James Tissot (1836-1902) : The Ointment of the Magdalene (Le parfum de Madeleine)
福音が 全世界に 宣べ伝えられるとき,どこにおいても,彼女が為したことは 物語られるだろう — 彼女の記念のために
復活したイェスに マリア マグダレーナが 最初の証人として 出会う あの聖書のなかでも最も感動的な場面のひとつが 主日のミサの福音朗読の際には 読まれない ということを,カトリック教会の女性軽視の一例として 先日 指摘しました.その投稿は,結構 多くの人々の関心を惹いたようです.ですので,カトリック教会における女性軽視の例を もうひとつ,女性カトリック神学者 Elisabeth Schüssler Fiorenza (1938- ) の 著作 In Memory of Her (1983) にもとづいて,紹介しましょう.それは,「ベタニアでのイェスの塗油」(Anointing of Jesus in Bethany, Unzione di Gesù a Betania) と呼ばれている エピソード — ひとりの女が イェスの頭または足に 高価な香油を注ぐ という場面 — です.これも とても印象的な話ですから,皆さん 覚えていらっしゃるでしょう.
実際,それは,四つの福音書すべてにおいて物語られています;しかし,マタイ (26,06-13) と マルコ (14,03-09) と ヨハネ (12,01-08) においては,そのエピソードは 過越の祭の開始の数日前に 位置づけられている — それゆえ,数日後に十字架上で亡くなるイェスの埋葬を預言する行為という意義を付与されて — のに対して,ルカ (7,36–50) においては それは,イェスが イェルサレムへ上る前,ガリラヤで宣教している時期の出来事として,描かれています(したがって,その場所も イェルサレムの近くのベタニアではありません).
イェスに香油を注ぐ女は,ヨハネ福音書においては,ラザロ(イェスが復活させたラザロ)と マルタとの 姉妹 マリア(ベタニアのマリア — カトリック信者たちは 長い間 彼女と マリア マグダレーナとを混同してきましたが,今は それらふたりのマリアたちは はっきり区別されています;聖人としても,マグダラのマリアの祝日 [ festum ] は 7月22日に祝われ,それに対して,ベタニアのマリアの記念日 [ memoria ] は 7月29日に マルタおよびラザロとともに 祝われます)とされていますが,ほかの福音書においては 彼女は匿名です.特に ルカでは,彼女は「罪人である」と形容されています.
また,どのように彼女が香油を注ぐかというと,マタイとマルコにおいては,彼女はイェスの頭に油を注ぎます(注ぐだけで,それ以上 何もしません); それに対して,ルカとヨハネにおいては,彼女は イェスの足に 油を注ぎます — ただし,ルカにおいては,罪深い女は まず 彼女の涙で イェスの足を濡らし,そして,彼女の髪で 彼の濡れた足を拭ったあと,彼の足に油を注ぎますが,それに対して,ヨハネにおいては,マリアは,彼の足に油を注いだ後,その足を彼女の髪で拭います.いずれにせよ,女が自身の髪でイェスの足を拭うという光景は,献身的であることを通り超して,若干 érotique でさえあります(もし USA で制作されている TV ドラマのシリーズ The Chosen のなかで このシーンが演ぜられているとすれば — あるいは,これから演ぜられるとすれば — どのように描かれるでしょうね?)
以上は 前置きです(細部にこだわりすぎました).重要なのは,このことです:マタイとマルコにおいて(この一節に関しては 両者のギリシャ語文面は ほぼ一致しています),女が高価な香油を 一見 無意味に イェスの頭に注いだことに対して,同席者たち(イェスの弟子たち)は「何と もったいない!」と憤慨しますが,イェスは,彼らを たしなめて,「彼女は わたしの埋葬のために わたしに香油を注いだのだ」と 言い,そして 最後にこう付け加えます (Mt 26,13 ; Mc 14,09) :
Amen, わたしは あなたたちに 言う:この福音が 全世界に 宣べ伝えられるとき,どこにおいても,彼女が為したことは 物語られるだろう — 彼女の記念のために (εἰς μνημόσυνον αὐτῆς).
すごいですね! 彼女がイェスにしたことは,福音が宣べ伝えられるところなら,全世界,どこでも 物語られるだろう — 彼女を記念するために! イェスが彼女の預言者的な行為を どれほど有意義なものとして評価しているかが うかがえます.
ところが,どうでしょう? 今,カトリック教会は 彼女の行為の意義を そのように重要視しているでしょうか? 残念ながら 全然そうではありません.というのも,Mt 26,06-13 は,主日のミサでも平日のミサでも まったく朗読されません;そして,Mc 14,03-09 は,B年の 枝の主日で朗読されることになっているのですが,その日の福音朗読は,14章の始め(過越が始まる二日前の ベタニアでの塗油)から 15章の終わり(イェスの埋葬)まで,かなり長いので,15章の 1節(ピラトによる尋問)から 39節(十字架上の死)までを読むだけでもよいことになっています(実際,日本では そうしています).そして,その場合は,ベタニアでの塗油の場面は まったく 読まれません(日本では そうなっています).
また,Jn 12,01-11 は 聖週間の月曜日に,Lc 7,36-50 は C年の 年間 第 11 主日 および 年間 第 24 週の 木曜日に読まれますが,それらの福音箇所は「彼女の行為は 全世界 どこでも 物語られるだろう — 彼女の記念のために」という イェスのことばを 伝えていません.
これでは,カトリック教会は 主が言ったとおりに 彼女の預言者的な行為を 彼女の記念のために 十分に語り継いでいる,とは 言いがたいですね.女性軽視と批判されても しょうがないでしょう.
また,「彼女の記念のために」(εἰς μνημόσυνον αὐτῆς)[ラテン語では : in memoriam eius]という表現が注目さる もうひとつの理由は,これです:その表現は,ミサにおける葡萄酒の聖別の締めくくりに司祭が言う「これを わたしの記念として おこないなさい」(hoc facite in meam commemorationem) という文言のなかの「わたしの記念として」(in meam commemorationem) と 類似している.
この « hoc facite in meam commemorationem »[ギリシャ語では : τοῦτο ποιεῖτε εἰς τὴν ἐμὴν ἀνάμνησιν :「あなたたちは(あなたたちも)これを おこないなさい(こうしなさい)— わたしの想起のために(わたしを思い出すために)」]は,ルカ福音書の「最後の晩餐」の場面で イェスが 感謝の祭儀を制定する際に 言う 言葉です (22,19) :
そして,彼は,パンを 取り,[神に]感謝し,[パンを]割った;そして,彼らに与えた — こう言いつつ:
それは,あなたたちのために与えられる〈わたしの〉身体[からだ]である.あなたたちは これを おこないなさい[あなたたちも こうしなさい]— わたしの想起のために[わたしを思い出すために].
不思議なことに,マタイとマルコの「最後の晩餐」の場面では,イェスの「あなたたちも こうしなさい — わたしを思い出すために」という言葉は 欠けています;そして,あたかも その代わりであるかのように,あの「ベタニアでの塗油」の場面 —「最後の晩餐」の直前の場面 — で,イェスは「福音が宣べ伝えられるところでは どこでも,彼女がわたしにしてくれたことは 物語られるだろう — 彼女を記念するために」と言います.
また,パウロは,コリントのクリスチャンたちに〈如何に主は感謝の祭儀を制定したか を説明する際に〉こう伝えています:主は この « τοῦτο ποιεῖτε εἰς τὴν ἐμὴν ἀνάμνησιν »[あなたたちも こうしなさい — わたしを思い出すために]を 二度 — パンの聖別のために 一度,葡萄酒の聖別のために もう一度 — 言った (cf. 1 Cor 11,23-25). しかし,現行のミサ式文においては,« hoc facite in meam commemorationem » は,パンと葡萄酒の聖別の最後に 一回 言われるだけです(なぜ パウロが伝えているように 二度 言わないのでしょう?).
というわけで,わたしたちは,ベダニアでイェスに油を注いだ預言者的な女のことを,忘れないでおきましょう — Mt 26,06-13 または Mc 14,03-09 を 枝の主日 または 聖週間の水曜日に読むことによって.また,ミサのなかで 司祭が「これを わたしの記念として おこないなさい」(あなたたちも こうしなさい — わたしを思い出すために)と言うとき,わたしたちは 同時に「彼女を記念するために」をも思い出してもよいでしょう.