2015年12月10日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」第八回,2015年12月11日.

『盗まれた手紙』の冒頭に描かれる G 警視総監と Dupin との対話に関連して,Lacan は,communication theory ないし information theory において言われる communication についてこう指摘しています:

« la communication peut donner l’impression de ne comporter dans sa transmission qu’un seul sens, comme si le commentaire plein de signification auquel l'accorde celui qui entend, pouvait, d'être inaperçu de celui qui n'entend pas, être tenu pour neutralisé » [communication は,伝達において唯一の意味をしか含んでいないという印象を与え得る – あたかも,意義に満ちたコメント〈其れへ意味を付与するのは,聴く耳を持つ者である〉は,聴く耳を持たぬ者により気づかれないことによって,無効化され得るかのように] (Écrits, p.18).

そこにおいて「聴く耳を持つ者」は Dupin であり,「聴く耳を持たぬ者」は G 警視総監です.「意義に満ちたコメント」は,精神分析的な解釈を示唆しています.

G 警視総監と Dupin とのやりとりをかいま見てみると:

"The fact is, the business is very simple indeed, and I make no doubt that we can manage it sufficiently well ourselves ; but then I thought Dupin would like to hear the details of it, because it is so excessively odd."

"Simple and odd."

"Why, yes ; and not exactly that, either. The fact is, we have all been a good deal puzzled because the affair is so simple, and yet baffles us altogether."

"Perhaps it is the very simplicity of the thing which puts you at fault."

"What nonsense you do talk !"

"Perhaps the mystery is a little too plain."

"Oh, good heavens ! who ever heard of such an idea ?"

"A little too self-evident."

"Ha ! Ha ! Ha !... Oh, Dupin, you will be the death of me yet !"

「事実はこうです:本件はまったく非常に単純であり,我々は自力で十分にうまく対処できることに疑いは無いのです;だが,しかるに,Dupin が事の委細を聞きたがるだろうと思ったのです.なにしろ,非常に奇妙すぎるので.」

「単純かつ奇妙.」

「え?! ええ;というわけでもありません,正確には.事実はこうです:我々は皆,たいそう困惑しているのです.なぜなら,事件はとても単純でありながらも,我々を完全に当惑させるからです.」

「多分,物事の単純さそのものが,あなたを迷わせている.」

「何たる nonsense をおっしゃる!」

「多分,謎は若干,平明すぎる.」

「あれまあ!前代未聞の考えだ!」

「若干,自明すぎる.」

「ハハハ!... ああ Dupin, あなたのせいで笑い死にですよ,いつか!」

D 大臣の館を余すところ無く完全に捜索する G 警視総監の戦略は,強迫神経症者のそれです.分析家のもとをしぶしぶ訪れた強迫神経症者と同様,彼は,Dupin の前でなおも,自分が陥っている行き詰まりを否認し,自力で何とかできる,と主張します.

そのような者には,Dupin の解釈の意義は聞こえてきません.しかし,聴く耳を持つ者に対して Dupin は何と言っているか?彼がこのうえなく heideggérien であり,lacanien であることがわかります:

The Thing, das Ding, la Chose は非常に simple, einfach であり,あまりにも self-evident, sichzeigend であるので,あなたはさまよっている,Holzwege に陥っている.

G 警視総監の強迫神経症戦略に対して,D 大臣の「露出」戦略は,或る意味で hysterica の戦略です.

2015年12月11日金曜日,東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」第八回を行います.時間はいつものとおり 19:30 - 21:00, 場所は文京シビックセンター 5階 D会議室です.

年内は11日で最後です.年明けは2016年01月15日に第二学期を開始します.そのまま Lacan の『盗まれた手紙についてのセミネール』の読解を続けます.

2015年12月3日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」,第七回,2015年12月4日

Poe の『盗まれた手紙』を,Dupin と D 大臣とは兄弟どうしであると仮定しつつ,あらためて読んでみると,或る一節が含む allusion に気づきます.それは,Dupin が語り手にタネ明かしをしつつ,G 警視総監の推論の誤謬:「すべての愚者は詩人である;ところで,大臣は詩人である;ゆえに,大臣は愚者である」を指摘した直後の一節です:

"But is this really the poet ?" I asked. "There are two brothers, I know ; and both have attained reputation in letters. The Minister I believe has written learnedly on the Differential Calculus. He is a mathematician, and no poet."

"You are mistaken ; I know him well ; he is both. As poet and mathematician, he would reason well ; as mere mathematician, he could not have reasoned at all, and thus would have been at the mercy of the Prefect."

「だが,本当に詩人の方かい?」と,わたしは訊ねた.「ぼくの知るところでは,二人兄弟で,両方とも博識で有名になった.大臣は微分計算について学者のように本を書いた,と思う.彼は数学者であって,詩人じゃない.」

「きみは勘違いしている.ぼくは彼をよく知っている.彼は両方だ.詩人かつ数学者であれば,論理的思考に長けているだろう.単なる数学者なら,彼が論理的に思考したなんて全くあり得ないだろうし,かくして,警視総監の思いのままになっていただろう.」

つまり,D 大臣には兄弟がひとりいる.しかし,後者が誰であるかは不明なままです.その点について Dupin は話をはぐらかしています.ふたりのうち一方が数学者であり,他方が詩人である,という語り手の主張を否定し,D 大臣はひとりで両方なのだ,と語り手に信じこませることによって,D 大臣の兄弟の存在に関する問いを答え無きままに放置し,自分の正体を巧みに隠し続けます.

さて,今日は,D 大臣に関する Dupin の もうひとつの指摘に注目してみましょう.物語の終わりの少し前のところで,Dupin は D 大臣についてこう言っています:

"D- is a desperate man, and a man of nerve."

さらに:

"He is that monstrum horrendum, an unprincipled man of genius."

この "desperate" は「絶望的な」ではなく,"violent, dangerous" です.そして,"nerve" は「神経質」ではなく,"audacity, boldness, daring" です.

つまり,D 大臣は暴力的で危険である,なぜなら,彼は unprincipled [倫理的な原理を欠いている] であり,それゆえ,倫理に反することでも平然とやってのけるから.そして,彼は天才的であるがゆえに,よりいっそう危険です.であるがゆえに,Dupin は,Vergilius が Aeneis のなかで Gaia の娘 Fama について用いた表現を以て,D 大臣を monstrum horrendum [恐るべき怪物]と呼んでいます.

そこから我々は,Lacan が用いた canaille という語を連想します.

canaille という語は,辞書ではこう定義されています:まず名詞としては une personne digne de mépris [軽蔑に値する者],さらに形容詞としては vulgaire, avec une pointe de perversité [下品であり,若干の倒錯性を伴っている].とりあえず「下司」と訳しておきましょう.

Télévision (Autres écrits, p.543) のなかで Lacan はこう述べています:「下司に対しては,精神分析を拒まねばならない.なぜなら,下司は精神分析により野獣[けだもの]になるから」.


これは驚くべき忠告です.なぜなら,原理的に言って,人間は,言語の構造に住まう限りにおいて,皆,精神分析可能であるはずですから.にもかかわらず,なぜ下司を精神分析の言論へ導入してはならないのでしょうか?そもそも,いったい如何なる人間を Lacan は下司と呼んでいるのでしょうか?

Séminaire XVII, 1970年1月21日の講義において,Lacan はこう言っています:「下司のすべての形態以外には,メタ言語は無い – “下司”によって,“人間の欲望は他の欲望である”ということから導出されるあの奇妙な営為を差し徴すならば.あらゆる下司性は,このことに存している:すなわち,或る者の欲望が捕縛される形象が描かれるところにおいて,その者の他 Autre であろうとすること」.

下司は,ひとつのメタ言語である.ところで,Lacan の教えにおいて,「メタ言語は無い」は「他の他は無い」と等価である.したがって,下司は,ひとつの「他の他」である.

勿論,「他の他は無い」という原理が成り立たない例外がある,というわけではありません.他の他は無い.その不可能な他を Lacan は Ⱥ という学素で形式化しています.そして通常は,この Ⱥ を代理するものとして,欲望の客体 a が措定されます:


ところが下司は,誰かに対して,欲望の客体 a としてではなく,他 Autre として己れを提示します.欠けるところの無い他,完璧な他,理想的な他 Autre です.そして,それによって,下司は,当該の誰かを利用し,搾取しようとします.それが,下司の下司たる所以です.

そして,もし下司が精神分析を経験すると,どうなるか?もしかして彼のなかに残っていたかもしれない若干の常識的ないし社会的な遠慮は一切取り除かれます.かくして,下司は野獣になります.己れの利益のために如何なる躊躇も無く誰かを食い物にする野獣に.

Séminaire VII, 1960年3月23日の講義において Lacan は,右翼知識人を「下司」と呼んでいます.我々にとってもっとわかりやすい実例は,或る種の新興宗教の教祖たちでしょう.文字どおり,彼らは,信奉者たちに対して完璧で理想的な他として己れを提示し,それによって信奉者たちを利用し,搾取しています.

D 大臣はどうでしょうか?彼も,まさに下司の一例です.如何なる良心の呵責も無く,彼は女王を利用しようとします.如何にして?手紙を保持することによって.

盗まれた手紙は,Ⱥ の座に秘匿された文字,書かれぬことを止めぬ不可能な文字です.それを所有することによって,大臣は王妃に対して絶対的な権力を有する支配者たる他として己れを提示します.

ただし,Dupin によって手紙が持ち去られてしまった後も,そのことに気がつきもせず.ついに大臣が問題の手紙を開くとき,彼が受け取るメッセージはこれです:

「かくも凶々しきもくろみは,Atreus にはふさわしからずとも,Thyestes にはふさわしい.」

そして,その手書きのメッセージの筆跡に,大臣は,自分の兄弟である Dupin を認めるでしょう. そしてそのとき大臣は,今度は自分が Dupin によって破滅させられたことに気がつくでしょう.

2015年12月4日,東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」,第七回では,引き続き Lacan の『盗まれた手紙についてのセミネール』を読解します.

時間はいつものように 19:30 - 21:00,

場所は,文京シビックセンター 5階 D会議室です.

2015年11月25日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」,第六回,2015年11月27日.

『盗まれた手紙についてのセミネール』において Lacan が述べていることではなく,Poe の物語:『盗まれた手紙』に直接かかわることでひとつ気づいたことがあります.それは,女王から手紙を盗み取った D 大臣と主人公 Auguste Dupin とは兄弟どうしである,ないしそれに類する関係にあると推測し得るのではないか,ということです.

手掛かりのひとつは,両者の姓の頭文字がともに D であることです.登場人物がさして多いわけではないこの物語において,何故両者が同じ文字で始まる姓を持っているのか?Dupin は偽名であり,本当の姓は D 大臣と同じなのではないか?つまり,両者は実の兄弟どうしではないか?または,子供時代を兄弟どうしのように過ごしたのではないか?そして,血と肉の共通性のゆえに激しく憎しみあっているのではないか?

そのことを示唆しているのが,Dupin が引用する Crébillon の戯曲 Atrée et Thyeste です.ギリシャ神話において,Atreus と Thyestes は兄弟どうしであり,互いに激しく憎みあっています.Crébillon の戯曲においては,Atreus は,自分の妻と Thyestes との不倫関係から生まれた子 Pleisthenes を Thyestes に対する復讐のために殺し,その血を杯に入れて Thyestes に差し出します.Thyestes は悲しみのあまりみづから命を絶ちます.戯曲の最後を成す Atreus のすさまじい台詞は:

Et je jouis enfin du fruit de mes forfaits.
そして,わたしは,ついに,わが大罪の果実を悦する.

そのような復讐の筋書きを考えつつ,Atreus は独白します:

Quel qu'en soit le forfait, un dessein si funeste,
S'il n'est digne d'Atrée, est digne de Thyeste.
その大罪が如何なるものであれ,かくも凶々しいもくろみは,
Atreus にはふさわしからずとも,Thyestes にはふさわしい.

この台詞を Poe は引用し,Lacan もそのまま引用しています.

D はしたがって,dessein si funeste [かくも凶々しいもくろみ]の D でもあります.そして Lacan は,そこに destin si funeste [かくも凶々しい運命]を読み取ります.文字 D は dessein だけでなく,destin の D でもあるわけです.

『盗まれた手紙』において,Dupin は Crébillon を引用する直前,こう言っています:

D–, at Vienna once, did me an evil turn, which I told him, quite good-humoredly, that I should remenber.
D は,かつてヴィーンで,わたしに邪悪なことをしてくれた.わたしは全く上機嫌で彼に言った:このことを記憶にとどめておくよ,と.

つまり,彼らは旧知の仲なのです.『盗まれた手紙』のなかで D 大臣が Dupin の正体に気づかなかったとすれば,それは,D の「邪悪な仕打ち」により強いられた苛酷な人生が Dupin の容貌をすっかり変えてしまったからでしょう.勿論,Dupin は D 大臣との面会時はサングラスで顔を隠してもいました.

さらに Dupin はこうも言っています:

He is well acquainted with my MS.
D には,わたしの手書き文字はおなじみだ.

それほどに,彼らはかつては互いに親密であったのです.

以上から,D 大臣と Dupin とは兄弟どうしであると想像することが許されるでしょう.

さて,11月27日金曜日,今年度の東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」,第六回では,引き続き Lacan の『盗まれた手紙についてのセミネール』を読解して行きます.

時間は 19:30 - 21:00,
場所は文京シビックセンター(文京区役所の建物) 5 階 D 会議室です.

テクストは各自持参してください.

2015年11月20日

「あなたたちはわたしから憎しみを受け取ることはできない」

Antoine Leiris, 2015年11月16日,彼の FB で.

「あなたたちはわたしから憎しみを受け取ることはできない」

金曜日[2015年11月13日]の晩,あなたたちは,特別な人の命を奪った.わたしの生涯の愛である人,わたしの息子の母親である人の.だが,あなたたちはわたしから憎しみを受け取ることはできない.あなたたちが誰なのか,わたしは知らないし,知りたくもない.あなたたちは死せる魂だ.あなたたちが盲目的に殺しているのは神のためなら,そして,その神は我々を自身の似姿に創ったなら,わたしの妻の体のなかの銃弾ひとつひとつがその神の心を傷つけているだろう.

しかし,否.わたしは,あなたたちに憎悪の贈りものをする気はない.あなたたちは確かにそれを求めたが,しかし,憎しみに対して怒りで応えるなら,今のあなたたちの存りさまを作り出しているのと同じ無知に屈することになるだろう.あなたたちは欲している – わたしが恐怖を感ずることを,わたしが同胞市民たちを不信の目で見ることを,わたしが安全のために自由を犠牲にすることを.あなたたちの負けだ.勝負はまだ続いているとしても.

わたしは今朝,彼女を見た.幾日も幾晩も待って,やっと.彼女は,あの金曜日の晩に家を出たときと同じく美しく,わたしが12年以上前に彼女に夢中で恋していたときと同じく美しかった.勿論,わたしは悲しみに打ちひしがれた.あなたたちに小さな勝ちを譲ろう.しかし,それは短時間しか続かないだろう.わたしは知っている – 彼女は毎日わたしたちと共におり,そして,あの自由な魂たちの天国でわたしたちは再会するだろう,と.その天国にあなたたちが近づくことは決してない.

わたしの息子とわたしと,二人だけになった.しかし,わたしたちは世界のすべての軍隊よりも強い.それに,あなたたちにかかずらっている時間はもう無い.午睡から目覚めた Melvil のところに行かねばならない.彼は17ヶ月になったばかりだ.彼は,いつものようにおやつを食べる.それから,わたしたちは,いつものように遊ぶ.生涯,この小さな男の子は,幸福かつ自由であることによってあなたたちに恥をかかせることになる.なぜなら,否,あなたたちは彼からも憎しみを受け取ることはできないのだから.


Antoine LEIRIS, « Vous n’aurez pas ma haine »

Vendredi soir vous avez volé la vie d’un être d’exception, l’amour de ma vie, la mère de mon fils, mais vous n’aurez pas ma haine. Je ne sais pas qui vous êtes et je ne veux pas le savoir, vous êtes des âmes mortes. Si ce Dieu pour lequel vous tuez aveuglément nous a fait à son image, chaque balle dans le corps de ma femme aura été une blessure dans Son coeur.

Alors, non, je ne vous ferai pas ce cadeau de vous haïr. Vous l’avez bien cherché pourtant, mais répondre à la haine par la colère, ce serait céder à la même ignorance qui a fait de vous ce que vous êtes. Vous voulez que j’ai peur, que je regarde mes concitoyens avec un oeil méfiant, que je sacrifie ma liberté pour la sécurité. Perdu. Même joueur joue encore.

Je l’ai vue ce matin. Enfin, après des nuits et des jours d’attente. Elle était aussi belle que lorsqu’elle est partie ce vendredi soir, aussi belle que lorsque j’en suis tombé éperdument amoureux il y a plus de douze ans. Bien sûr je suis dévasté par le chagrin, je vous concède cette petite victoire, mais elle sera de courte durée. Je sais qu’elle nous accompagnera chaque jour et que nous nous retrouverons dans ce paradis des âmes libres auquel vous n’aurez jamais accès.

Nous sommes deux, mon fils et moi, mais nous sommes plus forts que toutes les armées du monde. Je n’ai d’ailleurs plus de temps à vous consacrer, je dois rejoindre Melvil qui se réveille de sa sieste. Il a 17 mois à peine, il va manger son goûter comme tous les jours, puis nous allons jouer comme tous les jours, et toute sa vie ce petit garçon vous fera l’affront d’être heureux et libre. Car non, vous n’aurez pas sa haine non plus.

2015年11月19日

東京ラカン塾精神分析セミネール 2015-16年度:「文字の問い」,第五回,11月20日.

Lacan のテクスト:『盗まれた手紙についてのセミネール』をとおして文字の問いを問うために予備的に見てきた存在のトポロジーについて要約しておきましょう.

Lacan は存在のトポロジーを説明するために,投射平面 [ projective plane ] と呼ばれる閉曲面 [ closed surface ] をモデルとして用います.投射平面そのものは実数三次元空間へ embed することができません.そこで,その幾つかの可能な immersion のしかたのひとつ,cross-cap を Lacan は提示します:



投射平面は,ひとつの円板のエッジを成す諸点とひとつの Möbius strip のエッジを成す諸点とを一対一対応させつつ同一化することによって得られます:



上の図では,円板は半球面へ変形されています.そのエッジはひとつの円を成しています.それに対して,Möbius strip のエッジは,Lacan が huit intérieur [内巻きの 8]と呼ぶ曲線を描いています.

しかし,上の図で明かなように,円と内巻きの 8 とは相互に位相同型的 [ homeomorphic ] です.円を成す輪を連続的な変形により内巻きの 8 の輪にすることができます.したがって,確かに円板のエッジと Möbius strip のエッジを同一化することが可能である,とわかります.

それによってできあがる cross-cap においては,交線のように見える線分を成す諸点以外の曲面は円板に還元されます:



つまり,Möbius strip は実数三次元空間の外に解脱実存 [ ex-sistence ] しています.

こうして,実在 [ le réel ], 徴在 [ le symbolique ], 影在 [ l'imaginaire ] の三つの位 [ ordre ] と存在のトポロジーとの対応を把握することができます.すなわち:

実在 [ le réel ] は,解脱実存 [ ex-sistence ] として,Möbius strip ;
影在 [ l'imaginaire ] は,定存 [ consistance ] として,円板;
徴在 [le symbolique ] は,穴として,Möbius strip のエッジと円板のエッジとの同一化の閉曲線.

さらにまた,un signifiant représente le sujet pour un autre signifiant [ひとつの徴示素は,主体を,もうひとつのほかの徴示素に対して代表する]という Lacan の命題を,存在のトポロジーに位置づけることができます.

そこにおいて「主体」は,解脱実存です.つまり,Möbius strip です.つまり,実在です.

主体を代表する「ひとつの徴示素」は,投射平面を実数三次元空間において代表する曲面,つまり,円板です.つまり,影在です.

そして,「もうひとつのほかの徴示素」は,究極的には S(Ⱥ) であり,それは,「他の場処のなかの欠如の徴示素」として,穴です.つまり,徴在です.


ただし,この図における S1$ を即座に四つの言説における S1$ と混同しないでください.

以上を踏まえて,引き続き Lacan の Le séminaire sur « La Lettre volée » を読んでゆきましょう.

日時は,11月20日金曜日 19:30 - 21:00,

場所は,文京シビックセンター 3 階 C 会議室です.

参加のために事前の申込や登録は要りません.

テクストは各自持参してください.テクストの入手の困難な方は,小笠原晋也へ御連絡ください.

2015年11月12日

東京ラカン塾精神分析セミネール 2015-16年度:「文字の問い」,第四回


Edgar Allan Poe, par Horst Janssen

« Car nous déchiffrons ici en la fiction de Poe cette division où le sujet se vérifie de ce qu’un objet le traverse sans qu’ils se pénètrent en rien, laquelle est au principe de ce qui se lève à la fin de ce recueil sous le nom d’objet a. (...) À cette place que marquait l’homme, nous appelons la chute de cet objet, révélante de ce qu’elle l’isole, à la fois comme la cause du désir où le sujet s’éclipse, et comme soutenant le sujet entre vérité et savoir »
[そも,我々は,ここで,Poe のフィクション『盗まれた手紙』において,主体という裂け目を解読する.その裂け目において,主体は,ひとつの客体が主体を貫通する – ただし,両者はいささかも貫入し合わない – ことにより真現する.主体という裂け目は,この論文集 Écrits の最後に客体 a という名のもとに立ち現れるものの原理にある.人間という刻印が付いていたあの座へ,我々は,客体 a の失墜を呼ぶ.その失墜は,それが客体を – 同時に,そこにおいて主体は掩蔽されるところの欲望の原因として,かつまた,主体を真理と知との間に支えるものとして – 単離することによって啓示的である] (Écrits, p.10).

東京ラカン塾精神分析セミネール 2015-16年度:「文字の問い」,第四回

日時 : 2015年11月13日 19:30 - 21:00
場所 : 文京シビックセンター(文京区役所の建物) 5 階 D 会議室

文字の問いは,客体 a の問いであり,かつ,存在欠如としての主体の問いでもあります.
Lacan の Écrits の冒頭の書 : Le séminaire sur « La Lettre volée »[盗まれた手紙についてのセミネール]の精読を続けます.

2015年11月5日

東京ラカン塾精神分析セミネール 2015-16年度 第 3 回

東京ラカン塾精神分析セミネール 2015-16年度:「文字の問い」,第三回

日時 : 2015年11月06日 19:30 - 21:00
場所 : 文京シビックセンター(文京区役所の建物) 5 階 D 会議室

Lacan の Écrits の冒頭の書 : Le séminaire sur « La Lettre volée »[盗まれた手紙についてのセミネール]を精読する今年度の我々のセミネールを La question de la lettre [文字の問い]と題することにします.

lettre [文字]は,主体を代表するひとつの signifiant [徴示素]としては imaginaire [影在]の位のものであり,同音的な l'être [存在]としては,存在を Heidegger の言う Lichtung [朗場]と取る限りにおいて,symbolique [徴在]の位のものであり,そして,James Joyce の警句 a letter, a litter [文字,ゴミ]により,閉出されたものとしては,réel [実在]の位のものです.

影在と徴在と実在,それら三つの位の重なり合いの状態を有するものとしての文字を,Lacan は objet a [客体 a]と名づけます.

Lacan の『エクリ』を読もうとしたけれど,最初の「盗まれた手紙についてのセミネール」で挫折して,あるいは全然理解できなくて,もう Lacan なんか二度と読まないと思った人々,読みたいけれどまだ読んでいない人々,ならびに上記のいずれでもない人々のために,「盗まれた手紙についてのセミネール」のフランス語原文テクストを読解します. 

参加費無料.事前登録不要.

テクストは各自持参してください : 

1) Écrits(二分冊の版の場合は第一分冊); 

2) Le Séminaire II[セミネール第2巻]« Le moi dans la théorie de Freud et dans la technique de la psychanalyse ».

Edogar Allan Poe の物語 The Purloined Letter[盗まれた手紙]は予め各自お読みください.

テクストの入手の困難な方は,小笠原晋也へ御連絡ください.