Freiburg 大学総長 Heidegger (1934) : Hitler と同じようなヒゲをはやし,ワシと鈎十字から成る Nazi の徽章を襟に付けている.
Heidegger の Schwarze Hefte[黒ノート]における反ユダヤ主義的発言については,既に紹介した (Überlegungen VIII, Überlegungen X - Anmerkungen I). それ以外の彼のテクストにおける〈露骨に反ユダヤ主義的な表現の〉一例 — しかも「検閲」されていた一例 — を,補足的に紹介しておこう.
Peter Trawny は,「黒ノート」出版開始に際して発表した彼の著書 Heidegger und der Mythos der jüdischen Weltverschwörung[ハィデガー と ユダヤ人の世界的陰謀の神話](第 1 版 2014年,第 3 版 2015年)のなかで,彼自身がかかわった Gesamtausgabe 編集作業における Heidegger の反ユダヤ主義的言辞の「検閲」に関して,証言している(第 3 版 p.53 の脚注).
Peter Trawny によると,1998年に出版された Gesamtausgabe 69 に収録されている 1938-1940 年のテクスト Die Geschichte des Seyns[存在の歴史]の § 61 (pp.77-78) は,Heidegger の手稿においては,最後にこの一文を含んでいる:
Zu fragen wäre, worin die engentümliche Vorbestimmung der Judenschaft für das planetarische Verbrechertum begründet ist.
ユダヤ人たちは全地球的な犯罪を行うよう本来的に予定されているということは,どこに根拠づけられているのか,と問うべきであろう.
このあからさまに反ユダヤ主義的な内容の一文は,しかし,Fritz Heidegger(Martin の弟;彼は,読みづらい兄の手書き草稿をタイプライターで清書する作業を担当していた)が清書した原稿には見出されない.つまり,Fritz は,彼自身の検閲的判断により,それを削除したのだ.
Gesamtausgabe の編集者たち(Peter Trawny を含む)と,Heidegger の遺産管理者である Hermann Heidegger(Heidegger の次男)は,69 巻の編集の際,問題の一文を復元しないよう決断した.しかし,Peter Trawny は,2014年に「黒ノート」の出版が開始されたことにより状況は変化したので,削除されていた一文を公表することにした,と説明している.
Die Geschichte des Seyns の § 61 全体を,問題の一文も付加して,読んでみよう (GA 69, pp.77-78) :
61. Macht und Verbrechen
Wo die Macht als Wesen des Seins geschichtlich wird, ist alle Moralität und Rechtlichkeit verbannt und zwar unbedingt. Die Macht ist weder moralisch noch unmoralisch, sie machtet außerhalb von Sittlichkeit, Recht und Sitte. Alles, was in diesen Bereichen erbaut, bewahrt und festgehalten, was hier gefordert und als Maßstab gesetzt ist, wird durch die Macht selbst unbedingt zerbrochen und zwar so zerbrochen, daß nichts anderes an die Stelle des Zerbrochenen tritt außer der Macht selbst, die aber als Sein wie das ungreifliche Nichts sich gibt, weshalb die Zerbrechung alles Beständigen und Bestandvollen dieses Äußerste an Zerstörung zeigen muß.
Daher gehören in das vom unbedingten Machtwesen bestimmte Zeitalter die großen Verbrecher. Sie lassen sich nicht nach sittlich-rechtlichen Maßstäben beurteilen. Man kann das tun, aber man erreicht so niemals ihr eigentliches Verbrechertum. Auch gibt es keine Strafe, die groß genug wäre, solche Verbrecher zu züchtigen. Jede Strafe bleibt wesentlich hinter ihrem Verbrecherwesen zurück. Auch die Hölle und dergleichen ist zu klein im Wesen gegen das, was die unbedingten Verbrecher zu Bruch bringen.
Die planetarischen Hauptverbrecher sind sich ihrem Wesen nach zufolge ihrer unbedingten Knechtschaft gegenüber der unbedingten Ermächtigung der Macht völlig gleich. Historisch bedingte und als Vordergrund sich breitmachende Unterschiede dienen nur dazu, das Verbrechertum ins Harmlose zu verkleiden und gar noch sein Vollbringen als »moralisch« notwendig im »Interesse« der Menschheit darzutun.
Die planetarischen Hauptverbrecher der neuesten Neuzeit, in der sie erst möglich und notwendig werden, lassen sich gerade an den Fingern einer Hand abzählen. Zu fragen wäre, worin die engentümliche Vorbestimmung der Judenschaft für das planetarische Verbrechertum begründet ist.
61. 力 と 犯罪
力が 存在の本有として 歴史的 [ geschichtlich ] となるところにおいては,あらゆる道徳性と合法性は 追放される — しかも,無条件に.力は,道徳的でも反道徳的でもない.力は,倫理と法と慣習の外において,力有 [ machten ] する.それらの領域[倫理と法と慣習の領域]において確立され,守護され,固持されてきたものすべて,そこにおいて要請され,基準として措定されていたものすべては,力そのものによって,無条件に破壊される — しかも,次のような様態において 破壊される:すなわち,破壊されたものの代りに歩み出て来るものは,力そのもの以外には,ほかに何も無い.しかるに,力は,とらえどころのない無と同様に,存在として 自身を与える.それゆえ,[力が]恒常的なもの および 存続性に満ちたもの を すべて破壊するとき,それは,破壊のなかでも最も極端なものを 提示することになるはずである.
それゆえ,重大犯罪者たちは,無条件な力の本有によって規定された時代に,属している.彼らは,倫理的-法的な 基準によっては 判断され得ない.我々は,そうすることもできるが,しかし,そうしたとしても,彼らの本来的な犯罪性に手が届くことは,決してない.また,彼らのような犯罪者をこらしめるに 十分なほどに重い罰は,無い.あらゆる罰は,本質的に言って,彼らの犯罪者としての本有に かなわない.地獄も,それに類するものも,無条件的な犯罪者たちが破壊するものに対しては,本質的に言って,小さすぎる.
この全地球的な犯罪の主犯たちは,力の無条件的な強力化に対する無条件的な隷属のゆえに,彼らの本質において,まったく自己同一的である.歴史的 [ historisch ] に条件づけられ,かつ,目立つものとしてのさばる差異は,次のことに役立つだけである:すなわち,犯罪性を無害なものへ偽装すること,かつ,さらには,犯罪の実行を 人類の「利害」において「道徳的」に必要なものと 認識させること.
直近の近現代における全地球的な犯罪の主犯たち — 彼らは,その時代において,初めて,可能となり,必然的となる — は,ほんの五指で数えあげられる.ユダヤ人たちは全地球的な犯罪を行うよう本来的に予定されているということは,どこに根拠づけられているのか,と問うべきであろう.
ここで論ぜられている Macht[力]は,当然ながら,Nietzsche の言う Wille zur Macht[力への意志,権力への意志]における「力」である.実際,Heidegger は,『存在の歴史』のテクストのなかで 幾度か Nietzsche の名を挙げ,「力への意志」にも言及している.
Heidegger は,Nietzsche を,存在の歴史において,「形而上学の満了」(Vollendung der Metaphysik) の哲人として位置づける.つまり,Nietzsche において,形而上学は,完成を見ると同時に,形而上学の根本的な構造が露呈されることによって,終焉を迎える — Nietzsche の言う「古典的なニヒリズム」として(Nietzsche が「古典的」と言うとき,そこには,このことが含意されている:すなわち,Nietzsche は,自身を,Wagner の軟弱な Romantizismus に対して,古代ギリシャの Sophokles の悲劇の高みに位置づけている).その「古典的なニヒリズム」を特徴づけるのが,「力への意志」である.
Heidegger の「存在の歴史」は,本質的に,形而上学の批判である.その要を成すのは,否定存在論的孔穴の源初性である.つまり,「源初に,穴が開いていた」ということである.その源初的な否定存在論的孔穴を,Platon は τὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]としての ἰδέα によって塞いでしまう.そこに,形而上学は始まる.すなわち,形而上学は,否定存在論的孔穴の源初性の否認に存する.そして,その否認そのものも,形而上学においては,気がつかれないままとなる.
ところが,科学と資本主義が支配的となった 19 世紀以降,ἰδέα の類の形而上学的な諸形象 — οὐσία[存在],ἐνέργεια[エネルゲイア],substantia[実体],veritas[真理],« le Dieu des philosophes et des savants »[哲学者たちと神学者たちの神],monade[モナド],純粋理性,etc. — による穴塞ぎは,無効となる.なぜなら,科学の言説と資本主義の言説においては,原理的に言って,科学的に分析可能であり,かつ,資本増価のために利用可能であるもののみが「存在する」ものであるのに対して,科学的分析に耐え得ず,資本増価のために利用可能でもない形而上学的諸形象は,τὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]ではなく,むしろ,τὸ μὴ ὄν[存在するはずのないもの,存在すべからざるもの]である,ということが暴露されるからである.
本当に存在するものであり,最も価値あるものである,と見なされてきた ἰδέα の類の形而上学的な諸形象が,単なるまがいものであることが明らかとなり,それによって,価値を失うこと — それが,ニヒリズムである.否定存在論的に言えば,ニヒリズムは,このことに存する:形而上学的な穴塞ぎが無効となることによって,否定存在論的孔穴が,恐ろしい死と無の穴として,口を開いてくること.
否定存在論的孔穴の開口を前にして,単に,絶対的な価値の喪失に悲しみ,不安と無力感に打ちひしがれているのは,受動的なニヒリズムである.それに対して,新たな価値を作り上げるなり,どこかほかのところから輸入してくるなりして,それによって再び穴を塞ごうとするのが,能動的なニヒリズムである.
Nietzsche は,能動的なニヒリズムをその極端な形態へ強力化する.それが,「古典的なニヒリズム」である.古典的なニヒリズムは,従来の ἰδέα のような「恒常的」ないし「静的」なものによって否定存在論的孔穴が塞がれ得ると信ずることをやめ,而して,際限無く常にもっと強力化して行く力への意志のみが穴を塞ぎ得る,と考える.そのような力への意志を体現するのが,「超人」(Übermensch) である.
ということは,Heidegger が「全地球的な犯罪の主犯」と呼んでいるものと,Nietzsche の超人とは,実は同じものでしかない.両者は,ともに,従来のあらゆる「価値」(道徳的な価値,法的な価値,慣習的な価値)を破壊する — なぜなら,それらはもはや無効であり,そのようなものに執着し続けることはできないから.そして,その代わりに,際限無く常にもっと強力化して行く力を措定する.
Heidegger にとって,ユダヤ人と超人の相違は,前者は力に隷属するのに対して,後者は力の体現者そのものである,ということに存するだろう.しかし,我々は,むしろ,こう言うことができる : Heidegger は,ユダヤ人という形象に,Nietzsche の超人の実現を見てとっている — 妄想的に.あるいは,こう言ってもよいだろう : Nietzsche の「超人」妄想は,Heidegger において「世界的ユダヤ組織 (Weltjudentum) の陰謀」の妄想へ受け継がれた.
我々は,Heidegger の反ユダヤ主義を,彼のニヒリズム分析の進展のなかに位置づけることができるだろう.
科学の言説と資本主義の言説によって条件づけられるニヒリズムの本質を,当初,Heidegger は,Machenschaft と名づけていた.その語は,このことを示唆している:すなわち,今や,「存在する」は 資本主義的に「生産され得る」に還元される.が,同時に,Machenschaft は「世界的ユダヤ組織の陰謀」をも含意している.
敗戦後,Heidegger は,Machenschaft という用語を捨て,代わりに Ge-Stell という用語によって,ニヒリズムの本質を捉えようとする.その語は,戦争中の徴兵のための Gestellungsbefehl[兵役のために出頭させる命令,召集令状]という表現に由来しており,かつ,国家総力戦のための totale Mobilmachung[総動員]の概念を包含している.つまり,Ge-Stell は,このことを示唆している:資本主義は,資本増価のために利用可能なあらゆる存在事象を生産のために動員し,資本主義体制においては,そのために利用可能であることが「存在する」を規定している.
Heidegger は,敗戦によって,Machenschaft に含意される「世界的ユダヤ組織の陰謀」の妄想が打ち砕かれたとき,初めて,ニヒリズムの本質をより的確に捉える Ge-Stell を着想することができたのではないだろうか.
ともあれ,ニヒリズムの超克は,形而上学的な諸形象の何らかの代用品で再び否定存在論的孔穴を塞ぐことによっては可能ではない — たとえ,無際限な力への意志を以てしても.そもそも,Nietzsche の「超人」は Freud の「超自我」と同じものであり,精神分析は,我々を有罪性へ追い込む超自我からの解放を目ざしている.
ニヒリズムの超克は,否定存在論的孔穴の源初性の否認 — それが形而上学を規定している — をやめることによって,初めて可能となる.穴は源初において開いていたのであり,かつ,穴を塞ぐことは不可能である — そう認める必要がある.そして,勿論,穴を隠す試みも放棄すべきである.それらのことを試みる方途のひとつが,精神分析である.
形而上学は,源初において穴は開いていなかったが,何かが欠けることによって,穴が開いてしまった,と考える.否定存在論は,源初に穴が開いていた,と認める.穴が開いていなかった形而上学的な源初を,Heidegger は,der erste Anfang[最初の源初]と呼び,穴が開いていた否定存在論的な源初を der andere Anfang[他なる源初]と呼んでいる.最初の源初から他なる源初へ向かう途上で,Heidegger は,「世界的ユダヤ組織の陰謀」の妄想に取り憑かれた.彼にとっても,その移行は容易なものではなかったのだ.
小笠原 晋也
Luke S. Ogasawara