2018年12月10日

村上仁美氏の2018年の個展「常世の庭」を見て


2018年10月20日から11月03日まで,Roid Works Gallery で,「常世の庭」(Garden of Eternity, Jardin de l'éternité) の題のもとに,陶芸家,彫刻家の 村上仁美 氏の個展が,行われた.そこにおいて,彼女の新たな作品12点(カタログに収録されたものとしては)と,小さな壁掛け作品 3, 4 点を見ることができ,御本人と初めて直接会うこともできた.また,90分間ほどのインタヴューにも応じていただいた.さらに,彼女が昨年03月に愛知県立芸術大学大学院美術研究科彫刻領域の修士課程を修了するために提出した修士論文を見せていただき,それをわたしの blog に掲載することも許可していただいた.村上仁美氏への謝意をこの場で表明しておきたい.

以前にHabemus artificem — 村上仁美氏の作品との出会いにおいても書いたように,わたしが村上仁美氏の作品と初めて出会ったのは,今年の 2 月,渋谷の Bunkamura でだった.上の映画館で何か見たあと,1 階のギャラリーの前をとおりかかると,ブレイク前夜と題して,幾人かの若い芸術家たちの展覧会が行われていた.その日は休日で,特に用事もなかったので,ぶらりと入ってみた — まったく偶然に.すると,すぐさま,あの「根の国」に出くわし,驚嘆した.その場には,背中に大きなクモが無気味に張りついていながら,うずくまって微笑している少女の像 :「明るい絶望」も展示されていた.これはただものではない,と感じた.

さらに,その場では,「ブレイク前夜」展に出品する作家を紹介する短いビデオのなかで語っている彼女を見ることもできた.もし仮に草間彌生氏のような外見の人であったなら,さもありなんと納得したかもしれない.しかし,まったく逆に,一見,まがまがしさとは全然無縁であるかのように見える若い女性があの二点の作者であることを知って,わたしは二度驚いた.

次いで,3 月に,銀座洋協ホールで行われた Field of Now 2018 という合同展覧会で,彼女の作品をさらに何点か見ることができた.

わたしは,みづから芸術的創作を行う者ではない.芸術に関してはもっぱら享受者である — 美術にせよ,文学にせよ,音楽にせよ,演劇にせよ.芸術に関して専門的な教育を受けたこともない — 美学にせよ,テクニックにせよ,歴史にせよ.

それでも,わたしが以下に村上仁美氏の作品について語るとすれば,それは,わたしと同様に芸術に関して非専門家でありながらも芸術作品について論じた Freud や Heidegger や Lacan にならってである.

あらゆる分野でまがいものがまかりとおる日本でときおり見かけることだが,精神分析家ではない者 — つまり,みづから教育分析を受けたこともなく,みづから精神分析の臨床をしてもおらず,精神分析の理論を体系的に学んだこともない者  が「... の精神分析」と題して文章を書くことがある.彼れらは,できあいの「精神分析理論」と「精神分析用語」を「応用」して,何らかの所与の現象や事象についてわかったようなことをもっともらしく語り,それによって何やら「文化的」に有意義なことを言ったつもりになっている.

それは,精神分析家が極めて少なく,精神分析の臨床がごく希にしか行われていない日本であればこそ,通用する事態である.精神分析が社会に根づいているフランスなどの国々では,精神分析家でない者が「... の精神分析」について語ることがあるとすれば,それは,ふざけたパロディとしてでしかない.

では,精神分析家である Freud や Lacan が芸術作品を取り上げるとき,何を彼らはしているか?それは,本来,臨床的なものである精神分析の理論から出発し,或る非臨床的な事象を対象として,後者を「分析」するために前者を応用する,というようなことではまったくない.そうではなく,彼らは,逆に,芸術作品から出発して,精神分析の臨床において問題となることがら — 特に,精神分析の終結における欲望の昇華の可能性 — について思考する.というのも,creatio ex nihilo としての芸術的創造は存在の真理の現出としての昇華を包含していると予期されるからである.

現代の最も偉大な哲人 Heidegger も,然り.彼は,芸術作品から出発して,存在に関する問いを問いなおし,存在の真理とその朗開 (Lichtung) について思考し続けているのであって,彼の「存在論」にもとづいて芸術作品や芸術家の「現存在分析」を行っているのではまったくない.

つまり,Freud も Heidegger も Lacan も,「わたしの理論は芸術作品と芸術家を測るものさしである」などと傲慢に思い込んではいない —「... の精神分析」と題された文章を書くために精神分析「理論」を道具として応用しようとする者たちとは異なり.そうではなく,逆に,芸術的創造の神秘から出発して,そのまわりを回りつつ,存在の神秘について問い,昇華 (sublimation) ないし朗開 (Lichtung) の可能性について思考し続ける — それが,芸術作品を前にして,Freud と Heidegger と Lacan が行っていることである.

もうひとつ,本論に入る前に注釈を付しておかねばならないことがある.存命中の — しかも,まだとても若い — 村上仁美氏と彼女の作品について論ずるとき,それが彼女の創作活動の妨げになってはならない.

悪しき前例がある : 1952年に Sartre が当時41歳の Jean Genet について大仰に論じた著作を出版した後,Genet は数年間,新たな創作に取りかかる気になれなかった.

村上仁美氏の作品を愛し,高く評価する者のひとりとして,わたしは,彼女が芸術的創造を行う者として活躍し続けて行くことができるよう,心から祈るだけである.

さて,昨今,美術業界でもてはやされている村上隆氏や Jeff Koons 氏の作品が,現代芸術の領域全般において問われてきた根源的な問題 — 創造と破壊,美と醜,快と不快,生と死,存在と無,等々 — を問うことが惹起する実存的な不安を否認し,そのような真摯な問いを問う試みをちゃかすことによって,大衆心理 ひたすら不安から目をそむけようとする大衆の傾向 — に迎合する「大衆主義」(populism) の作品であるとするなら,村上仁美氏の作品は,彼ら — 今や pop art の巨匠と見なされている村上隆氏や Jeff Koons 氏 — の作品の対極に位置づけられるだろう.

商業的に大成功した彼らの巨大な作品の傲慢さに対して,比較的小さな作品にあのただならぬ気配を宿らせる村上仁美氏(彼女自身,小柄である)の勇気を対置するとき,Wall Street Bull に敢然と立ち向かう Fearless Girl を想い起こさずにはいられない.

本当の芸術的創造を行う者すべてにおいてそうであるように,村上仁美氏は,自身の内的必然性 (nécessité intérieure) にもとづいて創作を行っている.そして,その内的必然性が如何なるものであるのかを自問することを,彼女は怠らない.

彼女は,修士論文において,「わたしは今まで,過去への執着を動機に,少女の像を作ってきた」と述べ,「わたしの作品は,いまだに私小説的である」とみづから振り返っている.そして,さらに,こう述べている :「わたしの思考の影には,いつも母や祖母がいる.脈々と続く呪縛と背負わされた業は,おそらく,遡ればきりがない.わたしもまたその列に加わるのであろうか,という個人的な想いを起点としながら,地母神信仰に由来する根源的なテーマの考察を含めて,[「緩やかに死んでいく未来或いはかつてのわたしたちの器についての考察」を]制作した.大地の呪縛のなかで,未来あるいは過去のわたしたち(母たち)の身体には,新しい命が芽吹く.(...) 大地が続く限り,この呪縛と輪廻は繰り返されるのだろう.個として存在していたはずの人物が,草木に覆われ,破壊されていく」.

創作活動の原点について,村上仁美氏はインタヴューでこう語ってくれた :「幼いときは,アニメ映画を見るのがとても好きでした — 特に,童話を原作とするものが.例えば,アンデルセンの『錫の兵隊』— 下肢が片方欠けている錫の兵隊の人形が紙のバレリーナの人形(彼女も一本足で立ったポーズをしている)に恋をする.ふたりは別れ別れになるが,最後に再会する.しかし,ふたりとも暖炉の炎のなかへ投ぜられてしまう.兵隊はハート形の塊を残し,バレリーナは黒焦げになったスパンコールを残して,ふたりともこの世から消え去ってしまう... そのお話が大好きだったので,幼稚園で,工作の時間に,『錫の兵隊』連作を粘土で作ろうと,一所懸命に取り組みました  当時は芯棒を作ることを知らなかったので,人形をうまく立たせることができませんでしたがまた,同じくアンデルセン童話のひとつである『人魚姫』も大好きでした.ハッピーエンドものではなく,悲劇的な物語の方が,幼いときから好きでした」.

つまり,失われたものを悼む喪を悲しむ感性と,悲劇的なものに形を与えることをとおして喪を完遂しようとする志向が,早くも,彼女の創作活動の原点に見出される.下肢が片方欠けた錫の兵士の人形  それは,欠如を孕む人体像として,彼女の作品の主要なモチーフとなる.そして,炎に焼かれて昇華する兵士とバレリーナの愛 — それは,既に,土が焼かれることによって完成される創造としてのセラミック芸術へ彼女を始めから導いていないだろうか?また,人間と人間ならざるものとの境界に生きるものとしての人魚も,彼女の創作のモチーフのひとつを成すことになる(修士課程修了作品「食卓 — 生と死 」,およ人魚の肉 — 向付 —).

村上仁美氏は,2006年に,美術科単科の大阪府立港南造形高等学校に入学する.しかし,当初から美術系に進学しようと思っていたわけではなかったそうである.彼女は語る :

「姉が絵を描くのがとても上手であった(村上仁美氏の姉も,同じ高校で学んでおり,今は美術の教師となっている)のに対して,わたしは絵が下手でした.小中学校時代は,集団生活 — 特に,チームを組むことを強制される体育の授業など — になじめず,関心のあるテーマの授業以外は出席したくもありませんでした.そのような理由でわたしが学校を休むことを,母は許容してくれました.どのような高校に進むかを考えたとき,服飾の分野にも興味がありましたが,母が美術が好きで,姉が在学している港南造形高等学校が良い学校であることもわかっていたので,そこへ行くことを選びました」.

「中学生のとき,球体関節人形というものがあることを知りました.当時,市販品は非常に高価で,とても買えないので,いつか自分で作ろうと思いました.そこで,高校では,立体造形の芸術である彫刻を専門として選びました.小中学校時代は落ちこぼれぎみでしたが,高校の展覧会のために初めて自分の胸像を作ったとき,一年生ではわたしだけが賞をもらえました.その成功体験の意義は,わたしにとって大きかったと思います」.

「なぜ球体関節人形に関心を持ったのか?それは,少女であったときのわたし自身を人形として残しておくためです.わたしは,こう想っています:わたしが少女であったとき,何かとてもだいじなものがわたしにはあった.しかし,それは,今はもう失われてしまった.少女であったとき,わたしは何かとても重要なことを知っていた.しかし,それが何であったのか,今はもうわからないし,想い出すこともできない.このまま漫然と生きているのでは,少女であったわたしは何も無かったことになってしまう.そこで,少女であったわたしの像を人形として残そうと思いました」.

村上仁美氏の作品について考えるために,とても注目される言葉である.彼女の創作活動の出発点を成していたアンデルセン童話における喪の主題が,再現される — 失われた彼女自身の根源的な存在に対する喪として.されば,彼女の作品は,その失われた存在のための墓碑である,と言うことができるだろう.今回展示された「寂しい木が花をつけた日」は,そのような墓碑のうち最も美しいもののひとつであろう

失われた彼女自身の根源的な存在は,おのづと,土へ — 母なる大地 (Mutter Erde, Mother Earth) へ — 返って行く.実際,地母神は,村上仁美氏の創作の主要モチーフのひとつである.

自身の母については,村上仁美氏はこう語る:

「母は,大阪の北新地で会員制のクラブのママをしていました.しかし,わたしが 2 歳だったころにその仕事をやめ,主婦専業になりました.母にとって,娘ふたりを育てるために従前の自身の生き方を断念せざるを得なかったことは,不本意だったようです.わたしが思春期に入る少し前から,母は,そのことに関するフラストレーションや悔恨の気持ち,あるいは,孤独感を,わたしに向かって打ち明けるようになりました.わたしは,いわば,母が吐き出す感情のための心理的な受け皿のような役を果たしていました.そのことがなければ,今のわたしは無いでしょう.わたしが母の感情の受け皿である必要のない家族のなかで育つことができていればどうだったろうと思うこともあります.しかし,母は,わたしの進路に関して一番の応援者であり、母に守られてきたが故に自身の創作を深めることが可能でした.ですから,非常に感謝しています.母無くして現在のわたしは存在しないでしょう」.

まったくの推測にすぎないが,大阪の北新地や東京の銀座にあるような高級クラブは欲望の虚構的な満足を演出する仮面舞踏会のようなものであれば,村上仁美氏の母は,自身の父の欲望(その「父」は生物学的ないし社会学的な父であるとは限らない)としての「他の欲望」(le désir de l'Autre) の関数として,職業選択をしたのではなかろうか? その「他の欲望」を満足させることを,彼女は,しかし,結婚生活の現実的な条件のもとで,断念せざるを得なかった.それは,彼女自身における満たされ得ない欲望を条件づけることになる.

村上仁美氏が「母の吐き出す感情の受け皿」(受け皿も,ひとつの器にほかならない:陶芸の基本として,彼女は器づくりを学ぶことになる)の役割を好むと好まざるとにかかわらず果たしていたとすれば,それは,彼女が,自身の実存をひとつの器とし,その器を以て,満足不可能な母の欲望の空(くう)と穴とを支え続けていたこと(すなわち,彼女は,母の欲望の器であったということ)を,示唆している — いったい,母は何を欲しているのか? 何が母の欲望を満たし得るのか? そもそも,はたして母の欲望は何ものかによって満たされ得るのか? という解決不可能な問いを問い続けつつ.

幾世代にもわたって母から娘へと受け継がれつつ「脈々と続く呪縛と背負わされた業」— それは「遡ればきりがない」と村上仁美氏は言う.それでも「業」の無限連鎖を遡るなら,その「源初」に位置づけられるのは,a priori な  つまり,持続として展開される時間 (chronologie) に先立つ  欠如としての「他の欲望」の穴である.

他の欲望を満たすことは不可能であるにもかかわらず,人間は,それを満たすよう呪縛されており,運命づけられる.その宿命的に課せられた履行不可能な義務を果たすことは,できない.

村上仁美氏にとって,できることは,他の欲望を満たすことではなく,不満足な欲望の空(くう)を容れる器であることだけであった.母から娘へと脈々と受け継がれてゆく「業」は,他の欲望の器であることを彼女に義務づけた.しかし,他の欲望の器であることは,他の欲望を満たす義務を果たしたことにはならず,それゆえ,義務不履行の罪を免れることはできない.

母から娘への宿命的な世代連鎖を源初的に条件づけるものとしての「原母」(Urmutter) は,村上仁美氏の想像力のなかでは,地母神,すなわち,母なる大地 (Mutter Erde) として表象される.

Mutter Erde は,そこから生命体が新たに生まれ出て来るところであると同時に,そこへ生命体は死して帰って行くところでもある.それゆえ,Mutter Erde には,ひとつの穴があいている — その穴は,生命体を生へ生み出す神秘的な穴であると同時に,生命体を死へ呑み込む恐ろしい穴でもある.

そして,その Mutter Erde[母なる大地]の根源的な穴は,満たすことの不可能な「母の欲望」(他の欲望)の穴でもある.わたしは,その穴を「否定存在論的孔穴」(le trou apophatico-ontologique) と呼んでいる.

わたしが村上仁美氏の作品のなかで初めて「根の国」に出会ったとき,特に印象的であったのは,その少女像の下腹部に無気味に口を開いた穴であった.作者は否定存在論的孔穴を直観的に造形することができているにちがいない,とわたしはそのとき思った.

ただし,村上仁美氏は,穴の造形を当初から意図的に行っていたわけではない.むしろ,彼女にとって,それは陶器制作によってもたらされたものである.しかし,彼女が陶器制作を学んだのも,彼女の創造の内的な必然性によってである.つまり,彼女は,女性の身体の造形のためにその象徴学を研究するうちに,地母神のイメージと,生死の器としての女性の身体の意義を見出し,そして,それによって,女性の身体をひとつの塑像としてではなく,文字どおりにひとつの器として造形することに行き着く.そのために,彼女は,2013年に愛知県立芸術大学美術学部を卒業して,同大学の大学院へ進学した後,大学院を休学して,愛知県立瀬戸窯業高等学校セラミック陶芸専攻科で二年間学ぶ.

インタヴューで,村上仁美氏はこう述べている:

「学部生のとき,朽ちてゆく身体を表すために,浮き出た肋骨の間に穴が開いた像を作ったところ,教授にこう質問されました :『君は,void の問題を考えているのか?』そのときは,肉が朽ちてゆくことをイメージして穴を開けただけなので,そう問われても,困惑するだけでした.void の問題は,わたしのなかでしばらく眠っていました.しかし,セラミック陶芸専攻科で課題として食器を作ったとき,改めて void の問題と取り組むことになりました」.

「身体も器です.ですから,食器を作ることと人体を造形することとの間には,本質的な違いは無いのではないか,と思いました」.

「焼き物は,中が空洞でないと成り立ちませんから,必然的に void の問題を考えます.わたしが内的に持っている視覚的イメージとしても,void が現れることは多いです.その源を探ってゆくと,オルフェウスやイザナギが降りて行く闇の世界へ行き着きます」.

つまり,女性の身体を生死の器として造形するとき,その器の中空と開口の穴は,Mutter Erde の胎内と,生命体がそこから生れ出で,そこへ死して帰って行くときに通る源初的な穴とを表すことになる.

ところで,「根の国」を制作するとき,イザナミのイメージが自身のなかにあった,と村上仁美氏は言う.

あらためて確認するなら,「日本大百科全書」の説明によると,記紀神話において,根の国 「ね」は「根源」のこと — は,地底の他界ないし異界であり,黄泉の国や常世の国とも関連する.根の国は,妣の国[ははのくに](「妣」は「亡き母」であり,イザナミのこと)とも呼ばれる.根の国には,地をはう無気味なものたち — ヘビやムカデなど(「根の国」を始めとする幾つかの作品に,村上仁美氏は,ヘビやムカデのみならず,ナメクジやカタツムリなども配置している)— がウヨウヨしているとされる.日常世界と根の国との境を成すのは,黄泉比良坂(よもつひらさか)— それは,日常世界と黄泉の国との境を成すものともされる — である.

また,同じく記紀神話において,イザナミは,夫であるイザナギとともに国産みと神産みを行った万物の母であるが,火の神を産むときに負った火傷のために亡くなる.妻に再会しようと黄泉の国へくだったイザナギは,死せるイザナミの真理 — それは,秘匿されたままであらねばならなかった — を暴いてしまう.禁を犯した彼の罪を,彼女は決して赦さない.彼は,黄泉の国(死の在所)と日常世界(存在事象の領域)とをつなぐ黄泉比良坂を大岩で塞ぎ,彼女との婚姻関係を断つ.イザナミは,黄泉の国の主宰神となる.

確かに,イザナミは記紀神話における Mutter Erde であり,そこから万物は生れ出で,そこへ万物は死して帰って行く.Mutter Erde の胎内の神秘は,秘匿されたままであらねばならない — 言い換えれば,存在の真理は秘匿されたままであり,それをそのまま暴露することは不可能である.

ところで,今回,村上仁美氏の作品との関連において,記紀神話におけるイザナミに関する記述を改めて読んで,初めてこのことに気がついた : Mutter Erde であるイザナミの根源的な穴から火の神が生まれ出る光景は,火口から炎をあげる火山の噴火のそれを想わせる.そして,Mutter Erde の根源的な穴が孕む火は,アンデルセン童話の結末において,錫の兵士と紙のバレリーナとを死へ呑み込むと同時に,ふたりの愛を昇華する暖炉の炎でもある.

村上仁美氏も,修論において,Great Mother と大地の火との関連性に注目している.そして,「わたし自身も,また,大地に縛られていると感じながらも,より高次の存在になることを願う火であり,焔である」と述べている.

とすれば,昇華をもたらす火も,源初以来,Mutter Erde の根源的な穴のなかに孕まれていたのだろうか?

ともあれ,作品の享受者にすぎない者にとっては,陶器作品から火を思い浮かべることは想像力を要することであるが,陶芸作家にとっては,両者のつながりは本質的である.村上仁美氏も,修士論文においてこう述べている:

土を扱うために必要な知識と,それに裏打ちされた技術と,願わくばわたし自身の表現につながる独自の手法に出会うことを期待して,愛知県立瀬戸窯業高等学校での勉学に身を置くことを選んだわたしは,土と火・焔によるさまざまなドラマを目の当たりにすることになった.焔に焼かれ,焼けただれ,それによって不変の強さと美しさが付与され,あるいは生み出されるそのプロセスは,それまで漠然と『女性の持つ豊かなイメージを表現したい』と考えていたわたしに,わたしの表現は『生と死の婚姻関係』によって成立するものであることを,確信させた」.

とすれば,村上仁美氏は,決定的に離縁したイザナギ(存在事象,Seiendes)とイザナミ(存在Sein)とを,彼女の作品において和解させたいと望んでいるのだろうか?とすれば,彼れらの和解としての愛の昇華をもたらす火は,どこから来るのだろうか?あるいは,イザナミの満たされざる欲望の昇華としての愛そのものが,その火なのだろうか?村上仁美氏の作品において,かつては他の欲望の器であったものは,今や昇華の炎の匱となるだろうか?

ともあれ,失われた彼女自身の根源的な存在のための墓碑としての少女像と,根源的な穴を有するものとしての Mutter Erde の像とのみごとな統一を,我々は,炎により錬成されたひとつの陶器としてのあの根の国—  わたしが村上仁美氏の作品のなかで最初に出会ったもの — において見ることができる



今年 3 月の blog 記事にも書いたように,当時,わたしは,村上仁美氏が地母神のイメージを創作のモチーフのひとつとしていることをまだ知らなかったが,この下腹部に穴が口を開く無気味な少女の像「根の国」を初めて見たとき,すぐさま,Hölderlin が歌う Mutter Erde — 深淵を孕む神聖な母なる大地 — を連想した.

女性の下半身を大地へ根をおろした樹幹として描く着想を,村上仁美氏は,修論においても言及しているように,直接的には Paul Delvaux が描く Femmes-Arbres[女 - 木,木である女]から得ており,既に「緩やかに死んでゆく未来或いはかつてのわたしたちの器についての考察」において作品化している.

また,人間と人間ならざるものとの境界を生きている femme-arbre は,村上仁美氏にとって少女時代から親しい形象のひとつである人魚も想起させる.そう見てみると,「根の国」の少女像も人魚の像を想わせもする.

ところで,「根の国」は,中空を孕み,開口を有するひとつの陶器である.それは,酒器として機能し得る.酒宴が始まるとき,まず,神々へ儀式的に献げる酒がそこから注がれる.

Heidegger は,1950年の講演 Das Ding[物]において,器の代表例として Krug[英語では pitcher, 日本語では「水差し」だが,水だけでなく,ミルクも酒も入れる]について,こう論じている — 水にせよワインにせよ,水差しに注がれたものは,天と地の婚姻 (die Hochzeit von Himmel und Erde) により恵み与えられたものである.水差しから注がれるものは,神々 (die Göttlichen) と死すべき者たち (die Sterblichen) へ贈られる飲みものである.水差しのなかに注がれた贈りものにおいて,天と地と,神々と死すべき者たちとが,ひとつに属し合っており,ひとつの「四にして一なるもの」(Geviert) にたたみ込まれている.

器は,「四にして一なるもの」の容れ物である.そこに入れられたものは,贈りものである:それは,天と地の恵みのたまものであり,神々に献げられ,死すべき者たちに与えられる.そこに,天と地と,神々と死すべき者たちとの交わり (communion) の悦びがある.

村上仁美氏も,修士課程修了作品「食卓 — 生と死 」を実際に器として使用することを考えている.修士論文において,彼女はこう語っている:

「人魚の開かれた腹部は,器として使われることを前提に作られている.この人魚が器として使われるとき,つながりを持たない人々が彼女の肉を食べることによって大きな連なりの一部となる疑似体験が生ずる (...). そのとき,彼女[人魚]の苦悩の表情に悦びが浮かび,彼女の喪失,滅び,死を経て,まさに彼女によって,新しい繋がりと生がもたらされる.死とつがえられた生を賛美するためのヴァニタスとして,横たわる人魚は存在する」.

カトリックであるわたしにとっては,村上仁美氏のこの文章は,まさにミサの聖体拝領について語っているものとして読める.

普段,日常生活を共にしているわけではない人々がミサに集い,聖別された hostia(キリストの体として食される小さく薄い円板状の煎餅のようなもの)をともにいただくとき,キリストの体における交わり — 神と人間との交わり,および,人間どうしの交わり — の悦びが生ずる.キリストの受難と死によって,永遠の命への復活の悦びがもたらされる.

カトリック信仰における vanitas は,十字架に釘で打ちつけられ,わきばらを槍で刺し貫かれ,力無く首をうなだれた死体となった神の子 Jesus Christ の像にほかならない.というより,近代西洋美術史において vanitas と呼ばれているものは,17世紀始め,キリストの磔刑像を退けたプロテスタント文化圏において,その代わりに用いられ始めたものである.

そして,あらゆる人間の罪を引き受け,その贖いのために十字架上で処刑された Jesus Christ の身体においてこそ,永遠の命への復活の神秘は啓かされている.

いつか,村上仁美氏の「食卓 — 生と死 」はミサの祭壇として使われることになるだろう — わたしは,そう想像する.なんと悦ばしい光景であることか!

今回の「常世の庭」展に出品された作品(カタログに収録されたもの)は,次のとおり:

因果律の寓意

Phallic Girl : この作品の名称は,ある精神科医が一般向けに書いた本に由来している.彼は,精神分析家ではないので,精神分析の諸概念や諸用語をはなはだしく誤用している.たとえば,phallic mother は,性倒錯者ではなく,gay の夢や幻想のなかに出現してくることのある恐ろしい形象である.他方,phallic girl という表現は,精神分析の歴史においては,男性の transvestism(性的興奮を目的として男性が女性の服を着る性倒錯)との関連において用いられている.

また,Henry Darger の描く少女たちが penis を有しているのは,彼女たちが彼の Idealich(理想自我)の表象である限りにおいてである.彼の作品は精神病の代理症状であり,そこに物語られたすさまじい戦いと受難は,さもなくば彼を襲っていたであろう恐ろしい迫害妄想の代理表現である.

「おたく」たちが「戦闘美少女」を好むとすれば,それは,父としての自我理想 (Ichideal) の引き受けの困難と関連づけられるだろう  少女たちは,戦いのなかでいくらたくましく成長していっても,決して父となる必要が無い.

ともあれ,もし phallic girl を「不可能な悦 (jouissance) — すなわち,死の悦 — の形象としての phallic mother の娘」と定義するならば,それは,この村上仁美氏の作品の名称としてふさわしいかもしれない.

この作品について,村上仁美氏は,インタヴューのなかでこう語っている :「この少女は,今のわたしよりももっと重要な,より本質的なことを知っていた少女時代のわたしです.彼女は,今のわたしを見て,どう思っているだろう?彼女は,さぞ,わたしを殺したいと思っているにちがいない.彼女は,いつかわたしを殺しに来るにちがいない.彼女は座っており,彼女には根がはえている.だから,彼女はそこから動くことはできない.しかし,わたしは彼女から逃げることはできない.彼女のまなざしは,わたしを追いかけており,彼女のところからわたしのところにまで届く.彼女は,わたしを裁き,処刑しに来る — そのような恐怖を,わたしは持っています」.

根源的なイザナミの怒りのまなざしを受け継いだ自画像... 喪の作業はなおも続いている.

風穴のトルソ  

Pergola : なんと美しい穴!

世界で一番小さな海 : 死と復活の器.

夢に見た夢 : この顔はとてもよい形にできた,と村上仁美氏自身,気に入っている作品.

寂しい木が花をつけた日 : 美しい墓碑.

閉ざされた季節 :「根の国」の美しい変奏.これをわたしの書斎に飾ることができればと思ったが,残念ながら売約済みであった.


温かい土 : そう見て取るのはなかなか困難であるが,これは,下顎の欠けた人面 (masque) である.この作品を高く評価する或る人から指摘されて,初めて気がついた.

 

制作途中を,村上仁美氏自身が twitter で紹介してくれている:
 

少女の面には,下顎が欠けている.その欠如の穴から,ヘビがはい出し,草やつぼみが萌え出ている.両目はうっすらと開いているが,顔面全体は,森の奥深くの,日が差すことのない地面がそうであるように,無数の落ち葉や,花びらや,地を這う生き物で覆われている.

村上仁美氏自身としては,概念的なものを形にすることができたがゆえに,この作品を気に入っている,と言う :「人体の描写が無い分,抽象性の高い作品になっています.過去に存在したものから,今,草がはえてくるメタボリズム,ひとつの形が朽ち,別の形になりつつある中間の状態,過去と現在とが重なっている状態 — そのような世界観です」.

下顎の欠けた頭部としては,「ささめき声」と題された無気味な作品が想い出される:


 

村上仁美氏は言う :「戦場の写真で,下顎の無い死体を見たときのショッキングな印象が残っています.のどの奥の暗闇を想像すると,ぞっとします」.

のどの奥の暗闇から聞こえてくるささめき声 — それは,神の無言の語りかけの声であろうか...

種をまく人種をまく人

過去から届く風

陽炎 : 文字どおり,炎の造形.

わたしがこの文章を書いている今,ちょうど待降節である.待降節のミサの福音朗読には,Jesus Christ の先駆けを成す洗礼者ヨハネが登場する.彼はこう言う :「あなたたちが回心するよう,わたしはあなたたちを水で洗礼する.しかし,わたしより後から来る者は,わたしより強い.わたしは,彼のサンダルを脱がせるにすら値しない.彼は,あなたたちを,聖なる霊気(聖霊)と火のなかで洗礼するだろう」(Mt 3,11).

この浄化し,純化する火は,昇華をもたらす火でもある — 土を火で焼く陶芸のテクニックを用いる村上仁美氏の創造は,そのことを我々に教えてくれる.その火は,罪の赦しと,死から永遠の命への復活と,無からの創造とを条件づけるだろう.

最後に,村上仁美氏の創作の努力に改めて敬意を表したい.また彼女の作品を直接鑑賞することのできる機会を,楽しみにしている.

小笠原晋也

「食卓 — 生(エロス)と死(タナトス)—」: 村上仁美氏の修士制作と修士論文

若い芸術家のなかで今,最も注目される者のひとりと評価される陶芸家,彫刻家の 村上仁美 氏は,2017年03月,愛知県立芸術大学大学院美術研究科彫刻領域の修士課程を修了する際,「食卓 — 生(エロス)と死(タナトス)」と題した作品を発表した.



それとともに提出された修士論文を,村上仁美氏の許可を得て,以下に掲載する.

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2016年度博士前期課程修了制作研究報告書

氏名:村上仁美

研究テーマ:失われた憧憬の形象化

作品題名:食卓エロスと死タナトス 
大きさ (mm) : H 1300, W 1800, D 1000
素材:陶,木


研究の概要

I. 目的:女性というモチーフを通して,人間の生と死,存在について思考,考察する.

II. 内容:彫塑的な造形を伴った複数の陶製の立体作品を用い,生と死のヴァニタスとしての現代の女性像を表現する試み.

III. 方法:複数制作されたヴァニタス(死や衰退を表現した美術工芸品)を用いたインスタレーションによる.



研究の詳細

I. 
目的

1. 創作への経緯

私は,今まで,過去への執着を動機に,少女の像を作ってきた.創作の過程で多くの神話や物語を学んだ私は,空想の世界で,あらゆる少女・女性・女神に出会うことになった.そこには,聖母マリア,洗礼者ヨハネの首を所望したサロメ,人間に死の呪いをかけたイザナミ,全てを生み出し還る場所をも象徴する大地母神がおり,それぞれの物語において,女性の多くは,生と死のいずれか,あるいは両方を伴って表現されていた.以来,このことに注目し,私は,女・女性,というモチーフを通じて生と死について考えるようになった.

私は,以前から,女・女性をモチーフとして創作を試みてきた.そして,私の手から生み出される多くのものは,いわゆる快活な “生” とは少し異なった “闇” の姿とでも言い換えることができるような一種の “妖しさ” に似たものを含むものであった.それは,陽の光のもとの向日葵が喚起する明るい乾いた喜びとは異なった,月の光によって浮かび上がる青白い,ぼんやりとした,輪郭が溶け合った甘美な広がりとして私自身が受け取っている世界を含むものであった.

光と闇,昼と夜,聖と俗,生と死といった,古くから — 恐らくは有史の以前から — 人間が様々な表現のテーマとして取り上げてきた “普遍的な価値 = 豊かさ = 美” が,そこには潜んでいた.自身の文脈において重要であった “女性” が文化的な背景と繋がりを持ち始めたことで,私は,私の表現が,生と死の婚姻関係によって成立していることを確信した.もっとも,そのことに思考が至るためには,本学を離れて,自身の表現の前提となる “土” と “焔” について直接の体験を積む機会を得ることになるまで,しばらくの時間が必要であった.


2. 目的

土を扱うために必要な知識と,それに裏打ちされた技術と,願わくば,私自身の表現につながる独自な手法に出会うことを期待して,愛知県立瀬戸窯業高等学校における勉学に身を置くことを選んだ私は,土と火・焔による様々なドラマを目の当たりにすることになった.焔に焼かれ,焼けただれ,それによって不変の強さと美しさが付与され,あるいは生み出されるそのプロセスは,それまで漠然と「女性の持つ豊かなイメージを表現したい」と考えていた私に,私の表現が “生と死の婚姻関係” によって成立するものであり,私にとっての “豊かな女性のイメージ” は,生と死がつがえられたこと — もしくは,つがえられるであろうこと — を前提として成立するものであることを確信させるものであったのである.

私は,生と死について改めて考えるようになった.私は,自身の “死生観” を持つ程の経験を積んでいるとは思わない.ただ,生と死を意識するようになった私に,そのような感覚を私にもたらすものは,古代の作品に多いように思われた.そのような作品は,祈祷・祭事用のものだけではなく,実際に人間の日常生活に使用されるものにも多くあった.恐らくは,生と死が一体のものとして存在し,様々な不思議を含む営みこそが,生活であったのであろう.生と死の分離,生と死の感覚からの隔絶,逃避が我々の “現代” の前提であるならば,そこには,我々の想像を超えた別の豊かさが存在していたことになるのであろう.

火との関わりによって成立するプリミティブな土の表現の中に人間の存在の根源を予感した私は,従来の彫刻表現に焼き物の要素を取り入れることで現代における女性像の表現を試みたいと考えた.それは,生と死を内包する女性像,生と死の器としての女性像,言い換えれば,“生と死のヴァニタスとしての現代の女性像を創造する” ということであった.


II. 内容

女性像をヴァニタスとして扱う理由は,「使用する」,即ち「触れる」ことを前提とする工芸品によって作品を想定することで,表現が鑑賞者の身体と密接に関わりながらより強い存在になることを期待しているからである.

修了制作の主要な要素である横たわる半人半魚の像は,生と死,或いは,現実の世界と並行して存在するかもしれない世界を繋ぐもの,混然として存在するその世界に生きる者の象徴としての人魚であり,その生死は定かでない.そこには,私自身の「他者・世界とより密接に関わっていきたい」という願いと,死を生のためのプロセスとして — かつ,生を死のためのプロセスとして — 捉える試みが含まれている.

“使用” し,かつ “触れる” ことのできる工芸品によって女性像によるヴァニタスを想定することは,歴史的に見ても全く違和感の無い妥当な表現であると考えることができるようである.それは,人類の営みによって人間の心の底に蓄積され,常に我々の意識の表層に影響を与える何かによってそのように捉えられているのかもしれない.

本研究は,複数の陶による造形物を用いたインスタレーションによって “生と死のヴァニタスとしての現代の女性像を創造する” 試みである.そのために,表現に参加する様々な要素の受け持つ役割や意味が重要になる.以下に,

1. 母性と土と火 ; 

2. うつわ ; 

3. 横たわる人魚 

として本制作に至る過程での自身の思考の進展・変化とそれの基づく主要な制作について簡単に説明し,

4. 失われた憧憬 

において,インスタレーションにより浮かび上がる景色に込めた自身の考えを述べる.


1. 母性と土と火

母性を考えるとき,私には大地のイメージが湧く.これは縄文時代の土偶にも表現されている普遍的なイメージのひとつであろう.あらゆる生き物が大地の恩恵によって生かされ,飲み込まれていくサイクルが原始の時代に地母神信仰を発展させる土壌となったことは,簡単に想像できる.しかし,大地は文明の始まりに密接に関わりながら,人類に幾度となく滅びをもたらしてきたことも,無視できない.

ユング派精神分析家の河合隼雄氏の著書『昔話の深層』には,神話や昔話に登場するモチーフや,数字,物語の起承転結について精神分析学的な立場からの氏の考察がまとめられており,そのなかで河合隼雄氏は “土” について,グレートマザー(太母・大地母神)とともに語っている:

母によってこそ子どもが産みだされ,種族が維持される.母こそは生命の源泉であった.これに対して,父の生殖に預かる意味は明確ではなかった.また,生命を産みだす現象は,植物が土から生まれ育ってくることにも認められた.しかも,冬になって植物が枯れ,土に還ることを考え合わせるならば,土こそは「死と再生」の現象が行われる母胎であると感じられたに違いない.(中略)母性は,その根源において,死と生の両面性を持っている.つまり,産み育てる肯定的な面と,すべてを呑みこんで死に至らしめる否定的な面をもつのである.人間の母親も,内的にはこのような傾向を持つものである.肯定的な面はすぐ了解できるが,否定的な面は,子どもを抱きしめる力が強すぎるあまり,子どもの自立を妨げ,結局は子どもを精神的な死に追いやっている状態として認められる.両者に共通な機能として「包含する」ということが考えられる.(昔話の深層』,福音館書店,pp.32-35).
グレートマザーと結びついた火は,重く,暗く,大地と結びついた炎であり,それは,天上に輝く火と好対照をなしている.ユング夫人は,このような火を,大地の火の精であり,「低い母の息子」と呼んでいる.母なるもののイメージの中で,例えばマリアを天に存在する「高い母」とするならば,グレートマザーは「低い母」であろう.この低い母の中にも潜在する天へ向かう意志を,火は象徴している.それは,上に向かってひらめくが,あくまで土に結ばれている.(ibid., pp.44-45).

ここで私が興味深いと感じるのは,グレートマザーは火のイメージとも語られることだ.私は,この考察に対して,実感を伴った共感を持っている.ならば,私自身もまた,大地に縛られていると感じながらより高次の存在になることを願う火であり焔なのである.

土と火が母性を考察するのに重要な要素であるならば,女性像を表現する媒体として,焼き物は,その生成プロセスも含めて,深層心理学的な立場からも極めて重要で本質的な存在である可能性が高い.

生と死の象徴としての女性  そのイメージは,古代から現代に至るまでほとんど変わっていない.古代から現代にいたるまで,実に多くの表現が生み出された.そして,実に多くの女性像が生み出された.女性像が象徴するものは,人類の普遍性であるのかもしれない.

これらの考察を経て制作に至ったのが,「緩やかに死んでいく未来或いはかつての私たちの器についての考察」である:


タイトルでは「身体」をあえて「器」と記した.身体は魂の入れ物であり,器として捉えることができる,と考えたからだ.そして,この制作は,修了制作の取り組みにとって大きな意味を持った.

私の思考の影にはいつも母・祖母がいる.脈々と続く呪縛と背負わされた業は,おそらく,さかのぼればキリが無く,それこそが輪廻であるのかもしれない.「私もまたその列に加わるのであろうか」という個人の想いを起点としながら,地母神信仰に由来する根源的なテーマへの考察を含めて制作したもので,大地の呪縛の中で,未来あるいは過去の私たち(母親達)の身体には新しい命が芽吹く.

ポール・デルヴォ―  (Paul Delvaux : 1897-1994) の絵画 Femmes-Arbres (1937) :


に見られる下半身が木の女性にインスピレーションを受けて,このような形態となった.

大地が続く限り,この呪縛と輪廻は繰り返されるのだろう.個として存在していたはずの人物が草木に覆われ,破壊されていくといったような,経年による変化を期待している.


2. うつわ

魂とは何か?身体とは何か?— 今まで女性像を作ることにだけ焦点をあててきたが,女性像の創作が人類の普遍性を象徴することだという視野を得て,このような疑問をいだくようになった.

東洋思想には「魂魄」という考え方がある.蜂屋邦夫著『中国的思想』において,「魂魄」は以下のように説明されている:

「鬼」(鬼とは,中国では死者を指す)という字のもともとの意味は,死者である先祖を祭るということであった.それに「云」や「白」をつけた「魂魄」も,元来は死者ということであって,「云」とはたとえば「雲」という字を考えてみてもらえばわかるが,もやもやした気体のような感じであって,「魂」とは,つまり,もやもやした気体のようなたましいのことである.「白」とは文字どおり白いことであり,「魄」とは,ばらばらになっていく白骨である.区別して言えば,もやもやして蒸気のようなものだから「魂」は上にあがっていき,白骨だから「魄」は土になっていくということになるが,要するに,魂も魄も元来は死者の形状をいったものである.後漢あたりになると,発音が同じであるところから,「鬼」とは「帰」である,本来のところに回帰することだ,という説明がつく.(『中国的思想』,講談社,p.107).

この考え方は,私にとって腑に落ちたものであった.魄が土になっていくという記述などは,先に述べた地母神信仰とも繋がりを感じることができるのである.しかし,次に新たな疑問が浮かぶのである.それは “心はどこに属するのか” という問いである.

私が思春期の少女のころ,保健体育の授業で「思春期の心の不安定さはホルモンバランスの乱れによって引き起こされている」という話を聞いたことがある.それは,「自分が持っている喜び,切なさ,痛みや思想が,一時的な生体反応の結果引き起こされたものだ」という説明であった.「心とは化学反応である」というこの考えを,私は受け入れることなどできなかった.しかし,大人になってしまった私には,ただ納得できなかったという記憶があるだけである.今では時として「本当にあれはただの生体反応でしかなかったのかもしれない」とさえ思う自分が存在する.時と共に感情は消え,ただ記憶のみが残る.存在とは何において実感されるのであろう.

「心」は魂に属するものなのかと考えれば,それは魄に属しているもののように思われる.「心」は身体の仕組みであって,生体反応によって引き起こされていると思えば,そのように感じられ,身体と共に心もまた新陳代謝していくと捉えることもできる.注がれた魂の器としてのみ身体は存在し,身体も心もいずれ土へと回帰していくのだと考えれば,そもそも生に意味などはなく,極端に言えば,全ての活動は死ぬまでの暇つぶしなのだという考えも,それなりに筋の通ったもののように思われてくる.私はどのような存在なのだろう?この虚しさや,世の理の軽さに,私はどうしても耐えられないのだ.

火の持つ神秘的な力は,土を焼結させ,形態を維持させることができる.たとえ砕け散ったとしても,焼いてしまえば,二度と土に還ることはない(厳密に言えば,何万年というサイクルで土には還るのだか,人類の寿命の尺度で考えれば,永遠として差し支えない).身体が魂の器でしかないのなら,器として表現する身体によって存在していた記憶を留めることは可能だろうか.

器 - 容器 - 内容物 - 器の機能 - 器の意味 - 存在としての器.陶器の物体としての永遠性と人間の存在についての自身の願いを重ね合わせた制作により,「器としての少女」:



と,修了制作のための習作として「習作:腹部を開く女」:


を制作した.

「器としての少女」は,頭部を開けることができ,それにより空虚な内面を見せることができる.頭部を開けることで,内部は外部と繋がり,全てが外側となる.空虚な内面を見せることによって,少女の実態の無さをモチーフとして,実態のありかについての私感の表現を試みた.

他方の「習作:腹部を開く女」は,ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ (Gian Lorenzo Bernini : 1598-1680) の「聖ルドヴィカ・アルベルトーニ」(Estasi della beata Ludovica Albertoni : 1674) :


へのオマージュを込めた構図になっている.魂を神に還すような構図,神に食い物にされているようにも見えるこの作品に,私自身が,法悦と死の輻輳した甘美な美しさを感じていたことが,参考にする作品として選んだ理由である.

しかし,修了制作を視野に入れたこの習作は,自分の作品になるような気がしなかった.

私は,黄金の槍を手にする天使の姿を見た.穂先が燃えているように見えるその槍は私の胸元を狙っており,次の瞬間,槍が私の身体を貫き通したかのようだった. 天使が槍を引き抜いた,あるいは引き抜いたかのように感じられたときに,私は,神の大いなる愛による激しい炎に包まれた.私の苦痛はこの上もなく,その場に うずくまってうめき声を上げるほどだった.この苦痛は耐えがたかったが,それ以上に甘美感のほうが勝っており,止めて欲しいとは思わなかった.私の魂はまさしく神そのもので満たされていたからである.感じている苦痛は肉体的なものではなく,精神的なものだった.愛情にあふれた愛撫はとても心地よく,そのときの私の魂は,まさしく神とともにあった.この素晴らしい体験をもたらしてくれた神の恩寵に対して,私はひざまずいて祈りを捧げた.(ウィキペディアの「聖テレジアの法悦」のページより抜粋).[末尾の注を参照]

これは,ベルニーニが同じテーマで制作した「聖テレジアの法悦」(Estasi di santa Teresa, 1647-1652) における記述である.私は,テレジアの感じた恍惚や甘美感を共感することはできるのだが,神と繋がり,神に愛された者の法悦を,個人の悦びとして共感できなかったのだ.

私がテレジアの感じたような悦びを感じる瞬間は,“人間” と心が繋がる時だと思う.価値観の違う他者と出会い,時に衝突しながらも理解者が増えていくことほど,嬉しいと感じることはないのだ.

個人の悦びが,真に他者と共有できるものであるのか否かはわからないと私は思う.しかし,ある種の喜ばしい感覚を拡大し続けることはできるのだと考えている.たとえ現世と並行して別の世界が存在していたとしても,私が試みる表現は生身の人間の世界にあるのだ.


3. 横たわる人魚

人魚は,太古から多くの人に親しまれてきた表現モチーフである.そして,このモチーフは,修了制作における表現の中心に存在するものである.

ここではまず,その人魚に言及する前に,半人半獣についての私の考えを記しておきたい.私は半人半獣の生き物を,社会から拒絶されながら成熟した人の姿の比喩として捉えている.

人を他の動物と並置して考えてみると,あまりの頼りなさに驚かされてしまう.肉を切り裂くための牙や爪は無く,多くの哺乳類の動物と違い,自力で歩けるようになるまで多くの時間を必要とする.人類が今まで絶滅を免れてきたのは何故か?知恵を使い,群れを作り,社会性を発達させてきたからだ.つまり,人間が生きていくには社会との関わりが必要不可欠である.

人間が人間として社会の一員となろうとした時に,先天的・後天的な条件によって不幸にして現行の社会との間に深い断絶を持ってしまう場合がある.それは,心身の障害や個性,或いは他者による意図的な差別が原因であることが多い.

極めて狭く,常識的な世界に生きる我々には,その狭い社会の外側に暮らす人たちの生きている世界は特殊に映るように思われる.

半人半獣というモチーフは,他者にとってもはや自身とは違う生き物のように感じられてしまう者や社会の比喩として,当事者にとっては,尋常ならざる獰猛さや奇怪さを纏わなければ生きていくことができない自身や世界の状態そのもの比喩として,存在しているのだと捉えることができる.

神話に登場する半人半獣の者たちの多くは,討伐され,あるいは自ら命を絶たねばならない.群れる習性をもつ人間であるからこそ,所属する社会の大きさは,そのまま自身の強さのひとつとなる.どの時代においてもマイノリティは弱者であり,それゆえに,悲惨な人生の結末に至ることも多い.

半人半獣というイメージを与えられた,恐らくは人間の豊かで無慈悲な想像力の産物である人魚は,特に文学において,悲劇的な運命を宿命として負わされることが多いモチーフである.そこには,取り敢えず,獰猛さや野蛮さといったイメージは存在しない.長い歴史の中で作られた男性中心の社会のシステムの中で喘ぎ,孤独に生きる現代の女性の姿をそれは少なからず喚起するのであろう.


修了制作における人魚は,腹部を開かれた姿で横たわり,苦痛に震えている.さまざまな意味において,弱者であるなしに関わらず,人間には苦悩がつきまとう.多くの人間は,自己にとっての社会と他者にとっての社会との間に産まれる齟齬と摩擦の中で,生と死に向き合わなければならないのである.

人魚の開かれた腹部は,器として使われることを前提に作られている.この人魚が器として使われる時,繋がりを持たない人々が彼女の肉を食べることによって大きな連なりの一部となる疑似体験が生まれる.「同じ釜の飯を食う」という表現は何やら人魚のイメージやこれまでの記述にはそぐわないようにも感じられるが,人がそれぞれに異なる価値を共有するための行為・儀式,或いはその行為の構造としては全く同じものと考えることができる.その中心にあるものは,恐らく感動で,その起爆剤として存在するものが,生と死に直結した “悦び” や “悲しみ” といった感情・生理的反応であり,それらは生や死と繋がった行為と共に現れるのである.ゆえに,この瞬間こそ彼女の苦悩の表情に悦びが浮かび,彼女の喪失・滅び・死を経て,まさに彼女によって新しい繋がりと生がもたらされるのである.死とつがえられた生を賛美するためのヴァニタスとして,横たわる人魚は存在するのである.

横たわる人魚の器から多くの人が食事をとる場面を,搾取の一場面として受け取ることも,もちろん可能である.それもひとつの真実であり,「私が神に食われる」と表現した「聖ルドヴィカ・アルベルトーニ」もそういった要素をはらんでいると思われるのだ.

本作において,私は,時に絶望的と感じられる “人間同士の理解” と,矛盾と齟齬を多く含むが故の “人間のもつ可能性” について,なにがしかの意思表示を行うことができればと考えている.そして,そこには,“神” という人知を超えた存在・概念に対するアンチテーゼも含まれることになるのである.人生に於ける素晴らしいもののほとんど全てが,この他者との関わりの中からしか生まれないことを私たちは既に知っているはずであり,そのことは多くの歴史的事例や芸術が示しているはずである.


4. 失われた憧憬 — インスタレーション
  

蓮を模した器が並ぶテーブルの上には,腹部と下半身を開かれた人魚が横たわっている.傍らには天を仰ぐ,交尾する蛇の燭台がある.テーブルを支える壺の中には死者が眠っている.


蛇は,原始の頃から,特にアジアにおいて,生命力の象徴とされてきた生き物だ.日本にみられるしめ縄飾りも,交尾する蛇がモチーフになっている.横たわる人魚を,ただ儚く死んでいくだけの存在ではなく,強い生命力をはらんだものとして表現するために,交尾する蛇の絡まった燭台を置いた.上に向かって伸びる蛇と火は,先に述べた,土に結ばれながらも天へ向かう意志を象徴している.大地と火は密接な関係を持つことも,すでに述べたとおりである.生命力や火を表現するならば,それらが巡り,やがて還る場所を象徴する大地を作らなくてはならない.それは,大地を模したテーブルとして土を用いて作ることとした.

土によって作られた大地を模したテーブルは,壺と一体になった足に支えられている.壺に遺体を埋葬する壺棺墓の文化は,日本のみならず世界各地で見られ,日本では弥生時代に見られることが最も多い.土中の死者の世界を表現するためにこれを取り入れた.

そして,その上に広がる生と死のつがえられた世界を表し,荘厳にするために,蓮の花の装飾を取り入れた.この花は,あの世とこの世のぼんやりとした境界を表している.

私は,この花を,今咲きほころうとしている様子として造形した.それはこれから生まれてくる景色が,希望や喜びにつながるものであることを予感するために必要だからである.

今,私の見ている現実の世界は,梅雨の暗がりのような仄暗さと湿度に満たされているように,私には感じられる.それは,効率的な経済を中心に据える近代社会が生み出した文明が放つ光によって,あるべき “闇” が塗り潰されようとしているからではないだろうか.

私の考える失われた憧憬とは,強烈な光と闇によって構成された世界である.光によって闇が,闇によって光が生じるということを,我々現代人は忘れてしまったのであろうか.かつての私たちが手にしていた豊かな “生のイメージ” を現代に呼び戻すことは,あるいは難しいかもしれない.しかし,生化学の発達した現代・未来においても,われわれは新たな “生のイメージ” の獲得を求めるであろう.未来における様々な変革の可能性を否定する要素はどこにもない.

インスタレーションによって作り出された世界は,所謂,極楽浄土を連想させる要素を含んで組み立てられている.しかし,そこには,何やら生々しい人間の,死とつがえられた生の匂いが漂っている.私は,神の世界を表現しようとしているのではない.私がこの表現で目指すものは,現代の社会の景色をモチーフとした,現代における生と死を内包する器としての女性像であり,“現代における生と死のヴァニタスとしての女性像” なのである.それは何かを取り入れ,その内部でそれを育み,醸成し,自身の生命と引き換えに,小さな喜びを社会に産み落とす存在なのである. 


III. 
方法

全て陶による伝統的な技法を中心にした制作である.学部,博士前期課程,博士前期課程を二年間休学して修得した自身の持つ様々な基本技法を駆使する制作を目指した.ただし,台となる机は,木材で制作したのち本焼成した土の粉末を塗すことで,土でできている様な表情に仕上げた.机の脚に取り付けた壺は手びねりによる制作とした.人魚は,既存の自作の人物の型からおこし,ディテールは塑造モデルを用いたデッサンを参考に制作した.人魚の下半身は,手捻りによる造形とした.燭台はろくろによって制作し,蛇は粘土を引き延ばして作った.蓮の花は手びねり,葉は型で抜いた.机・壺以外の全てに釉薬を施し,1230度で焼成した.酸化焼成のものも,還元焼成のものもある.


研究の成果

作品の表現する意図としては,実際に使用するところまでを報告したかったが,時間的な制約もあり,ここまでの制作となってしまった.今後,これからの制作を含めて,キャストや背景にこだわって悦びが拡大していく様子を画として収めたい.

自身の持てる技術を動員した制作となったと考えているが,修了制作に至ってもなお自身の感じた事や経験したことのみによる制作に留まったと反省している.その意味において,私の作品は未だに私小説的である.しかし,これらの研究を通じて,私は,自身の仕事が普遍性を獲得するための新たな手掛かりを多く手に入れたと感じている.そして,これからは,その仕事に普遍性を持たせていくことに努力を傾注することで ‟作品” としての自立性を付与し,その作品を通じて,より広い世界と関わっていくことを目指したいと考えている.博士前期課程に在籍中にもっと多くの作品を作り,研究をしたかったが,これが現時点での私自身の実力であることを認めて,これから始まる作家生活への挑戦に活かしていきたいと考えている.

修了制作に向けての幾つかの制作と,修了制作を構成する造形物に対する説明と,修了制作による作品のイメージと,それに託す自身のささやかなメッセージと,この制作に至る経緯を記し,最後に,自身の反省と今後の決断を記して,休学期間を含めた愛知県立芸術大学大学院博士前期課程における研究報告書を結ぶ.


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[注]村上仁美氏が引用している日本語版ウィキペディアの文章は,英語版に掲載されているものの翻訳であるが,誤訳を含んでいる.また,英語版に掲載されているアヴィラの聖テレサ (Santa Teresa de Ávila, sainte Thérèse d'Avila : 1515-1582) の自叙伝『命の書』(Libro de la vida : 1566) からの引用も,完全なものではなく,要約にすぎない.『命の書』の第29章の当該箇所を,スペイン語原書のフランス語訳から引用しておく:

そのような[恍惚の]状態において,次のような幻覚を幾度かわたしにお与えになることは,主の好むところであった.わたしは,すぐそばに,わたしの左側に,天使を身体的な形のもとに見る.天使をそのように見ることは,非常に希にしか起こらない — というのも,先ほども言ったように,天使は,わたしにしばしば現れるのだが,目に見えはしないからである.今語っている幻覚においては,天使が次のような形で自身を現すことを,主は欲した:天使は,大きくはなく,小さくて,とても美しい.その燃えるような顔は,彼れが最も高い階級 — 愛に燃える霊気たちの階級,ケルビムの階級 — に属していることを示しているように思われる (...). 
天使は,両手で黄金の長い槍を持っており,鉄でできたその切っ先には小さな炎が燃えている.幾たびか彼れは槍でわたしの心臓を刺し貫き,その槍はわたしのはらわたにまで突き通る.彼れが槍を引き抜くとき,鉄の切っ先によって,わたしのはらわたは彼れのところへ抜き取られてゆくかのようである.そして,わたしは,最も熱い神の愛に燃えるままとなる.痛みはとても強く,わたしは弱いうめき声をあげる.しかし,同時に,その曰く言い難い痛みが惹き起こす甘美な感覚はあまりに過剰なので,その終わりを求める気にはならない.そして,魂は,神自身以下のものであるような何ごとかによって満足することは決してできない.この苦痛は,身体的なものではなく,霊気的なものである.しかしながら,身体がそこにいささか関与していないわけではない — おおいに関与してさえいる.されば,魂と神との間には,言い表せぬほど甘美な優しさの交流がある.わたしが作り話をしていると思う人がいるなら,そのような交流を主が善意を以てその人に味わわせてくださるよう,わたしは願う. 
そのような恍惚が続いている間ずっと,わたしは,茫然自失の状態にあった.わたしは,見ることも語ることももはや欲さず,しかして,わたしの苦痛 — それは,わたしにとって,被造界のあらゆる喜びを超えた至福であった — へ完全に引き渡されることを欲していた. 
わたしは,ときおり — 神が,あのすばらしい恍惚をわたしに送る気になったとき — あの恵みに与った.あの恍惚に抗うことは,多数の人々の前でも,できなかった.それゆえ,たいへん遺憾にも,それは人々の知るところとなり始めた.(...) あの苦痛が感ぜられるやいなや,主は,わたしの魂を連れ去り,それを恍惚の状態に置く.さように,魂は,耐える間も苦しむ間もない:ほとんどすぐさま,魂は悦の状態へ入る.かくも大きな善意にかくもうまく応じ得ないひとりの被造物にあのような恵みを与えてくださる主が,とこしえにたたえられますように.

小笠原晋也