2018年7月28日
東京ラカン塾 夏期特別講義 第 5 回
東京ラカン塾 2018年 夏期特別講義 Séminaire XI『精神分析の四つの基礎概念』再読 第 5 回
日時 : 2018年08月03日(金曜日)19:30 - 21:30
場所 : 文京シビックセンター 5 階 D 会議室
参加費無料,事前申込不要
07月06日から四回にわたり,Lacan の Séminaire XI『精神分析の四つの基礎概念』の否定存在論的再読を行ってきました.第 5 回めの講義を追加します.
十分に触れることのできなかった問題 ‒ 特に,Urverdrängung[原初排斥],同一化,le huit intérieur[内巻の8]のトポロジーなど ‒ について解説し,さらに,改めて Séminaire XI 全体を振り返ります.
また,質問を受け付けます.Séminaire XI に関することでも,精神分析と Lacan の教え全般に関することでも,結構です.
会場は,文京区民センターではなく,文京区役所が入っている 文京シビックセンター の 5 階 D 会議室です.5 階まで行くエレベーターは,若干わかりにくいところにあります.文京シビックセンターの正面入口を入って,右手奥の方に進むと,見つかると思います.わからなければ,区役所職員または警備員に質問してください.
2018年7月26日
Vanitas et Memento mori
Hans Holbein (1497-1543), Les Ambassadeurs (1533), à la National Gallery de Londres
Séminaire XI (1964) において,Lacan は,02月26日と03月04日の二回にわたり,Hans Holbein の肖像画『大使たち』に言及しています.
この作品においては,aliénation[異状]の構造としての大学の言説の構造の右側部分を成す学素 a / $ が画像化されています.
画面の下部中央の一番手前に描かれているのは,anamorphose において秘匿された髑髏 ‒ 死 ‒ です.
それは,四つの言説の構造において右下の座(
死は,画面左上に半ば隠されている crucifixion[磔刑像]によっても喚起されています:
画面の左上の隅から,十字架上で処刑された Jesus は,人間たちの営みを,慈しみ深くまなざしています.
ふたりの人物の間に置かれているさまざまな物品は,いずれも,当時の学問と芸術の輝かしい成果です.それらの人間のわざの産物は,しかし,死を忘れないなら(memento mori : 死の可能性の穴のエッジにおいて死の不安に耐え続けることを覚悟せよ),vanitas にすぎません ‒ 旧約聖書の『コヘレト』が言っているように : Vanitas vanitatum, dixit Ecclesiastes, vanitas vanitatum et omnia vanitas[虚の極み,とコヘレトは言った,虚の極み,すべては虚].
それは,a / $ の構造における客体 a です.
vanitas は,16-17世紀のオランダ絵画で,静物画の主題として好んで取り上げられました.
Harmen Steenwijck (c.1612 - after 1656), Vanitas, in Museum De Lakenhal
それらの静物画においては,髑髏は,そのものとして描かれています.それは,もろもろの客体 a のひとつとして,死を象徴しています.
それに対して,Holbein の肖像画においては,画面全体が学素 a / $ となっています.しかも,ふたりの人物のまなざしと,なかば隠された Jesus のまなざしによって,あからさまに我々をまなざしています.ほかの vanitas の絵には見られない特徴です.
vanitas に関連して,Twitter でたまたま見かけた作品を紹介しておきます.
それに対して,Holbein の肖像画においては,画面全体が学素 a / $ となっています.しかも,ふたりの人物のまなざしと,なかば隠された Jesus のまなざしによって,あからさまに我々をまなざしています.ほかの vanitas の絵には見られない特徴です.
vanitas に関連して,Twitter でたまたま見かけた作品を紹介しておきます.
上のふたつの石膏頭像は,田表泰児氏の作品です.
若々しい人物の顔面の裂け目から我々をまなざす死 ‒ vanitas と memento mori の伝統は,今も,我々を不意に襲い,不安にさせて止みません.
2018年7月17日
κάθαρσις (Katharsis, catharsis) について
Jean Racine (1639-1699) の最初の撰集 (1675) の扉絵として用いられた版画.Charles Le Brun の下絵にもとづいて Sébastien Leclerc が作成.玉座に座るのは,9人のミューズのうち,悲劇を司る Μελπομένη (Melpomène). 画面下部には,互いに殺し合う兄弟たち(Θηβαΐς [ La Thébaïde ] における Ἐτεοκλῆς [ Étéocle ] と Πολυνείκης [ Polynice ] とは限らない).その隣には,彼らの姉妹か恋人らしい若い女が,放心状態で座っている.Melpomène の向かって左側の putto は恐怖 (φόβος) におののき,右側の putto は憐れみ (ἔλεος) のゆえに涙をぬぐっている.
先週金曜日(13日)の東京ラカン塾夏期特別講義において,『ヒステリー研究』(1895) の時代に Freud が用いていた kathartische Methode[カタルシス療法]に関する質問が為されました.回答を補足します.
ギリシャ語 κάθαρσις は,「清め,浄化」です.関連する形容詞 καθαρός は「清い」です.
Aristoteles は,『詩学』第 VI 章において,悲劇を定義しつつ,こう述べています:
Ἔστιν οὖν τραγῳδία μίμησις πράξεως σπουδαίας καὶ τελείας μέγεθος ἐχούσης, ἡδυσμένῳ λόγῳ χωρὶς ἑκάστῳ τῶν εἰδῶν ἐν τοῖς μορίοις, δρώντων καὶ οὐ δι᾽ ἀπαγγελίας, δι᾽ ἐλέου καὶ φόβου περαίνουσα τὴν τῶν τοιούτων παθημάτων κάθαρσιν.
悲劇は,〈真摯であり,完遂されており,偉大さを有する〉行為 [ πρᾶξις ] の模倣 [ μίμησις ] である.その手段は,作品の諸部分すべてにおいて,行為者 [ δρῶν ] たちの形相 [ εἶδος ] の各々によって別々に発せられる〈ἡδονή[快]をもたらすように詩作された〉ことば [ λόγος ] であって,ひとりの語り手による語りではない.そして,悲劇は,憐れみ [ ἔλεος ] と恐怖 [ φόβος ] とによって,それら[憐れみと恐怖]のような情念 [ πάθημα ] の κάθαρσις[浄化]を為し遂げる.
κάθαρσις とは直接関係ありませんが,上の一節において,「行為の模倣」[ μίμησις πράξεως ] との関連において「行為者たちの形相(複数)」[ τὰ εἴδη δρώντων ](すなわち,劇の役者たち)という表現を読むなら,εἶδος という語 ‒ それは,形而上学的な文脈においては,ὕλη[materia, 質料]との対置において,forma[ἰδέα と同義の語としての形相]です ‒ を Aristoteles は日常的な意味(見かけ,外観)において用いていることに,我々は気がつきます.
ともあれ,上の一節を,我々はこう読むことができます:普段,我々の心には,さまざまな情念 [ πάθημα ] が鬱滞している.それらが鬱滞しているとすれば,それは,それらの情念が,秘匿されたまま (verborgen), 十分に等合的 (adäquat) な表現 ‒ signifiant métaphorique[メタフォリックな徴示素]‒ を得ることができていないからである.しかるに,例えば,肉親どうしが殺し合い,息子と母親とが近親相姦を犯すような悲劇 ‒ そこにおいては,我々自身が日常生活においてみづから経験し得ないような出来事が「模倣」的すなわち「虚構」的に演ぜられる ‒ を我々が観賞するとき,我々の心のうちに秘匿され,鬱滞していた情念は,虚構 (fiction) において,多かれ少なかれ等合的な表現 (signifiant métaphorique) を得る.そして,それによって「浄化」される.
『ヒステリー研究』の時代の Freud は,Hysterie 症状の原因を,心的な外傷をもたらした出来事に求めます.その際に生じた Affekt[感情,情動,情念]に対する多かれ少なかれ「等合的な反応」(adäquate Reaktion) が unterdrücken[この語こそ「抑圧」と訳すのが適当です]されると,Affekt は外傷的出来事の想起 (Erinnerung) に結び付けられたままとなります.そして,その耐え難い表象は,意識の場所から verdrängen[排斥]され,病因的 (pathogen) となります.
したがって,Hysterie の治療は,症状において固定化された Affekt の放出 (Entladung) を促すことに存します.entladen の代わりに,Freud は,abreagieren[固定化された Affekt が放出されるように反応する]とも言います.そのような治療を,Freud は,kathartische Methode[カタルシス療法]と呼びます.
精神分析においては,カタルシス療法の手段は,言語です.患者が自由連想によって語るなかで,症状に固定化された Affekt が,症状の徴示素よりもより等合的な徴示素によって代理されることができれば,つまり,症状よりもより等合的な métaphore を得ることができれば,Affekt はもはや症状に固着している必要はなくなり,Affekt 放出後,症状は消退することになります.
カタルシス療法の限界は,それによって,結局,新たな症状が作り出されるだけだ,ということです ‒ いくら悲劇が次から次に創作され,上演されても,もはや悲劇は必要ないということにはならないのと同様に.
精神分析の終結に到達するためには,症状のメタフォリックな構造そのものが解体されねばなりません.そのためには,aliénation[異状]の構造としての大学の言説の構造から sublimation[昇華]の構造としての分析家の言説の構造への転回が必要となります.
2018年6月3日
東京ラカン塾 2018年 夏期特別講義 : Séminaire XI『精神分析の四つの基礎概念』再読
東京ラカン塾 2018年 夏期特別講義
‒ Séminaire XI『精神分析の四つの基礎概念』再読
Lacan 入門書として定評のある Séminaire XI『精神分析の四つの基礎概念』を初学者のために再び取り上げ,新たに否定存在論的観点からその読解と解説を試みます.日程は次のとおり:
第 1 回:7月06日(金曜日)19:30 - 21:30
文京区民センター 2 階 C 会議室
第 2 回:7月13日(金曜日)19:30 - 21:30
文京区民センター 3 階 D 会議室
第 3 回:7月20日(金曜日)19:30 - 21:30
文京区民センター 2 階 C 会議室
第 4 回:7月27日(金曜日)19:30 - 21:30
文京区民センター 2 階 B 会議室
会場:文京区民センター(所在地:文京区 本郷 4-15-14)
もし必要があれば,8月03日の同じ時間帯に,文京区民センターまたは文京シビックセンター内の会議室のいずれかにおいて,第 5 回を行います.(追記 : 8月03日に 第 5 回 を行います.詳細については,こちらを参照).
参加費は無料,事前の申込も不要です.当日,会場に直接来て下さい.毎回部屋が異なりますので,留意してください.
Séminaire XI の構成は次のとおりです:
第 I 章 : 破門
第 1 部 (II - V) : 無意識と反復
第 2 部 (VI - IX) : 客体 a としてのまなざしについて
第 3 部 (X - XV) : 転移と本能
第 4 部 (XVI - XIX) : 他の場,および,転移に関する再論
第 XX 章 : あなたのなかに,あなた以上のものが
後書
以上のように,おおまかに言って,四部から成っていますので,各部を一回の講義で説明すれば,四回の講義で Séminaire XI 全部を解説することができます.もし不十分なら,8月03日に五回目を付け足します.
なぜ Séminaire XI は記念碑的なのか? ‒ その背景を説明しておきましょう.
Lacan は,1963年の夏休みの前までは,Société française de psychanalyse において,精神分析家養成のための教育活動として,彼の Séminaire を行っていました.その聴衆は,もっぱら,精神分析家,および,精神分析家になるために Lacan から教育分析を受けている精神科医または clinical psychologist たちでした.
しかし,1963年11月,International Psychoanalytical Association が Lacan を「異端」として排除することを決定したのを受けて,Lacan は,1964年,独自の精神分析家養成機関 Ecole freudienne de Paris を設立するとともに,彼の Séminaire の場所を新たに Ecole normale supérieure (ENS) の講堂に得ます.
そのため,Séminaire XI 以降,ENS の学生,人文系の研究者,哲学者,文学者,等々,教育分析を受けている者でも精神分析家でもない聴衆が,とても多くなります.
そのような聴衆 ‒ 特に,精神分析に初めて接する若い人々 ‒ のために,Lacan は,Séminaire XI において,改めて Freud のテクストに立ち戻り,「初歩的」とも見える解説を加えます.
「Séminaire XI は,最良のラカン入門書だ」と昔から評価されているのは,それがゆえにです.
この夏期特別講義は,Lacan の全体像を短期間に把握する好い機会となるでしょう.
小笠原晋也
小笠原晋也
2018年5月10日
『LGBTQ と カトリック教義』のなかの formules de sexuation にかかわる一節
『LGBTQ と カトリック教義』のなかの formules de sexuation にかかわる一節
さて,神に性別は無い.CCE (Catechismus Catholicae Ecclesiae) nº 370 において述べられているように,神は,たとえ Jesus によって「父なる神」と呼ばれてはいても,純粋霊気であって,性別を持たない.
言い換えると,神は純粋
存在 である,すなわち,そのものとしては空(から)の解脱実存的在処である.
にもかかわらず,神は「父なる神」と呼ばれる.それは,社会学者やフェミニストが考えるように,単に,歴史的な家父長制の名残にすぎないのだろうか?そうではない.
Lacan
は,不可能な父の phallus について思考することから出発する.
「不可能」とは,この場合,「書かれないことをやめない」ことである.
したがって,「不可能である」ことは,単純に「欠如している」こととは異なる.後者は「存在事象の次元において不在である,見出されない」ことであるのに対して,前者は,「存在 の解脱実存的な在処 (ek-sistente Ortschaft des Seins) において,書かれないことをやめない」ことである.
そのような不可能な父の
phallus の不可能性のゆえに,性関係は不可能である.Lacan は「性関係は無い」と公式化しているのは,そのことである.
男女の存在論的な性別は,不可能な父の phallus との関係によって規定される.
Lacan が formules de
sexuation[性別の公式]と呼ぶ形式論理学的な式に若干手を加えたものを,提示しよう:
男 : ("x) FI(x) Ù ($x) FR(x)
女 : Ø("x) FI(x) Ù Ø($x) FR(x)
ここで,Ø は,形式論理学の通常の表記と同様に,否定の記号であり," は「すべての」である.
$ は,通例,「... が現存する」(il existe)
を表すが,ここでは「... が解脱実存する」(il ex-siste) を表すものと解釈される.
FR は,le phallus réel[実在的なファロス],すなわち,不可能な ‒ 書かれないことをやめない ‒ 父のファロスである.
FI は,le phallus imaginaire[影在的なファロス]である.それは,Freud が性本能の発達段階に関する考察のなかで小児の phallische
Phase[ファロス期]と呼ぶ段階においてかかわる男の自我理想 [ Ich-Ideal ] としての phallus である.その自我理想との同一化が,存在論的な「男である」を規定する.
以上の論理式を用いて
Lacan が説明しようとしたのは,次のような事態である:
まず,「男である」の側を特徴づけるのは,($x) FR(x)
‒ 論理式 FR(x)
を満たす x の ex-sistence[解脱実存]‒ の仮定である.すなわち,父なる神の解脱実存の仮定である.それによって,初めて,男の自我理想としての phallus FI が可能となる.
言い換えると,むしろ,phallus FI の可能性の条件として,ex-sistent[解脱実存的]な phallus FR の仮定は要請される.
さて,ひとつの存在事象である或るひとりの人間が存在論的に言って「男である」とは,その者が論理式 FI(x) を満たす,ということである.
論理式
("x) FI(x)[すべての x について FI(x) である]によって,我々は,式 FI(x) を満たす存在者すべてによって構成される集合を,措定することができる.それが,男の集合 M である:
M = { x | FI(x) }
男の集合 M は,ひとつの集合として,現存する.
以上のような「例外的な x が解脱実存する」の仮定(父なる神の解脱実存の仮定)と「すべての x について」の措定(男の集合の措定)とが,男の側の構造を規定する.
それに対して,「女である」の側においては,式 Ø($x) FR(x) が示唆しているように,父であるような者の解脱実存は仮定されず,そのような者は現存もしていない.
また,女の側においては,ひとつの存在事象である或るひとりの人間が「女である」ことを存在論的に規定する論理式は,無い.
つまり,「x は女である」と肯定的に言うことはできず,「x は男ではない,男の集合
M に属してはいない」と否定的に言うことしかできない.
式
Ø("x) FI(x) が示唆しているのは,男の集合 M の外部という不確定な領域である.
ということは,女の側には,単に「女である」だけではなく,「男でも女でもない」や「男なのか女なのか,わからない,定まっていない,流動的である」などの queer であることのあらゆる存在論的多様性 ‒「男である」の規範性に当てはまらないことのあらゆる存在論的多様性 ‒ が位置づけられる,ということである.
以上が,存在論的性別 (sexuation ontologique) に関するおおまかな説明である.
存在論的性別は,生物学的性別とはまったく別の次元のことである.生物学的な女性が存在論的には男性であることもあり得,生物学的な男性が存在論的には男性ではないこともあり得る.
transgender の人々の自身の実存に関する証言は,性別に関する固定観念や先入観から我々を解放してくれ,性別づけられて在ることに関してより適切に思考することを可能にしてくれる.
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