2016年6月23日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-16年度 第25回,2016年06月24日

Un Ⱥutre absolu, le sujet enfin en question

絶対的な他 Ⱥ, 究極的に問われるべき主体


Le séminaire sur « La Lettre volée » に付された Introduction において,Lacan は,schéma L について注釈を加えつつ,こう述べています (Écrits, p.53) :

« C’est ainsi que si l’homme vient à penser l’ordre symbolique, c’est qu’il y est d’abord pris dans son être. L’illusion qu’il l’ait formé par sa conscience, provient de ce que c’est par la voie d’une béance spécifique de sa relation imaginaire à son semblable, qu’il a pu entrer dans cet ordre comme sujet. Mais il n’a pu faire cette entrée que par le défilé radical de la parole, soit le même dont nous avons reconnu dans le jeu de l’enfant un moment génétique, mais qui, dans sa forme complète, se reproduit chaque fois que le sujet s’adresse à l’Autre comme absolu, c’est-à-dire comme l’Autre qui peut l’annuler lui-même, de la même façon qu’il peut en agir avec lui, c’est-à-dire en se faisant objet pour le tromper. Cette dialectique de l’intersubjectivité (...) s’appuie volontiers du schéma suivant :
“かくして,もし人間が徴在の位を思考するに至るとすれば,それは,人間はまづもって自身の存在において徴在の位のなかに捕らわれている,ということである.「人間は意識的に徴在の位を形成したのだ」という錯覚は,次のことに由来する:すなわち,人間が主体として徴在の位に入り得たのは,同類との影在的な関繋に特異的なひとつの裂口という道を通ってである,ということ.しかし,人間がそこに入り得たのは,ことばの根本的な行列 [すなわち,Lacan が Séminaire XI において「無意識の閉じと開きの時間的拍動」と呼ぶところのもの] によってにほかならない.そのようなことばの根本的な行列の発生的瞬間のひとつを,我々は,子どもの [Fort-Da の] 遊戯 のなかに認めたが,しかし,それは,絶対的 なものとしての [ Ⱥutre ] へ主体が語りかけるたびに,その完全な形において再現される.その絶対的な他とは,主体自身を無化し得る他である – 主体と行為し得るのと同様に,すなわち,主体を欺くために己れを客体 [ a ] としつつ.このような相互主体性の Dialektik は,おのづと,次のシェーマに依拠する:


« désormais familier à nos élèves et où les deux termes moyens représentent le couple de réciproque objectivation imaginaire que nous avons dégagé dans le stade du miroir. »
“このシェーマは,今や我々のセミネールの聴講生にはなじみのものである.そこにおいて,中間の二項 [ a - aʹ ] は,影在的な相互的客体化のカップル – 其れを我々は鏡の段階において取り出した – を表している.”

この Autre absolu [絶対的な他]という表現は,そのものとしては,Lacan の教えのなかで頻繁に出てきはしませんが,Le séminaire sur « La Lettre volée » においてはあと二回用いられています:

« Or ce registre [ de la vérité ] (...) se situe tout à fait ailleurs, soit à la fondation de l'intersubjectivité. Il se situe là où le sujet ne peut rien saisir sinon la subjectivité même qui constitue un Autre en absolu» (Écrits, p.20).
“ところで,この真理の次元が位置しているところは,まったく他なるところであり,すなわち,相互主体性の基礎である.そこにおいて主体は,絶対的なものに定立する主体性そのもの以外の何をも捉え得ない.”

« l'impasse que comporte toute intersubjectivité purement duelle, celle d'être sans recours contre un Autre absolu » (Écrits, p.58).
“あらゆる純粋に双数的な[影在的な]相互主体 [ a - aʹ ] に伴う行き詰まり,[すなわち]絶対的な他に対して抗いようが無いがゆえの行き詰まり.”

Lacan における « absolu » という語は,直接的には,Hegel の « das Absolute » [絶対者,すなわち,神]という用語,ならびに,« der Tod, der absolute Herr » [死,すなわち,絶対的な支配者] という規定に由来していると思われます.上にも引用した「絶対的な他に対して抗いようが無い」という表現にも,「絶対的な支配者としての死」という観念がうかがえます.

しかるに,そもそも,「絶対的な他」は,絶対的に「自」ではないもの,絶対的に異なるものです.ところで,差異は,存在事象どうしの差異であれば,必ず相対的なものです.もし「絶対的」と呼び得る差異を思考すべきであるとすれば,それは,存在事象と存在(抹消された存在としての存在)との差異,すなわち,Heidegger が die ontologische Differenz [存在論的差異]と呼ぶところのものだけです.

存在事象に対して,絶対的な存在論的差異において,絶対的に他なるもの,それは,存在  Seyn, Sein抹消された存在としての存在,manque-à-être [存在欠如]としての主体の存在  にほかなりません.

このことに注意しましょう : schéma L において単純に A と表記されている他は,実は,「徴示素の宝庫」に譬えられる le lieu de l'Autre [他の場処] としての他 A ではなく,而して,« il n'y a pas d'Autre-de-l'Autre » [他の他は無い] と公式化されるときの不可能な「他の他」,すなわち,抹消された他 Ⱥutre のことである.



「徴示素の宝庫」に譬えられる他の場処としての他 A は,Heidegger の言うところの das Seiende als solches im Ganzen [存在事象そのもの全体] としての存在  Seyn と区別される Sein, 抹消されてはいない存在  です.それは,穴あき球面に対応します.

それに対して,絶対的な他,不可能な「他の他」は,他 A に対して ex-sistent [解脱実存的] である他 Ⱥutre です.le lieu de l'Autre [他の場処]に対して,die ek-sistente Ortschaft des Seyns, la localité ex-sistente de l'Ⱥutre [他 Ⱥ の解脱実存的な在処] です. それは,穴あき球面に対して解脱実存的な Möbius strip に対応します.

他の場処 A は,consistance [定存] としての影在の位に還元される限りにおいて,schéma L の影在的な関繋 a - aʹ  に対応することになります.

それに対して,schéma L の A - S (Es) は,主体の存在の真理の解脱実存的な在処に対応しています.

主体の存在の真理は,まずもって大概のところ,影在的な関繋 a - aʹ  によって覆い隠されており,それとして己れを示現することはできません.

主体の存在の真理の実践的な現象学としての精神分析においては,剰余悦 a という影在的な成形を分離することによって,「みづから己れ自身を示現せむと欲する存在の真理を,それがみづから己れを示現するがままに,それ自身から出発して,見えさせる」ようにすることがかかわっています.



東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-2016年度 第25回


日時 : 2016年06月24日,19:30 - 21:00,

場所:文京区民センター 2 階 C 会議室

今年度最後の 2回(6月24日,7月01日)は,Lacan の教えにおける文字の概念の展開をたどるために,1971年の書 Lituraterre の読解を試みます.

参加者は以下の三つのテクストを用意してください:

Lituraterre in Autres écrits, pp.11-20 ;

Lituraterre in Séminaire XVIII (version Seuil), pp.113-127 ;

Lituraterre in Séminaire XVIII (version Staferla), la séance du 12 mai 1971.


参加費無料.事前の申請や登録は必要ありません.

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