2021年7月22日

Bonne fête de Marie Madeleine, l'Apôtre des Apôtres !

Caravaggio (1571-1610), Maria Maddalena in estasi (1606)

Bonne fête de Marie Madeleine, l'Apôtre des Apôtres !

使徒たちの使徒 マグダラの聖マリア の 祝日 おめでとうございます!


伝統的な Maria Magdalena の描き方の ひとつは Noli me tangere[わたしに触れるな]である.しかし,Jesus は 決して Maria Magdalena に「わたしに触れるな」と禁止したりは しなかった.

ヨハネ福音書 20 章 17 節において 何と言われているか?ギリシャ語の原文では,Jesus は 彼女に こう言っている :
μή μου ἅπτου.

文法的に説明すると,
ἅπτου は動詞 ἅπτεσθαι[自身を ...へ固定する,つかむ,とらえる,しがみつく,触れる]の 二人称単数の 命令形である.μή は 否定辞である.したがって,その文は 確かに 一種の否定命令 — つまり 禁止 — を表してはいる.しかし,それは 単なる「触れるな」ではない.

もし単純に「わたしに触れるな」という禁止を言うのであれば,古代ギリシャ語では,動詞を 接続法アオリストに活用して,
μή μου ἅψῃ と言うはずである.それに対して,Jesus が Maria Magdalena に発した言葉 — 直説法現在の 否定命令 μή μου ἅπτου — が示唆しているのは,このような光景である:復活した主を見て,彼女は,喜びのあまり,彼に抱きついた(あるいは,もし 彼女は 地面に ひざまづくか ひれ伏している と 想像するなら,彼女は 彼の下半身に抱きついたか,彼の足を手で握りしめた); そして,彼女がいつまでもそうしているので,Jesus は 彼女に 優しく言った :「わたしにしがみつき続けるな — いつまでもそうしていないで,いいかげんに放してくれよ」.

Vatican の web site に提示されている ラテン語聖書 では,当該箇所は,"noli me tangere" ではなく,"noli me tenere" と訳されている.つまり,「わたしをいつまでも[地上に]とどめておかないでくれ」.その方が,それに続く言葉 :「なぜなら,わたしはまだ御父のところへ昇っていないのだから」とも よりよくつながり得る.

最新の聖書協会共同訳では,いまだに「わたしに触れてはいけない」と訳されている.それは もはや 誤訳である と言わざるを得ない.

福音書に物語られていること — 復活した Jesus は 最初に 女たちに(特に Maria Magdalena に)現れた — が 真理を表しているとするなら,それは,このことである:つまり,十字架上で処刑された Jesus は,今,我々が Maria Magdalena と呼んでいる ひとりの女性(または,女性たちの一団)において(「の『こころ』のなかで」ではなく),死から永遠の命へ「復活」したのだ.そして,そのことは,同時に,彼女が Jesus によって永遠の命へ「復活」させられた,ということでもある.

まさに,Maria Magdalena における「復活」の成起を以て,キリスト教と呼ばれる信仰は 誕生した.それがいつのことなのか — Jesus の 処刑(推定,紀元 30 年)から三日めのことなのか,何週間ないし何ヶ月か後のことなのか,あるいは 何年も後のことなのか — は,定かではない.勿論,最初のパウロ書簡(第 1 テサロニケ書簡)が書かれたと推定される 紀元 51 年より かなり前であることは 確かだが.

Caravaggio が描いた恍惚における Maria Magdalena の肖像は,彼女における Jesus の「復活」の瞬間と,それと同時的な 彼女自身の「復活」の瞬間 — すなわち,キリスト教の誕生の瞬間 — の図像化である,と言うことができる.

使徒 Paulus は,ユダヤ教聖典の解釈によってキリスト教神学を形成して行く作業のなかで,Jesus の「復活」がひとりの女性において成起したという事実を 無視した.しかし,口承の伝統においては Maria Magdalena は忘れ去られることはなく,彼女の名は 福音書のなかに しっかりと書きとめられた.そして,彼女は,主の復活を使徒たちに告げ知らせた 第一証言者として,Apostola Apostolorum[使徒たちの使徒]の称号のもとに 崇められている.彼女における「復活」の成起がなければ,キリスト教は 誕生し得なかった.

「復活」は,「よみがえり」でも「死後の世界」のことでもない.それは,わたしたちに,生物学的な意味における「死」の後に起こる何ごとか ではない.

もし仮にそう考えるなら,それは 仏教の浄土信仰と本質的に何ら変わらないことになってしまう.死後に天国ないし浄土に行くことが,今,生きていることよりもより重要なことになってしまう.そして,それは,「我々は,今,生きており,今,実存している」ということの「かけがえのなさ」を,相対化し,むしろ,「死後の生」よりもより軽いもの,より非本質的なものと見なすことになってしまう.そして,そのような思念は,キリスト教をも,仏教と同様に,単なる葬式のための儀式へ変質させてしまうだろう.また,さらには,自殺のみならず,「生きて存在していることは四苦八苦にほかならず,諸行無常であるのだから,人間たちをすべて,できるだけ早く涅槃に至らしむることこそが,彼れらを救済することになる」という 邪悪な他殺の思想をさえ正当化することになるだろう.

キリスト教は,そのような仏教と同じでは あり得ない.なぜなら,「死から永遠の命への復活」は,死後に起きる何ごとかではなく,しかして,今,生きている我々において成起することであり,かつ,我々が今,生きているからこそ,我々において成起し得ることであるのだから.

キリスト教の教義において「死から永遠の命への復活」と呼ばれている事態は,単なる神話ではない.そうではなく,人間が 今,神の命(存在)を生きる,ということである.そして,それが可能なのは,神は,御自身の命(存在)を以て,人間を生かせて(存在させて)くださっているからである.

人間の生は,単なる生物学的な生に還元され得るものではない.人間が生きている生は 神 御自身の生であり,人間の存在は 神 御自身の存在である.

先ほど,「主は Maria Magdalena の『こころ』のなかで復活した」と言うのは適当ではない,と言った.その理由は,こうである:かかわっているのは,「こころ」ではなく,存在である;主は,Maria Magdalena の存在そのものにおいて 復活したのであり,彼女のみならず,あらゆる人間の存在において 復活する;そして,ひとりの人間の存在において主が復活するということは,同時に,その人間が復活する ということである.

無からすべてを創造する神は,我々ひとりひとりを創造するとき,我々ひとりひとりの存在を神御自身の存在によって可能にしてくださった.そのことに気がつき,そのことに感謝しよう.そのとき,我々は,死から永遠の命への復活を自覚することができ,その喜びを生きることができるからである.

そして,その喜びは,原罪からの解放としての罪の赦しの喜びでもある.

死から永遠の命への復活と,無からの創造と,罪の赦し — それら三つの教義が如何に密接に関連しあっているかが,示唆される.

Maria Magdalena の経験が キリスト教信仰の出発点であったとすれば,聖職者中心主義も 律法中心主義も,我々の信仰には 異質なものであり,不要なものである.