2015年12月3日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」,第七回,2015年12月4日

Poe の『盗まれた手紙』を,Dupin と D 大臣とは兄弟どうしであると仮定しつつ,あらためて読んでみると,或る一節が含む allusion に気づきます.それは,Dupin が語り手にタネ明かしをしつつ,G 警視総監の推論の誤謬:「すべての愚者は詩人である;ところで,大臣は詩人である;ゆえに,大臣は愚者である」を指摘した直後の一節です:

"But is this really the poet ?" I asked. "There are two brothers, I know ; and both have attained reputation in letters. The Minister I believe has written learnedly on the Differential Calculus. He is a mathematician, and no poet."

"You are mistaken ; I know him well ; he is both. As poet and mathematician, he would reason well ; as mere mathematician, he could not have reasoned at all, and thus would have been at the mercy of the Prefect."

「だが,本当に詩人の方かい?」と,わたしは訊ねた.「ぼくの知るところでは,二人兄弟で,両方とも博識で有名になった.大臣は微分計算について学者のように本を書いた,と思う.彼は数学者であって,詩人じゃない.」

「きみは勘違いしている.ぼくは彼をよく知っている.彼は両方だ.詩人かつ数学者であれば,論理的思考に長けているだろう.単なる数学者なら,彼が論理的に思考したなんて全くあり得ないだろうし,かくして,警視総監の思いのままになっていただろう.」

つまり,D 大臣には兄弟がひとりいる.しかし,後者が誰であるかは不明なままです.その点について Dupin は話をはぐらかしています.ふたりのうち一方が数学者であり,他方が詩人である,という語り手の主張を否定し,D 大臣はひとりで両方なのだ,と語り手に信じこませることによって,D 大臣の兄弟の存在に関する問いを答え無きままに放置し,自分の正体を巧みに隠し続けます.

さて,今日は,D 大臣に関する Dupin の もうひとつの指摘に注目してみましょう.物語の終わりの少し前のところで,Dupin は D 大臣についてこう言っています:

"D- is a desperate man, and a man of nerve."

さらに:

"He is that monstrum horrendum, an unprincipled man of genius."

この "desperate" は「絶望的な」ではなく,"violent, dangerous" です.そして,"nerve" は「神経質」ではなく,"audacity, boldness, daring" です.

つまり,D 大臣は暴力的で危険である,なぜなら,彼は unprincipled [倫理的な原理を欠いている] であり,それゆえ,倫理に反することでも平然とやってのけるから.そして,彼は天才的であるがゆえに,よりいっそう危険です.であるがゆえに,Dupin は,Vergilius が Aeneis のなかで Gaia の娘 Fama について用いた表現を以て,D 大臣を monstrum horrendum [恐るべき怪物]と呼んでいます.

そこから我々は,Lacan が用いた canaille という語を連想します.

canaille という語は,辞書ではこう定義されています:まず名詞としては une personne digne de mépris [軽蔑に値する者],さらに形容詞としては vulgaire, avec une pointe de perversité [下品であり,若干の倒錯性を伴っている].とりあえず「下司」と訳しておきましょう.

Télévision (Autres écrits, p.543) のなかで Lacan はこう述べています:「下司に対しては,精神分析を拒まねばならない.なぜなら,下司は精神分析により野獣[けだもの]になるから」.


これは驚くべき忠告です.なぜなら,原理的に言って,人間は,言語の構造に住まう限りにおいて,皆,精神分析可能であるはずですから.にもかかわらず,なぜ下司を精神分析の言論へ導入してはならないのでしょうか?そもそも,いったい如何なる人間を Lacan は下司と呼んでいるのでしょうか?

Séminaire XVII, 1970年1月21日の講義において,Lacan はこう言っています:「下司のすべての形態以外には,メタ言語は無い – “下司”によって,“人間の欲望は他の欲望である”ということから導出されるあの奇妙な営為を差し徴すならば.あらゆる下司性は,このことに存している:すなわち,或る者の欲望が捕縛される形象が描かれるところにおいて,その者の他 Autre であろうとすること」.

下司は,ひとつのメタ言語である.ところで,Lacan の教えにおいて,「メタ言語は無い」は「他の他は無い」と等価である.したがって,下司は,ひとつの「他の他」である.

勿論,「他の他は無い」という原理が成り立たない例外がある,というわけではありません.他の他は無い.その不可能な他を Lacan は Ⱥ という学素で形式化しています.そして通常は,この Ⱥ を代理するものとして,欲望の客体 a が措定されます:


ところが下司は,誰かに対して,欲望の客体 a としてではなく,他 Autre として己れを提示します.欠けるところの無い他,完璧な他,理想的な他 Autre です.そして,それによって,下司は,当該の誰かを利用し,搾取しようとします.それが,下司の下司たる所以です.

そして,もし下司が精神分析を経験すると,どうなるか?もしかして彼のなかに残っていたかもしれない若干の常識的ないし社会的な遠慮は一切取り除かれます.かくして,下司は野獣になります.己れの利益のために如何なる躊躇も無く誰かを食い物にする野獣に.

Séminaire VII, 1960年3月23日の講義において Lacan は,右翼知識人を「下司」と呼んでいます.我々にとってもっとわかりやすい実例は,或る種の新興宗教の教祖たちでしょう.文字どおり,彼らは,信奉者たちに対して完璧で理想的な他として己れを提示し,それによって信奉者たちを利用し,搾取しています.

D 大臣はどうでしょうか?彼も,まさに下司の一例です.如何なる良心の呵責も無く,彼は女王を利用しようとします.如何にして?手紙を保持することによって.

盗まれた手紙は,Ⱥ の座に秘匿された文字,書かれぬことを止めぬ不可能な文字です.それを所有することによって,大臣は王妃に対して絶対的な権力を有する支配者たる他として己れを提示します.

ただし,Dupin によって手紙が持ち去られてしまった後も,そのことに気がつきもせず.ついに大臣が問題の手紙を開くとき,彼が受け取るメッセージはこれです:

「かくも凶々しきもくろみは,Atreus にはふさわしからずとも,Thyestes にはふさわしい.」

そして,その手書きのメッセージの筆跡に,大臣は,自分の兄弟である Dupin を認めるでしょう. そしてそのとき大臣は,今度は自分が Dupin によって破滅させられたことに気がつくでしょう.

2015年12月4日,東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」,第七回では,引き続き Lacan の『盗まれた手紙についてのセミネール』を読解します.

時間はいつものように 19:30 - 21:00,

場所は,文京シビックセンター 5階 D会議室です.

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