La sublimation en tant que suppléance du « Il n'y a pas de rapport sexuel »
「性関係は無い」と昇華と代補
2017年06月14日の Twitter より
たまたま Facebook で Lacan の命題「性関係は無い」が話題になっているのを見かけました.それが何を言わんとしているのかを理解するのはやはり難しいことであるようなので,何度でもくりかえし説明しましょう.
「性関係は無い」が言わんとしているのは,性的な悦 (jouissance sexuelle) の不可能性です.
悦とは,欲望の満足です.
Freud は Trieb[本能]と言いましたが,Lacan は生物学的な意味合いを有するその語を避け,より人間的な désir[欲望]という語を以て Trieb の問題を考えました.
また,Freud は Libido[リビード]とも言いました.Freud 自身,それをアメーバーの偽足に譬えたり,何かエネルギーのようなものとして説明したりしています.しかし,libido はラテン語で「欲望」です.libido の問題も Lacan は「欲望」を以て思考します.
「性関係は無い」は,決して満たされることのない欲望にかかわる命題です.
決して満たされ得ない欲望.そのことを今の日本で最も雄弁に物語っているものをひとつ挙げるとすれば,それは竹宮恵子氏の『風と木の詩』の Gilbert でしょう.
『風と木の詩』は,ひとつの「欲望の悲劇」です.
Gilbert と Serge の関係が男どうしであるから「性関係は無い」のではありません.Serge の愛が Gilbert に対して無力であるから「性関係は無い」のでもありません.
『風と木の詩』において問われているのは,欲望満足の不可能性と,欲望の昇華としての愛の可能性です.
Serge の愛が Gilbert に対して無力であったとすれば,それは,Serge が Lacan による「欲望の昇華としての愛」の定義:「愛するとは,持っていないものを与えることだ」を知らなかったからです.それを知っていれば,もう少し別の愛し方をすることができていたでしょう.
精神分析においては,「欲望」を心理学的に考えてはなりません.そうさせないために,Lacan は徹底的に非心理学的な定義を「欲望」に与えました :
le désir est la métonymie du manque-à-être (Ecrits, p.623).
欲望 $ は,存在論的切れ目のエッジ S(Ⱥ) の座(緑色)において強迫的に反復される徴示素 a の連鎖に対する存在欠如
「存在欠如」は,Heidegger と Lacan の否定存在論における「抹消された存在」
の別名です.Lacan はときおり désêtre という新造語も使っています.
「性関係は無い」は,性的な行為において欲望の完全な満足としての jouissance sexuelle[性悦]を実現するかもしれない phallus はあり得ない ‒ 不可能である ‒ ということです.たとえあなたの penis がいくら元気に勃起していても.
欲望の完全な満足としての jouissance sexuelle を実現するかもしれない phallus の不可能性を形式化する学素として,我々は,この抹消された φ を用います:
それは,不可能な phallus を形式化する学素です.
それは,抹消された存在Sein の解脱実存的な在処 [ la localité ex-sistente ] の学素でもあります.両者は相互に等価です:
それは,抹消された存在
「性関係は無い」という命題を聞いたら,何を以てしても決して満たされることのない不吉な欲望の穴のイメージを思い浮かべてください.
René Magritte (1937), The Pleasure Principle (Portrait Of Edward James)
村上春樹氏の最新作『騎士団長殺し』のなかで,主人公の画家は,まさにそのような穴を絵に描くことになります ‒ 小説の冒頭において,顔の無い男(抹消された存在 Sein, すなわち死そのものとしての Nom-du-Père[父の名]の形象)が描くよう求めた彼の不可能な肖像画の代わりに.
口を開いたままの穴.絵に描かれたその穴は,決して口を閉じることがありません.
『騎士団長殺し』において,主人公の画家は,自身の作品にとても満足します.それは,満足不可能な欲望の穴の口を,存在論的切れ目のエッジ S(Ⱥ) において,開いたまま支えることに行き着き得た昇華の満足です.
口を開いたままの穴.絵に描かれたその穴は,決して口を閉じることがありません.
『騎士団長殺し』において,主人公の画家は,自身の作品にとても満足します.それは,満足不可能な欲望の穴の口を,存在論的切れ目のエッジ S(Ⱥ) において,開いたまま支えることに行き着き得た昇華の満足です.
性関係は無い.しかし,満足不可能な欲望に,愛は昇華をもたらし得ます ‒ 神の愛は:
seul l'amour ‒ l'amour-sublimation ‒ permet à la jouissance de condescendre au désir (Lacan, la séance du 13 mars 1963, Séminaire X L'angoisse).
愛 ‒ 欲望の昇華としての愛 ‒ のみが,悦が欲望に応じてやることを可能にする.
さらに,Séminaire XX Encore の1973年01月16日の講義において Lacan はこう言います:
c'est bien au regard de ce par-être [ para-être ] que ce qui supplée à ce rapport [ sexuel ] en tant qu'inexistent ... c'est bien dans ce rapport au par-être [ para-être ] que nous devons articuler ce qui y supplée, c'est à savoir précisément l'amour.
抹消された存在Sein,êtreの在処(赤色)の傍ら[緑色のエッジ ‒ すなわち,imaginaire な paraître ではなく,而して,S(Ⱥ) の座において書かれることをやめないものとして実在的な客体 a]に対して ‒ との関係において ‒,我々は,現存しないものとしての性関係を代補するもの ‒ すなわち,まさしく,愛 ‒ を,連節せねばならない.
この para-être に,我々は,παρουσία(人間を愛する神による人間の終末論的な救済としての Jesus Christ の再臨)を読み取ることもできるかもしれません.ともあれ,この Séminaire XX の一節と,先ほど引用した Séminaire X の一節とを読み比べるとき,我々は,Lacan が sublimation[昇華]を suppléance[代補]として捉え直していることに,気がつきます.
抹消された存在
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