2016年6月16日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-2016年度 第24回,2016年6月17日

La réponse du réel

実在の答え


Edgar Allan Poe の『盗まれた手紙』は,Dupin が大臣 D から問題の手紙を取り返したところで一件落着するわけではありません.Dupin が語り手のために謎解きをし終えた時点の彼方に,悲劇的な結末が待ち受けています – 少なくとも大臣 D にとっては悲劇的な結末が,実在の答え [ réponse du réel ] (Autres écrits, p.459) として

「実在の答え」は,「実在的な答え」ではありません.そうではなく,実在が答えるのです.つまり,抹消された Ⱥutre が答えるのです.

というのも,他 Ⱥutre は,その真理とその欲望において,我々に己れを示現 [ sich zeigen ] しようと欲しているからです.« Che vuoi ? » [何を汝れは欲するか?] (Écrits, p.815) という問いが措定されるのも,他 Ⱥutre の自己示現の現象学においてです.

 Ⱥutre は何を欲しているのか?その問いを Lacan は,Le séminaire sur « La Lettre volée » においては,賽を振る賭博師の情熱に駆られた大臣 D が運命に対して措定する問いとして,こう表言しています (Écrits, p.39) :

「賽よ,我れが汝れを我が運命と汝れとの出会い (τύχη) において裏返すとき,汝れは何ものか,賽の面(おもて)よ ? 」

その問いに対する答えが続きます:

「死の現在以外の何ものでもない.死は,人間の生を,意義[徴示] – 汝が徴は其れを支える杖だ – の名において毎朝与えられる失効猶予期間にする.Schéhérazade が千一夜の間したのと同様のことを,我れもこの18ヶ月間している – この徴の支配力を味わうべく – 偶数か奇数かのサイコロ遊びでいかさま試合を眩暈の起きるほど幾度も続けるという代価のもとに」 (Écrits, p.39).

死として己れを示現する他 Ⱥutre の欲望.それを Freud は Todestrieb [死の本能]と呼びました. 

大臣 D に対しては,他 Ⱥutre の欲望は死の本能としてしか己れを示現しません.何故なら,彼は己れを支配者と思い込むうぬぼれに陥っているからです.そのようなうぬぼれにおいて,彼は盲目 [ aveuglement ] と愚かさ [ imbécillité ] の座に位置しており,そして,そのことにみづから気づきません.

他 Ⱥutre の前で謙虚に身を低めることを知らない者には,他 Ⱥutre は,死の本能として,「メドゥーサの如き面」 (Écrits, p.40) を向けつつ,破滅を告げる神託として答えます (ibid.) :

« ... Un destin si funeste,
S'il n'est digne d'Atrée, est digne de Thyeste. » 
[かくも凶々しき運命は,
Atreus にはふさわしからずとも,Thyestes にはふさわしい.]

Crébillon の原文における « un dessein si funeste » [かくも凶々しきもくろみ]を,Lacan は Écrits, p.14 ではそのとおりに引用しています.その時点では,他 Ⱥutre の欲望は,まだひとつの dessein [もくろみ]でしかありませんでした.しかし今や,それはひとつの destin [運命]として成就することになります.

運命を告げる実在の答え  ここでは Lacan はそれを「意義すべての彼方の徴示素の答え」 (Écrits, p.40) と呼んでいます – は,実際には何らかの言表として発せられるわけではありませんが,Lacan は,1955年の講演 La chose freudienne において真理をその擬人化においてみづから語らせた  « moi la vérité, je parle » [我れ  真理 – は語る] (ibid., p.409) – のと同様に, 実在をして,つまり他 Ⱥutre をして,こう語らせます (ibid., p.40) :

「汝れはみづから行為していると思っている – 我れが,汝が欲望に結びつける紐の意のままに,汝れを揺さぶるときに.かくして,汝が欲望は,力を増し,客体と相関的に増殖し,それら客体は汝れを汝が引き裂かれた小児期のバラバラ状態へ連れ戻す.さあ,それが汝が宴となるものだ.その宴が続くのも,石の客人が戻り来るときまで.汝れにとって,我れこそがその石の客人となろう.汝れが我れを呼び出すのだから.」

「石の客人」は,Molière の Dom Juan の大詰めに登場する死の使いです.かつて Dom Juan により殺された騎士が,宴に招かれ,石の客人として戻り来たり,Dom Juan を地獄へ連れ去ります.Peter Shaffer の戯曲 Amadeus の映画版では,その場面の背後で Salieri が Mozart と死せる父と関係について解説めいたことを述べています.

ともあれ,他 Ⱥutre がその真理とその欲望において我々に己れを示現しようと欲している限り,他 Ⱥutre のメッセージを伝える手紙は我々のところに届かずにはいません.もし仮に我々がその受け取りを拒み続けるとしても,最終的には死の宣告として. 

そして,他 Ⱥutre の欲望は,存在欠如として,我々自身の存在欠如であり,我々自身の存在の真理です.

ですから Lacan は,他 Ⱥutre と我々との communication intersubjective [相互主体的通信]について,こう公式化しています (Écrits, p.41) :

「発信者[主体]は,己れ自身のメッセージを,逆転された形で,受信者[他 Ⱥutre]から受け取る.かくして,« la lettre volée » [盗まれた手紙],さらには « la lettre en souffrance » [宛先に届かない手紙,配達不可能な手紙] とは,この謂である:手紙は常に宛先に届く.」

しかし,果たして,他 Ⱥutre の欲望は常に死の本能としてしか己れを示現しないのでしょうか? Ⱥutre の欲望との出会いは,常に悪しき出会いでしかないのでしょうか?

まずもって大概のところ,然り  キリスト教の信仰または精神分析の経験の外においては.

キリスト教の信仰においては, Ⱥutre の欲望は神の愛として己れを示現します.

精神分析の臨床においては,Lacan が「精神分析家の欲望」と呼ぶところのもの  すなわち,精神分析家の存在欠如としての存在  が,最終的に,分析者[analysant : 精神分析の患者]が Ⱥutre の欲望との出会いを,外傷的な悪しき出会いとしてではなく,精神分析の終わりにおいて自有 [ Ereignis ] が罪からの解放,死からの復活,無からの創造として成起し得るような良き出会いとして,果たすことを可能にします.なぜなら,精神分析家の欲望はそれを欲しているからです.


東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-2016年度 第24回


日時 : 2016年06月17日,19:30 - 21:00
場所:文京区民センター 2 階 C 会議室

今年度最後の 3回(6月17日,24日,7月01日)は,Lacan の1971年の書 Lituraterre の読解を試みます.

参加者は以下の三つのテクストを用意してください:


Lituraterre in Autres écrits, pp.11-20 ;


Lituraterre in Séminaire XVIII (version Seuil), pp.113-127 ;

Lituraterre in Séminaire XVIII (version Staferla), la séance du 12 mai 1971.

なお,6月17日には,Le séminaire sur « La Lettre volée » のテクストと Lituraterre のテクストと,両方をお持ちください.

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