たち]とともにあった.
 
32 そして,今,息子たちよ,わたし[の ことば]を 聴きなさい;
幸福だ,わたしの道を守る者たちは!
33 聴きなさい —[あなたたちを]叱る[わたしの ことば]を;そして,賢くありなさい;
そして,[わたしの ことばを]無視してはならない.
34 幸福だ,わたし[の ことば]を聴く者は —
日々 わたしの扉のところに 待機しつつ,
わたしの門の柱を守りつつ[守衛をしつつ].
35 なぜなら このゆえに:わたしを見出す者は,いのち [ חַיִּים , ζωή ] を 見出したのだ;
そして,YHWH から 好意を 得たのだ.
36 だが,わたしに反する者は,自分自身に害をなしている;
わたしを憎む者たちは 皆[いのちではなく]死を愛しているのだ.


[7] この「深淵」( תְּהוֹם :tehom, ἄβυσσος ) という語は,Gn 1,02 における 最も源初的な深淵を 指している (Gn 1,01-03) :

1 はじめに 神は 創造した — 天と 地を.
2 地は 空無であった;そして,闇が 深淵のおもてのうえに[あった];そして,神の息吹が 水のおもてを 覆っていた.
3 そして,神は 言った:

光が 存在せよ!

そして,光が 存在した.


気づくことを 幾つか 挙げるなら,1) 上に引用した箇所以外でも,箴言 8 章 全体において,知恵は みづから 一人称で 語っている.つまり,神の知恵は,神のことばよりも,よりいっそう「ペルソナ化」(personification) されている(神のことばも 神から創造界へ遣わされはするが).箴言 9,01-06 においては,知恵は 家を建て,そこで宴会を催す — その家の女主人として 人間たちを宴会に招くために.そのようなペルソナ化は,当然,三位一体における 神の息吹のペルソナ化 および ヨハネ福音書の序章における 神のことばのペルソナ化へ 展開されてゆくことになる.

2) v.22 の 動詞 קָנָה の 元来の意味は「得る,有する」であるが,「創造する,生む」とも訳され得る.その節を「YHWH は わたしを 生んだ」と読むなら,知恵は 神の娘と見なされ得る.そして,神が知恵を生んだのは,天地の創造の開始前のことである.つまり,知恵は 創造界に対して praeexistentia を有している.

その praeexistentia という語は 神学において praeexistentia Christi という表現において用いられる;そして,それは「ロゴスとしての イェス キリストが 創造界より先に(天地の創造 以前に)存在していること」を言う.

だが,ヨハネ福音書 1 章において 洗礼者ヨハネが ロゴスとしてのイェスについて「わたしより後に来る彼は,わたしより前に成っていた;なぜなら,彼は わたしより先に 最初に[源初において]存在していたから」と言うとき,それは むしろ このことを示唆しているにほかならないのではなかろうか:福音記者ヨハネは「イェスとは誰か? 彼は如何なる者であるか?」について問うとき,神の娘としての知恵を 準拠のひとつとした.

3) v.35 で 知恵は「わたしを見出すものは,いのちを見出したのだ」と言っている.それは,知恵といのちとの等価性の断定である.そして,それは,Jesus の「わたしは いのちのパンである」や「わたしは 復活 および いのちである」を想起させる.


II-2. 知恵の書


次いで,知恵の書.その作者は,知恵を「すべてのものの女性職人」(πάντων τεχνῖτις : すべてのものを造り出す女性職人 — τεχνῖτις は「職人」の女性形;その男性形は τεχνίτης ; 女性形が用いられているのは,「知恵」[ σοφία ] が女性名詞であるから)と呼んだあと,こう述べている (Sap 7,22 – 8,01) :

22 なぜなら このゆえに:彼女[知恵]のなかには 息吹がある — その息吹は,
知性的であり;神聖であり;
唯一的 (μονογενής [8]) であり,多 (πολυμερής) であり,
繊細であり,機敏であり,
明瞭であり,無垢であり,
明確であり,無傷であり,
善を愛し,鋭く,
23 妨げられることがなく,善行を為し,人間を愛し,
しっかりしており,揺らぐことがなく,心配事もなく,
すべてが可能であり,すべてを見わたし,
すべての精神を見ぬく — 知性的なものも,浄いものも,最も繊細なものも.
24 そも,知恵は,あらゆる動きよりも 動きやすく,
すべてのものを見とおし,見ぬく — その純粋さによって.
25 そも,彼女[知恵]は 神の力の精気 [9] であり,
全能なる神の栄光の 純粋な発露である;
それゆえ,彼女のなかへ入り込む 汚れたものは 何も無い.
26 そも,彼女は,永遠なる光の輝きであり,
神の活動の くもり無き鏡であり,
彼[神]の善性の似姿である.
27 彼女は,一[いち]であるので,すべてを能い,
彼女自身のうちにとどまりつつ,すべてを新しくする;
そして,時代時代に 聖なる魂たちのなかへ 次々に入ってゆき,
神の友たち および 預言者たちを 養成する.
28 なぜなら このゆえに:神は,知恵とともに住まう者をしか 愛さない.
29 そも,彼女は,太陽よりも美しく,
すべての星々よりもうえに 位置している;
光と比較されるなら,
より優るものとして見出されるのは 彼女である.
30 なぜなら このゆえに:昼[の 光]は 夜[の闇]に取って代わられるが,
知恵が 悪に 負けることはない.
01 彼女は,[世界の]果てから果てへ 力強く 広がり,
善意を以て すべてを統治する.


[8] この μονογενής という語は,新約においては,Jesus が 神の唯一の息子であることを言うために 用いられる;たとえば,Jn 3,16 :

Οὕτως γὰρ ἠγάπησεν ὁ θεὸς τὸν κόσμον, ὥστε τὸν υἱὸν αὐτοῦ τὸν μονογενῆ ἔδωκεν, ἵνα πᾶς ὁ πιστεύων εἰς αὐτὸν μὴ ἀπόληται ἀλλ᾽ ἔχῃ ζωὴν αἰώνιον.

なぜなら このゆえに:これほどに 神は 世を 愛した — 彼の唯一の息子を[世に]与えたほどに — 彼を信ずる者が,誰しも,滅びることなく,しかして,永遠のいのちを有するために.

また,μονογενής は,名詞として「ひとり子」を言うこともある;たとえば,Jn 1,14 :

Καὶ ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο καὶ ἐσκήνωσεν ἐν ἡμῖν, καὶ ἐθεασάμεθα τὴν δόξαν αὐτοῦ, δόξαν ὡς μονογενοῦς παρὰ πατρός, πλήρης χάριτος καὶ ἀληθείας.

そして,ロゴスは,肉となった;そして,我らのうちに[天幕を張って]住んだ;そして,我らは 彼の栄光を 見た — 彼が ひとり子として 父のもとで[得た]栄光を —[彼(イェス)は]恵みと真理に満ちていた.

それゆえ,その語は,神の知恵と 神のひとり子 Jesus Christus とが 同じひとつのものであることを,それだけで,示唆している.


[9] ἀτμὶς τῆς τοῦ θεοῦ δυνάμεως[神の力の精気]— ここで「精気」と訳した語 ἀτμίς の 辞書的な意味は,「水蒸気」(moist vapour, steam) である.「息吹」の言い換えと見なし得るだろう.


以上のように「知恵の書」においても,1) 知恵は「すべてのものを造り出す 女性職人」として ペルソナ化されている; 

2)「知恵の書」の 作者は,1,05-07 において「知恵」と「聖なる息吹」または「主の息吹」とを 完全に相互に等価なものとして(相互に置き換え可能なものとして)論じており,上に引用した 7,22 においても 知恵と息吹との等価性を 示唆している;

3) また,v.26 において,知恵と光との等価性が 措定されている.我々は,先に〈Pr 8,35 において 知恵が「わたしを見出すものは,いのちを見出したのだ」と言っていることにおいて〉知恵といのちとの等価性が措定されていることを 見た.それら ふたつの等価性は,ヨハネ福音書の序章の v.04  “ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων”[それ[ロゴス]のなかに いのちがあった;そして,いのちは 人間たちの光であった]— における〈ロゴスと いのちと 光との〉等価性において 再び見出される.神の知恵と息吹とロゴスは いづれも「いのちを成すもの」(τὸ ζῳοποιοῦν) であり,かつ,光をもたらすものである.

4) v.27 の「知恵は 一[いち]である」は,知恵が YHWH そのものでもあることを,示唆している (cf. Dt 6,04).


II-3. ベン シラの 書


第 3 に,ベン シラの 書 (Si 24,01-22) :
 
01 知恵は,彼女自身を 称讃するだろう;
そして,民のただなかで 彼女自身を 誇るだろう.
02 いと高き方[神]の集会で 彼女は 口を開くだろう;
そして,彼の力の面前で[彼女自身を]誇るだろう.

03 わたし[知恵]は,いと高き方の口から 出た;
そして,霧のように 地を 覆った.
04 わたしは[天の]高きところに テントを張った[住んだ];
そして,わが玉座は 雲の柱のうえに あった.
05 わたしは,天の円を ひとりで 回った;
そして,深淵の深みを 歩き回った.
06 海の波のうちに,地全体のうちに,
そして,あらゆる民と民族のうちに,わたしは[領地を]得た.
07 それらすべてのうちに わたしは 休むところを 探した;
誰の相続財産のところに わたしは居を定めようか?
08 そのとき,すべてのものの創造主は わたしに命じた;
わたしを創造した方は わたしのテントを 置いた;
そして,言った:

ヤコブのうちに,あなたのテントを 張りなさい;
そして,イスラエルのうちで,あなたは 相続人となりなさい;
 
09 世の[始まる]前に,源初から,彼は わたしを創造した;
そして,世の[終わるとき]まで,わたしは 決して過ぎ去らないだろう.
10 聖なるテントのなかで,彼の面前で,わたしは 礼拝を おこなった;
そして,そのように わたしは シオンに 居を定めた.
11 また,彼は,彼が愛した都で,わたしを休ませた;
そして,イェルサレムに わが権力は ある.
12 わたしは 根を降ろした — 称讃された民のなかに,
主の領分に,彼の財産である領分に.
13 わたしは 成長した — レバノン杉のように,
ヘルモン山 [10] のイトスギのように.
14 わたしは 成長した — Ein Gedi [11] の ヤシの樹のように,
イェリコのキョウチクトウのように,
平地の 美しいオリーヴの樹のように,
プラタナスのように — わたしは 成長した.
15 シナモンのように,香ばしいアスパラト [12] のように,わたしは香りを与えた;
そして,選ばれた 没薬 (σμύρνα) のように,わたしは 芳香を放った —
χαλβάνη[ヘルベナ香 [13]],ὄνυξ[シェヘレト香],στακτή[ナタフ香]のように,
そして,[主の]テントのなかの 乳香 (λίβανος) の 蒸気のように.
16 わたしは,テレビンの樹のように わたしの枝を 伸ばし広げた;
そして,わたしの枝は 栄光と恵みの枝であった.
17 わたしは,葡萄の樹のように,恵みを 芽吹いた;
そして,わたしの花は,栄光と富の実りとなった.
18[わたしは 母である — 美しい愛の 母,
(主を)畏れることの 母,(主を)識ることの 母,
聖なる希望の 母;
永遠に存続する わたしは,与えられた —
わが子たち すべてへ,
彼(主)によって選ばれた者たちへ [14]]
19 あなたたちは わたしのところへ 来なさい — わたしを欲する者たちよ,
そして,わたしが生む実りで 満たされなさい.
20 なぜなら このゆえに:わたしの思い出は,蜜より 甘い;
そして,わたしの相続財産は,蜜の巣[蜜が取れる蜂の巣]よりも[甘い].
21 わたしを食べる者たちは,さらに 空腹を覚えるだろう;
そして,わたしを飲む者たちは,さらに 渇きを覚えるだろう.
22 わたしに従う者は,はずかしめられないだろう;
そして,わたしのなかで[わたしとともに]働く者たちは,罪を犯さないだろう. 


[10] Mount Hermon ( הַר חֶרְמוֹן ) : レバノンとシリアとの国境に位置する山:頂上の高さは 標高 2,814 m.

[11] Ein Gedi( עֵין גֶּדִי‎ : 子山羊の泉)は,死海の西側にある オアシス.今は,自然保護地域に指定され,観光地となっている.

[12] ἀσπάλαθος : 棘のある灌木;香油が採れる.

[13] この節において列挙されている香料は,出エジプト記 30,22-38 において YHWH が モーセに〈儀式で用いる 油 および 香に関する〉指示を与えるときに 挙げているのと 同じ香料である.そこにおいては,こう述べられている (Ex 30,34-35a) :

そして,YHWH は モーセに 言った:

あなたは これらの香料を得なさい — נָטָף (nataph, στακτή), שְׁחֵלֶת (shehelet, ὄνυξ), חֶלְבְּנָה (helbenah, χαλβάνη) — それらの香料 および 純粋な לְבוֹנָה (lebonah, λίβανος) — それぞれが等量ずつであるように.そして,あなたは そこから 香を作りなさい (…).

Nataph (στακτή) は 没薬の一種,helbenah (χαλβάνη) は galbanum(芳香性の樹脂),lebonah (λίβανος) は 乳香である;しかし,shehelet (ὄνυξ) が何であるのかについては 研究者の見解は 一致を見ていない;ある種の巻き貝の蓋,または,ある種のハンニチバナ (labdanum, rockrose) から取れる樹脂などと 言われている.

[14] 18 節は,後から挿入された 注釈と 見なされている.


以上のように,ベン シラの書においても,1) 知恵は 一人称で語ることにおいて ペルソナ化されている ; 

2) v.03 で,知恵は「神の口から出る」ことにおいて,神のことば および 神の息吹と等価なものであることが,示唆されている.また,「神の口から出る」という表現は,Jn 20,22 において描かれている この場面を 我々に 想起させる:すなわち,復活した Jesus は,弟子たちのまえに現れる;そして,彼は 彼らに 息を吹きかける [15] ; そして,彼らに 言う :「聖なる息吹を 受けなさい」.


[15] そこで用いられている動詞 ἐμφυσάω[息を 吹きかける,吹き込む]は,創世記の「そして,YHWH Elohim は,人間を,土から取った塵で 作った;そして,その鼻孔へ いのちの息を 吹き込んだ;そして,人間は נֶפֶשׁ חַיָּֽה[nephesh hayya : 神のいのちを生きている 地上的な生命]となった」(2,07) の 七十人訳において “ἐνεφύσησεν εἰς τὸ πρόσωπον αὐτοῦ πνοὴν ζωῆς”[神は,人間の顔に いのちの息を 吹きかけた]と言われるときに用いられている語である.つまり,福音記者ヨハネは,Gn 2,07 の引用によって〈主 イェス キリストによる新たな創造を〉示唆している.


3) v.09 においては,知恵の〈創造界に対する〉praeexistentia とともに,知恵の永遠性も 措定されている.知恵の「世の[終わるとき]まで わたしは 決して過ぎ去らないだろう」は,Jesus の “ὁ οὐρανὸς καὶ ἡ γῆ παρελεύσεται, οἱ δὲ λόγοι μου οὐ μὴ παρέλθωσιν”[天と地は[終末の日に]過ぎ去るだろう;だが,わたしのことばは[終末の日にも]過ぎ去らないだろう][Mt 24,35] を 即座に想起させる; 

4) いかにも「知恵の受肉」については何も語られていないが,しかし,知恵が イスラエルの民のうちに「テントを張る」(κατασκηνόω) という表現 (v.08) は,Jn 1,14 の「そして,ロゴスは,肉となった;そして,我々のうちに テントを張った (σκηνόω)」の後半部分を 即座に想起させる.また,知恵が 植物のように「成長する」(ἀνυψωθῆναι) ということは,それが 有機的な生命 — 肉ではないとしても — に譬えられていることを 示している ; 

5) 知恵の「わたしのところへ来なさい」(v.19),「わたしを食べる者たち」(v.21),「わたしを飲むものたち」(ibid.) という表現は,Jesus の ことば (Mt 11,28 ; Jn 6,53-56) を 即座に 思い起こさせる ; 

6) 知恵の「わたしの思い出」(τὸ μνημόσυνόν μου) [v.20] は Jesus の “τοῦτο ποιεῖτε εἰς τὴν ἐμὴν ἀνάμνησιν”[これを おこないなさい — わたしの想起(記念)のために](Lc 22,19) を 思い起こさせる.


III. 結論:神の「息吹」と「ことば」と「知恵」とは 相互に等価的である


神学 — 特に christologie — においては,教父時代の早い時期から,Jesus Christus(すなわち,神の ことば)と 神の知恵とは 同じひとつのものである と 見なされてきた — なぜなら このゆえに:パウロ (1 Co 1,24) は,Christus を「神の力 かつ 神の知恵」(θεοῦ δύναμις καὶ θεοῦ σοφία) と 呼んでいる.

では,なぜ 福音記者ヨハネは,Jesus Christus を,単純に ἡ σοφία τοῦ θεοῦ と呼ぶのではなく,敢えて ὁ λόγος τοῦ θεοῦ と呼ばねばならなかったのか(あるいは,そう呼びたいと思ったのか)? 思うに,その理由のひとつは このことであったのではなかろうか ? : σοφία という語は女性名詞であり,それゆえ,σοφία は しばしば 女性として 描かれてきた(実際,ギリシャ神話において,アテナは 戦争の女神であると同時に 知恵の女神である).ヨハネにとって,女性である σοφία が 神の息子になる という 受肉の過程は,考えづらかったのではなかろうか? それに対して,λόγος は 男性名詞であるので,それが 受肉により 神の息子になる ということは,彼にとって より受け容れやすかったであろう.ちなみに,ヘブライ語においても「知恵」( חָכְמָה ) は 女性名詞であり,それに対して「ことば」( דָּבָר ) は 男性名詞である.

ともあれ,旧約聖書(第二正典を 含む)における 神の「ことば」と「知恵」の意義を 改めて検討することによって,我々は,このことに気づくことができた:神の「ことば」と「知恵」は 神の「息吹」と密接に関連しあっている;そして,そればかりでなく,それら三者は 相互に等価的である:すなわち,それらは いづれも これらのことを指している:神の生命的な創造力;神による創造の medium[手段]または agent[作用者,能動者]; そして,そのようなものとして 神から創造界へ遣わされることにおいて,神と創造界との間の medium[媒介]として,神と創造界とを繋ぐもの.

そのことを踏まえて,別稿において,より深い〈ヨハネ福音書の序章の〉読解を 試みてみよう.

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