2015年4月8日

ハィデガーと親鸞: 或る浄土真宗僧侶の作り話について


ハィデガーと親鸞: 或る浄土真宗僧侶の作り話について



日本人は Heidegger と仏教とを結びつけるのが好きなようだ.おそらく,Heidegger が「無」について語ったからだろう.確かに Heidegger は Tao [道]の概念に注目している.しかし,それは,Weg [道]という語が もともと Heidegger のお気に入りであったからにすぎない.Heidegger 自身は,仏教を含む いわゆる東洋思想そのものには さほど関心を持っていない.なぜなら,いわゆる東洋思想は,Heidegger が Geschichte des Seins [存在の歴史]と呼ぶもの,即ち,実在との出会いの可能性の場処には属していないからである.

ところが,浄土真宗から派生した新興宗教団体 親鸞会(会長 高森
顕徹 [ 1929- ] 氏)は,「ハイデガーは,晩年,歎異抄に驚嘆し,親鸞聖人に帰依した」と主張している:

https://www.youtube.com/watch?v=OcvzJ2-kpTI

https://www.shinrankai.or.jp/s/movie/heidegger/index.htm

http://www.shinrankai.or.jp/koe/090828ronbun.htm(2020年09月13日に再確認したところ,この link は無効になっている)

Heidegger を読み込んだ者なら 一笑に付するだけの話だが,親鸞会の上記動画をわたしに教えてくれた或る若い人は その主張を真に受けかけた.ほかの人々もだまされる危険性がありそうなので,このまま放っておくわけにも行くまい.検証しておこう.

親鸞会の Heidegger に関する上記主張の根拠は,1963年08月06日付の『中外日報』紙に掲載された松野尾潮音氏の文章に存する.『中外日報』社が提供してくれたコピーを 提示しておこう:


 
コピーが 一部 不鮮明であるので,転記しておく.漢字仮名遣い,句読点や括弧の使い方は 部分的に修正してある.

現代日本人,いや 世界の人々の一番の関心と苦悩は,平和の問題に対する見通しが立たないことだ と思う.キューバ問題が緊迫して,まかりまちがえば水爆戦争に突入するんじゃないかという前夜,東京新橋の芸者たちは 自前で徹夜して飲んだ という.人間に生まれて 今まで,他人の気がねばかり気づかって,お酌ばかりしてきた.それでは 死んでも死にきれない.ひとつ 今晩 大いにやろうというので,仲間だけで飲んだ.幸い戦争が避けられて,明朝は 頭の痛いのと莫大な勘定だけが残ったという.しかし 笑いごとではない.誠実に人生を生きようとしない今日の刹那的感覚のみに明け暮れていたのでは,このように取りみだすのも無理はない.

常に 私どもの頭の上には 平和問題が覆い被さっているが,今,長いものは考えられない.昔に比べると 生活設計の時間が短くなってきた.つい 投げやりになる.今の世界の人のものの見方,考え方の特徴は,やっぱり この問題の見通しがつかないところから色づけられている.平和の理想像だけを言っていたのでは 始まらない.平和の問題をどうしたら見通しづけられるか,自分の問題として取り組み,思想的な遍歴の挙句に 親鸞聖人の歎異抄に到って,「これだ!この教えあってこそ 初めて 平和の問題に対する見通しは明らかになる」と 深くこれを喜び,トインビーにその見解を支えられながら,先に『現代に生きる歎異抄』を著し,その後,同志相寄って歎異抄研究会を組織し,東洋文庫を発刊したのは,日銀の行員で,仏教に縁のなかった人であった.

また 外国では 戦後,一世を風靡した老哲学者ハイデッガーが 老後の日記にて「今日,英訳を通じて 初めて 東洋の聖者 親鸞の歎異鈔を読んだ.『弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけり』とは,何んと透徹した態度だろう.もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら,自分は ギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった.日本語を学び,聖者の話しを聞いて,世界中にひろめることを生きがいにしたであろう.遅かった」と書いている.更に「自分の側には 日本の哲学者,思想家だという人が三十名近くも留学して弟子になった.ほかのことではない.思想・哲学の問題を随分話し合ってきたが,それらの接触を通じて,日本にこんな素晴らしい思想があろうなどという匂いすらしなかった.日本の人たちは 何をしているのだろう.日本は 戦いに敗けて,今後は 文化国家として 世界文化に貢献するといっているが,私をして言わしむれば,立派な建物も美術品もいらない.なんにも要らないから,聖人の御教えの匂いのある人間になって欲しい.商売,観光,政治家であっても,日本人に触れたら何かそこに深い教えがある という 匂いのある人間になって欲しい.そしたら 世界中の人々が この教えの存在を知り,フランス人はフランス語を,デンマーク人はデンマーク語を通して,聖人の御教えをわがものとするであろう.そのとき 世界の平和に対する見通しがはじめてつく.二十一世紀文明の基礎が置かれる」と述べている.

ここに改めて我々のなすべきことは 何であるか.聖人がなんとおっしゃったかということを超えて,今の私の日暮らしを御覧になったら なんとおっしゃるであろうか.回顧,反省させて頂き,その場から身にかけて実践する.実践によってあらたな問いを持つ.問いをもって聖教をふり返る.聞かして頂いたところから身にかけて実践する.身体で念仏する日暮らしにかえらせて頂くことが,私どものなすべき唯一の方途の営みであることを しみじみ頂くことである.

この文章を書いた松野尾潮音(マツノオ チョウオン,1921-1999)氏は,彼の著書のひとつ :『仏教と浄土真宗』をわざわざ参照してくれた人からの情報によると,東大でインド哲学を専攻した浄土真宗本願寺派の僧侶であり,愛知県岡崎市にある明願寺の住職をしていた.

しかしながら,上の文章において,キューバ危機に関する話はいかにも創作めいているし,「東洋文庫」に関する記述も Internet 上の情報からは裏付けすることができなかった.そして,そもそも,Heidegger に関して述べられていることは まったくの作り話である と わたしは 断定する.見て行こう.

Heidegger は,1976年05月26日に 満 86 歳 8 ヶ月で亡くなる.1963 年の時点では 74 歳,死去まで まだ 12-13 年 ある.もし仮に彼が普通の意味での日記をつけていたとしても,それが 1963 年より前の時点で 部分的にでも 公表されたという話しは 聞いたことがない.もし仮にそれが事実であったなら,今,世界中の Heidegger 研究者たちがその日記に言及しているだろう.ところが,そのような言及を,わたしは,ついぞ見かけたことがない.

彼の「日記」と言えるようなもので 公表されたものは,2014年に出版が開始され,Heidegger の「反ユダヤ主義」の証拠として 現在 大変な話題になっている「黒ノート」[ Schwarze Hefte ] 以外には 無い.現時点で,彼の「黒ノート」は,Gesamtausgabe[ハィデガー全集,全 102 巻]の 第 94 巻から 第 97 巻として,1931年から 1948年までの部分が 出版されている(追記 : 2020年09月13日現在,第 100 巻までが出版されている).わたしはまだ自分でそれらを全部は読んでいないが,そこに親鸞や歎異抄への言及があるとは聞いていない — もし仮に 松野尾潮音氏が述べているようなことが記されているなら,当然ながら,「反ユダヤ主義」と同じ程度に話題になっているだろうが.

たまたま 1963年には,タイ人 仏教僧 Bhikku Maha Mani が Heidegger を訪ねてきている.その際のふたりの対談は映像記録として残されており,また,Gesamtausgabe 第 16 巻に その部分的テクストが 収録されている.

そこにおいて,「あなたは何十年にもわたり人間の本有について熟思なさってきましたが,どのような洞察に到達しましたか?」と問う仏教僧に対して,Heidegger (Gesamtausgabe, Band 16, pp.590-591) はこう答えている:

わたしの思考の決定的な経験 — つまり,西洋の哲学にとっては,西洋的思考の歴史の思い起こし — は,次のことを わたしに 示現しました:従来の思考において決して措定されなかった問いが ひとつある.それは 即ち,存在に関する問いです.そして,その問いが有意義であるのは,我々は西洋的思考において人間の本有を次のことによって規定するからです:即ち,人間は,存在へ応語することによって,存在との関係において 立ち,実存している,ということ.つまり,人間は,そのような応語するものとして,言語を有する存有である.仏教とは異なり — と わたしは思いますが —,西洋的思考においては,人間とほかの生物 — 植物や動物 — との間には,本有的な区別が為されています.人間は,言語を有するということによって 特徴づけられています.即ち,人間は,存在との知的関係 — そこにおいて人間は存在を知り得るところの関係 — に立っている,ということによって 特徴づけられています.しかるに,存在に関する問いは,西洋的思考のこれまでの歴史においては 措定されませんでした.あるいは,よりはっきり言えば,この観点においては,これまで 存在は 人間に対して 己れを秘匿してきました.であるがゆえに,わたしの確信によれば,存在に関する問いは 今や 措定されねばならないのです.同時に,人間とは何であり,誰であるか という問いに対する 答えを得るためにも.

以上の一節においても読み取れるように,Heidegger は 仏教や「東洋思想」に対する思い入れのようなものは 一切 持っていない.Heidegger にとって関わっているのは,あくまで,Sokrates 以前の哲人たちから 形而上学を経て Nietzsche に至る 西洋的思考のなかで,言語の構造において己れを示現しつつ秘匿してきた存在の歴史である.

1963年前後の Heidegger の重要なテクスト 『時間と存在』(1962) および『哲学の終焉と思考の課題』(1964) — においても,「東洋思想」や仏教への言及は 皆無である.

なぜなら,Heidegger が目ざしているのは,西洋的形而上学の限界を「東洋思想」への逃避によって覆い隠すことではなく,しかして,形而上学の行き詰まりを その源初を成す「存在の真理の深淵」へ遡ることによって 超克することだからである.

以上から,松野尾潮音氏の述べていることは 明白に まったくの作り話である,と わたしは 断定する.

「十年前に親鸞を知っていたなら,ギリシャ語もラテン語も学ばなかった」というくだりは,まったくの噴飯ものである.Heidegger の年代の知識人は,中学校から大学にかけて,古典古代の言語と教養を徹底的に叩き込まれて育っている.

さらに,「今日,英訳を通じてはじめて東洋の聖者 親鸞の歎異抄を読んだ.弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけりとは,何んと透徹した態度だろう」というくだりの「弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけり」という文は,「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば,ひとえに親鸞一人が為なりけり」という歎異抄の原文のほぼ正確な引用である.しかし,もし仮に松野尾潮音氏の言うことが事実であるなら,Heidegger は 歎異抄を 英訳で読み,自分の日記には 英文を さらにドイツ語に 翻訳したはずであろう.そして それを さらに誰かが 日本語に翻訳したことになる.そのような多重翻訳を経て,歎異抄の日本語原文がほぼ正確に再現され得るはずはない.しかるに,引用が正確であるのは,それを含むくだりが松野尾潮音氏の作文であるからだ,と推測するのが 自然である.

また,「何にも要らないから 聖人の御教えの匂いのある人間になって欲しい.商売,観光,政治家であっても 日本人に触れたら 何かそこに深い教えがある という匂いのある人間になって欲しい」という文については,Heidegger のテクストにこのような比喩的意味における「匂い」という語が登場したのを見かけたことは 一度も無い.これも,線香の煙のなかで暮らしている仏教僧ならではの作文である.

松野尾潮音氏は既に故人である以上,彼自身に事実を確認することは もはや不可能である.しかし,以上に検証したとおり,彼が Heidegger に関して言っていることは全くの作り話である と断定するしかない.

多分,彼は,中外日報という仏教業界紙に載せる駄法螺のために考え出し作り話が Heidegger 研究者の目にとまることは よもや あるまい と 高をくくっていたのであろう.あるいは,もしかしたら,彼は,見えすいた嘘を平然とつくことによって人を笑わせることを芸とする「和尚さん」として,当時,仏教界ないし仏教業界では よく知られていたのかもしれない.

ともあれ,松野尾潮音氏は,高森顕徹氏が 親鸞会の宣伝のために 彼の戯言を 真なるものと偽って 提示して,Internet 上で不特定多数の目に触れるようにすることになろうとは,予想だにしていなかったに違いない.

以上の指摘を わたしは 親鸞会に伝えたが,同会から 誠意ある回答は 得られなかった.その後も「ハイデガーは晩年,歎異抄に驚嘆し,親鸞聖人に帰依した」という内容の記事も動画も,そのまま維持されている(2020年09月13日に調べたところ,親鸞会の Heidegger に関する動画は,幾人かの人々によって引用されてもいる).

Heidegger と歎異抄に関する松野尾潮音氏の虚言の利用を親鸞会が中止するかどうか,今後 ときどき 再調査せねばならないだろう.もし仮に親鸞会が 誠実で 良心的な団体であるなら,親鸞と歎異抄の宣伝のために Heidegger のことをよく知らない人々をたぶらかすことを これ以上 続けることはないはずであろう.

(2020年09月13日に部分的に加筆)

8 件のコメント:

  1. この「ハイデガーは晩年,歎異抄に驚嘆し,親鸞聖人に帰依した」とする松野尾潮音氏の文章とほぼ同じものが、昭和44年から57年に浄土真宗親鸞会が発行した、親鸞会会長、高森顕徹著「こんなこと知りたい」1~4巻のすべての「はしがき」に記述されています。
    この本は親鸞聖人の教えをQ&Aで解説したというものですが、読者対象を親鸞会会員としているためか、富山県射水市にある親鸞会館内でしか購入できません。
    この本のはしがきが虚偽の文章を転用したものであると同様に、本文も親鸞聖人の教義を歪曲したことが少なからず書かれています。
    高森会長の著作物には、伊藤康善氏や大沼法龍氏の著作から盗作したと思われる記事が多々あることからも、このハイデガーの記述が高森会長に都合のいい文章だったので何ら検証もせず転用したのでしょう。

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  2. コメントくださり,ありがとうございます.Heidegger に言及している YouTube の話しも,親覧会の site の記事も,2015年7月13日の時点では削除も訂正もされていません.そのことが,親覧会が如何なるものであるかを雄弁に物語っています.

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  3. ハイデガーは、1963年のシュピーゲル対話で、自身の存在論の挫折を語り、哲学にはもはや何も期待できないと語りました。哲学のかわりは、科学、サイバネティクスだと述べていますから、その点からは、親鸞に傾倒したという話もありうるのではないか、と思います。
    われわれ人類は、いつか(何百年後?)現れる神のようなものを待つだけだ、と語るハイデガーは、自らの何おいて、デカルトにはじまる近代西欧哲学(スコラ哲学の改革)の終焉を語ったと見るのが妥当だと思いますが、如何お考えでしょうか。

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  4. 先ほどのコメントで、シュピーゲル対話を1963年と書いたように思いますが、1966年です。訂正します。記憶に頼って書いたので、間違えました。

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    1. コメントと御質問をくださり,ありがとうございます.9月14日から 精神分析 Twitter Seminar https://twitter.com/ogswrs で お答えして行きたい と思います.

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  5. メルマガでこの文章を知り、一瞬あり得るかもと思いましたが、よく読み返すと、ハイデガーらしくない文章であることがだんだん気になってきました。で、ここにたどり着いて、私の中では、一件落着という心境です。詳しく調べていないので推測の域を出ませんが、ハイデガー研究者は日本に多いです。で、彼の著作をすべて見ている研究者も多いはず。そのハイデガー研究者からこの歎異抄に関するハイデガーの見解についての紹介がないということは、おそらく、ハイデガーの原文章はないのでしょう。となると、創作・偽書となります。偽書は偽書として断罪すべきです。そこにはどんな言い訳も不必要。なによりも創作した本人が偽書との断定を後世してほしいだろうと私が当事者なら思います。死んでも死にきれない汚点のままになり、それが永らえることは恥じです。親鸞とて、ハイデガーを語った詐欺的信仰があるのであれば、そんなことはまったく望んでいないはず。むしろ、親鸞の悲しみでしょう。もし、親鸞の悲しむような行為をあえて親鸞を大切に思っている方々がしているのであれば、改めるべきでしょう。親鸞はそんな偽りハイデガーの力を借りずとも、日本の知的宝ですから。

    武田さんの文章、ハイデガーが親鸞に傾倒しようがしまいが、問題は彼がこの文書を書いたのかどうかです。

    ハイデガーの晩年の思想は明確です。端的に言えば、存在は存在に語らしめよ、ということだろうと思います。それが彼が待ち望んでいた「神のようなもの」であり、かつ、彼は待ち望むという知的活動をも断念したと思います。待ち望むとき、眼前の存在はおおわれてしまいます。それはもし今回の文書が偽書であれば、親鸞の素晴らしさを待ち望むがために、親鸞にまつわる偽書を信じ込み、親鸞とハイデガーを同時に冒涜する行為ににています。

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  6. ハイデッカー研究者たちの意見はないのでしょうか。

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    1. わたしは Heidegger の専門家ではありませんし,アカデミズムのなかで Heidegger 研究をしている人々とも 交流がありませんので,彼らが この問題について どう思っているかは 知りません;彼らが この問題を知っているのかも 知りません.わたし自身,ある人に教えてもらって,この問題を初めて知りました.

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