2016年9月22日

精神分析の実践がかかわるのは「こころ」にではない – clinical psychologist の国家資格制度について

Clinical psychologist の国家資格化に関する新聞記事を見かけた:
心のケアに国家資格「公認心理師」制度を創設 
厚生労働省と文部科学省は,心のケアにあたる国家資格「公認心理師」の制度を創設する.欝,虐待,不登校など心の問題が深刻化し,対応が求められる中,一定の質を持った心理職を養成するのが狙い.20日(2016年09月20日)に教育カリキュラムを決める初の検討会を開く.
厚生労働省研究班の2014年度調査では,国内で働く心理職は約 38,000 - 40,000人.医療機関,学校,企業,警察,裁判所など,活躍の場は広がっている.他方で,さまざまな民間資格が乱立し,認定条件,試験,更新制度はさまざまで,技量に差のあることが指摘されていた.
このため,誰もが安心して心のケアを受けられるよう仕組み作りを求める声が高まり,昨年09月,国家資格化を定めた公認心理師法が成立した.2018年に第1回国家試験が行われる予定だ.
同法によると,受験資格は,大学と大学院で指定された科目を修めた人や,大学で指定科目を修めたあと一定の実務経験を積んだ人などだ.現在心理職として働く人も所定の条件を満たせば施行後5年間は受験できるよう,経過措置がある.
検討会では,公認心理師に必要な知識や技術について整理し,指定科目や,何を実務経験と認めるかなどについて話し合い,今年度中に報告書をとりまとめる.

厚生省による clinical psychologist の国家資格化の必要性は,昔,わたしが精神病院勤務医であったころから,精神科医たちにより提言されていた.ただし,その理由は:手間暇のかかる psychotherapy を医師以外の者にまかせることによって医師ができるだけ多数の患者を診察し得るようにすること,かつ,psychotherapist の面接についても医師の診察と同等の高い保険診療点数を請求し得るようにすること;つまり,医療機関の保険診療の売り上げができるだけ高くなるようにすること,である.

今はどうか知らないが,昔は,精神病院のなかで「心理かぶれ」の医師がひとりの患者に psychotherapy と称して長時間の面接を行うことは,したがって,院長などの精神病院管理者からは非常に嫌われていた.そんなことをするより,数をたくさん診ろ,というわけである.

さらにそこには,psychotherapy は時間がかかるだけで,治療的には無効だ,という考えも含意されている.かつて,「ムンテラ」という医師隠語があった.Mundtherapie : 口・療法.つまり,口先で適当な言葉を患者に言って,患者を納得させることである.psychotherapy は一種の「ムンテラ」だ,ただの気休めだ,という考えである.


したがって,精神科医たちにとっては,故河合隼雄氏の主導で文部省所轄の資格としてできあがった臨床心理士は,まったく無意味なしろものであった.

いずれにせよ,精神分析がかかわっているのも,psychotherapy と同様に「こころ」の次元のことである,と考えている限り,おまえたちがかかずりあっているのは imaginaire なものにすぎない,という批判を免れることはできない.

大学で多くの psychologist たちがネズミの行動心理学に専念しているのも,そのような批判をかわすためである.

そもそも,「こころ」という表現を用いている限り,心身二元論を免れることもできない.

精神分析の場は,心理学的場ではない.Lacan はそのことを強調するために,当初から文化人類学や言語学への準拠を積極的に登用した.

Lacan の Heidegger 存在論への準拠も,確かに,精神分析の脱心理学化のためである.しかし,それは,Lévi-Strauss や Saussure への準拠と同じ水準のものではない.


Heidegger への準拠は,より根本的なものである.つまり,精神分析をその本質において思考するためのものである.

Lacan にしたがって,Heidegger への準拠によって,精神分析をその本質において定義するなら,我々は今やこう公式化することができる:

精神分析は,存在の真理の実践的な現象学である.

存在の真理が,それが自身を示現せんとするがままに,自身を示現し得るようにすること:精神分析の経験は,そこに存する.


資格認定については,Lacan はこう公式化している:「精神分析家は,己れ自身によってのみ資格認定される」 [ le psychanalyste ne s'autorise que de lui-même ] (Proposition du 9 octobre 1967 sur le psychanalyste de l'Ecole, in : Autres écrits, p.243).

それは,誰もが恣意的に精神分析家を自認してよい,ということではない.

Lacan が言うところの「己れ自身」は,哲学や心理学や法学や社会学等を含む世の通念が「自我」とか「自己」とか「自己意識」などと呼ぶところのものではない.

そうではなく,この「己れ自身」は,精神分析の経験をとおして成起することになる自身の存在の真理そのもの,すなわち,Heidegger が Ereignis [自有]と名づけたところのものである.

であればこそ,精神分析は存在の真理の実践的現象学である,と規定され得る.

「精神分析とは,精神分析家が為すものと人々が期待するところの治療である」 (Ecrits, p.329) と Lacan は1955年に規定した.そして,精神分析家とは,その本有において,自身の精神分析の経験により発起する自有である.

clinical psychologist の資格認定は,当事者や官僚どもが如何なる条件を設定しようと,単なる仮象の次元のものにすぎない.

ごまかしや気休めでない何ものかに到達しようとするなら,自有となった精神分析家と出会うことから始めねばならない.

逆に言えば,決して真理へ目覚めようとせず,ごまかしの非本来性のなかでまどろみながら夢を見続けていれば済む者には,clinical psychologist の「カウンセリング」で十分である.

2016年9月21日

精神分析の面接の料金について

先日,東京ラカン塾の website を改訂しました.この機会に,精神分析の面接の料金について説明しておきましょう.

Freud は,いわゆる開業医でした.自身の生計をたてるために,診療行為に対して患者から支払を受けました.そのことは,形の上では,あらゆる専門職に関して同様です.

自身の生計のために,弁護士は法律相談や弁護活動に対して,税理士は会計業務に対して,顧客から支払を受けます.精神分析家についても,形の上では同様です.

一般的に,或る専門職の者が自身の専門的な知識と経験にもとづいて行う業務には,それに固有な内在的な「価値」があり,それに見合う代価を顧客は支払う,と思念されています.精神分析家が行う精神分析の業務に関しても,確かに,事は同じであるように見えます.

しかし,精神分析に金を払うということには,ほかの専門職の業務に対する支払とは本質的に異なる必然的な理由があります.それは,このことです:


精神分析においては,「顧客」,すなわち精神分析の「患者」 – ラカン派精神分析においては analyste [分析家]との区別において analysant [分析者]と呼ばれる者 – は,精神分析の経過中,それまで悦してきたことを断念せざるを得なくなるよう,経済的な負化の状態を耐えねばならない.なぜなら,悦は,精神分析において解体されるべき症状の意味であるから.

たとえば,あなたは何か高価な物品の収集を「趣味」にしており,自身の収入のかなりの部分をそれに費やしている.そして,そのような「趣味」を続けるための出費のせいで,あなたは,より有意義であるかもしれない他の何かをすることができない.より悪い場合には,「趣味」は「浪費」を招き,そのせいで,あなたは,より開かれた可能性を生きることをまったく妨げられてしまう.

そのような「趣味」は,ひとつの症状です.(上の譬えは,Freud が「リビードの経済論」として論じていることにもとづいています.)

そのことに気づいて,あなたがその症状を何とかするために精神分析を試みる場合,精神分析家は,あなたにとって症状の継続が多少とも困難になる – ただちに全く不可能にはならないとしても – 程度の経済的負化をあなたが被るよう,精神分析の料金を設定します.

つまり,精神分析の料金は,精神分析家の専門的な業務に内在的な「価値」の関数というよりは,むしろ,あなたの症状に固有な悦の関数において,設定されます.

ですから,弁護士の相談料が 30分につき幾らと明示され得るのとは異なり,精神分析の料金は「一回の面接につき幾ら」というような形で予め表示することはできません.

一般的に言って,精神分析の面接は,有効であるためには,週に一回ではなく,複数回,数ヶ月間ではなく,幾年間かにわたり,継続される必要があります.

したがって,一回の面接の料金は,あなたが精神分析を,上に述べたような経済的負化に耐えつつ,週に複数回,幾年間かにわたって続けることが可能であるように,設定されます.

「週に複数回」と言いました.面接の頻度についてもここで触れておきましょう.面接の頻度は,日本で臨床心理士らが「カウンセリング」と称して行っているものにおいては,週に一回であることが一般的です.しかしそれは,そこにおいて何事も起こらないようにするための方便にすぎません.

精神分析は週に一回では無効だとは言いませんが,週に複数回の方がより有効です.精神分析では症状を解体することがかかわります.多かれ少なかれ強固な固着から成る症状に揺さぶりをかける作業は,週に一回の面接ではなかなかはかどりません.週に複数回の面接の方が望ましいのはそのためです.

ともあれ,精神分析の面接の頻度と料金は,最初の幾度かの面接においてあなたの症状を見究め,あなたの経済状態や日常生活を考慮したうえで,個別に設定することになります.

2016年9月12日

ラカン読解ワークショップで取り上げられるテクスト (1)

今までのところ,四人の発表予定者が,Lacan のテクストのどの一節を今回のラカン読解ワークショップで取り上げるかを知らせてきてくれました:

Réponse au commentaire de Jean Hyppolite sur la « Verneinung » de Freud (Écrits, pp.381-399) ;

Subversion du sujet et dialectique du désir dans l’inconscient freudien (Écrits, p.815 ff) ;

Position de l'inconscient の一節 (Écrits, p.839) : « Le sujet, le sujet cartésien, est le présupposé de l'inconscient. L'Autre est la dimension exigée de ce que la parole s'affirme en vérité. L'inconscient est entre eux leur coupure en acte. » ;

Le séminaire XI, 第11章 (pp.127-130).


それらのテクストの原文,邦訳,英訳は,この folder から download することができます.

ほかの発表予定者が取り上げるテクストも同じ folder に追加して行きます.

「ラカンを読む」とは

ラカン読解ワークショップ:ラカンへの回帰」が10月16日に行われます.

Lacan の書は,おしなべて難解です.Séminaire はさほどでもないと一般的には思念されていますが,しかし,最晩年の Séminaire では,彼は,「難解」を通りこして,「意味」のあることをほとんど話しませんでした.それは単に,大腸癌に健康を蝕まれつつあった彼の衰弱のせいだけではありません.

Lacan に限らず,偉大な哲人たちや偉大な詩人たちは何故難解なのか?彼らは故意に難解に書いたのか?

Freud も Heidegger も Lacan も,偉大な哲人たちに属しています.Heidegger が取り組んだソクラテス以前の哲人たちやドイツ観念論の哲人たちも.また,偉大な詩人の名を挙げるなら,Heidegger が好んで取り上げた Hölderlin, Lacan がときに引用する Paul Valéry, etc. 

我々にとって,彼らが残した言葉を「読む」とは如何なることか?

それは,彼らの言葉を原文で読んで,翻訳する,多かれ少なかれ正確な訳文を作る,ということではありません.

そも,翻訳は,所詮,意味に捕らわれています.翻訳者が翻訳し得るのは,彼または彼女が意味を読み取れたところだけです.

ところが,難解な著者の場合,当然ながら,意味の取れないところが少なくありません.しかし,だからと言って,出版される翻訳書のなかで,そのような部分を訳し残すことも許されません.ですから,えてして翻訳者は,意味の読み取れない言葉に代えて,「意味」のある訳文をでっちあげます:つまり,誤訳.

偉大な哲人や詩人を本当には邦訳で読むことができないのは,そのせいです.

彼らにおいて重要なのは,意味ではなく,而して,Lacan が ab-sens と呼んだもの,意味に対して解脱的なものです.そのようなものを思考し,詩うためにこそ,彼らは語り,書いたのです.

だからこそ,彼らの言葉は,意味の観点からは難解なのです.

我々にとって,偉大な哲人や詩人を「読む」とは,彼らのテクストをとおして,彼らの言葉のおかげで,ab-sens に対して我々自身を開き,それへ問いかけ,その答えに耳をすませることです.つまり,「存在の言葉」 [ das Wort des Seyns ] を聴こうとすることです.

意味に捕らわれていては,存在の言葉を聴くことが妨げられてしまいます.訳文を作ったことで安心してしまえば,存在に関して,存在そのものへ,問いかける思考を続けることができなくなってしまいます.

今回の workshop では,「問いかける」ことに特に重点を置いてみましょう.

問いかけて,どうなるのか?答えがすぐに返ってくるのか?

否.答えがすぐさま得られるわけではありません.むしろ,耐え難い沈黙しか返ってこないかもしれません.

しかし,重要なのは,問いかけに対する沈黙の答えを前にして,不安に耐えることです.

幸い,我々は,『沈黙』の主人公のようにひとりで不安に耐えねばならないわけではありません.不安を分かち合う誰かが身近にいるでしょう.