William Brassey Hole (1846-1917) : Jesus and Zacchaeus
救済に関する神の意志と必然性 そして 無償の救済に対して如何に感謝するか
2月23日 金曜日の「今日のイェスのことば」の説教で,Raniero
Cantalamessa 枢機卿は,ルカ福音書で物語られている 徴税人の長 ザアカイの エピソード
(19,01-10) から,v.05 の イェスのことばを取り上げ,それを イタリア語で こう表言していた:
Voglio venire a casa tua.わたしは あなたの家に 来たい.
つまり,そこには イェスの意志が 表現されている.それは,Cantalamessa 枢機卿の 解釈 — のちほど見るように,まったく正当な 解釈 — である.
しかし,原文では,そこにおいて表現されているのは,イェスの意志ではなく,ひとつの必然性である:
Ζακχαῖε, σπεύσας κατάβηθι, σήμερον γὰρ ἐν τῷ οἴκῳ σου δεῖ με μεῖναι.ザアカイよ,急いで降りてきなさい;なぜなら このゆえに:今日 わたしがあなたの家に滞在することは,必然的である.
その文におけるギリシャ語の δεῖ の意義は,フランス語の il faut[…でなければならない,…は 必要である,必然的である]の意義と ぴったり 重なりあう.
では,なぜ その日にイェスがザアカイの家に滞在することは 必然的であるのか? それは,父なる神がそう欲するからである;それが 神の意志 (θέλημα, voluntas) だからである.
そして,イェスの意志は 父の意志であるから,父の意志による必然性は イェスの意志による必然性でもある.その限りにおいて,イェスが「わたしがあなたの家に滞在することは 必然的である」と言うとき,それは「わたしは あなたの家に 滞在したい」にもとづいている.そして,それゆえ,Cantalamessa 枢機卿の解釈は まったく正当なものである.
ところで,既成の邦訳聖書では,そのイェスのことばは どう訳されているだろうか?
今日 わたしは あなたのところに泊まるつもりだ(フランシスコ会訳).今日は,ぜひ あなたの家に泊まりたい(新共同訳).今日は,あなたの家に泊まることにしている(聖書協会共同訳).わたしは 今日 あなたの家に留まらねばならない(新約聖書翻訳委員会訳,岩波書店版).
残念ながら,その節に関して注を付してくれている邦訳聖書は 皆無である — 本当は,このような訳注が欲しいところであるが:
原文における必然性は 神の意志を表しており,そして,神の意志は イェスの意志である.
もし そのような訳注が付されていたならば,新共同訳の「是非 あなたの家に泊まりたい」は,Cantalamessa 枢機卿の解釈とも一致する たいへん よい訳だ と言えるだろう.
そして,もし イェスが 罪人であるザアカイに「わたしは 是非 あなたの家に 泊まりたい」と言ったのであれば,彼は 罪人である我々にも「わたしは 是非 あなたのうちに 入ってきたい」と 欲している — eucharistia のかたちにおいて.それゆえ,我々も,「喜んで彼を迎えた」ザアカイ (cf. Lc 19,06) のように,キリストのからだを喜んで受け取り,彼に 我々のうちに 入ってもらう.
ところで,何のために イェスは ザアカイの家に — そして 我々のうちに — 入りたい と 欲しているのだろうか? 神の意志は 根本的に言って 何に存するのか?
残念ながら,日本人クリスチャンたちの大多数は このことに気づき得ないだろう:我々が「主の祈り」において「みこころ[あるいは みむね]が 天に行われるとおり 地にも 行われますように」と 祈るとき,我々は 実は「神の意志の〈地上における〉実現」を願っているのである.そのことを日本語訳の「主の祈り」から読み取ることは ほぼ不可能であるが,原文のギリシャ語 (γενηθήτω τὸ θέλημά σου ὡς ἐν
οὐρανῷ καὶ ἐπὶ γῆς) や ラテン語訳 (fiat voluntas
tua sicut in caelo et in terra) や 英訳 (thy will be done on earth as it is in heaven) 等においては,そのことは まったく明瞭である:
あなたの意志 (θέλημά σου, voluntas tua, thy will) が 成起しますように — 天におけるごとく,地においても.
では,そのとき かかわっている 神の意志は 如何なるものか?
その答えは『カトリック教会のカテキズム』の「主の祈り」の説明 (#2822) に 明確に 提示されている:
我らの父の意志は これである:「すべての人間たちが 救われること;そして,真理を識るに至ること」(1 Tm 2,03-04).
そして,実際,イェスの「わたしは あなたの家に 来たい」という意志によって,ザアカイにおいて,彼自身がまったく予期していなかったことが 成起する:すなわち,彼は,不意に 回心し (cf. v.08), 救済される — イェスがこう宣言しているように (v.09) :
今日,救済が この家に 成起した — なぜなら,彼[ザアカイ]も また アブラハムの息子であるから.
主の意志にしたがって キリストを我々のうちに迎え入れることによって,我々は,回心し,そして 救済される — それは まさに eucharistia の 秘跡の 意義の ひとつである.
そして,その前提条件は,キリストの 十字架上での死と 死者たちのなかからの復活である.神の意志 — それは すべての人間たちの救済に 存する — は,十字架上で 成就されている.実際,ヨハネ福音書 (19,28-30) において こう述べられている:
[十字架上で]イェスは〈書 (Tanakh) が成就されるために すべてが既に成し遂げられた (ἤδη πάντα τετέλεσται) ということを〉知って […], こう言った:成し遂げられた (τετέλεσται).
そして,『カテキズム』(#2824)
は,こう述べている:
キリストにおいて,そして,彼の人間的意志によって,父の意志は 完璧に かつ 決定的に[取り消し不可能な様態において]成就された.
つまり,そこに父の意志が存するところの〈すべての人間たちの〉救済は,イェスの受難と復活によって 既に 実現している(それゆえ,我々は その善き知らせ — 福音 — を 宣べ伝えたい と思う).
しかし,如何にして そのようなことが 実現し得たのか ? このことによって:救済は,新約においては,旧約におけるように 我々が律法を完璧に実行することによって 得られるのではなく,しかして,神が 無償で(たとえ 人間が何もしなくても)すべての人間を — 我々すべてを — 救済してくれたのだ — 神が 神自身の息子を 神自身に いけにえとして 献げたことにより.それが,イェスがもたらした 救済論の革命である.
神に献げるいけにえを神自身が用意する —
そのことは〈アブラハムが 神の命令に応じて 彼のひとり息子イサクを いけにえとして 神に献げようとする 創世記 22 章において〉予告されている — そこにおいて,アブラハムは そうと知らずに こう預言する (cf. v.08) :
神は,彼自身のために,焼尽のための羊を 用意するだろう.
そして,実際,神は,アブラハムが彼の息子イサクを屠るのを 中止させつつ,一頭の雄羊を 彼に 提供する — それを焼尽として献げさせるために (cf. v.13).
神が みづから 彼のひとり息子 イェスを いけにえとして 彼自身に 献げた;そして,それによって 我々は 皆 無償で 救済された — そのことを知ったとき,我々は どうするか? 勿論,神に感謝しないではいられない.では,どのように感謝するか? 彼にいけにえを献げるか? それは もはや無用である.しかも,神は こう言っている (Hs 6,06
; Mt 913 ; 12,07) :
わたしは 愛 [ חֶסֶד , ἔλεος, caritas, misericordia ] を 欲する — いけにえではなく.
それゆえ,我々は 愛を以て 神に感謝する — それが 感謝の祭儀である.そして,それだけでなく,隣人愛によっても 神に感謝する;なぜなら,我々は,隣人に対して愛のおこないを成すとき,実は 神に対して愛のおこないを成しているのだから:
Amen, わたしは あなたたちに言う:あなたたちは,わが最も小さき兄弟たちのひとりに[隣人愛のおこないを]成したとき,そのつど,わたしにそれを成したのだ (Mt 25,40).