2016年6月23日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-16年度 第25回,2016年06月24日

Un Ⱥutre absolu, le sujet enfin en question

絶対的な他 Ⱥ, 究極的に問われるべき主体


Le séminaire sur « La Lettre volée » に付された Introduction において,Lacan は,schéma L について注釈を加えつつ,こう述べています (Écrits, p.53) :

« C’est ainsi que si l’homme vient à penser l’ordre symbolique, c’est qu’il y est d’abord pris dans son être. L’illusion qu’il l’ait formé par sa conscience, provient de ce que c’est par la voie d’une béance spécifique de sa relation imaginaire à son semblable, qu’il a pu entrer dans cet ordre comme sujet. Mais il n’a pu faire cette entrée que par le défilé radical de la parole, soit le même dont nous avons reconnu dans le jeu de l’enfant un moment génétique, mais qui, dans sa forme complète, se reproduit chaque fois que le sujet s’adresse à l’Autre comme absolu, c’est-à-dire comme l’Autre qui peut l’annuler lui-même, de la même façon qu’il peut en agir avec lui, c’est-à-dire en se faisant objet pour le tromper. Cette dialectique de l’intersubjectivité (...) s’appuie volontiers du schéma suivant :
“かくして,もし人間が徴在の位を思考するに至るとすれば,それは,人間はまづもって自身の存在において徴在の位のなかに捕らわれている,ということである.「人間は意識的に徴在の位を形成したのだ」という錯覚は,次のことに由来する:すなわち,人間が主体として徴在の位に入り得たのは,同類との影在的な関繋に特異的なひとつの裂口という道を通ってである,ということ.しかし,人間がそこに入り得たのは,ことばの根本的な行列 [すなわち,Lacan が Séminaire XI において「無意識の閉じと開きの時間的拍動」と呼ぶところのもの] によってにほかならない.そのようなことばの根本的な行列の発生的瞬間のひとつを,我々は,子どもの [Fort-Da の] 遊戯 のなかに認めたが,しかし,それは,絶対的 なものとしての [ Ⱥutre ] へ主体が語りかけるたびに,その完全な形において再現される.その絶対的な他とは,主体自身を無化し得る他である – 主体と行為し得るのと同様に,すなわち,主体を欺くために己れを客体 [ a ] としつつ.このような相互主体性の Dialektik は,おのづと,次のシェーマに依拠する:


« désormais familier à nos élèves et où les deux termes moyens représentent le couple de réciproque objectivation imaginaire que nous avons dégagé dans le stade du miroir. »
“このシェーマは,今や我々のセミネールの聴講生にはなじみのものである.そこにおいて,中間の二項 [ a - aʹ ] は,影在的な相互的客体化のカップル – 其れを我々は鏡の段階において取り出した – を表している.”

この Autre absolu [絶対的な他]という表現は,そのものとしては,Lacan の教えのなかで頻繁に出てきはしませんが,Le séminaire sur « La Lettre volée » においてはあと二回用いられています:

« Or ce registre [ de la vérité ] (...) se situe tout à fait ailleurs, soit à la fondation de l'intersubjectivité. Il se situe là où le sujet ne peut rien saisir sinon la subjectivité même qui constitue un Autre en absolu» (Écrits, p.20).
“ところで,この真理の次元が位置しているところは,まったく他なるところであり,すなわち,相互主体性の基礎である.そこにおいて主体は,絶対的なものに定立する主体性そのもの以外の何をも捉え得ない.”

« l'impasse que comporte toute intersubjectivité purement duelle, celle d'être sans recours contre un Autre absolu » (Écrits, p.58).
“あらゆる純粋に双数的な[影在的な]相互主体 [ a - aʹ ] に伴う行き詰まり,[すなわち]絶対的な他に対して抗いようが無いがゆえの行き詰まり.”

Lacan における « absolu » という語は,直接的には,Hegel の « das Absolute » [絶対者,すなわち,神]という用語,ならびに,« der Tod, der absolute Herr » [死,すなわち,絶対的な支配者] という規定に由来していると思われます.上にも引用した「絶対的な他に対して抗いようが無い」という表現にも,「絶対的な支配者としての死」という観念がうかがえます.

しかるに,そもそも,「絶対的な他」は,絶対的に「自」ではないもの,絶対的に異なるものです.ところで,差異は,存在事象どうしの差異であれば,必ず相対的なものです.もし「絶対的」と呼び得る差異を思考すべきであるとすれば,それは,存在事象と存在(抹消された存在としての存在)との差異,すなわち,Heidegger が die ontologische Differenz [存在論的差異]と呼ぶところのものだけです.

存在事象に対して,絶対的な存在論的差異において,絶対的に他なるもの,それは,存在  Seyn, Sein抹消された存在としての存在,manque-à-être [存在欠如]としての主体の存在  にほかなりません.

このことに注意しましょう : schéma L において単純に A と表記されている他は,実は,「徴示素の宝庫」に譬えられる le lieu de l'Autre [他の場処] としての他 A ではなく,而して,« il n'y a pas d'Autre-de-l'Autre » [他の他は無い] と公式化されるときの不可能な「他の他」,すなわち,抹消された他 Ⱥutre のことである.



「徴示素の宝庫」に譬えられる他の場処としての他 A は,Heidegger の言うところの das Seiende als solches im Ganzen [存在事象そのもの全体] としての存在  Seyn と区別される Sein, 抹消されてはいない存在  です.それは,穴あき球面に対応します.

それに対して,絶対的な他,不可能な「他の他」は,他 A に対して ex-sistent [解脱実存的] である他 Ⱥutre です.le lieu de l'Autre [他の場処]に対して,die ek-sistente Ortschaft des Seyns, la localité ex-sistente de l'Ⱥutre [他 Ⱥ の解脱実存的な在処] です. それは,穴あき球面に対して解脱実存的な Möbius strip に対応します.

他の場処 A は,consistance [定存] としての影在の位に還元される限りにおいて,schéma L の影在的な関繋 a - aʹ  に対応することになります.

それに対して,schéma L の A - S (Es) は,主体の存在の真理の解脱実存的な在処に対応しています.

主体の存在の真理は,まずもって大概のところ,影在的な関繋 a - aʹ  によって覆い隠されており,それとして己れを示現することはできません.

主体の存在の真理の実践的な現象学としての精神分析においては,剰余悦 a という影在的な成形を分離することによって,「みづから己れ自身を示現せむと欲する存在の真理を,それがみづから己れを示現するがままに,それ自身から出発して,見えさせる」ようにすることがかかわっています.



東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-2016年度 第25回


日時 : 2016年06月24日,19:30 - 21:00,

場所:文京区民センター 2 階 C 会議室

今年度最後の 2回(6月24日,7月01日)は,Lacan の教えにおける文字の概念の展開をたどるために,1971年の書 Lituraterre の読解を試みます.

参加者は以下の三つのテクストを用意してください:

Lituraterre in Autres écrits, pp.11-20 ;

Lituraterre in Séminaire XVIII (version Seuil), pp.113-127 ;

Lituraterre in Séminaire XVIII (version Staferla), la séance du 12 mai 1971.


参加費無料.事前の申請や登録は必要ありません.

2016年6月16日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-2016年度 第24回,2016年6月17日

La réponse du réel

実在の答え


Edgar Allan Poe の『盗まれた手紙』は,Dupin が大臣 D から問題の手紙を取り返したところで一件落着するわけではありません.Dupin が語り手のために謎解きをし終えた時点の彼方に,悲劇的な結末が待ち受けています – 少なくとも大臣 D にとっては悲劇的な結末が,実在の答え [ réponse du réel ] (Autres écrits, p.459) として

「実在の答え」は,「実在的な答え」ではありません.そうではなく,実在が答えるのです.つまり,抹消された Ⱥutre が答えるのです.

というのも,他 Ⱥutre は,その真理とその欲望において,我々に己れを示現 [ sich zeigen ] しようと欲しているからです.« Che vuoi ? » [何を汝れは欲するか?] (Écrits, p.815) という問いが措定されるのも,他 Ⱥutre の自己示現の現象学においてです.

 Ⱥutre は何を欲しているのか?その問いを Lacan は,Le séminaire sur « La Lettre volée » においては,賽を振る賭博師の情熱に駆られた大臣 D が運命に対して措定する問いとして,こう表言しています (Écrits, p.39) :

「賽よ,我れが汝れを我が運命と汝れとの出会い (τύχη) において裏返すとき,汝れは何ものか,賽の面(おもて)よ ? 」

その問いに対する答えが続きます:

「死の現在以外の何ものでもない.死は,人間の生を,意義[徴示] – 汝が徴は其れを支える杖だ – の名において毎朝与えられる失効猶予期間にする.Schéhérazade が千一夜の間したのと同様のことを,我れもこの18ヶ月間している – この徴の支配力を味わうべく – 偶数か奇数かのサイコロ遊びでいかさま試合を眩暈の起きるほど幾度も続けるという代価のもとに」 (Écrits, p.39).

死として己れを示現する他 Ⱥutre の欲望.それを Freud は Todestrieb [死の本能]と呼びました. 

大臣 D に対しては,他 Ⱥutre の欲望は死の本能としてしか己れを示現しません.何故なら,彼は己れを支配者と思い込むうぬぼれに陥っているからです.そのようなうぬぼれにおいて,彼は盲目 [ aveuglement ] と愚かさ [ imbécillité ] の座に位置しており,そして,そのことにみづから気づきません.

他 Ⱥutre の前で謙虚に身を低めることを知らない者には,他 Ⱥutre は,死の本能として,「メドゥーサの如き面」 (Écrits, p.40) を向けつつ,破滅を告げる神託として答えます (ibid.) :

« ... Un destin si funeste,
S'il n'est digne d'Atrée, est digne de Thyeste. » 
[かくも凶々しき運命は,
Atreus にはふさわしからずとも,Thyestes にはふさわしい.]

Crébillon の原文における « un dessein si funeste » [かくも凶々しきもくろみ]を,Lacan は Écrits, p.14 ではそのとおりに引用しています.その時点では,他 Ⱥutre の欲望は,まだひとつの dessein [もくろみ]でしかありませんでした.しかし今や,それはひとつの destin [運命]として成就することになります.

運命を告げる実在の答え  ここでは Lacan はそれを「意義すべての彼方の徴示素の答え」 (Écrits, p.40) と呼んでいます – は,実際には何らかの言表として発せられるわけではありませんが,Lacan は,1955年の講演 La chose freudienne において真理をその擬人化においてみづから語らせた  « moi la vérité, je parle » [我れ  真理 – は語る] (ibid., p.409) – のと同様に, 実在をして,つまり他 Ⱥutre をして,こう語らせます (ibid., p.40) :

「汝れはみづから行為していると思っている – 我れが,汝が欲望に結びつける紐の意のままに,汝れを揺さぶるときに.かくして,汝が欲望は,力を増し,客体と相関的に増殖し,それら客体は汝れを汝が引き裂かれた小児期のバラバラ状態へ連れ戻す.さあ,それが汝が宴となるものだ.その宴が続くのも,石の客人が戻り来るときまで.汝れにとって,我れこそがその石の客人となろう.汝れが我れを呼び出すのだから.」

「石の客人」は,Molière の Dom Juan の大詰めに登場する死の使いです.かつて Dom Juan により殺された騎士が,宴に招かれ,石の客人として戻り来たり,Dom Juan を地獄へ連れ去ります.Peter Shaffer の戯曲 Amadeus の映画版では,その場面の背後で Salieri が Mozart と死せる父と関係について解説めいたことを述べています.

ともあれ,他 Ⱥutre がその真理とその欲望において我々に己れを示現しようと欲している限り,他 Ⱥutre のメッセージを伝える手紙は我々のところに届かずにはいません.もし仮に我々がその受け取りを拒み続けるとしても,最終的には死の宣告として. 

そして,他 Ⱥutre の欲望は,存在欠如として,我々自身の存在欠如であり,我々自身の存在の真理です.

ですから Lacan は,他 Ⱥutre と我々との communication intersubjective [相互主体的通信]について,こう公式化しています (Écrits, p.41) :

「発信者[主体]は,己れ自身のメッセージを,逆転された形で,受信者[他 Ⱥutre]から受け取る.かくして,« la lettre volée » [盗まれた手紙],さらには « la lettre en souffrance » [宛先に届かない手紙,配達不可能な手紙] とは,この謂である:手紙は常に宛先に届く.」

しかし,果たして,他 Ⱥutre の欲望は常に死の本能としてしか己れを示現しないのでしょうか? Ⱥutre の欲望との出会いは,常に悪しき出会いでしかないのでしょうか?

まずもって大概のところ,然り  キリスト教の信仰または精神分析の経験の外においては.

キリスト教の信仰においては, Ⱥutre の欲望は神の愛として己れを示現します.

精神分析の臨床においては,Lacan が「精神分析家の欲望」と呼ぶところのもの  すなわち,精神分析家の存在欠如としての存在  が,最終的に,分析者[analysant : 精神分析の患者]が Ⱥutre の欲望との出会いを,外傷的な悪しき出会いとしてではなく,精神分析の終わりにおいて自有 [ Ereignis ] が罪からの解放,死からの復活,無からの創造として成起し得るような良き出会いとして,果たすことを可能にします.なぜなら,精神分析家の欲望はそれを欲しているからです.


東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-2016年度 第24回


日時 : 2016年06月17日,19:30 - 21:00
場所:文京区民センター 2 階 C 会議室

今年度最後の 3回(6月17日,24日,7月01日)は,Lacan の1971年の書 Lituraterre の読解を試みます.

参加者は以下の三つのテクストを用意してください:


Lituraterre in Autres écrits, pp.11-20 ;


Lituraterre in Séminaire XVIII (version Seuil), pp.113-127 ;

Lituraterre in Séminaire XVIII (version Staferla), la séance du 12 mai 1971.

なお,6月17日には,Le séminaire sur « La Lettre volée » のテクストと Lituraterre のテクストと,両方をお持ちください.

2016年6月13日

Lituraterre のテクスト三種類へのリンク

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」では,2015-2016年度の最後の 3回(6月17日,24日,7月01日)を Lacan の1971年の書 Lituraterre の読解に充てることにしました.

参加者は以下の三つのテクストを用意してください:


Lituraterre in Autres écrits, pp.11-20 ;


Lituraterre in Séminaire XVIII (version Seuil), pp.113-127 ;

Lituraterre in Séminaire XVIII (version Staferla), la séance du 12 mai 1971.

なお,6月17日には,Le séminaire sur « La Lettre volée » のテクストと Lituraterre のテクストと,両方をお持ちください.


2016年6月9日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-2016年度 第23回,2016年6月10日

La lettre, c'est dans le réel, et le signifiant, dans le symbolique

実在の位に位置づけられれば文字,徴在の位に位置づけられれば徴示素


1963年4月の初訪日後,Lacan は,1971年4月に二度目にして最後の訪日を果たします.両方とも単なる観光目的の旅行であったようですが,1971年の際は,当時 Écrits の邦訳作業中であった四人の大学人の前でちょっとした講演をしています.

帰国後,Lacan は,1971年に創刊されたばかりの季刊誌 Littérature の依頼に応じて,「文学と精神分析」を特集したその第3号のために Lituraterre と題された随筆を書きます.現在それは,Autres écrits の冒頭に収録されています – Écrits の Le séminaire sur « La Lettre volée » に呼応して.

Lituraterre そのものに立ち入ることはここでは控えますが,ともあれ,Lacan は,雑誌発表前に,Séminaire XVIII の1971年5月12日の講義でそのテクストを読み上げます.そして,途中で若干の注釈を差しはさみつつ,こう言います : 

« l’écriture, la lettre, c’est dans le réel, et le signifiant, dans le symbolique. »
[書記,文字は実在にあり,徴示素は徴在にある.]

Lituraterre の本文には見出されないこの指摘は,非常に重要です.

ただし,Jacques-Alain Miller がそうしているように,この命題を「文字は実在的なものであり,徴示素は徴在的なものである」と解してはなりません.そうではなく,この命題は,実在,徴在,影在の三位の topologie にかかわるものとして読まれねばなりません.

文字と徴示素と : Lacan は Écrits のなかで両者を必ずしも明確に区別しておらず,むしろ,しばしば両者を同等のものとして論じています.特に Le séminaire sur « La Lettre volée » においては明白に,徴示素はもっぱらその matérialité [質料性,物質性]における lettre [手紙,文字]として扱われています.

このことに関連して想起されるのは,Séminaire III の1956年4月11日の講義で Lacan が言っているこのことです:

« tout vrai signifiant en tant que tel est un signifiant qui ne signifie rien. L'expérience le prouve, car c'est précisément dans la mesure où plus il ne signifie rien, plus il est indestructible»
[あらゆるまことの徴示素は,そのものとしては,何も徴示しない徴示素である.経験がそのことを証している.そも,それは,まさに,「徴示素は,何も徴示しないほどに,より破壊不可能である」限りにおいてである.]

さらに,それに関連して,Lacan が徴示素を古代エジプトの神聖文字に譬えている1957年の講演:『精神分析とその教え』のこのような一節が想起されます (Écrits, p.446) : 

« C'est aussi que ce lambeau de discours, faute d'avoir pu le proférer par la gorge, chacun de nous est condamné, pour en tracer la ligne fatale, à s'en faire l'alphabet vivant. C'est-à-dire qu'à tous les niveaux du jeu de sa marionnette, il emprunte quelque élément pour que leur séquence suffise à témoigner d'un texte, sans lequel le désir qui y est convoyé ne serait pas indestructible.
« Encore est-ce trop parler de ce que nous donnons à cette attestation, alors qu'en son maintien elle nous néglige assez pour transmettre sans notre aveu son chiffre transformé à notre lignée filiale. Car n'y eût-il personne pour la lire pendant autant de siècles que les hiéroglyphes au désert, elle resterait aussi irréductible en son absolu de signifiant que ceux-ci le seraient demeurés au mouvement des sables et au silence des étoiles, si aucun être humain n'était venu les rendre à une signification restituée. »
[そしてまた,言説の断片を喉から発言し得なかったがゆえに,我れらは各々,その運命的な行を書き綴るために,自身をその生き文字と成すよう余儀なくされる.すなわち,その操り人形劇の全水準から,それ[言説の断片]は,何らかの要素を借用する – それら[操り人形劇の諸水準]の連なりがひとつのテクストを証言するに十分であるように.そのテクストは,其れ無しには欲望 〈其れは,そのテクストのなかに護送されている〉 が破壊不可能ではなくなってしまうであろうところのものである. 
[とは言え,その証言に我れらが提供するものについて,我れらは過大に語っており,他方,その証言の方は,その維持において,我れらのことをほとんど無視して,その変形された暗号を我れらの同意無しに我れらの子孫へ伝達する.そも,その証言は,たとえ砂漠に埋もれた神聖文字と同じほどに多くの世紀の間それを読む者が誰もいなくとも,〈それら神聖文字が,それらをひとつの復元された意義へ還元しに来る人間存在が誰も無くとも,徴示素としてのそれらの絶対性において[つまり,被徴示との相関性になく,何も徴示しない徴示素として],砂の動きのに対しても星々の静寂に対しても朽ちることなきままに[還元不可能たるままに]存続していたであろうのと同じほどに〉 徴示素としてのその絶対性において還元不可能たるままに存続するだろう.]

「あらゆるまことの徴示素は,そのものとしては,何も徴示しない徴示素である」.この「何も徴示しない」は,ce qui ex-siste au sens [意味に対して解脱実存するもの]としての le réel (cf. la séance du 11 mars 1975, le Séminaire XXII R.S.I.) の定義を想い起こさせます.

つまり,「文字は実在にある」は,「文字は実在的である」ということではなく,而して,こういうことです:徴示素は,何も徴示しないものであるとき,つまり,意味に対して解脱実存するものであるとき,実在の位に – つまり,存在欠如の解脱実存的な在処 [ localité ex-sistente ]  – 位置しており,そして,そのようなものとしての徴示素は,文字と呼ばれる.

解脱実存的な在処に位置する文字としての徴示素は,砂漠に埋もれたままの神聖文字と同じく,不朽であり,破壊不可能です.

文字の破壊不可能性が欲望の破壊不可能性と関連づけられていることにも注目しましょう.

意味に対して解脱実存的である文字に対して,徴示素は,「ひとつの復元された意義ないし意味へ還元」されているとき,徴在の位に位置していることになります.あるいは,むしろ,徴示素は,徴在の位に位置づけられるとき,意味へ還元されています.

徴在の位に位置づけられている徴示素は,それ自体,徴在的であるわけではありません.そうではなく,徴示素は,その質料性ないしその定存性 [ consistance ] において,影在の位のものです.

それ自体は影在的である徴示素が徴在の位に置かれるとき,初めて,それは,何ごとかを徴示する機能を帯びます.つまり,徴示素として機能的となります.それに対して,文字として実在の位に置かれると,« le signifiant n'est pas fonctionnel » [徴示素は機能的でない] (Écritsp.26) ということになります.

以上において明らかなように,Lacan のテクストにおいて signifiant という用語は一義的ではありません.混乱を避けるために,「言説の断片」と Lacan が呼んでいるものを利用しましょう.この「言説」は1970年代に lalangue [ゲンゴ]と名づけられることになる限りにおいて.ただし,lalangue とは,其れに対して解釈が為されるべきところの質料的な音声連鎖としての言葉です.

我々はこう言うことができます:或るゲンゴ断片は,実在の位に位置づけられれば文字と呼ばれ,それに対して,徴在の位に位置づけられれば徴示素と呼ばれる.

このような文字と徴示素との区別を,なぜ Lacan はしているのでしょうか?1957年の書の表題が答えています : L'instance de la lettre dans l'inconscient [無意識における文字の機関].

つまり,実在の位に位置する文字は,存在欠如たる主体の存在の解脱実存的な在処としての無意識へ verdrängen [排斥]されているゲンゴ断片のことです.

Freud は,解脱実存的な在処としての無意識に押しとどめられるべく排斥されるものは記憶痕跡 [ Erinnerungsspur ] である,と考えました.この「記憶痕跡」を Lacan は symbole, signifiant, lettre などの用語で捉え直します.そして,無意識の在処へ排斥された記憶痕跡を,特に「文字」と呼びます.

砂漠に埋もれた神聖文字のように,読まれないままに解脱実存し続ける文字.本棚に打ち捨てられたまま眠り続ける大量の書籍を蔵する図書館は,排斥された記憶痕跡の宝庫としての無意識の在処の格好の象徴です.


東京ラカン塾精神分析セミネール 2015-2016年度 「文字の問い」 第23回


日時 : 2016年06月10日,19:30 - 21:00,
場所:文京区民センター 2 階 C 会議室.

Lacan の Le séminaire sur « La Lettre volée » の読解を継続します.

参加費無料.事前の申請や登録は必要ありません.

テクストは各自持参してください.テクスト入手困難な方は,小笠原晋也へ御連絡ください : ogswrs@gmail.com

なおLe séminaire sur « La Lettre volée » を読み終えた後,今年度の残りの数回のセミネールを L'instance de la lettre dans l'inconscient ou la raison depuis Freud のおおまかな読解に当てると予告していましたが,予定を変更して,上に言及された比較的短いテクスト : Lituraterre を読むことにしたいと思います.

Autres écrits や Séminaire XVIII を持っていない方は,こちらから download することができます:

Lituraterre in Autres écrits
Lituraterre in Séminaire XVIII, version Seuil
Lituraterre in Séminaire XVIII, version Staferla

2016年6月1日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-2016年度 第22回,2016年6月3日

La psychanalyse est la phénoménologie pratique de la vérité de l'être en tant que désir de l'Ⱥutre qui veut se manifester

精神分析は,己れを示現せんと欲する他 Ⱥ の欲望としての存在の真理の実践的現象学である


Edgar Allan Poe の『盗まれた手紙』に準拠しつつ,無意識の解脱実存的在処 [ la localité ex-sistente de l'inconscient ] へ閉出 [ forclore ] された文字の作用について問う Lacan は,Dupin が大臣 D から手紙を取り戻したところで,つまり,大臣のもとで未決済のまま [ en souffrance ] (Écrits, p.29) であったものが,負債の必然的返済を要請する「律法の秩序」 (ibid., p.38) のなかへ戻されようとするときに,我々にこう問いかけます (ibid., p.36) 

« Si l’efficacité symbolique s’arrêtait là, c’est que la dette symbolique s’y serait éteinte aussi ? »
[もし仮に徴在の作用がそこで止むとするなら,徴在的負債もそこで消えたということであろうか?]

条件法が用いられていますから,実際には,徴在的負債は消えてはいませんし,徴在の作用もそこで止みはしません.

動詞の時制に注目するなら,« la dette symbolique s’y serait éteinte » の動詞は過去形であり,他方,« si l’efficacité symbolique s’arrêtait là » の動詞は,非現実仮定の条件節のなかの半過去であるので,意味のうえでは現在のことを指しています.

過去形ないし完了形で述べられていることの帰結として現在形で述べられている事態が生じているという連関を読み取るなら,上に引用した文には,「徴在の作用が止む」ことは「徴在的負債が消えた」ことの効果であり得るかという疑問が含意されており,それに対して Lacan は,徴在の作用が止んだわけでも,徴在的負債が消えたわけでもない,と否定的に答えています.

Le séminaire sur « La Lettre volée » のなかでは,Écrits, p.27 に「帳消し不可能な負債」と,まやかしの空手形のことが言及されています.

詐欺的な空手形が振り出されざるを得ないとすれば,それは,負債の返済が請求されており – しかも,執拗に (cf. la séance du 6 juillet 1960, Séminaire VII) –,かつ,返済は実際には遂行不可能であるからです.

不可能な返済を命令するのは,Freud が第二 Topik で Über-Ich [超自我]と名づけた心的機関,Lacan が「猥褻かつ無慈悲な形象」[ figure obscène et féroce ] (Écrits, p.360) と呼ぶ定言命令の声です.

「悦せよ!」または「返済せよ!」と容赦無く迫る超自我の定言命令は,しかし,欲望としての他 Ⱥutre の欲するところそのものであるのか?違います.超自我の声 a は,他の欲望 Ⱥutre を代理しているにすぎません.しかも,全く不適切なしかたで:


いずれにせよ,超自我という支配者により代理される他 Ⱥ の欲望こそが,人間の運命を条件づけています.

精神分析の終わりにおいては,超自我は支配者として廃位されねばなりません – 我々が猥褻かつ非情な超自我の実行不可能な定言命令から解放されるために.それこそが,超自我の定言命令に悦々と服従する Kant ならびに Sade の純粋理性倫理から精神分析の倫理を決定的に隔てるものです.

超自我-支配者の廃位においてこそ,他の欲望 Ⱥutre は神の愛として己れを示現し得るようになるでしょう.

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-2016年度 第22回


日時 : 2016年06月03日,19:30 - 21:00,
場所:文京区民センター 2 階 C 会議室.

Lacan の Le séminaire sur « La Lettre volée » の読解を継続します.

参加費無料.事前の申請や登録は必要ありません.

テクストは各自持参してください.テクスト入手困難な方は,小笠原晋也へ御連絡ください : ogswrs@gmail.com