2018年10月20日から11月03日まで,Roid Works Gallery で,「常世の庭」(Garden of Eternity, Jardin de l'éternité) の題のもとに,陶芸家,彫刻家の 村上仁美 氏の個展が,行われた.そこにおいて,彼女の新たな作品12点(カタログに収録されたものとしては)と,小さな壁掛け作品 3, 4 点を見ることができ,御本人と初めて直接会うこともできた.また,90分間ほどのインタヴューにも応じていただいた.さらに,彼女が昨年03月に愛知県立芸術大学大学院美術研究科彫刻領域の修士課程を修了するために提出した修士論文を見せていただき,それをわたしの blog に掲載することも許可していただいた.村上仁美氏への謝意をこの場で表明しておきたい.
以前に「Habemus artificem — 村上仁美氏の作品との出会い」においても書いたように,わたしが村上仁美氏の作品と初めて出会ったのは,今年の 2 月,渋谷の Bunkamura でだった.上の映画館で何か見たあと,1 階のギャラリーの前をとおりかかると,「ブレイク前夜」と題して,幾人かの若い芸術家たちの展覧会が行われていた.その日は休日で,特に用事もなかったので,ぶらりと入ってみた — まったく偶然に.すると,すぐさま,あの「根の国」に出くわし,驚嘆した.その場には,背中に大きなクモが無気味に張りついていながら,うずくまって微笑している少女の像 :「明るい絶望」も展示されていた.これはただものではない,と感じた.
さらに,その場では,「ブレイク前夜」展に出品する作家を紹介する短いビデオのなかで語っている彼女を見ることもできた.もし仮に草間彌生氏のような外見の人であったなら,さもありなんと納得したかもしれない.しかし,まったく逆に,一見,まがまがしさとは全然無縁であるかのように見える若い女性があの二点の作者であることを知って,わたしは二度驚いた.
次いで,3 月に,銀座洋協ホールで行われた Field of Now 2018 という合同展覧会で,彼女の作品をさらに何点か見ることができた.
わたしは,みづから芸術的創作を行う者ではない.芸術に関してはもっぱら享受者である — 美術にせよ,文学にせよ,音楽にせよ,演劇にせよ.芸術に関して専門的な教育を受けたこともない — 美学にせよ,テクニックにせよ,歴史にせよ.
それでも,わたしが以下に村上仁美氏の作品について語るとすれば,それは,わたしと同様に芸術に関して非専門家でありながらも芸術作品について論じた Freud や Heidegger や Lacan にならってである.
あらゆる分野でまがいものがまかりとおる日本でときおり見かけることだが,精神分析家ではない者 — つまり,みづから教育分析を受けたこともなく,みづから精神分析の臨床をしてもおらず,精神分析の理論を体系的に学んだこともない者 — が「... の精神分析」と題して文章を書くことがある.彼れらは,できあいの「精神分析理論」と「精神分析用語」を「応用」して,何らかの所与の現象や事象についてわかったようなことをもっともらしく語り,それによって何やら「文化的」に有意義なことを言ったつもりになっている.
それは,精神分析家が極めて少なく,精神分析の臨床がごく希にしか行われていない日本であればこそ,通用する事態である.精神分析が社会に根づいているフランスなどの国々では,精神分析家でない者が「... の精神分析」について語ることがあるとすれば,それは,ふざけたパロディとしてでしかない.
では,精神分析家である Freud や Lacan が芸術作品を取り上げるとき,何を彼らはしているか?それは,本来,臨床的なものである精神分析の理論から出発し,或る非臨床的な事象を対象として,後者を「分析」するために前者を応用する,というようなことではまったくない.そうではなく,彼らは,逆に,芸術作品から出発して,精神分析の臨床において問題となることがら — 特に,精神分析の終結における欲望の昇華の可能性 — について思考する.というのも,creatio ex nihilo としての芸術的創造は存在の真理の現出としての昇華を包含していると予期されるからである.
現代の最も偉大な哲人 Heidegger も,然り.彼は,芸術作品から出発して,存在に関する問いを問いなおし,存在の真理とその朗開 (Lichtung) について思考し続けているのであって,彼の「存在論」にもとづいて芸術作品や芸術家の「現存在分析」を行っているのではまったくない.
つまり,Freud も Heidegger も Lacan も,「わたしの理論は芸術作品と芸術家を測るものさしである」などと傲慢に思い込んではいない —「... の精神分析」と題された文章を書くために精神分析「理論」を道具として応用しようとする者たちとは異なり.そうではなく,逆に,芸術的創造の神秘から出発して,そのまわりを回りつつ,存在の神秘について問い,昇華 (sublimation) ないし朗開 (Lichtung) の可能性について思考し続ける — それが,芸術作品を前にして,Freud と Heidegger と Lacan が行っていることである.
もうひとつ,本論に入る前に注釈を付しておかねばならないことがある.存命中の — しかも,まだとても若い — 村上仁美氏と彼女の作品について論ずるとき,それが彼女の創作活動の妨げになってはならない.
悪しき前例がある : 1952年に Sartre が当時41歳の Jean Genet について大仰に論じた著作を出版した後,Genet は数年間,新たな創作に取りかかる気になれなかった.
村上仁美氏の作品を愛し,高く評価する者のひとりとして,わたしは,彼女が芸術的創造を行う者として活躍し続けて行くことができるよう,心から祈るだけである.
さて,昨今,美術業界でもてはやされている村上隆氏や Jeff Koons 氏の作品が,現代芸術の領域全般において問われてきた根源的な問題 — 創造と破壊,美と醜,快と不快,生と死,存在と無,等々 — を問うことが惹起する実存的な不安を否認し,そのような真摯な問いを問う試みをちゃかすことによって,大衆心理 — ひたすら不安から目をそむけようとする大衆の傾向 — に迎合する「大衆主義」(populism) の作品であるとするなら,村上仁美氏の作品は,彼ら — 今や pop art の巨匠と見なされている村上隆氏や Jeff Koons 氏 — の作品の対極に位置づけられるだろう.
商業的に大成功した彼らの巨大な作品の傲慢さに対して,比較的小さな作品にあのただならぬ気配を宿らせる村上仁美氏(彼女自身,小柄である)の勇気を対置するとき,Wall Street Bull に敢然と立ち向かう Fearless Girl を想い起こさずにはいられない.
本当の芸術的創造を行う者すべてにおいてそうであるように,村上仁美氏は,自身の内的必然性 (nécessité intérieure) にもとづいて創作を行っている.そして,その内的必然性が如何なるものであるのかを自問することを,彼女は怠らない.
彼女は,修士論文において,「わたしは今まで,過去への執着を動機に,少女の像を作ってきた」と述べ,「わたしの作品は,いまだに私小説的である」とみづから振り返っている.そして,さらに,こう述べている :「わたしの思考の影には,いつも母や祖母がいる.脈々と続く呪縛と背負わされた業は,おそらく,遡ればきりがない.わたしもまたその列に加わるのであろうか,という個人的な想いを起点としながら,地母神信仰に由来する根源的なテーマの考察を含めて,[「緩やかに死んでいく未来或いはかつてのわたしたちの器についての考察」を]制作した.大地の呪縛のなかで,未来あるいは過去のわたしたち(母たち)の身体には,新しい命が芽吹く.(...) 大地が続く限り,この呪縛と輪廻は繰り返されるのだろう.個として存在していたはずの人物が,草木に覆われ,破壊されていく」.
創作活動の原点について,村上仁美氏はインタヴューでこう語ってくれた :「幼いときは,アニメ映画を見るのがとても好きでした — 特に,童話を原作とするものが.例えば,アンデルセンの『錫の兵隊』— 下肢が片方欠けている錫の兵隊の人形が紙のバレリーナの人形(彼女も一本足で立ったポーズをしている)に恋をする.ふたりは別れ別れになるが,最後に再会する.しかし,ふたりとも暖炉の炎のなかへ投ぜられてしまう.兵隊はハート形の塊を残し,バレリーナは黒焦げになったスパンコールを残して,ふたりともこの世から消え去ってしまう... そのお話が大好きだったので,幼稚園で,工作の時間に,『錫の兵隊』連作を粘土で作ろうと,一所懸命に取り組みました — 当時は芯棒を作ることを知らなかったので,人形をうまく立たせることができませんでしたが.また,同じくアンデルセン童話のひとつである『人魚姫』も大好きでした.ハッピーエンドものではなく,悲劇的な物語の方が,幼いときから好きでした」.
つまり,失われたものを悼む喪を悲しむ感性と,悲劇的なものに形を与えることをとおして喪を完遂しようとする志向が,早くも,彼女の創作活動の原点に見出される.下肢が片方欠けた錫の兵士の人形 — それは,欠如を孕む人体像として,彼女の作品の主要なモチーフとなる.そして,炎に焼かれて昇華する兵士とバレリーナの愛 — それは,既に,土が焼かれることによって完成される創造としてのセラミック芸術へ彼女を始めから導いていないだろうか?また,人間と人間ならざるものとの境界に生きるものとしての人魚も,彼女の創作のモチーフのひとつを成すことになる(修士課程修了作品「食卓 — 生と死 —」,および「人魚の肉 — 向付 —」).
村上仁美氏は,2006年に,美術科単科の大阪府立港南造形高等学校に入学する.しかし,当初から美術系に進学しようと思っていたわけではなかったそうである.彼女は語る :
「姉が絵を描くのがとても上手であった(村上仁美氏の姉も,同じ高校で学んでおり,今は美術の教師となっている)のに対して,わたしは絵が下手でした.小中学校時代は,集団生活 — 特に,チームを組むことを強制される体育の授業など — になじめず,関心のあるテーマの授業以外は出席したくもありませんでした.そのような理由でわたしが学校を休むことを,母は許容してくれました.どのような高校に進むかを考えたとき,服飾の分野にも興味がありましたが,母が美術が好きで,姉が在学している港南造形高等学校が良い学校であることもわかっていたので,そこへ行くことを選びました」.
「中学生のとき,球体関節人形というものがあることを知りました.当時,市販品は非常に高価で,とても買えないので,いつか自分で作ろうと思いました.そこで,高校では,立体造形の芸術である彫刻を専門として選びました.小中学校時代は落ちこぼれぎみでしたが,高校の展覧会のために初めて自分の胸像を作ったとき,一年生ではわたしだけが賞をもらえました.その成功体験の意義は,わたしにとって大きかったと思います」.
「なぜ球体関節人形に関心を持ったのか?それは,少女であったときのわたし自身を人形として残しておくためです.わたしは,こう想っています:わたしが少女であったとき,何かとてもだいじなものがわたしにはあった.しかし,それは,今はもう失われてしまった.少女であったとき,わたしは何かとても重要なことを知っていた.しかし,それが何であったのか,今はもうわからないし,想い出すこともできない.このまま漫然と生きているのでは,少女であったわたしは何も無かったことになってしまう.そこで,少女であったわたしの像を人形として残そうと思いました」.
村上仁美氏の作品について考えるために,とても注目される言葉である.彼女の創作活動の出発点を成していたアンデルセン童話における喪の主題が,再現される — 失われた彼女自身の根源的な存在に対する喪として.されば,彼女の作品は,その失われた存在のための墓碑である,と言うことができるだろう.今回展示された「寂しい木が花をつけた日」は,そのような墓碑のうち最も美しいもののひとつであろう.
失われた彼女自身の根源的な存在は,おのづと,土へ — 母なる大地 (Mutter Erde, Mother Earth) へ — 返って行く.実際,地母神は,村上仁美氏の創作の主要モチーフのひとつである.
自身の母については,村上仁美氏はこう語る:
「母は,大阪の北新地で会員制のクラブのママをしていました.しかし,わたしが 2 歳だったころにその仕事をやめ,主婦専業になりました.母にとって,娘ふたりを育てるために従前の自身の生き方を断念せざるを得なかったことは,不本意だったようです.わたしが思春期に入る少し前から,母は,そのことに関するフラストレーションや悔恨の気持ち,あるいは,孤独感を,わたしに向かって打ち明けるようになりました.わたしは,いわば,母が吐き出す感情のための心理的な受け皿のような役を果たしていました.そのことがなければ,今のわたしは無いでしょう.わたしが母の感情の受け皿である必要のない家族のなかで育つことができていればどうだったろうと思うこともあります.しかし,母は,わたしの進路に関して一番の応援者であり、母に守られてきたが故に自身の創作を深めることが可能でした.ですから,非常に感謝しています.母無くして現在のわたしは存在しないでしょう」.
まったくの推測にすぎないが,大阪の北新地や東京の銀座にあるような高級クラブは欲望の虚構的な満足を演出する仮面舞踏会のようなものであれば,村上仁美氏の母は,自身の父の欲望(その「父」は生物学的ないし社会学的な父であるとは限らない)としての「他の欲望」(le désir de l'Autre) の関数として,職業選択をしたのではなかろうか? その「他の欲望」を満足させることを,彼女は,しかし,結婚生活の現実的な条件のもとで,断念せざるを得なかった.それは,彼女自身における満たされ得ない欲望を条件づけることになる.
村上仁美氏が「母の吐き出す感情の受け皿」(受け皿も,ひとつの器にほかならない:陶芸の基本として,彼女は器づくりを学ぶことになる)の役割を好むと好まざるとにかかわらず果たしていたとすれば,それは,彼女が,自身の実存をひとつの器とし,その器を以て,満足不可能な母の欲望の空(くう)と穴とを支え続けていたこと(すなわち,彼女は,母の欲望の器であったということ)を,示唆している — いったい,母は何を欲しているのか? 何が母の欲望を満たし得るのか? そもそも,はたして母の欲望は何ものかによって満たされ得るのか? という解決不可能な問いを問い続けつつ.
幾世代にもわたって母から娘へと受け継がれつつ「脈々と続く呪縛と背負わされた業」— それは「遡ればきりがない」と村上仁美氏は言う.それでも「業」の無限連鎖を遡るなら,その「源初」に位置づけられるのは,a priori な — つまり,持続として展開される時間 (chronologie) に先立つ — 欠如としての「他の欲望」の穴である.
他の欲望を満たすことは不可能であるにもかかわらず,人間は,それを満たすよう呪縛されており,運命づけられる.その宿命的に課せられた履行不可能な義務を果たすことは,できない.
村上仁美氏にとって,できることは,他の欲望を満たすことではなく,不満足な欲望の空(くう)を容れる器であることだけであった.母から娘へと脈々と受け継がれてゆく「業」は,他の欲望の器であることを彼女に義務づけた.しかし,他の欲望の器であることは,他の欲望を満たす義務を果たしたことにはならず,それゆえ,義務不履行の罪を免れることはできない.
母から娘への宿命的な世代連鎖を源初的に条件づけるものとしての「原母」(Urmutter) は,村上仁美氏の想像力のなかでは,地母神,すなわち,母なる大地 (Mutter Erde) として表象される.
Mutter Erde は,そこから生命体が新たに生まれ出て来るところであると同時に,そこへ生命体は死して帰って行くところでもある.それゆえ,Mutter Erde には,ひとつの穴があいている — その穴は,生命体を生へ生み出す神秘的な穴であると同時に,生命体を死へ呑み込む恐ろしい穴でもある.
そして,その Mutter Erde[母なる大地]の根源的な穴は,満たすことの不可能な「母の欲望」(他の欲望)の穴でもある.わたしは,その穴を「否定存在論的孔穴」(le trou apophatico-ontologique) と呼んでいる.
わたしが村上仁美氏の作品のなかで初めて「根の国」に出会ったとき,特に印象的であったのは,その少女像の下腹部に無気味に口を開いた穴であった.作者は否定存在論的孔穴を直観的に造形することができているにちがいない,とわたしはそのとき思った.
ただし,村上仁美氏は,穴の造形を当初から意図的に行っていたわけではない.むしろ,彼女にとって,それは陶器制作によってもたらされたものである.しかし,彼女が陶器制作を学んだのも,彼女の創造の内的な必然性によってである.つまり,彼女は,女性の身体の造形のためにその象徴学を研究するうちに,地母神のイメージと,生死の器としての女性の身体の意義を見出し,そして,それによって,女性の身体をひとつの塑像としてではなく,文字どおりにひとつの器として造形することに行き着く.そのために,彼女は,2013年に愛知県立芸術大学美術学部を卒業して,同大学の大学院へ進学した後,大学院を休学して,愛知県立瀬戸窯業高等学校セラミック陶芸専攻科で二年間学ぶ.
インタヴューで,村上仁美氏はこう述べている:
「学部生のとき,朽ちてゆく身体を表すために,浮き出た肋骨の間に穴が開いた像を作ったところ,教授にこう質問されました :『君は,void の問題を考えているのか?』そのときは,肉が朽ちてゆくことをイメージして穴を開けただけなので,そう問われても,困惑するだけでした.void の問題は,わたしのなかでしばらく眠っていました.しかし,セラミック陶芸専攻科で課題として食器を作ったとき,改めて void の問題と取り組むことになりました」.
「身体も器です.ですから,食器を作ることと人体を造形することとの間には,本質的な違いは無いのではないか,と思いました」.
「焼き物は,中が空洞でないと成り立ちませんから,必然的に void の問題を考えます.わたしが内的に持っている視覚的イメージとしても,void が現れることは多いです.その源を探ってゆくと,オルフェウスやイザナギが降りて行く闇の世界へ行き着きます」.
つまり,女性の身体を生死の器として造形するとき,その器の中空と開口の穴は,Mutter Erde の胎内と,生命体がそこから生れ出で,そこへ死して帰って行くときに通る源初的な穴とを表すことになる.
ところで,「根の国」を制作するとき,イザナミのイメージが自身のなかにあった,と村上仁美氏は言う.
あらためて確認するなら,「日本大百科全書」の説明によると,記紀神話において,根の国 —「ね」は「根源」のこと — は,地底の他界ないし異界であり,黄泉の国や常世の国とも関連する.根の国は,妣の国[ははのくに](「妣」は「亡き母」であり,イザナミのこと)とも呼ばれる.根の国には,地をはう無気味なものたち — ヘビやムカデなど(「根の国」を始めとする幾つかの作品に,村上仁美氏は,ヘビやムカデのみならず,ナメクジやカタツムリなども配置している)— がウヨウヨしているとされる.日常世界と根の国との境を成すのは,黄泉比良坂(よもつひらさか)— それは,日常世界と黄泉の国との境を成すものともされる — である.
また,同じく記紀神話において,イザナミは,夫であるイザナギとともに国産みと神産みを行った万物の母であるが,火の神を産むときに負った火傷のために亡くなる.妻に再会しようと黄泉の国へくだったイザナギは,死せるイザナミの真理 — それは,秘匿されたままであらねばならなかった — を暴いてしまう.禁を犯した彼の罪を,彼女は決して赦さない.彼は,黄泉の国(死の在所)と日常世界(存在事象の領域)とをつなぐ黄泉比良坂を大岩で塞ぎ,彼女との婚姻関係を断つ.イザナミは,黄泉の国の主宰神となる.
確かに,イザナミは記紀神話における Mutter Erde であり,そこから万物は生れ出で,そこへ万物は死して帰って行く.Mutter Erde の胎内の神秘は,秘匿されたままであらねばならない — 言い換えれば,存在の真理は秘匿されたままであり,それをそのまま暴露することは不可能である.
ところで,今回,村上仁美氏の作品との関連において,記紀神話におけるイザナミに関する記述を改めて読んで,初めてこのことに気がついた : Mutter Erde であるイザナミの根源的な穴から火の神が生まれ出る光景は,火口から炎をあげる火山の噴火のそれを想わせる.そして,Mutter Erde の根源的な穴が孕む火は,アンデルセン童話の結末において,錫の兵士と紙のバレリーナとを死へ呑み込むと同時に,ふたりの愛を昇華する暖炉の炎でもある.
村上仁美氏も,修論において,Great Mother と大地の火との関連性に注目している.そして,「わたし自身も,また,大地に縛られていると感じながらも,より高次の存在になることを願う火であり,焔である」と述べている.
とすれば,昇華をもたらす火も,源初以来,Mutter Erde の根源的な穴のなかに孕まれていたのだろうか?
ともあれ,作品の享受者にすぎない者にとっては,陶器作品から火を思い浮かべることは想像力を要することであるが,陶芸作家にとっては,両者のつながりは本質的である.村上仁美氏も,修士論文においてこう述べている:
「土を扱うために必要な知識と,それに裏打ちされた技術と,願わくばわたし自身の表現につながる独自の手法に出会うことを期待して,愛知県立瀬戸窯業高等学校での勉学に身を置くことを選んだわたしは,土と火・焔によるさまざまなドラマを目の当たりにすることになった.焔に焼かれ,焼けただれ,それによって不変の強さと美しさが付与され,あるいは生み出されるそのプロセスは,それまで漠然と『女性の持つ豊かなイメージを表現したい』と考えていたわたしに,わたしの表現は『生と死の婚姻関係』によって成立するものであることを,確信させた」.
とすれば,村上仁美氏は,決定的に離縁したイザナギ(存在事象,Seiendes)とイザナミ(存在,Sein)とを,彼女の作品において和解させたいと望んでいるのだろうか?とすれば,彼れらの和解としての愛の昇華をもたらす火は,どこから来るのだろうか?あるいは,イザナミの満たされざる欲望の昇華としての愛そのものが,その火なのだろうか?村上仁美氏の作品において,かつては他の欲望の器であったものは,今や昇華の炎の匱となるだろうか?
ともあれ,失われた彼女自身の根源的な存在のための墓碑としての少女像と,根源的な穴を有するものとしての Mutter Erde の像とのみごとな統一を,我々は,炎により錬成されたひとつの陶器としてのあの「根の国」— わたしが村上仁美氏の作品のなかで最初に出会ったもの — において見ることができる.
今年 3 月の blog 記事にも書いたように,当時,わたしは,村上仁美氏が地母神のイメージを創作のモチーフのひとつとしていることをまだ知らなかったが,この下腹部に穴が口を開く無気味な少女の像「根の国」を初めて見たとき,すぐさま,Hölderlin が歌う Mutter Erde — 深淵を孕む神聖な母なる大地 — を連想した.
女性の下半身を大地へ根をおろした樹幹として描く着想を,村上仁美氏は,修論においても言及しているように,直接的には Paul Delvaux が描く Femmes-Arbres[女 - 木,木である女]から得ており,既に「緩やかに死んでゆく未来或いはかつてのわたしたちの器についての考察」において作品化している.
また,人間と人間ならざるものとの境界を生きている femme-arbre は,村上仁美氏にとって少女時代から親しい形象のひとつである人魚も想起させる.そう見てみると,「根の国」の少女像も人魚の像を想わせもする.
ところで,「根の国」は,中空を孕み,開口を有するひとつの陶器である.それは,酒器として機能し得る.酒宴が始まるとき,まず,神々へ儀式的に献げる酒がそこから注がれる.
Heidegger は,1950年の講演 Das Ding[物]において,器の代表例として Krug[英語では pitcher, 日本語では「水差し」だが,水だけでなく,ミルクも酒も入れる]について,こう論じている — 水にせよワインにせよ,水差しに注がれたものは,天と地の婚姻 (die Hochzeit von Himmel und Erde) により恵み与えられたものである.水差しから注がれるものは,神々 (die Göttlichen) と死すべき者たち (die Sterblichen) へ贈られる飲みものである.水差しのなかに注がれた贈りものにおいて,天と地と,神々と死すべき者たちとが,ひとつに属し合っており,ひとつの「四にして一なるもの」(Geviert) にたたみ込まれている.
器は,「四にして一なるもの」の容れ物である.そこに入れられたものは,贈りものである:それは,天と地の恵みのたまものであり,神々に献げられ,死すべき者たちに与えられる.そこに,天と地と,神々と死すべき者たちとの交わり (communion) の悦びがある.
村上仁美氏も,修士課程修了作品「食卓 — 生と死 —」を実際に器として使用することを考えている.修士論文において,彼女はこう語っている:
「人魚の開かれた腹部は,器として使われることを前提に作られている.この人魚が器として使われるとき,つながりを持たない人々が彼女の肉を食べることによって大きな連なりの一部となる疑似体験が生ずる (...). そのとき,彼女[人魚]の苦悩の表情に悦びが浮かび,彼女の喪失,滅び,死を経て,まさに彼女によって,新しい繋がりと生がもたらされる.死とつがえられた生を賛美するためのヴァニタスとして,横たわる人魚は存在する」.
カトリックであるわたしにとっては,村上仁美氏のこの文章は,まさにミサの聖体拝領について語っているものとして読める.
普段,日常生活を共にしているわけではない人々がミサに集い,聖別された hostia(キリストの体として食される小さく薄い円板状の煎餅のようなもの)をともにいただくとき,キリストの体における交わり — 神と人間との交わり,および,人間どうしの交わり — の悦びが生ずる.キリストの受難と死によって,永遠の命への復活の悦びがもたらされる.
カトリック信仰における vanitas は,十字架に釘で打ちつけられ,わきばらを槍で刺し貫かれ,力無く首をうなだれた死体となった神の子 Jesus Christ の像にほかならない.というより,近代西洋美術史において vanitas と呼ばれているものは,17世紀始め,キリストの磔刑像を退けたプロテスタント文化圏において,その代わりに用いられ始めたものである.
そして,あらゆる人間の罪を引き受け,その贖いのために十字架上で処刑された Jesus Christ の身体においてこそ,永遠の命への復活の神秘は啓かされている.
いつか,村上仁美氏の「食卓 — 生と死 —」はミサの祭壇として使われることになるだろう — わたしは,そう想像する.なんと悦ばしい光景であることか!
今回の「常世の庭」展に出品された作品(カタログに収録されたもの)は,次のとおり:
因果律の寓意
Phallic Girl : この作品の名称は,ある精神科医が一般向けに書いた本に由来している.彼は,精神分析家ではないので,精神分析の諸概念や諸用語をはなはだしく誤用している.たとえば,phallic mother は,性倒錯者ではなく,gay の夢や幻想のなかに出現してくることのある恐ろしい形象である.他方,phallic girl という表現は,精神分析の歴史においては,男性の transvestism(性的興奮を目的として男性が女性の服を着る性倒錯)との関連において用いられている.
また,Henry Darger の描く少女たちが penis を有しているのは,彼女たちが彼の Idealich(理想自我)の表象である限りにおいてである.彼の作品は精神病の代理症状であり,そこに物語られたすさまじい戦いと受難は,さもなくば彼を襲っていたであろう恐ろしい迫害妄想の代理表現である.
「おたく」たちが「戦闘美少女」を好むとすれば,それは,父としての自我理想 (Ichideal) の引き受けの困難と関連づけられるだろう — 少女たちは,戦いのなかでいくらたくましく成長していっても,決して父となる必要が無い.
ともあれ,もし phallic girl を「不可能な悦 (jouissance) — すなわち,死の悦 — の形象としての phallic mother の娘」と定義するならば,それは,この村上仁美氏の作品の名称としてふさわしいかもしれない.
この作品について,村上仁美氏は,インタヴューのなかでこう語っている :「この少女は,今のわたしよりももっと重要な,より本質的なことを知っていた少女時代のわたしです.彼女は,今のわたしを見て,どう思っているだろう?彼女は,さぞ,わたしを殺したいと思っているにちがいない.彼女は,いつかわたしを殺しに来るにちがいない.彼女は座っており,彼女には根がはえている.だから,彼女はそこから動くことはできない.しかし,わたしは彼女から逃げることはできない.彼女のまなざしは,わたしを追いかけており,彼女のところからわたしのところにまで届く.彼女は,わたしを裁き,処刑しに来る — そのような恐怖を,わたしは持っています」.
根源的なイザナミの怒りのまなざしを受け継いだ自画像... 喪の作業はなおも続いている.
風穴のトルソ
Pergola : なんと美しい穴!
世界で一番小さな海 : 死と復活の器.
夢に見た夢 : この顔はとてもよい形にできた,と村上仁美氏自身,気に入っている作品.
寂しい木が花をつけた日 : 美しい墓碑.
閉ざされた季節 :「根の国」の美しい変奏.これをわたしの書斎に飾ることができればと思ったが,残念ながら売約済みであった.
温かい土 : そう見て取るのはなかなか困難であるが,これは,下顎の欠けた人面 (masque) である.この作品を高く評価する或る人から指摘されて,初めて気がついた.
制作途中を,村上仁美氏自身が twitter で紹介してくれている:
少女の面には,下顎が欠けている.その欠如の穴から,ヘビがはい出し,草やつぼみが萌え出ている.両目はうっすらと開いているが,顔面全体は,森の奥深くの,日が差すことのない地面がそうであるように,無数の落ち葉や,花びらや,地を這う生き物で覆われている.
村上仁美氏自身としては,概念的なものを形にすることができたがゆえに,この作品を気に入っている,と言う :「人体の描写が無い分,抽象性の高い作品になっています.過去に存在したものから,今,草がはえてくるメタボリズム,ひとつの形が朽ち,別の形になりつつある中間の状態,過去と現在とが重なっている状態 — そのような世界観です」.
下顎の欠けた頭部としては,「ささめき声」と題された無気味な作品が想い出される:
村上仁美氏は言う :「戦場の写真で,下顎の無い死体を見たときのショッキングな印象が残っています.のどの奥の暗闇を想像すると,ぞっとします」.
のどの奥の暗闇から聞こえてくるささめき声 — それは,神の無言の語りかけの声であろうか...
種をまく人,種をまく人
過去から届く風
陽炎 : 文字どおり,炎の造形.
わたしがこの文章を書いている今,ちょうど待降節である.待降節のミサの福音朗読には,Jesus Christ の先駆けを成す洗礼者ヨハネが登場する.彼はこう言う :「あなたたちが回心するよう,わたしはあなたたちを水で洗礼する.しかし,わたしより後から来る者は,わたしより強い.わたしは,彼のサンダルを脱がせるにすら値しない.彼は,あなたたちを,聖なる霊気(聖霊)と火のなかで洗礼するだろう」(Mt 3,11).
この浄化し,純化する火は,昇華をもたらす火でもある — 土を火で焼く陶芸のテクニックを用いる村上仁美氏の創造は,そのことを我々に教えてくれる.その火は,罪の赦しと,死から永遠の命への復活と,無からの創造とを条件づけるだろう.
最後に,村上仁美氏の創作の努力に改めて敬意を表したい.また彼女の作品を直接鑑賞することのできる機会を,楽しみにしている.
小笠原晋也