2018年4月23日

Hölderlin, Germanien


Hölderlin, Germanien (die ersten zwei Strophen)

Nicht sie, die Seligen, die erschienen sind,
Die Götterbilder in dem alten Lande,
Sie darf ich ja nicht rufen mehr, wenn aber
Ihr heimatlichen Wasser ! jezt mit euch
Des Herzen Liebe klagt, was will es anders,
Das Heiligtrauernde ? Denn voll Erwartung liegt
Das Land und als in heißen Tagen
Herabgesenkt, umschattet heut
Ihr Sehnenden ! uns ahnungsvoll ein Himmel.
Voll ist er von Verheißungen und scheint
Mir drohend auch, doch will ich bei ihm bleiben,
Und rückwärts soll die Seele mir nicht fliehn
Zu euch, Vergangene ! die zu lieb mir sind.
Denn euer schönes Angesicht zu sehn,
Als wärs, wie sonst, ich fürcht’ es, tödlich ists,
Und kaum erlaubt, Gestorbene zu wecken.

Entflohene Götter ! auch ihr, ihr gegenwärtigen, damals
Wahrhaftiger, ihr hattet eure Zeiten !
Nichts leugnen will ich hier und nichts erbitten.
Denn wenn es aus ist, und der Tag erloschen,
Wohl triffts den Priester erst, doch liebend folgt
Der Tempel und das Bild ihm auch und seine Sitte
Zum dunkeln Land und keines mag noch scheinen.
Nur als von Grabesflammen, ziehet dann
Ein goldner Rauch, die Sage drob hinüber,
Und dämmert jezt uns Zweifelnden um das Haupt,
Und keiner weiß, wie ihm geschieht. Er fühlt
Die Schatten derer, so gewesen sind,
Die Alten, so die Erde neubesuchen.
Denn die da kommen sollen, drängen uns,
Und länger säumt von Göttermenschen
Die heilige Schar nicht mehr im blauen Himmel.

ならぬ,我れはもはや呼んではならぬ,
かつて現れた至福なる彼らを,
いにしえの国の神々の姿を,
だが,汝れら,郷里の水たちよ!今や汝れらと共に
心の愛が嘆くとき,ほかに何を欲するのか
神聖に喪を悲しむ心は?そも,予期に満ちて
里は横たわる,して,汝れら,憧れる者らよ!
暑き日々における如く,今日,日が没すると,
ひとつの天が,不吉な予感に満ちて,我れらを夜陰で取りまく.
それは,約束に満ちているが,
我れには,脅すようにも見える,だが,我れはそのもとに留まろう,
して,我が魂は,後へ逃げ戻ってはならぬ
汝れら,過ぎ去りし者らのもとへ!我れにはあまりに愛おしくとも.
そも,かつてと変わらぬかの如く,
汝れらの美しい顔を見ることは,恐ろしくも,死をもたらす
して,死せる者らを呼び覚ますことは,まず許されない.

逃げ去りし神々よ!現在的な汝れらよ,汝れらも,かつては
より真なるものだった,汝れらの時代があった!
我れは,何も否むまい,して,何も請うまい.
そも,日が果て,陽光が消えたとき
いかにも,闇は,まず司祭を射る,だが,
神殿も,神像も,また,彼のならいも,喜んで彼のあとに従う
冥き国へ.して,なおも輝き得るものは何も無い.
ただ,そのとき,火葬の炎からの如く,黄金の煙が,伝説が,
上へ,こなたへ,たなびいてくる,
して,我れら疑心にとらわれた者の頭の周りに,今や薄明をもたらす,
して,誰も知らぬ,如何なることが身に起こるかを.
かつてありし者らの影が
いにしえの者らが大地を新たに訪うのが,感ぜられる.
そも,将に来たるべき者らが,我れらに迫る
して,神人らの聖なる大群は,
青き天で,もはやひとときも躊躇しない.

Heidegger, Brief über den »Humanismus«


Heidegger (GA 9, pp.351-352), Brief über den »Humanismus«

Das Denken, das aus der Frage nach der Wahrheit des Seins denkt, fragt anfänglicher, als die Metaphysik fragen kann. Erst aus der Wahrheit des Seins läßt sich das Wesen des Heiligen denken. Erst aus dem Wesen des Heiligen ist das Wesen von Gottheit zu denken. Erst im Lichte des Wesens von Gottheit kann gedacht und gesagt werden, was das Wort »Gott« nennen soll.

Oder müssen wir nicht erst diese Worte alle sorgsam verstehen und hören können, wenn wir als Menschen, das heißt als ek-sistente Wesen, einen Bezug des Gottes zum Menschen sollen erfahren dürfen ? Wie soll denn der Mensch der gegenwärtigen Weltgeschichte auch nur ernst und streng fragen können, ob der Gott sich nahe oder entziehe, wenn der Mensch es unterläßt, allererst in die Dimension hineinzudenken, in der jene Frage allein gefragt werden kann ?

Das aber ist die Dimension des Heiligen, die sogar schon als Dimension verschlossen bleibt, wenn nicht das Offene des Seins gelichtet und in seiner Lichtung dem Menschen nahe ist.

Vielleicht besteht das Auszeichnende dieses Weltalters in der Verschlossenheit der dimension des Heilen. Vielleicht ist dies das einzige Unheil.

存在の真理に関する問いから出発して思考する思考は,形而上学が問い得るよるもより源初的に問う.存在の真理から出発してこそ,初めて,聖なるものの本有は思考され得る.聖なるものの本有から出発してこそ,初めて,神性の本有は思考さるべきである.神性の本有の光のなかにおいてこそ,初めて,「神」という語が何を名ざしているはずであるのかを思考し,言うことができる.

あるいは,我々が人間として,すなわち,解脱実存的な本有として,神と人間との関係を経験してよいことになるときに,初めて,我々は,それらの語 [ heilig, Gottheit, Gott ] をすべて入念に了解し,聴くことができるはずではないか?では,如何にして,現代という世界史時代の人間は,〈其こにおいてのみあの問い[存在の真理に関する問い]が問われ得るところの次元へまずはみづから入りつつ思考することを〉怠るときにのみ,「神は,近づいて来てくれているのか,それとも,遠ざかって行ってしまっているのか」を真摯かつ厳密に問い得ることになるのだろうか?

而して,その〈其こにおいてのみあの問い[存在の真理に関する問い]が問われ得るところの〉次元とは,聖なるものの次元である.その聖なるものの次元は,既に,次元としては,閉ざされたままである もし,存在の開在が,朗開され,その朗場において,人間に近しいのでなければ.

おそらく,今の時代を特徴づけるものは,das Heile[そこなわれていないもの,欠けたところのないもの]の次元が閉ざされたままであることに存する.おそらく,それが唯一の災難 [ das Unheil ] である.

2018年3月30日

Télévision 読解 II




Lacan の1973年の書 Télévision の第 I 章の読解に続いて,第 II 章を読んでみましょう.

まずは,Jacques-Alain Miller が問います:

II-1. ラカン先生,わたしがここで為すべきは,あなたとエスプリを競うことではなく,ただ,答える機会をあなたに与えることだけだ,と思います.ですから,あなたがわたしから受ける質問は,まったく取るに足りないものであり,初歩的であり,通俗的でさえあるでしょう.では,始めます:「無意識 – 変な用語!」

それに答えて,Lacan は「無意識」について語ります:

II-2.「無意識」よりも良い語は,Freud には見つからなかった.そして,今さらしょうがない.この inconscient [ unbewusst ] という語は,conscient [ bewusst ] という語の否定であるという欠点を有している.「意識的ならざる」ものという表現は,「意識的」以外の特性に無頓着に,世の如何なるものをもそこに仮定することを許す.無論のこと.「気がつかれないもの」には,「いたるところにあるもの」という名も,「どこにも無いもの」という名も,どちらも妥当する.


Lacan は,Position de l'inconscient[無意識の位置](Ecrits, p.830) において,おおむねこのように述べています : Freud 以前には,「無意識」[ inconscient, unbewusst ] という語は,in-noir[un-schwarz, 非黒– 物理的な意味においてであれ道徳的な意味においてであれ「黒くないもの」の集合  と同様に,そのものとしては何ら確固たるものではあり得なかった.

ですから,「無意識」を,「意識」から出発して,「意識に属さないもの」や「意識的ではないもの」と捉えようとしても,それは Freud による「無意識の発見」以前に逆戻りするだけです.そもそも,認識論において「意識」と呼ばれているものが自明なものであるわけでもありません.

Lacan は,無意識を,主体の否定存在論的構造の観点において,トポロジックに位置づけることになります.


II-3. しかるに,「無意識」は,とても厳密なものである.

II-4. 無意識は,語る存在 [ l'être parlant ] においてしか無い.ほかの存在たち – それらは,実在から押しつけられてくるとはいえ,名づけられることによってのみ存在を有する – においては,[生物学的意味での]本能 [ instinct ] がある – すなわち,それらの生存が包含する知がある.とはいえ,それも我々の思考 – 多分,非等合的な思考 – にとってのことだ.

II-5. また,人間無しには生存困難な動物たちがいる.それがゆえに,それらは d'hommestiques[animal domestique(家畜)と homme(人間)との縮合]と呼ばれる.その理由によって,それらの動物は,無意識の地震 – ただし,非常に短時間のものだが – に見まわれることがある. 


無意識に関する Lacan の定義は幾つかあります.「無意識,何かが語る」と述べられている第 VI 段落の解説で,より詳しく論じましょう.ここでは,とりあえず,Position de l'inconscient (Ecrits, p.839) において提示されたトポロジックな「無意識」の定義を見てみましょう.それは,とても厳密に,こう公式化されています:


主体 – デカルト的主体 – は,無意識に対して前提的に仮定されるものである.他 [ Autre ] は,ことば [ parole ] が真理において肯われることにより要請される次元である.無意識は,両者の間における現動的な切れ目である.


それによって Lacan が形式化しているのは,aliénation[異状]の構造です:



この図は,Séminaires XI および XIII において提示された aliénation の図の総合です.この図は,一見,初歩的な集合論において用いられる Venn diagram のように見えますが,主体と他のふたつの円の intersection[交わり]の領域は,両者に共通する要素の集合ではなく,而して,両者の間の切れ目を表しています.

主体が「デカルト的」と呼ばれているのは,Descartes の cogito ergo sum との関連においてです.cogito[我れは思考する]は,主体が言語の構造としての否定存在論的構造のなかに住まっていることを前提しています.そこにおいて主体の 存在 (Sein, être) の在処が存在事象の場処にうがつ穴を,Freud は「無意識」の名のもとに発見することになります.

ですから,「無意識」とは何かという問いに対する最も直観的な答えは,穴です.人間存在の内奥に口を開く穴,裂口,裂け目,断裂,断層,亀裂,不連続 – それが「無意識」のトポロジックなイメージです.

そのような直観を,Lacan はとても若いとき,おそらく10歳代後半には既に得ていたのだろうと思います.常識的な意味での理性や合理性がつまづかざるを得ない穴が,人間存在の内奥に口を開いている.そのような穴のトポロジーにもとづいて,Lacan は Freud を読んで行くことになります.

さて,aliénation の構造において,主体の解脱実存的な在処 [ la localité ex-sistente de l'être ] には真理が位置づけられ,他の場処 [ le lieu de l'Autre ] には知が位置づけられています.

知と真理との間の分裂に存する主体の分裂が,aliénation の構造を成します.主体の在処と他の場処との間の切れ目は,主体の分裂の裂口です.

aliénation の構造において最も肝腎なのは,切れ目のエッジ(縁,ふち)です.以下の図では緑色に色づけられています:



エッジは,切れ目の穴を支えます.エッジは,切れ目の可能性の条件であり,他の場処と主体の在処とを分離すると同時に結合します.ですから,bord nodal[結合的エッジ]と呼びましょう.

aliénation の構造は,基本的な否定存在論的構造です.つまり,基本的に言って,主体は aliéné[異状化]されています.なぜなら,主体は,存在 の解脱実存的在処 [ la localité ex-sistente de l'être ](赤色)に秘匿されており,存在事象の次元においては自身以外のものによって代表されているからです.

aliénation の構造における主体 $ と知 S2 の配置が示唆しているように,それは,四つの言説のうち「大学の言説」と名づけられた構造に対応しています.





他の場処(水色)と主体の在処(赤色)との間の切れ目として定義される無意識は,エッジ(緑色)によって支えられる穴(黄色)のことです.


その切れ目は,存在論的差異  Seyn と Seiendes との間の差異 – を規定するものであり,否定存在論的構造そのものの可能性の条件です.

人間が言語に住まうことも,否定存在論的切れ目によって条件づけられています.

否定存在論的切れ目が現動的であるのは,言語に住まう存在 – 語る存在 – としての人間存在においてのみです.ですから,「無意識は,語る存在においてしか無い」と Lacan は言っています.

否定存在論的構造と le symbolique[徴在],l'imaginaire[影在],le réel[実在]との対応は,こうなります:

le symbolique[徴在]– 穴 – 否定存在論的切れ目(黄色);

l'imaginaire[影在]– consistance[定存]– 他の場処(水色);

le réel en tant qu'impossible[不可能としての実在]– ex-sistence[解脱実存]– 主体の在処(赤色).

そして,否定存在論的構造の要となる第四の要素が,bord nodal[結合的エッジ](緑色)です.それは,他の場処と主体の在処とを分離しつつ結合し,かつ,徴在の穴を支えます.

「徴在の機能の支え」としての「父の名」(Ecrits, p.278) の問題は,この bord nodal の問題です.父の名の閉出は,否定存在論的構造の要の機能の不全をもたらし,構造は解体の危険にさらされます.閉出された父の名の機能を代償するために,bord nodal の座に精神病症状が増殖する – 1950年代に Lacan は,父の名と症状との連関について,精神病から出発して,そう公式化します.

しかし,その関連性は,精神病症状に限られたことではありません.神経症症状においても性倒錯症状においても精神病症状においても,それらの signifiant が増殖し,「書かれることをやめない」もの – le réel en tant que nécessaire[必然としての実在]– として強迫的に反復されるのは,bord nodal の座においてです.


II-6. 無意識,[すなわち]何かが語る.それゆえ,無意識は言語に依拠している.言語について我々が知っているのは,ほんの僅かなことでしかない – わたしが linguisterie[ゲンゴ学]という名称で差し徴しているものにもかかわらず.linguisterie とは,言語学の名において人間において作用すると言われるものごとをまとめたものだ – それは,新しいものだ.[それに対して]言語学とは,lalangue[ゲンゴ]を扱う[経験]科学である.この lalangue という語を,わたしは,[通常の正書法にしたがって la langue ではなく]一語として書く – そこにおいて,ほかのあらゆる[経験]科学に関してそう為されているように,言語学と呼ばれる[経験]科学の客体を特定することによって.


無意識に関して,Lacan は,上に見た「他の場処と主体の在処との間の現動的な切れ目」という定義以外にも,1953年の『ローマ講演』以来,次のような命題を公式化しています:

l'inconscient est le discours de l'Autre[無意識は,他の言説である];

l'inconscient est structuré comme un langage[無意識は,ひとつの言語として構造化されている];

dans l'inconscient, ça parle[無意識において,何かが語る].

「無意識」という語を「精神分析」と呼ばれる「科学」のひとつの用語として厳密に定義することは,精神分析の臨床的実践にとってはさして有意義なことではありません.

そも,精神分析は,精神医学や心理学や社会学 etc. のような経験科学ではありません.

また,Lacan の思考においては,Heidegger の思考においてと同様に,用語は固定化されていません.同じひとつの語が,思考のそのときどきの流れや文脈に応じて,相異なるものを差し徴すために用いられることがあります.それは,例えば Lacan においては inconscient や autre (Autre), Heidegger においては Sein (Seyn) などのように最も基本的と見なされ得るだろう用語に関してさえ,そうなのです.ですから,我々が彼らにおいて terminologie を厳密に無矛盾的に整理しようと試みても,うまく行きません.そのようなことを試みる者は,Heidegger の思考も Lacan の思考も整合性や一貫性を欠いており,矛盾だらけだ,と結論することになるだけです.

では,彼らの思考は一貫していないのか? Jacques-Alain Miller が示唆しているように,Lacan の教えには初期,中期,後期,最後期(最晩年)が区別され,それらは相互の整合性を欠いている,ということなのか?そんなことはありません.

Heidegger の思考においても Lacan の思考においても終始一貫しているもの,それは,否定存在論とそのトポロジーです:



  


つまり,これらの四つの要素によって構成される構造です:

存在論的切れ目のエッジ(緑色);

それによって規定される穴(黄色);

存在論的切れ目によって相互に分離されると同時に相互に結合されるふたつのトポロジックな領域,すなわち : 

定存性の場処 [ le lieu de consistance ](水色);

存在 の解脱実存的な在処 [ la localité ex-sistente de l'être ](赤色).

Heidegger も Lacan も,おそらく,彼らの思考の出発点として,人間ないし世界の内奥に口を開く穴というイメージの直観を持っていたのではないか,そして,Heidegger はそれを Sein[存在]という用語のもとに,Lacan はそれを「無意識」という用語のもとに,見出していたのではないか,と推察されます.彼らは,ともに,そのように最も単純な裂口のイメージから出発し,それについてトポロジックに思考し続けることをやめなかったのです.

ですから,Heidegger を読むときも Lacan を読むときも,彼らが用いる用語ひとつひとつの意義をそのものとして厳密に把握しようとするのではなく,而して,そのときどきの彼らの思考の流れや文脈のなかで或る語は否定存在論的構造のうちいずれの要素を指しているのか,その語を用いて彼らはそのときどきに否定存在論的構造の如何なる側面について問い,思考しようとしているのか,と我々は自問して行く必要があります.そして,そうすれば,一見錯綜している彼らの思考の筋道が見えてきます.

さて,人間存在の内奥において,何かが語る.その言葉は,内奥の裂口をとおして我々に語りかけてくる.

その言葉を,Heidegger は das Wort des Seyns[存在のことば]と呼び,その声を die Stimme des Seyns[存在の声]と呼びました.

存在の言葉に耳を傾ける,存在の言葉を聴こうとする – Heidegger は Denken[思考する]はそのことに存する,と規定します.「思考する」は,何らかの言表を形成することに存するのではなく, 而して,存在の言葉を聴くことに存します.

精神分析において「自由連想」と呼ばれるものの出発点も,まさにそのことに存します.無意識において語る「何か」の声にじっと耳をすますことから,自由連想は始まります.

我々の内奥において語る「何か」は,解脱実存的な在処に位置づけられる抹消された 存在 : Sein, être です.それは,実は,我々自身の存在です.我々自身の存在の真理です.しかし,その言葉は,我々自身が発するものではなく,我々以外の誰か  すなわち,他  から我々へ差し向けられている,と我々は,まず大概は受け取ります.

「無意識は,他の言説である」という Lacan の公式は,その事態を指しています.ですから,その場合の「他」は,徴示素の宝庫としての他の場処のことではありません.そうではなく,解脱実存的な場処としての 存在 です.

「無意識は,ひとつの言語として構造化されている」においても,かかわっているのは,言語学的な意味での「構造」ではなく,否定存在論的構造です.Saussure が措定した signifiant / signifié の言語学的構造は,存在論的切れ目によって条件づけられる否定存在論的構造にもとづいています.Lacan が Saussure を援用するのも,その限りにおいてです.

Lacan の Saussure 言語学の利用のしかたは恣意的で,まちがっている,というような批判は,Lacan が何のために Saussure を持ち出したのかをまったく理解していないことの表れにすぎません.

Lacan の教えは,精神分析を,純粋に – 如何なる経験科学にもよらず,而して,否定存在論とそのトポロジーにのみ準拠して – 基礎づけることに存します.

このことを踏まえないなら,Lacan を読むことはできませんし,あげくの果てには,Lacan の言っていることはまったく無意味だ,とすら感ぜられることになってしまうでしょう.特に,精神分析の実践がほとんど無視されている日本社会においては,その危険性が非常に高いと言えますし,既に実際にそのような事態がかなり前から存続しているでしょう.

さて,Lacan が,言語学に対するその差異において,linguisterie と呼ぶものは何か?

Lacan が linguisterie という新造語を導入したのは,Séminaire XX Encore の1972年12月19日の講義においてです.

そこにおいて Lacan は,「言語に属するものはすべて,言語学の領域に属する,すなわち,究極的には,言語学者の領分に属する」(tout ce qui est du langage relève de la linguistique, c'est-à-dire, en dernier terme, du linguiste) と主張した言語学者 Roman Jakobson に反論して,こう言います:「無意識はひとつの言語として構造化されていると言うとき,この言 [ dire ] は言語学の場に属してはいない」.つまり,それは,言語学の領域の外のものであり,ひとつの経験科学としての言語学に対して a priori である何かにかかわっています.そして,それは,「主体の基礎づけ」(fondation du sujet) です.

1972年12月19日の講義で,Lacan はこう言っています:


ある日,わたしは,このことに気がついた:すなわち,無意識が発見されたとき以来,言語学のなかに入らずにいることは,困難である.(...) 言語[の構造]に由来するものすべて – 特に,そこから発してあの fondation du sujet[主体の基礎づけ](その主体の基礎づけは,まったく革新されたものであり,まったくくつがえされたものであって,その規定によってこそ,Freud の口から「無意識」として断言されたものすべては保証される)へ結果するものに由来するものすべて – を取り上げるならば,わたしは,何らかの用語を新たに作り出す必要があるだろう – 言語学者のために取り置かれた領域[言語学]を Jakobson に残しておくために.[言語にかかわるが,言語学の領域の外であることがらについて思考することに存する]それを,わたしは,あなたたちがお望みなら,linguisterie と呼ぼう.


主体の基礎づけは,否定存在論に準拠する基礎づけです.Saussure が signifiant と signifié との間の切れ目として発見したものは,Seiendes[存在事象]と Seyn[存在]との間の存在論的切れ目によって条件づけられています.

ひとつの経験科学である言語学にとっては,signifié は,signifiant と同様,存在事象の次元のものです.それに対して,否定存在論においては,signifié に相当するものは,存在事象の次元のものではなく,而して,主体の 存在 の解脱実存的な在処です.そのような構造についても思考するのが,linguisterie です.

lalangue について,Télévision の II-6 段落において Lacan は「lalangue は,経験科学としての言語学が扱う客体である」と言っています.

Lacan が lalangue と呼ぶものは,その物質性における音声連鎖の断片です.

言語学者が,まったく未知であるひとつの自然言語(国語)に初めて出会ったとしましょう.その言語における音素体系も文法規則もまだ不明であり,その言語が文字を有しているとしても,その文字表記はまだ読解されていません.そのとき,言語学者は,まずは,その言語を母国語とする話者が発する音声連鎖の断片を,その意味は不明なままに,ひたすら聞くことから出発します.lalangue とは,そのように音素の手前,文法の手前,意味の手前における言語です.

ですから,Lacan は,文法を無視して,"la langue" と書かずに,ひとかたまりの "lalangue" と書きます.

lalangue から出発して,初めて,その国語におけるもろもろの音素が識別され,それらの音素からなるもろもろの signifiant が措定され,signifiant と signifié との相関が見出され,単語の意味が確定され,文法規則も定められます.

日本語に住まう我々が日常的に日本語の言葉を聞くとき,我々は,聞こえてくる lalangue の断片を,日本語の音素体系および文法規則と,我々が有する語彙と,そして,そのときどきの状況と文脈において想定される意味とに応じて,「耳で読み取って」います.聞こえてくる lalangue の断片を,なかば自動的に文字に書き起こし,それによって意味を確定しつつ,了解しています.

しかし,実際には,その物質性における音声連鎖断片としての lalangue においては,発せられる音素は必ずしも明瞭に区別されておらず,文法規則からの逸脱が起きているかもしれず,ときとして未知の単語が含まれているかもしれず,推定された文脈に応じた意味の想定が正しくないかもしれません.そのような場合,lalangue の断片の意味は曖昧 (équivoque) になります.

ですから,聞こえてくる lalangue の断片を「読み間違える」ことは,めずらしくありません.例えば,「はし」は「橋」か「端」か,話者が高低アクセントの無い地方の出身の人であれば,「箸」かもしれません.「せいしょ」は「聖書」か「成書」か「青書」か,話者が高低アクセントの無い地方の出身の人であれば「清書」かもしれません.

II-38 段落で Lacan が提示している例 – les Noms-du-Père / les non-dupes errent – を先取りしましょう.

四音節から成る lalangue 断片 lé-non-du-per を聞く者は,もし au nom du Père, du Fils et du Saint-Esprit[父と子と聖霊の御名によって]というカトリックの決まり文句を知っているなら,Nom du Père[父の名]を読み取るでしょうが,なぜ定冠詞は単数形 le ではなく複数形 les なのか?と不思議に思うでしょう.また,Lacan が1963-1964年に行おうとしていた Séminaire は Les Noms-du-Père[複数における「父の名」]と題されるはずだったことを知っている者は,その語を読み取るでしょう.それに対して Lacan は,そのちょうど10年後,1973-1974年の Séminaire を Les non-dupes errent[だまされぬ者らはさまよう]と題しました.

音声のうえでは, les Noms-du-Père と les non-dupes errent はまったく同じです : lé-non-du-per. そのように,lalangue の断片を聞くとき,何を「耳で読み取る」かの可能性は,ひとつとは限りません.

精神分析における解釈は,lalangue が孕む曖昧さ (équivoque) のゆえの多様な解釈の可能性を利用して為されることがあります.いずれにせよ,言葉の「意味」を了解せずに,まずは lalangue 断片として聞くことが,精神分析的解釈の出発点を成します.

言語学の対象も,出発点においては,signifiant や phonème ではなく,lalangue 断片である – 既知の国語を扱う言語学者自身は必ずし自覚していないかもしれないその事実を,Lacan はそれとして明確に指摘します.


II-7. この客体 [ lalangue ] は,しかしながら,傑出している – 主体のアリストテレス的概念そのものが,ほかの概念へ還元されるよりもより正当に,それへ還元されることによって.そのことは,魂に対するひとつのほかの主体の解脱実存によって無意識を設立することを,可能にする.「魂」と言っても,それは,その諸機能の総和の身体への仮定である.そのいわゆる魂は,極めて問題の多いものである – それについては Aristoteles から Uexküll に至るまで異口同音に語られてきているにもかかわらず,かつ,生物学者たちは,望もうと望むまいと,それをなおも仮定し続けているにもかかわらず.



言語学の客体である lalangue 断片として,客体 a は,大学の言説の構造における右上の座(緑色)に位置します.その座は,トポロジックには,bord nodal S(Ⱥ) の座(緑色)です.

「主体のアリストテレス的概念」とは,ὑποκείμενον のことです.そのラテン語訳は,subjectum または substantia です.

Lacan は,「意識」という語を使うことによって認識論へ陥ることを避けるために,敢えて「魂」(âme) と言っています.Aristoteles は,Περὶ Ψυχῆς [ De Anima ] と伝統的に題されてきたテクストを残しています.éthologie の先駆者 Jakob von Uexküll (1864-1944) において anima に相当するのは,Umwelt の対概念としての Innenwelt でしょう.いずれにせよ,「魂」は,le lieu de consistance の座(水色)に相当します.

Lacan は,当然ながら,âme (ψυχή) という語を使うことによって何らかの psychologie[心理学]へ陥るつもりもありませんから,âme を身体へ還元します.デカルト的な âme と corps の二元論から見ると,とんでもないことでしょう.しかし,Lacan のトポロジーにおいては,魂の座は,consistance[定存]の場処(水色)として,身体の場処でもあります.

consistance の場処(水色)に対して,客体 a が位置づけられる bord nodal[結合エッジ]の座(緑色)は ex-sistent[解脱実存的]です.「魂に対して解脱実存的なもうひとつのほかの主体」は,大学の言説の構造における客体 a のことです.

それは,夢,言い損ない,し損ない,症状などの「無意識の成形」(les formations de l'inconscient) として,我々の意志にかかわりなく不意に我々を見まう「もうひとつのほかの主体」です.

しかし,実は,この「もうひとつのほかの主体」としての客体 a こそが,我々自身の存在の真理 $ を代表しているのです.


II-8. 実際,無意識の主体は,身体を介してしか魂に接触しない – そこへ思考を導入することによって.今回は,Aristoteles に反論することになる.哲学者 [ Aristoteles ] が想っていたように,人間は魂によって思考するわけではない.

II-9. 人間が思考するのは,構造 – 言語の構造(「構造」という語は「言語の構造」を含意している)– が身体を切り分けることによっている.構造による身体の切り分けは,解剖学とな何のかかわりも無い.その証人は,hysterica である.切り分けのハサミが魂に及べば,強迫神経症症状が生ずる:魂の邪魔となる思考.魂は,それをどうすればよいかわからず,途方にくれる.

II-10. 思考は,非調和的である – 魂に関して言うなら.古代ギリシャ哲学に言う νοῦς は,思考の魂に対する好意の神話である.そのような好意は,世界にかなっている.世界 (Umwelt) – 魂は,その責任者と見なされている.しかるに,それは,其れによってひとつの思考が支えられるところの幻想でしかない.それは[心的]“現実” であるかもしれないが,実在の渋面と理解されるべきである.


以上の一節も,aliénation の構造としての大学の言説の構造に準拠しつつ,読んで行きましょう.



そこにおいて Lacan が「魂」(âme) と呼んでいるものは,他の場処(青)における知 S2 であり,「思考」(pensée) と呼んでいるものは,エッジの座(緑)における客体 a です.

客体 a は,場合によっては,単なる「客体」ではなく,反復強迫における signifiant の連鎖です.強迫神経症においては,強迫観念です.

無意識の主体 $ は,身体を介してしか魂 S2 に接触しない – そこへ思考 a を導入することによって」と Lacan は言っています.この場合,「身体」と「魂」はともに consistance の場処(青)に位置づけられます.我々の「主観」や「自我」は,そこに位置づけられます.



こう思い浮かべてみましょう:我々の「身体」は,穴開き球面(青)そのものです.我々の「主観」は穴開き球面のなかにいます.ふと気がつくと,ひとつの切れ目のエッジ(緑)により規定される穴(黄)が開いています.穴の向こう側は,我々がいるところに対して「外」であるような主体 $ の ex-sistence の在処(赤)です.

Lacan がここで「思考」(pensée) と呼んでいるものは,「魂」の場処に対して辺縁的な座に出現する客体 a です.後者は前者に対して,強迫神経症における強迫観念がそうであるように,「非調和的」であり,我々の意志に反して出現してきて,自身を押しつけてきます.

麻痺や痙攣などのヒステリーの古典的な身体症状においては,症状化した身体部分が,エッジの座における客体 a として,身体全体(consistance の場処)に対して対立します.強迫観念は,「意識」ないし「主観」の場処(consistance の場処)と対立する客体 a です.

Platon において,νοῦς と,νοούμενον としての ἰδέα とは,調和的です.しかし,知 S2 と客体 a は,相互に調和的ではありません.むしろ,客体 a は,知 S2 にとって,把握し得ず,制御し得ない何かです.

知 S2 にとって,幻想のなかの客体 a は,書かれることをやめないものとしての実在の側からの「渋面」である – すなわち,不快や不安を惹起する無気味なものです.


II-11. とはいえ,精神分析家であるあなたのところにやってくる人々がいます – この世のなかでよりよく生き得るために.あなたは,世界を幻想へ還元してしまいますが.治癒も,ひとつの幻想ですか?

II-12. 治癒は,苦しむ者 – 自身の身体や自身の思考に苦しむ者 – の声の側から発せられる求めである.驚くべきは,答えがある,ということ,そして,医学はいつの時代にも言葉で的を射てきた,ということだ.

II-13. 無意識が探知される前は,どうであったか?ひとつの実践は,有効であるために,解明される必要は無い:そう結論することができる.


治癒 (guérison) は,不可能です.なぜなら,性関係は無いからです.

症状の signifiant である plus-de-jouir a の無際限な反復と増殖が起こるのも,欲望の満足は不可能だからです – 性関係は無いがゆえに.

不可能な治癒の代わりに,昇華の可能性が開かれます.

Freud が無意識を発見する以前,Charcot や Bernheim らの神経科医たちは,hysterica に対して催眠術を用いていました – その臨床的な効果のメカニズムを説明も解明もし得ないままに

催眠術と精神分析との決定的な違いは,暗示 (suggestion) を用いるか否かに存します.



暗示の作用は,大学の言説における a の座に signifiant-maître S1 が暗示の signifiant として措定されることによって生じます.

S2 の側の「認知」機能は,押しつけられた S1 によって影響され,支配されてしまいます.特に催眠術では,被験者の注意を S1 へ集中させ,ほかのものが目に入らないよう,術者は被験者を意図的に誘導し,操作します.

当然ながら,催眠術においては,症状の signifiant a は,S1 よって覆い隠されてしまうだけであって,解消されるわけではありません.

Freud が hysterica の臨床において催眠術と暗示を放棄したとすれば,それは,症状の signifiant a を覆い隠してごまかすのではなく,それを Stimme des Seyns[存在の声]として聴くためです.

暗示の押しつけをやめて,逆に,患者の語りのなかに姿を現そうとする「存在の言葉」[ Wort des Seyns ] に積極的に耳を傾け,それを読み取ろうとすることが,精神分析の出発点です.

ところで,Lacan が四つの言説の構造において signifiant-maître[支配者徴示素]と名づけるこの S1 とは何か? それは,性関係を可能にする Urvater の全能なる性器としての phallus (le phallus tout-puissant) です.

Lacan が「支配者の言説」と名づける構造は,Urvater の神話を形式化しています.



Freud が Totem und Tabu で提示する一種の起源神話において描かれた Urvater[源初の父]は,部族の絶対的な支配者であり,そこに属する女すべてを性的に所有しており,女たちの性的な欲望をすべて完全に満たすことができている – 彼の全能なる性器 phallus によって.

「性関係は無い」ということは,そのような全能なる phallus は,書かれないことをやめない (qui ne cesse pas de ne pas s'écrire) 不可能な phallus である,ということです.

Lacan は,Urvater の不可能な phallus を,性別の公式 (les formules de sexuation) においては,Φ の上に否定の記号としての線分を書くことによって表記しています:



しかし,それは,男たちの自我理想を成す phallus Φ の単なる否定ではなく,「性関係を可能にするかもしれない Urvater の全能なる性器 phallus は,不可能な phallus である」ということを表しています.

我々としては,表記の簡便性のために,学素 ΦR (le phallus réel) を用いたいと思います.

それに対して,男たちの自我理想としての phallus Φ は,le phallus imaginaire です.必要があれば,学素 ΦI を用いても良いでしょう.

男の側の性別の公式は,男の自我理想 phallus Φ への同一化によって形成される男たちの集合と,それに対する Urvater の ex-sistence[解脱実存]とを表している,と言うことができます.

催眠術に戻ると,それが一種のペテンや詐欺にすぎないことは,明らかです.



催眠術は,不可能であるはずの Urvater の phallus ΦR装う S1 として,客体 a の座に身を置くことに存するからです.

それだけでなく,催眠術よりもっと体系的なペテンがあります.それは,形而上学です.

Heidegger が,Geschichte des Seyns[存在の歴史]の観点から,Platon の ἰδέα に始まり,Nietzsche において満了する,と説く形而上学は,何に存するのか?

大学の言説のトポロジックな構造においては,S1 は穴の座に位置しています.つまり,S1 は,存在 の在処に ek-sistieren (ex-sister) しているわけではなく,而して,単純に不在です.

にもかかわらず,不可能であるはずの Urvater の phallus ΦR を装う S1 を完全な穴塞ぎとして措定すること – そこに,形而上学のペテンは存します.

そのような穴塞ぎとして最初に登場したのが,Platon が τὸ ὄντως ὄν と規定する ἰδέα です.それに続くのが,Aristoteles の ενέργεια や ἐντελέχεια, スコラ哲学における actualitas, substantia としての存在,キリスト教神学における causa sui ないし causa prima としての神,そして最後に,Nietzsche における Wille[意志],Macht[力],Wert[価値]です.

しかし,それらだけではありません.いわゆる東洋思想に言う「無」もそうです.存在事象の次元における有無の彼方の「無」は,単なる空無や虚無ではなく,「真如」(Thatata) である,と言われます.その「真如」は,「常住」,「不変不改」,「不生不滅」と言われます.つまり,Platon の言う万古不易なる ἰδέα と同じ穴のムジナです. 

仏教を含むいわゆる東洋思想に「西洋思想の限界」の超越の可能性を見ようとする人々が世界のあちらこちらに見うけられますが,彼らの方向性はまったくの見当違いであることが,以上からわかります.いわゆる東洋思想における「無」や「真如」は,Platon の ἰδέα の東洋的な変奏にすぎないのですから.




形而上学的ペテンを信ずると,どうなるか?他の場処(水色)には穴(黄色)が開いています.主体の在処(赤色)にも穴(黄色)が開いています.穴は,他と主体とに共通しています.しかし,それはあくまで穴にすぎません.欠如にすぎません.しかるに,そこにひとつの実体として措定された S1 は,穴(黄色)を塞ぎつつ,他と主体とを完全に接合することを可能にします.それこそ,Urvater の phallus による性関係の完成です.

Platon の ἰδέα は,まさにそのようなものです.ἰδέα S1 は,存在の真理 $ そのものとして,自身を νοῦς S2 に対して提示します.νοῦς は,ἰδέα こそが存在 $ であるとカン違いします.形而上学的ペテンの効果は,そのようなものです.

Lacan の「性関係は無い」は,そのような形而上学的ペテンの欺瞞を暴露するものです.

Lacan はこうも言っています (Ecrits, p.813) :


徴示素の場処としての他という思想から出発しよう.そこにおいて,あらゆる権威の言表 [ énoncé ] は,その表言 [ énonciation ] そのもの以外の保証を持たない.そも,言表が保証人をほかの徴示素のなかに探し求めても,無駄である.そのような「ほかの徴示素」は,徴示素の場処としての他の場処以外のところにはまったく現れようがないのだから.この事態を,我々は,こう言って公式化した:[「日本語を話す,フランス語を話す」と言う場合の「話す」と同様に]話すことのできるメタ言語は無い.よりアフォリズムめかして言うならば:他の他は無い.この「他の他は無い」の代補として[絶対的な]立法者([絶対的な]律法[または,法律,法則]を立てるとうそぶく者)が現れるなら,それはペテン師としてである.

そのようなペテン師のことを,Lacan は canaille[ゲス,下司]とも呼んでいます.

「ゲス」の対立概念は,「道化」(fool) です.ゲスが「我れは常に真理をすべて言う」ふりをするのに対して,道化は,虚構の構造 a / $ において,真理を真理として言うのではなく,狂言や戯言をとおして真理を言います.そこには,ゲスのペテンやうぬぼれとは逆に,誠実さがあります.

Séminaire VII の1960年3月23日の講義において,Lacan は,右翼の言説をゲス,左翼の言説を道化と特徴づけています.今の日本社会に当てはめるなら,平和憲法を絶対に護ると主張する左翼は道化であり,他方,その道化を嘲笑しつつ,「わたしは国際情勢の真理を知っており,わたしの言うことは真理である」とうそぶいて,軍備強化を進めて行く右翼は,ゲスです.

Heidegger が Nietzsche を「形而上学の満了 (Vollendung) の哲学者」と特徴づけるのは,彼の Wille zur Macht[力への意志]と ewige Wiederkunft des Gleichen[同じものの永劫回帰]が,「万古不易,不生不滅」であるがゆえに τὸ ὄντως ὄν と見なされてきた ἰδέα にとってかわり,強迫的な反復と増殖こそが存在の真理であることを明らかにするがゆえにです.

Nietzsche において,存在の真理は Macht[力]に存します.それは,恒常的に同じレベルで存続するだけでは力ではありません.力は,常により強い力へ増大して行く意志を有するときにのみ,本当の力です.力は,Mehr-Macht[より大きな力]としてのみ,力です.

同様に,存在は,常住的であり,不生不滅であるだけでは,本当の存在ではありません.同じものが永遠に回帰する反復から成る Werden[生成]こそが,本当の存在です.

つまり,Nietzsche は,形而上学的ペテンにおける存在を否定し,際限の無い自己増殖と反復強迫にこそ存在の真理が存することを見出したのです.

資本の際限無き自己増殖を見出した Marx, 力への意志と永劫回帰を措定した Nietzsche, 反復強迫を症状の真理として発見した Freud – 彼らは皆,それぞれ異なる観点から,穴のエッジの座において増殖し,反復される plus-de-jouir[剰余悦]としての客体 a に注目したのだ,ということが,否定存在論的観点から見て取れます.


II-14. 精神分析が[心理療法やらカウンセリングやらの]therapy[セラピー]から区別されるのは,「解明されている」ということだけによるのでしょうか?あなたが言いたいのは,そういうことではないでしょう.問いを次のような形で問うてもよいでしょうか:「精神分析と心理療法は,両者とも,言葉によってのみ作用する.しかし,両者は相対立する.何において?」

II-15. 目下のところ,心理療法といえば,「精神分析からインスピレーションを受けた」ものであることが必ず要請される.問題を,それが値する括弧にふさわしく,言いかえてみよう.精神分析と心理療法との区別を維持するとすれば,それは,単に,心理療法においてはマットに沈まない... つまり,寝椅子に横にならない,ということによるのだろうか?

II-16. そのような[形式的な]思念は,あの連中の手助けになる – あの連中,すなわち,括弧つきの「協会」[ International Psychoanalytical Association ] のなかでパスがないことに苦しむ分析家たち.彼らは,それについて – 明言すると,パスについて – 何も知ろうとしないために,分析家の等級を形式化することを以て,パスを代補する.その等級制度は,たいへん優雅なものであり,精神分析の実践においてよりも彼ら分析家どうしの関係においてより多くの巧みさを展開する者たちを,等級の上位に安定的に置くようにできている.

II-17. というわけで,何によって精神分析の実践は心理療法のなかでまさっているのかを,提示しよう.

II-18. そこにおいて無意識がかかわっている限りにおいて,ふたつの側面を,構造 – すなわち,言語 – は明かす.

II-19. 意味の側面 – 人々は,それこそが分析の側面だと思うかもしれない.分析は陳腐な性的意味を大量に我々に浴びせかける,というわけだ.

II-20. 驚くことに,この意味は,無意味へ還元される – 性関係の無意味へ.性関係の無意味は,古来,愛について言われること[Lacan が特に念頭に置いているのは amour courtois, 宮廷愛]のなかで明白である.叫び声を発していると言えるほどに明白である.それがゆえにこそ,人間の思考は尊いものと見なされる.

II-21. さらに,人々が良識 [ le bon sens ] と思いこまされる意味 [ sens ] があり,おまけに,良識は常識 [ le sens commun ] と見なされる.喜劇の頂点だ.ただし,喜劇は,「性関係は無い」を知らずしては成り立たない .「性関係は無い」は,セックスで「行く」こと[性的な悦]に内在的である.「性関係は無い」を知ることにより,我々の尊厳は,後に続くもの – さらには,取って代わるもの – を得る.

II-22. 良識は暗示を代表し,喜劇は笑いを代表する.ということは,良識と喜劇だけで十分だ,ということだろうか – 両者はほとんど両立不能だ,ということに加えて?そのようなことを言っているから,心理療法 – 如何なるものであれ – は頓挫するのだ.心理療法は善いことを何もしない,というわけではなく,而して,心理療法は最悪の結果をもたらす,ということだ.


精神分析と,それ以外の therapy – psychotherapy(精神療法,心理療法),いわゆるカウンセリング,等々 – との決定的な相違は,何に存しているか?それは,面接において寝椅子を使うか否かでも,Freud または Lacan の理論に準拠するか否かでもありません.

両者の根本的な差異は,このことに存しています:精神分析は明言的に「性関係は無い」に基づいているが,それ以外の therapy は「性関係は無い」ことの否認を暗黙裡に包含している.

Séminaire XXV Le moment de conclure[結論する瞬間]の1978年04月11日の講義において,Lacan はこう言っています:「性関係は無いということ,それが精神分析の基礎である」.

では,「性関係は無い」(il n'y a pas de rapport sexuel) と Lacan が公式化した事態は,如何なるものか?

Freud は,Libido の発達 – 性本能の発達 – の最終的な成熟の段階として,「性器段階」(Genitalphase, Genitalorganization) を想定しました.それは一見,まったく常識的かつ正当な想定に見えます.

すなわち,Libido は,未熟な段階では,前性器的 (prägenital) な部分客体において不完全な満足をしか見出せないが,最終的な成熟段階においては,生殖を可能にする性行為において十全な満足を得るに至る.かつ,そうであらねばならない.

それは,文化や科学のあらゆる領域において共有されている想定であり,要請です.

それに対して,Lacan の「性関係は無い」は,その想定は偽であることを明言する公式です.

Lacan が「性関係は無い」と言うとき,その「性関係」は,Urvater の性器 phallus ΦR を媒介にして初めて可能になる性器的関係です.しかし,phallus ΦR は,不可能な phallus, 書かれないことをやめない phallus です.ですから,「性関係」も不可能です.

「性関係は無い」のですから,Libido の満足の様態は,前性器的な部分客体における偽りの満足の様態にとどまらざるを得ません.それが,Lacan が「剰余悦」(plus-de-jouir) と名づけたものです.

剰余悦に加えて,男においては,性の成熟段階としての Genitalorganisation から区別される小児の phallische Phase に相当する jouissance phallique[ファロス悦]もあります.それは,存在論的な「男である」ことの規定性と関連しています.すなわち,性別の公式における Φ – Urvater の不可能な phallus ΦR と厳密に区別するなら,ΦI – は,存在論的な「男である」ことと,narcissique な jouissance phallique とを形式化する学素です.

日常的な文脈において「性的」と呼ばれる事態は,実際には,非性器的,性倒錯的な剰余悦による「性関係は無い」の否認,隠蔽,ごまかしにすぎません.ですから Lacan は,「性行為は,男の多形性倒錯である – 語る存在においては」(Encore, la séance du 20 février 1973) と言っています.

精神分析は,大学の言説の構造において,剰余悦 a との同一化において異状化 (aliéné) されている存在欠如としての欲望 $ と,剰余悦 a とを,分析家の言説の構造への移行において分離し,同時に,S(Ⱥ) の座(緑色)において欲望 $ を昇華 (sublimation) へ至らしめることに存します.最終的に昇華された欲望 (le désir sublimé), それが,Lacan が「分析家の欲望」と呼んだものです.



Lacan が passe[パス]と名づけた分析家資格認定の手続は,分析のなかで起きた欲望の昇華についての証言を聴き,分析家の欲望の成起を確認することに存します.

精神分析の経験についてそのような展望を持っていない非ラカン派の精神分析家の団体では,分析家資格認定は,形式的,恣意的にならざるを得ません.そのようにして資格認定された分析家は,結局のところ,患者を昇華へ導くことはなかなかできません.精神科薬物療法や認知行動療法の普及のせいで,今や,USA においては,精神分析家は絶滅危惧種だと言われています.

「意味」と「無意味」については,Séminaires XI et XIII において提示されている aliénation[異状]の図を想起しましょう:



右側の「他の場処」に「意味」が,中央の切れ目のところに「無意味」が置かれています.

この aliénation の図は,トポロジックには次のように大学の言説の構造と関連づけられます:




通俗的には,精神分析はあらゆることを「性的な意味」を有することとして「解釈」する,と思われていました.

しかし,本当は,「意味」は解釈によって読み取られるものではなく,而して,解釈無しに,了解されるものです.そして,「意味」は「無意味」の穴ないし切れ目を覆い隠します.

例えば,Freud が Verneinung[否定]と題された小論文で挙げている例を見てみましょう.或る男性患者が,夢について語りつつ,そこに登場した女性について,「それは母ではありません」(es ist die Mutter nicht) と言いました.

彼の言葉の意味を了解するなら,我々は単純に「夢に出てきたその女性は彼の母親ではない」と受け取ります.さらには,その女性 – あるいは,彼女によって代理された誰かほかの女性(いずれにせよ,母親ではない女性) に対する彼の恋愛感情,ないし性的な欲望を想定しさえするかもしれません – 性本能は「性関係」の実現へ向かおうとすると「常識的」に想定しつつ.

しかし Freud は,解釈によってこう読み取ります:「では,その女性は彼の母親だ」(also ist es die Mutter). まったく単純に文末の否定辞 nicht を取り去っただけですが,それは解釈です.

勿論,そのような解釈が可能なのは,それまでの分析の経過を踏まえてです.おそらく,それまでにその患者が語った似たような夢を幾つか分析した際に,Freud は,夢のなかに登場する女性に対する彼の近親相姦的な関係を読み取っていたのでしょう.

そして,Freud の「近親相姦の禁止」という概念が覆い隠しているのは,「性関係は無い」という不可能にほかなりません.

「意味」は,「無意味」の穴を覆い隠します.精神分析における解釈は,「意味付与」に存するのではなく,むしろ,おのづと了解される「意味」を括弧にいれて,むしろ,それが覆い隠しているだろう「無意味」の穴ないし裂け目を露呈させることに存します.

Lacan が昇華の好例としてしばしば言及する amour courtois[宮廷愛]は,性関係の不可能と芸術的創造との連関を我々に明示しています.

Lacan が II-22 において良識と喜劇とを対置するとき,我々は,Séminaire VII の1960年03月23日の講義における knave と fool[道化]との対置を想起します.Lacan は,knave を canaille[ゲス,下司,下種]と翻訳します.そして,ゲスを右翼知識人,道化を左翼知識人に,それぞれ重ね合わせます.道化は狂言によって真理を言う者であり,それに対して,ゲスは「わたしの言うことは常に真理であり,わたしは真理をすべて言う」と宣言しつつ,聴く者をだます者です.

「良識は暗示を代表し,喜劇は笑いを代表する」は,まさにゲスと道化の対置と重なり合います.

道化は,大学の言説において,存在の真理 $ を代表する真理ならざる仮象 a をとおして,存在の真理 $ を言います.



それに対して,ゲスによる暗示は,催眠術と同様,大学の言説において,客体 a の座に,不可能であるはずの Urvater の phallus ΦR を装う S1 として,身を置くことに存します.

今の日本社会においては,「改憲を絶対に許さない」と叫ぶのは道化たる左翼知識人であり,他方,「わたしは国際情勢の真理を知っており,それに応じて改憲を行うのが正しい政治である」と「正論」を説くのがゲスたる右翼知識人です.Lacan が50年以上前に示した道化とゲスの対置は今でもまったく有効であることが,わかります.

「性関係は無い」の否認を暗黙裡に包含する心理療法やいわゆるカウンセリングは,結局のところ,ゲスによる暗示に行き着きます.「... してはどうですか」,「... と考えてみてはどうですか」という暗示が,ゲスたちの十八番です.新興宗教の教祖のような者たちと本質的に同じです.経済的,精神的,性的に利用され,食いものにされる危険さえあります.

それに対して,精神分析家は,転移において,知を仮定された主体として,大学の言説の右側を成す a / $ として定立されます.つまり,道化です.しかし,精神分析家は,そこにとどまるわけではなく,而して,分析家の言説の構造における左上の座へ移行します.



大学の言説において反復強迫的に「書かれることをやめない」ものである剰余悦 a は,分析家の言説における分析家 a へ転移されることによって,分析の終結において「書かれることをやめる」ことができます.

存在欠如としての主体 $ は,みづから結合エッジの座へ現出し,ボロメオ結合性の機能を引き受けることになります.新たな分析家の誕生です.


II-23. それゆえ,無意識,すなわち,其れによって欲望が自身を顕すところの固執 [ insistance ], さらには,そこにおいて求められるもの[剰余悦としての客体 a]の反復 – それこそ,Freud が,無意識を発見したとき以来,無意識について言っていることではないか?

II-24. それゆえ,無意識は,もし構造 – それは,わたしが言うように,lalangue のなかに言語を作ることによって認められる – が以下のことを命ずるなら,

II-25. 無意識は,我々に以下のことを想起させる:すなわち,意味の側面 – それは,ことばにおいて,我々を魅了し,そのことによって,存在〈其の思考を Parmenides が想うところの存在〉は,そのことばに対して遮蔽を成す – に対して,

II-26. 無意識は,我々に以下のことを想起させる:すなわち,意味の側面に対して – わたしは結論する –,言語の研究は徴 [ signe ] の側面を対置する.

II-27. 如何に,症状 – 精神分析においてそう呼ばれているもの – こそは,道筋を描いてこなかったであろうか,Freud に至るまで – それは,hysterica に従順に,彼が,夢,言いそこない,しそこない,さらには機知の言葉を,暗号化されたメッセージを解読するように読むようになるために,必要であった.








段落 II-19 で措定された「意味の側面」に対して,Lacan は,II-26 において「徴の側面」(le versant du signe) を対置します.

トポロジックに見るなら,aliénation[異状]の図において,sens[意味]は他の場処(水色)に位置づけられます.それに対して,signe[徴,記号]は,穴ないし切れ目(黄色)のエッジ(緑色)に位置づけられる客体 a です. 敢えて signifiant と言わずに signe と言っているのは,「徴示素の宝庫」としての他の場処(水色)と客体 a との違いを強調するためでしょう.

Ecrits の最初の書 Le séminaire sur « La Lettre volée » の最初のページ (p.11) の最初の段落では,Lacan はこう言っています:


我々の研究は,次のことを認める地点に我々を導いた:すなわち,反復強迫 (Wiederholungszwang) は,我々が「徴示素連鎖の固執」[ l'insistance de la chaîne signifiante ] と呼んだものにその原理を有している.この「徴示素連鎖の固執」という概念そのものを,我々は,解脱実存 [ l'ex-sistence ](すなわち,解脱中心的 [ excentrique ] な座)– そこに我々は,Freud の発見を真摯に受け取らねばならないとするなら,無意識の主体を位置づけねばならない – と相関的なものとして取り出した.周知のように,精神分析によって創始された経験のなかにおいてこそ,我々は,如何なる影在 [ l'imaginaire ] の媒介によってこの徴在 [ le symbolique ] による把捉が人間という生物の最も内奥に至るまで及んでいるかを把握することができる.

insistance[固執]という語と répétition[反復]という語は,ともに,II-23 でも再び用いられています.反復されるのは,剰余悦 [ plus-de-jouir ] としての客体 a です.

その反復を,Ecrits p.11 では,Lacan は,signe ではなく,chaîne signifiante[徴示素連鎖]と呼んでいます.

そのように,terminologie のうえでは,signifiant と signe との間に絶対的な区別はありません.他方,他の場処(水色)と反復の座(緑色)とのトポロジックな区別は一貫しています.



強迫的に反復される客体 a の固執は,書かれることをやめない [ ce qui ne cesse pas de s'écrire ] もの – すなわち,必然 [ le nécessaire ] – と呼ばれることになります.精神分析においてかかわる症状は,剰余悦 a の反復強迫に存します. 

剰余悦 a の反復強迫の座(緑色)に対して,ex-sistence の在処(赤色)が措定されます.そこに無意識の主体 $ は位置づけられる,と Lacan は述べています.

存在欠如としての主体は,欲望でもあります.というより,Lacan は,« le désir est la métonymie du manque-à-être »[欲望は,存在欠如のメトニュミアである](Ecrits, p.623) と定義します.

剰余悦 a の連鎖の下を横滑りする存在欠如 $ – そのような徴示素連鎖 a は欲望 $ のメトニュミアであり,逆に言えば,欲望 $ は徴示素連鎖 a に対してメトニミックに横滑りし続けます.

大学の言説の構造をトポロジックに見るなら,剰余悦 a の固執的な反復強迫(緑色)において,欲望 $(赤色)は自身を顕します.症状としての剰余悦 a は,存在欠如としての欲望-主体 $ の代理 (substitution) です : a / $すなわち,症状は主体の métaphore です.

lalangue[ゲンゴ]は,その物質性における音声連鎖の断片です.ゲンゴの物質性によって,言語の構造(構造としての言語)は支えられます.

Lacan が Parmenides に言及しているのは,Platon の対話編との関連においてではなく,彼が1955年にみづから仏訳した Logos と同じく,Heidegger の1954年に出版された単行本 Vorträge und Aufsätze[講演と論文](GA 7) に収録された Moira と題されたテクストとの関連においてであろうと思われます.そこにおいて Heidegger は,Parmenides の断片 III について思考しています:


τὸ γὰρ αὐτὸ νοεῖν ἐστίν τε καὶ εἶναι[そも,思考と存在とは同じものである]

Moira というテクストは,同じく1954年に出版された講義録 Was Heißt Denken ?[思考とは何か?]に収録された1952年夏学期の講義の最後に Heidegger は言うつもりであったが,おそらく時間切れで言わずに終わってしまったことから成っています.1952年の夏学期の講義 – それと,1951-1952年の冬学期の講義とから,Was Heißt Denken ? は成っています – においては,Parmenides の断片 VI : χρὴ τὸ λέγειν τε νοεῖν τ' ἐὸν ἔμμεναι[存在するものは存在すると言い,かつ,そう思考する必要がある]に関する問いが展開されています.

ひとくちで言えば,そこにおいて Heidegger は,Parmenides の諸断片から出発して,Sagen[言]と Denken[思考]と Sein[存在]とを Ereignis[自有]の三つの側面を成すものと捉えようとしています.

自有としての Ereignis – 精神分析の終結としての sublimation[昇華]は,そこに存します.

昇華を形式化する学素は,分析家の言説の構造の右側部分 $ / S1 です:


左側の「大学の言説」の構造から右側の「分析家の言説」の構造への移行において,存在欠如としての欲望-主体 $ は,ex-sistence の在処から bord nodal[結合エッジ]の座(緑色)へ現出してきます.そして,それにともなって,$ は,ex-sistence の在処に位置することになる S1 を代表することになります.

精神分析において昇華と呼ばれてきたもの,Lacan が sinthome(saint homme, 聖人)と呼ぶもの,そして Heidegger が Ereignis(自有)と呼ぶもの,それらは,いずれも,分析家の言説の構造における学素 $ / S1 によって形式化されます.

結合エッジの座(緑色)における存在欠如 $ は,剰余悦 a から分離され,剰余悦 a を放棄した欲望です.「欲望に関して譲歩しない」(ne pas céder sur son désir) とは,そのようにごまかしの剰余悦 a を放棄することに存します.そして,そのような分離と放棄の不安と苦痛に耐えとおすことに,昇華は存します.

ex-sistence の在処における S1 は,何か?それは,Urvater の全能なる phallus ΦR の不可能性の明示です.

男の言説としての大学の言説においては,性関係を可能にするかもしれない Urvater の phallus の ex-sistence は,単純に想定されていました.その ex-sistence は無根拠に信じられてきました:



しかし,今や,分析家の言説において,S1 は,単に無根拠に ex-sistence の在処(赤色)に想定されているのではなく,そこに本当に位置しています.それは,S1 は「書かれないことをやめない」もの,不可能なものである,ということを示しています.すなわち,Urvater の全能なる phallus ΦR は書かれないことをやめない不可能な phallus である – すなわち,性関係は無い – ということを示しています.





学素 $ / S1 は,「性関係は無い」を代表する「昇華された欲望」を形式化します.それが,Lacan が「分析家の欲望」と呼んだものです.精神分析の終結は,そこに存します.


II-28. 証明してください,それがまさに Freud の言っていることであり,かつ,Freud の言っていることはそれに尽きる,と.

II-29. それら三つの事項[夢,lapsus, Witz]についてそれぞれ論じられている Freud のテクスト[夢解釈,日常生活の精神病理学,機知]– それらの表題は,今や周知のものだ – に当たってみなさい.かかわっているのは純粋な徴示素事言 [ dit-mension signifiante ] の解読にほかならない,ということに気がつくだろう.

II-30. すなわち,それらの現象のひとつは,素朴に連節される –「連節される」は「言語化される」ということだ – 素朴に,通俗的な論理〈すなわち,単純にありきたりのゲンゴ使用法〉にしたがって.

II-31. 次いで,Freud は,曖昧表現,メタフォラ,メトニュミアの連なりのなかを進みつつ,ひとつの実体を呼び出す – 彼が Libido[リビード]と名づける流動体の神話だ.

II-32. しかし,彼のテクストに目をこらす我々から見れば,彼が実際に行っているのは,ひとつの翻訳である.そして,それによって,次のことが証明される:すなわち,Freud が一次過程の終端に想定する悦が本来的に存するのは,λόγος の座における[客体 a の]行列 – そのなかを,Freud はかくも巧みに我々を案内する – にである.




夢,言い損ない,し損ない,Witz, そして症状は,まとめて「無意識の成形」(les formations de l'inconscient) と呼ばれます.

無意識の成形を形式化する学素は,大学の言説の構造の右側部分の a / $ です.

そこにおいて,客体 a は,たとえば,夢のなかに現れたイメージや,言い損ないや Witz において現れた lalangue の断片です.存在欠如としての主体 $ は,客体 a によって代表される欲望であり,「無意識において何かが語る」(dans l'inconscient, ça parle) ときの「何か」(das Es) です.

Freud が夢について言ったことをより一般化するなら,無意識の成形は Wunscherfüllung[願望充足]です.つまり,剰余悦 a です.

構造 a / $ において,剰余悦 a は,主体 $ を代理していることにおいて,主体 $ の métaphore であり,その限りで,症状です.

しかし,同時に,剰余悦 a は,主体の存在欠如としての欲望 $ を満足させることのできる客体ではなく,かくして,欲望 $ は,ひとつの客体からほかの客体へと際限無く横滑りして行きます.その限りで,剰余悦 a は欲望 $ の métonymie です.あるいは,言い換えると,Freud が人間存在の核に見出した把捉不能,制止不能,破壊不能な Wunsch[願望,欲望]は,存在欠如 $ の métonymique な横滑りに存しています.

Freud は,無意識の成形の構造 a / $ において,客体 a を,例えば夢に関してであれば,夢の「顕在的な内容」と呼び,他方,欲望 $ の座に夢の「潜在的な思考」を想定しました.そして,夢解釈において,夢の顕在内容を解読して,その潜在思考へ翻訳してみせました.

しかし,精神分析の臨床において実際にかかわることは,如何に「正確に」顕在内容を解読して潜在思考へ翻訳するか,そして,如何にその翻訳の成果を分析者(精神分析の患者)に伝え,理解させるか,ということではありません.

存在欠如としての主体 $ の座において,何かが語っています.それは,分析者自身の存在です.精神分析の経験において,分析者は,まず,その「存在の声」(die Stimme des Seins) に耳を傾け,「存在の言葉」(das Wort des Seins) を聴き取ろうとしなければなりません.

存在の言葉がそのものとして聴き取られない限り,その代理的なメッセージである剰余悦-客体 a の反復強迫は続きます.つまり,症状は書かれることをやめません.

では,「存在の言葉が聴き取られる」とは,如何なる事態か?それは,顕在内容としての a を「正しく」読解して,潜在思考へ「正確に」翻訳する,ということではありません.



そうではなく,かかわっているのは,このことです:

精神分析の経験において起こる〈異状の構造としての大学の言説の構造から昇華の構造としての分析家の言説の構造への〉移行において,反復強迫的症状の徴示素 a は,分析家の現存の座である代理者の座(水色)へ転移され,それによって,分析の終結のときに「書かれることをやめない」ことをやめることができるようになります.

それに対して,存在欠如としての欲望-主体 $ は,結合エッジの座(緑色)へ立ち現れてきます.つまり,異状化する剰余悦 a の反復強迫から解放されて,昇華された欲望として,ボロメオ結合性の機能を果たすことになります.

それが,分析家の欲望の成起であり,自有 (Ereignis) の成起です.

この自有の成起においてこそ,存在の言葉は聴き取られた,ということになります.

Freud が Libido と名づけたものは,何らかの実体ではなく,而して,構造 a / $ において,客体 a により代理され,あるいは,ひとつの剰余悦からほかの剰余悦へと横滑りして行く存在欠如としての欲望 $ のことです.Freud がそれを何か実体的なものと捉えざるを得なかったのは,当然ながら,否定存在論的観点を欠いていたからです.

Primärvorgang[一次過程]と Sekundärvorgang[二次過程]は,Freud が『夢解釈』の第 VII 章で展開している理論的な考察のなかで用いた用語です.一次過程は Lustprinzip[快原則]にしたがって無条件に Lust[悦]へ至ろうとする動向であり,それに対して,二次過程は,Realitätsprinzip[現実原則]にしたがって,一次過程の制止のもとに,現実のなかで可能な満足を見出そうとする動向です.

夢の場合,一次過程の終端において起こるのは,夢という剰余悦の形成です.夢という無意識の成形の悦(剰余悦 a)は « défilés logiques » に存する,と Lacan は述べています.

« défilé » は「連なり,行列」です.« défilés logiques » は,明らかに,chaîne signifiante[徴示素連鎖]の言い換えです.剰余悦の反復強迫です.

Lacan が logique と言うとき,女性名詞としてその語を用いているのであれば,確かに「論理学」ですが,形容詞としてその語を用いる場合,必ずしも論理学のことを指しているわけではありません.なぜなら,Lacan は1955年に Heidegger の Logos と題された論文をみづから仏訳しているからです.

そこにおいて Heidegger は,Herakleitos の断片 B 50 を取り上げます:


οὐκ ἐμοῦ, ἀλλὰ τοῦ Λόγου ἀκούσαντας ὁμολογεῖν σοφόν ἐστινν Πάντα.
汝れらが,我れの言うことを聞くのではなく,Λόγος の言うことを聴いたのであれば,「一はすべてなり」と認めることは,賢い.

Ecrits の裏表紙に記されたテクストにおいて,Lacan はこう言っています:


Il faut avoir lu ce recueil, et dans son long, pour y sentir que s’y poursuit un seul débat, toujours le même, et qui, dût-il paraître dater, se reconnaît pour être le débat des lumières.
C’est qu’il est un domaine où l’aurore même tarde : celui qui va d’un préjugé dont ne se débarrasse pas la psychopathologie, à la fausse évidence dont le moi se fait titre à parader de l’existence.
L’obscur y passe pour objet et fleurit de l’obscurantisme qui y retrouve ses valeurs.
Nulle surprise donc qu’on résiste là même à la découverte de Freud, terme qui se rallonge ici d’une amphibologie : la découverte de Freud par Jacques Lacan.
Le lecteur apprendra ce qui s’y démontre : l’inconscient relève du logique pur, autrement dit du signifiant.
L’épistémologie ici fera toujours défaut, si elle ne part d’une réforme, qui est subversion du sujet.
L’avènement ne peut s’en produire que réellement et à une place que tiennent présentement les psychanalystes.
C’est à transcrire cette subversion, du plus quotidien de leur expérience, que Jacques Lacan s’emploie pour eux depuis quinze ans.
La chose a trop d’intérêt pour tous, pour qu’elle ne fasse pas rumeur.
C’est pour qu’elle ne vienne pas à être détournée par le commerce culturel que Jacques Lacan de ces écrits fait appel à l’attention.
この論文集をその長きにわたり通読した者にのみ感ぜられよう – そこにおいて続けられているのは,唯一の議論,常に同じ議論であり,それは,たとえ時代遅れとなっているかに見えようと,蒙昧の闇に光をもたらす議論であると認められる.
というのは,啓蒙の曙光がなかなか来ない領域があるということだ.その領域は,精神病理学がみづから除去し得ぬ先入観から,其れを自我が誇示すべき実存の証書にするところの偽なる明証性へ至る.
そこにおいては,曖昧模糊たるものが対象として通用しており,そこに己れの諸価値を再び見出す反啓蒙主義により花盛りとなっている.
それゆえ,まさにそこにおいて Freud の発見に対して抵抗する者らがいるということは,なんら驚きではない.ここで,「Freud の発見」は,「の」の両義性により,こう補足される : Jacques Lacan による Freud の発見.
何がそこにおいて証明されているかを,読者は知るだろう:すなわち,無意識は le logique pur – 言い換えれば,徴示素 – の領域のものである.
ここで,épistémologie は,ひとつの変革 – 主体のくつがえし – から出発しないなら,欠けることになる. 
主体のくつがえしの到来が生じ得るのは,実在的にのみであり,かつ,精神分析家たちが現在占めている座においてのみである.
彼らが経験している最も日常的なことに属するこのくつがえしを書き取ることに,Jacques Lacan は15年来,彼らのために尽力している.
かかわっている物はすべての者にとってあまりに重要であり,ざわめきを惹起せずにはいない.
その物がカルチャー商売によって横領されることのなきよう,Jacques Lacan はこの書を以て注意を喚起する.

« le logique pur » という表現に注目しましょう.

この « logique » は,「論理学」という意味の女性名詞ではなく,λόγος に由来する形容詞 logique に定冠詞を付して,男性名詞にしたものです.

« pur »[純粋な]は,「非経験論的な」です.つまり,「如何なる経験科学にも準拠しない」です.

« l’inconscient relève du logique pur, autrement dit du signifiant »[無意識は le logique pur – 言い換えれば,徴示素 – の領域のものである]における signifiant は,単にひとつの任意の signifiant のことを言っているわけではありません.Lacan は,signifiant の機能の可能性の条件 – 純粋な,非経験論的な条件 – について問うています.

つまり,この « le logique pur » は,S(Ⱥ) のことです.Lacan が Λόγος に言及するとき,それは,S(Ⱥ) のことです.



段落 II-32 の « défilés logiques » の « logique » も,剰余悦 a の反復強迫は S(Ⱥ) の座(緑色)において生ずることを示唆しています.


II-33. signifiant と signifié とを区別しさえすればよい.ストア派の知恵は,久しく前からそこにたどりついていた.ストア派が用いていたラテン語の名詞 [ signans, signatum ] を,Saussure は signifiant, signifié と訳した.signifiant と signifié とを区別しさえすれば,我々は,そこに,等価性の現象の外観を捉えることができる.そして,そのような等価性の現象によって,Freud は,エネルギー論の装置を思い描くことができたのだ,と我々は理解する.




Saussure が言語の構造として公式化した signifiant / signifié を,Lacan は,言語学的なものとしてではなく,否定存在論的なものとして応用します.さらに,Lacan が signifiant / signifié と言うとき,それは一義的ではありません.

第一には,signifiant は,存在事象の場処 – すなわち,徴示素の宝庫としての他の場処(水色)– に相当し,signifié は,存在の解脱実存的な在処 – すなわち,主体の解脱実存的な在処(赤色)– に相当し,そして,signifiant と signifié との間の切れ目は,Heidegger の言う〈存在事象と存在との間の〉存在論的差異 (die ontologische Differenz) に相当します.

その切れ目を,我々は,否定存在論的な切れ目 (la coupure apophatico-ontologique) と呼びます.トポロジックには,そのエッジは,穴のエッジ(緑色)を成しています.それは,結合エッジ (le bord nodal) として,穴と存在事象の場処と存在の在処とをボロメオ的に結合します.




それに対して,Lacan が signifiant / signifié と言うとき,第二には,signifiant は,大学の言説の構造において,エッジの座(緑色)に反復強迫的に増殖する客体 a のことであり,signifié は,解脱実存的な在処(赤色)における存在欠如としての主体 $ のことです.既に引用したように,Ecrits p.11 において Lacan が:


我々の研究は,次のことを認める地点に我々を導いた:すなわち,反復強迫 (Wiederholungszwang) は,我々が「徴示素連鎖の固執」[ l'insistance de la chaîne signifiante ] と呼んだものにその原理を有している.この「徴示素連鎖の固執」という概念そのものを,我々は,解脱実存 [ l'ex-sistence ](すなわち,解脱中心的 [ excentrique ] な座)– そこに我々は,Freud の発見を真摯に受け取らねばならないとするなら,無意識の主体を位置づけねばならない – と相関的なものとして取り出した

と言うとき,この「徴示素連鎖」は,大学の言説の構造における客体 a のことであり,それに対する signifié は,解脱実存の在処における存在欠如としての主体 $ です.


この II-33 段落においても,signifiant / signifié は,大学の言説の構造における a / $ に相当しています.signifiant と signifié との区別は,さまざまな相異なる客体 a が同じ Libidobesetzung $ の対象となることにおいて相互に等価的であるという事態を「経済論的」に理解することを助けてくれます.

Lacan は「経済論」ではなく,「エネルギー論」と言っていますが,Freud は心的なエネルギーの或る客体からほかの客体への移動について論ずる観点を,「経済論的」(ökonomisch) な観点と呼んでいます.「経済論的」は,「トピック」(topisch) と「力動的」(dynamisch) とともに,Freud の理論的な思考の一翼を成しています.


II-34. 言語学が,その客体 – signifiant[徴示素]– によって基礎づけられるためには,為すべき思考の努力がある.signifiant をそのものとして切り離す – 特に,意味から切り離す – ことに取り組まない言語学者は,ひとりもいない.


我々にとって重要なのは,signifiant と signifié との区別を,単に言語学的なものとしてではなく,否定存在論的なものとして捉え直すことです.

言語学は,ひとつの経験科学として,存在事象の次元にとどまります.言語学においては,signifié も存在事象の次元に属するものです.

それに対して,Lacan の教えにおいては,signifié は,ひとつの存在事象ではなく,存在欠如としての主体 $ です.




また,「意味」は,徴示素の宝庫としての他の場処(水色)に位置づけられます.それに対して,存在欠如としての主体 $ を代理する客体 a としての signifiant は,結合エッジの座(緑色)に位置づけられます.Lacan の教えにおいて,両者を区別することが肝腎です.


II-35. わたしが versant du signe[徴の側面]について語ったのは,signe と signifiant との連想的なつながりを標づけるためである.しかし,signifiant は,次のことにおいて,signe とは異なる:すなわち,signifiant は,そのひとそろいが lalangue において既に与えられている,ということ.

II-36. 暗号解読のためのコードについて語ることは,適切ではない –[暗号解読のコードがあらかじめ用意されてあると想定することは]まさに意味を仮定することになるがゆえに.

II-37. lalangue において与えられる signifiant のひとそろいは,意味の chiffre[記号,暗号]を提供するだけである.そこにおいて各単語が文脈に応じて取る意味の幅は,非常に大きく,多様である.その非均質性も,しばしば辞書において確認される.

II-38. 同じことが,組み立てられた文の構成要素すべてについて言える.例えば,この文 : les non-dupes errent  それを,わたしは,今年度 [ 1973-1974 ] のセミネールの表題として掲げている.

II-39. おそらく文法が[ lalangue の断片を如何に]書記[するか]の支えとなるが,しかしながら,文法は,ひとつの実在について証言している.それは,周知のように,分析において擬似的に性的な動因が立ち現れてこない限り,謎であり続ける.すなわち,その実在は,パートナーに対して嘘言することしかできないがゆえに,神経症や性倒錯や精神病によって記される.

II-40. « ich liebe ihn nicht »[わたしは,彼を愛していない]は,[その文を文法にもとづいて変形する Freud の一連の議論のなかで]こだましながら遠くまで展開される.

II-41. 実際,音素から文まで,あらゆる signifiant は,暗号化されたメッセージ(戦時中,ラジオは message personnel[個人的なメッセージ]と言っていた)の役を果たし得ることによってこそ,客体として取り出される.そして,それによってこそ,我々はこのことを発見する:語る存在の世界において一が在る [ il y a de l'Un ] – すなわち,古代ギリシャ語で言う στοιχεῖον が在る,元素が在る – ということを可能にするのは,signifiant である.




言語学がひとつの langue[国語]を扱うとき,その国語において或る時点で signifiant として機能し得るものは,徴示素の宝庫としての他の場処(水色)において所与のものです.

言語学は,大学の言説の構造における客体 a としての lalangue から,ひとつの langue[国語]を構成する signifiant の全体を抽出してきます.その抽出作業は,その langue の文法や語彙を確定する作業と相関的です.

lalangue 断片を,文法や語彙に準拠しつつ書記することによって,signifié との相関における signifiant ができあがりますし,逆に,lalangue 断片から signifiant を抽出し得るためには,その langue の文法や語彙を確定して行かなければなりません. 

そのようにして作り出された「正式」な signifiant は,それぞれ,signifié を割り当てられています.ですから,そのような signifiant のことを,Lacan は sens[意味]と呼んでもいます.

結合エッジの座(緑色)における客体 a としての lalangue そのものは,意味の圏外において,物質的なものとして,常に新たに創造され得,増殖し得ます.lalangue は,ひとつのすべてとして確定され得ません.

Lacan が signe[徴]や lettre[文字]と呼ぶものは,大学の言説の構造において le bord nodal[結合エッジ]の座(緑色)に位置する客体 a としての lalangue(ないし,その断片)のことです.

Lacan が Autres écrits の冒頭に収録された書 Lituraterre において littoral[陸と海との境界を成す地帯]について語っているのも,le bord nodal[結合エッジ]について思考するためです.

言語存在としての我々は,日常生活においては,langue[国語]を既成のものとして前提しており,lalangue そのものに気がつくことはほとんどありません – 言い損ない,書き損ない,曖昧表現にもとづく Witz などに出会う機会を除けば.

むしろ,逆に,曖昧表現にもとづく言い損ないや Witz から出発して,我々は,言語における lalangue の基本性と要素性を発見します.Lacan 自身が,彼の教えにおいて,Saussure から学んだ signifiant から出発して,lalangue へ遡って行っているように.

ところで,Lacan の教えの基本命題のひとつに « un signifiant représente le sujet pour un autre signifiant »[ひとつの徴示素は,もうひとつのほかの徴示素に対して,主体を代表する]があります.Jacques-Alain Miller は,常に,この命題を支配者の言説との関連において説明してきました:



一見すると,それは自然な読み方であるかのように見えます.しかし,Lacan の terminologie にもとづいてではなく,彼の否定存在論的トポロジーにもとづいて再考するなら,我々は,「ひとつの徴示素は,もうひとつのほかの徴示素に対して,主体を代表する」として公式化される構造は支配者の言説の構造ではない,ということに気づくことができます.

「ひとつの徴示素は,もうひとつのほかの徴示素に対して,主体を代表する」は,signe との区別における signifiant の定義として,1961-1962年の Séminaire IX L'identification において導入されました.

1960年09月に Royaumont で行われた Colloques philosophiques internationaux における発表にもとづく書 Subversion du sujet et dialectique du désir dans l'inconscient freudien のなかで命題「ひとつの徴示素は,もうひとつのほかの徴示素に対して,主体を代表する」は提示され,論ぜられていますが,その書は1966年に出版された Ecrits のなかで初めて公表されたものなので,1960年から1966年までの間に Lacan が何らかの加筆を行った可能性は十分に考えられます.

ともあれ,Subversion du sujet のなかで Lacan はこう論じています:


Notre définition du signifiant (il n'y en a pas d'autre) est : un signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant. Ce signifiant S(Ⱥ) sera donc le signifiant pour quoi tous les autres signifiants représentent le sujet : c'est dire que faute de ce signifiant S(Ⱥ), tous les autres ne représenteraient rien. Puisque rien n'est représenté que pour.
我々は,徴示素をこう定義する(それ以外の定義は無い): ひとつの徴示素は,もうひとつのほかの徴示素に対して[に代わって,のために]主体を代表する.したがって,この徴示素 S(Ⱥ) は,其れに対してほかの徴示素すべてが主体を代表するところの徴示素である.つまり,この徴示素 S(Ⱥ) がなければ,ほかの徴示素すべては何も代表しないことになる.なぜなら,あるものが代表されるのは,必ず,何かに対してであるから.

この一節において,「ひとつの徴示素 S1 は,もうひとつのほかの徴示素 S2 に対して,主体 $ を代表する」における S1 は複数的であり,それに対して,S2 は唯一的な徴示素 S(Ⱥ) ‒ 否定存在論的切れ目のエッジとして,否定存在論的構造の可能性の条件であるもの  であることが,明示されています.

S1 が複数的であることは,Séminaire XX の1973年6月26日の講義において Lacan が提示している essaim (S1) の式とも合致しています:
フランス語では,essaim と S1 は同音です.essaim は,ミツバチが分封のために新たな巣へ移動する際に成す群のことです.それは,多数の個体から成る一群です.

この多数の S1 の反復は,反復強迫における chaîne signifiante[徴示素連鎖]を成します.つまり,essaim としての S1 は,反復強迫における客体 a のことです.

Séminaire XI の1964年05月20日の講義において提示されている図も,見てみましょう:



この図について,Lacan は,1964年06月03日の講義でこう述べています:

le sujet apparaît dans l’Autre en tant que le premier signifiant, le signifiant unaire (S1), surgit au champ de l’Autre et qu’il représente le sujet pour un autre signifiant (S2). Lequel autre signifiant (S2) a pour effet l’aphanisis du sujet. (...) le signifiant binaire (S2), c’est la cause de la disparition du sujet ($).
主体は,他のなかに現れる ‒ 最初の徴示素,一元徴示素 S1 が他の場に出現し,それが主体をもうひとつのほかの徴示素に対して代表する限りにおいて.そのもうひとつのほかの徴示素は,主体の消失 [ aphanisis ] の効果を有する.(...) 二元徴示素 S2 こそが,主体の消失 [ disparition ] $ の原因である.

そこにおいて,S2 は主体消失 $ の原因である,と述べられています.つまり,この S2 は,やはり,否定存在論的構造の可能性の条件である S(Ⱥ) のことです.


主体 $ が他のなかに現れるのは,客体 a によって代表されることによってであり,かつ,他の場処のまっただなか(水色)に現れるのではなく,他の場処の辺縁(緑色)のところに現れます.

Lacan が signifiant unaire ないし trait unaire と呼ぶものは,aliénation[異化]の構造としての大学の言説の構造において le bord nodal[結合エッジ]の座 ‒ すなわち,S(Ⱥ) の座 ‒ において反復強迫的に増殖する客体 a のことです.

この客体 a は,主体 $ を,S(Ⱥ) に対して代表します.あるいは,ex-sistence の座における主体 $ を本当に代表しているのは S(Ⱥ) の方ですから,客体 a は,S(Ⱥ) に代わって,主体 $ を代表する,と言ってもよいでしょう.

客体 a は主体 $ を代表するといっても,前者は後者に adéquat[等合的]であるわけではありません.客体 a は,仮象 (semblant) であるにすぎません.つまり,実在である主体 $ のことを本当に,真に表しているわけではありません.その限りにおいて,客体 a は偽りであり,嘘です.その限りで,実在 $ は嘘言する,と Lacan は言っています.

1973-1974年の Séminaire XXI の表題として,Lacan が « les non-dupes errent »[騙されぬ者らは,さまよう]と言うとき,その「騙されぬ者」は,「我れは真理をすべて言う,我れの言うことが真理のすべてである」とうそぶく canaille[ゲス,下司,下種]のことです.そのような者たちは,自分たちが既に知っていると思い込んでいる「真理」で満足し,本当の真理の声に耳を傾けることはありません.

それに対して,「騙される者」は,狂言によって真理を言う道化 (fool) の言葉に耳を傾ける者です ‒ 真理の声を聴き取るために.仮象としての客体 a において語る真理の声を読み取ろうとする精神分析は,騙される者であることから出発します. 

« ich liebe ihn nicht »[わたしは,彼を愛していない]は,Freud の Schreber 症例論文から引用された命題です.

そこにおいて Freud は,Schreber の妄想 – 神は,彼が Gottesweib[神の妻]となることを欲している – の核に,「男を愛する」という homosexuelle Wunschphantasie[同性愛的願望幻想]を想定します.そして,より一般的に,「既知のパラノイアの主要形態はすべて,» Ich (ein Mann) liebe ihn (einen Mann) «[わたし(男)は彼(男)を愛する]に対する反論として記述され得る」と述べています.この場合,lieben[愛する]においてかかわっているは,昇華としての愛ではなく,Sexualtrieb[性本能]です.

まず,根本的には,肯定命題 « ich liebe ihn » – それが真理です.しかし,その真理は否認されて,否定命題 « ich liebe ihn nicht » が措定されます – つまり,パートナーに対して嘘言することになります. 

そして,文法的な観点から否定辞 nicht が命題 « ich liebe ihn » の構成要素のいずれにかかるによって,「パラノイアの主要形態」が決定されます.

まず,« ich liebe ihn nicht »[わたしは彼を愛していない]– つまり,« ich hasse ihn »[わたしは彼を憎む].しかし,妄想患者は,自身の内的な真理を信じません (Unglauben). そして,それを,投射 (Projektion) によって,こう変形します : « er haßt mich »[彼がわたしを憎む].つまり,主語と目的語とが入れ換えられます.かくして,「彼はわたしを迫害する」という迫害妄想が成立します.

次に,« ich liebe ihn nicht »[わたしは彼を愛していない]– つまり,« ich liebe sie »[わたしは彼女を愛する].そして,投射によって主語と目的語が入れ換えられて,« sie liebe mich »[彼女がわたしを愛する].かくして,Erotomanie が成立します.

第三に,« nicht ich liebe ihn »[彼を愛しているのは,わたしではない]– そうではなく,« sie liebe ihn »[彼女は彼を愛している].この「彼女」は,患者の妻ないし恋人です.かくして,嫉妬妄想が成立します.

そして最後に,否定は「わたしは彼を愛する」という命題全体にかかります : « ich liebe überhaupt nicht und niemand »[わたしは,そもそも,誰かを愛することはなく,誰をも愛さない].その場合,Libido 充塡は他者からも外界からも撤収されて,主体自身へ逆流してきます : « ich liebe nur mich »[わたしは,わたし自身のみを愛する].かくして,誇大妄想が成立します.

Schreber は,現在の精神医学的観点から見れば,精緻に作り上げられた複雑な幻覚妄想症状をともなう Schizophrenie の一例です.Freud は,Schreber の精神病理の根源は彼の「同性愛的願望幻想」に存する,と見なします.そのことは,ラカン的な観点からは,如何に捉えなおされ得るか?

Schreber の Entmannung[脱男性化,女性化]は,彼の身体に「女性的」な悦 – つまり,男のファロス悦に対しても,神経症的な剰余悦に対しても「彼方」であるような悦 – が侵入してきたことを示唆しています.それは,神が欲していることです.つまり,神は,女性となった Schreber の身体を性的に悦することを欲しています.神との性関係は,Nervenanhang[神経結合]と呼ばれています.

Schreber の場合は,« ich liebe ihn »[わたしは彼を愛する]は,単純に主語と目的語の入れ換えによって,« er liebe mich »[彼がわたしを愛する]となります.そして,その未知なる「彼」は,「神」と呼ばれることになります.

ただし,女性化に先だって,Schreber は,まず,死を経験しています:彼の身体のあらゆる臓器は破壊されます.しかし,神の奇跡によって,彼は,生物学的には死なず,復活させられます  身体的に女性となって.

1955-1956年の Séminaire III と,それに基づいて,1957年末から1958年初めの時期に執筆された書 D'une question préliminaire à tout traitement possible de la psychose[精神病のあらゆる可能な治療に前提的なひとつの問いについて]において,Lacan は,精神病発症の前提条件を forclusion du Nom-du-Père[父の名の閉出]と呼んでいます.この「父の名」は,le support de la fonction symbolique[徴在の機能の支え](Ecrits, p.278) としての「父の名」 です.つまり,le bord nodal[結合エッジ]そのもの,ないし,結合エッジの機能を果たすものです.それは,ボロメオ結びにおいては,le réel, l'imaginaire, le symbolique の三つの輪をボロメオ的に結合することを可能にします.


ボロメオ結合性そのものとしての父の名の機能が失われてしまうと,否定存在論的構造は維持され得なくなります.そのとき起こるのは,死です.そのような死は,「死の引き受け」としての実存的な死ではなく,而して,多くの場合,自殺として成起する死,または,自殺的行為によって惹起される事故死です.

性関係の悦は,もし仮にそれが本当に実現するなら,死そのものです.Freud の「死の本能」の概念は,性本能の完全な満足を可能にするような性関係の実現は死に等しい,ということを包含しています.

一般的に言って,症状は,さまざまな程度のボロメオ結合機能不全に対する代償として形成されます.精神病症状は,ボロメオ結合機能の完全な喪失に対する代償として形成される,と考えることができます.

ですから,精神病症状は,死と悦を,より直接的な,より強烈なしかたで証言しています.それを,我々は,Schreber の精神病症状の中核に読み取ることができます.

段落 II-41 に登場する Parmenides の第二命題 « il y a de l'Un »[一(いち)が在る]について.

命題 « il y a de l'Un » において部分冠詞を付された Un は,lalangue 断片に相当します.大学の言説の構造における客体 a です.



部分冠詞を付された Un は,不可能な Un を代理します.

不可能な Un とは,「性関係は無い」と言われるときの不可能な性関係が実現し得ると一般的な臆見が思念するところの統一ないし一致の「一」(いち)であり,不可能な神の名 YHWH の一(いち)です.つまり,存在欠如としての主体の Sein存在],すなわち,$ です.

不可能な統一 (unité) の一の代理として,« il y a de l'Un » の一は,単位 (unité) としての一を成します.単位としての一は,存在事象を構成する「元素」(στοιχεῖον) として,あるいは,存在事象の数を数えるための単位として,機能します.


II-42. Freud が無意識のなかに発見するもの – わたしは,先ほどは,わたしの言っていることが正しいかを彼の書に当たって確認するよう促すことしかし得なかった –,それは,知り得たことすべてに性的な意味をおおまかに与えることができる – connaître[識る:聖書では「或る男が或る女を識る」という表現における「識る」は「性交する」の意味において用いられている]という動詞は常々よく識られているメタフォラを喚起するという理由により – ということに気がつく,というようなこととはまったく異なる.Freud が無意識のなかに発見するものは,其れによって症状が定存するところのもの – すなわち,徴示素の結び目 – を実際に解くことを可能にする実在である.「結ぶ」と「解く」は,ここではメタフォラではなく,而して,徴示素という質料[物質]の連鎖を成すことによって実在的に作られる結び目と取られるべきである.

II-43. そも,それらの連鎖は,意味の連鎖ではなく,而して,jouis-sens[剰余悦という無意味]の連鎖である – jouis-sens [ jouissance ] という語は,徴示素の法を成す曖昧表現にしたがって,[ jouis-sens とも jouissance とも]好きなように書けばよい.

II-44. これで,精神分析と呼ばれる手段に,今もあいかわらず続く混乱した思念とは異なる有効性を与えた,と思う.


精神分析において症状を「解消」するとは,如何なることか?それは,剰余悦 a がその反復強迫において「書かれることをやめない」状態から,それが「書かれることをやめる」状態へ移行することです.

それは,精神分析の経験において,aliénation[異状]の構造としての大学の言説の構造から,sublimation[昇華]の構造としての分析かの言説の構造へ,移行することです.



「徴示素という質料の連鎖」(chaîne de la matière signifiante) は,Ecrits, p.11 においては,より単純に chaîne signifiante[徴示素連鎖]と呼ばれています.それは,大学の言説の構造のなかで,le bord nodal[結合エッジ]の座 – S(Ⱥ) の座(緑色)– において「書かれることをやめない」客a の反復強迫のことです.

「実在」は,この場合,不可能性において「書かれないことをやめない」もののことではなく,而して,必然性において「書かれることをやめない」もののことです.

結合エッジの座において強迫的に反復される客体 a が症状の徴示素であり,それが le réel, le symbolique, l'imaginaire の三つの輪をボロメオ的に結び合わせることによって,否定存在論的構造が成り立ちます.

精神分析の経験において,言語存在の否定存在論的構造は,大学の言説のそれから分析家の言説のそれへ移行します.それは,症状の徴示素である a が,分析家への転移において,結合エッジの座(緑色)から定存の座(水色)へ移行することによって成起します.

定存の座において,客体 a は,解脱実存的な存在欠如(すなわち,欲望)から分離されて,「書かれることをやめない」徴示素であることをやめます.つまり,書かれることをやめることができるようになります.最終的には,分析の終結において,客体 a は完全に棄却されます.

結合エッジの座 S(Ⱥ) には,客体 a に代わって,存在欠如としての主体 $ が位置することになります.この $ は,客体 a から分離されて,剰余悦における偽りの満足を放棄した欲望,つまり昇華された欲望です.Lacan が「分析家の欲望」と呼ぶのは,この昇華された欲望のことです.それを以て,精神分析は終結を見ます.

jouissance を jouis-sens と表記することについては,それによって,jouissance[悦]という語のなかに sens[意味]という語が浮上してきます

しかし,Lacan は « ces chaînes [ de la matière signifiante ] ne sont pas de sens mais de jouis-sens »[それらの徴示素質料の連鎖は,意味 [ sens ] のものではなく,jouis-sens のものである]と言っているのですから,jouis-sens は,sens と同じ側にではなく,むしろ non-sens の側に位置することになります.



そして,Séminaire XI の1964年5月27日の図における non-sens と Séminaire XIII の1965年12月15日の図における客体 a は intersection の領域に位置づけられていますが,より正確には,non-sens と客体 a が位置づけられるのは le bord nodal[結合エッジ]の座(緑色)にです.

jouis-sens とは,aliénation の構造のなかで,結合エッジの座における剰余悦 a の non-sens のことです.




II-1. ラカン先生,わたしがここで為すべきは,あなたとエスプリを競うことではなく,ただ,答える機会をあなたに与えることだけだ,と思います.ですから,あなたがわたしから受ける質問は,まったく取るに足りないものであり,初歩的であり,通俗的でさえあるでしょう.では,始めます:「無意識 – 変な用語!」

II-2.「無意識」よりも良い語は,Freud には見つからなかった.そして,今さらしょうがない.この inconscient [ unbewusst ] という語は,conscient [ bewusst ] という語の否定であるという欠点を有している.「意識的ならざる」ものという表現は,「意識的」以外の特性に無頓着に,世の如何なるものをもそこに仮定することを許す.無論のこと.「気がつかれないもの」には,「いたるところにあるもの」という名も,「どこにも無いもの」という名も,どちらも妥当する.

II-3. しかるに,「無意識」は,とても厳密なものである.

II-4.
無意識は,語る存在 [ l'être parlant ] においてしか無い.ほかの存在たち – それらは,実在から押しつけられてくるとはいえ,名づけられることによってのみ存在を有する – においては,[生物学的意味での]本能 [ instinct ] がある – すなわち,それらの生存が包含する知がある.とはいえ,それも我々の思考 – 多分,非等合的な思考 – にとってのことだ.

II-5.
また,人間無しには生存困難な動物たちがいる.それがゆえに,それらは d'hommestiquesanimal domestique(家畜)と homme(人間)との縮合]と呼ばれる.その理由によって,それらの動物は,無意識の地震 – ただし,非常に短時間のものだが – に見まわれることがある.

I-6. 無意識,[すなわち]何かが語る.それゆえ,無意識は言語に依拠している.言語について我々が知っているのは,ほんの僅かなことでしかない – わたしが linguisterie[ゲンゴ学]という名称で差し徴しているものにもかかわらず.linguisterie とは,言語学の名において人間において作用すると言われるものごとをまとめたものだ – それは,新しいものだ.[それに対して]言語学とは,lalangue[ゲンゴ]を扱う[経験]科学である.この lalangue という語を,わたしは,[通常の正書法にしたがって la langue ではなく]一語として書く – そこにおいて,ほかのあらゆる[経験]科学に関してそう為されているように,言語学と呼ばれる[経験]科学の客体を特定することによって.

II-7. この客体 [ lalangue ] は,しかしながら,傑出している – 主体のアリストテレス的概念そのものが,ほかの概念へ還元されるよりもより正当に,それへ還元されることによって.そのことは,魂に対するひとつのほかの主体の解脱実存によって無意識を設立することを,可能にする.「魂」と言っても,それは,その諸機能の総和の身体への仮定である.そのいわゆる魂は,極めて問題の多いものである – それについては Aristoteles から Uexküll に至るまで異口同音に語られてきているにもかかわらず,かつ,生物学者たちは,望もうと望むまいと,それをなおも仮定し続けているにもかかわらず.

II-8. 実際,無意識の主体は,身体を介してしか魂に接触しない – そこへ思考を導入することによって.今回は,Aristoteles に反論することになる.哲学者 [ Aristoteles ] が想っていたように,人間は魂によって思考するわけではない.

II-9.
人間が思考するのは,構造 – 言語の構造(「構造」という語は「言語の構造」を含意している)が身体を切り分けることによっている.構造による身体の切り分けは,解剖学とな何のかかわりも無い.その証人は,hysterica である.切り分けのハサミが魂に及べば,強迫神経症症状が生ずる:魂の邪魔となる思考.魂は,それをどうすればよいかわからず,途方にくれる.

II-10.
思考は,非調和的である魂に関して言うなら.古代ギリシャ哲学に言う νοῦς は,思考の魂に対する好意の神話である.そのような好意は,世界にかなっている.世界 (Umwelt) – 魂は,その責任者と見なされている.しかるに,それは,其れによってひとつの思考が支えられるところの幻想でしかない.それは[心的]現実であるかもしれないが,実在の渋面と理解されるべきである.

II-11. とはいえ,精神分析家であるあなたのところにやってくる人々がいます – この世のなかでよりよく生き得るために.あなたは,世界を幻想へ還元してしまいますが.治癒も,ひとつの幻想ですか?

II-12.
治癒は,苦しむ者 – 自身の身体や自身の思考に苦しむ者 – の声の側から発せられる求めである.驚くべきは,答えがある,ということ,そして,医学はいつの時代にも言葉で的を射てきた,ということだ.

II-13.
無意識が探知される前は,どうであったか?ひとつの実践は,有効であるために,解明される必要は無い:そう結論することができる.

II-14. 精神分析が[心理療法やらカウンセリングやらの]therapy[セラピー]から区別されるのは,「解明されている」ということだけによるのでしょうか?あなたが言いたいのは,そういうことではないでしょう.問いを次のような形で問うてもよいでしょうか:「精神分析と心理療法は,両者とも,言葉によってのみ作用する.しかし,両者は相対立する.何において?」

II-15.
目下のところ,心理療法といえば,「精神分析からインスピレーションを受けた」ものであることが必ず要請される.問題を,それが値する括弧にふさわしく,言いかえてみよう.精神分析と心理療法との区別を維持するとすれば,それは,単に,心理療法においてはマットに沈まない... つまり,寝椅子に横にならない,ということによるのだろうか?

II-16.
そのような[形式的な]思念は,あの連中の手助けになる – あの連中,すなわち,括弧つきの「協会」[ International Psychoanalytical Association ] のなかでパスがないことに苦しむ分析家たち.彼らは,それについて – 明言すると,パスについて – 何も知ろうとしないために,分析家の等級を形式化することを以て,パスを代補する.その等級制度は,たいへん優雅なものであり,精神分析の実践においてよりも彼ら分析家どうしの関係においてより多くの巧みさを展開する者たちを,等級の上位に安定的に置くようにできている.

II-17.
というわけで,何によって精神分析の実践は心理療法のなかでまさっているのかを,提示しよう.

II-18.
そこにおいて無意識がかかわっている限りにおいて,ふたつの側面を,構造 – すなわち,言語 – は明かす.

II-19.
意味の側面 – 人々は,それこそが分析の側面だと思うかもしれない.分析は陳腐な性的意味を大量に我々に浴びせかける,というわけだ.

II-20.
驚くことに,この意味は,無意味へ還元される – 性関係の無意味へ.性関係の無意味は,古来,愛について言われること[Lacan が特に念頭に置いているのは amour courtois, 宮廷愛]のなかで明白である.叫び声を発していると言えるほどに明白である.それがゆえにこそ,人間の思考は尊いものと見なされる.

II-21.
さらに,人々が良識 [ le bon sens ] と思いこまされる意味 [ sens ] があり,おまけに,良識は常識 [ le sens commun ] と見なされる.喜劇の頂点だ.ただし,喜劇は,「性関係は無い」を知らずしては成り立たない .「性関係は無い」は,セックスで「行く」こと[性的な悦]に内在的である.「性関係は無い」を知ることにより,我々の尊厳は,後に続くもの – さらには,取って代わるもの – を得る.

II-22.
良識は暗示を代表し,喜劇は笑いを代表する.ということは,良識と喜劇だけで十分だ,ということだろうか – 両者はほとんど両立不能だ,ということに加えて?そのようなことを言っているから,心理療法 – 如何なるものであれ – は頓挫するのだ.心理療法は善いことを何もしない,というわけではなく,而して,心理療法は最悪の結果をもたらす,ということだ.

II-23. それゆえ,無意識,すなわち,其れによって欲望が自身を顕すところの固執 [ insistance ], さらには,そこにおいて求められるもの[剰余悦としての客体 a]の反復 – それこそ,Freud が,無意識を発見したとき以来,無意識について言っていることではないか?

II-24.
それゆえ,無意識は,もし構造 – それは,わたしが言うように,lalangue のなかに言語を作ることによって認められる – が以下のことを命ずるなら,

II-25.
無意識は,我々に以下のことを想起させる:すなわち,意味の側面 – それは,ことばにおいて,我々を魅了し,そのことによって,存在〈其の思考を Parmenides が想うところの存在〉は,そのことばに対して遮蔽を成す – に対して,

II-26.
無意識は,我々に以下のことを想起させる:すなわち,意味の側面に対してわたしは結論する,言語の研究は徴 [ signe ] の側面を対置する.

II-27.
如何に,症状 – 精神分析においてそう呼ばれているもの – こそは,道筋を描いてこなかったであろうか,Freud に至るまで – それは,hysterica に従順に,彼が,夢,言いそこない,しそこない,さらには機知の言葉を,暗号化されたメッセージを解読するように読むようになるために,必要であった.

II-28. 証明してください,それがまさに Freud の言っていることであり,かつ,Freud の言っていることはそれに尽きる,と.

II-29.
それら三つの事項[夢,lapsus, Witz]についてそれぞれ論じられている Freud のテクスト[夢解釈,日常生活の精神病理学,機知]それらの表題は,今や周知のものだ – に当たってみなさい.かかわっているのは純粋な徴示素事言 [ dit-mension signifiante ] の解読にほかならない,ということに気がつくだろう.

II-30.
すなわち,それらの現象のひとつは,素朴に連節される –「連節される」は「言語化される」ということだ – 素朴に,通俗的な論理〈すなわち,単純にありきたりのゲンゴ使用法〉にしたがって.

II-31.
次いで,Freud は,曖昧表現,メタフォラ,メトニュミアの連なりのなかを進みつつ,ひとつの実体を呼び出す – 彼が Libido[リビード]と名づける流動体の神話だ.

II-32.
しかし,彼のテクストに目をこらす我々から見れば,彼が実際に行っているのは,ひとつの翻訳である.そして,それによって,次のことが証明される:すなわち,Freud が一次過程の終端に想定する悦が本来的に存するのは,λόγος の座における[客体 a の]行列 – そのなかを,Freud はかくも巧みに我々を案内する – にである

II-33. signifiant signifié とを区別しさえすればよい.ストア派の知恵は,久しく前からそこにたどりついていた.ストア派が用いていたラテン語の名詞 [ signans, signatum ] を,Saussure  signifiant, signifié と訳した.signifiant signifié とを区別しさえすれば,我々は,そこに,等価性の現象の外観を捉えることができる.そして,そのような等価性の現象によって,Freud は,エネルギー論の装置を思い描くことができたのだ,と我々は理解する.

II-34. 言語学が,その客体 – signifiant[徴示素]によって基礎づけられるためには,為すべき思考の努力がある.signifiant をそのものとして切り離す – 特に,意味から切り離す – ことに取り組まない言語学者は,ひとりもいない.

II-35. わたしが versant du signe[徴の側面]について語ったのは,signe signifiant との連想的なつながりを標づけるためである.しかし,signifiant は,次のことにおいて,signe とは異なる:すなわち,signifiant は,そのひとそろいが lalangue において既に与えられている,ということ.

II-36.
暗号解読のためのコードについて語ることは,適切ではない –[暗号解読のコードがあらかじめ用意されてあると想定することは]まさに意味を仮定することになるがゆえに.

II-37. lalangue
において与えられる signifiant のひとそろいは,意味の chiffre[記号,暗号]を提供するだけである.そこにおいて各単語が文脈に応じて取る意味の幅は,非常に大きく,多様である.その非均質性も,しばしば辞書において確認される.

II-38.
同じことが,組み立てられた文の構成要素すべてについて言える.例えば,この文 : les non-dupes errent – それを,わたしは,今年度 [ 1973-1974 ] のセミネールの表題として掲げている.

II-39.
おそらく文法が[ lalangue の断片を如何に]書記[するか]の支えとなるが,しかしながら,文法は,ひとつの実在について証言している.それは,周知のように,分析において擬似的に性的な動因が立ち現れてこない限り,謎であり続ける.すなわち,その実在は,パートナーに対して嘘言することしかできないがゆえに,神経症や性倒錯や精神病によって記される.

II-40. « ich liebe ihn nicht »
[わたしは,彼を愛していない]は,[その文を文法にもとづいて変形する Freud の一連の議論のなかで]こだましながら遠くまで展開される.

II-41.
実際,音素から文まで,あらゆる signifiant は,暗号化されたメッセージ(戦時中,ラジオは message personnel[個人的なメッセージ]と言っていた)の役を果たし得ることによってこそ,客体として取り出される.そして,それによってこそ,我々はこのことを発見する:語る存在の世界において一が在る [ il y a de l'Un ] – すなわち,古代ギリシャ語で言う στοιχεῖον が在る,元素が在る – ということを可能にするのは,signifiant である.

II-42. Freud が無意識のなかに発見するもの – わたしは,先ほどは,わたしの言っていることが正しいかを彼の書に当たって確認するよう促すことしかし得なかった –,それは,知り得たことすべてに性的な意味をおおまかに与えることができる – connaître[識る:聖書では「或る男が或る女を識る」という表現における「識る」は「性交する」の意味において用いられている]という動詞は常々よく識られているメタフォラを喚起するという理由により – ということに気がつく,というようなこととはまったく異なる.Freud が無意識のなかに発見するものは,其れによって症状が定存するところのもの – すなわち,徴示素の結び目 – を実際に解くことを可能にする実在である.「結ぶ」と「解く」は,ここではメタフォラではなく,而して,徴示素という質料[物質]の連鎖を成すことによって実在的に作られる結び目と取られるべきである.

II-43. そも,それらの連鎖は,意味の連鎖ではなく,而して,jouis-sens[剰余悦という無意味]の連鎖である – jouis-sens [ jouissance ] という語は,徴示素の法を成す曖昧表現にしたがって,[ jouis-sens とも jouissance とも]好きなように書けばよい.

II-44. これで,精神分析と呼ばれる手段に,今もあいかわらず続く混乱した思念とは異なる有効性を与えた,と思う.