2026年3月30日

小笠原晋也の新著『ラカンの教え — 精神分析と信仰』の 目次 および 序章


小笠原晋也の新著『ラカンの教え — 精神分析と信仰』の 目次 および 序章


目次

§ 1. 序章
§ 1.1. ラカンとは何者か ? 何のために彼は教えたのか ? ラカンの教えによれば精神分析とは何か ?
§ 1.2. ラカンの教えの時期区分について

§ 2. 精神分析と信仰に関する予備論
§ 2.1. 精神分析と信仰は両立可能なのか ?
§ 2.2. 精神分析家であることと聖人であることとの等価性
§ 2.3. Instinctus salutis(救済本能)としての Trieb(本能)

§ 3. 精神分析の純粋基礎としての否定存在論とそのトポロジー
§ 3.1. 存在の思考
§ 3.2. 否定存在論的孔穴
§ 3.3. 存在の歴史
§ 3.4. 存在の歴史と穴のトポロジーとの相関
§ 3.5. 存在の歴史と四つの言説との相関

§ 4. フロィトの本能とラカンの欲望の弁証法
§ 4.1. 本能の否定存在論的再定義
§ 4.2. 欲望の弁証法
§ 4.3. 性本能の否定存在論的批判
§ 4.4. 死の本能の否定存在論的解釈
§ 4.5. 否定存在論的弁証法と欲望の弁証法との対応
§ 4.6. 穴の開出の彼方:救済と昇華

§ 5. ラカンへの回帰 — ラカン没後 40 周年を記念するために
§ 5.1. ラカン — 精神分析を純粋に基礎づけなおした精神分析家
§ 5.2. ミレールの言う「晩年のラカンの教え」に対する批判 
§ 5.3. ミレールによるラカン解釈の間違いを検証する — ミレール批判によってラカンへ回帰するために
§ 5.3.1. ミレールの Habeas corpus
§ 5.3.2. 純粋にロゴス的なもの
§ 5.3.3. 異状の構造(大学の言説)から分離の構造(分析家の言説)への構造転換
§ 5.3.4. 語る身体 ? — むしろ実在性の神秘の問題
§ 5.3.5. 無意識と本能との二元論 ? — むしろ死の本能とその昇華の問題

§ 6. ラカンの基本的な直観:穴と結びめ
§ 6.1. 穴の直観
§ 6.1.1. Hiatus irrationalis
§ 6.1.1.1. Πάντα ῥύει と ヘラクレィトス
§ 6.1.1.2. Ungrund と ベーメ
§ 6.1.1.3. Hiatus irrationalis と フィヒテ
§ 6.1.2. ヘーゲルにおける知と真理との分離
§ 6.1.3. ニーチェの Abgrund
§ 6.1.4. ハィデガーの Ab-grund
§ 6.1.5. 存在の穴 と 去勢の穴
§ 6.2. 結びめの直観
§ 6.2.1. ソシュールのシェーマ と ラカンのトリアス
§ 6.2.2. Point de capiton
§ 6.2.3. ひとつの徴示素は 主体を もうひとつのほかの徴示素に対して 代理する
§ 6.2.3.1. 徴示性の定義の二重性:トポロジックな定義と機能的な定義
§ 6.2.3.2. 超自我は 何かを 自我に対して 代理する
§ 6.2.3.3. もうひとつのほかの「もうひとつのほかの徴示素」

§ 7. ラカンの教えにおける「父の名」について
§ 7.1.「父の名」とは何か ?
§ 7.2. 父の名のメタフォール
§ 7.3. 父の名の閉出と精神病の発症
§ 7.4. 徴示性の機能の支えとしての父の名
§ 7.5. 複数の「父の名」
§ 7.6. 症例
§ 7.6.1. オオカミ男
§ 7.6.1.1. 現病歴および病後歴
§ 7.6.1.2. フロィトの症例論文の検討
§ 7.6.1.2.1. オオカミ恐怖夢に先だつ時期
§ 7.6.1.2.2. オオカミ恐怖夢と原光景
§ 7.6.1.2.3. 強迫神経症の形成と寛解
§ 7.6.1.2.4. 手指切断の幻覚と父の名の閉出
§ 7.6.1.2.5. 慢性便秘とヒステリカの言説
§ 7.6.1.2.6. オオカミ男の全体構造
§ 7.6.1.2.7. 治療経過,期限設定,救済論の譬えとしての「三人の囚人」のソフィスム
§ 7.6.1.3. マックブランズウィックの症例論文の検討
§ 7.6.1.3.1. 治療開始に至る経緯
§ 7.6.1.3.2. 治療の経過およびその評価
§ 7.6.2. 自明性の喪失 (Anne Rau) 
§ 7.6.3. 八本脚の蝶(二階堂奥歯)

§ 8. 精神分析の倫理
§ 8.1. 存在の歴史の形而上学的位相における倫理学
§ 8.2. 存在の歴史の終末論的位相における倫理学
§ 8.3. カントの律法とサドの欲望
§ 8.4. 殉教と聖人 — 神の意志への従順の倫理
§ 8.5. 欲望の自由 — 昇華と自有の倫理

§ 9.『情況』誌の問いへの答え
§ 9.1. 問い
§ 9.2. 答え
§ 9.2.1. メンタルヘルスと精神分析
§ 9.2.2. 哲学と精神分析
§ 9.2.3. 精神分析の基礎
§ 9.2.4. 精神分析の過程
§ 9.2.5. 精神分析の終結
§ 9.2.6. 存在の歴史と四つの言説
§ 9.2.7. ニヒリズムの超克
§ 9.2.8. 精神分析とキリスト教
§ 9.2.9. そのほかの問いに対する答え

§ 10. スロヴェニア講演 — 否定存在論とラカンの教え
§ 10.1. 否定存在論的孔穴とそのトポロジー
§ 10.2. キリスト教的時間論と存在のトポロジー —「将来と過去と現在との解脱的な一性」としての時間性
§ 10.3. 否定存在論的孔穴の開きと閉じ — イルマの注射の夢
§ 10.4. ラカンの四つの言説によるハィデガーの存在の歴史の再解釈
§ 10.5. 否定存在論的孔穴の開出の彼方 — 存在の自有と欲望の昇華
§ 10.6. ファロスと「性関係は無い」の穴

§ 11. ボロメオ結びと三位一体
§ 11.1. 旧約における神の息吹と神のことばとの等価性
§ 11.2. 旧約における神のことばそのものについて
§ 11.3. 旧約における神の知恵について:神の知恵と息吹とことばの等価性
§ 11.4. ことばの受肉とイェスの洗礼
§ 11.5. 三位一体なる神と人間との交わりを表すものとしての四つ輪のボロメオ結び

後記


******
§ 1. 序章

§ 1.1. ラカンとは何者か ? 何のために彼は教えたのか ? ラカンの教えによれば精神分析とは何か ?

ラカンとは何者か ? 彼は,フロィトによって創始された精神分析を「純粋に」 すなわち,非経験論的かつ非形而上学的に 基礎づけなおした精神分析家である.フランス語では,より簡潔に言うことができる : Si Freud est le fondateur de la psychanalyse, Lacan en est le refondateur(フロィトが 精神分析の fondateur[創立者,創始者]であるとすれば,ラカンは 精神分析の refondateur[精神分析を基礎づけなおした者]である).つまり,「ラカンとは何者か?」という問いに対して,フランス語ではこう答えればよい : Lacan est le refondateur de la psychanalyse(ラカンは,精神分析を基礎づけなおした者である).

ラカンが我々に遺した書とセミネールは,それらの総体において,このことを証言している:彼は,1930年代始めに精神分析に参与するようになって以来,終生,このことについて 問い かつ 思考し続けた:如何に精神分析を純粋に基礎づけなおし得るか?

その〈ラカンの問いと思考の歩みの〉総体は,フランスでは l’enseignement de Lacan(ラカンの教え)と呼ばれている.彼は,精神分析を純粋に基礎づけなおす彼の努力を我々に伝えるために,教えた 我々が彼の努力を相続し,それをさらに発展させてゆくことができるように.

では,何のためにラカンは精神分析を純粋に基礎づけなおす必要があると考えたのか ? それは,このためにである:新たな精神分析家を 適切に つまり sachgerecht に(事に適ったしかたで) 養成すること.

如何に新たな精神分析家を養成するか ? そのラカンの問いは,彼の教えの〈臨床からまったくかけ離れたものに見えるかもしれない〉外見とは逆に,このうえなく実践的な問いであり,かつ,実社会のなかでの精神分析の将来的な存続にとって必要不可欠な問いである.

なぜならこのゆえに:精神分析家として適切に養成されていない者がいくら精神分析をおこなおうとしても,その者が為すことは精神分析にはならない;つまり,そのような者が患者に対していくら外見的には精神分析家のようにふるまったとしても,患者に対する彼の言動は,精神分析的な効果を持ち得ず,しかして,患者に何の変化ももたらし得ないばかりか,場合によって,むしろ,逆に,患者における精神病理を強化することにさえなり得る.そのような事態がひとつの社会において何十年間か続けば,当然,そこにおいて,精神分析の実践は,形骸化し,そして,ついには,すたれてしまう.

実際,ラカンを排除した IPA (International Psychoanalytical Association) に属する精神分析家たちが精神分析を独占してきたアメリカ合衆国では,精神分析は,1950-1970年代には最も高度な精神医学的治療のひとつとして全盛を誇っていたが,精神薬理学的治療が精神医療のスタンダードとなるや,絶滅の運命をたどり始めた;なぜならこのゆえに : IPA に属する精神分析家たちがアメリカでおこなってきた精神分析は,非常に多くの時間と費用がかかるにもかかわらず,その効果を,医学のほかの諸分野におけるのと同様なしかたで evidence-based に証明することは,できない;そして,それがゆえに,新たに精神分析家になろうとする若者が非常に少なくなった.

精神分析の創立者であるフロィト自身は,どうであったか ? 彼は,神経系の解剖学および生理学の研究者として出発しながらも,当時のオーストリアにおけるユダヤ人差別のゆえにウィーン大学で教授へ出世することが極めて難しかったので,大学を去り,神経科 [1] の開業医となり,臨床をおこなってゆくうちに,1890年代に,彼の患者たちの治療のために有効な手段として,精神分析を考案した 当時の「最先端」の治療法であった催眠術から出発しながらも,その方法を懐疑的に放棄することによって.そして,彼は,精神分析の臨床において観察されることおよび生ずることについて,みづから問い,思考し,そして,そこから,彼に可能なしかたで精神分析の理論を作りあげていった.

[1] 当時は,現在の日本で「神経内科」と呼ばれている領域と「精神科」と呼ばれている領域とは未分化であり,「神経科」(Neurologie)  両領域を扱っていた.実際,フロィトは,神経科の開業医として,神経系に器質的な病理のある疾患も,ない疾患(神経症)も,ともに扱っていた.

は如何なるものであるか ? それを知るためには,当然ながら,フロィトの著作をみづから読んでみればよい.すると,我々はすぐさまこのことに気づく:彼は,経験科学(特に生物学と心理学)および 形而上学(特に目的論)を無批判的に前提している;そして,それがゆえに,精神分析治療は行き詰まりに陥らざるを得なかった.

実際,フロィト自身,最晩年,「精神分析は,去勢複合という行きづまりに行きつくしかない」ということに気づいていた [2].だが,なぜそうならざるを得ないのか,また,如何にしてその行きづまりを打開し得るのかについては,彼は我々に答えを示し得てはいない その行きづまりを成している去勢複合という手がかりを除くと.

[2] フロィトの 1937年の論文 Die endliche und die unendliche Analyse(終わりのある分析と終わりのない分析)を参照.その表題は,フロィトがこう自問していることを,示唆している:果たして,精神分析の経験の過程に,終わりはあるのかないのか?

して,まさにその去勢 すなわち「ファロスの欠如の穴」(le trou du manque phallique) から出発することによって,ラカンは,精神分析を基礎づけなおした その穴を「性関係は無い」の穴 (le trou du non-rapport sexuel) と呼びなおしつつ.かくして,ラカンは,フロィトが精神分析の行きづまりをしか見ることができなかったところに,精神分析の本来的な終結の可能性が開かれてくるのを見出し得たのである.

精神分析の終結は如何なるものであり得るか ? その問いは,ラカンの教えのなかで中心的な問いのひとつである.なぜならこのゆえに:「精神分析家である」ことは,「その者自身の精神分析の経験を,その本来的な終結において,完了した」ことによって規定されるべきである;というのもこのゆえに:そこにおいてこそ 精神分析の本来的な終結においてこそ 精神分析家であることを規定するひとつの実存的な構造変化が決定的に成起する.

改めて言おう:ラカンとは何者か ? そして,彼は何のために教えたのか ? 今,我々は,彼の思考の歩みを その全体において ふりかえるとき,それらの問いに簡潔明瞭に答えることができる:ラカンは,精神分析を純粋に基礎づけなおした者である;そして,彼は教えた 如何に精神分析は純粋に基礎づけられ得るかについて,および,如何にその純粋基礎にもとづいて新たな精神分析家を適切に養成することができるかについて.

そのような彼の意図は,既に,彼の教えの出発点を成す「ローマ講演」(1953) において,明示的に述べられている.にもかかわらず,ラカンの教えを衒学趣味に還元しようとし,あるいは,彼を intelligentsia の世界の道化のようなものと見なしたがる者たちは,ラカンの生前にも,今も,たくさんいる.ラカンを誹謗中傷する彼らのテクストは,山のように残されている ルディネスコ (Elisabeth Roudinesco) の〈精神分析とラカンに関する〉諸著作を含めて.だが,それは,如何に彼らがラカンを読むことができなかったかを証言しているだけである.

では,ラカンによって純粋に基礎づけなおされた限りにおいて,精神分析は,如何に定義され得るか ? わたしは,こう定義する:精神分析は,主体 $ の穴の実践的な現象学である ヘーゲルおよびハィデガーにおいてかかわっているのが思弁的な現象学であるのに対して.

2021年,我々は,413日に,ラカンの生誕 120 周年の記念日を迎え,そして,99日に,彼の死去 40 周年の記念日を迎えた.そのことを記念するために,わたしは,2020-2021年度から2年間,わたしが主宰する東京ラカン塾の精神分析セミネールを「ジャック ラカン その人とその教え」の標題のもとに おこなった.

そこにおいて,わたしは,ラカンの思考の歩みを,思想史研究者が通常そうするであろうように,1930年代(彼のパラノイアに関する医学博士論文は 1932年に提出された)ないし 1950年代(彼の教えの出発点を画する講演 Le symbolique, l’imaginaire et le réel[徴示性,仮象性 [3],実在性]および「ローマ講演」は 1953年におこなわれた)から出発して 1970年代末へ向かって 時系列に沿ってたどってゆくのではなく,しかして,逆に,「最晩年のラカン」から出発して,彼の思考の歩みを 反時系列的に たどりなおした.

[3] 前著『ハィデガーとラカン』(青土社,2020)においては ラカンの用語 l’imaginaire を「事象性」と訳していたが,本書においては「仮象性」と訳する.

そうするのか ? それは,わたしがこう仮定するからである:「如何に精神分析を純粋に基礎づけ得るか?」を問うラカンの思考の歩みは,ハィデガーのそれにならって,否定存在論的孔穴 [4](言い換えれば,抹消された存在 存在 [ Sein ] の穴,または,抹消された主体 $ の穴) あの〈根本的であり,中心的であり,かつ,還元不可能である〉穴 の周りを回ることを決してやめない歩みであった その穴に関して問い続けつつ なぜなら,その穴こそ精神分析の純粋基礎となるものであるから.であれば,彼は,あの「どこにもたどりつかない道 [5]」を歩み続ければ歩み続けるほどに,その穴のエッジに ますます 肉薄していったはずであり,そして,それゆえ,彼は,彼の最晩年の教えにおいてこそ,あの穴の在所に関する思考を 最も明瞭な形において かつ 最も突きつめられた形において 我々に 示し得ているはずである.

[4] 否定存在論的孔穴 (le trou apophatico-ontologique) については,『ハィデガーとラカン』および本書の § 3 を参照.

[5]「どこにもたどりつかない道」(Chemins qui ne mènent nulle part) は,ハィデガーの論文集 Holzwege[杣道:そまみち](GA 5 : ハィデガー全集  巻)の フランス語訳に 訳者Wolfgang Brokmeier が与えた 表題である.否定存在論的孔穴の周りを回ることを決してやめなかった哲人の足跡を言い表すために うってつけの表現である  ただし,Holz(木材 ないし 森)という語に相当する語の不在は,ハィデガーの重要な用語 Lichtung[森のなかの空き地,朗開]への対義語的暗示を消し去ってしまうが.

それゆえ,わたしは,2020-2021年度のセミネールにおいて,ラカンの最晩年のふたつのセミネール Séminaire XXIV (1976-1977) L’insu que sait de l’une-bévue s’aile à mourre [6] および Séminaire XXV (1977-1978) Le moment de conclure を取り上げ,次いで,2021-2022年度は Séminaire XXIII (1975-1976) Le sinthome から出発して Séminaire XX (1972-1973) Encore ミレール (Jacques-Alain Miller) が「晩年のラカンの教え」と呼ぶものの出発点 至った.

[6] 晩年のラカンの いくつかのセミネールの 奇妙な表題については,のちほど説明する.

わたしは,本書を,それらの二年間の成果 セミネールにおいて語ったこと および ブログにフランス語で書いたいくつかの論文 および,その後に書いたものにもとづいて,執筆した.異なる時点に書かれた幾つかのテクストが一冊の本にまとめられたので,随所で同じ論が反復されている.だが,それは,その論が重要であることの指標でもあるので,あえて整理しなかった.また,あとから書きたした部分がその前後の部分との釣りあいを欠いている箇所も多々ある.読者に御容赦願う.


§ 1.2. ラカンの教えの時期区分について

ところで,わたしは 先ほど「晩年のラカンの教え」(le dernier enseignement de Lacan) および「最晩年のラカンの教え」(le tout dernier enseignement de Lacan) という表現を 用いた.それらは,ミレールにより作られたものである.それらの表現を用いるなら,本書は,「最晩年のラカンの教え」を含む「晩年のラカンの教え」からふりかえりつつ,彼の教え全体を見わたすものということになる.

だが,ここで,我々は,ミレールの説を鵜呑みにせず,しかして,ラカンの教えの時期区分について予備的に問うておこう.

ラカンの教えの出発点を画するのは,誰の目から見ても異論の余地なく,SPP (Société psychanalytique de Paris) からの分裂によって誕生したばかりの SFP (Société française de psychanalyse) において 1953 7 8日に行われた 講演 Le symbolique, l’imaginaire et le réel(徴示性,仮象性,実在性)および 同年 926日にローマで行われた学会発表 Fonction et champ de la parole et du langage en psychanalyse(精神分析における ことばの機能 言語の場) 通称「ローマ講演」 である.

次いで,1964 1月に ENS (Ecole normale supérieure)  la salle Dussane(デュサーヌ講堂)を講義室として借用しつつ始められたセミネール XI『精神分析の四つの基礎概念』が,彼の教えの第二の出発点を画するものと一般的には見なされている.

なぜならこのゆえに:セミネール XI の背景には,次のような経緯がある : 196311月,IPA は,ラカンの「破門」 つまり,精神分析家の国際的な職業団体からの追放 決定する.その理由は,表向きには,ラカンの「短時間面接」(より正確には,変動時間面接:ラカンは,IPA において慣習的に規範的と見なされていることにしたがって面接時間を固定的に 40-50分間とすることはせずに,しかして,面接の最中に否定存在論的孔穴がふと開出する瞬間を以て,面接を区切っていた)の「違法性」である.しかし,その本当の理由を,わたしはこう推測する:それは,ラカンによる〈自我心理学 IPA のなかで主流派である精神分析理論 に対する〉容赦ない批判であっただろう.というのもこのゆえに:もし仮に IPA のなかでラカンの言説を許していたなら,自我心理学の正統性と正当性は維持不可能とならざるを得なかったであろう;そして,それは,当然,IPA の主流派にとっては容認しがたい事態である.

ともあれ,その IPA 決定を受けて,ラカンは,SFP から脱退し,19646月に みづから 新たな精神分析家養成機関 EFP (Ecole freudienne de Paris)  創立する.セミネール XI『精神分析の四つの基礎概念』は,まさに そのような危機的な状況においておこなわれたセミネールである.それゆえ,それを ラカンの教えの第二の出発点と見なすことは,確かに,故なきことではない.

そして,最後に「晩年のラカンの教え」それは,1972-1973年の セミネール XX Encore に始まる;なぜならこのゆえに:そこにおいて,le réel[実在性]の概念の決定的な変更が生じている ミレールは,2000-2001年度の彼の講義において,そう主張した.

ミレールは,1973年以来,ラカンのセミネールの編纂をラカン自身から託されており,長年にわたって,ラカンの教えに関して最も明晰な説明を我々に与えてきており,それゆえ,ラカンの没後,全世界のラカニアンたちからラカン派の最高指導者として尊敬されてきた.したがって,彼による「晩年のラカンの教え」という時代区分は,即座に世界中のラカニアンたちに共有された.

ところが,ミレールにより編纂された〈セミネール Encore の〉公式版 それは,早々と 1975年に Seuil 社から出版された だけでなく,Staferla と名のる匿名作業グループ [7] が後に〈録音データ [8] にもとづいて〉作成した〈そのセミネールの〉テクストをも入念に吟味してみると,我々は,ミレールの「セミネール Encore において,実在性の概念の決定的な変更が生じた」という見解は誤っている,ということに気づくことができる.なぜなら,彼がその主張の根拠にしている当該のセミネールの一節の文面(ミレール自身の編纂による文面)は,実際にラカンが言っているのとは逆のことをラカンに言わせているからである(後述参照).

[7] Staferla という名称のもとにラカンのセミネールの編集を行っているのが誰であるかは,今のところ,完全に伏せられている.いずれにせよ,その作業の膨大さと困難さに鑑みるなら,個人ではなく,グループであろう,と推測される.彼らは,ミレールがまだ出版していないものをも含めて,すべてのラカンのセミネールの編集を完了している.それらのテクストは,誰でも彼らのウェブサイトからダウンロードすることができる.

[8] ラカンのセミネールのうち,1962-1963年の『不安』(第 巻),および,1969-1970年の『精神分析の裏』(第 XVII 巻)から 1977-1978年の『結論するとき』(第 XXV 巻)までの 10回に関しては,録音が残っており,その〈MP3 の形での〉データファイルは,パリ在住のラカン派精神分析家 Patrick Valas (1939-2023) 個人的なウェブサイトで,誰もがダウンロードすることができるよう,今でも公開されている.セミネール『不安』の録音は,おそらくラカン自身の意向により為されたのだろう  明らかにマイクはラカンの近くに置かれており,音質は良好である.それ以外のものは,聴講者たちのうちの誰かが個人的に録音したものであり,音質は必ずしも良くない(それでも,Staferla 版は,録音データが利用可能な場合は,おもにそれにもとづいて作成されている).それに対して,ミレールは,録音データが残っているセミネールに関しても,録音データではなく,速記録にもとづいて,編纂をおこなっている.それは,おそらく,録音データが 当時 ミレールにとっては利用可能でなかったからであろう;ミレール自身も,いちいち録音することはしていなかったのだろう(1960-1970年代,今のように誰もが手軽に録音することができたわけではない).速記録にもとづくテクストが包含する問題点はいろいろあるが,なかんづく,この問題がある:ラカンが一般的なフランス語の語法や文法から逸脱した表現を使うとき  それは珍しくない  こうなることがある:速記録者(女性)は,それについてゆくことができない;つまり,彼女は,ラカンが発した音声をそのとおりに記録することができない;なぜならこのゆえに:生まれつきフランス語話者である彼女はどうしても一般的に了解される「意味」にとらわれている.その結果,速記録にもとづいて作成されたテクストから出発して編纂されたミレール版は,ときとして,ラカンに,彼が言ったのとは逆のことを言わせてしまう.その具体例は,のちほど提示する.

ラカンの思考の歩みそのものに「前期ラカン」,「中期ラカン」,「後期ラカン」というような時期区分を〈そこに内在的なものとして〉見出すことはできない,と わたしは考える.なぜならこのゆえに:彼は,彼の教えの始めから終わりまで,終始一貫,否定存在論的孔穴のまわりを うまず たゆまず まわり続けただけである.

確かに,ハィデガー 存在について,やはり終始一貫,問い続けた哲人 の場合は,彼自身が Kehre(転回,方向転換) die Kehre von »Sein und Zeit« zu »Zeit und Sein« [9]『存在と時間』から『時間と存在』への転回呼ぶ切れめが,1936-1938年に書かれたテクスト(出版されたのは 1989年)Beiträge zur Philosophie (Vom Ereignis)(哲学への寄与(自有による))において,見出される.

[9] Heidegger, M. (1946) : Brief über den »Humanismus«. GA 9, p.328.

その Kehre は,図 1 におけるようにトポロジックに図式化するなら,このことに存する:「存在事象の領域を中心に措定し,そこから出発して,超越論的地平線または存在論的差異を横切って,存在へ向かう」ことから「存在の在所 (die Ortschaft des Seyns) そのものを中心に措定する」ことへの転回.

図 1

図  左側の図は,1927年の時点におけるハィデガーの問い方 それは「存在の意味に関して問う」(nach dem Sinn von Sein fragen) ことに存していた 形式化している.中央には「存在事象」(das Seiende) の領域が措定されている.そこから出発して存在 (das Sein) そのものへ向かおうとする問いは,〈『存在と時間』においては「超越論的地平線」(der transzendentale Horizont) と呼ばれ,また,1927年の夏学期の講義『現象学の基礎問題』においては「存在論的差異」(die ontologische Differenz) と呼ばれている謎めいた境界(図 1 の左側の図における黒い円周状の地帯)を〉横断しなければならない;それは謎めいている — なぜなら このゆえに:存在論的差異は,定義上,存在事象でもなければ,存在でもない.  

そして,まさに その「存在論的差異」の謎について問うことが,ハィデガーの思考を「転回」へ導くことになる.その「転回」が初めて明瞭な形で提示されるテクストが,『哲学への寄与(自有による)』である.そこにおいては,「存在の在所」(die Ortschaft des Seyns : この表現がそのものとして用いられるのは 戦後のことである)が 中心に措定されている.「存在論的差異」と呼ばれていたものは,「存在の在所」という穴(ハィデガー自身は「穴」[Loch] という語を用いてはおらず,しかして,Ab-grund[深淵的な基礎 または 基礎的な深淵]という表現を用いている)そのものへ 還元される.この思考を,戦後,ハィデガーは,みづから Topologie des Seyns存在のトポロジー)と呼んでいる.

それに対して,精神分析の純粋基礎について問う精神分析家ラカンの場合は,ハィデガーにおけるような意味での「転回」は,無い.ラカンが 1929年に書いた詩の表題に フィヒテの hiatus irrationalis(不合理な裂けめ)という表現を用いている という事実は,彼が 当時 既に 穴の直観を有していた ということを,我々に示唆している.つまり,ラカンは,始めから,存在のトポロジーにしたがって,否定存在論的孔穴のまわりをまわりつつ,問い,そして,思考していたのである.

後述するように,ラカンにとっては,「穴」の直観は,「結びめ」の直観とともに,根本的なものである,と わたしは考える.彼の直観によれば,フロィトが「無意識」という名称のもとに発見したものにおいてかかわっているのは,何らかの実体的な「力」(フロィトの表現で言えば dynamisch[力動論的]なもの)でも「エネルギー」(フロィトの表現で言えば ökonomisch[経済論的]なもの)でもなく,しかして,ひとつの「穴」(フロィトの表現で言えば topisch[場所論的]なもの 今,我々は,topisch という語の代わりに,topologisch[トポロジック]という語を用いることを,より好む)にほかならない.そして,ラカンが「ボロメオ結び」(nœud borroméen) において見出すことになる「結合性」(nodalité) は,その穴のトポロジックな構造の可能性の条件にほかならない.

したがって,ミレールが主張しているようなしかたで ラカンの教えの歩みそのもののなかに 何らかの切れめや不連続を想定することは 適切ではない,と わたしは考える.その代わりに,我々は,ラカンが 彼の思考と問いのために 如何なるオルガノン(organon : 道具立て)を用いたか を問う 観点において,彼の教えに,次のように,準備期を含めて,五つの時期を区別することができるだろう:

0) 1953年よりまえの準備期

ラカンは,敬虔なカトリック信者である両親のもとに生れ,カトリック司祭が教える私立学校で初等教育と中等教育を受ける.第一次世界大戦終了後,当時の現代芸術(ダダイスム,シュルレアリスム,等)と出会う.1919年にパリ大学医学部に入学.1920年代にフロィトの著作と出会う.1927-1929年,サンタンヌ病院 (l’hôpital Sainte-Anne) インターン.また,1928-1929年,パリ警視庁で精神鑑定を担当していたクレランボー (Gaëtan Gatian de Clérambault) のもとで,多様な精神病(特に,慢性幻覚性精神病や Schizophrenie の経過における初期症状である automatisme mental と,彼が博士論文で取り上げることになるパラノイア)について,学ぶ.1931年,ソシュールの構造言語学に準拠する精神病症状の分析について,学会発表を行う [10]1932年,パラノイア症例 Aimée をフロィトの諸概念を用いて分析した医学博士論文で,学位を取得.1932年から1938年まで,レーヴェンスタィン (Rudolf Loewenstein) のもとで教育分析を受け,1938年末に SPP によって精神分析家として認定される.その間,ラカンは,1930年代に,コジェーヴ (Alexandre Kojève) の講義において,ヘーゲルの『精神の現象学』を学ぶ.そして,同じく,コジェーヴをとおして,ハィデガーの名を知る.勿論,1943年に出版された サルトルの『存在と無』 そこにおいてサルトルは『存在と時間』の読解に懸命に取り組んでいる を,ラカンも読んだであろう.また,1949年に出版された レヴィストロースの『親族の元素的構造』によって,構造論的人類学と出会う.

[10] ラカンが早くも 1920年代にソシュール言語学を知るに至っていたのは,ピション (Edouard Pichon) を介してであった,と言われている.ピションは,医師であり,SPP の創立メンバーのひとりであり,また,言語学者でもあった.政治的には基本的にナショナリストであったピションは,ラカンを,純粋にフランス人である(つまり,ユダヤ人ではない)若き才能として,高く評価していた.ラカンも,ダムレッ (Jacques Damourette) とピションとの協働(ダムレットはピションの叔父である)による〈フランス語に関する〉言語学的研究の大著 Des mots à la pensée(語から思考へ : 1911-1940)から,幾つかのインスピレーションを受けており,しばしば彼らの名と書に言及している.

この時期のラカンの論文や学会発表等のうちでは,特に次のものが注目される:「不合理な裂け目」(Hiatus irrationalis) と題された〈当時の彼の愛人に献げられた〉短い詩 (1929) ; パラノイアの本質を「超自我精神病」と捉える医学博士論 (1932) ; ワロン (Henri Wallon) の「鏡の段階」説への準拠によって仮象的自我の形成について論じた学会発表(1936 ; ただし,そのテクストは公表されていない);『論理学的時間と先取りされた確実さの断言 新たなソフィスム』(1945) そこにおいて,ラカンは,「三人の囚人」の譬えによって ひとつの「救済論」を展開し,そして,そこにはひとつの実存的飛躍が包含されていることを,我々に示している;『心的因果性についての講話』(1946) そこにおいて,ラカンは,おもにヘーゲルの『精神の現象学』に準拠しつつ「狂気」について論じているが,それだけでなく,ハィデガーの名を挙げるとともに,パスカルの「実存の深淵 [11](l’abîme de l’existence) にも言及している (cf. Écrits, p.166).

[11] パスカルの死後創作された一種の伝説;それによると,パスカルは,死の数年まえから,ときおり視野の左側に深淵が出現するのを見ていた;その深淵体験が馬車の事故に関連づけられることもある:彼が乗っていた馬車が,それを引く馬たちがセーヌ河を渡る橋のひとつのうえで何かに驚き,水中へ転落し,馬車もあやうく橋から落ちそうになった;それがきっかけでパスカルは深淵を見るようになった.眼科医 René Onfray (1877-1968) は,もしそのパスカルの深淵体験が実際のものであったとすれば,それは眼性偏頭痛の症状であっただろうと推定している.

ただ,この時期には,のちのラカンの教えのオルガノンを特徴づける記号 ラカンは それらを「学素」(mathème) と呼ぶことになる 図式は,まだ登場していない.

1) 1953 7 8日の講演 Le symbolique, l’imaginaire et le réel[徴示性,仮象性,実在性]に始まり,1960-1961年度のセミネール VIII『転移』に至る 8 年間:

1952年,SPP の内部では,生物学主義を採る保守的なナシュト (Sacha Nacht) と心理学主義に立つリベラルなラガシュ (Daniel Lacache) との間で〈教育分析に関する〉意見の対立が,先鋭化していた.ラカンは,いづれの側にも与せず,その年の 12月に SPP の会長に選出されると,ナシュトとラガシュとの和解を試みた.しかし,彼の仲裁の努力は報われず,1953 6月,ラガシュと彼の仲間たちは,SPP から脱退して,新たに SFP を設立した.ラカンは,保守的なナシュトが君臨する SPP にとどまるよりは,よりリベラルなラガシュの新グループに加わることを,選んだ.そして,精神分析家たち および〈精神分析家になるために教育分析を受けている〉比較的若い精神科医や心理臨床家たちに〈精神分析の基礎づけについて問うことを〉教えるために,彼は,195311月,彼のセミネールを,サンタンヌ病院の敷地内の礼拝堂(それは,当時,既に,祭儀のためではなく,集会室として使われていた)において,開始する.

この時期のラカンの教えのオルガノンは,幾つかの学素を幾つかのトポロジックに規定された座に配置する図式 それらを 我々は「学素トポロジックな図式化」(schématisation mathématico-topologique) と呼ぶことができるだろう から,成る.その最初のものは,セミネール I において提示されている「光学図式」(図 2 そこにおいては,如何に仮象的自我が実在的主体を隠すかが,図式化されている である.次いで,セミネール II においては,シェーマ L(図 3)が 提示される そこにおいては,如何に仮象性は徴示性と実在性との直接的な関係に対する障害となっているかが,図式化されている.そして,この時期のラカンの教えのオルガノンの頂点を成すのは,セミネール V において提示される「欲望のグラフ」(図 4)である.

図 2
 
図 3

図 4

2) 1961-1962年度の セミネール IX『同一化』から 1968-1969年度の セミネール XVI『ひとつの他 A から a へ』に至る 8 年間:

この期間は,確かに,ラカンの IPA からの「破門」(196311月)および 彼による〈新たな精神分析家の養成機関 EFP の〉創立(1964 6月)という 重大な出来事を,含んでいる.そして,それにともなって,1964 1月からは,彼のセミネールは,もはや サンタンヌ病院の礼拝堂ではなく,ENS 行われることになる.この場所の変更は,当然,新たな聴衆 特に,ミレールを始めとする ENS 学生たち(彼らは,必ずしも精神分析の臨床そのものに関心を持ってはいない) を,ラカンのもとに引き寄せることになる.

しかし,ラカンの教えのオルガノンの観点からは,それらの出来事は何らかの切れめとは対応していない.セミネール IX から セミネール XVI までの 8 年間を特徴づけるのは,穴のトポロジーの図像化である;それを,ラカンは,セミネール IX『同一化』において,投射平面(図 5)のトポロジーを以て,導入する.

図 5

投射平面は,ひとつの円板(それは,穴開き球面と位相同型的 [homeomorphic] である)のエッジとひとつのメビウスの帯のエッジとを同一化することによって得られる閉曲面である;それは,三次元空間のなかでは完全に表象され得ない(トポロジーの用語では : embedding[埋め込み]が不可能である).だが,ともあれ,我々はそこに四つの構成要素を区別することができる:穴開き球面(青),穴,エッジ(緑),メビウス曲面(赤).そこで,取り扱いが若干めんどうな投射平面の代わりに,セミネール X『不安』からは,部分的に重なり合うふたつの円から成る図(図 6 : 本書においては,便宜上,「二重円の図」と呼ぶ)が 用いられることになる.

図 6

それは,一見,初歩的な集合論で用いられるヴェン図 (Venn diagram) に似ている(そして,おそらくラカンもそこから着想を得ただろう);だが,ラカンの教えにおいては,その図は集合論とは何の関係もなく,しかして,それは投射平面のトポロジーの一種の平面化である.すなわち,そこにおいてかかわっているのは,集合ではなく,しかして,上に列挙した四つのトポロジックな要素である:青い領域は,穴開き球面に対応する;赤い領域は,メビウス曲面に対応する;中央の〈ふたつの円の重なり合いの〉領域は,穴に対応する;そして,緑色のエッジは,穴のエッジでもあり,穴開き球面のエッジでもあり,メビウス曲面のエッジでもある.そのように,投射平面の平面化として,この二重円の図は,投射平面によって導入された穴のトポロジーを,投射平面を以てするよりもはるかにより容易に扱うことを,可能にする.この図は,セミネール XVI に至るまで,用いられる.

3) 1969-1970年度の セミネール XVII『精神分析の裏』から 1972-1973年度の セミネール XX Encore に至る 4 年間:

1968-1969年度,ENS の学長は「翌年度からは,あなたのセミネールのためにデュサンヌ講堂を使用することを,許可しない」と ラカンに通告してくる.ラカンは,そのことを,セミネール XVI 最終講義の際に 聴衆に 告げる.聴衆の一部は,抗議のために,ENS の学長室を占拠する(あの時代,世界中のあちらこちらの大学で似たようなことが起きていた).というわけで,1969-1970年度以降,ラカンのセミネールは,パンテオン広場に接するソルボンヌの法学部の大講堂で,大人数の聴衆を前にして,行われることになる(ラカンは ときおり 聴衆の数が多すぎることを 嘆いている).

セミネール XVII から セミネール XX までの 4 年間を 特徴づけるのは,セミネール XVII 冒頭で 導入される「四つの言説」(図 7)である.

図 7

四つの言説 (les quatre discours) は,「支配者の言説」(le discours du maître) と「大学の言説」(le discours de l’université) と「ヒステリカの言説」(le discours de l’hystérique) と「分析家の言説」(le discours de l’analyste) とから成っている.それぞれにおいて,四つの学素(支配者徴示素 [ le signifiant maître ] S1, [ le savoir ] S2, 主体 [ le sujet ] $, 客体 [ l’objet ] a)が 四つの座(能動者の座 [ la place de l’agent ] : 青色,他者の座 [ la place de l’autre ] : 緑色,真理の座 [ la place de la vérité ] : 黄色,生産の座 [ la place de la production [12] ] : 赤色)に 配置されており,それら四とおりの相異なる配置のしかたが四つの言説のそれぞれを規定している.各言説において,ふたつの学素の間に置かれた水平の線分は,一見,分数において分子と分母とを分ける線分のように見えるが,しかし,そうではない.そうではなく,それら線分によって区切られる四つの座は,四つのトポロジックな領域 穴開き球面(青),メビウス曲面(赤),穴(黄),エッジ(緑) 対応している.つまり,四つの言説は,1950年代に展開されていた学素トポロジックな形式化 (formalisations mathématico-topologiques) の延長線上に位置づけられるものであり,しかも,その最も完成された かつ 最も美しい かつ それゆえ 最も力づよい図式である,と我々は言うことができる.

[12] なぜラカンは四つの言説の右下の座を「生産の座」と呼んだのか? ラカン自身は,その問いに明瞭に答えてはいない.わたしの推量は こうである:支配者の言説において,右下の座には 客体 a  置かれている.そして,四つの言説において,客体 a の定義は「剰余悦」(plus-de-jouir) である.それは マルクスが「剰余価値」(Mehrwert, plus-value) と呼んだものである,と ラカンは 四つの言説を導入した セミネール XVII において 言っている.つまり,支配者の言説  それは,次章において説明するように,存在の歴史の源初論的時点に対応している  において,右下の座は「剰余価値の生産」の座である(右上の座に位置する S2 が「労働力」であるのに対して).そのことにもとづいて,ラカンは,右下の座を「生産の座」と呼び続けたのだろう.いずれにせよ,より重要なのは,このことである:右下の座は「書かれないことをやめないもの」の座である(次章以下参照).労働力と剰余価値生産との関係について言えば:どれほどの労働力がどれほどの剰余価値を生産するかを規定する法則は無い.すなわち,生産される剰余価値は,その予測される量に関しては,書かれないことをやめない.言い換えれば,かつてのソヴィエト連邦において試みられていたような「計画経済」は,不可能である.

4) 1973-1974年度のセミネール XXI Les non-dupes errent から 1977-1978年度のセミネール XXV『結論するとき』に至る 5 年間:

ラカンがソルボンヌの大講堂でおこなった最後のセミネールは,1978-1979年のセミネール XXVI『トポロジーと時間』である(ただし,EFP の「解散」[dissolution] に関連して 1980年にラカンの名において発表された幾つかのテクストの総体が セミネール XXVII『解散』と呼ばれることもある).『トポロジーと時間』は,10回の講義から成る.しかし,それらのうち,最後の 2 回では,セミネール参加者の発表が行われ,ラカン自身はほとんど語っていないので,実質的には講義は 8 回しかおこなわれていない.しかも,それらにおいても,ラカンは,健康状態の悪化のために,ごくわずかしか語っていない.録音された彼の発言にもとづいて編纂された Staferla 版のテクストからも,如何に彼がそのセミネールを展開しようとしていたのかを推察することは,困難である.ただ,そこにおいて彼が試みた「ボロメオ結びの一般化」(la généralisation des nœuds borroméens) は,このことを示唆している:彼は,セミネール XXV『結論するとき』の最後に到達した「三葉結び」(le nœud de trèfle, trefoil knot) の「結合性」(nodalité) それは,無「性関係」の穴 (le trou du non-rapport sexuel) ひとつの「代補」(suppléance) であり,そして,精神分析の終結を成す「欲望の昇華」の徴である から出発して,さらに,そのような代補としてのより複雑な結合性について問い続けようとした(だが,残念ながら,彼自身は,有意義な成果に到達し得なかった).また,『トポロジーと時間』という表題は,ハィデガーの主著の表題『存在と時間』を想起させる ハィデガーの表現 « die Topologie des Seyns »存在のトポロジー]を介して.それゆえ,わたしはこう想像する:ラカンは,そのセミネールにおいて,ハィデガーに対する敬意を 何らかの形で 表したかったのかもしれない.というのも,このゆえに:ハィデガーが 1976 526日に亡くなったとき,ラカンは,セミネール XXIII Le sinthome 最終講義を 511日に 既に終えてしまっており,それゆえ,精神分析の純粋基礎づけのために最も重要な足がかりを与えてくれた哲人に対する敬意と感謝を表明する弔辞を公の場で述べる機会を持つことができなかった.

ともあれ,それゆえ,我々は,ラカンの教えの最後を実質的に成すのは 1977-1978年のセミネール XXV『結論するとき』である,と見なす.

セミネール XXI から セミネール XXV に至る 5 年間のうち,セミネール XXII R.S.I. セミネール XXIII Le sinthome とにおいて,ラカンは,三本または四本の縄輪を用いたボロメオ結び [13]  最もよく活用している.

[13] 数学的トポロジーの結びめ理論においては,三つ輪のボロメオ結びは,より一般的な Brunnian link (entrelacs brunnien) の一種と見なされている;後者は,このような結びめである:それは,三つ以上の輪から成っており,それらの輪のうちのいづれのふたつも絡みあってはおらず,かつ,それらの輪うちのいづれかひとつを切断すると,残りのものはバラバラになり,結びめは解消されてしまう.三つ輪のボロメオ結びは,最も単純な Brunnian link である;そして,ボロメオ結びという名称は,三つ輪のものに限定される;つまり,今は「四つ輪のボロメオ結び」とは言わず,しかして,ラカンが提示していたような「四つ輪のボロメオ結び」は,四つ輪の Brunnian link の一種である.なお,« Brunnian » という形容詞は,ドイツ人数学者 Hermann Brunn (1862-1939)  彼は,Brunnian link を含む Verkettung(連鎖)ないし Verschlingung(絡みあい)のトポロジーに関する論文 Über Verkettung  1892年に 発表した  の名に由来する.

それらに先立つ セミネール XXI Les non-dupes errent においては,ラカンは,ボロメオ結びを導入するものの,それをまだ十分に活用し得ていない.つまり,そのセミネールは,従来の学素トポロジックな時期からその後のボロメオ結びの時期への移行を成している ボロメオ結びの最初の導入(単なる言及ではない導入)は セミネール XX 最後からふたつめの講義(1973 515日)において(そして,その回においてのみ)為されてはいるが.

そして,セミネール XXIV セミネール XXV において,ラカンは,三本の円環面 (torus) を用いたボロメオ結びを,導入する.そして,そのうちの一本を,そこに切れ目を入れて,裏返す その裏返された一本によって ほかの二本の円環面を包み込むために.そのような独創的な操作のゆえに,セミネール XXIV XXV 通常のボロメオ結びの彼方について問うセミネールである,と言うことができるだろう.ただし,『結論するとき』と題されたセミネール XXV の最後にラカンが得るものは,円環面のボロメオ結びから導出されるものではなく,しかして,先ほども言及したように,そして,後ほど詳しく見るように,欲望の昇華の徴としての三葉結びである(図 12 を参照).

図 12

ともあれ,ラカンの教えのオルガノンの観点から見るなら,「晩年のラカンの教え」 より適切に言えば「ラカンの教えのボロメオ期」 は,セミネール XX ではなく,しかして,セミネール XXI 始まる.

改めて まとめておくと,ラカンの教えの〈そのオルガノンの観点からの〉時期区分は,次のようになる:

0) 1953年よりまえの準備期;

1) 1953-1954年度から 1960-1961年度のセミネール VIII『転移』に至る 8 年間:学素トポロジックな図式化の時期;

2) 1961-1962年度の セミネール IX『同一化』から 1968-1969年度の セミネール XVI『ひとつの他 A から a へ』に至る 8 年間:穴のトポロジーの図式の時期;

3) 1969-1970年度の セミネール XVII『精神分析の裏』から 1972-1973年度の セミネール XX Encore に至る 4 年間:四つの言説の時期;

4) 1973-1974年度のセミネール XXI Les non-dupes errent から 1977-1978年度のセミネール XXV『結論するとき』に至る 5 年間:ボロメオ結びの時期.

本書の執筆の時点において,わたしは,2020 月に青土社から出版された『ハィデガーとラカン』におけるよりも,ラカンの教えの幾つかの細部の理解に関して,若干,さらに前に進むことができた,と 思っている.また,ラカン用語の邦訳に若干の変更を加えた(特に « l’imaginaire » を「事象性」ではなく「仮象性」と訳すことにした).しかし,根本的なところは変わっていない それは,わたしが「否定存在論」(l’ontologie apophatique) と名づけた思考である.その語を聞いて,ハィデガーとラカンが「よくぞ名づけた」と言うか,あるいは,顔をしかめるかは,不明である(たぶん,ハィデガーは顔をしかめるだろうが,それに対して,ラカンは « Excellent ! » と言ってくれるだろう,と わたしは勝手に想像する).ともあれ,否定存在論は,精神分析を純粋に基礎づけるために,ラカンがハィデガーの思考から抽出してきたそのエッセンスである.それゆえ,ラカンと精神分析を学ぼうとする人々にだけでなく,ハィデガー研究者たち,および,副題「精神分析と信仰」が示唆しているように,神学者たちにも,是非,参考にしていただきたい.