2021年9月12日

ある日本文学研究者の Freud に関する 質問に 答えて



ある日本文学研究者の Freud に関する 質問に 答えて





この記事を書くのは,早稲田大学 文学研究科 博士課程で 川端康成 (1899-1972) の文学 — 特に 1920-1930年代に 執筆された 初期作品 — について 研究している 馮 思途 氏からの いくつかの質問に 答えるためです.

まず,今年 4 月,共通の知人 K 氏を介して,Freud は 記憶について どのようなことを言っているか という 質問を 彼から 受けました.
馮 思途 氏が 精神分析において 記憶が どのように論ぜられているのかに 関心を持ったのは,川端康成の自伝的な作品を 彼の実体験にもとづいてではなく 彼の記憶にもとづいて 分析するためだそうです.つまり,重要なのは,彼が 実際に 何を 如何に 体験したのかではなく,彼が 何を 如何に 記憶から 思い出しているのか または 忘れ去っているのかである,という観点です.

わたしは とりあえず こう 答えました:

Freud は 記憶について 如何に 論じているのか ? Freud は,精神分析の臨床家および理論家として,最初から 最後まで 記憶について 論じ続けています.彼にとって,精神分析の臨床は,外傷的な経験の記憶の「抑圧」(Verdrängung — わたしは この用語を「排斥」と訳します)と「想起」(Erinnerung) とをめぐって 展開されます.

彼の最初の精神分析的な著書『ヒステリー研究』(1895) の冒頭に収録されている 予備的報告『ヒステリー現象の心的メカニズムについて』(1893) において,彼は „der Hysterische leide größtenteils an Reminiszenzen“[ヒステリー患者は 大部分 記憶に 病んでいる]— 日本語に訳すと 曖昧になってしまいますが,Freud の 主張は「ヒステリーの病因の大部分は 記憶に 存している」ということです — と述べています.そして,彼の最後の著書『モーゼという男 と 唯一神の宗教』(1939) においては,彼は,如何に ユダヤ民族は モーゼ殺害の記憶 — Freud は「ユダヤ人たちは みづから 自分たちの指導者(つまり 父親的役割を果たしている者)である モーゼを 殺害した ということを 旧約聖書から読み取ることができる」という学説に 準拠しています — に(つまり 父殺しの記憶に)病んでいるか を 論じています.

確かに,『ヒステリー研究』(1895) の出版の後,1890年代の後半,Freud は,幻想 (Phantasie) をも 神経症の病因と 見なすことになります.つまり,患者が 実際に体験したのではなく 空想しただけの光景も 病因として作用し得る,と Freud は 考えるようになります.しかし,それでも,Freud にとっては,やはり,実体験の記憶は 神経症の病因として 最も有意義なものであり続けます.そのことは,たとえば「原光景」(Urszene) の概念に 読み取ることができます.患者が まだ 月齢 18ヶ月ほどにしかすぎないときに 目撃した 両親の性行為の光景の記憶が 病因的に作用している — Wolfsmann[オオカミ男]という渾名を与えられた患者に関する症例論文において Freud は そう 論じています.

ただし,Lacan の教えを学んだ 我々としては — つまり,Freud が 彼の臨床経験と 経験論的および形而上学的な先入観とにもとづいて 創始した 精神分析を 純粋に(すなわち 非経験論的 かつ 非形而上学的に)基礎づけた Lacan の教えを学んだ 我々としては — 今 Freud を読むときに 留意すべきことを 付け加えておきます.それは,Freud は 経験論者である ということです.

経験論者として,Freud は,このことを 当然の前提と しています:すなわち,記憶は 原則的に すべて 体験された出来事 または 学習された情報の 記憶である;実際に体験されても学習されてもいないことが 記憶として 想起されることはない;記憶として想起されることは すべて 過去に体験または学習されたことである(ただし,当然,記憶ちがいの場合は 除く).

しかし,それは 彼の経験論的な思いこみにすぎません.

Freud が 経験論者であるがゆえに 作り上げた〈問題の多い〉概念の ひとつが,先ほども言及した「原光景」です.彼は,こう 疑います:ある患者において ひとつの〈外傷的な体験の〉記憶が 病因的に作用していることが 見出された とする;しかし,そのことは 実は より早期に体験された もうひとつの ほかの 外傷体験に 条件づけられているのではないか ? そう考えた Freud は,根本的な病因を追求するために,患者の個人的な歴史を どんどん より幼いときへ さかのぼって行きます.かくして 彼が行き着いたところが,あの〈患者が 18ヶ月のときに目撃した〉「原光景」です.

しかし,神経症の病因としての「原光景」は,明らかに,Freud の 経験論的な構築物にすぎません(Freud 自身,「患者が想起しえない記憶を 分析家は Konstruktion[構築]によって 補う」と 言っています).患者が 月齢 18ヶ月のときに 目撃した 両親の性行為を 外傷的な光景として 記憶している と 想定するのは,無理なことです.

では,何が問題なのか ? 病因的に作用し得る「外傷的」(traumatisch) な「経験」とは 何なのか?

ふたつの用語 —「体験」(Erlebnis) と「経験」(Erfahrung) と — を 区別しておきましょう.それらの意義は,部分的には 重なり合います.しかし,異なる部分も あります.「体験」は,もっぱら,日常的な意味における「現実」の次元のものです.それに対して,我々は,いわゆる 現実的な体験の次元とは異なる次元において — たとえば,書物や映画や芸術作品のなかで,あるいは,夢や空想のなかで — さまざまなことを「経験」し得ます.そのような「経験」の方が,現実のなかにおける「体験」よりも より意義深いものであることが あり得ます.たとえば,夢のなかで,あなたは 非常に恐ろしいことを「経験」し得ます — たとえ そのようなことを「体験」したことはなくても.そして その恐ろしい経験は あなたに非常に強い印象を与え得ます — 如何なる現実的な体験よりも より強い印象を,より なまなましい 印象を.

精神分析において意義深い 外傷的な経験は,わたしが「否定存在論的孔穴」(le trou apophatico-ontologique) と呼んでいるものとの遭遇の経験です.詳しい説明は,あまりに長くなってしまうので,ここでは控えます.ともあれ,その穴は,夢や 文学作品のなかに さまざまなしかたで 描かれています.比較的 最近の 文学的な例としては,村上春樹氏の『騎士団長殺し』を挙げることができます.その作品は,最初から最後まで,否定存在論的孔穴を描き出しています — さまざまなしかたで.まだ読んでいないなら,是非 読んでみてください.

わたしの 以上のような回答(この記事を書く際に かなり補足しました)に対して,馮 思途 氏から 8月に 改めて 次のような質問が 送られてきました(表現や表記は 一部 改めてあります):

質問 1. フロィト理論における「性欲」について

Freud の著作では,「性欲」が 必ず 論ぜられています.『ヒステリー研究』でも『夢解釈』でも,症例論文でも,それは,一貫したテーマです.また,第一次世界大戦を経験した後では,彼は,『快原則の彼方』において,Eros と Todestrieb[死の本能]の 二元論を 提起しました.その構図は,Henri Bergson が Matière et mémoire[物質と記憶]や L’Évolution créatrice[創造的進化]のなかで用いている論法の一部を 彷彿とさせます.同時代に生きていた Freud と Bergson は,直接的な影響関係は無くとも,相互に似かよった思考を有していたのではないか と思われます.

「性欲」のテーマに戻ると,最も奇妙に思えるのは,なぜ Freud は 議論を「性欲」の領域に持っていくのか ということです.なぜ 彼は「性欲」の問題に それほど こだわったのでしょうか?

近代日本文学の領域においては,フロィト理論の積極的な受容の例としては,1910年代 後半,中村古峡が 1917年に創刊した『変態心理』誌が 挙げられます.そのなかで,小熊虎之助は Freud の「無意識」の理論を紹介しており,また,田中香涯は「変態性欲」について語っています.

ただし,わたしは,日本で最初に注目された フロィト理論は,性欲に関するものではなく,むしろ,無意識に関するものであった,という印象を 受けています.実際,川端康成は,1924年に Freud の「自由連想」に 言及しています.

次いで,1930年代に入ると,フロィト理論における「性欲」への関心が 高まってくるようです.たとえば,川端康成の『水晶幻想』(1931) には Freud への言及があり,「性欲」のテーマが濃厚です.谷崎潤一郎の『武州公秘話』(1931) には,Freud の名前こそ出てきませんが,主人公の変態性欲は 幼時期の経験の記憶にもとづいている という ストーリーは フロィト理論そのままです.そして,1950年代になると,Freud の「性欲」理論は,多くの猥褻雑誌によって 通俗的に解釈され,広く社会に流通することになります.フロィト理論は,通俗的に解釈されればされるほど,そこにおける「性」のイメージが増幅され,「フロィト = 性欲」という認識が 定型化されます.

しかし,そのような 通俗的に受容された フロィト理論における「性欲」と,Freud が 本来 論じた「性欲」とは 異なるはずです.

なぜ Freud は それほどまでに「性欲」に関心を向けたのでしょうか ? そのような彼の関心は,彼の同時代の学術的な環境(医学,心理学 等)に 条件づけられていたのでしょうか ? また,今,我々は,フロィト理論における「性欲」の問題について どう考えればよいのでしょうか?


質問 2. フロィト理論における「意識」と「心」について

Freud は,das Bewußtsein[意識]と das Unbewußte[無意識]について 論じていますが,他方で Seele[心]という語も 多用しています.意識は,脳を器官とする知覚と思考の活動ですが,心については,それが脳を器官としているとは 通常 言いません.Freud は,意識-無意識と 心とを 混同して 語っているような印象を受けます.どうなのでしょうか?


質問 3. フロィト理論の普遍性について

如何に Freud がドイツ語の単語の語源,語根,形態素にもとづく連想や演繹を利用して 彼の理論を築きあげたのかについて,彼のテクストの英訳や邦訳でも その痕跡をうかがうことができました.今 ドイツ語を知らない わたしでも,Freud の著作から ある種の文学的想像力を感じ取ることができます.

そのような 言語にもとづく思考過程は,Freud に限られたことではなく,古田裕清氏(中央大学教授)が『西洋哲学の基本概念と和語の世界』(中央経済社,2020年)のなかで 指摘しているように,古代の Platon や Aristoteles から 現代の Heidegger や Derrida に至るまで 西洋哲学において 広く見られることです.西洋哲学の諸概念は 日常生活の語彙に 根づいています.それゆえ,それらは,人々の身近にあり,日常生活から かけ離れたものとはなっていません.

ところが,そのような西洋哲学の諸概念が いったん 外国語に翻訳されると,それらが 日常生活の次元から出発して 哲学的な次元へと開花して行った過程は 捨象されてしまいます.さらには,日本語では,哲学用語は 大多数 漢語で翻訳されて,特殊な専門用語となり,一般の人々にとっては 自分とは無関係な語彙になってしまいます.中国語でも,西洋哲学の諸概念と諸用語は どれほど社会に浸透しているか,きわめて疑わしいです.極端な場合,原文を読むことができない者にとって,本来のロジックが不明であるので,翻訳された概念が わけのわからないものとなり,あるいは,外国語に起源を有する諸概念が はたして どれほどの普遍性を持つのか といった 疑問が 湧くのではないか と 思います.

西洋の言語を習得していない読者は,西洋哲学の諸概念を どのように認識し,どのように受容することができるのでしょうか ? 特に Freud に関して言えば,精神分析は,ただの哲学的な思弁ではなく,臨床的な治療行為です.精神分析家は,精神分析の臨床のなかで,個々の患者に対して,精神分析の用語や概念を どう説明し,どう活用しているのでしょうか?


以上の質問に対する回答を,馮 思途 氏 の 同意のもとに,以下に記すことにします.

回答 1. 精神分析における sexuality の問題について

まず,「フロィト理論」という言い方を やめましょう.我々にとって重要なのは,精神分析の実践そのものであって,Freud 個人 や Lacan 個人が「考え出したこと」ではありません.

Freud (1856-1939) は,1890年代に,ヒステリーの臨床経験から出発して,精神分析の実践を創始しました.そして,彼が 彼の臨床経験に関して wissenschaftlich な[学術的な,科学的な]考察をするとき,彼は 経験論的な先入観と 形而上学的な先入観から 自由ではありませんでした.彼が精神分析に関して作り上げた理論的な構築物は,かくして,そのうわべだけを見れば,今日 そのまま通用し得るものではありません.

そこで,Lacan (1901-1981) は,精神分析を純粋に基礎づけ直すことを 企てました.この場合,「純粋」とは「非経験論的 かつ 非形而上学的」ということです.その課題を遂行するために Lacan に 最も重要な手がかりを与えてくれたのが,Heidegger (1889-1976) です.Heidegger の das Denken des Seyns存在 の 思考](Heidegger は Seyn[存在]という語を バツ印で 抹消します)無しには,Lacan の 精神分析の基礎づけの作業は ほとんど不可能であったでしょう.

今 現役で活躍している ハィデガー研究の第一人者のひとり Peter Trawny (1964- ) は,Heidegger の思考 全体を,先ほども引用した表現 das Denken des Seyns を以て 定義しています.わたしは,「否定存在論」(l’ontologie apophatique) という名称を 提起しています.それは「否定神学」(la théologie apophatique) にならって わたしが作ったものです.

ですから,我々は 今 こう言うことができます:精神分析は Lacan によって 否定存在論的に 基礎づけ直された.

我々にとって「フロィト理論」は もはや歴史的なものでしかありません.

さて,なぜ Freud は ヒステリーの臨床において sexuality の問題に注目したのか ? それは,『ヒステリー研究』(1895) において 明確に示されているように,ヒステリー患者の言葉に耳を傾けることによって,Freud は,ヒステリーの病因は 性的な外傷体験の「記憶」と その Verdrängung[「抑圧」,排斥]に存する,ということに 気づいたからです.

当時,ヒステリー患者の大多数は,女性です.女性が 日常生活のなかで さまざまな機会に 性的な外傷を被り得る(身体的であれ 心理的であれ)ということは,当時も 今も かわりません.

そこから出発して,Freud は,Sexualtrieb[性本能]に関する 思弁的な構築物を 作り上げました.それは いわゆる「フロィト理論」の中心を成しています.が,それは,精神分析にとって かえって 非常に厄介な「お荷物」となりました.Lacan は,それを「厄介払い」するために,とても苦労しました.

Freud の言う Sexualtrieb[性本能]の正体は 何か ? それは,あなたも言及している Todestrieb[死の本能]です.では 両者の連関は 如何なるものか ? それを見るためには,否定存在論と そのトポロジーに 準拠する必要があります.

なぜトポロジーか ? Freud も Heidegger も Lacan も トポロジーを用いているからです(Freud 自身は,当時 まだ Topologie という数学用語が一般的ではなかったので,Topik[場所論]という用語を使っていますが).

Topologie とは,ひとつの場所
(τόπος) に関して問う 思考です.如何なる場所か ? ひとつの穴です.我々は,その穴を 存在の歴史 (die Geschichte des Seins) において 源初論的 (archéologique) なものとして 措定します.


その穴を,わたしは,否定存在論的孔穴 (le trou apophatico-ontologique) と呼びます.または,Lacan にならって,le trou du sujet $[主体 $ の 穴]と呼びます.Lacan は,この「抹消された主体」(le sujet barré) の 学素 (mathème) $ を,Heidegger の「抹消された存在」(das durchgekreuzte Sein : Sein) にもとづいて 作った,と わたしは 推測しています.


存在の歴史の 源初論的位相 (la phase archéologique) においては 口を開いていた 主体
$ の穴は,次いで,Lacan が le signifiant maître[支配者徴示素]S1 と呼ぶものによって 塞がれます.それを以て,存在の歴史の 形而上学的位相 (la phase métaphysique) が 始まります.哲学史における最初の S1 は,Platon の ἰδέα です.我々が日常生活のなかで見かける 存在事象 (das Seiendes) は 生成したり 消滅したりしますが,それに対して ἰδέα は永遠不滅であり,その意味において τὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]である,と Platon は 考えます.その後の形而上学の歴史においては,それは 単純に「存在」(das Sein) と 呼ばれることになります.「本当に存在するもの」ないし「存在としての存在」について問う 形而上学の最も根本的な分野は「存在論」(ontologie) と 呼ばれることになります.そのような「存在」の概念は 13世紀に Thomas Aquinas によって キリスト教神学のなかに取り込まれ,神の概念を形而上学化することに利用されます.

S1 が穴を塞いだことによって,主体 $ は「書かれないことをやめないもの」(ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire, what doesn’t cease not to be written) の在所へ排斥されます.「書かれないことをやめない」は Lacan による「不可能」(impossible) の定義です.S1 による $ の排斥のせいで,形而上学は $ そのものについて問うことができなくなります.

しかるに,18世紀の終わりから 19世紀の始めのころに,科学の言説と資本主義の言説の効果によって,形而上学的な「存在」による 否定存在論的孔穴の閉塞は 無効になります.なぜなら,形而上学的な「存在」は 科学にとっても 資本主義にとっても「存在」とは見なされ得ないからです.というのも,科学にとっては「存在する」とは「科学的に分析可能である」ということであり,資本主義にとっては「存在する」とは「資本の増価のために利用可能である」ということですから.

形而上学的な閉塞が無効になったことを以て,存在の歴史の 終末論的な位相 (la phase eschatologique) が 始まります.19世紀の始め以来,我々は 今も この終末論的な位相のなかにいます.

閉塞が無効になったことにより,否定存在論的孔穴は「開出」(aufgehen) してこようとします.それは,強い不安を惹起します.なぜなら,否定存在論的孔穴は,死の穴であり 無の穴であり 罪の穴であるからです.そこで,その開出に対して 強い抵抗が生じます.

その抵抗には,ふたつの側面があります.ひとつは,新たな支配者徴示素 S1 の措定により 穴を 再び 塞ごうとすることに存する抵抗;もうひとつは,客体 a の増殖により 穴を隠そうとすることに存する抵抗.新たな S1 の措定は,社会学的には さまざまなイデオロギー(民族主義,男性中心主義,等々)の構築の形を取り,また,精神病理学的には 妄想形成の形を取ります.客体 a の増殖は,経済学的には 無際限な資本増価の形をとり,また,精神病理学的には 性倒錯 や 幻覚症状の形を取ります.

精神分析は,主体 $ の穴の開出に対する抵抗を放棄させ,主体 $ の穴が 開出してこようとするがままに 開出してくることを 促すことに 存します.主体 $ の穴の開出を可能にするためには,強い不安に耐えることが必要となります.分析家の根本的な役割は,主体 $ の穴の開出の不安に耐えることができるよう 患者を支えることに存します.

Eros と Todestrieb (Thanatos) に 戻りましょう.Freud が「死の本能」(Todestrieb) と呼んだもの — 生物学的には まったく ありえないもの — の正体は,今,存在の歴史の終末論的な位相において,主体 $ の穴は 抵抗にもかかわらず おのづと開出してこようとする — 死の穴として,無の穴として,罪の穴として — という事態です.否定存在論的孔穴は thanatique[死的]な 穴です.では,なぜ その thanatique な穴 が érotique な 穴となり得るのか ? それは,phallus Φ が 穴を塞ぎ得る ひとつの S1 として 措定されることによって,穴に phallus の欠如 ( − φ ) の 穴 という 意義が付与されるからです.


それが phallus の欠如 ( − φ ) の 穴であるなら,それは phallus Φ によって塞がれ得る — そう信ずることに,Freud が Ödipuskomplex[オィディプス複合]と呼んだものは 存します.つまり,オィディプス複合の機能は,穴を前にして不安になる男の子に対して,「だいじょうぶ,おまえも,パパのようなおとなになれば,パパと同じく,phallus Φ を以て 穴を塞ぐことができるようになる.だから 不安にならなくてよい」と言って,彼を慰めることに 存します.

しかし,それは まやかしです.否定存在論的孔穴を塞ぎ得るものは 何もありません.なぜなら,その穴は 源初論的な穴であり,還元不可能な穴であるからです.それは,塞ぐことも 隠すことも 不可能な 穴です.穴を塞ぎ得るものとして 自身を措定する phallus
Φ は,ペテン師に ほかなりません.

Freud の Ödipuskomplex の 概念は,そのようなペテンで 世をだまし続ける効果を有してきました.そのペテンを暴いたのが Lacan です —「性関係は無い」(il n’y a pas de rapport sexuel) と公式化することによって.

Freud の Ödipuskomplex の 概念は,臨床的にも 分析家を誤らせるものです.Freud 自身,Ödipuskomplex にこだわることによって,勘違いを犯しています.そのことが明瞭に読み取れるのは,馬恐怖症を呈した 5 歳の 男の子 Hans の症例論文『ある 5 歳 男児の 恐怖症の分析』(1909) においてです.

元来 快活な子どもであった Hans は,あるとき,突然,「馬が ぼくの[手の]指を かじる」ことを 恐れて,外出することを嫌がるようになります — 当時,Wien の街中には 馬車が たくさん 走っていましたから.Freud は,Hans を分析する役割を,自身で引き受けるよりは,父親にまかせる方がよかろう と考えたので,Hans の父親は,Freud の指導のもとで,自分の息子の症状を分析することに なります.

ともあれ,症例論文から 我々は このことを読み取ることができます : Freud は,Ödipuskomplex の概念にこだわるあまり,Hans の馬恐怖の症状を,父親を前にしての去勢不安に帰しようとして,無理な解釈を展開している.

Ödipuskomplex を括弧に入れて 改めて症例を読むとき,我々は,この〈より単純な〉連関に気づくことができます:すなわち,馬恐怖の症状は ある日の晩に 突然 始まったのですが,その日の昼間,母に連れられて 街中を歩いていた Hans は,馬の転倒事故を目撃しているのです.重い荷車を引く 大きな馬が 転倒し,四肢をばたつかせて,大騒ぎする.その光景を見た Hans は,びっくりして,強い不安を覚えます.そして,馬の死の場面を 想像します.

馬が実際に死んでしまったのかどうかは不明ですが,ともあれ,この馬の事故の目撃が Hans に対して 外傷的に作用したことは,明らかです.すなわち,その体験は,死の穴としての否定存在論的孔穴との不意の遭遇となったのです.そして,それこそが,症状の形成を決定する因子であったのです.Hans の指をかじるかもしれない 馬の口は,死の穴としての否定存在論的孔穴の métaphore である,ということは,我々にとっては 明瞭です.

もっとも,Hans において,事故の目撃の記憶は 直後に 排斥されてしまいます — 死の不安のゆえに.Hans 自身には,事故の目撃と「馬が ぼくの指を かじる」恐怖との関連は,勿論,見えていません.事故の際に いっしょにいた 母親も,その関連に 気づきません.その事故の目撃のことが 不意に 想起されたのは,発症から 約 3ヶ月後 — 父親による分析面接が始まってから 約 1ヶ月後 — のことでした.しかし,それでも,Freud も 父親も,その関連に 気がつきません — Ödipuskomplex という 性的な因子に こだわるあまり,馬の転倒事故の目撃 — 死の穴との遭遇 — が 外傷体験として 病因的に作用した ということに 気づくことが できないのです.

いずれにせよ,Hans の 馬恐怖の症状は,発症から 約 4ヶ月後 — 父親との分析面接の開始から 約 2ヶ月後 — 解消されます — 面接中に 父親が Hans に与えた「精神分析的解釈」は Ödipuskomplex の概念にもとづく 見当外れのものでしかなかったにもかかわらず.何が有効であったのか ? それは,父親が Hans に 発症以前よりも より親密にかかわるようになった ということです —「分析面接」のために 父親は Hans の言葉に より注意深く 耳を傾けるようになり,より長時間 Hans にかまってやるようになったのですから.要するに,Hans の症状の解消を可能にしたのは,不安におののく子を支える 父の愛です.

今,もし仮に 誰かが「人が心理的に病む原因は 性 (sexuality) の『抑圧』に 存する」と主張するなら,どれほどの人が それに賛同するかは わかりません.しかし,1960-1980年代には,当時の経済的「先進国」(おもに 欧米諸国と日本)で,いわゆる「性の革命」(sexual revolution) が 起きました.それは,より自由であることを求めて,従来の社会で支配的であった〈性に関する〉禁止や抑圧を廃する 動きです.そのような動きは,多かれ少なかれ,通俗的に理解された「フロィト理論」に準拠していました.

ところで,そのような「性の革命」は,今,当時から数十年後,結局,何を もたらしたか ? さまざまな形の 性倒錯 と pornography の氾濫です.性差別(男による 女性に対する さまざまな形の 社会的 差別と抑圧)や 性暴力(男による 女性に対する さまざまな性犯罪)は,欧米においても,ある程度にしか 解消されていません.日本社会では,性倒錯,pronography, 性差別,性暴力,それら すべてが 蔓延しています.

如何に その事態を 説明するか ? 性に関する禁止や抑圧の解除は,性的な満足を もたらしはしませんでした.なぜなら,そもそも「性関係は無い」— 性的な満足を可能にするような phallus
Φ は 書かれないことをやめない — からです.性に関する禁止や抑圧の解除は,むしろ,「性関係は無い」の穴 — 否定存在論的孔穴 — を あらわにしました.そして,それに対する reaction[反動]として,無際限な〈剰余悦 [ plus-de-jouir ] a の〉増殖が 起きました(剰余悦 [ plus-de-jouir ] とは,前性器的 [ prégénital ] な 客体 a への 固着のことであり,否定存在論的孔穴を覆い隠す機能を 有しています).無際限な 剰余悦 a の 増殖 — それが,性倒錯,pornography, 性差別,性暴力の 氾濫として 現れています.性暴力や性犯罪は,女性の身体を 単なる 客体 a としてしか捉えていないことに 起因します(社会学の文脈では sexual objectification という表現が 用いられています.男が 女性を 単なる〈性欲の〉対象 として 扱うことです).

欲望に関して,精神分析の倫理は,こう規定しています:欲望に関して 譲歩するな (ne pas céder sur le désir). セミネール VII (1959-1960)『精神分析の倫理』の最後の講義で Lacan が提示した この表現は,しばしば「欲望の満足を 徹底的に 追求せよ」ということを意義しているのだ と 誤解されます.しかし,そうではありません.そうではなく,それは このことを言おうとしています :「性関係は無い」(ファロス悦 [ la jouissance phallique ] は 不可能である)かつ 前性器的な 客体 a への固着 (剰余悦 [ plus-de-joui ]) は いつわりの満足にすぎない — であれば,ファロス悦に執着することも 剰余悦への固着も 棄てて(なぜなら,それらは 欲望にとって ごまかしでしかないから),欲望の昇華 [ la sublimation du désir, sublimation of desire ] を 目ざすべきである.それが,欲望の倫理としての 精神分析の倫理です.

ファロス悦でも 剰余悦でもない 悦 としての 昇華の悦 [ la jouissance de sublimation ] — 如何に それを 規定し得るか ? それが,Lacan が 徹底的に 問うた 問題です.なぜなら,昇華の悦こそが 精神分析の終結を条件づけるものであるからです.そして,精神分析の終結に関する問いは,如何に「精神分析家である」ことを 規定するか の 問いでもあります.というのも,「精神分析家である」ということは「精神分析の経験を その終結に至るまで 経験しとおした」ということによって 条件づけられるからです.

Freud の 根本的な誤謬は,このことに存しています:彼は「性関係は可能である」と 信じていた.そのことを 我々は 彼の「性本能の発達」の 思念(性本能は 未熟な状態から 成熟した状態へ 発達する という 思いこみ)と,性本能の成熟としての「性器体制」(Genitalorganisation, l’organisation génitale) の 概念に 読み取ることが できます.

Freud の「性本能の発達」は,このことに 存します:未熟な 前性器的段階においては,複数の 部分本能 (Partialtriebe) が さまざまな 前性器的な客体に 固着している.成熟の段階に至ると,もろもろの部分本能は ファロスの優位 [ das Primat des Phallus, le primat du phallus ] のもとに 統合され,かくして 性器体制 [ Genitalorganisation, l’organisation génitale ] が 達成される.それによって,性本能は その本来の目的 — 生殖 — に 役立つことができるようになる.

そのような Freud の 考え方に,我々は,まず,生物学的な先入観を 見ることができます:まず,性本能という概念そのものが 生物学的なものです(如何に Freud が「精神分析で言う 性本能は 生物学的なものと 心理学的なものとの間の 境界概念である」と 注釈をつけようとも).そして,「性本能は 未熟な状態から 成熟した状態へ 発達する」という考えも,生物学的な思いこみです.さらに,我々は,Freud の 形而上学的な(アリストテレス的な)先入観をも 指摘することができます :「性本能の本来的な目的は 生殖に存する」という考え方は,形而上学的な目的論 (téléologie, finalisme) に ほかなりません.

それらの フロィト的な先入観を 精神分析から 一掃するのが,Lacan の 公式 :「性関係は無い」です.もう一度 述べるなら,それは このことを言っています:性器体制は不可能である,なぜなら,性器体制の可能性の条件である phallus Φ は 不可能である(書かれないことをやめない)から.

かくして,かかわっているものを「性欲」と呼ぶにせよ「性本能」と呼ぶにせよ,それは もはや 精神分析の中心的な主題ではありません.「性本能」の正体は「死の本能」です.そして,それを 我々は このように理解します:欲望の弁証法の過程において,主体 $ の 穴 は 必ず 開出してこようとする.


回答 2.「意識」と「心」について

Lacan が 精神分析を 純粋に基礎づけた 今,我々は,生物学的な先入観からも 医学的な先入観からも 心理学的な先入観からも 形而上学的な先入観からも 解放されています.と同時に,我々は,それらの領域の思念へ再び陥ることのないよう 注意しなければなりません.

確かに,Freud は,彼の 最初の Topik[場所論]において,「意識」(das Bewußtsein),「前意識」(das Vorbewußte),「無意識」(das Unbewußte) という 用語を 使いました.他方で,それらとともに,彼は,Seele[こころ]という語も 頻繁に 用いています.

まず,ドイツ語の Seele という単語は,まったく日常的な語彙に属する語であると同時に,ギリシャ語の ψυχή に由来する 用語を ドイツ語に翻訳する際に 用いられます:たとえば,Psychologie は Seelenkunde であり,Psychiatrie は Seelenheilkunde であり,Psychotherapie は Seelenbehandlung です.

ギリシャ語の ψυχή については,それが 古代ギリシャ哲学における議論 または それに由来する議論のなかで 用いられるのか 聖書的な文脈のなかで 用いられるのか によって,その意義は かなり異なるものとなりますが,今は そこには 立ち入らないでおきましょう.

他方,「意識」(das Bewußtsein) という語は,語源的には wissen[知る]と関連しています.ドイツ観念論の伝統のなかでは,das Bewußtsein は,Kant におけるように 認識論的な意味において用いられることもあり,また,Hegel におけるように 存在論的な意味において用いられることもあります.日常的なドイツ語においては,bewußt という形容詞は「...を意識している,認識している」ということを意義しています.つまり,認識論的な意味合いで用いられています.その否定である unbewußt も,認識論的な意味合いで「...に気づいていない,を自覚していない」です.

ですので,Freud が das Unbewußte を 彼の基本的な用語のひとつとしたとき,彼としては それを topisch[場所論的]に 用いているのですが,しかし,どうしても その語は 認識論的な先入観(形而上学的な先入観)から自由ではいられません.

また,同様に,Seele という語も 心理学的な先入観(経験論的な先入観)から自由ではいられません.

我々としては,精神分析を 認識論にも 心理学にも 逆戻りさせないために,むしろ,それらの語を用いないようにしています.実際,Lacan の 教えのなかにで,それらの語は 積極的には用いられていません.勿論,Freud を問い直す以上,「無意識」という語は 用いざるをえませんが,Lacan は,「無意識」を 精神分析の基礎概念として温存するのではなく,しかして,それを さまざまなしかたで捉え直すよう 努力し続けています.最も根本的には,Freud が「無意識」という名称のもとに発見したのは,我々の本有の中核に開出してこようとする否定存在論的孔穴に ほかなりません.

ですから,我々としては「意識 と 心は どう異なるのか,どう関連しあっているのか」という問いに こだわる必要はありません.そのような問いは,認識論や心理学の次元の問いであって,精神分析にかかわる問いではありません.


回答 3. 精神分析の普遍性について

精神分析は,人間が言語の構造に住まう者である限り,普遍的です — その言語が フランス語であれ ドイツ語であれ 英語であれ 中国語であれ 日本語であれ.Lacan が 精神分析をトポロジックに形式化したのは,如何に 精神分析においてかかわる構造が フランス語や日本語などの既存の各国語の言語学的な諸特徴に規定されない より根本的な構造であるか を 明確にするためです.

その構造を,わたしは,既に述べたように,「否定存在論的な構造」または「否定存在論的なトポロジー」と名づけています.もっとも,「否定存在論」(l’ontologie apophatique) という用語を使っているのは,わたしだけです.誰か ほかの人に「否定存在論」と言っても,まったく通用しません.ただ,Heidegger の Schwarze Hefte[黒ノート]を読んでいる人になら,否定存在論とは Heidegger の das Denken des Seyns のことだ,と言えば,かろうじて理解してもらえるかもしれません.

ともあれ,精神分析の臨床においても,精神分析家が否定存在論に準拠しているなら,精神分析は どの言語においても 実践可能です.

臨床においては,精神分析家は 患者に いちいち Freud や Lacan の 用語や概念を 説明したりはしません.重要なのは,患者の症状や 患者が語る夢や 患者の なにげない ひとことのなかに,主体 $ の 穴 の 開出を 捉えることです.

それは,否定存在論に準拠していれば,さして難しいことではありません.たとえば,今,少なからぬ数の人々が 自身の根本的な問題として訴える ある種の 内的な空虚感や不全感.より古典的な症状としては,先ほども挙げた Hans 少年においては 彼の指をかもうとする 馬の口.また,Freud が『夢解釈』で 最初に 詳細に分析している 彼自身の「Irma の注射の夢」では,Irma の 大きく開いた口.さらに また,以前にも述べたように,最近の文学作品を挙げるなら,村上春樹氏の『騎士団長殺し』では,最初から最後まで,否定存在論的孔穴が さまざまな形に変奏されつつ 描かれています.あなた自身も 自分の夢を 注意深く観察するなら,さまざまな形で現れてくる穴に 気づくことができるはずです — 文字どおりに ぽっかり口を開いている穴,そこから 何か あるいは 誰かが 入ってこようとする 窓やドア,あるいは,あなたを呑み込もうとする海や炎,等々.そして,Freud が 精神分析の創始期に気づいたとおり,女性に対して極めて外傷的に作用し得る〈男の 性的な欲望 という〉穴.また,男にとっては,父の機能の不全のもとで 口を開いたままである「母の欲望」(le désir de la mère) の穴
も 不安を惹起するものです.

ラカン的な精神分析は,まず,そのような穴を見定めることから 始まります.

翻訳の問題に関して言うなら,当然ながら,あなたが専門的な研究者であるなら,Heidegger や Freud を 読もうとするなら ドイツ語で読まねばならず,Lacan を 読もうとするなら フランス語で読まねばならず,Platon や Aristoteles を 読もうとするなら ギリシャ語で読まねばなりません.翻訳で読むのは 問題外です.

一般大衆に関しては,彼れらは,日常生活においては おおむね 何も思考していませんから,どれほど 哲学の語彙が 一般語彙のなかに根づいているか否かは さして重要ではありません.

問題は,為政者と知識人です.彼れらが 思考することのできる人間であるか否かに,その国のあり方は 決定的に左右されます.それは,今のドイツと日本とを比較してみれば,明瞭です.両者は ともに 第二次世界大戦の敗戦国ですが,どう戦争責任を引き受けているか,どう戦争犯罪を反省しているか,国際社会にたいして どう貢献しているかについて,両者の間には 雲泥の差があります.その差を条件づけているのは,このことです:ドイツ語は思考可能な言語であり,日本語は思考不能な言語である.

日本語が思考不能な言語である ということについては,わたしが 以前 書いたものを参照してください :



いただいた御質問に対する回答は 以上のとおりです.それは,多分,あなたが期待していたような回答ではないでしょう.ですから,さらに疑問に思われることがあれば,あらためて質問してください.

早稲田大学における あなたの研究が 実り豊かなものであるよう 祈っています.

2021年9月9日

Vous avez dit « le dernier enseignement de Lacan » ?

Jacques Lacan, né le 13 avril 1901 à Paris et mort le 9 septembre 1981 à Paris

Vous avez dit « le dernier enseignement de Lacan » ?


Quelques remarques critiques contre Jacques-Alain Miller en guise de commémoration du 40ème anniversaire de la mort de Jacques Lacan




Aujourd’hui, le 9 septembre 2021, nous commémorons le 40ème anniversaire de la mort de Jacques Lacan, ce grand refondateur de la psychanalyse.

Oui, si le fondateur de la psychanalyse est Freud, je dis que Lacan en est le refondateur. C’est que tout son enseignement est destiné à fonder la psychanalyse de façon pure, c’est-à-dire non empirique et non métaphysique, et ce pour déterminer ce qu’est l’ « être psychanalyste » (je barre le mot « être » comme Lacan barre le mot « sujet » pour inventer son mathème $ suivant l’exemple de Heidegger qui barre le mot « Sein » (être) pour écrire « Sein » [ cf. Zur Seinsfrage ] dans l’intention de « détruire l’histoire de l’ontologie » [ cf. Sein und Zeit ] ), pour autant que cet « être psychanalyste » que Lacan appelle « désir de l’analyste » est l’alpha et l’oméga de la psychanalyse, c’est-à-dire la condition de la possibilité de la psychanalyse et ce qui naîtra à la fin de l’expérience analytique.

Comme presque tous les lacaniens sérieux dans le monde qui ont, disons, moins de 70 ans aujourd’hui, j’ai tout appris de Jacques-Alain Miller en ce qui concerne comment lire Lacan. À l’époque où j’étais étudiant du troisième cycle du Département de Psychanalyse de l’Université de Paris VIII, c’est-à-dire en 1986-1988, Jacques-Alain Miller appelait sa méthodologie « à la Champollion » d’après le nom de celui qui avait réussi le premier au déchiffrage des hiéroglyphes. Et il nous montrait et démontrait comment pratiquer cette méthodologie de déchiffrage des textes lacaniens dans toutes les occasions où il nous parlait, c’est-à-dire dans ses cours, dans ses séminaires et dans ses exposés faits dans des réunions diverses. Comme c’était fascinant et convainquant !

Donc, en ce qui concerne comment lire Lacan, je me reconnais volontiers disciple fidèle de Jacques-Alain Miller. Mais, en ce qui concerne l’interprétation de l’enseignement de Lacan, je me suis écarté de lui. Pourquoi ? À cause de sa conception du « dernier enseignement de Lacan » dont il dit que cela a commencé au Séminaire XX (1972-1973) Encore.

Maintenant tout le monde parle d’après Jacques-Alain Miller du « dernier enseignement de Lacan », voire du « tout dernier enseignement de Lacan ». Mais je dis : non, cela n’est que son invention à lui.

Vous seriez certainement étonnés d’entendre une telle critique contre lui, puisque maintenant tout le monde croit que son Lacan – le Lacan présenté par Jacques-Alain Miller – est le vrai Lacan. Mais non. Je vous en donne un exemple – un exemple d’erreurs pas anodin du tout.

Dans la séance du 31 janvier 2001 de son cours intitulé « Le lieu et le lien » (2000-2001), Jacques-Alain Miller dit ceci :

Je retrouve ça, que j’avais souligné, il n’y a pas longtemps, dans Encore, chapitre VIII, page 85, la phrase qui dit que « le réel ne saurait s’inscrire que d’une impasse de la formalisation ». Cela pourrait faire croire que l’on va ailleurs par là, que l’on sort par là du symbolique. Mais, tel que je m’efforce de vous y amener pas à pas, cela veut dire tout autre chose.

Dans cette définition-là du réel qui donnerait la clé de la fin de l’analyse, le symbolique domine, le réel entendu ainsi est conditionné par la mise en forme, par la formalisation de la signifiance, par la formalisation du rapport signifiant/signifié, et la formalisation algorithmique du signifiant et du signifié.

Est-ce que cela permet de dire que l’on accède au réel par cette voie ? Est-ce que même ça permet de dire que par cette voie on accède au réel à partir du symbolique ?

Est-ce que ça ne serait pas plutôt le contraire ?

C’est là que l’on s’aperçoit que, dans Encore, dans le mouvement même où il définit le réel par l’impasse de la formalisation, Lacan dit – ce qui ne trouve sa place que maintenant – que par là « le réel accède au symbolique ». Il ne dit pas du tout que par la voie de l’impasse le symbolique accède au réel. Il dit bizarrement, parce que rien ne l’explique, que c’est bien plutôt par là que « le réel accède au symbolique ».

Vous le lirez, page 86 : « les limites, les points d’impasse, de sans-issue, qui montrent le réel accédant au symbolique ».

Eh bien, ce n’est pas la même chose que de dire que ça montre le symbolique accédant au réel. C’est déjà impliquer que ça constitue en fait une réduction symbolisante du réel.

Certes, dans le texte établi par Jacques-Alain Miller du Séminaire Encore, il est écrit à la page 86 (la séance du 20 mars 1973) : « les limites, les points d’impasse, de sans-issue, qui montrent le réel accédant au symbolique ».

Mais, dans le texte établi par le groupe Staferla, que lit-on ?

D’abord, Lacan dit que « le réel ne saurait s’inscrire d’une impasse de la formalisation » – il s’agit de la formalisation de la logique symbolique où un système propositionnel est écrit de symboles ou de signes sans aucun sens. Et puis, il compare ce système symbolique à un réseau (ce mot « réseau » est omis dans le texte millérien) et à la toile d’araignée. Un rets et une toile d’araignée, c’est une structure qui peut attraper et retenir en elle un objet de convoitise (un objet a, un ἄγαλμα). Et Lacan dit enfin que cette toile d’araignée se supporte « en ce point opaque, de cet étrange être – les par-êtres [ para-être, c’est-à-dire παρουσία ] – de la surface elle-même, celle qui nous permet le dessin qui la trace de ces écrits qui sont, enfin, le seul point où nous trouvions saisissables ces limites, ces points d’impasse, de sans-issue, qui – le réel – le font entendre comme s’accédant du symbolique à son point le plus extrême ». On peut vérifier ce que Lacan dit effectivement en écoutant l’enregistrement sonore du Séminaire Encore publié dans le site de notre ami Patrick Valas.

Ainsi Lacan nous évoque l’image d’une structure ou d’une topologie de la surface qui comporte comme son noyau une localité ex-time et ex-sistente du réel en tant qu’impossible.

Certes, cette expression de « s’accéder » est bizarre puisque ordinairement le verbe « accéder » ne prend pas de complément d’objet direct, mais néanmoins on peut entendre ce que Lacan veut dire : on peut accéder par le réseau symbolique au point le plus extrême du réel.

Ainsi, nous pouvons constater que Jacques-Alain Miller fait dire à Lacan tout le contraire de ce qu’il a effectivement dit. Et cette lecture erronée du Séminaire Encore est assez grave puisque c’est à partir de là qu’il construit sa conception du « dernier enseignement de Lacan ».

En plus, aussi dans son cours « Le lieu et le lien », Jacques-Alain Miller est allé jusqu’à dire ceci : que le réel dont il s’agit dans la topologie du nœud borroméen n’est qu’un « faux réel ».

Mais non. Il n’y a pas de « faux réel » dans l’enseignement de Lacan. Seulement il nous faut y distinguer deux définitions du réel : 

1) le réel en tant que ce qui revient toujours à la même place, c’est-à-dire ce qui ne cesse pas de s’écrire, c’est-à-dire le nécessaire ; 

2) le réel en tant que ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire, c’est-à-dire l’impossible.

Et ces deux définitions du réel trouvent leurs places dans les quatre discours : le réel en tant qu’impossible se situe dans la place de la production (en bas à droite), tandis que le réel en tant que nécessaire dans la place de l’autre (en haut à droite).

D’ailleurs, la place de l’agent (en haut à gauche) est celle de l’imaginaire en tant que consistance, et la place de la vérité (en bas à gauche) celle du symbolique en tant que trou ou différence.


Cette structure tétradique, nous pouvons la retrouver dès le premier paragraphe de la première page du premier article des Écrits de Lacan, Le séminaire sur « La Lettre volée » (p.11) :

Notre recherche nous a mené à ce point de reconnaître que l’automatisme de répétition (Wiederholungszwang) prend son principe dans ce que nous avons appelé l’insistance de la chaîne signifiante [ c’est-à-dire ce qui ne cesse pas de s’écrire ]. Cette notion elle-même, nous l’avons dégagée comme corrélative de l’ex-sistence (soit : de la place excentrique) où il nous faut situer le sujet de l’inconscient [ c’est-à-dire ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire ], si nous devons prendre au sérieux la découverte de Freud. C’est, on le sait, dans l’expérience inaugurée par la psychanalyse qu’on peut saisir par quels biais de l’imaginaire vient à s’exercer, jusqu’au plus intime de l’organisme humain, cette prise du symbolique.

C’est-à-dire la structure dont il s’agit dans l’enseignement de Lacan est tétradique, non pas triadique, comme nous le montre clairement le nœud borroméen à quatre ronds de ficelle présenté dans le Séminaire XXIII (1975-1976) Le sinthome.


Ce nœud-là consiste dans le rond du réel R (l’ex-sistence), celui du symbolique S (le trou ou la différence), celui de l’imaginaire I (la consistance) et celui du sinthome Σ (la nodalité ou la nomination) qui noue les trois autres de façon borroméenne.

L’ex-sistence est la définition que Lacan nous donne dans le Séminaire XXII (1974-1975) R.S.I. du réel en tant que ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire, c’est-à-dire l’impossible, tandis la nodalité (ce terme étant utilisé par Lacan dans le Séminaire XXI [1973-1974] Les non-dupes errent) et la nomination (ce terme étant utilisé par Lacan dans le Séminaire XXII [1974-1975] R.S.I. et dans le Séminaire XXIII [1975-1976] Le sinthome) sont les définitions du réel en tant que ce qui ne cesse pas de s’écrire, c’est-à-dire le nécessaire.

L’erreur la plus fondamentale que Jacques-Alain Miller ait commise concernant l’interprétation de l’enseignement de Lacan, c’est, me semble-t-il, sa méconnaissance de l’importance du penser de Heidegger pour Lacan.

Dans son cours intitulé La clinique lacanienne (1981-1982), Jacques-Alain Miller nous parle du point et du levier d’Archimède dont Lacan se servait pour ébranler la psychanalyse qui avait l’air d’être une théorie bien établie qu’on appelait ego psychology. Cette remarque est très juste. On peut en énumérer beaucoup : le stade du miroir (Henri Wallon), l’anthropologie et la linguistique structurales (Saussure, Lévi-Strauss et Jakobson), diverses créations artistiques de littérature et de beaux-arts, la logique mathématique, les topologies de surfaces closes et de nœud borroméen, les théologies chrétienne et judaïque (surtout la mystique et la théologie apophatique) et la philosophie, surtout Hegel et... Heidegger.

En effet, Lacan cite maintes fois le nom de Heidegger et sa terminologie (par exemple, comme nous l’avons vu, l’ex-sistence). Il l’a invité dans sa maison de campagne à Guitrancourt au mois d’août en 1955, lors de la première visite du philosophe en France pour une conférence à Cerisy-la-Salle, et il l’a visité au mois d’avril en 1975, un an avant la mort de Heidegger, à Fribourg-en-Brisgau. Que Lacan porte un grand intérêt à son Denken, cela n’est que trop évident. Et pourtant, Jacques-Alain Miller ne veut pas reconnaître ce fait-là, peut-être parce qu’il le déteste à cause de son antisémitisme qu’on a de nouveau constaté dans ses « cahiers noirs » et à cause de la tonalité fondamentale de mystique de son penser (puisque Jacques-Alain Miller veut toujours être claire).

Quoi qu’il en soit, je dirai ceci : que le point d’Archimède le plus important pour Lacan, c’est le penser de Heidegger, et ce pour fonder de façon pure la psychanalyse. Sur quoi ? Sur le trou de l’être (das durchgekreuzte Sein : Sein, Seyn) que je nomme « trou apophatico-ontologique » (l’ontologie aphophatique d’après la théologie apophatique).


Je suppose que c’est à partir du Sein (das durchgekreuzte Sein) qu’on peut trouver dans le texte de Heidegger intitulé Zur Seinsfrage [ De la question de l’être ] (1955) que Lacan a inventé son mathème du sujet barré $ que nous trouvons pour la première fois dans son Séminaire V (1957-1958) Les formations de l’inconscient.


Dans la perspective de l’ontologie apophatique, nous pouvons formuler la dialectique du sujet $ comme ceci : qu’il y avait d’abord la phase archéologique où le trou du sujet $ était ouvert ; et puis vient la phase métaphysique qui commence par l’obturation du trou du sujet $ par le signifiant maître S1 (dans l’histoire de la philosophie, le premier S1 serait l’ἰδέα platonicienne en tant que τὸ ὄντως ὄν, c’est-à-dire l’être au sens métaphysique du terme) et par le refoulement du trou du sujet $ par le S1 dans la localité de ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire ; enfin nous sommes maintenant, depuis le XIXe siècle, dans la phase eschatologique où l’obturation métaphysique du trou apophatico-ontologique se trouve annulée par les discours de la science et du capitalisme de sorte que le trou du sujet $ veut surgir comme une béance, contre lequel exercent de la résistance véhémente un essaim de S1 qui ne cesse pas de vouloir obturer le trou et le plus-de-jouir d’objets a qui ne cessent pas de s’écrire au bord du trou pour le dissimuler.

Le trou fondamental du sujet $, nous pouvons le retrouver dans le hiatus irrationalis dont Fichte traite dans les cours qu’il a faits en 1804-1805 de l’épistémologie (Wissenschaftslehre) et dont Lacan se sert pour le titre d’un poème qu’il a composé en 1929, et aussi bien dans ce que Hegel appelle dans sa Phénoménologie de l’esprit (1807) Trennung des Wissens und der Wahrheit (la séparation du savoir et de la vérité), laquelle expression Lacan reprend sous la forme de « division entre le savoir et la vérité » (Écrits, p.856). Si nous situons le hiatus irrationalis dans le schéma de l’aliénation que Lacan nous présente dans le Séminaire XIII (1965-1966) L’objet de la psychanalyse, ce serait comme ceci :


Dans cette structure de l’aliénation, l’objet a forme le bord du hiatus irrationalis (le trou apophatico-ontologique), ce qui nous permet de dire, comme Lacan le fait, que l’objet a se présente lui-même comme un trou.

À propos, le lecteur est invité de ne pas confondre la localité de la vérité dans ce schéma de l’aliénation avec la place de la vérité dans les quatre discours. Dans ce schéma-là, Lacan appelle vérité le réel en tant que ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire, tandis que la place de la vérité dans les quatre discours est la place de quelque chose d’idéal et d’a priori qui obture le trou apophatico-ontologique, c’est-à-dire qu’elle est la place du signifiant maître S1 dans ce schéma de l’aliénation.

Alors, la psychanalyse consiste à aider et faire avancer la transformation de la structure du discours de l’université en celle du discours de l’analyste en faisant renoncer à la jouissance phallique Φ et au plus-de-jouir a.


Par cette transformation, le sujet $ qui est refoulé par le signifiant maître S1 dans la place de ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire (l’impossible) va surgir dans la place de ce qui ne cesse par de s’écrire (le nécessaire), tandis que le signifiant maître S1 à la place de la vérité va être forclos de là dans la place de ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire (l’impossible).

Et cette transformation structurale correspond à la transformation de la structure de l’aliénation en celle de la séparation.


Nous pouvons voir là le sujet $ surgir comme un trou béant dans la structure de la séparation qui correspond à la structure du discours de l’analyste. C’est-à-dire : le trou du sujet $ qui est refoulé dans la place de l’impossible par le signifiant maître S1 qui a obturé le trou apophatico-ontologique, va surgir dans la place du bord du trou (la place de l’autre dans les quatre discours), ce qui nous permet de dire, tout comme au sujet du a dans la place de l’autre dans le discours de l’université, que le sujet $ se présente comme un trou béant.

Et Lacan avance encore d’un pas de plus pour formaliser l’amour en tant que sublimation du désir (cf. Séminaire X [1962-1963] L’angoisse) et en tant que c’est l’amour-sublimation qui détermine la fin de l’analyse.

Comme on le sait, le modèle de l’amour-sublimation pour Lacan, c’est toujours l’amour courtois qui se noue à la place du non-rapport sexuel entre le chevalier et la Dame.

Le trou du sujet $ qui vient béer dans la structure de la séparation, n’est pas encore le signe de l’amour-sublimation. Si l’amour est ce qui supplée au non-rapport sexuel (cf. la séance du 16 janvier 1973 du Séminaire XX Encore), l’amour-sublimation devrait être l’amour-nodalité qui supplée au trou du non-rapport.

Alors, qu’est-ce que Lacan fait dans ses tout derniers Séminaires, c’est-à-dire le Séminaire XXIV (1976-1977) L’insu que sait de l’une-bévue s’aile à mourre et le Séminaire XXV (1977-1978) Le moment de conclure ?

Notons ceci : que le titre du Séminaire XXIV composé de fragments de lalangue veut dire que « l’insuccès de l’Unbewusst c’est l’amour », c’est-à-dire que « l’insuccès de l’inconscient c’est l’amour » (donc c’est le seul de tous ses Séminaires qui comporte dans son titre, quoique d’une façon déguisée, le mot amour) et que le Séminaire XXV est celui qui conclut le précédent.

Qu’est-ce que « l’insuccès de l’inconscient » ? Si nous nous demandons, en revanche, ce que serait « le succès de l’inconscient », ce serait la jouissance du rapport sexuel pour autant que ce que Lacan appelle « rapport sexuel » est l’organisation génitale que Freud suppose réalisable dans le stade de maturation pulsionnelle sous le primat du phallus Φ. Donc « l’insuccès de l’inconscient » veut dire qu’ « il n’y a pas de rapport sexuel ».

Alors, comment pourrait-on atteindre, à partir de l’insuccès de l’inconscient, c’est-à-dire à partir du trou du non-rapport sexuel, à l’amour en tant que sublimation du désir, c’est-à-dire l’amour en tant que nodalité qui suppléerait au trou du non-rapport sexuel ? Et comment formaliser tout cela de façon topologique ? C’est ce que Lacan se demande dans ses tout derniers Séminaires.

Et la conclusion en est ceci : que le nœud de trèfle que Lacan est arrivé à obtenir à partir du bord de la bande de Möbius (c’est-à-dire le trou du sujet $) dans les dernières trois séances du Séminaire XXV, c’est le signe de l’amour-nodalité en tant que « le signifiant nouveau qui n’aurait aucune espèce de sens » qu’il cherche à obtenir dans la dernière séance du Séminaire XXIV. Si Lacan dit dans la première séance de son Séminaire Encore que « la jouissance de l’Autre – du corps de l’Autre qui Le symbolise – n’est pas le signe de l’amour » (cf. la séance du 21 novembre 1972), le nœud de trèfle qu’il redécouvre comme ce qui supplée au trou du non-rapport sexuel, c’est le signe de l’amour-sublimation-nodalité.


Si l’on appelle « dernier enseignement de Lacan » son enseignement de ces six années entre le Séminaire XX et le Séminaire XXV (pour le moment, je n’y inclus pas le Séminaire XXVI [1978-1979] La topologie et le temps, puisque Lacan n’a pas pu le faire comme il aurait voulu le faire à cause de son mauvais état de santé ; j’imagine qu’il aurait souhaité le dédier à Heidegger parce que le titre « La topologie et le temps » nous rappelle celui de « Sein und Zeit » par l’intermédiaire du terme heideggérien « Topologie des Seins »), je dirai que le thème central en est l’amour-sublimation-nodalité qui supplée au trou du non-rapport sexuel pour autant que c’est cet amour-là qui détermine la fin de l’analyse. Ce nœud de trèfle du sujet $, c’est la formalisation de de l’ « être psychanalyste ».

Voilà comment je lis Lacan pour le moment.

Pour terminer le présent article, j’y ajouterai une autre remarque critique contre Jacques-Alain Miller à partir de la conférence Habeas corpus qu’il a faite à Rio de Janeiro, le 28 avril 2016, lors de la clôture du dixième congrès de l’Association Mondiale de Psychanalyse. Dans cette conférence de trentaine de minutes, nous pouvons voir une sorte de synthèse finale de l’interprétation de l’enseignement de Lacan par Jacques-Alain Miller, puisqu’elle a été faite 5 ans après l’arrêt de L’Orientation lacanienne, ce cours magistral qu’il faisait à partir de l’année académique 1981-1982 jusqu’à l’année 2010-2011.

En résumé, il dit ceci : Le dernier enseignement de Lacan se caractérise par le « corps parlant » (cf. des mots que Lacan a énoncés à la fin de la séance du 15 mai 1973) à la différence de son enseignement avant le Séminaire Encore, lequel se caractérise par la proposition qui se trouve dans le texte imprimé sur la quatrième page de la couverture des Écrits : « l’inconscient relève du logique pur, autrement dit du signifiant ». Cette proposition réduit l’être parlant au sujet $ qui n’a pas de corps physique. Par contre, le dernier enseignement de Lacan repose sur cette thèse implicite : « l’inconscient relève du corps parlant ». Par là, le binarisme de l’inconscient et de la pulsion qu’impliquait son enseignement antérieur – la séparation de la technique de déchiffrement de l’inconscient et de la théorie des pulsions – disparaît dans son dernier enseignement.

Alors, voyons comment l’interprétation de l’enseignement de Lacan par Jacques-Alain Miller est fausse.

D’abord, que veut dire « le logique pur » dans la proposition : « l’inconscient relève du logique pur, autrement dit du signifiant » ? Jacques-Alain Miller y voit automatiquement la logique formelle. Mais Lacan dit « le logique pur », non pas « la logique pure ».

J’y vois une allusion à l’article de Heidegger Logos (1951) que Lacan a lui-même traduit en français. Il l’a fait avant tous les autres heideggériens. Et il publie sa traduction du Logos dans le volume I de La Psychanalyse (1956) avec son Rapport de Rome où se trouve aussi une référence explicite à Heidegger au sujet de la mort.

Dans son article Logos, Heidegger interprète le fragment B50 d’Héraclite :

οὐκ ἐμοῦ ἀλλὰ τοῦ Λόγου ἀκούσαντας
ὁμολογεῖν σοφόν ἐστιν Ἓν Πάντα.

Ici, puisque nous n’avons pas besoin de détailler cet article dans son ensemble, j’en cite seulement un passage (GA 7, pp.225-226) :

Der Λόγος legt ins Anwesen vor und legt das Anwesendes ins Anwesen nieder, d.h. zurück. An-wesen besagt jedoch : hervorgekommen im Unverborgenen währen. insofern der Λόγος das Vorliegende als ein solches vorliegen läßt, entbirgt er das Anwesende in sein Anwesen. Das Entbergen aber ist die Ἀλήθεια. Diese und der Λόγος sind das Selbe. Das λέγειν läßt ἀλήθεια, Unverborgenes als solches vorliegen. Alles Entbergen enthebt Anwesendes der Verborgenheit. Das Entbergen braucht die Verborgenheit. Die Ἀ-Λήθεια ruht in der Λήθη, schöpft aus dieser, legt vor, was durch diese hinterlegt bleibt. Der Λόγος ist in sich zumal ein Entbergen und Verbergen. Er ist die Ἀλήθεια. Die Unverborgenheit braucht die Verborgenheit, die Λήθη, als ihre Rücklage, aus der das Entbergen gleichsam schöpft. Der Λόγος, die lesende Lege, hat in sich den entbergend-bergenden Charakter.

La traduction faite par Lacan :

Le Λόγος promeut dans l’être de la présence, et reposant aussi ce qui est présent dans l’être de la présence, il l’y reconduit. S’ap-présenter veut dire pourtant : une fois surgi durer dans le dévoilement. Pour autant que le Λόγος laisse se présenter ce qui se présente comme tel, il révèle ce qui est présent dans l’être de sa présence. Mais le fait de révéler est l’Ἀλήθεια. Celle-ci et le Λόγος sont la même chose. Le λέγειν laisse se présenter ἀλήθεια, ce qui est dévoilé comme tel. Tout ce qui est de révéler délivre ce qui est présent du voilement. Le fait de révéler a besoin du voilement. L’Ἀ-Λήθεια repose dans la Λήθη, puise en elle, produit ce qui par son travers est relégué. Le Λόγος est en soi à la fois une révélation et un recel. Il est l’Ἀλήθεια. Le dévoilement a besoin du voilement, la Λήθη, comme de la réserve dans laquelle la révélation puisse en quelque sorte puiser. Le Λόγος, le lais où se lit ce qui s’élit, a en soi le caractère de ce qui sauvegarde en révélant.

Heidegger voit donc dans le Λόγος héraclitien la structure phénoménologique de la vérité qui, en tant qu’Ἀ-Λήθεια, à la fois se révèle et se recèle, et qui se révèle à partir du recel.



Nous voyons là la transformation de la structure de l’aliénation (la structure du discours de l’université) en celle de la séparation (celle du discours de l’analyste) où le trou du sujet $ se révèle (entbergen) en surgissant (aufgehen) de la localité cachée (la localité de Verborgenheit, voilement) de ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire (l’impossible) dans la localité nodale (le bord du trou apophatico-ontologique, la localité d’Unverborgenheit, dévoilement) de ce qui ne cesse pas de s’écrire (le nécessaire). Et le trou du sujet $ qui maintenant ne cesse pas de s’écrire, recèle, en le révélant, le signifiant maître (le Nom-du-Père, le Nom de Dieu) S1 qui maintenant ne cesse pas de ne pas s’écrire (l’impossible).

C’est là la structure phénoménologique de la vérité, et c’est là ce que veut dire « le logique pur » en tant que ce qui se rapporte au Λόγος héraclitien.

Et quand Lacan dit que « l’inconscient relève du logique pur, autrement dit du signifiant », ce signifiant n’est rien d’autre que le Λόγος héraclitien, c’est-à-dire le trou du sujet $ qui enfin se révèle désaliéné.

Si Freud dit que le noyau de notre être consiste dans le désir inconscient, cela veut dire, du point de vue topologique, que l’inconscient est le trou archéologique et irréductible du sujet $ qui bée au centre de notre existence, et que le désir inconscient est ce trou du sujet $ même.

Dans la dialectique du désir, le trou du sujet-désir $ est obturé par le signifiant maître S1 qui par là le refoule (Urverdrängung, archirefoulement) dans la localité de ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire.

Cette structure où le signifiant S
1 (le surmoi) représente le sujet-désir $ (le ça) pour l’autre signifiant S2 (le moi), c’est la structure de l’aliénation, puisque le sujet-désir $ est à la fois représenté et dominé par le désir de l’Autre S1 qui lui impose son impératif catégorique : « Jouis ! ».

L’éthique de la psychanalyse consiste alors dans la désaliénation du sujet-désir $ par la renonciation de la croyance à la jouissance phallique Φ et de la fixation au plus-de-jouir a, laquelle amène le trou du sujet-désir $ à surgir comme une béance, dégagé de l’obturation par le phallus Φ et de la dissimulation par l’objet a. Dans ce surgissement béant du trou du sujet-désir $ consiste la jouissance de sublimation qui détermine la fin de l’analyse. Mais, comme nous l’avons vu, Lacan y ajoute encore un pas de plus qui consiste dans la suppléance du trou du non-rapport sexuel par le nœud de trèfle en tant que signe de l’amour-sublimation.

Passons au deuxième problème : le corps. Jacques-Alain Miller appelle notre attention sur la dernière phrase de Lacan dans la séance du 15 mai 1973 : « Le réel, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient ». C’est de là que Jacques-Alain Miller déduit que le dernier enseignement de Lacan implique cette thèse : « l’inconscient relève du corps parlant ».

Mais sur quoi Lacan met-il l’accent dans cette phrase : « Le réel, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient » ? Ce n’est pas le mot « corps », mais bien le mot deux fois répété : « mystère ». Le réel est le mystère pour autant qu’il ne cesse pas de ne pas s’écrire. C’est le mystère de La femme (das Ewig-Weibliche de Goethe) qui ne cesse pas de ne pas s’écrire. Et c’est le mystère du Nom de Dieu qui ne cesse pas de ne pas s’écrire.

Et pour quelle raison Lacan parle-t-il du corps dans cette séance-là ? C’est pour parler de la reproduction, c’est-à-dire de la procréation, et ce pour critiquer la supposition métaphysique et téléologique de Freud qui croit que la finalité de la pulsion sexuelle consiste dans la reproduction.

C’est précisément pour critiquer cette supposition téléologique de Freud que Lacan formule qu’il n’y a pas de rapport sexuel. Et nous pouvons retrouver cette critique déjà dans son Rapport de Rome sous cette expression : « la mythologie de la maturation instinctuelle » (Écrits, p.263). C’est-à-dire, la maturation de la pulsion sexuelle que Freud appelle « organisation génitale » et dont il suppose qu’elle se réaliserait sous le primat du phallus, cela n’est qu’une mythologie qui dissimule l’impossibilité de ce phallus. En fait, ce phallus sous le primat duquel se réaliseraient l’organisation génitale et la jouissance sexuelle en tant que jouissance génitale, il ne cesse pas de ne pas s’écrire. Et c’est ce que veut dire la formule : « il n’y a pas de rapport sexuel ».

Il est exceptionnel que Lacan parle du corps dans le contexte de la reproduction. Quand nous trouvons le mot « corps » dans son enseignement, c’est plus généralement le corps en tant que consistance, c’est-à-dire l’imaginaire. Si l’on peut dire que « l’inconscient relève du corps parlant », c’est pour autant que la consistance du corps parlant fait consister l’inconscient en tant que trou du sujet $.

Le troisième problème : le binarisme de l’inconscient et de la pulsion – la séparation de la technique de déchiffrement de l’inconscient et de la théorie des pulsions – que Jacques-Alain Miller croit pouvoir détecter dans l’enseignement de Lacan avant son Séminaire Encore.

Pour le croire, Jacques-Alain Miller s’appuie sur cette phrase de Lacan dans son Rapport de Rome : « la désintrication entre la technique de déchiffrage de l’inconscient et la théorie des instincts, voire des pulsions, va de soi » (Écrits, p.261).

Mais si nous relisons plus attentivement cette partie du Rapport de Rome, nous nous apercevons que Lacan parle dans cette phrase-là des instincts et des pulsions en tant qu’ils sont biologiques. Et cela aboutit à cette critique que j’ai citée plus haut : « la mythologie de la maturation instinctuelle ».

Ce que Jacques-Alain Miller ignore dans son exposé de Rio de Janeiro, c’est le fait que dans l’enseignement de Lacan, la pulsion dont il s’agit le plus fondamentalement, c’est la pulsion de mort impensable dans la perspective biologique, et que, si la pulsion dans la psychanalyse n’est rien d’autre que la pulsion de mort, la jouissance qui détermine la fin de l’analyse (oui, il faut une jouissance pour sortir du glissement métonymique du désir insatisfait) ne peut être que la jouissance de sublimation, c’est-à-dire la jouissance sans la satisfaction de la pulsion de mort comme telle.

Ce que Freud appelle « pulsion de mort » consiste en ceci : quand on cherche la jouissance sexuelle, on rencontre inévitablement le trou du non-rapport sexuel, lequel trou n’est pas érotique du tout, mais thanatique, angoissant et traumatique. Si l’on croit que ce trou est érotique, c’est pour autant que la supposition du phallus Φ lui donne la signification du phallus ( − φ ) et que par là l’on croit que le trou du manque phallique ( − φ ) peut être obturé par le phallus Φ. Mais cela n’est qu’une illusion, et même un délire.


Ainsi, le binarisme de l’inconscient et de la pulsion dans l’enseignement de Lacan avant son Séminaire
Encore n’est qu’une invention de Jacques-Alain Miller. On ne peut pas parler d’un tel binarisme dans l’enseignement de Lacan, et donc il n’y a pas lieu de parler de la résolution du binarisme dans son dernier enseignement.

Enfin le quatrième problème : le statut de l’objet a. Jacques-Alain Miller s’étonne quand Lacan dit dans son Séminaire Encore que le petit a est un semblant, puisque pour Jacques-Alain Miller l’objet a devrait être toujours ce que Lacan dit dans son Séminaire XIII (1965-1966) L'objet de la psychanalyse : « a est de l’ordre du réel » (la séance du 5 janvier 1966).

Mais voyons la position du petit a dans la figure du nœud borroméen à trois ronds de ficelle que Lacan nous présente dans son Séminaire XXII (1974-1975) R.S.I. :


La position du petit
a dans l’intersection centrale du symbolique, de l’imaginaire et du réel nous indique que le petit a est à la fois le trou, le semblant et ce qui ne cesse pas de s’écrire, et ce dans la structure de l’aliénation.


Dans la structure de l’aliénation, le petit a se présente d’abord comme un trou pour autant qu’il forme le bord du trou (le hiatus irrationalis) par où ex-siste le sujet-désir $. Et puis, il ne cesse pas de s’écrire (Wiederholungszwang) en tant que plus-de-jouir qui ne peut que glisser métonymiquement par rapport au sujet-désir $. Enfin il a la consistance de l’objet-cause imaginaire et matériel qui supporte l’ex-sistence du sujet-désir $.

C’est toujours comme cela que Lacan nous présente le petit a dans son enseignement.

Est-ce que vous voulez encore parler du « dernier enseignement de Lacan » tel qu'il nous est présenté par Jacques-Alain Miller, malgré tout ce que je vous ai fait remarquer dans le présent article ?

Aujourd’hui, au 40ème anniversaire de sa mort, ce qu’il nous faut, n'est-ce pas le retour à Lacan par la critique du Lacan déformé par Jacques-Alain Miller ? Sans cela, le destin de la psychanalyse lacanienne risquerait d’être pareil à celui de l’ego-psychology que Lacan a tant critiquée pour fonder la psychanalyse de façon pure, c’est-à-dire non empirique et non métaphysique.