2017年3月3日

Séminaire XVII『精神分析の裏』第 X - XIII 章の解説

Lacan 1969-1970年の Séminaire XVII『精神分析の裏』の第 X - XIII 章をまとめて,Jacques-Alain Miller  L'envers de la vie contemporaine[現代生活の裏]と題しています.この表題は,Balzac の最後の小説 L'Envers de l'histoire contemporaine[現代史の裏]の表題に基づいています.というより,それに言及する際に « L'Envers de l'histoire contemporaine » と言う代わりに « L'Envers de la vie contemporaine » と言った Lacan の思い違いを Jacques-Alain Miller はそのまま利用したのです.

現代生活の裏,現代社会の裏... しかし,だからといって Lacan は社会学的なことを語るわけではまったくなく,而して,否定存在論的構造について,四つの言説を用いて説明を続けます.






否定存在論的構造について,Lacan はさまざまな道具立てを用いて思考します.おもだったものは,投射平面のトポロジーとボロメオ結びです.

上のように図式化することによって,我々は次のふたつのことに改めて気づかされます:ひとつは,「真理」の概念の変化;もうひとつは,学素 S(Ⱥ) の根本的な重要性です.

四つの言説の公式化以前,Lacan は vérité を次のように位置づけていました:



この図において,V は vérité, Sc は science であり,両者の間の切れ目を成すのは objet a です.1965-66年の Séminaire XIII L'objet de la psychanalyse で提示された図です.その年度の初回講義は,Écrits の最後の書である La science et la vérité[科学と真理]です.そこにおいて Lacan は,科学と主体との相関について問いつつ,主体の分裂を「知と真理との間の分裂」(Écrits, p.856) と公式化しています.

それを Saussure 的な学素 signifiant / signifié にならって形式化するなら:


この構造は,四つの言説においては「大学の言説」として形式化されることになります:


主体の分裂を「知と真理との間の分裂」と公式化する場合,その「真理」は,主体の 存在 $ としての実在 [ le réel ] のことです.

それに対して,四つの言説においては,真理の座は左下の座です.それは,穴としての徴在 [ le symbolique ] の位に相当します.

かくして,四つの言説の公式化において Lacan は真理の概念を変更した,と確認されます.従来,真理は,解脱実存としての実在のことでした.それに対して,四つの言説においては,真理は,穴としての徴在として定義されます.

次に,学素 S(Ⱥ) について.

S(Ⱥ) は,或る意味で精神分析の alpha かつ omega です – なぜなら,以下に見るように,それは,徴示素が徴示素として機能するための可能性の条件であり,かつ,Lacan が1965年6月16日の講義の終わりで « le terme de l'analyse est ce que j'ai inscrit dans le symbole S(Ⱥ) »[精神分析の終結は,わたしが記号 S(Ⱥ) において記入したところのものである]と言っているように,其こに精神分析の終わりが存するところのものでもあるからです.

1960年のテクスト『Freud 的無意識における主体のくつがえしと欲望の Dialektik』において,S(Ⱥ) は « signifiant d'un manque dans l'Autre [ en tant que trésor du signifiant ] »[徴示素の宝庫としての他のなかの欠如の徴示素](Écrits, p.818) と定義されます.そして,徴示素の宝庫としての他の場処における欠如が如何なるものであるかを示す公式が,これです : « il n'y a pas d'Autre de l'Autre »[他の他は無い](ibid.).

「他の他は無い」とは如何なることか?それは « Sans-Foi de la vérité » (ibid.) である,と Lacan は続けて言っています.つまり,無意識において語る何かは実在としての真理そのものであるとしても,その真理の言うことが真であると保証するものは何も無い,ということです.

かくして,« nul langage ne saurait dire le vrai sur le vrai »[如何なる言語も,真について真を言うことはできない](Écrits, p.867). そこのとを Lacan は « il n'y a pas de métalangage »[メタ言語は無い]とも公式化します.

「他の他は無い」について,投射平面のトポロジーにおいて見てみましょう.徴示素の宝庫 [ le trésor du signifiant ] としての他の場処 [ le lieu de l'Autre ] は,穴あき球面です.それに対する「他の他」は,穴あき球面に対して ek-sistent な Möbius strip の曲面です.より正確には,「他の他」の座は,Möbius strip の曲面によって表される localité ex-sistente de l'être, ek-sistente Ortschaft des Seins, 存在 の解脱実存的在処です.

さらにより正確に言うと,「他の他は無い」は,単純に「他の他」がひとつの存在事象として存在することを否定しているのではなく,而して,次のふたつのことを公式化しています : 1)「他の他」の座は 存在 の解脱実存的な在処である ; 2) その解脱実存的在処は本来的には空座(空所,空処)である.

ところで,Séminaire XVII の第 VI - IX 章において見たように,Möbius strip の曲面によって表される 存在 の解脱実存的在処は,源初的に去勢された死せる父の座であり,かつ,「性関係は無い」の根拠を成す不可能な phallus φ の座です.

かくして,「他の他は無い」と「性関係は無い」とは相互に等価であることが,改めて確認されます:

« il n'y a pas d'Autre de l'Autre » ≡ « il n'y a pas de rapport sexuel »

無き「他の他」を形式化するとすれば,その学素は Ⱥ であるのが自然でしょう.しかし,我々としては,学素 $ にならって,学素 Ⱥ を「他の欲望」の学素として用いたいと思います.それによって,幻想 ( $a ) の可能性の条件であるより根本的な構造を明確にこう公式化することができます:


この学素 Ⱥ ◊ φ こそが,性関係を可能にするかもしれない phallus の根本的な不可能性のゆえに他の欲望 Ⱥ の満足も根本的に不可能であることを,より正確に形式化しています.

さらに,この学素は,穴 Ⱥ と解脱実存 φ とは明確に区別さるべきであることを,改めて気づかせてくれます.前者は徴在の位,後者は実在の位です.

では,Ⱥ と φ とを分離しつつ結合している ◊ は何なのか?上の図において明らかなように,それは,投射平面のトポロジーにおいては穴のエッジであり,かつ Möbius strip のエッジでもあるものとしての S(Ⱥ), ボロメオ結びにおいては R, S, I の三つの輪をボロメオ的に結ぶ第四の輪としての S(Ⱥ) です.

S(Ⱥ) にそのように consistance[定存]を認めて良いのか?そのことを改めて検討してみましょう.そのために,S(Ⱥ) が « signifiant d'un manque dans l'Autre »[他のなかの欠如の徴示素](Écrits, p.818) と定義された『主体のくつがえし』のテクストに戻りましょう.

その定義に続いて,Lacan はこう述べています :
nous partirons de ce que le sigle S(Ⱥ) articule, d'être d'abord un signifiant. Notre définition du signifiant (il n'y en a pas d'autre) est : un signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant. Ce signifiant sera donc le signifiant pour quoi tous les autres signifiants représentent le sujet : c'est dire que faute de ce signifiant, tous les autres ne représenteraient rien. Puisque rien n'est représenté que pour. Or la batterie des signifiants, en tant qu'elle est, étant par là même complète, ce signifiant ne peut être qu'un trait qui se trace de son cercle sans pouvoir y être compté.  
我々は,この記号 S(Ⱥ) が述べていること – それは,まず,ひとつの徴示素である,ということ – から出発しよう.我々の「徴示素」の定義は,こうである(徴示素のほかの定義は無い): ひとつの徴示素,それは,主体を代表するものである – もうひとつのほかの徴示素に対して.この徴示素 S(Ⱥ) は,したがって,其れに対してほかの徴示素すべてが主体を代表するところの徴示素である:すなわち,もし仮にこの徴示素 S(Ⱥ) が無いならば,ほかの徴示素すべては何も代表しないことになるであろう.というのも,主体が代表されるのは ... に対してでしかないからである.ところで,徴示素の集合は,それが存在する限りにおいて,そのことそのものによって完全であるのであれば,この徴示素 S(Ⱥ) は,徴示素の集合の円によって描かれる線でしかあり得ず,徴示素の集合のなかに数え入れられることはできない.
この一節において « batterie »[複数の要素のひとそろい,ひと組み]を「集合」と訳すのは,確かに,翻訳としては正確ではありません.しかし,Lacan は明らかに「集合」の概念を念頭に置いています.彼が「円」と言うとき,それは,初歩的な集合論において用いられる Venn diagram においてひとつの集合を表す円のことです.

ともあれ,以上からこう結論することができます : S(Ⱥ) は,徴示素の宝庫としての他の場処に属してはいないひとつの特別な徴示素である.その意味において,S(Ⱥ) はひとつの「他の他」であり,そのものとして consistant[定存的]である.

S(Ⱥ) がひとつの「他の他」であることは,「他の他は無い」と矛盾してはいません.そも,後者の言うところの無き「他の他」は,書かれないことをやめない不可能な phallus φ のことです. それは,実在の位 – Möbius strip の曲面 – に相当します.それに対して,S(Ⱥ) は,穴と Möbius strip とのエッジに相当します.ボロメオ結びにおいては,実在,影在,徴在の三つの輪をボロメオ的に結び合わせる第四の輪を成します.

四つの言説における右上の座 – Lacan が曖昧さ無しにでなく la place de l'autre[他者の座]と定義する座 – は,実は,そのようなものとしての S(Ⱥ) に相当している.我々はようやく,そのことを明確に把握することができます.

徴在の穴のエッジを成す S(Ⱥ) こそは,1953年に Lacan が « le support de la fonction symbolique »[徴在の機能の支え](Écrits, p.278) と規定する Nom-du-Père[父の名]にほかなりません.それがボロメオ結びの第四の輪を成すことを,実際,Lacan は1975-1976年の Séminaire XXIII Le sinthome において明確に提示しています.

しかし,そのような父の名は,Lacan が「詐欺師」と批判する「立法者」でしょうか?

「立法者」について Lacan はこう言っています : « C'est en imposteur que se présente pour y suppléer le Législateur (celui qui prétend ériger la Loi) »[他の他は無いことに対して代補するために立法者(我れこそは法を立てる者なりと主張する者)が現れるのは,詐欺師としてである](Écrits, p.813).

「他の他は無い」は「性関係は無い」と等価です.性的に悦することができないのは,実は,性関係を実現し得る phallus が不可能であり,それによって性関係の悦は不可能であるからです.

それに対して,詐欺師的な立法者は「悦するなかれ」と命令します.悦することは禁止されている,なぜなら我れが悦の禁止の律法を立てたから.オィディプス複合における父こそが,そのような詐欺師的立法者です.そのように禁止命令を発する父は,支配者の座,つまり,四つの言説における左上の座 – la place de l'agent, 能動者の座,代表者の座 – に位置します.

それに対して,S(Ⱥ) としての父の名は,右上の座そのものを成します.その座は,支配者に対して他者である者の座,すなわち,奴隷の座です.それは,「他の他は無い」に対する代補ではなく,「他の他は無い」ことを支えるものであり,それによって実在,影在,徴在の三位から成る否定存在論的構造を可能にするものです.Lacan が詐欺師と批判する立法者ではありません.


精神分析の終結は S(Ⱥ) に存する  つまり,精神分析の終わりは,絶対的な支配者に成ることに存するのではなく,而して,奴隷として 存在 により自有され,かくして,存在 の解脱実存的な在処を支えることに存します.

そのとき,他の欲望 Ⱥ は,S(Ⱥ) において,昇華を得ます.分析の終結における昇華は,何らかの悦の実現ではなく,而して,悦の不可能性を支えることに存します.

Lacan は,1963年03月13日の講義でこう述べています : « seul l'amour-sublimation permet à la jouissance de condescendre
au désir »[愛-昇華のみが,悦が欲望に応じてやることを可能にする].

精神分析の終結としての欲望の昇華 S(Ⱥ) において,悦はその不可能性において欲望に応ずることになります.そのような昇華こそが,「持っていないものを与える」こととしての愛です.それが,本当の意味での神の愛との出会いです.そして,S(Ⱥ) として自有において生きる者のみが,本当に隣人愛を実践することができます.

0 件のコメント:

コメントを投稿