心のケアに国家資格「公認心理師」制度を創設
厚生労働省と文部科学省は,心のケアにあたる国家資格「公認心理師」の制度を創設する.欝,虐待,不登校など心の問題が深刻化し,対応が求められる中,一定の質を持った心理職を養成するのが狙い.20日(2016年09月20日)に教育カリキュラムを決める初の検討会を開く.
厚生労働省研究班の2014年度調査では,国内で働く心理職は約 38,000 - 40,000人.医療機関,学校,企業,警察,裁判所など,活躍の場は広がっている.他方で,さまざまな民間資格が乱立し,認定条件,試験,更新制度はさまざまで,技量に差のあることが指摘されていた.
このため,誰もが安心して心のケアを受けられるよう仕組み作りを求める声が高まり,昨年09月,国家資格化を定めた公認心理師法が成立した.2018年に第1回国家試験が行われる予定だ.
同法によると,受験資格は,大学と大学院で指定された科目を修めた人や,大学で指定科目を修めたあと一定の実務経験を積んだ人などだ.現在心理職として働く人も所定の条件を満たせば施行後5年間は受験できるよう,経過措置がある.
検討会では,公認心理師に必要な知識や技術について整理し,指定科目や,何を実務経験と認めるかなどについて話し合い,今年度中に報告書をとりまとめる.
厚生省による clinical psychologist の国家資格化の必要性は,昔,わたしが精神病院勤務医であったころから,精神科医たちにより提言されていた.ただし,その理由は:手間暇のかかる psychotherapy を医師以外の者にまかせることによって医師ができるだけ多数の患者を診察し得るようにすること,かつ,psychotherapist の面接についても医師の診察と同等の高い保険診療点数を請求し得るようにすること;つまり,医療機関の保険診療の売り上げができるだけ高くなるようにすること,である.
今はどうか知らないが,昔は,精神病院のなかで「心理かぶれ」の医師がひとりの患者に psychotherapy と称して長時間の面接を行うことは,したがって,院長などの精神病院管理者からは非常に嫌われていた.そんなことをするより,数をたくさん診ろ,というわけである.
さらにそこには,psychotherapy は時間がかかるだけで,治療的には無効だ,という考えも含意されている.かつて,「ムンテラ」という医師隠語があった.Mundtherapie : 口・療法.つまり,口先で適当な言葉を患者に言って,患者を納得させることである.psychotherapy は一種の「ムンテラ」だ,ただの気休めだ,という考えである.
したがって,精神科医たちにとっては,故河合隼雄氏の主導で文部省所轄の資格としてできあがった臨床心理士は,まったく無意味なしろものであった.
いずれにせよ,精神分析がかかわっているのも,psychotherapy と同様に「こころ」の次元のことである,と考えている限り,おまえたちがかかずりあっているのは imaginaire なものにすぎない,という批判を免れることはできない.
大学で多くの psychologist たちがネズミの行動心理学に専念しているのも,そのような批判をかわすためである.
そもそも,「こころ」という表現を用いている限り,心身二元論を免れることもできない.
精神分析の場は,心理学的場ではない.Lacan はそのことを強調するために,当初から文化人類学や言語学への準拠を積極的に登用した.
Lacan の Heidegger 存在論への準拠も,確かに,精神分析の脱心理学化のためである.しかし,それは,Lévi-Strauss や Saussure への準拠と同じ水準のものではない.
Heidegger への準拠は,より根本的なものである.つまり,精神分析をその本質において思考するためのものである.
Lacan にしたがって,Heidegger への準拠によって,精神分析をその本質において定義するなら,我々は今やこう公式化することができる:
精神分析は,存在の真理の実践的な現象学である.
存在の真理が,それが自身を示現せんとするがままに,自身を示現し得るようにすること:精神分析の経験は,そこに存する.
資格認定については,Lacan はこう公式化している:「精神分析家は,己れ自身によってのみ資格認定される」 [ le psychanalyste ne s'autorise que de lui-même ] (Proposition du 9 octobre 1967 sur le psychanalyste de l'Ecole, in : Autres écrits, p.243).
それは,誰もが恣意的に精神分析家を自認してよい,ということではない.
Lacan が言うところの「己れ自身」は,哲学や心理学や法学や社会学等を含む世の通念が「自我」とか「自己」とか「自己意識」などと呼ぶところのものではない.
そうではなく,この「己れ自身」は,精神分析の経験をとおして成起することになる自身の存在の真理そのもの,すなわち,Heidegger が Ereignis [自有]と名づけたところのものである.
であればこそ,精神分析は存在の真理の実践的現象学である,と規定され得る.
「精神分析とは,精神分析家が為すものと人々が期待するところの治療である」 (Ecrits, p.329) と Lacan は1955年に規定した.そして,精神分析家とは,その本有において,自身の精神分析の経験により発起する自有である.
clinical psychologist の資格認定は,当事者や官僚どもが如何なる条件を設定しようと,単なる仮象の次元のものにすぎない.
ごまかしや気休めでない何ものかに到達しようとするなら,自有となった精神分析家と出会うことから始めねばならない.
逆に言えば,決して真理へ目覚めようとせず,ごまかしの非本来性のなかでまどろみながら夢を見続けていれば済む者には,clinical psychologist の「カウンセリング」で十分である.
いずれにせよ,精神分析がかかわっているのも,psychotherapy と同様に「こころ」の次元のことである,と考えている限り,おまえたちがかかずりあっているのは imaginaire なものにすぎない,という批判を免れることはできない.
大学で多くの psychologist たちがネズミの行動心理学に専念しているのも,そのような批判をかわすためである.
そもそも,「こころ」という表現を用いている限り,心身二元論を免れることもできない.
精神分析の場は,心理学的場ではない.Lacan はそのことを強調するために,当初から文化人類学や言語学への準拠を積極的に登用した.
Lacan の Heidegger 存在論への準拠も,確かに,精神分析の脱心理学化のためである.しかし,それは,Lévi-Strauss や Saussure への準拠と同じ水準のものではない.
Heidegger への準拠は,より根本的なものである.つまり,精神分析をその本質において思考するためのものである.
Lacan にしたがって,Heidegger への準拠によって,精神分析をその本質において定義するなら,我々は今やこう公式化することができる:
精神分析は,存在の真理の実践的な現象学である.
存在の真理が,それが自身を示現せんとするがままに,自身を示現し得るようにすること:精神分析の経験は,そこに存する.
資格認定については,Lacan はこう公式化している:「精神分析家は,己れ自身によってのみ資格認定される」 [ le psychanalyste ne s'autorise que de lui-même ] (Proposition du 9 octobre 1967 sur le psychanalyste de l'Ecole, in : Autres écrits, p.243).
それは,誰もが恣意的に精神分析家を自認してよい,ということではない.
Lacan が言うところの「己れ自身」は,哲学や心理学や法学や社会学等を含む世の通念が「自我」とか「自己」とか「自己意識」などと呼ぶところのものではない.
そうではなく,この「己れ自身」は,精神分析の経験をとおして成起することになる自身の存在の真理そのもの,すなわち,Heidegger が Ereignis [自有]と名づけたところのものである.
であればこそ,精神分析は存在の真理の実践的現象学である,と規定され得る.
「精神分析とは,精神分析家が為すものと人々が期待するところの治療である」 (Ecrits, p.329) と Lacan は1955年に規定した.そして,精神分析家とは,その本有において,自身の精神分析の経験により発起する自有である.
clinical psychologist の資格認定は,当事者や官僚どもが如何なる条件を設定しようと,単なる仮象の次元のものにすぎない.
ごまかしや気休めでない何ものかに到達しようとするなら,自有となった精神分析家と出会うことから始めねばならない.
逆に言えば,決して真理へ目覚めようとせず,ごまかしの非本来性のなかでまどろみながら夢を見続けていれば済む者には,clinical psychologist の「カウンセリング」で十分である.