2016年6月9日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-2016年度 第23回,2016年6月10日

La lettre, c'est dans le réel, et le signifiant, dans le symbolique

実在の位に位置づけられれば文字,徴在の位に位置づけられれば徴示素


1963年4月の初訪日後,Lacan は,1971年4月に二度目にして最後の訪日を果たします.両方とも単なる観光目的の旅行であったようですが,1971年の際は,当時 Écrits の邦訳作業中であった四人の大学人の前でちょっとした講演をしています.

帰国後,Lacan は,1971年に創刊されたばかりの季刊誌 Littérature の依頼に応じて,「文学と精神分析」を特集したその第3号のために Lituraterre と題された随筆を書きます.現在それは,Autres écrits の冒頭に収録されています – Écrits の Le séminaire sur « La Lettre volée » に呼応して.

Lituraterre そのものに立ち入ることはここでは控えますが,ともあれ,Lacan は,雑誌発表前に,Séminaire XVIII の1971年5月12日の講義でそのテクストを読み上げます.そして,途中で若干の注釈を差しはさみつつ,こう言います : 

« l’écriture, la lettre, c’est dans le réel, et le signifiant, dans le symbolique. »
[書記,文字は実在にあり,徴示素は徴在にある.]

Lituraterre の本文には見出されないこの指摘は,非常に重要です.

ただし,Jacques-Alain Miller がそうしているように,この命題を「文字は実在的なものであり,徴示素は徴在的なものである」と解してはなりません.そうではなく,この命題は,実在,徴在,影在の三位の topologie にかかわるものとして読まれねばなりません.

文字と徴示素と : Lacan は Écrits のなかで両者を必ずしも明確に区別しておらず,むしろ,しばしば両者を同等のものとして論じています.特に Le séminaire sur « La Lettre volée » においては明白に,徴示素はもっぱらその matérialité [質料性,物質性]における lettre [手紙,文字]として扱われています.

このことに関連して想起されるのは,Séminaire III の1956年4月11日の講義で Lacan が言っているこのことです:

« tout vrai signifiant en tant que tel est un signifiant qui ne signifie rien. L'expérience le prouve, car c'est précisément dans la mesure où plus il ne signifie rien, plus il est indestructible»
[あらゆるまことの徴示素は,そのものとしては,何も徴示しない徴示素である.経験がそのことを証している.そも,それは,まさに,「徴示素は,何も徴示しないほどに,より破壊不可能である」限りにおいてである.]

さらに,それに関連して,Lacan が徴示素を古代エジプトの神聖文字に譬えている1957年の講演:『精神分析とその教え』のこのような一節が想起されます (Écrits, p.446) : 

« C'est aussi que ce lambeau de discours, faute d'avoir pu le proférer par la gorge, chacun de nous est condamné, pour en tracer la ligne fatale, à s'en faire l'alphabet vivant. C'est-à-dire qu'à tous les niveaux du jeu de sa marionnette, il emprunte quelque élément pour que leur séquence suffise à témoigner d'un texte, sans lequel le désir qui y est convoyé ne serait pas indestructible.
« Encore est-ce trop parler de ce que nous donnons à cette attestation, alors qu'en son maintien elle nous néglige assez pour transmettre sans notre aveu son chiffre transformé à notre lignée filiale. Car n'y eût-il personne pour la lire pendant autant de siècles que les hiéroglyphes au désert, elle resterait aussi irréductible en son absolu de signifiant que ceux-ci le seraient demeurés au mouvement des sables et au silence des étoiles, si aucun être humain n'était venu les rendre à une signification restituée. »
[そしてまた,言説の断片を喉から発言し得なかったがゆえに,我れらは各々,その運命的な行を書き綴るために,自身をその生き文字と成すよう余儀なくされる.すなわち,その操り人形劇の全水準から,それ[言説の断片]は,何らかの要素を借用する – それら[操り人形劇の諸水準]の連なりがひとつのテクストを証言するに十分であるように.そのテクストは,其れ無しには欲望 〈其れは,そのテクストのなかに護送されている〉 が破壊不可能ではなくなってしまうであろうところのものである. 
[とは言え,その証言に我れらが提供するものについて,我れらは過大に語っており,他方,その証言の方は,その維持において,我れらのことをほとんど無視して,その変形された暗号を我れらの同意無しに我れらの子孫へ伝達する.そも,その証言は,たとえ砂漠に埋もれた神聖文字と同じほどに多くの世紀の間それを読む者が誰もいなくとも,〈それら神聖文字が,それらをひとつの復元された意義へ還元しに来る人間存在が誰も無くとも,徴示素としてのそれらの絶対性において[つまり,被徴示との相関性になく,何も徴示しない徴示素として],砂の動きのに対しても星々の静寂に対しても朽ちることなきままに[還元不可能たるままに]存続していたであろうのと同じほどに〉 徴示素としてのその絶対性において還元不可能たるままに存続するだろう.]

「あらゆるまことの徴示素は,そのものとしては,何も徴示しない徴示素である」.この「何も徴示しない」は,ce qui ex-siste au sens [意味に対して解脱実存するもの]としての le réel (cf. la séance du 11 mars 1975, le Séminaire XXII R.S.I.) の定義を想い起こさせます.

つまり,「文字は実在にある」は,「文字は実在的である」ということではなく,而して,こういうことです:徴示素は,何も徴示しないものであるとき,つまり,意味に対して解脱実存するものであるとき,実在の位に – つまり,存在欠如の解脱実存的な在処 [ localité ex-sistente ]  – 位置しており,そして,そのようなものとしての徴示素は,文字と呼ばれる.

解脱実存的な在処に位置する文字としての徴示素は,砂漠に埋もれたままの神聖文字と同じく,不朽であり,破壊不可能です.

文字の破壊不可能性が欲望の破壊不可能性と関連づけられていることにも注目しましょう.

意味に対して解脱実存的である文字に対して,徴示素は,「ひとつの復元された意義ないし意味へ還元」されているとき,徴在の位に位置していることになります.あるいは,むしろ,徴示素は,徴在の位に位置づけられるとき,意味へ還元されています.

徴在の位に位置づけられている徴示素は,それ自体,徴在的であるわけではありません.そうではなく,徴示素は,その質料性ないしその定存性 [ consistance ] において,影在の位のものです.

それ自体は影在的である徴示素が徴在の位に置かれるとき,初めて,それは,何ごとかを徴示する機能を帯びます.つまり,徴示素として機能的となります.それに対して,文字として実在の位に置かれると,« le signifiant n'est pas fonctionnel » [徴示素は機能的でない] (Écritsp.26) ということになります.

以上において明らかなように,Lacan のテクストにおいて signifiant という用語は一義的ではありません.混乱を避けるために,「言説の断片」と Lacan が呼んでいるものを利用しましょう.この「言説」は1970年代に lalangue [ゲンゴ]と名づけられることになる限りにおいて.ただし,lalangue とは,其れに対して解釈が為されるべきところの質料的な音声連鎖としての言葉です.

我々はこう言うことができます:或るゲンゴ断片は,実在の位に位置づけられれば文字と呼ばれ,それに対して,徴在の位に位置づけられれば徴示素と呼ばれる.

このような文字と徴示素との区別を,なぜ Lacan はしているのでしょうか?1957年の書の表題が答えています : L'instance de la lettre dans l'inconscient [無意識における文字の機関].

つまり,実在の位に位置する文字は,存在欠如たる主体の存在の解脱実存的な在処としての無意識へ verdrängen [排斥]されているゲンゴ断片のことです.

Freud は,解脱実存的な在処としての無意識に押しとどめられるべく排斥されるものは記憶痕跡 [ Erinnerungsspur ] である,と考えました.この「記憶痕跡」を Lacan は symbole, signifiant, lettre などの用語で捉え直します.そして,無意識の在処へ排斥された記憶痕跡を,特に「文字」と呼びます.

砂漠に埋もれた神聖文字のように,読まれないままに解脱実存し続ける文字.本棚に打ち捨てられたまま眠り続ける大量の書籍を蔵する図書館は,排斥された記憶痕跡の宝庫としての無意識の在処の格好の象徴です.


東京ラカン塾精神分析セミネール 2015-2016年度 「文字の問い」 第23回


日時 : 2016年06月10日,19:30 - 21:00,
場所:文京区民センター 2 階 C 会議室.

Lacan の Le séminaire sur « La Lettre volée » の読解を継続します.

参加費無料.事前の申請や登録は必要ありません.

テクストは各自持参してください.テクスト入手困難な方は,小笠原晋也へ御連絡ください : ogswrs@gmail.com

なおLe séminaire sur « La Lettre volée » を読み終えた後,今年度の残りの数回のセミネールを L'instance de la lettre dans l'inconscient ou la raison depuis Freud のおおまかな読解に当てると予告していましたが,予定を変更して,上に言及された比較的短いテクスト : Lituraterre を読むことにしたいと思います.

Autres écrits や Séminaire XVIII を持っていない方は,こちらから download することができます:

Lituraterre in Autres écrits
Lituraterre in Séminaire XVIII, version Seuil
Lituraterre in Séminaire XVIII, version Staferla

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