2018年12月10日

「食卓 — 生(エロス)と死(タナトス)—」: 村上仁美氏の修士制作と修士論文

若い芸術家のなかで今,最も注目される者のひとりと評価される陶芸家,彫刻家の 村上仁美 氏は,2017年03月,愛知県立芸術大学大学院美術研究科彫刻領域の修士課程を修了する際,「食卓 — 生(エロス)と死(タナトス)」と題した作品を発表した.



それとともに提出された修士論文を,村上仁美氏の許可を得て,以下に掲載する.

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2016年度博士前期課程修了制作研究報告書

氏名:村上仁美

研究テーマ:失われた憧憬の形象化

作品題名:食卓エロスと死タナトス 
大きさ (mm) : H 1300, W 1800, D 1000
素材:陶,木


研究の概要

I. 目的:女性というモチーフを通して,人間の生と死,存在について思考,考察する.

II. 内容:彫塑的な造形を伴った複数の陶製の立体作品を用い,生と死のヴァニタスとしての現代の女性像を表現する試み.

III. 方法:複数制作されたヴァニタス(死や衰退を表現した美術工芸品)を用いたインスタレーションによる.



研究の詳細

I. 
目的

1. 創作への経緯

私は,今まで,過去への執着を動機に,少女の像を作ってきた.創作の過程で多くの神話や物語を学んだ私は,空想の世界で,あらゆる少女・女性・女神に出会うことになった.そこには,聖母マリア,洗礼者ヨハネの首を所望したサロメ,人間に死の呪いをかけたイザナミ,全てを生み出し還る場所をも象徴する大地母神がおり,それぞれの物語において,女性の多くは,生と死のいずれか,あるいは両方を伴って表現されていた.以来,このことに注目し,私は,女・女性,というモチーフを通じて生と死について考えるようになった.

私は,以前から,女・女性をモチーフとして創作を試みてきた.そして,私の手から生み出される多くのものは,いわゆる快活な “生” とは少し異なった “闇” の姿とでも言い換えることができるような一種の “妖しさ” に似たものを含むものであった.それは,陽の光のもとの向日葵が喚起する明るい乾いた喜びとは異なった,月の光によって浮かび上がる青白い,ぼんやりとした,輪郭が溶け合った甘美な広がりとして私自身が受け取っている世界を含むものであった.

光と闇,昼と夜,聖と俗,生と死といった,古くから — 恐らくは有史の以前から — 人間が様々な表現のテーマとして取り上げてきた “普遍的な価値 = 豊かさ = 美” が,そこには潜んでいた.自身の文脈において重要であった “女性” が文化的な背景と繋がりを持ち始めたことで,私は,私の表現が,生と死の婚姻関係によって成立していることを確信した.もっとも,そのことに思考が至るためには,本学を離れて,自身の表現の前提となる “土” と “焔” について直接の体験を積む機会を得ることになるまで,しばらくの時間が必要であった.


2. 目的

土を扱うために必要な知識と,それに裏打ちされた技術と,願わくば,私自身の表現につながる独自な手法に出会うことを期待して,愛知県立瀬戸窯業高等学校における勉学に身を置くことを選んだ私は,土と火・焔による様々なドラマを目の当たりにすることになった.焔に焼かれ,焼けただれ,それによって不変の強さと美しさが付与され,あるいは生み出されるそのプロセスは,それまで漠然と「女性の持つ豊かなイメージを表現したい」と考えていた私に,私の表現が “生と死の婚姻関係” によって成立するものであり,私にとっての “豊かな女性のイメージ” は,生と死がつがえられたこと — もしくは,つがえられるであろうこと — を前提として成立するものであることを確信させるものであったのである.

私は,生と死について改めて考えるようになった.私は,自身の “死生観” を持つ程の経験を積んでいるとは思わない.ただ,生と死を意識するようになった私に,そのような感覚を私にもたらすものは,古代の作品に多いように思われた.そのような作品は,祈祷・祭事用のものだけではなく,実際に人間の日常生活に使用されるものにも多くあった.恐らくは,生と死が一体のものとして存在し,様々な不思議を含む営みこそが,生活であったのであろう.生と死の分離,生と死の感覚からの隔絶,逃避が我々の “現代” の前提であるならば,そこには,我々の想像を超えた別の豊かさが存在していたことになるのであろう.

火との関わりによって成立するプリミティブな土の表現の中に人間の存在の根源を予感した私は,従来の彫刻表現に焼き物の要素を取り入れることで現代における女性像の表現を試みたいと考えた.それは,生と死を内包する女性像,生と死の器としての女性像,言い換えれば,“生と死のヴァニタスとしての現代の女性像を創造する” ということであった.


II. 内容

女性像をヴァニタスとして扱う理由は,「使用する」,即ち「触れる」ことを前提とする工芸品によって作品を想定することで,表現が鑑賞者の身体と密接に関わりながらより強い存在になることを期待しているからである.

修了制作の主要な要素である横たわる半人半魚の像は,生と死,或いは,現実の世界と並行して存在するかもしれない世界を繋ぐもの,混然として存在するその世界に生きる者の象徴としての人魚であり,その生死は定かでない.そこには,私自身の「他者・世界とより密接に関わっていきたい」という願いと,死を生のためのプロセスとして — かつ,生を死のためのプロセスとして — 捉える試みが含まれている.

“使用” し,かつ “触れる” ことのできる工芸品によって女性像によるヴァニタスを想定することは,歴史的に見ても全く違和感の無い妥当な表現であると考えることができるようである.それは,人類の営みによって人間の心の底に蓄積され,常に我々の意識の表層に影響を与える何かによってそのように捉えられているのかもしれない.

本研究は,複数の陶による造形物を用いたインスタレーションによって “生と死のヴァニタスとしての現代の女性像を創造する” 試みである.そのために,表現に参加する様々な要素の受け持つ役割や意味が重要になる.以下に,

1. 母性と土と火 ; 

2. うつわ ; 

3. 横たわる人魚 

として本制作に至る過程での自身の思考の進展・変化とそれの基づく主要な制作について簡単に説明し,

4. 失われた憧憬 

において,インスタレーションにより浮かび上がる景色に込めた自身の考えを述べる.


1. 母性と土と火

母性を考えるとき,私には大地のイメージが湧く.これは縄文時代の土偶にも表現されている普遍的なイメージのひとつであろう.あらゆる生き物が大地の恩恵によって生かされ,飲み込まれていくサイクルが原始の時代に地母神信仰を発展させる土壌となったことは,簡単に想像できる.しかし,大地は文明の始まりに密接に関わりながら,人類に幾度となく滅びをもたらしてきたことも,無視できない.

ユング派精神分析家の河合隼雄氏の著書『昔話の深層』には,神話や昔話に登場するモチーフや,数字,物語の起承転結について精神分析学的な立場からの氏の考察がまとめられており,そのなかで河合隼雄氏は “土” について,グレートマザー(太母・大地母神)とともに語っている:

母によってこそ子どもが産みだされ,種族が維持される.母こそは生命の源泉であった.これに対して,父の生殖に預かる意味は明確ではなかった.また,生命を産みだす現象は,植物が土から生まれ育ってくることにも認められた.しかも,冬になって植物が枯れ,土に還ることを考え合わせるならば,土こそは「死と再生」の現象が行われる母胎であると感じられたに違いない.(中略)母性は,その根源において,死と生の両面性を持っている.つまり,産み育てる肯定的な面と,すべてを呑みこんで死に至らしめる否定的な面をもつのである.人間の母親も,内的にはこのような傾向を持つものである.肯定的な面はすぐ了解できるが,否定的な面は,子どもを抱きしめる力が強すぎるあまり,子どもの自立を妨げ,結局は子どもを精神的な死に追いやっている状態として認められる.両者に共通な機能として「包含する」ということが考えられる.(昔話の深層』,福音館書店,pp.32-35).
グレートマザーと結びついた火は,重く,暗く,大地と結びついた炎であり,それは,天上に輝く火と好対照をなしている.ユング夫人は,このような火を,大地の火の精であり,「低い母の息子」と呼んでいる.母なるもののイメージの中で,例えばマリアを天に存在する「高い母」とするならば,グレートマザーは「低い母」であろう.この低い母の中にも潜在する天へ向かう意志を,火は象徴している.それは,上に向かってひらめくが,あくまで土に結ばれている.(ibid., pp.44-45).

ここで私が興味深いと感じるのは,グレートマザーは火のイメージとも語られることだ.私は,この考察に対して,実感を伴った共感を持っている.ならば,私自身もまた,大地に縛られていると感じながらより高次の存在になることを願う火であり焔なのである.

土と火が母性を考察するのに重要な要素であるならば,女性像を表現する媒体として,焼き物は,その生成プロセスも含めて,深層心理学的な立場からも極めて重要で本質的な存在である可能性が高い.

生と死の象徴としての女性  そのイメージは,古代から現代に至るまでほとんど変わっていない.古代から現代にいたるまで,実に多くの表現が生み出された.そして,実に多くの女性像が生み出された.女性像が象徴するものは,人類の普遍性であるのかもしれない.

これらの考察を経て制作に至ったのが,「緩やかに死んでいく未来或いはかつての私たちの器についての考察」である:


タイトルでは「身体」をあえて「器」と記した.身体は魂の入れ物であり,器として捉えることができる,と考えたからだ.そして,この制作は,修了制作の取り組みにとって大きな意味を持った.

私の思考の影にはいつも母・祖母がいる.脈々と続く呪縛と背負わされた業は,おそらく,さかのぼればキリが無く,それこそが輪廻であるのかもしれない.「私もまたその列に加わるのであろうか」という個人の想いを起点としながら,地母神信仰に由来する根源的なテーマへの考察を含めて制作したもので,大地の呪縛の中で,未来あるいは過去の私たち(母親達)の身体には新しい命が芽吹く.

ポール・デルヴォ―  (Paul Delvaux : 1897-1994) の絵画 Femmes-Arbres (1937) :


に見られる下半身が木の女性にインスピレーションを受けて,このような形態となった.

大地が続く限り,この呪縛と輪廻は繰り返されるのだろう.個として存在していたはずの人物が草木に覆われ,破壊されていくといったような,経年による変化を期待している.


2. うつわ

魂とは何か?身体とは何か?— 今まで女性像を作ることにだけ焦点をあててきたが,女性像の創作が人類の普遍性を象徴することだという視野を得て,このような疑問をいだくようになった.

東洋思想には「魂魄」という考え方がある.蜂屋邦夫著『中国的思想』において,「魂魄」は以下のように説明されている:

「鬼」(鬼とは,中国では死者を指す)という字のもともとの意味は,死者である先祖を祭るということであった.それに「云」や「白」をつけた「魂魄」も,元来は死者ということであって,「云」とはたとえば「雲」という字を考えてみてもらえばわかるが,もやもやした気体のような感じであって,「魂」とは,つまり,もやもやした気体のようなたましいのことである.「白」とは文字どおり白いことであり,「魄」とは,ばらばらになっていく白骨である.区別して言えば,もやもやして蒸気のようなものだから「魂」は上にあがっていき,白骨だから「魄」は土になっていくということになるが,要するに,魂も魄も元来は死者の形状をいったものである.後漢あたりになると,発音が同じであるところから,「鬼」とは「帰」である,本来のところに回帰することだ,という説明がつく.(『中国的思想』,講談社,p.107).

この考え方は,私にとって腑に落ちたものであった.魄が土になっていくという記述などは,先に述べた地母神信仰とも繋がりを感じることができるのである.しかし,次に新たな疑問が浮かぶのである.それは “心はどこに属するのか” という問いである.

私が思春期の少女のころ,保健体育の授業で「思春期の心の不安定さはホルモンバランスの乱れによって引き起こされている」という話を聞いたことがある.それは,「自分が持っている喜び,切なさ,痛みや思想が,一時的な生体反応の結果引き起こされたものだ」という説明であった.「心とは化学反応である」というこの考えを,私は受け入れることなどできなかった.しかし,大人になってしまった私には,ただ納得できなかったという記憶があるだけである.今では時として「本当にあれはただの生体反応でしかなかったのかもしれない」とさえ思う自分が存在する.時と共に感情は消え,ただ記憶のみが残る.存在とは何において実感されるのであろう.

「心」は魂に属するものなのかと考えれば,それは魄に属しているもののように思われる.「心」は身体の仕組みであって,生体反応によって引き起こされていると思えば,そのように感じられ,身体と共に心もまた新陳代謝していくと捉えることもできる.注がれた魂の器としてのみ身体は存在し,身体も心もいずれ土へと回帰していくのだと考えれば,そもそも生に意味などはなく,極端に言えば,全ての活動は死ぬまでの暇つぶしなのだという考えも,それなりに筋の通ったもののように思われてくる.私はどのような存在なのだろう?この虚しさや,世の理の軽さに,私はどうしても耐えられないのだ.

火の持つ神秘的な力は,土を焼結させ,形態を維持させることができる.たとえ砕け散ったとしても,焼いてしまえば,二度と土に還ることはない(厳密に言えば,何万年というサイクルで土には還るのだか,人類の寿命の尺度で考えれば,永遠として差し支えない).身体が魂の器でしかないのなら,器として表現する身体によって存在していた記憶を留めることは可能だろうか.

器 - 容器 - 内容物 - 器の機能 - 器の意味 - 存在としての器.陶器の物体としての永遠性と人間の存在についての自身の願いを重ね合わせた制作により,「器としての少女」:



と,修了制作のための習作として「習作:腹部を開く女」:


を制作した.

「器としての少女」は,頭部を開けることができ,それにより空虚な内面を見せることができる.頭部を開けることで,内部は外部と繋がり,全てが外側となる.空虚な内面を見せることによって,少女の実態の無さをモチーフとして,実態のありかについての私感の表現を試みた.

他方の「習作:腹部を開く女」は,ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ (Gian Lorenzo Bernini : 1598-1680) の「聖ルドヴィカ・アルベルトーニ」(Estasi della beata Ludovica Albertoni : 1674) :


へのオマージュを込めた構図になっている.魂を神に還すような構図,神に食い物にされているようにも見えるこの作品に,私自身が,法悦と死の輻輳した甘美な美しさを感じていたことが,参考にする作品として選んだ理由である.

しかし,修了制作を視野に入れたこの習作は,自分の作品になるような気がしなかった.

私は,黄金の槍を手にする天使の姿を見た.穂先が燃えているように見えるその槍は私の胸元を狙っており,次の瞬間,槍が私の身体を貫き通したかのようだった. 天使が槍を引き抜いた,あるいは引き抜いたかのように感じられたときに,私は,神の大いなる愛による激しい炎に包まれた.私の苦痛はこの上もなく,その場に うずくまってうめき声を上げるほどだった.この苦痛は耐えがたかったが,それ以上に甘美感のほうが勝っており,止めて欲しいとは思わなかった.私の魂はまさしく神そのもので満たされていたからである.感じている苦痛は肉体的なものではなく,精神的なものだった.愛情にあふれた愛撫はとても心地よく,そのときの私の魂は,まさしく神とともにあった.この素晴らしい体験をもたらしてくれた神の恩寵に対して,私はひざまずいて祈りを捧げた.(ウィキペディアの「聖テレジアの法悦」のページより抜粋).[末尾の注を参照]

これは,ベルニーニが同じテーマで制作した「聖テレジアの法悦」(Estasi di santa Teresa, 1647-1652) における記述である.私は,テレジアの感じた恍惚や甘美感を共感することはできるのだが,神と繋がり,神に愛された者の法悦を,個人の悦びとして共感できなかったのだ.

私がテレジアの感じたような悦びを感じる瞬間は,“人間” と心が繋がる時だと思う.価値観の違う他者と出会い,時に衝突しながらも理解者が増えていくことほど,嬉しいと感じることはないのだ.

個人の悦びが,真に他者と共有できるものであるのか否かはわからないと私は思う.しかし,ある種の喜ばしい感覚を拡大し続けることはできるのだと考えている.たとえ現世と並行して別の世界が存在していたとしても,私が試みる表現は生身の人間の世界にあるのだ.


3. 横たわる人魚

人魚は,太古から多くの人に親しまれてきた表現モチーフである.そして,このモチーフは,修了制作における表現の中心に存在するものである.

ここではまず,その人魚に言及する前に,半人半獣についての私の考えを記しておきたい.私は半人半獣の生き物を,社会から拒絶されながら成熟した人の姿の比喩として捉えている.

人を他の動物と並置して考えてみると,あまりの頼りなさに驚かされてしまう.肉を切り裂くための牙や爪は無く,多くの哺乳類の動物と違い,自力で歩けるようになるまで多くの時間を必要とする.人類が今まで絶滅を免れてきたのは何故か?知恵を使い,群れを作り,社会性を発達させてきたからだ.つまり,人間が生きていくには社会との関わりが必要不可欠である.

人間が人間として社会の一員となろうとした時に,先天的・後天的な条件によって不幸にして現行の社会との間に深い断絶を持ってしまう場合がある.それは,心身の障害や個性,或いは他者による意図的な差別が原因であることが多い.

極めて狭く,常識的な世界に生きる我々には,その狭い社会の外側に暮らす人たちの生きている世界は特殊に映るように思われる.

半人半獣というモチーフは,他者にとってもはや自身とは違う生き物のように感じられてしまう者や社会の比喩として,当事者にとっては,尋常ならざる獰猛さや奇怪さを纏わなければ生きていくことができない自身や世界の状態そのもの比喩として,存在しているのだと捉えることができる.

神話に登場する半人半獣の者たちの多くは,討伐され,あるいは自ら命を絶たねばならない.群れる習性をもつ人間であるからこそ,所属する社会の大きさは,そのまま自身の強さのひとつとなる.どの時代においてもマイノリティは弱者であり,それゆえに,悲惨な人生の結末に至ることも多い.

半人半獣というイメージを与えられた,恐らくは人間の豊かで無慈悲な想像力の産物である人魚は,特に文学において,悲劇的な運命を宿命として負わされることが多いモチーフである.そこには,取り敢えず,獰猛さや野蛮さといったイメージは存在しない.長い歴史の中で作られた男性中心の社会のシステムの中で喘ぎ,孤独に生きる現代の女性の姿をそれは少なからず喚起するのであろう.


修了制作における人魚は,腹部を開かれた姿で横たわり,苦痛に震えている.さまざまな意味において,弱者であるなしに関わらず,人間には苦悩がつきまとう.多くの人間は,自己にとっての社会と他者にとっての社会との間に産まれる齟齬と摩擦の中で,生と死に向き合わなければならないのである.

人魚の開かれた腹部は,器として使われることを前提に作られている.この人魚が器として使われる時,繋がりを持たない人々が彼女の肉を食べることによって大きな連なりの一部となる疑似体験が生まれる.「同じ釜の飯を食う」という表現は何やら人魚のイメージやこれまでの記述にはそぐわないようにも感じられるが,人がそれぞれに異なる価値を共有するための行為・儀式,或いはその行為の構造としては全く同じものと考えることができる.その中心にあるものは,恐らく感動で,その起爆剤として存在するものが,生と死に直結した “悦び” や “悲しみ” といった感情・生理的反応であり,それらは生や死と繋がった行為と共に現れるのである.ゆえに,この瞬間こそ彼女の苦悩の表情に悦びが浮かび,彼女の喪失・滅び・死を経て,まさに彼女によって新しい繋がりと生がもたらされるのである.死とつがえられた生を賛美するためのヴァニタスとして,横たわる人魚は存在するのである.

横たわる人魚の器から多くの人が食事をとる場面を,搾取の一場面として受け取ることも,もちろん可能である.それもひとつの真実であり,「私が神に食われる」と表現した「聖ルドヴィカ・アルベルトーニ」もそういった要素をはらんでいると思われるのだ.

本作において,私は,時に絶望的と感じられる “人間同士の理解” と,矛盾と齟齬を多く含むが故の “人間のもつ可能性” について,なにがしかの意思表示を行うことができればと考えている.そして,そこには,“神” という人知を超えた存在・概念に対するアンチテーゼも含まれることになるのである.人生に於ける素晴らしいもののほとんど全てが,この他者との関わりの中からしか生まれないことを私たちは既に知っているはずであり,そのことは多くの歴史的事例や芸術が示しているはずである.


4. 失われた憧憬 — インスタレーション
  

蓮を模した器が並ぶテーブルの上には,腹部と下半身を開かれた人魚が横たわっている.傍らには天を仰ぐ,交尾する蛇の燭台がある.テーブルを支える壺の中には死者が眠っている.


蛇は,原始の頃から,特にアジアにおいて,生命力の象徴とされてきた生き物だ.日本にみられるしめ縄飾りも,交尾する蛇がモチーフになっている.横たわる人魚を,ただ儚く死んでいくだけの存在ではなく,強い生命力をはらんだものとして表現するために,交尾する蛇の絡まった燭台を置いた.上に向かって伸びる蛇と火は,先に述べた,土に結ばれながらも天へ向かう意志を象徴している.大地と火は密接な関係を持つことも,すでに述べたとおりである.生命力や火を表現するならば,それらが巡り,やがて還る場所を象徴する大地を作らなくてはならない.それは,大地を模したテーブルとして土を用いて作ることとした.

土によって作られた大地を模したテーブルは,壺と一体になった足に支えられている.壺に遺体を埋葬する壺棺墓の文化は,日本のみならず世界各地で見られ,日本では弥生時代に見られることが最も多い.土中の死者の世界を表現するためにこれを取り入れ,その上に広がる生と死のつがえられた世界を表し荘厳するために蓮の花の装飾を取り入れた.この花は,あの世とこの世のぼんやりとした境界を表している.

私は,この花を,今咲きほころうとしている様子として造形した.それはこれから生まれてくる景色が,希望や喜びにつながるものであることを予感するために必要だからである.

今,私の見ている現実の世界は,梅雨の暗がりのような仄暗さと湿度に満たされているように,私には感じられる.それは,効率的な経済を中心に据える近代社会が生み出した文明が放つ光によって,あるべき “闇” が塗り潰されようとしているからではないだろうか.

私の考える失われた憧憬とは,強烈な光と闇によって構成された世界である.光によって闇が,闇によって光が生じるということを,我々現代人は忘れてしまったのであろうか.かつての私たちが手にしていた豊かな “生のイメージ” を現代に呼び戻すことは,あるいは難しいかもしれない.しかし,生化学の発達した現代・未来においても,われわれは新たな “生のイメージ” の獲得を求めるであろう.未来における様々な変革の可能性を否定する要素はどこにもない.

インスタレーションによって作り出された世界は,所謂,極楽浄土を連想させる要素を含んで組み立てられている.しかし,そこには,何やら生々しい人間の,死とつがえられた生の匂いが漂っている.私は,神の世界を表現しようとしているのではない.私がこの表現で目指すものは,現代の社会の景色をモチーフとした,現代における生と死を内包する器としての女性像であり,“現代における生と死のヴァニタスとしての女性像” なのである.それは何かを取り入れ,その内部でそれを育み,醸成し,自身の生命と引き換えに,小さな喜びを社会に産み落とす存在なのである. 


III. 
方法

全て陶による伝統的な技法を中心にした制作である.学部,博士前期課程,博士前期課程を二年間休学して修得した自身の持つ様々な基本技法を駆使する制作を目指した.ただし,台となる机は,木材で制作したのち本焼成した土の粉末を塗すことで,土でできている様な表情に仕上げた.机の脚に取り付けた壺は手びねりによる制作とした.人魚は,既存の自作の人物の型からおこし,ディテールは塑造モデルを用いたデッサンを参考に制作した.人魚の下半身は,手捻りによる造形とした.燭台はろくろによって制作し,蛇は粘土を引き延ばして作った.蓮の花は手びねり,葉は型で抜いた.机・壺以外の全てに釉薬を施し,1230度で焼成した.酸化焼成のものも,還元焼成のものもある.


研究の成果

作品の表現する意図としては,実際に使用するところまでを報告したかったが,時間的な制約もあり,ここまでの制作となってしまった.今後,これからの制作を含めて,キャストや背景にこだわって悦びが拡大していく様子を画として収めたい.

自身の持てる技術を動員した制作となったと考えているが,修了制作に至ってもなお自身の感じた事や経験したことのみによる制作に留まったと反省している.その意味において,私の作品は未だに私小説的である.しかし,これらの研究を通じて,私は,自身の仕事が普遍性を獲得するための新たな手掛かりを多く手に入れたと感じている.そして,これからは,その仕事に普遍性を持たせていくことに努力を傾注することで ‟作品” としての自立性を付与し,その作品を通じて,より広い世界と関わっていくことを目指したいと考えている.博士前期課程に在籍中にもっと多くの作品を作り,研究をしたかったが,これが現時点での私自身の実力であることを認めて,これから始まる作家生活への挑戦に活かしていきたいと考えている.

修了制作に向けての幾つかの制作と,修了制作を構成する造形物に対する説明と,修了制作による作品のイメージと,それに託す自身のささやかなメッセージと,この制作に至る経緯を記し,最後に,自身の反省と今後の決断を記して,休学期間を含めた愛知県立芸術大学大学院博士前期課程における研究報告書を結ぶ.


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[注]村上仁美氏が引用している日本語版ウィキペディアの文章は,英語版に掲載されているものの翻訳であるが,誤訳を含んでいる.また,英語版に掲載されているアヴィラの聖テレサ (Santa Teresa de Ávila, sainte Thérèse d'Avila : 1515-1582) の自叙伝『命の書』(Libro de la vida : 1566) からの引用も,完全なものではなく,要約にすぎない.『命の書』の第29章の当該箇所を,スペイン語原書のフランス語訳から引用しておく:

そのような[恍惚の]状態において,次のような幻覚を幾度かわたしにお与えになることは,主の好むところであった.わたしは,すぐそばに,わたしの左側に,天使を身体的な形のもとに見る.天使をそのように見ることは,非常に希にしか起こらない — というのも,先ほども言ったように,天使は,わたしにしばしば現れるのだが,目に見えはしないからである.今語っている幻覚においては,天使が次のような形で自身を現すことを,主は欲した:天使は,大きくはなく,小さくて,とても美しい.その燃えるような顔は,彼れが最も高い階級 — 愛に燃える霊気たちの階級,ケルビムの階級 — に属していることを示しているように思われる (...). 
天使は,両手で黄金の長い槍を持っており,鉄でできたその切っ先には小さな炎が燃えている.幾たびか彼れは槍でわたしの心臓を刺し貫き,その槍はわたしのはらわたにまで突き通る.彼れが槍を引き抜くとき,鉄の切っ先によって,わたしのはらわたは彼れのところへ抜き取られてゆくかのようである.そして,わたしは,最も熱い神の愛に燃えるままとなる.痛みはとても強く,わたしは弱いうめき声をあげる.しかし,同時に,その曰く言い難い痛みが惹き起こす甘美な感覚はあまりに過剰なので,その終わりを求める気にはならない.そして,魂は,神自身以下のものであるような何ごとかによって満足することは決してできない.この苦痛は,身体的なものではなく,霊気的なものである.しかしながら,身体がそこにいささか関与していないわけではない — おおいに関与してさえいる.されば,魂と神との間には,言い表せぬほど甘美な優しさの交流がある.わたしが作り話をしていると思う人がいるなら,そのような交流を主が善意を以てその人に味わわせてくださるよう,わたしは願う. 
そのような恍惚が続いている間ずっと,わたしは,茫然自失の状態にあった.わたしは,見ることも語ることももはや欲さず,しかして,わたしの苦痛 — それは,わたしにとって,被造界のあらゆる喜びを超えた至福であった — へ完全に引き渡されることを欲していた. 
わたしは,ときおり — 神が,あのすばらしい恍惚をわたしに送る気になったとき — あの恵みに与った.あの恍惚に抗うことは,多数の人々の前でも,できなかった.それゆえ,たいへん遺憾にも,それは人々の知るところとなり始めた.(...) あの苦痛が感ぜられるやいなや,主は,わたしの魂を連れ去り,それを恍惚の状態に置く.さように,魂は,耐える間も苦しむ間もない:ほとんどすぐさま,魂は悦の状態へ入る.かくも大きな善意にかくもうまく応じ得ないひとりの被造物にあのような恵みを与えてくださる主が,とこしえにたたえられますように.

小笠原晋也

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