2018年3月5日

Habemus artificem – 村上仁美氏の作品との出会い

先月11日,たまたま渋谷の Bunkamura 一階のギャラリーの前を通りかかると,「ブレイク前夜 – 次世代の芸術家たち」と題された展示が行われていた.特段あてもなく入ると,さして大きくはない陶製の立像一体が目にとまった.今年28歳になる陶芸家,彫刻家,村上仁美氏の作品との最初の出会いである.

(以下の写真は,いずれも,わたし自身が撮影したものではなく,Internet のさまざまなところ  村上仁美氏の web site, Instagram, Roid Works Gallery, ブレイク前夜Burart など  に掲載されているものである.)






たちまち,その異様さと迫力に魅せられた.

作品は,「根の国」と題されている.

少女の下肢は,根と化して大地に固定され,動くことはできない.顔面を含む全身の表面は苔で覆われ,無数のナメクジやカタツムリがそこに這い回っている.

目を大きく見開き,口を少し開けて,自身の右手を見つめる彼女の無表情は,自身の苦痛な運命を引き受けた者の毅然さを秘めている.

「根の国」の最大の特徴は,彼女の下腹部に口を開く大きな穴である.彼女が樹だとすれば,その洞ろであろう.

しかし,わたしは Hölderlin の Germanien の詩句を思い出す : 

die heilige [ Erde ], die Mutter ist von allem und den Abgrund trägt
万物の母にして,深淵を孕む神聖なる大地

つまり,樹木と化した少女は,Mutter Erde の化身とも言えるだろう.

村上仁美氏の作品のなかには,全身を美しく無気味に植物で覆われ,あるいは,枝に身体を貫かれた少女の像が幾つかある.






  
幾度めかの春

最後のものを除く三作品は,先週行われた Field of Now 2018 展で見ることができた.

全身を美しく異様にツタや葉や花で覆われた少女たちは,Botticelli の Venus が泡立つ海から生まれ出たのと同様,深い森のなかで苔むす大地からみずみずしく生まれ出でたばかりのようにも見え,また同時に,同じ場所で,朽ちて,まさに大地へ没し去ろうとしているようにも見える.

植物は,大地の代わりに,少女たちの体から直接生え出ているようにも見える.

最後からふたつめの作品では,写真には写っていないが,少女の背中からは枝が生え出ている.また,彼女の左腕は肩から切断されており,断面からは僅かばかりの葉が生え,一輪の花が飾りとして縁に添えられている.

また,Field of Now 2018 展には,今年に入ってから完成された新たな作品も展示されていた.

わたしの最果て

「わたしの最果て」と題されたこの少女の全身は,より明瞭に樹木と化している.頭部は苔に覆われている.目はうっすらと開かれ,顔とまなざしは天へ向けられている.呆然とした彼女の表情は,苦痛のうちに恍惚となっているようにも見える.上半身は枝に貫かれ,花や蕾があしらわれている.下肢は,大地へ深く根をおろしている.そこには,からだを丸めた太い蚕のような幼虫が何匹もはりついている.ただ,体幹に洞ろの穴の口は開いていない.

直接観賞する機会はまだないが,この作品では,朽ちた樹幹身体に洞ろが大きく口を開き,顔面からは直接,草花が生え出ており,より直裁に死と生が一体として造形されている



Bunkamura の展示では,「明るい絶望」と題された少女像も見ることができた.


憂いのある微笑を浮かべてうずくまる少女の背には,まがまがしい巨大な蜘蛛がはりついている.



その蜘蛛は,大きく口を開く無気味な深淵と同じ効果を与えている.

陶芸家として,村上仁美氏は,器も制作している.特に目にとまるのが,少女の上半身を有するこの大皿である:




Bernini の santa Teresa d'Avila の恍惚をややひかえめにしたような悦の表情を浮かべる少女の下半身は,しかし,剖検のために大きく開腹され,腹部臓器がすべて取り去られた遺体を想起させる.

そこでは,女性の身体が孕む深淵が,切り裂かれた腹からもろに露呈している.


村上仁美氏自身,彼女の創作の主要テーマは「器としての身体」と「生と死 ‒ 神の母おとめマリアの慈しみ,優しさと Medusa の凶々しさ,無気味さ ‒ をともに内包する女性性」である,と語っている.

とすれば,彼女が陶芸という創作媒体を用いるのは,まったく必然的であり,正当であろう.

Mutter Erde[母なる大地,地母神]‒ それが孕む深淵から,生きものたちは生まれ現れ,かつ,そこへそれらは死して没して行く.真の女性性は,通俗的にそう思われているように,仮面舞踏会において演出される仮象的な érotisme に存するのではなく,而して,Mutter Erde として崇められ,畏怖される生死の保匿の深淵の神秘に存する.

そのような Mutter Erde の化身を造形するのに,土を以てする陶芸以上にふさわしい手段は無い.

器に関しては,1935年の『芸術作品の起源』や1950年の講演 Das Ding[物]で芸術的創造と芸術作品について論ずる Heidegger は,特に Das Ding において,芸術作品を「無の匱」[ der Schrein des Nichts ] ‒ 存在の真理としての無 ‒ と捉え,それを明瞭に見て取ることのできる例として,壺(瓶,かめ)を挙げている.

芸術作品は,内的な空(くう)のなかに存在の真理を無として保匿することによって,芸術作品たり得る.

芸術作品としての器は,存在の真理としての無の匱である.そして,同じことが,女性の身体についても言える.

ところで,「無の匱」は,Das Ding において,「死」の定義である : 

Die Sterblichen sind die Menschen. Sie heißen die Sterblichen, weil sie sterben können. Sterben heißt : den Tod als Tod vermögen. Nur der Mensch stirbt. Das Tier verendet. Es hat den Tod als Tod weder vor sich noch hinter sich. Der Tod ist der Schrein des Nichts, dessen nämlich, was in aller Hinsicht niemals etwas bloß Seiendes ist, was aber gleichwohl west, sogar als das Geheimnis des Seins selbst. Der Tod birgt als der Schrein des Nichts das Wesende des Seins in sich. Der Tod ist als der Schrein des Nichts das Gebirg des Seins. Die Sterblichen nennen wir jetzt die Sterblichen  nicht, weil ihr irdisches Leben endet, sondern weil sie den Tod als Tod vermögen. Die Sterblichen sind, die sie sind, als die Sterblichen, wesend im Gebirg des Seins. Sie sind das wesende Verhältnis zum Sein als Sein. (Heidegger, GA 7, p.180)
人間は,死すべき者である.人間が死すべき者と呼ばれるのは,人間は死に能うからである.「死ぬ」とは,「死を死として能う」ということである.人間のみが死ぬ.動物は,生き終わる.動物は,死を死として面前に迎えることも,背後に残すことも,しない.死は,無の匱である.無 ‒ すなわち,あらゆる観点において単なる存在事象では決してなく,かつ,にもかかわらず,所在するもの,しかも,存在の神秘そのものとして所在するもの.死は,無の匱として,存在の在所を自身のうちに保匿する.死は,無の匱として,存在の最高峰である.今や我々が「死すべき者」を「死すべき者」と呼ぶのは,彼れが地上的な生を終えるからではなく,而して,彼れは死を死として能うからである.死すべき者として,存在の最高峰において所在しつつ,死すべき者は死すべき者である.死すべき者は,存在としての存在への所在する関係である.

と同時に,無の匱は,Mutter Erde が孕む深淵として,命の源でもある.神の母おとめマリアの胎から,あらゆる命の源,「死からの復活,永遠の命,存在の真理」である主 Jesus Christ が誕生したように.無の匱としての Mutter Erde と神の母は,Urmutter[源初の母]と呼ばれるにふさわしい.

村上仁美氏の作品は,そのような無の匱としての器のみごとな造形として,感動的である.

ほかの若手の彫刻家陶芸家の作品との比較において,彼女の作品の独創性はますます確認される.

Nietzsche における形而上学の Vollendung[満了]によって規定される現代を特徴づけるのは,否定存在論的な穴である.それまで Platon の ἰδέα とその変奏によって塞がれていると思念されてきたその穴は,そのとき,穴塞ぎが無効になり,その口を開く.

hysterica たちの不安と精神身体症状から出発して Freud が無意識として発見したものは,人間存在の内奥に口を開く穴にほかならない.彼女たちが呈する不安と症状は,その穴を前にしての恐怖であり,その恐怖に対する防御の試みである.

Heidegger が Seyn[存在]の名のもとに見出したのも,同じ穴である.

現代芸術を特徴づけるのも,穴,亀裂,裂口であり,それによって惹起される不安,無気味さ,まがまがしさである.

従来,古典主義的な美と均衡の破壊が,穴の効果を生ぜしめるために利用されてきた.

しかるに,今,村上仁美氏のように,積極的に作品のなかに穴をそのものとして造形する芸術家,しかも女性の芸術家が現れ出てきたのは,注目に値する.

趙燁氏も,なまみの身体に口を開く穴や裂け目を積極的に描いている.ただ,彼女の body painting 作品の「だまし絵」効果は,四次元時空のなかでは,写真の二次元空間においてほど有効ではないかもしれない.彼女の作品を「実物」において見る機会はなかなか無いので,残念であるが.

村上仁美氏の作品は,その土の質料性において,より確かな consistance[定存性]を有している.

言うまでも無く,陶芸は,芸術の歴史のなかでも最も伝統的な創造媒体のひとつである.しかし,今までに,女性陶芸家として名を残した人はいるのだろうか?確かに,草間彌生氏も粘土を用いた作品を残してはいるが.

Jeff Koons 氏や村上隆氏の作品においては,従来の現代芸術の否定と「ちゃかし」によって,否定存在論的な穴を前にしての不安はごまかされ,やりすごされようとする.

それらの「巨匠」男性たちに対抗して,若い女性が無気味さと不安を造形する作品を敢然と創造していることに,大きな悦びを感ずる.

村上仁美氏の作品に感じ取られる不安と無気味さとまがまがしさは,彼女が自身の女性性について問う真摯さのたまものである.

彼女がそのような勇気を以て創造的に活躍し続けるよう,応援したい.そして,その成果に ‒ 芸術的な成果に,社会的な成果に ‒ 期待したい.

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