2016年3月20日

La dette symbolique [徴在的負債]について

前回の 310日付の blog に引き続き,負債と罪の問題について考えてみましょう.

1955年の書 La chose freudienne のなかに Lacan は特に « la dette symbolique » [徴在的負債]と題した一節を設け,その最後の部分 (Écrits, p.434) でこう言っています:

ce qui frappe dans le drame pathétique de la névrose, ce sont les aspects absurdes d’une symbolisation déconcertée, dont le quiproquo à mesure qu’on le pénètre plus avant, apparaît plus dérisoire. Adaequatio rei et intellectus : l’énigme homonymique que nous pouvons faire jaillir du génitif rei, qui sans même changer d’accent peut être celui du mot reus, lequel veut dire partie en cause en un procès, particulièrement l’accusé, et métaphoriquement celui qui est en dette de quelque chose, nous surprend à donner à la fin sa formule à l’adéquation singulière dont nous posions la question pour notre intellect et qui trouve sa réponse dans la dette symbolique dont le sujet est responsable comme sujet de la parole. 
[神経症の悲愴なドラマにおいて印象的であるのは,不調和な記号化〈其の取り違えのさまは,分析が進むにつれて,ますますバカバカしいものに見えてくる〉の不条理な様相である.物と識知との等合 [ adaequatio rei et intellectus ] : 驚くべきことに,res [物]の属格 rei 其れは,アクセントを変えることなく,reus という語〈其れは,訴訟当事者,特に被告人の謂であり,そしてメタフォリックに,何らかの負い目を負っている者の謂である〉の属格でもあり得る から発生させ得る同音異義の謎は,つまるところ,本同的な等合 我れらが措定したのは我れらの識知にとっての其の問い(人間の識知にとって本同的な等合は如何という問い)であり,かつ,其れは,徴在的負債〈口葉(ことば)の主体としての主体は,其の責を負うている〉のなかにその答えを見出す を公式化する.]

この一節へ,Lacan は,Séminaire XXIV, 1977315日の講義のなかで言及しています:

Contrairement à ce qu’on dit, il n’y a pas de vérité sur le réel, puisque le réel se dessine comme excluant le sens. Ça serait encore trop dire, qu’il y a du réel, parce que pour dire ceci, c’est quand même supposer un sens. Le mot « réel » a lui-même un sens. J’ai même, dans son temps, un petit peu joué là-dessus. Je veux dire que, pour invoquer les choses, j’ai évoqué en écho le mot « reus » qui, comme vous le savez, en latin veut dire « coupable ». On est plus ou moins coupable du réel. C’est bien en quoi d’ailleurs la psychanalyse est une chose sérieuse. Je veux dire que c’est pas absurde de dire qu’elle peut glisser dans l’escroquerie.
[世に言われているのとは逆に,実在について 実在のうえに 真理は無い.というのも,実在は,意味を排除するものとして描き出されるから.「実在が在る」と言うことは,さらに言い過ぎであろう.なぜなら,そう言うためには,やはり意味を仮定することであるから.「実在」という語は,それ自身,意味を有している.そのことで往時,わたしは若干,語呂合わせさえした.つまり,事を後ろ盾とするために,わたしは,res という語に対する反響で,reus という語を喚起した.それは,周知のように,ラテン語では「負い目を負うている者,債務者,被告人,罪人」の謂である.我々は,多かれ少なかれ,実在のゆえに有罪である.そもそも,まさにそのことにおいてこそ,精神分析は真剣事なのだ.つまり,「精神分析は詐欺へ変質し得る」と言うことは,ばかげてはいない.]

以上のふたつの引用箇所において Lacan が問題にしているのは,ひとつの inadéquation, 不等合です:物と識知との不等合,実在と意味との不等合.

また,« il n’y a pas de vérité sur le réel » [実在について – 実在のうえに – 真理は無い]という命題は,1965年の『科学と真理』において提示されている命題 : « nul langage ne saurait dire le vrai sur le vrai » [真について 真のうえに 真を言い得る言語は無いだろう] (Écrits, p.867), ならびに le « manque du vrai sur le vrai » [真についての 真のうえの 真の欠如] (ibid., p.868) と等価です.

そしてそれは,« il n’y a pas de métalangage » [メタ言語は無い] (ibid., pp.813 et 867) と等価であることにより,« il n’y a pas d’Autre de l’Autre » [他の他は無い] (ibid., pp.813 et 818) と等価であり,かくして,学素 S(Ⱥ) (ibid., p.818) と等価となります.

要するに,かかわっているのは,Saussure の言語構造


に着想を得て Lacan が形式化した主体の存在の真理の現象学的構造


または


です.

上の引用において Lacan « le sujet de la parole » [口葉(ことば)の主体]と言っていますが,主体と言語との連関を最も単純明快に公式化しているのは Heidegger です : « die Sprache ist das Haus des Seins » [言語は,存在の家である].すなわち,存在としての人間主体は言語の構造のなかに位置づけられます.主体の存在論的構造 主体の存在の真理の現象学的構造 は,言語の構造と等価です.

言語構造において徴示素は被徴示そのものではなく,被徴示を代表ないし代理するものでしかないのと同様に,主体の存在の真理の現象学的構造においては,真理 [ vérité ] は,真理そのものならざる仮象 [ semblant ] によって代表されるしかなく,同じく,実在 [ le réel ] は,実在そのものならざる影在 [ l’imaginaire ] によって代表されるしかありません.すなわち,真理ないし実在について 真理ないし実在のうえに 真を言うことは不可能です.

そして,真理と仮象との間,実在と影在との間の切れ目 言語構造の学素において徴示素の座と被徴示の座とを区切る水平の線分 を成すのが,S(Ⱥ) の穴としての徴在の位 [ l’ordre du symbolique ] です.

このように言うと,説明の順序としては,徴在が最後になってしまいますが,本当は,徴在こそが,構造の可能性の条件として,第一次的なものです.徴在の穴がうがたれ,徴在の切れ目がつけられてこそ,影在と実在,仮象と真理は差異化され得ます.影在が実在に対して不等合的であり,真理に対する仮象でしかあり得ないのは,徴在の穴がうがたれたからにほかなりません.

ですから,Lacan もこう言っています : le sujet en tant que sujet de la parole est responsable de la dette symbolique [口葉の主体としての主体は,徴在的負債の責を負うている].

こう言い換えてもよいでしょう : le parlêtre est coupable de la dette symbolique [言語存在は,徴在的負債の故に有罪である].

人間は,言語存在であることにおいて,構造的に有罪である.それが,神学において原罪と呼ばれているものの正体です.

ところで,先ほど引用した1977315日の講義においては,Lacan « on est plus ou moins coupable du réel » と言っています.「徴在的負債の故に有罪である」ではなく,「実在の故に有罪である」.しかも,原罪として絶対的に有罪であるのではなく,「多かれ少なかれ有罪である」.どういうことでしょうか?

1955年の La chose freudienne においても,1977年の Séminaire においても,Lacan は,res [物]の属格 rei reus [負い目を負うている者,罪人]の属格 rei との一致に言及しています.それに関連して我々は,Séminaire VII, 19591223日の講義 (p.101, version Seuil) において,Lacan が,聖パウロのローマ書簡の 77-11節を,そこにおける「罪」 [ ἁμαρτία, péché ] という語に「物」 [ Chose ] という語を代入しつつ,引用しているのを思い出します:

Est-ce que la loi est la Chose ? Que non pas ! Toutefois je n’ai eu connaissance de la Chose que par la loi. En effet, je n’aurais pas eu l’idée de la convoiter si la loi n’avait dit : Tu ne la convoiteras pas. Mais la Chose trouvant l’occasion produit en moi toutes sortes de convoitises grâce au commandement. Car sans la loi, la Chose est morte. Or, moi j’étais vivant jadis, sans la loi. Mais quand le commandement est venu, la Chose a flambé, est venue de nouveau, alors que moi j’ai trouvé la mort. Et pour moi, le commandement qui devait mener à la vie, s’est trouvé mener à la mort. Car la Chose, trouvant l’occasion, m’a séduit grâce au commandement, et par lui m’a fait désir de mort. 
[律法は物であるか?とんでもない!しかるに,律法によるのでなければ,わたしは物を識らなかった.いかにも,もし仮に律法が「物を欲望するなかれ」と言わなかったなら,わたしは,物を欲望することを知らなかっただろう.しかし,物は,機会を捉えて,命令(戒律,掟)により,あらゆる類の欲望をわたしのうちに作り出した.そも,律法無しには,物は死んでいた.律法無しに,わたしはかつて生きていた.しかし,命令が来たりて,物は生きかえり,そしてわたしは死んだ.命へ至る命令が,わたしにとっては,死へ至るものである,とわかった.そも,物は,機会を捉えて,命令によりわたしを誘惑し,そして,命令によりわたしに死の欲望を生ぜしめた.]

そこにおいて Lacan は,単純に「罪」に「物」を代入しているだけでなく,若干の変奏を行ってもいます.特に「欲望,貪欲」について,原文は単純に名詞 convoitise が使われているのに対して,Lacan は敢えて動詞 convoiter を用いて,「物を欲望すること」と言っています.そして,最後の部分,聖パウロは「罪は,命令によって,わたしを死なせた」と言っているのに対して,Lacan は「物は,命令により,わたしに死の欲望 [ désir de mort ] を生ぜしめた」と言っています.「死の欲望」には,Freud の言う Todestrieb [死の本能]が読み取れます.

かくして,こう読解することができます:そこにおいて Lacan が念頭に置いているのは,死の本能としての欲望 $ と,l’achose とも表記されることになる la Chose としての客体 a との連関,すなわち,幻想の学素 ( $ a ) である.

かくして,「我々は多かれ少なかれ実在の故に有罪である」という命題は,「我々は,多かれ少なかれ,l’achose としての客体 a の故に有罪である」と読みかえられ得ます.

客体 a は,剰余悦として,症状の言説としての分析家の言説においては,主体の存在の真理を代表する能動者(代表者,代理物)の座に位置づけられます.能動者の座に位置する剰余悦 a は,しかし,真理そのものではなく,真理を「多かれ少なかれ」忠実に あるいは不忠実に 代表する仮象的な代理物にすぎません.その意味において,「我々は多かれ少なかれ実在の故に有罪である」.しかしそれも,つまるところ,仮象と真理との間の切れ目としての徴在の穴の故にです.

ここで,前に紹介した Séminaire VII の一節を思い起こしましょう.196076日の講義において Lacan は,« la seule chose dont on puisse être coupable, c’est d’avoir cédé sur son désir » [其れがゆえに我々が有罪であり得るところの唯一のことは,己れの欲望に関して譲歩したということである]と公式化した後で,こう言います:

Si l’analyse a un sens et si le désir est ce qui supporte le thème inconscient, l’articulation propre de ce qui nous fait nous enraciner dans une destinée particulière – laquelle exige avec insistance que la dette soit payée – revient, retourne pour nous ramener dans un certain sillage, dans quelque chose qui est proprement notre affaire.
[もし精神分析には意味があり,かつ,もし欲望は無意識的な主題(無意識という主題,無意識という問題)を支えるものであるなら,されば,我れらを個別的な運命〈其れは,負債が返済されるよう,執拗に要請する〉のなかへ根づかせるものの固有な連なりは,回帰し,戻り来て,我れらを或る軌跡へ – 本自的に我れらの本事である何ごとかへ – 我れらを連れ戻す.]

「欲望に関して譲歩する」における欲望は,当然ながら,通常の意味での「あれが欲しい,これが欲しい」の欲望ではなく,而して,その破壊不可能性と満足不可能性における根本的な欲望,他の欲望 Ⱥ としての欲望,すなわち,ex-sistence としての存在欠如そのものです.それは,不可能在としての実在です.

如何なる存在事象も,欲望 Ⱥ を満足させることはできません.したがって,欲望の満足に関して如何なる譲歩もしないとするなら,すなわち,欲望に関して真摯であり,欲望に対して本当に忠実かつ誠実に答えようとするならば,欲望を満足させるかに見えるかもしれない存在事象は,単なるごまかし Lacan が剰余悦 [ le plus-de-jouir ] と名づけたもの として,すべて拒否されねばなりません.すなわち,穴 S(Ⱥ) が開かれたままであることに耐えねばなりません.

にもかかわらず,まずもって大概のところ,Ⱥ の穴 S(Ⱥ) は,何らかの仮象的剰余悦 a によって塞がれています :


この事態が,「欲望に関して譲歩した」ということです.

したがって,「欲望に関して譲歩した」という事態も,埋め合わせ不可能な徴在の穴 S(Ⱥ), すなわち,徴在的負債に由来しています.

上に引用した196076日の講義の一節における revenir [回帰する]は,「常に同じ座に回帰する」ものとしての実在を示唆しています.また,articulation [連なり,連節]は,その固執における徴示素連鎖 [ l’insistance de la chaîne signifiante ] を示唆しています.それによって規定される反復強迫 [ Wiederholungszwang, automatisme de répétition ] は,「我々を個別的な運命へ根づかせる」ことになります.

では,「負債が返済されるよう執拗に要請する」ものは何か?それは,あの「猥褻かつ強暴な形象」たる超自我です.「負債を返済せよ」という要請は,超自我の定言命令:「悦せよ」と等価です.

超自我の命令:「悦せよ」は,遂行不可能です.なぜなら,性関係は無いからです.「負債を返済せよ」という命令も,同様に,遂行不可能です.なぜなら,原罪があるからです.

しかし,我々は,まずもって大概のところ,超自我の定言命令から自由ではありません.そのとき何が起こるか?命令を遂行したようなふりをするというごまかしです.ごまかしは,我々の日常的な実存様態であり,または,症状としての実存様態です.

「悦せよ」という定言命令の遂行を不可能なものとして単純に退けることができないときに起こる悦のごまかしを,Freud は「代理満足」 [ Ersatzbefriedigung ] と呼び,Lacan は剰余悦 [ le plus-de-jouir ] と名づけました.それは,不可能な悦の代補 [ suppléance ] です.そしてそれが,症状の本質を成します.

しかし,いくら我々が剰余悦を以て他 Ⱥ の欲望に対する答えをごまかしたつもりになっていても,超自我の方はごまかされません.それは,「負債を返済せよ」と執拗に要請し続けます.すると我々は,欲望に対して剰余悦のごまかしをますます重ねて行かざるを得ません.しかしそれは,「欲望に関して譲歩する」ことをますます続けて行くことにほかなりません.つまり,罪はますます重くなって行きます.Freud が「無意識的な罪意識」や「無意識的な有罪感」と呼んだものは,ますます強くなって行きます.

では,どうすればよいのか?みづから精神分析を経験することによって,ごまかしをやめ,罪を認めることです 原罪に至るまで.仮象的な剰余悦を放棄し,他の欲望の穴 S(Ⱥ) を塡塞不可能なものとして認めることです.そしてそれは,原罪を認めることにほかなりません.なぜなら,我々は原罪を負うている,ということは,言語存在としての我々の存在論的構造の可能性の条件は徴在の穴 S(Ⱥ) である,ということですから.

ごまかしの剰余悦を捨て去り,罪を,原罪に至るまで,すべて認めて,悔いるときに,何が起こるか?罪の赦しです.我々は,鬱々たる有罪感から解放されて,Lichtung [朗場]の Heiter [明朗]へ至ることができます.それが,死からの復活とともに,精神分析の終わりにおいて成起するはずのことです.

「精神分析は詐欺へ変質し得る」という Lacan の警告に関して若干の注釈を加えておきましょう.精神分析の詐欺への変質が起こり得るのは,徴在の切れ目による実在と影在との不等合を何らかのしかたでごまかしつつ,「我れは,真のうえに真を言う」と主張する者,言い換えれば,「他の他」 [ Autre de l’Autre ] として振る舞う者,すなわち,「下司」 [ canaille ] Lacan が呼ぶ者が,分析家の機能を臆面も無く果たそうとするときにです.実際,そのような下司を Lacan は「詐欺師」 [ imposteur ] (Écrits, p.813) と規定しています.

精神分析のことがほとんど知られていない日本には,みづから精神分析を経験してもいないのに「精神分析医」や「精神分析家」を自称している者が現にいます.我々としては,そのような者たちに近づかないよう,人々に警告を発せざるをえません.また,そのような者たちによる金銭的,精神的,性的な詐欺や搾取の被害者となった人々の訴えに耳を傾ける用意があります.

さて,前回,310日付の blog で紹介した Lacan のテクスト部分に戻って,詳細な読解を試みましょう.そもそも,ここでは Le séminaire sur « La Lettre volée » のなかの一節 (Écrits p.27) を解説するのが我々の本来の目的ですから.改めて引用しておきます:

Plût au ciel que les écrits restassent, comme c’est plutôt le cas des paroles : car de celles-ci la dette ineffaçable du moins féconde nos actes par ses transferts. Les écrits emportent au vent les traites en blanc d’une cavalerie folle. Et, s’ils n’étaient feuilles volantes, il n’y aurait pas de lettres volées.
scripta manent, verba volant (書かれたものは残り,口先だけの言葉は飛び去る)というラテン語の諺のとおりに「書は残る」ということが天のお気に召すように – むしろ,口葉(ことば)の場合にそうであるように:そも,口葉に関しては,少なくとも,帳消し不可能な負債が,その移転によって,我れらの行為を豊かにする.書は,狂気の白紙空手形を風に持ち去らせる.そして,もし仮に書がルーズリーフでなかったなら,盗まれた手紙も無かったであろう.]

加えて,ローマ講演から同内容の一節 (Écrits, pp.302-303) をも:

c’est en reconnaissant la subjectivation forcée de la dette obsessionnelle (...) dans le scénario (...) de la restitution vaine, que Freud arrive à son but : soit à lui faire retrouver dans l’histoire de l’indélicatesse de son père (...) la béance impossible à combler de la dette symbolique dont sa névrose est le protêt.
Rattenmann の徒労に終わった返済のシナリオのなかに強迫神経症的負債の強制的主体化を認めることによって,Freud は目的を達成する:すなわち,Rattenmann に対して,彼の父の不誠実さの歴史のなかに,徴在的負債 – 彼の神経症は,その負債に対する手形抗弁である – という埋め合わせ不可能な裂口を見出させることによって.]

さて,常識的には,ラテン語の諺のとおり,紙や石に書かれたものは確かな証拠として残るのに対して,口頭で言われたことは必ずしも記憶に残りませんし,残っていてもしばしば不正確です.にもかかわらず,Lacan は「残るのはむしろ,口葉(ことば)の方だ」と言っています.

ここで,「ことば」を「言葉」ではなく「口葉」と表記することについて若干の注釈をさしはさむと,それは,「口」の卜文や金文における表記


の字に白川静が見出した意義を尊重するためです.白川によれば,「口」は,解剖学的な口を指すよりも,むしろ,源初的に,祝祷ということばの根本的な機能を指し示す字です.そのことを利用して,Lacan が用いる parole という語がことばの本質的な機能を差し徴すときには,それを「口葉」(ことば)と翻訳したいと思います.

Les paroles restent. 口葉は残る.それは,Jesus の言葉 (Mt 24,35) を思い起こさせます : ὁ οὐρανὸς καὶ ἡ γῆ παρελεύσονται, οἱ δὲ λόγοι μου οὐ μὴ παρέλθωσι [天と地は過ぎ去るだろうが,わたしのことばが過ぎ去ることはない].ここでは λόγος という語は複数形で使われていますが,しかし,ヨハネ福音書の冒頭の ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος [源初に λόγος が在った]がすぐに喚起されます.この λόγος Jesus 自身であり,開闢の切れ目 S(Ⱥ) そのものです.同様に,Lacan も複数形で les paroles と言っていますが,本当に問題となっているのは単数形の la parole であり,そして,le sujet de la parole です.

La dette ineffaçable [帳消し不可能な負債],ならびに la béance impossible à combler de la dette symbolique [埋め合わせ不可能な〈徴在的負債の〉裂口].先に見たように,le sujet en tant que sujet de la parole est responsable de la dette symbolique, 口葉の主体としての主体は,徴在的負債の責を負うています.徴在的負債の裂口 S(Ⱥ) は,口葉の機能と言語の構造との可能性の条件である徴在の穴 S(Ⱥ) そのものです.言い換えれば,言語存在としての人間は,己れの存在論的構造を,徴在の穴としての徴在的負債の裂口に負うています.したがって,人間が言語存在である限りにおいて,人間にとっては,徴在的負債は埋め合わせ不可能な穴であり続けます.

Les transferts de la dette ineffaçable. この transfert は,精神分析的な意味における「転移」ではなく,而して,商法などの法律の分野で言う「移転」です.或る権利の帰属者を或る人から他の人へ変更することです.

Lacan が念頭においているのは,Freud の症例 Rattenmann における父の Schuld [負債,罪]の問題です.彼の父親は,軍の下士官であった若いとき,所属していた部隊の公金の一部を賭博のために使い込んでしまいましたが,事が発覚して横領の罪に問われる前に,友人が貸してくれた金で穴埋めすることができました.しかし,不明な事情により,その友人への返済を果たすことはできませんでした.つまり,彼の父親は返済不可能な負債を負っていました.Freud は,Rattenmann が下士官として軍事演習に参加していたときに見舞われた強迫観念 それは,立てかえてもらった眼鏡の代金を誰に対して如何にして返済するかにかかわっています のなかに,その「返済不可能な父の負債」の問題を読み取ります.

事情はこうです:軍事演習中に彼は眼鏡を紛失したので,Wien の眼鏡屋から新たな眼鏡を取り寄せます.品物が演習地の近くの郵便局に届いたとき,或る職員が代金を立て替えてそれを受け取り,さらに,或る人にそれを Rattenmann に届けてくれるよう頼みます.眼鏡は無事に彼の手元に届きます.そして,誰が代金を立て替えてくれたかについても正しい情報が彼に伝えられます.ところが彼は,事実を知っているにもかかわらず,すぐさま返済を履行しようとはせず,代わりに,彼の頭の中には,誰に対して如何にして返済するかに関して現実的には実行不可能なことを命ずる強迫観念が展開されます.そして実際,彼は,軍事演習地滞在中に負債を支払うことができませんでした.(ただし,Wien に戻ってから,実際には始めから知っていた事実にもとづいて,立てかえをしてくれていた郵便局職員に宛てて,しかるべき金額を送金しました.)

つまり,Rattenmann の強迫観念の症状において,帳消し不可能な負債は父から彼へ「移転」されました.そのことを Lacan は「負債の強制的主体化」とも言っています.そして,その移転によって,強迫神経症の症状行為は,その意義において「豊かに」なります.すなわち,父の負債を返済しようとするふりをしつつも,実際にはその履行が不可能であるようにしている,という意義です.Lacan が用いている表現で言うなら,「手形抗弁」の意義です : Rattenmann の神経症は,徴在的負債に対する手形抗弁 [ protêt ] である (Écrits, p.303).

protêt という商法用語は,語源的に動詞 protester [抗議する,抗弁する]と関連しています.ドイツ語や英語には名詞 Protest, protest があります(フランス語では protestation と言います).ともあれ,精神分析家にとっては,männlicher Protest [男性的抗議]という表現がすぐさま連想されます.男性患者の精神分析治療において去勢不安に対する究極的な抵抗と否認を成す現象です.おそらく Lacan もその表現を念頭に置きつつ,負債の返済に対する抵抗ないし拒絶としての神経症症状を指すために,protêt という商法用語を使ったのでしょう.

同じ事態を言い表すために,Lacan Écrits p.27 では les traites en blanc dune cavalerie folle と言っています.cavalerie は「騎兵隊,騎兵部隊」ですが,商業の語彙において traites (または effets, chèques) de cavalerie は,実際には履行されない支払があたかも履行されるかのごとくに装うために振り出される手形です.いわゆる「空手形」です.他方,en blanc は,その手形は「誰が,誰に,幾らを,いつ」支払うかが全く書かれていない白紙状態だ,ということです.

folle は形容詞 fou [狂気の,狂人の]の女性形です.直前の女性名詞 cavalerie [騎兵隊]にかかっています.しかし,ひとりの騎士について chevalier fou [狂人騎士]と言えば,すぐさま連想されるのは Don Quijote でしょう.騎士道物語の虚構的世界に生き続ける Don Quijote を神経症と診断すべきか,paranoia と診断すべきか,それはどうでも良いことです.それは,広義の folie [狂気]であり,Lacan が言うところの aliénation [異状]です.

すなわち,異状の徴示素としての症状は,徴在的負債という帳消し不可能な負債を返済するかに装うための白紙空手形である.白紙であるということは,自分が債務者であることを否認しているということ,負債を引き受けることができていないということです.そして,空手形であるということは,手形を振り出しながらも本当に返済する気はない,ということです.単なるごまかしであり,まやかしにすぎません.それが,徴在的負債に対する症状の本質です.

そして最後に Lacan は,精神分析治療に関連する重要なことをひとつ指摘しています.それは,症状という白紙空手形は,書であるがゆえに,ルーズリーフのように一枚一枚ばらばらに分離することが可能なものである,ということ;そして,それがゆえに,紙が一枚一枚風に持ち去られ得るように,症状はひとつひとつ剥ぎ取られ得る,ということです.

しかし,そのためには,症状の剰余悦の徴示素 a が排斥の言説としての支配者の言説において生産の座に隠れたままでいてはなりません.


a は,分析家の言説において能動者(代理物)の座に現れ出でねばなりません その座から,精神分析的解釈の作用によって,分離され,廃位されるために.


ともあれ,今回は,la dette symbolique [徴在的負債]の概念を詳細に検討することができたと思います.


毎週金曜日の晩に行われる東京ラカン塾精神分析セミネールは,現在,春休み中です.2015-2016年度第三学期は,415日に開始します.引き続き,Lacan Le séminaire sur « La Lettre volé» の読解を継続します.

2016年3月10日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-16年度 第16回,2016年03月11日

La dette symbolique


精神分析の臨床における有罪感,有責感の問題について考えてみましょう.何事かに関して負いめがある,罪がある,責めを負うている,と感ずること,そして,そのことを否認しようとすることは,精神分析の臨床においてしばしば問題となります.

Écrits p.27 で Lacan は « scripta manent, verba volant » [書かれたものは残り,語られた言葉は飛び去る:口頭で言われたことは,忘れ去られたり,後から否認されたりするが,書かれたものは後々まで残るので,文書作成の際には語や表現の選択に慎重であらねばならない,あるいは,重要な取り決め事は口約束のままではなく,文書化しておくべきだ]というラテン語の諺に言及した後,こう言っています:

« Plût au ciel que les écrits restassent, comme c'est plutôt le cas des paroles : car de celles-ci la dette ineffaçable du moins féconde nos actes par ses transferts. Les écrits emportent au vent les traites en blanc d'une cavalerie folle. Et, s'ils n'étaient feuilles volantes, il n'y aurait pas de lettres volées. »

[書は残るということが天のお気に召すように – むしろ,口葉(ことば)の場合にそうであるように:そも,口葉については,少なくとも,帳消し不可能な負債が,その移転によって,我れらの行為を豊かにする.書は,狂気の白紙空手形を風に持ち去らせる.そして,もし仮に書がルーズリーフでなかったなら,盗まれた手紙も無かったであろう.]

この一節とほぼ同じ内容の一節を,我々はローマ講演 (Écrits, pp.302-303) のなかに見出すことができます.そこにおいて Lacan は,Freud の強迫神経症患者 Rattenmann [ネズミ男]が捕らわれた或る強迫観念 立てかえてもらっていた眼鏡の代金を誰に如何にして返済するかにかかわる強迫観念 – の Freud による分析に準拠しつつ,こう言っています:

« c'est en reconnaissant la subjectivation forcée de la dette obsessionnelle (...) dans le scénario (...) de la restitution vaine, que Freud arrive à son but : soit à lui faire retrouver dans l'histoire de l'indélicatesse de son père (...) la béance impossible à combler de la dette symbolique dont sa névrose est le protêt. »

[徒労に終わった返済のシナリオのなかに強迫神経症的負債の強制的主体化を認めることによって,Freud は目的を達成する:すなわち,Rattenmann に対して,彼の父の不誠実さの歴史のなかに,徴在的負債 – 彼の神経症は,その負債に対する手形抗弁である – という埋め合わせ不可能な裂口を見出させることによって.]

さらに,負債とその返済とに関連して,Séminaire VII の最終回,1960年7月6日の講義からの引用も挙げておきましょう.そこにおいて Lacan は,« la seule chose dont on puisse être coupable, c'est d'avoir cédé sur son désir » [其れがゆえに我々が有罪であり得るところの唯一のことは,己れの欲望に関して譲歩したということである]と公式化した後で,こう言っています:

« Si l'analyse a un sens et si le désir est ce qui supporte le thème inconscient, l'articulation propre de ce qui nous fait nous enraciner dans une destinée particulière – laquelle exige avec insistance que sa dette soit payée revient, retourne pour nous ramener dans un certain sillage, dans quelque chose qui est proprement notre affaire. »

[もし精神分析には意味があり,かつ,もし欲望は無意識的な主題(無意識という主題,無意識という問題)を支えるものであるなら,されば,我れらを個別的な運命〈其れは,負債が返済されるよう,執拗に要請する〉のなかへ根づかせるものの固有な連なりは,回帰し,戻り来て,我れらを或る軌跡へ – 本自的に我れらの本事である何ごとかへ – 我れらを連れ戻す.]

dette [負債]という語を Lacan が用いるのは,Freud が用いる Schuld という名詞と,それに関連する形容詞 schuldig により差し徴されている問題について思考するためです.

ドイツ語の Schuld は,「負債」と「罪」のふたつの意味を有しています.日本語で一語で言うなら,「負いめ」です.an etwas schuldig sein は「... について有罪である,有責である」であり,jemandem etwas schuldig sein は「... に ... を負うている,... に対して ... の負債がある」です.

Lacan は,ですから,ときとして,coupable par la dette または coupable de la dette [負債の故に有罪である]とも言っています.

負債の問題において問われているのは,罪の問題です.さらに言えば,単に罪ではなく,神学的な意味における原罪 [ péché originel ] です.源初的な罪,源初の罪,源初に由来する罪です.

原罪のことをドイツ語では Erbsünde と言います.Sünde は宗教的な意味における「罪」,Erbe は「相続人」ないし「遺産,相続財産」です.もし仮に自身が罪を犯したことがなくても,我々は既に罪を相続しており,有罪なのです.

原罪の概念は,大部分の日本人が非反省的に信じ込んでいる仏教的な因果応報の思想にとっては受け容れがたいものです.仏教においては,悪しき業(karma, 行為)が無ければ,悪しき果(罪)もあり得ません.そして,自身の悪業の果報を免れることはできず,その責任をみづから取らねばなりません.つまり,罪が赦されることは決してありません.

それに対して,キリスト教においては,慈しみ深い神は我々の罪を赦します.原罪をも赦します.ただし,我々が自身の罪を認め,真摯に悔い,罪の赦しを神に請い求めるという条件のもとに.

つまり,我々が罪(原罪をも含めて)を認めようとしないならば,あるいは,自身の有罪性を我々自身が何らかのしかたで取りつくろい得ると思っている限りは,罪の赦しは得られません.自身を罪人と認めるときに初めて,罪の赦しが与えられ,有罪性から解放されることができます.

そのようなものとしての原罪の問題は,キリスト教においてのみかかわるのではありません.Freud が用いた「無意識的な罪意識,無意識的な有罪感」という表現を深刻に取るならば,精神分析においてかかわる罪の問題の逆説性を読み取ることができます.自身で罪を犯した憶えが無くても,我々は有罪なのです.つまり,原罪を負うているのです.

ただし,ユダヤ教の信仰もキリスト教の信仰も有していなかった Freud 自身は,原罪の問題を深く考えることはありませんでした.代わりに Freud は,Rattenmann の強迫観念において,彼の父が負った Schuld [負債]の償いの主題を読み取ります.Rattenmann は,あたかも,父の Schuld を相続したかのごとくです.つまり,一種の Erbsünde を彼は負うている,というわけです.Lacan は,そこに注目します.

Lacan の言う dette symbolique について,原罪との関連において検討してみましょう.

まず,Lacan の表現に注目しましょう : « la dette ineffaçable » [帳消し不可能な負債],« la béance impossible à combler de la dette symbolique » [徴在的負債の埋め合わせ不可能な裂口].

徴在的負債は帳消し不可能である,なぜなら,それは埋め合わせ不可能な裂口であるから.つまり,徴在的負債とは,徴在の裂け目,穴としての徴在の位そのものにほかなりません.

徴在の裂け目は,開闢する裂け目として,源初的です.したがって,徴在の裂け目そのものとしての徴在的負債も源初的です.つまり,原罪です.

源初的にして,かつ,塡塞不可能な穴,そのようなものとしての徴在の位,それが罪の問題の根源を成します.

長くなりますから,稿を改めましょう.

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-16年度 第16回:


Lacan の Le séminaire sur « La Lettre volée » の読解を継続します.

日時 : 2016年03月11日,19:30 - 21:00,

場所:文京シビックセンター(文京区役所の建物) 5 階 D 会議室.

参加費無料.事前の申請や登録は必要ありません.

テクストは各自持参してください.テクストを入手することが困難な方は,小笠原晋也へ御連絡ください : ogswrs@gmail.com

3月11日は,2015-16年度の第二学期の最終日です.四週間の春休みの後,第三学期は04月15日に開始します.

2016年3月3日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-16年度 第15回,2016年03月04日

Écrits p.27 の「帳消し不可能な負債」の問題へ進む前に,p.25 の « a letter, a litter » にしばしとどまりましょう.

« A letter, a litter, une lettre, une ordure. On a équivoqué dans le cénacle de Joyce sur l'homophonie de ces deux mots en anglais. »
[A letter, a litter, 文字,ゴミ.ジョイスの取り巻きたちは,それら二つの英単語の語音類似にもとづいて,語呂合わせをした.]

文脈に合わせて「語呂合わせ」と訳した équivoque は,「曖昧語音」です.英語では,letter と litter の二単語の音は近似しています.発話されつつある言葉のなかで発話者が letter ないし litter と言ったとき,発音が曖昧であれば,それらのいづれであるかは判別困難となります.

そのような語音曖昧性は,語呂合わせの言葉遊びの悦を可能にもしますが,而して,精神分析の臨床においては,解釈の可能性を提供します.発話された言葉に潜む曖昧語音をどのように聴き取るか,そこに解釈の可能性が存します.

解釈の可能性を孕む語音曖昧性における音声質料の連鎖としての言葉,それを Lacan は lalangue [ゲンゴ]と名づけることになります.

精神分析は,その臨床において,分析者(精神分析の患者)が面接において発話する言葉から出発します.聴き分けられ,書き取られたものとなる以前の言葉,lalangue : それこそが,精神分析の材料です.本源的に言って,精神分析は発話された言葉にかかわるのであり,文学作品などの文書や書物にかかわるのではありません.もっとも,応用の可能性はありますが.

ところで,わたしは « a letter, a litter » の語呂合わせは Joyce 自身のものだと思い込んでいたのですが,Lacan が Écrits p.27 に付している脚注により,実際にはそうではないことがわかりました.

Lacan は,Our Examination round his Factification for Incamination of Work in Progress という本をそこに挙げています.Joyce を個人的に知っており,Work in Progress [進行中の作業,作品]という名のもとにところどころに発表されていた Finnegans Wake (1939年出版)の諸断片を読んでいた者たちが1929年に出版した評論集です.当時23歳だった Samuel Beckett も寄稿しています.

「進行中の作業の incamination のための彼 [ Joyce ] の factification をめぐる我れらの検討」という表題に含まれている factification や incamination は,ジョイス的な新造語です.factification には fact [事実]やラテン語の facere [作る]に加えて,falsification [偽造]が読み取れます.incamination にはイタリア語の incamminare [歩ませる,導く]に加えて,incarnation [受肉]や insemination [種まき,受精]が読み取れます.

ともあれ,letter と litter の曖昧表現は,Our Examination... の末尾に収録された Joyce への「抗議の手紙」の表題に見出されます : A LITTER to Mr. James Joyce. 

Finnegans Wake という文学作品と言えないような何ものかを書きつつある Joyce へ向かって,敬意に満ちた「抗議」の表明として,ゴミ [ litter ] を投げつける代わりに送られた手紙 [ letter ] というわけです.

長いものではないので,全文を引用しておきましょう:

A LITTER to Mr. James Joyce

Dear Mister Germ’s Choice,

in gutter dispear I am taking my pen toilet you know that, being Leyde up in bad with the prewailent distemper (I opened the window and in flew Enza), I have been reeding one half ter one other the numboars of 
"transition" in witch are printed the severeall instorments of your "Work in Progress".

You must not stink I am attempting to ridicul (de sac !) you or to be smart, but I am so disturd by my inhumility to onthorstand most of the impslocations constrained in your work that (although I am by nominals dump and in fact I consider myself not brilliantly ejewcatered but still of above Averroëge men’s tality and having maid the most of the oporto unities I kismet) I am writing you, dear mysterre Shame’s Voice, to let you no how bed I feeloxerab out it all.

I am überzeugt that the labour involved in the compostition of your work must be almost supper humane and that so much travail from a man of your intellacked must ryeseult in somethink very signicophant. I would only like to know have I been so strichnine by my illnest white wresting under my warm Coverlyette that I am as they say in my neightive land "out of the mind gone out" and unable to combprehen that which is clear or is there really in your work some ass pecked which is Uncle Lear ?

Please froggive my t’Emeritus and any inconvince that may have been caused by this litter.

Yours veri tass

Vladimir Dixon

御覧のとおり,手紙の書き手は,複数の国語にまたがる曖昧表現を駆使する Finnegans Wake における Joyce の文体を,みごとに模倣しています.

ジョイス研究者たちは長い間,Vladimir Dixon は Joyce 自身の偽名であろうと推測してきました.しかし,1979年の James Joyce Quarterly 誌 pp.219-222 に発表された Who Was Vladimir Dixon ? Was He Vladimir Dixon ? という短い論文において,Thomas A. Goldwasser は Vladimir Dixon (1900-1929) の伝記的事実を紹介しています.彼の父は英国出身のアメリカ人,母はロシア人です.彼自身は,モスクワ近郊で生まれ育ち,高等教育は USA で受けました.彼は短い生涯に幾つかの詩集や評論を書きましたが,それらは,この Joyce への Litter 以外,すべてロシア語で出版されました.ジョイス研究者たちが彼のことを知らなかったのは,そのためです.

a letter, a litter. 手紙ないし文字,すなわちゴミ.Vladimir Dixon においては letter は「手紙」ですが,それは文学作品全体,書物全体を差し徴し得ます.

Lacan が1966年の Écrits の出版の際に発した Witz : poubellication (Écrits, p.364) も,« a letter, a litter » に由来すると思われます.

publication [出版]と poubelle [ゴミ容器]との重ね合わせに存する語呂合わせ poubellication を,Lacan は,論文や本の執筆と出版に執着する精神分析家たちを揶揄するために用います.精神分析においてかかわる主体の存在の真理は如何なるものかを徹底的に究明しようとするかわりに,出版物をとおして「我れは真理を知っている」と宣伝しようとする下司的売名行為は,精神分析家にはふさわしくありません.

より本質的に,Lacan において,lettre [文字]は,その質料性における signifiant [徴示素]のことです.ゴミのように廃棄され,排斥され,閉出された徴示素: それは今や,ex-sistence [解脱実存]の在処,すなわち実在の位へ位置づけられ,そして,そこに固執し,存続し,存有します.ゴミとしての徴示素は,実在的になります.すなわち,意味の外 [ hors sens ] のものとなります.

無意識の構造は,ひとつの徴示素の源初排斥 [ Urverdrängung ] により形成される: 1950年代,Lacan は,Freud にもとづいてそう思想します.源初排斥されるひとつの徴示素,それは phallus です.「性関係は無い」の学素として思考されることになる phallus です.

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 第15回


Lacan の Le séminaire sur « La Letter volée » の読解を継続します.

日時 : 2016年03月04日 19:30 - 21:00,
場所:文京シビックセンター(文京区役所の建物) 5 階 D 会議室.

参加費無料.事前の申請や登録は必要ありません.

テクストは各自持参してください.テクスト入手困難な方は,小笠原晋也へ御連絡ください : ogswrs@gmail.com