2016年10月18日

« Lituraterre » を読む – ラカン読解ワークショップ開催の辞として

« Lituraterre » を読む ラカン読解ワークショップ開催の辞として

東京ラカン塾主宰 小笠原晋也

I. Workshop の意義

今日は「ラカンへの回帰」と題して,ラカン読解ワークショップを行います.東京ラカン塾として初めての試みです.

今年の始めに或る人が,Lacan を学ぶ初心者向けに Lacan 読解の workshop を開いてほしい,と Facebook chat で要望してきました.C’est pas mal, 悪くない,とわたしは思いました.

1966年11月に Ecrits が出版されてからちょうど50年がたとうとしている今,フランスでも,難解な Lacan のテクストをみづから読もうと努力する者が少なくなったそうです.いわんや,日本においてをや.

1950年代に Lacan は,精神分析をその真理へ連れ戻すために,「フロィトへの回帰」のスローガンを掲げました.それから約60余年後の今,我々は,同じ目的のために,「ラカンへの回帰」を提唱しなければなりません.

それは,「フロィトへの回帰」が Freud のテクストをドイツ語原文で読むことから始まったように,当然ながら,Lacan のテクストをフランス語原文で読むことから始まります.

ラカン読解ワークショップを発案してくれた人は残念ながら今日ここに来れませんでしたが,そのような提案をしてくれたことを彼女に感謝しましょう.

さて,一般的に言って,workshop は学会とは異なります.

学会では,通常,発表者は,何か新たに得られた知見を発表します.何らかの意味で positive なものが得られた,あるいは,見つかった.それを,多かれ少なかれ誇らしげに,発表します.

今日の我々の workshop は,そのような集まりではありません.発表者は,何か新たに見つけたものを参加者の前で誇示するよう求められてはいません.

また,ちまたで「読書会」と呼ばれているものにおけるように,できるだけ正確な訳文を作り上げたり,手際よくまとめられたわかりやすい要約を提示することが求められているわけでもありません.

そうではなく,今日,かかわっているのは,Lacan を読むこと,Lacan が我々に残した言葉をテクストをとおして読むこと,そして,その読む作業を,この場に集まった人々と分かち合うことです.

今までにも再三強調してきたように,Lacan を「読む」ということは,「翻訳する」ことではありません.日本語に翻訳しようとすることは,むしろ,読む作業を妨げます.もし仮に無理やり日本語の訳文を作り上げたとしても,それをとおして Lacan を読むことはできません.

なぜか?それは,基本的に言って,翻訳は「意味の了解」に還元されるからです.

テクストにおいて翻訳し得るのは,意味として了解されたことだけです.意味了解不可能なところは,翻訳不可能です.

然るに,Lacan のような著者を読むときに,つまり,Heidegger Lacan のような偉大な哲人,ならびに,Hölderlin Valéry のような偉大な詩人を読むときに,かかわっているのは,意味の了解ではありません.

意味を了解する.comprendre le sens. この comprendre という動詞に,知が真理を強引につかみ取り,支配しようとする大学の言説の「力への意志」を読み取ってください.

偉大な哲人や偉大な詩人の言葉には,大学の言説の「力への意志」に逆らうものがあります.つかみ取ろうとする手の指の間からすり抜け去ってしまうものがあります.

そのようなものを,Lacan は,意味 (sens) に対して,ab-sens と呼んでいます.意味の外に存するもの,意味に対して解脱実存的 (ex-sistent) であるもの.

実は,そのようなものこそが,Lacan のテクストの主題 (sujet) です.それは,彼が問い続けてやまなかった精神分析の主体 (sujet) の真理です.

それは,大学の言説において支配する知が決してつかみ取ることのできないものです.勿論,翻訳することもできません.

主体の存在の真理は,我々の側から手を伸ばしてつかみ取り得るものではなく,而して,逆に,存在の真理の側からおのづと啓示されるものです.

我々の側において為すべきことは,存在の真理の自己啓示に対するあらゆる抵抗と防御を廃することです.そうすれば,存在の真理は,我々に,それが自身を示現しようとするがままに,自身を示現してくれます.

我々の側のあらゆる抵抗と防御を廃することによって,存在の真理に自身を示現させること.まさにそのことに精神分析は存します.その意味において,精神分析存在の真理の実践的現象学です.

今日,我々の workshop は,確かに,精神分析の実践の場所ではありません.Lacan を読む試みと努力の場です.しかし,かかわっているのは,同じことです.

知が支配者の座に位置する大学の言説において,存在の真理を強引につかみ取り,無理やり日本語に翻訳しようとしても,無駄です.

そうではなく,Lacan のテクストを通して我々に語りかけてくる存在の言葉 [ das Wort des Seyns ] へ耳を傾けましょう.存在の真理の座において,何かが語る (ça parle). その語る何かの言葉を聞き取ろうとしましょう.それが何を言わんとしているのかを問いつつ.かつ,問うても答えとしては沈黙しか返ってこない不安に耐えつつ.

耳を傾けつつ問い,問いつつ耳を傾ける.そのような作業と翻訳作業とは両立し得ません.翻訳は,無回答の沈黙の不安を覆い隠すごまかしです.翻訳すれば,ひと安心.もはや問う必要はありません.沈黙と向き合う不安におののかずに済む,というわけです.

ところで,存在の言葉へ耳を傾けるためには,まず,存在の真理へ思いを馳せる必要があります.

思いを馳せる.特に,今ここに現在してはいない何かへ思いを馳せる.そうすることを,Heidegger は,Hölderlin の表現を借りて,Andenken と呼びます.

ドイツ語で an etwas denken, フランス語で penser à quelque chose. それは,今ここに現在してはいない何かへ思いを向けることです.

今ここに現在してはいないもの.失われたもの.根本的に,源初的に,失われたもの.とともに,単に失われただけではなく,将来せんとしているもの.将に来たらんとしているもの.そして,その意味において,常にともに存在しているもの.

過去と現在と将来との ekstatische Einheit[解脱的な統一]としての存在.それを Heidegger Seyn と呼びます.あるいは,Sein という語を抹消して

 
と表記します(以下においては,Sein と表記).Lacan の言う manque-à-être[存在欠如]としての存在です.

そのような存在へ思いを馳せることを,Heidegger は,『存在と時間』においては,Sorge と呼んでもいます.存在を気にかけること,思いやること.

そのような Sorge において,Andenken において,存在の真理の座において語る何かの言葉へ耳を傾けましょう.それが何を言わんとしているのかを問いつつ.

そして,「読む」という作業は,まさにそのことに存します.だからこそ,Lacan は,1971421日,東京で,精神分析を経験することには無関心なまま Écrits を邦訳する虚しい作業に取り組んでいた四人の大学人の前で語りつつ,こう言ったのです : tout dépend de ceci : avec quelle oreille vous pouvez lire les choses. 如何なる耳を以て物事を読み得るか すべては,そのことにかかっている.

目で読むのではありません.耳で読むのです.つまり,音声を聞き取りつつ.

すなわち,「読む」という作業は,単純に「文字を読む」ことではありません.

勿論,我々の目の前には Lacan のテクストがあります.文字があります.書かれたものがあります.しかし,1973年元旦に書かれた Séminaire XI の後書きで,Lacan はこう言っています:「書かれたものは,読むためにできてはいない」.

また,Lacan が好んで取り上げた神聖文字,hiéroglyphe の譬えを想い起こしても良いでしょう.文字は,そのものとしては,砂漠に埋もれて忘却のうちに放置された石碑に刻み込まれた解読不可能な神聖文字のようなものです.そのような神聖文字は verdrängen[排斥]されたものの優れた譬えであることに,留意してください.

砂漠のなかで忘却のうちに永遠に眠る神聖文字.あるいは,巨大な図書館のなかで或る書棚のかたすみに誰にも読まれないまま打ち捨てられた書物.文字の墓場.そのような墓場に眠る文字は,そのものとしては,死んでいます.読むためには,我々は,まず,文字を死から復活させる必要があります.死せる文字に命を与える必要があります.

そして,命を与えられた文字は,signifiant になる.確かにそうですが,その前にもう一段階あります.命を与えられた文字は,lalangue になります.

lalangue  Séminaire の聴衆に 1971年秋に初めて披露されたこの lalangue という用語が差し徴しているのは,そのものとしては曖昧な音声質料のことです.その曖昧さには,あらゆる解釈可能性が重ね合わされている.そのような音声のことです.

「読む」とは,曖昧さにおいて耳に聞こえてきた lalangue の断片を読むことです.つまり,何らかの仮定された知にもとづいて「解釈」することです.それによって初めて,lalangue の断片は,狭義における signifiant になります.

しかし,既に強調したように,「読む」ことは,単純に「出来合いの意味を了解する」ことではありません.そうではなく,我々は,signifiant lalangue の断片の関数として読みます.精神分析的な解釈は,意味を流動化し,そこに無意味の裂け目を切り裂く効果を有します.

日本語は,実は,lalangue par excellence です.それは,音読みされる漢語が多数あるせいです.例えば,或る人が「セイショにはこう書かれてある」と言ったとき,それはいったい,聖書なのか,成書なのか,青書なのか?我々は,耳に聞こえてきた「セイショ」という lalangue の断片を,文脈という仮定知にもとづいて,読まねばなりません.lalangue としての日本語の問題には,ここでは立ち入らないでおきましょう.

ところで,「読む」ことに関連して,今までのところ,まず,文字から lalangue , そして,lalangue から signifiant , という方向を提示してきました.しかし,言語の歴史をふりかえってみるなら容易に察せられるように,まず最初に与えられるのは,文字ではなく,lalangue です.

およそ十万年前,我々の先祖たちが,悲痛な喪失を前にして発した嘆きの音声.それが,言語の起源となった lalangue の断片ではなかろうか?そう想像します.

文字を持たない民族の場合,lalangue と,そこから創出される signifiant しかありません.

文字は,lalangue から生ずる質料的な沈澱として,lalangue に対して二次的なものです.


II. Lituraterre を読む

さて,以上のように論じつつ,我々は既に Lituraterre の読解へ足を踏み入れています.

19715月上旬に書かれたこのテクストには,まだ lalangue という用語は登場しません.しかし,そこで Lacan が文字と signifiant とを混同してはならない,文字は signifiant に対して一次的ではない,と強調するとき,その signifiant という用語に lalangue を読み取ることができます.

とは言え,Lituraterre において Lacan が問うているのは,確かに,文字についてです.しかし Lacan は,文字一般について問うているわけではありません.その唯一性における或る文字です.すなわち,Edgar Allan Poe の小説 The Purloined Letter[盗まれた手紙]においてかかわっている文字,その nullibiété[無在性]における文字,言うなれば,純粋文字です.

Lacan Lituraterre の冒頭に,Le séminaire sur « La Lettre volée » においても引用されていた James Joyce(ないし,彼の取り巻きの誰か)の言葉遊び : a letter, a litter を再び挙げています.

我々は,それに,Lacan L’instance de la lettre dans l’inconscient のなかで提示しているもうひとつの言葉遊びを併置しておきましょう : lettre, l’être. 

かくして我々は,ex-sistence において,存在と廃棄されたものとを重ね合わせることができます.実際,Lacan « déchet de notre être »[我々の存在というゴミ]と言っています.

さて,lituraterre という奇妙な néologisme は,littérature[文学]に由来しています.そして,littérature は勿論,lettre に由来しています.

lituraterre という語に,Lacan は何を読み取らせようとしているのか?極めて自然に,我々は,ラテン語の litura とフランス語の terre とを読み取ります.

litura は,何か書かれたものを,その上に線などを引いて,抹消する,ということです.先ほども,Heidegger Sein という語をバツ印で抹消していることに言及しました : Sein. そのような抹消です.

terre は,土地です.この場合,ひとつの localité です.在処です.

Lituraterre : « Rature d’aucune trace qui soit d’avant, c’est ce qui fait terre du littoral. Litura pure, c’est le littéral »[以前に存在した跡を,如何なるものも,抹消すること.それが,境界で区切られた土地を成すものである.純粋抹消,それが文字的なものである](Autres écrits, p.16).

言い換えると,lituraterre とは,抹消された存在の Lichtung[朗場]です.

先ほど引用した文のなかの litura pure という表現に注目しましょう.特に,pur という形容詞に.その語は,この Lituraterre という随筆の最後のところでもう一回使われています : de pure logique.

そこでは logique は女性名詞ですから,「論理学」です.de pure logique, 純粋に論理学的に.翻訳すれば,「まったく当然に」とでも訳されてしまうでしょう.

しかし我々は,Écrits の裏表紙のこの命題を思い出します : l’inconscient relève du logique pur, autrement dit du signifiant. 無意識は le logique pur – 言い換えれば,徴示素 – の領域のものである.

男性形で用いられているこの logique は,「論理学」ではなく,Λόγος にかかわるものです.そして,「純粋」は,Kant が用いた rein と同様に,「如何なる経験的なものも混ざり込んでいない」ということです.

le logique pur, 純粋に Λόγος にかかわるもの.如何なる経験的なものよりも先立つ源初における Λόγος. すなわち,ヨハネ福音書の冒頭の Λόγος, 開闢する Λόγος, 開闢の切れ目そのものとしての Λόγος, der lichtende Logos.

Lacan の学素では,それは S(Ⱥ) と書かれます.それは,穴としての l’ordre du symbolique そのものです.Lacan がここで問うている文字は,この S(Ⱥ) のことにほかなりません.実際,Lacan はこう言っています : « le bord du trou dans le savoir, voilà-t-il pas ce quelle dessine »[知のなかの穴のエッジ,それこそ文字が描くものではないか](Autres écrits, p.14).

ところで,そこで Lacan savoir[知]と言っています.その少し前のところで,「わたしは,分析家たちに向けて,真理と知とを対置した」(Autres écrits, p.13) とも Lacan は言っています.

それは,Écrits の最後に収録されている La science et la vérité への言及です.そこにおいて Lacan は,こう言っています:「我々は,主体の分裂を,知と真理との間の分裂として公式化した」.

知と真理との間の分裂.division entre le savoir et la vérité. この表現は,Hegel に準拠しています : Trennung des Wissens und der Wahrheit.

Phänomenologie des Geistes Vorrede において,Hegel がこう言っている一節です:「知と真理との分裂の超克 (...). それを以て精神の現象学は終結する」[ das abstrakte Element der Unmittelbarkeit und der Trennung des Wissens und der Wahrheit ist überwunden. (...) Hiermit beschließt sich die Phänomenologie des Geistes ].

Hegel は当初,Phänomenologie des Geistes をどのように位置づけていたか? System der Wissenschaft の第一部としてです.

つまり,1965-1966年の Séminaire XIII Lobjet de la psychanalyse の初回講義である La science et la vérité において,Lacan は,そうとは明示しないまま,Hegel Phänomenologie des Geistes に準拠しています.つまり,そこにおいて問題になっている構造は,後に Lacan が「大学の言説」と名づけることになるものです:



実際,Lacan は,Séminaire XIII の第二回と第三回の講義において,このような図を提示しています:
  




この図は,Séminaire XI で提示された aliénation の図の variation です左の領域は vérité, 右の領域は science ないし savoir, 中央の intersection の領域は,客体 a の領域です.

そして Lacan は,中央の intersection の領域について,こう言っています:「客体 a の欠如の穴」[ le trou du manque de l’objet a ].




そして,実際,この cross-cap と四つの言説の四つの座との対応を示した図で確認してみると,大学の言説においては S(Ⱥ) の座に a が位置しています.

大学の言説においては,客体 a は,知 S2 のなかにうがたれた穴なのです.

Lituraterre において Lacan が「知のなかの穴のエッジ」と言うとき,その知は,大学の言説において支配者の座に就いている知 S2 のことである,ということが確認されます.

そして,大学の言説においてその穴のエッジを成している客体 a は,純粋文字 S(Ⱥ) の座に位置しています.

その純粋文字は,Heidegger の言う存在論的差異 [ die ontologische Differeiz ] を規定します.

Lacan littorale という語を単なる frontière ではないものとして用いるとき,それは,一方に存在事象,他方に存在というふたつの根本的に異なる領域を分ける境界線としてです.

また,Lacan が「常に悦を受容する準備のできた鉢ないし碗」 [ godet prêt toujours à faire accueil à la jouissance ] と言うとき (Autres écrits, p.19), 我々は,Heidegger Krug[壺ないし瓶]を想起します.それは,確かに,壺の外部の存在事象の領域と,壺の内部の存在の領域とを分ける littorale です.

そのような鉢ないし碗の凹みをうがつものは,écriture です.文字を書くことは,流体による浸食作用のように,えぐり取って,溝を造ります.

« L’écriture creuse le vide »[書記は,空をえぐる] (Autres écrits, p.19) ; « L’écriture est dans le réel le ravinement du signifié »[書記は,実在において,被徴示の浸食形成である] (Autres écrits, p.17) ; « l’écriture est ce ravinement même »[書記は,そのような浸食形成そのものである] (Autres écrits, p.18).

それに対して,意味を成すものとしての signifiant は,semblant[仮象]です.

意味に対しては,読む作業は,解釈として,lalangue への還元において意味を流動化し,無意味の裂け目を切り開き,純粋文字の穴が自身を示現し得るようにして行きます.

« Ce qui de jouissance s’évoque à ce que se rompe un semblant, voilà ce qui dans le réel se présente comme ravinement » [仮象が破れることにより喚起される悦なるもの,それは,えぐられた溝として実在において提示されるものである] (Autres écrits, p.17).

存在の真理の実践的現象学としての精神分析において,仮象が破れるたびに,それが覆い隠していた純粋文字の穴が姿を現します.

Lacan のような哲人のテクストには,そのような仮象の破れはあちらこちらにちりばめられています.我々は,翻訳によってそれを覆い隠そうとせず,裂け目を裂け目として認めればよいだけです.

そして,その穴をとおして自身を示現する存在の真理の言葉に耳を傾けましょう.ただし,何らかの答えが神託のように返ってくるわけではありません.返ってくるのは,沈黙だけかもしれません.そのとき,我々は,テクストを前にして,不安に襲われるかもしれません.

だからこそ,今日のように,workshop において複数の者が集まることに意義があります.ひとりでは耐え難い不安も,集いにおいては耐えられるかもしれませんから.

原始キリスト教において,教会という集いは,不安に耐えるためのものだったはずです.将に起こらんとするキリストの再臨を待つ不安に耐えることです.

我々の workshop もそのようなものとして有意義であるよう,祈りましょう.


20161016

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