Alexander Andreyevich Ivanov (1806-1858) : Noli Me Tangere
マリア マグダレーナが 復活したイェスに出会う 場面(Noli me tangere の 場面)は 主日のミサでは 朗読されない!
わたしの妻は,もともと プロテスタントだったので(今は カトリックですが),常々,カトリック教会の男性中心主義に対して,批判的です(プロテスタント教会のなかに女性差別がないわけではありませんが).聖母被昇天の祭日であった昨日(この文章は 最初,8月16日に Facebook に 投稿されました),夕食後のおしゃべりのなかで,話は 神の母 マリアから マリア マグダレーナへ 移って行きました.そして,「復活の主日の日中のミサの福音朗読 (Jn 20,01-09) のなかでも,マリア マグダレーナには 副次的な役しか与えられていない」と 彼女が言うので,わたしは「いや,それに続く箇所 (Jn 20,11-18) では,彼女は,主演女優級の役 — 復活したイェスの相手役 — を演じているではないか」と言いました.
その箇所 (Jn 20,.01-02.11-18) とは これです:
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1 さて,週の初めの日,マリア マグダレーナは,来る — 早朝,まだ暗いときに —[イェスの]墓へ;そして,見る —[墓の入口を塞ぐ]石が 墓から 取り去られてあるのを.
2 そこで,彼女は 走る;そして,来る — シモン ペトロのところへ,および,イェスが愛していた ほかの弟子のところへ;そして,彼らに言う:
彼ら[ユダヤ人たち,あるいは,不特定の誰か]は 主[の 遺体]を 墓から 取り去りました;そして,わたしたちは〈彼らが 彼を どこに置いたのかを〉知りません.
11 そして,マリアは,立っていた — 墓へ近づきつつ —[墓の]外に — 泣きながら;ついで,彼女は,泣きながら,身をかがめた — 墓のなかを覗くために.
12 すると,彼女は 見る — 白い服を着た天使たちが ふたり 座っているのを — ひとりは[イェスの]頭の近くに,そして,もうひとりは[イェスの]足の近くに — イェスの遺体が横たわっていたところで.
13 そして,彼らは 彼女に 言う:
女よ,なぜ あなたは 泣いているのか?
彼女は 彼らに 言う:
なぜなら このゆえに:彼らは わが主[の 遺体]を 取り去りました;そして,わたしは〈彼らが 彼を どこに置いたのかを〉知りません.
14 そして,そう言って,彼女は 背後へ 振り向いた;そして,イェスが立っているのを 見る;だが,それがイェスであることを 彼女は 知らなかった.
15 イェスは 彼女に 言う:
女よ,なぜ あなたは 泣いているのか? 誰を あなたは 探しているのか?
彼女は,その者は庭師である と思って,彼に言う:
主よ,もしあなたが 彼[の 遺体]を 運んだなら,わたしに言ってください — あなたが 彼を どこに置いたのかを;そうすれば,わたしが 彼[の 遺体]を 取りに行きます.
16 イェスは 彼女に 言う:
マリアよ!
彼女は,振り向いて,彼に ヘブライ語で 言う:
רִבּוֹנִי (rebboni) !
それは「わが師」の謂いである.
17 イェスは 彼女に 言う:
わたしにしがみつくのを やめなさい[つまり,マリアは イェスに しがみついている];なぜなら このゆえに:わたしは まだ 父のところへ 昇っていない.しかして,あなたは わが兄弟たちのところへ 行きなさい;そして,彼らに 言いなさい:
わたしは 昇ってゆく — わが父のところへ:わが父 かつ あなたたちの父のところへ,そして わが神 かつ あなたたちの神のところへ.
18 マリア マグダレーナは,弟子たちに こう宣べ伝えに 来る:
わたしは 主を 見た;そして,彼は わたしに こう言った.
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ところが,わたしの妻は「いや,その箇所は 主日のミサでは 朗読されない」と言うのです.わたしは「福音のなかでも最も盛り上がる箇所のひとつである あの一節 — 美術史のなかでも Noli Me Tangere の表題のもとに(Noli Me Tangere[わたしに触れようとしては ならない]は μή μου ἅπτου[わたしにしがみつくのを やめなさい]の誤訳ですが)さまざまに描かれている あの場面 — が 主日のミサで朗読されないはずがない」と思い,即座に 調べたところ,何と 妻の言っていることは 正しいのです! その箇所 (Jn 20,11-18) が ミサのなかで朗読されるのは,復活の主日の二日後の火曜日 および 聖 マリア マグダレーナの 祝日(7月22日;ただし,主日と重なる場合は 除く)だけなのです.
「これは,さすがに,おかしい」と わたしも 思いました.確かに,2016年に Papa Francesco によって,それまで 聖 マリア マグダレーナの「記念日」(memoria) であった 7月22日は 彼女の「祝日」(festum) に 格上げされました;そして,同時に,Thomas Aquinas によって彼女に与えられた 称号「使徒たちの使徒」(Apostolorum Apostola) が 改めて 強調されました.しかし,わたしは 思います:あの〈福音書のなかでも 最も感動的な場面のひとつである〉一節 — 復活したイェスが マリア マグダレーナに対して 自身を啓かす あの一節 — が 復活の主日に読まれないのは,重大な欠落ではなかろうか?
というわけで,来年以降,復活の主日の日中のミサの福音朗読 (Jn 20,01-09) に,皆さんも,こころのなかで,それに続く箇所 (vv.11-18) を 追加してください.
なに? では,10節は どうするのか? そこを読むと,男の使徒たち[ペトロと ヨハネ]の薄情さが さらに浮き彫りにされることになります…
9 なぜなら このゆえに:彼ら[ペトロと ヨハネ]は,聖書にこう書かれてあることを,まだ 知らなかった:彼[イェス]は 死者たちのなかから 復活するはずである.10 それゆえ,弟子たち[ペトロと ヨハネ]は,[イェスの墓から]去り,ふたたび 彼ら[ほかの弟子たち]のところへ 戻った.
ところが,それに続く v.11 では こう述べられます:
それに対して,マリア[マグダレーナ]は,立っていた — 墓へ近づきつつ —[墓の]外に — 泣きながら.
ですから,墓がカラであることを確認した後 あっさりと仲間のところへ戻っていった ペトロとヨハネに比して,如何に マリア マグダレーナは イェスに対して より愛情深かったか ということを,我々は そこに 読み取ることができます.そして,実際,彼女は報われます — 復活したイェスに最初に出会う者となることにおいて.
その際,イェスは 彼女に Noli me tangere[わたしに触れようとしてはならない]と 冷たく言いはしませんでした;しかして,彼が 彼女に言った言葉は これです : μή μου ἅπτου.
その否定命令が表しているのは,この光景です:
マリア マグダレーナは,復活したイェスに 喜びのあまり しがみついている;そして,彼女がいつまでも離れないので,イェスは 彼女に 優しく言う:
もう いいかげん わたしにしがみつくのを やめなさい — なぜなら,わたしは まだ わが父のところへ 昇って行っていないのだから...
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