2014年9月2日

「精神分析トゥィーティング・セミナー: フロイト・ハイデガー・ラカン」 8月26日から9月1日まで.



26 August 2014 : 主体と他の Dialektik ; 人間は,まずもってたいがい,神の請求から逃れようとする; ヨナの物語; 症状は,本能請求に対する抵抗を成す.

精神分析的思考を特徴づけるものは何でしょうか?それは,主体に関して思考するために,主体は本質的に他との関繋において在ると考えることです.

そしてその際,他は,あなたの同類であるような他者ではなく,あなたとは絶対的に異なる他です.Kant 的な表現を用いるなら,他は,経験的な他者ではなく,先験的な他,超越論的な他です.

そのような精神分析の特徴は,神学を特徴づけるものと共通しています.キリスト教だけでなく,ユダヤ教においてもイスラム教においても,天地の創造主たる神は,非経験論的な,先験的な他です.

重要なのは,このことです:神という絶対的な他は,しかし,人間とは無関係に,勝手にひとりで天国で暮らしているのではなく,むしろ逆に,人間との関係を持とうとします.人間に語りかけてきます.人間に,神との関係に入るよう,誘いかけてきます.さらには,人間に対して請求をつきつけてきます.神の請求の圏域内に人間を捕らえようとします.

救済論的な観点からは,神の請求は,贖いの請求です.

しかし,人間は,むしろ,神が差し向けてくる請求から逃げようとします.目をそむけようとします.

イェスが引用していることで有名な旧約聖書のヨナの物語においては,神はヨナに預言者になるよう請求しますが,ヨナは,船で海へ逃げ出します.しかし,神の請求の圏内から脱出することは不可能です.ヨナの乗った船は嵐に捕らえられ,嵐を静めるためにヨナはみずから海に身を投げます.そして,クジラを思わせる大きな魚がヨナを呑み込み,ヨナは三日三晩,その巨大な魚の腹のなかにいますが,ついには岸辺へ吐き出されます.この物語は,イェスが処刑後三日目に復活するという話の下敷きになっています.

ともあれ,「贖え」と請求するのは神,つまり他 A であり,人間の方はその請求に抵抗します.なぜなら,ヨナの物語が示しているように,贖いの過程で死なねばならないからです.

死を引き受けること,地上的なもの,存在事象の次元のものの喪失を受け入れることは,他 A の請求に服従することです.人間の側がみづからの仕業によって贖えるわけではありません.

聖パウロも強調しているように,贖罪の遂行,つまり,義とされることは,人間が神を信ずることにおいて,神によって為されることであって,人間の側の努力や業績によって果たされることではありません.

まずは,神を信ずること,神を信頼すること,それがすべての出発点です.つまり,人間が「自分は神と本質的な関係に在るのだ」と認めることが原点です.

仏教は,カルマ,業を重視しますが,それとて,単に人間がひとりよがりに何かすればよいのではなく,まずは,自分が宇宙秩序との本質的な関係において存在していることを認識していなくてはならないはずです.

人間は,他 A が人間に突きつけてくる請求から逃げようとし,請求に従うことに対して抵抗しようとします.そこに病理が生じます.

精神分析における分析は,いったい何を分析するのか?症状か,自我か,防衛か,人格か,自己か?Freud 以後の分析家たちはさまざまに考えました.しかし,それらはすべて本質的に同じものです.つまり,症状の学素 a / φ により形式化される構造です.

φ という ex-sistence の穴を,穴そのものとして保たずに,何らかの仮象で塞ぎ,覆い隠してしまうこと,それが抵抗です.そのような抵抗が病理を生ぜしめます.φ という ex-sistence の穴がどのような仮象 a によってどのように塞がれるかが,臨床的な病理の多様性を決定します.

Ⱥ $ との関繋は如何という御質問をいただきました.この問いに答えるためには1964年の Lacan の書『無意識の位置』における aliénation の概念に立ち入らなくてはなりません.長い話になるでしょうから,明日取り組むことにしましょう.可能なかたは,セミネール XI aliénation のくだりをざっと読んでおいてください.


27 August 2014 : カトリックとプロテスタント; カトリックとギリシャ正教; 人間存在の本有は神性である; aliénation の構造; 主体は,デカルト的主体として,無意識に対して前提的に仮定されている; A は,ことばが真理において肯われることが要請する次元である; 無意識は,主体と他との間の切れめである.

昨日予告した aliénation の話に入る前に,いただいた御質問にお答えしたいと思います.御質問はキリスト教にかかわるものです.

わたしはカトリックですが,ただの一般信徒のひとりであり,神学は独習しただけです.ですから,わたしの考えはあくまで個人的なもので,カトリック教会を代表するものではありません.

そもそも,復活したイェスを懐胎したのはマグダラのマリアであり,聖母マリアと罪深い女マリアとは本来同一人物だというわたしの空想は,全くの異端です.

先日わたしは,プロテスタントの一部は大学の言説の構造を有している,と言いました.わたしが念頭においているのは,USA WASP (White, Anglo-Saxon, Protestant) の支配体制に荷担してきたプロテスタント,および,fundamentalism に属する諸会派のプロテスタントです.彼らの言説は,差別の言説です.本来のキリスト教の普遍性とは別のものです.

カトリックも,第二 Vatican 公会議以前は,差別的との非難を免れ得なかったでしょうが,今はそうではありません.第二 Vatican 公会議以後は,カトリックは,従来の「教会の外に救済は無い」という差別的態度を棄て,神の愛の普遍性によりどころを置いています.そこが,今のカトリックとプロテスタントの大きな違いです.

東方教会の三位一体論については,わたしも先日,三位一体と Filioque について小論を書きました.東京ラカン塾の site から download できますので,御参照ください.

そこにも書きましたように,Filioque 問題については,ギリシャ正教の方が正しいと思います.聖なる霊気(聖霊)は,本来,父からのみ発するものです.

Jean-Paul II Benedikt XVI も,ギリシャ正教の総主教と共に祈るときには,Filioque 無しの symbole を唱えました.

わたしが個人的に知っている幾人かの神父様たちは皆,ギリシャ正教の spiritualité に敬意を払っています.わたしは彼らのひとりに頼まれて,ギリシャ正教の典礼で用いられる聖歌や祈りの言葉のフランス語テクストを日本語に翻訳したこともあります.

先日,Meister Eckhart の解説本のなかで知った θέωσις, theosis という用語を紹介しましたが,永遠の命において人間は神になる,人間は神性に与っている,という考え方は,ギリシャ正教においては全く伝統的なものだそうです.

わたしは,人間には神性が備わっている,と考えます.その意味で,わたしも,Meister Eckhart にならって,mystique のひとりです.mystique を広い意味で取れば,聖パウロも mystique です.

人間には神性が備わっており,いわんや,イェスは神です.三位一体を否定し,人間の神性も当然認めない unitarianism には全く賛同できません.

さて,aliénation の問題です.Séminaire XI の図と,わたしなりに整理した図とを提示します:



最初の図は,Séminaire XI のフランス語原書 p.192, 527日の回のセクション 3 に出てきます.

既成の邦訳では aliénation は何と訳されているでしょうか?わたしは「他化」よりも「異状」の方が適当かなと今は考えています.既成邦訳では aliénation は「疎外」だそうです.御教示ありがとうございます.しかし,「疎外」では事態の本質を見ることができません.

ともあれ,Séminaire XI の図とわたしの図は,一見したところ全然違います.他 A と主体の位置が左右反対です.しかし,両者は本質的に等価です.

今日だけでは話はとても終わらないので,何回かに分けて説明して行きます.

まず,Écrits Position de l'inconscient 『無意識の位置』,フランス語原書 p.839 に提示されている三つの命題を見ましょう:

Le sujet, le sujet cartésien, est le présupposé de l’inconscient (...). L’Autre est la dimension exigée de ce que la parole s’affirme en vérité. L’inconscient est entre eux leur coupure en acte.

主体 — Descartes 的主体 は,無意識に対して前提的に仮定されているものである(…).他 A は,「ことばが真理において肯われる」ことが要請する次元である.無意識は,両者の間において,両者の〈現動態における〉切れめである.

これらの三つの命題が,aliénation の構造を説明しています.

aliénation の図は,初歩的集合論で用いられる Venn 図の模倣ですが,円や弧で囲まれた領域は,ひとつの集合を表すわけではありません.それらは,それぞれ,四つの言説の構造の座に対応しています

とりあえず,中央の部分,ふたつの円の交わりの部分から取りかかりましょう.その領域について Lacan は「無意識は,主体と他 A との間の切れめである」と言っています.この「切れめ」は,純粋徴示素としての a のことです.それは,切れめ,穴そのものです.

明日以降,主体の領域と他 A の領域について見て行きましょう.


28 August 2014 : 神と人間; 死の不安から復活の歓喜へ; 「ひとつの徴示素は主体をもうひとつのほかの徴示素に対して代表する」ことが無意識の成形の構造である.


今日もまずは神と人間の関繋のことから始めます.

なぜ精神分析家が神について語るのか?それは Lacan が神について語っているからです.おそらく Lacan は,神学者や司祭などキリスト教の「業界」内の人々を除けば,20世紀において最も真剣に,最も頻繁に,神について思考し,語った哲人のひとりではないでしょうか?

なぜ Lacan はそうしたのか?それは,人間主体の本質について思考するためには,他 A との関係においてそうせねばならないからです.他 A は,西欧の伝統では「神」と呼ばれてきました.

神との関係から出発することによって,あるいは,神から出発することによって,初めて,人間主体の本有は思考され得る.

そのことを Lacan は,Spinoza, Hegel そして Heidegger から学びました.その三人には尽きないかもしれませんが,Lacan が学んだもろもろの哲人のうち最も偉大な名を挙げるとすれば,Platon Aristoteles を挙げるのは当然でしょうが,やはり,Spinoza, Hegel, Heidegger を挙げることになるでしょう.

プロテスタントの一部の神学者たちは,神と人間との隔たり,断絶を強調します.それに対して,mystique, いわゆる神秘主義と呼ばれる人々は,神と人間の交わり,合一,人間のなか宿る神性に注目し,あるいは,みづから経験します.

人間のなかの神性は,ある意味で,人間存在のなかにひそむ深淵です.それを認めることは不安を惹起し得ます.しかし,人間のなかに神性が宿っていることは,人間の救済の可能性の条件でもあります.さらには,それによって人間は既に救済されているのです.なぜなら,イェスはこう言っています:

あなたがわたしの言葉を聴き,わたしを使わした方を信頼するならば,あなたは永遠の命を有している.あなたは,[最後の審判のときにも]裁かれることはない.あなたは,死から[永遠の]命へ[既に]移ったのだ.(ヨハネ福音書 5,24).

「永遠の命」は,人間が与る神性の別名です.

人間のうちに神性が実現するためには,人間は,世に対して死なねばなりません.そして,死から復活せねばなりません.

ですから,人間のうちに神性が宿っており,神はその実現を人間に請求している,ということは,不安を惹起します.先日もお話しした村上春樹氏の『1Q84』のなかの天吾の父の生霊が青豆に未払いNHK受信料を請求する場面と同じく,無気味です.

しかし,死の不安を通ることによって初めて,復活の歓喜へ至ることができます.その不安を克服することができるとすれば,それは神の恵み,神の愛によってです.

「我は信ぜず.ゆえに我は在る」という命題について考えてみましょう.この命題は,一義的ではありません.まず単純に,神と人間との断絶を言っているのだ,と見なすこともできるでしょう.人間は,神を必要としていない.人間と神とは相互に何の関わりも無い.わたしは神を信ずることはできないし,信ずる必要もない.そのことによって,わたしは神から独立し,自立した者として,存在している.現代人の多くは,そう考えているでしょう.まさに Descartes がそう言っている:「我は考える.ゆえに我は在る」.神は関係無い.

しかし,そうでしょうか?それは,Descartes の命題の浅い理解です.「我は信ぜず.ゆえに我は在る」は,もっと深い意味において思考され得ます.

「我は信ぜず」は,わたしは「ひとつの存在事象として神が存在する」とは思わない,と言おうとしているのではないでしょうか?「我は信ぜず」は,存在事象の場に開いた深淵の口,信じがたい無との出会いを言い表しているのではないでしょうか?

それは,ex-sistence としての「抹消された存在」にほかなりません.そして,そのような深淵に達したとき,初めて,「ゆえに我は在る」と言うことができます.

その場合の「我」は,人間の最も本来的な存在可能性としての自己です.そして,それは,神と人間との交わり,communion にほかなりません.

神は,人間がそのような自己に到達することを欲しています.それが救済です.その可能性の条件は,神の愛です.

さて,aliénation に戻ります.

Lacan はこう言っています: un signifiant représente le sujet pour un autre signifiant. ひとつの徴示素は,主体を,もうひとつのほかの徴示素に対して代表する.これが formation de l'inconscient 「無意識の成形」の構造である.

「無意識の成形」とは,症状,夢,言いそこない,しそこない,等,Freud が精神分析において取り上げたもろもろの現象です.

「無意識はひとつの言語として構造化されている」と Lacan は言いますが,その前に,「症状はひとつの言語として構造化されている」と言っています.

Lacan の言葉づかいは必ずしも厳密ではありません.

aliénation の図の中央部の交わりの部分におかれた a は,「無意識の成形」という意味における「無意識」です.つまり,構造 a / φ a です.


29 August 2014 : 「無意識」,「精神」,「心理」,「こころ」を厄介払いするための学素; 異状とは,人間の最も本自的な核が他において出現することである; A の場処のトポロジー; 強いられた選択.

「無意識」という用語は,精神分析にとって本質的なものでありながら,同時に,誤解と曲解のもとにもなっています.

「無意識」だけでなく,「精神」もそうです.あるいは,「精神分析」 psychoanalysis は「心理分析」とも呼ばれ得ますが,この「心理」や「心,こころ」という用語も,精神分析の本質を覆い隠し,誤解を生む要因です.

「無意識」「精神」「心理」「こころ」,そのような誤解のタネ,つまづきのもとをすべて厄介払いするためにも,Lacan mathèmes 「学素」による形式化を導入しました.1964年の『無意識の位置』は,まだ形式化の途上にあります.

精神分析において,無意識は,もはや意識の反対概念ではないのです.「意識」という語も,医学,心理学,認識論,ドイツ観念論などにおいて,それぞれ異なる意味と定義において用いられていますから,無意識を意識の反対概念だと考えることは,混乱に混乱を重ねることになります.

Freud が発見した無意識は,Freud 自身が言うとおり,人間の本有の核,中心を成す領域です.それは,意識の光が届かない辺縁的暗がりではありません.そうではなく,無意識の場処は,人間の本有の中心にうがたれた深淵の場処です.

Lacan は,無意識の場処は Heidegger が「存才の処有」 Ortschaft des Seyns と呼ぶ場処にほかならないことに気づきました.

Seyn は,Sein 「存在」の古い書き方です.Heidegger は,Seyn という語を,Sein : 「抹消された存在」を完結に表記するために用いました.

それは,Lacan 的学素ではφ : 「抹消されたファロス」です.無意識は,かくして,まずは,学素 φ により形式化される中心的深淵です.

しかし,Heidegger において「存在」 Sein という語が二重の意味で用いられているのと同様に,Lacan も「無意識」という語を二重の意味で用います.つまり,φ のみならず,φ を代表する仮象 a も「無意識」と呼ばれます.つまり,其れによって φ としての無意識が己れを顕すところもの,つまり,無意識の成形 formation de l'inconscient をも Lacan は「無意識」と呼ぶことがあるのです.

人間の本有の核φ としての無意識,つまり,人間の最も本自的な存在可能性が,それとは異なる仮象としての無意識として出現する,という事態,それが aliénation 「異状」です.

« un signifiant représente le sujet pour un autre signifiant ». ひとつの徴示素 a が,主体φ を,もうひとつのほかの徴示素 $ に対して代表する.

この命題が「異状」の構造を公式化しています.

1969年に Lacan が「分析家の言説」と名づける構造は,「無意識の成形の構造」,「症状の構造」である「異状の構造」にほかなりません.

さて,Écrits p.839 の命題に戻りましょう:

主体,Descartes 的主体は,無意識に対して前提的に仮定されているものである.他 A は,「ことばが真理において肯われる」ことが要請する次元である.無意識は,両者の間において,両者の〈現動態における〉切れめである.

Venn 図を模した図においてふたつの円の交わりを成す領域には,無意識の成形としての無意識が位置づけられます.それは,症状の徴示素 a の座,つまり,四つの言説における agent 能動者の座に相当します.

幻想は無意識の成形に属するか?という御質問に対しては,その答えは今は留保しておいてください.

幻想を Lacan は学素 ($a) により形式化します.この学素は,Lacan の学素のなかでも最もよく知られたものですが,この学素の解釈はなかなか難しいのです.なぜなら,($a) は或る意味で過渡的な学素だからです.ですから,幻想の学素 ($a) Lacan が最も早く用い始めた学素ですが,そこに立ち戻るのは最も後でです.

「他 A は,ことばが真理において肯われることが要請する次元である」に移りましょう.

四つの言説の構造における左下の座は,真理の座と呼ばれます.それは,主体の存在の真理φ です.「ひとつの徴示素は主体を代表する」という命題は,より正確には,「ひとつの徴示素 a は,主体の存在の真理 φ を代表・代理する」と言うべきです.

« la parole s'affirme en vérité » 「ことばが真理において肯われる」とは,「徴示素 a が主体の存在の真理 φ を代表・代理する」ということです.

分析家の言説の構造における能動者の座は,徴示素 a が位置する座です.他 A は徴示素の宝庫の場処ですから,徴示素 a が位置する能動者の座は他 A の場処に属します.

そして,真理の座も他 A の場処に属します.

ただし,真理は φ という深淵の場処です.真理の座は,他 A の場処にうがたれた深淵の場処,つまり,他 A のなかの欠如の場処です.それは,学素 Ⱥ で現されます.

Ⱥ φ は相互に等価です:

Ⱥ ≡ φ

したがって,他 A の場処の構造はこうも形式化されます:

a / Ⱥ

わたしの aliénation の図では左側に他 A の領域があり,Séminaire XI p.192 の図では左側の領域には「存在(主体)」と記されています.これはどういうことかというと,他 A の場処には主体の存在の真理の場処が属している,ということです.言い換えると,「Ⱥ の処有, localité, Ortschaft は,主体の存在の真理 φ の座である」ということです.

そして,Séminaire XI Lacan が「強いられた選択」と呼ぶ選択においては,この真理の深淵は,死の座であるので,それを選ぶことは死を選ぶことですから,まずもっておおかたは,そちらは選ばれません.


30 August 2014 : 存在の選択としての黒い道の選択; 芸術作品の構造; 「我れは疑う」としての cogito ; デカルト的主体と精神分析の言説.

岡本太郎の言葉を教えていただきました.ありがとうございます.椹木野衣著『黒い太陽と赤いカニ』のなかに紹介されているものだそうです.

「人間は瞬間瞬間で自分の進むべき道を選ぶ.そのときわたしはいつだって,まずいと判断する方,危険な方に賭けることにしている.極端な言い方をすれば,おのれを滅びに導く,というより,自分を死に直面させる方向,黒い道を選ぶということだ.無難な道を選ぶくらいなら,わたしは,生きる死を選ぶ.それが,わたしの生き方とスジだ.」

このような岡本太郎の選択は,昨日紹介した vel d’aliénation [異状の「または」]における強いられた選択の逆です.

人間は,aliénation の図におけるふたつの領野のいずれかを選択するよう要請されます.Séminaire XI p.192 の図で言えば,「存在」を選ぶか,「意味」を選ぶか.

そのような選択を Lacan は「金か命か」の選択を引き合いにだして説明します.あなたが強盗に刃物なり拳銃なりを突きつけられて「金か命か」の選択をせまられたとします.金を渡すことを拒めば,命も金も奪われることになります.ですから,命を失わないために,金を強盗に渡さざるをえない.つまり,命を選んで,金を失うことになります.これが日常態における選択です.

同様に,Séminaire XI p.192 の図で言えば,「意味」を保持して,「存在」を失うような選択,それが日常態の選択です.

ところが,岡本太郎の選択は,その逆です.彼は,「より悪い」方を選びます.死に直面する道を選びます.それは,日常態に堕したままであることを拒む選択です.本自的な実存の選択です.それが芸術的創造の道だからです.

芸術作品の存在論的構造は,症状の構造 a / φ そのものです.芸術作品の本質は,そのマテリアによって存在の真理を保匿することに存します.そのためには,当然ながら,存在の真理の深淵から目をそむけるわけには行きません.芸術家は,不安を惹起する φ の深淵へ,不安に耐えつつ,まなざしを向け,深淵の穴の周りを回りつつ,客体 a を創造して行きます.その際,a は,深淵の穴を塞いで覆い隠してしまうのではなく,穴を穴として保たなければなりません.深淵を深淵として喚起し得ねばなりません.

岡本太郎の「生きる死」という矛盾的表現は,芸術的創造のそのような構造,つまり,存在の真理の現象学的構造を,的確に言い表しています.

しかし,それは,芸術家など,死を覚悟し得た人々にのみ可能な選択です.Heidegger の言う das Man 「世人」,つまり,日常態における人間は,存在の真理の不安惹起的な深淵を回避するような選択をしています.それが vel d’aliénation の強いられた選択です.強いられた選択においては,aliénation の図における右側の領野が選ばれます.

Lacan $ を「デカルト的主体」と呼んでいます.そして,デカルト的主体は無意識に対して前提的に仮定されているものである,と Lacan は言っています.

デカルト的主体とは何か?哲学を勉強した人なら,すぐに答えるでしょう.それは,cogito ergo sum 「我は思考する,ゆえに我は存在する」の「我」である.それは,無条件的に確実な基礎を近代形而上学に提供するものである.

果たして Lacan もデカルト的主体をそのようなものと考えているのでしょうか?ちがいます.少なくとも,『無意識の位置』の書においては違います.そこにおいて Lacan はこう言っています (Écrits, p.831) :

科学にとっては,cogito は,逆に,あらゆる〈直観において条件づけられていた〉保証との断絶を印づける.

Lacan が注目するのは,cogito の結論としての sum 「我は存在する」,つまり,確実性において存在する主体,確実性としての主体の存在ではありません.

そもそも,cogito とは何か?Descartes cogito 「我は思考する」は,「我は懐疑する」に存しています.単に「考える,思う」のではなく,「疑う」が cogito の本質です.従来当然妥当するものとして受け入れられてきたあらゆる前提を疑い,棄却することが cogito です.

「直観において条件づけられてきた保証」と Lacan が呼んでいるものは,影像,画像など,目で見て即座に確かなものと信じ込んでしまうもの,そのような直観や意識が与える仮象的な確かさです.

今,画像の支配力はますます強まっています.人々は疑うことを忘れてしまっています.

しかし,そのような影像的な確かさ,影象的な明証性は,括弧に入れられるべきだ,棄却されるべきだ,と Descartes は提起しています.それが,Lacan が注目する cogito の意義です.

わたしの aliénation の図において,右側には $ が位置しています.それは,分析家の言説の構造において「他者の座」に位置する $ に相当しています.この $ は,デカルト的主体として,能動者の座に位置する客体 a に相対しています.

他者の座に位置する $ は,「我は疑う」の主体として,客体 a の影象的要素を棄却します.それによって,客体 a signifiant として立ち現れてきます.つまり,近代的な意味での科学の成立です.

精神分析は,科学の時代に生まれました.つまり,夢や症状を,異界からのメッセージとか神のお告げなどの超自然的,超常的現象とは捉えないところで発明されました.

$ は,科学的態度でもって,無意識の「何かが語る」を聴く者です.精神分析的な意味での無意識は,そのように科学的な態度を以て聴く者を,前提的に要請します.


831 : hysterica mystique ; hysterica の言説は不満足の言説である; 意味と無意味.

Hysterica に関する御質問をいただきました.先にそちらについて考えてみましょう.

四つの言説のひとつとしての hysterica の言説と,神経症症状のひとつとしての hystérie 症状とを区別せねばなりません.

古典的にはさまざまな身体症状や意識変容,人格の多重化などとして現れる hystérie 症状は,それらが症状の構造 a / φ により形式化される限りにおいて,分析家の言説の構造において出現します.

それに対して,四つの言説のひとつとしての hysterica の言説は,分析家の言説ではないものであって,そこにおいては症状はそれとして出現することはできません.そこにおいては症状の剰余悦は成起し得ません.

その意味において,hysterica の言説は frustration (insatisfaction) の言説であり,特に性的な不満足の観点から言えば,frigidité (冷感症)の言説です.

frigide という語で思い出しましたが,昨年フランスでは同性愛者どうしの結婚が合法化されました.同性愛者どうしの結婚も異性愛者どうしの結婚も法的には区別されなくなったのです.この法案が国会で審議されている間,保守勢力の一部はカトリックの旗を借りて,この法案に反対するデモを大々的に繰り広げました.その運動の中心人物のひとりとしてマスコミに注目された女性は,偽名で Frigide Barjot と名乗っていました.フリジッド・バルジョー.勿論,往年のフランスの « sex symbol », ブリジット・バルドー Brigitte Bardot のもじりです.

同性愛婚については,カトリック教会は確かに今のところそれを婚姻としては認めてはいません.しかし,第二 Vatican 公会議以降の教会は,同性愛者に対して教会の門戸を閉ざしてはいません.同性愛・異性愛にかかわりなく,神は誰をも愛してくださいます.同性愛に対する拒絶反応は,カトリックの精神に反しています.同性愛にかかわる問題に関して一部の保守勢力はカトリック教会の名を利用しようとしますが,カトリック教会はそのような排除の言説に荷担すべきではありません.

話をもとに戻すと,hysterica の言説は insatisfaction の言説です.hysterica の言説の構造において左上の能動者の座に位置する $ は,désir insatisfait 「不満足な欲望」の学素です.

それに対して,神秘経験は,症状の言説としての分析家の言説の構造,症状の構造の解体である分離 séparation として捉えられます.

神秘経験においては,症状の構造 a / φ から仮象 a が分離して,aliénation の構造が解体し,他の欠如 Ⱥ と主体の欠如 φ との無媒介的合一が生じます.

そこにおける悦は,秘匿性そのものであって,如何なる signifiant によっても代表されませんから,ひとつの現象でもありません.

神秘経験の悦そのものについて何かを証言することは不可能です.それは,神秘経験が実在的である,ということです.神秘経験の悦は言説の構造の外に存有するものであり,言説の構造に対して解脱的 ekstatisch です.

それに対して,hystérie 症状の悦は,ひとつの剰余悦であり,分析家の言説の構造のなかに位置づけられます.

一見すると,アヴィラの聖テレサのような mystique hysterica であるように見えるかもしれませんが,神秘体験の本質は全く異なります.

さて,aliénation に戻ると,Lacan (Écrits, pp.841-842) はこう言っています:

主体は,「或る種の意味を受け取るか,または,石化するか」の vel に直面する.しかし,主体は意味を取るのであれば,その(意味の)場を,無意味〈其れは,主体が徴示素に変化することにより生ずる〉が侵蝕しにくるだろう.そして,この無意味は,主体の掩蔽として生ずるとはいえ,まさに他 A の場に属する.

この一節で Lacan は,Séminaire XI p.192 の図を説明しています.

「意味」は,図の右側の領域の「意味」です.わたしの図では $ の領域です.その領域を「無意味」が侵蝕します.それによって我々の手元に残るものは,欠損を被ります.「金か命か」の強いられた選択では,金を奪われた命が残ります.それと同様に,交わりの部分の「無意味」の領域を欠いた右側の「意味」の領域だけが,我々に残ります.それは $ の座です.

「無意味」は「主体が徴示素に変化することにより生ずる」のですから,「無意味」の領域は,主体の同一化の徴示素 a の座に相当します.

Lacan が「石化」と呼んでいるのは,症状の構造 a / φ のことです.それは,死 φ の先取りであるがゆえに,石化です.

神秘経験と科学との関係について御質問をいただきました.少なくとも言えることは,こうです:言説の構造に対して解脱的 ekstatisch であるものとしての神秘経験(たとえばアヴィラの聖テレサの経験)を,ひとつの言説としての科学の言説のなかで記述することは不可能である.

留意していただきたいのですが,わたしの twitter account は公開されています.ですから,御質問等としてお送りいただいたメッセージは第三者に見える可能性があるのではないかと思います.個人的なことがらにかかわる御質問等は,ogswrs@gmail.com へ直接お送りください.


01 September 2014 : 欲望の弁証法; 存在欠如としての欲望; φ $ ; 精神分析の Dialektik を経るなら,分離においてゴミとして捨て去られるのは仮象としての分析家 a である; 分析の外において生ずる分離は他殺ないし自殺となる危険性を有する.

弁証法 Dialektik は,哲学用語のなかでも良く知られたもののひとつですが,何のことなのかよくわからない用語のひとつでもあります.

Lacan la dialectique du désir 「欲望の弁証法」と言うとき,それはいったい何なのか?

「欲望の弁証法」は,「人間の欲望は他 A の欲望である」という Lacan の最も基本的な命題のひとつにかかわっています.

「欲望」は,心理学的な意味における「…が欲しい」ではありません.「欲望」は存在論的欠如です.Lacan の用語では,manque à être 「存在欠如」です.つまり,我々の学素で言えば,φ です.

la dialectique du désir 「欲望の弁証法」とは,「主体の存在の真理 φ は,他 A の場処において,客体 a によって代表されることによってしか,己れを顕さない」ということです.「主体の存在の真理は,異状 aliénation としてしか現れない」ということです.

主体の存在の真理は,しかし,単に異状として現れるだけでなく,Lacan séparation 「分離」と呼ぶ動きにおいて,désaliénation 「脱異状」へ立ち返ります.Hegel 風に言えば,自己の内へ反回して立ち戻ります.

そして,単に自己の内へ引っ込むだけでは終わらず,さらに,以前の異状よりも一段階ステップを昇った様態において,新たに己れを顕します.

Hegel においては,そのような Dialektik の動きは最終的に絶対知へ至りますが,精神分析においては如何?

とりあえず,知の問題は置いておきましょう.そして,φ $ との関繋について考えてみましょう.

φ は,Heidegger の「抹消された存在」,Sein, Seyn と等価です.

φ は,Lacan が用いた学素ではなく,Heidegger Sein Lacan 的観点において捉えるために新たに考案された学素です.

Heidegger 1955年の或る論文において用いた Sein の表記を見て,Lacan は,これは使える,と思ったはずです.かくして Lacan は,$ の学素を作り出しました.

当初,$ Sein の学素だったのです.もし仮に Lacan $ Sein の学素として使い続けたなら,φ の学素は不必要だったでしょう.ところが,1964年の aliénation の図以降は,Sein $ とは無条件に等価ではなくなりました.

主体の存在の真理 φ は,異状の構造 a / φ において a として出現します.$ は,能動者の座の a に対して,他者 autre の座に位置しています.

Séminaire XI p.192 aliénation の図の右側の領域は,「意味」とともに,(l'Autre) と徴されていますが,この l'Autre は,真理の座としての他 A の場処ではなく,四つの言説の構造における右上の他者 autre の座に相当します.

症状 a / φ そのものは,徴示素 a が代表するものが実在である限りにおいて,「無意味」です.「意味」の領域の外に位置します.

徴示素 a には,しかし,Freud 的な解釈によって「意味」が付与され得ます.たとえば『夢解釈』のなかの「イルマの注射」の夢の解釈が,意味付与的解釈の典型例です.Freud の解釈は,しかし,imaginaire な意味を夢に与えているにすぎません.

ともあれ,aliénation の図の右側の領域は,そのような imaginaire な意味の領域であり,$ は,そのような意味を受け取ります.

しかし,それは,症状の真なる Bedeutung φ ではありません.それは,徴示素 a の下に隠れたままです.

次いで séparation へ話を進める前に,いただいた御質問に答えてみましょう.

四つの言説について,Lacan は,四つの座を「能動者」,「真理」,「他者」,「生産」と定義し,四つの項を「支配者徴示素」,「知」,「主体」,「剰余悦」と定義しています.座は固定されており,四つの項は移動します.

φ は,存在の真理の学素です.つまり,左下の座そのものを指す学素です.左下の真理の座は,左上の能動者の座の下に常に隠されています.真理とは,Heidegger の言う Verborgenheit 秘匿性,ないし,Sichverbergen 自己秘匿としての真理です.

自己秘匿としての真理は,しかし,単に己れを隠すのみならず,己れを顕そうとします.そして,己れをそのものとして顕すために,能動者の座において真理を代表している仮象 a を破壊しようとします.

Aimée の迫害妄想は,症状の言説としての分析家の言説の構造のなかに位置づけられます.Aimée が攻撃した女優は,Aimée の自我理想でした.それは,a / φ の構造の能動者の座に位置する a です.

自殺は,精神分析の経験という dialektisch な過程を経ることなく,直接的に séparation を達成する行為です.自殺においては,a / φ の構造そのものが破壊されてしまいます.存在の真理 φ をそれとして守護することはできません.

分離においては,仮象 a はゴミとして捨て去られます.精神分析という dialektisch な過程を経るなら,最後に捨て去られるゴミは,分析家です.それによって,分析者は自殺を免れます.

それに対して,分析の経験の外で無理やり実行されてしまう分離においては,仮象 a の破壊は,Aimée の場合のように他殺(未遂)となるか,二階堂奥歯氏の場合のように自殺となってしまう危険があります.

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